先験的(超越論的)空間は成長するか

前回のお約束通り、まずはTさんのプロトコルから。キーワードは「先験的空間」で、キーセンテンスは「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない。併しそれは先験的空間に於いてあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」でした。そうして考えたことは「私の最初の記憶は、断片的なものですが1歳台からあります。幼児を取り巻く世界は粗削りで、恐怖と驚異に満ちていました。それを人生最初の経験と呼んで差し支えなければ、その時の「先験的空間」は未熟であった一方で、「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった気もします。先験的空間は経験によって成長するものなのでしょうか。それとも、経験は「一般概念の外に出る」ことを邪魔するのでしょうか(ピッタリ200字!)」でした。Tさんはパワーポイントまで用意してくださってとても分かりやすい説明でした。例によって私の記憶と現在の理解に基づいてアレンジしてあります。
佐野
それでは、ご自由に発言してください。

A

いいですか?
佐野
もちろん。

A

「「先験的空間」は未熟だった」とありますが、これはすでに「先験的経験は経験によって成長するもの」ということを前提していませんか?
佐野
確かにそこのところは論点になりますね。たしかに我々の現実的な経験はその人の、そのつどの空間理解によって構成されていて、この空間理解がまたその人のそれまでの経験によって形成されています。この空間概念は経験的なものですから、未熟とか成長とか言ったことがありえます。しかし先験的空間というのはカント哲学を念頭に置いていますね。その場合の「先験的」というのは原語(ドイツ語)ではtranszendentalですが、最近ではむしろ「超越論的」と訳されます。経験を可能にする認識のことを言います。そうした認識は経験に先立った、経験を越えたものとなります。「先だって」とありますから「先験的」とも訳されますが、時間的な「先」ではありません。空間にしても時間にしても、あるいは意識(自我)にしても、「超越論的(先験的)」という語がついた時には、いかなる意味でも経験的ではありません。ですから誰それの、とか未熟とか成長ということもあり得ません。超越論的自我(統覚)や意識一般もそうです。空間について言うならば、実際にはカントは絶対空間のようなものを考えていましたが、本来そういうものにも限定されない、形式としての「空間」そのもののことです。

B

そんなかっちりした「空間」より、Tさんのいうような経験的で成長する空間の方が私は好きです。
佐野
Bさんは、まだまだ成長しますからね。

B

そうです。私はまだまだ成長します。

C

質問があります。幼児は「「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった」とありますが、どういうことですか?

T

幼児は「真の無の場所」から出てきたということです。人間は「真の無の場所」から出てきて、最後にはぼけてまた「真の無の場所」に帰るんです。
佐野
禅の高僧などは修行によって「真の無の場所」に到れるということはないですか?

T

そういうことにもめっちゃ興味あります。
佐野
カントは、我々の経験を根本において可能にしている一般的なるもの、例えば「意識一般」がなければならないと考えましたが、同時にそれが実際に自覚のような仕方で我々に感覚されるとも考えていました。西田はこの辺りを徹底させて、我々は「意識一般」の外に出て「真の無の場所」からこれを見る(直観する)ことができると考えたわけです。プロトコルはここまでとしてテキストに入りましょう。今回は256頁3行目から257頁10行目までを講読します。それに先立って、前回255頁15行目(さらに256頁1・3行目にも)にある「それ」が何であるかが問題になりましたね。Aさん、その後どのようにお考えになりましたか?

A

あれから考えて見たのですが、「受取る」「映す」でよいのではないかと思い始めました。
佐野
では、まあ一応そういうことで次に進みましょう。「かかる場合、我々は直に映すものと映されるものと一と考える」とありますが、「かかる場合」とは「映すものなくして映す」という場合のことですね。その場合には映すものと映されるものが一であると。この結合をどう考えるか。まず「その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない」とありますね。背後的な基体の拒否ですね。

D

なんか『善の研究』と違うことを言っているような。『善の研究』では「統一的或者」があると言っていました。
佐野
なるほど。どうでしょうね。例が挙がっていますからそこを読んで見ましょう。

D

「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」。
佐野
ありがとうございます。これだと聴覚的意識の野が背後にあって、いろんな音を結合しているように読めませんか?映すものが「聴覚的意識の野」で、映されるものが「各の音」です。

D

「聴覚的意識」が無になるということじゃないですか?それによって映すものと映されるものが一になる。
佐野
なるほど。そうだとすればその無と、先程の「統一的或者」をどう考えるかが面白そうですね(この問いは後から思いつきました)。次に行きましょう。西田は感覚のみならず思惟にも「意識の野」を考えるべきだと言います。そうして「意識の場所に於ては、無限に重なり合うことが可能」と言います。今音楽を聴いているとして(今自宅では、ブラームスの交響曲第2番を聴いています。ながら勉強です)現在聴いているのは一つの音ですが、実はそれと同時にひとつ前の音が現在の音に重なっていて、さらにこれから聞くであろう音もその現在の音に重なっています。しかもそれはバイオリンの音であり、それにチェロの音が重なっている。それぞれの音には音程だけでなく音色もあり、強弱もある。こうして考えていくと現在の一つの音に無限に多くのものが重なり合っていることが分かります。むしろ感覚にはそもそも識別作用が備わっていて、この識別作用は後からこれを考えるというような抽象的な判断とは異なる。そこで出てくるのがアリストテレスの「共通感覚」です。西田はこれについて「判断作用の如く感覚を離れたものではない、感覚に附着して之を識別するのである」と述べていますね。そうして「此の如きものを私は場所としての一般概念と考える」と述べています。今日はここまでとしましょう。
(第47回)
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「記載」と「構成」——初期フッサール批判

「場所」論文を読むのは久しぶりですね。7月30日以来です。その時のプロトコルはTさんにお願いしたのですが、今日はTさんがご欠席ということで、そのプロトコルは次回扱うことにしましょう。今日は255頁5行目から256頁3行目まで講読します。振り返りは架空の対話の形式で紹介します。
佐野
少し振り返っておきましょう。それから以前の解釈に間違いがあったことが判明しましたので合わせてこの場を借りて訂正させていただきます。252頁15行目から253頁2行目にかけて「無なる意識の場所と、之に於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる、有の場所から真の無の場所への推移に於て力の世界が成立するのである」とありますね。「有の場所」とは「物」と「物質」のことです。「物」の場合は触覚筋覚が基礎となって、これに他の視覚などの性質的なるものが盛られる。この場合触覚筋覚が「限定せられた場所」つまり「有の場所」になっています。ここまではよろしいでしょうか。

A

はい。大丈夫です。
佐野
ここからは訂正です。以前この限定をはずしていって視覚聴覚味覚臭覚へと広げていけば、「最も一般的なる感覚的性質」になり、西田はこれを「物質の概念」と呼んでいるとし、これは『善の研究』の「版を新にするに当って」における「昼の見方」相当するとしましたが、どうもこれは間違いだったようです。むしろ逆に触覚筋覚という性質をなくしていく方向で「何處までも推し進め」て「遂に最も一般的なる感覚的性質となる」と読むべきだと思います。そうなるとそこに出てくるのは、『善の研究』で言う所の「純物質」(111頁、岩波文庫改版)です。『善の研究』では、「純物質」は「全く我々の経験のできない実在」(同)であり、「数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎない」(同)とされています。これに対し「場所」論文では「物質の概念は斯くして成立するのである。物質は直接に知覚すべからざるものと考えられるが、それは特殊なる知覚対象ではないというに過ぎない。知覚の水平線を越えては物質というものはない」となっていますので、「純物質」を念頭に置きながらも、それは「知覚の水平線」上になければならない、と述べていることになります。たとえ直接に見ること触れることができなくても、つまり間接的な仕方で見る・触れることができなければならない、そのように言っているのだと解釈されます。どうでしょうか?

B

この方が分かりやすいですが、『善の研究』の「純物質」とは扱いが異なるということでしょうか。
佐野
そうですね。『善の研究』では「純物質」は実在しない、とされましたが「場所」論文では原理的に知覚可能なものになっていると思います。もう少し先を振り返っておこうと思います。さて「物」と今言った「物質」とを合わせて「知覚」の世界です。西田は「知覚」も「知覚の範囲」に「限定せられた有の場所」と考えます。「物」(「物質」)においては「相異」と「相反」が見られますが、そこには「力の世界」は見られないとされ、「力の世界」を見るには「矛盾の世界」に出なければならないとされます。塩(物)は白くて同時に辛い。相異は「物」においてある。これに対し木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変化した、という場合には「時」の概念を入れて「物」において「相反」を矛盾なく考えることができる、そのように我々は考えているけれども、そこにはすでに「矛盾」があり、そのことは「矛盾の世界」が開けることで見えてくる、そのように西田は言おうとします。ここまでは大まかな説明です。次にもう少しテキストに即して見ていきましょう。

C

お願いします。
佐野
我々の判断は数学的なものであれ、知覚であれ「一般概念」に則って行われます。数学の場合は例えば数がそうです。数学的な判断自体は矛盾律に従っています。5が同時に3になったりしません。しかし我々が矛盾律に従うことができるのは矛盾律以前に我々が矛盾ということを知っているからでしょう?また我々が5とか3とか言う時に、それらが数であることを理解していますが、そこには特殊(5と3)が同時に一般(数)であるということが前提されています。特殊と一般は対立する概念です。つまり我々が数学的判断をする場合に前提となる「一般概念」は「矛盾的統一」だということになります。この「矛盾的統一」が5や3といった特殊を「矛盾律」に従って矛盾なく統一していることになります。ここまではよろしいですか?

C

はい。
佐野
それでは知覚の場合はどうでしょう。知覚の場合も矛盾律に従わなければ我々は考えることはできません。ですが、この塩は白くて、同時に辛い。そのままでは矛盾してしまいますので我々はそこに「物」を考える。それによって白と辛を「相異」というように矛盾なく理解しようとする。また「白」一般はどこまで行っても「この白」に到達することはできませんが、そのことも「物」を個別化の原理と考えることで矛盾なく考えることができます。「物」における「相反」、例えば木の葉における緑と赤(緑ならざるもの)については、これを「時」の中で「変化」と捉えることによって矛盾なく考えることができます。以上が知覚の場合です。

C

どこにも矛盾は感じませんが。
佐野
もう少し待ってくださいね。先を続けましょう。誰も感覚的でない数学におけるような直観(純粋直観)と、感性的直観(「感覚的直覚」)を「同じとは考えない」(254,5)けれども、数学的判断も知覚的判断も「判断」である以上、その「根柢には一般的なるものがある」(同)、そのように西田は言います。それを見るためにはそうした「一般概念の外に出て之を見」なければならない、とされます。それによってカントがそうしたように「我々は斯くなければならぬ、然らざれば知識は成立せない」といった「先験的知識」が成立するのだ、そのように西田は考えます。我々は当たり前のように判断していますが、それは判断の一般者に乗っかって判断しているわけで、そうした我々の前提(一般者)を見るためには、その一般者の外に出なければならないことになります。ここには超越があります。それは「限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ること」であり、「有の場所其者を無の場所と見る」ことであり、「有其者を直に無と見る」ことだとされます。具体的には数学的判断も知覚的判断も矛盾律に従っていますが、その根柢に矛盾を見るということです。3と5の間に矛盾を見、塩の白と辛さの間に矛盾を見、木の葉の緑と赤の間に矛盾を見るということです。そうするとそこに「働くもの」つまり「力の世界」を見ることができる、ということになります。これで一応復習と訂正が終わりました。それでは本日の講読箇所を読みましょう。Aさん、読んでください。

A

はい。(音読)
佐野
まず「記載」と「構成」(255,6)ということが出てきますが、これは後で「現象学的立場」(同9)と出てきますように、初期フッサール批判です。初期フッサールは知覚の立場に立ちますが、それが「考えられた一般概念」の外に出ることができない以上、その一般概念の中で単に「記載」(記述)しているにすぎない、というのです。「構成」と言う以上、この一般概念の外に出て、知覚を見る必要があるというわけです。これは初期フッサールが「意識せられた意識」の立場に立っていて、「意識する意識」の立場に立っていない(248,13-249,2)というのと同じ批判になります。次をBさん、読んでください。

B

はい。(音読)
佐野
ここではアリストテレスの感覚の話が出てきますね。これは『デ・アニマ』424a17に見えますが、もとはプラトンの『テアイテトス』191c-dにあるものです。西田はこのアリストテレスの感覚を「共通感覚」の話に結び付けて考えようとします。さしあたりここでは「感覚」が「封蝋の如く、質料なき形相を受取るもの」だとされています。封蝋ってご存じですか?

A

最近は見ないですね。それどころか、今の人は手紙に封をする時に締(〆)も書かない。Bさん、どうですか?

B

私は書きません。
佐野
昔は封をする時にを蜜蝋を塗ってその上から指輪の印章を押して密封したんですね。その時印の形だけを蜜蝋は受け取るわけで、指輪の材料(金属など)は受け取らない。このことを言っているんですね。そうしてこうした「質料なき形相を受取るものは形相を有たないものでなければならぬ」とまずは言われます。蜜蝋は形がない。しかしさらに「斯く受取るとか、映すとかいうことが何等かの意味に於て働きを意味するならば、それは働くものなくして働き、映すものなくして映すということでなければならぬ」と言われます。

C

受取るとか映すということがどうして働きなんですか?働きと言うと能動的なものだと思うのですが。
佐野
「何等かの意味に於て」とありますね。受動的な意味において、ということでしょう。

D

「それは働くものなくして働き」とありますが、この「それ」って何ですか?
佐野
私は「受取るとか、映すとかいうこと」と取ったのですが…今回はここまでとして、次回改めて考えて見ましょう。
(第46回)
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「矛盾の関係」をどう理解するか

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はRさんでした。またキーセンテンスは「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである」(254,14-255,1)でした。疑問ないし考えたことは「一般概念を破ってその根抵へと徹底すれば、有の場所からその根抵である真の無の場所に到る。そこに「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」というような矛盾的関係が見られる。それは具体的にどういうことであろうか。それは有の場所や物がなくなり、すべてのものは無となるとことではなく、有其者(物や物質)はそのまま無であるように見られるでしょうか」でした。
佐野
まず、この箇所の読みですが「真の無の場所」において「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」ではありません。「真の無の場所」に到って、そこから「有の場所」を見るということです。それが具体的にどう見えるのか、こういう質問でいいですか?

R

質問を変えたいと思います。「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理の根柢に於ける一般者とは如何に異なるか」(254,6-7)という文章があります。私はこの二つの一般者は両方とも「根柢」における一般者として「真の無の場所」だと考えています。
佐野
そういうことでしたら、先に本日の講読箇所を読んでから考えましょう。今日の講読箇所は255頁1行目から5行目です。まず「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない」とありますね。「先験的空間」とは経験を可能にする空間、つまり感性の形式としての空間のことですね。カント哲学を念頭に置いています。これはアプリオリ(先天的)な形式で、感性(感覚)的ではありません。ですから「知覚的空間は直に先験的空間ではない」ということになります。続いて「併しそれは先験的空間に於てあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」とあります。ここで「知覚的空間」が「先験的空間」に「於てあり」、その「背後」が「真の無」であることが分かります。ここには三つの層(知覚的空間、先験的空間、真の無)がありますね。続いて「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於てあると云うことができる」とあります。この「それ」とは何ですか。

R

「知覚的空間」ではないでしょうか。

K

私もそう思います。ですが「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に」という文章との続き具合がよく分かりません。「意識」という語がポイントになっていると思います。

R

この「意識」は「意識の野」のことですよね。
佐野
「先験的意識」とは経験を可能にする意識、つまり「意識一般」のことです。以前にも「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。ここでは「無の場所に於てある」ということが「意識」を意味する、となっていますね。以前〈有の場所―対立的無の場所―真の無の場所〉という系列と〈有の場所―相対的無の場所―絶対的無の場所〉の二つの系列があることが確認されましたね。242頁で後者の系列が初めて出てくるのですが、そこではこの「絶対的無の場所」が「意識の野」とされていました。目下の講読箇所でもそれに従っているようです。つまりRさんのおっしゃる通り、ここでの「意識」は「意識の野」ですが、それは後の方の系列の「絶対的無の場所」と同義です。したがってそれは「対立的無の場所」と「真の無の場所」を含んでいて、両者の門口となるのが「先験的意識」つまり「意識一般」です。そうなると「それは先験的意識に於てある」とは、「知覚的空間」がまず「先験的空間」に於てあり、それは「先験的意識」(意識一般)の形式であるから、結局「知覚的空間」は「先験的意識」に於てあることになり、その背後が「真の無の場所」に通じている、そのように読めるでしょう。ここまでいかがですか?特にご意見はありませんか?なければ次を読んで見ましょう。Tさん、お願いします。

T

はい。「是故に一般概念の外に出るということは、却って之によって、真に一般的なるものを見ることである。先験的空間という如きものは、此の如き一般者を云い表したものである」。
佐野
「此の如き一般者」とは何を指していますか?

T

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
私もそう思います。我々は「知覚」という「一般概念」の上に立って知覚し、「先験的空間」という「一般概念」の上に立って空間的に認識(判断)しています。空間のみならず、我々は「先験的真理」という「一般概念」の上に立って判断しています。しかしその「一般概念」を「真に」見ようとすれば、一旦その「外に出」なければなりません。それが「真の無の場所」に到って、そこから自分が立っている「真に一般的なるもの」を見る、ということだと思います。ここまではいかがですか?

N

日常自分が立っているところの外に出て、それを見るというのは人間にはできないことではないでしょうか。目は目を見ない、と言うように。
佐野
確かにそうですね。反省的思惟という仕方をとる限り不可能です。しかしその反省が成立するためには、その奥に直観がなければならない、それを西田は明らかにしようとしているのだと思います。難しいところですが、ここはとりあえず、それでよろしいでしょうか。さて、それではここからもう一度Rさんの問いに戻って考えて見ましょう。「真の無の場所」から見ると、「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」、これが具体的にどういうことか、ということでした。塩は白くて辛い、これは相異の例、木の葉が緑から赤、つまり緑ならざるものに変わる、これは相反の例ですね。以前(「内部知覚について」88,14-89,4)にもありましたが、緑から緑ならざるものへ移るその転回点、そこは何色でしょうか?

T

緑と緑ならざるものの中間の色だと思います。
佐野
しかし緑と緑ならざるものが同時に成り立つというのは矛盾ですね。時の考えを入れれば矛盾なく説明できると思われた変化ですが、さらに考察してみると矛盾が見えてくる。

Y

木の葉が緑から緑ならざるものに変わる時に、緑でも緑でもない木の葉そのものが実在として見えてくる、というようには言えませんか?
佐野
相反するものが同時に成り立つ基体として物を考える、ということですか?それは少なくとも西田は認めていませんね。191頁15行目から192頁1行目に「相矛盾する二つの概念にいたっては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とあります。相反するものが同時に成り立つのは力に於てだ、というのが西田の考えだと思います。

Y

191頁14行目から15行目にかけて「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とあり、緑と緑ならざるものは「色」という類概念に統一される、と考えられますが、「相矛盾する二つの概念にいたっては、…類概念を以てすることもできない」とあるのはどう理解したらよいでしょうか?
佐野
そうですね。これは類概念(一般概念)の拒否ですね。どう考えましょうか。相矛盾するというのは、今の例で考えると、緑と緑ならざるものを同時に統一する、ということではないでしょうか。それは最早「色」を見るということにならない。89頁3行目から4行目にかけて「我々が色の推移を見る時、単に色を見るという意味に於て見ることのできないものを見て居るのである」とあります。

Y

分かりました。
佐野
今のは「相反」の場合ですが、「相異」の場合はどうでしょう。塩が白くて辛い。このどこに矛盾を見るのでしょうか?我々は感覚を五感に分けて考える習慣がありますから、その前提では矛盾などどこにもない。しかし西田はそう考えない。五感に分けて考えるのはすでに思惟の結果だと考えます。そうなるとそのように分ける以前の在り方が問題になります。そこでは運動、静止、数、形、大きさ、色、音、味、匂いなどが一体になっています。これらから触覚筋覚に属するようなもの(運動、静止、数、形、大きさ)を物にして、これにおいて白という色と辛いという味が同時に成り立つと考える場合でも、同じ所に白と白ならざるものが同時に存在することになります。そうなるとこれは矛盾です。この矛盾を「物」は支えることができない。それを支えるのは「力」だということになります。

O

一つの主語の中に森羅万象のすべてが含まれている感じですね。
佐野
そうですね。そうしてその一つ一つが互いに矛盾しているのです。今日はここまでにしましょう。
(第45回)
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矛盾的統一の対象界

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「知覚」【限定せられた場所、有の場所、限定せられた性質の一般概念の中、相異・相反の世界】、「力の世界」【無の場所、矛盾の世界】、「転回点」【限定せられた一般概念をやぶること、相反の世界から矛盾の世界に出ること】とでした。【 】内はOさんが解説として追加したものです。またキーセンテンスは「力の世界を見るには、かかる限定せられた一般概念を破って、その外に出なければならぬ、相反の世界から矛盾の世界に出なければならぬ」(254,1-2)でした。疑問ないし考えたことは「有の場所から無の場所に出る転回点について、「相異なる者、相反する者」で世界を構成している私がそれらを失えば、何も見ることができないのではないか。有から無に転じた私は世界で何を認識するのか。有の場所の外に出たばかりの私と矛盾の世界を見る私の間には、未だ距離があるのではないか」でした。
佐野
我々は「矛盾の世界」とか「真の無の世界」などと何度も聞いている内にそんなものが見えるような気になっている、そこを問いたいと。有の場所から無の場所に転じた瞬間は何も見えないのではないか。と。

O

「有の場所」と「無の場所」。一方で排他的で、他方で「無の場所」が「有の場所」の根柢のように言われています。「転回」と言うと一瞬でひっくり返る感じがするけれど、そのあたりがよく分からないのです。

A

「転回点」と言えば以前も「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。「門口」では両方見えるんですが、「真の無の場所」は分別的意識では見えない、直観で見るのだと思います。250頁13-14行目に「真の無の空間に於て描かれたる一点一画も生きた実在である」という表現があります。他方でこれが「実在」だ、とか実在を「見た」と言えば胡散臭くもあります。

O

「有の場所」は矛盾がない。そこから「無の場所」に到るには否定がないといけない。だけど、否定などできないように思うんです。

A

自分ではできないと思います。

O

そういうことだろうと思うのですが、即非の論理とか、不思議な気持ちになるには便利な言葉だと思うんです。実はずっと同じものしか見ていないんじゃないか。
佐野
なるほど。世界は何も変わっていない、と。プロトコルはこのくらいにしておきましょう。この問いに対する西田の考えが本日講読する箇所で少し見えてくるかもしれません。本日は254頁6行目から253頁1行目まで読みます。

B

ちょっと待ってください。前回講読分の最後に「矛盾的統一の対象界」というのが出てきて「数学的真理の如きもの」がそうだとされました。その場合「矛盾的統一」というのが「5は数である」というような「特殊=一般」のことだとされましたが、これが分かりません。〈特殊は一般である〉というのは判断ですが、これのどこが矛盾なんですか?

C

私もよく分かりません。
佐野
そうですか。192頁に戻って読んで見ましょう。ここでは「数理の世界」がまず「矛盾律」によって組織される、とされています。矛盾律自体は矛盾ではないですね。Aが同時に非Aでない、というのですから。しかし西田はその「根柢」を問題にする。そこに「矛盾の統一」を見る。そうして「数理の世界」の場合にはさらに「類概念」がなければならぬ、としています。例えば自然数という一般概念がそれにあたります。これに対し「所謂経験的一般概念」の場合は「一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ、一般化の原理と特殊化の原理が合一することができない」(193,1-2)とされています。例えば〈赤一般〉は〈この赤〉に達することができない、ということです。そうだとすると「数理の世界」の場合は、それができていた、ということになります。つまり「一般=特殊」ということですが、これが「矛盾の統一」の意味することです。一般化と特殊化は逆の方向を持っていますね。それが等しいとされている、そこに矛盾を見るわけです。ところが「経験的一般概念」の場合は一般化の原理と特殊化の原理が一つにならない。〈赤一般〉が〈この赤〉に届かない。そこで〈特殊化の原理〉を担うものとして「物」(「超越的にして普遍なる基体」)を考える、というわけです。〈赤一般〉が〈この赤〉になるのはそれが「物」(個物)においてあるからだと。これが第二段階。第三段階はこの「基体」(物)がなくなって、再び「一般=特殊」となる段階です。そこでは「一般的なるものは特殊的なるものを成立せしめる場所」とされています。この記述があるのは前論文「働くもの」ですからまだ「真の無の場所」という言葉は出てきません。ですが第三段階で念頭に置かれているものはそうしたものでしょう。目下の講読箇所でもこの三段階が念頭に置かれながら、ここではむしろ物や物質といった「有の場所」が「無の場所」と一つだ、ということが言われようとしています。

D

私は「数学的真理」の根底にある「直覚」と「所謂感覚的直覚」を「何人も同じとは考えない」ということが分かりません。「所謂感覚的直覚」って何ですか?
佐野
例えば赤がそうでしょう?

D

赤そのものも感覚的には直覚できませんよね。
佐野
その場合でも「この赤」を通じてでしか赤そのものの直観はできませんね。「この赤」は感覚的なものです。これに対し5は目に見えるものではないし、「この5」ということもない、あくまで概念です。普通誰もこの感覚的な[経験的]直観と、数学におけるような[純粋]直観を同じとは考えない、そういうことを言おうとしていると思います(なお「経験的直観」と「純粋直観」の区別はカントによるものです)。しかし西田は「すべての判断の根柢には一般的なるものがあるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚に基いて成立する」ことを言おうとします。上に挙げた以前の論文の箇所では数理的な判断の場合は〈5=自然数〉というような形で〈特殊=一般〉が成立していたけれども「所謂経験的一般概念」の場合は「物」の概念を入れないと特殊と一般は結合できませんでした。つまり物(物質)の場合には、〈特殊=一般〉は物(物質)を特殊化の原理とすることで初めて成立することになります。しかしそこには第三段階があって、そこでは「物(基体)」が消失し、再び〈特殊=一般〉が「一般者」が「場所」となることで成立するとされていました。しかしどうしてそう言えるのかの説明は不十分と言わざるを得ません。それがここで問題になっていると考えられます。

E

次に「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理に於ける一般者とは如何に異なるか」とありますが、「先験的真理」とは何ですか?
佐野
「先験的」とは原語はtranszendentalで最近は「超越論的」と訳されます。経験(ここでは判断)を可能とする制約(条件)に関するものです。その意味では「経験」に先立っていますから「先験的」とも訳されるのです。前の文章で「判断の根柢には一般的なるものがある」とされていましたが、これが「先験的真理」です。これは経験に先立っていますから数学におけるような純粋直観と同列に置かれています。ところで「先験的真理」の具体的な表現は今講読中の文章ではどれに当たりますか?

E

ちょっとわかりません。
佐野
「斯くなければならぬ、然らざれば知識は成立せない」がそれです。まさに知識(判断)の成立条件ですね。今は「感覚的なるものの知識における一般者」とこの「先験的真理に於ける一般者」の違いが問題になっています。この「一般者」を明らかにするにはこの「一般者」の外に出てこれを見なければならない、そのように西田は言います。次に「矛盾的関係に於て立つ真理を見るには、我々は所謂一般概念の外に出て之を見るということがなければならない」とありますね。「之」とは何ですか。

B

「真理」?それとも「一般概念」?
佐野
次に「所謂一般的なるものが見られ得るということが、先験的知識の成立する所以」とありますね。ですからさしあたり「之」は「一般概念(一般的なるもの)」です。ですがそれを見ることによって「先験的知識」が成立するのですから、結果的には「矛盾的関係に於て立つ真理」でもよいことになります。我々は数学においても様々な判断を、例えば自然数なら自然数という「一般概念」に基づいて行っていますが、その「一般概念」が何であるかを知るためにはその外に出てこれを見なければなりせん。そうするとそこには例えば〈5は数である〉というような〈特殊=一般〉といった「矛盾的関係」が見えてくる。同じことは感覚的なものを論ずる場合でも言えます。感覚的なものにも一般者はあります。赤一般とか、色一般もそうです。それが何であるかを見るためにはそうした一般者を出なければならない。そうするとそこにも「これ(この赤)は赤である」という〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」が見えてくる。さらに「先験的真理」の場合も同じです。我々が判断する場合に、判断の一般者に基いて判断を行っていますが、そこには〈主語は述語である〉という形式、つまり〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」があります。それが一般的なるものを出ることによって見えてくる。それを西田は「有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を直に無と見る」と言い換えています。さらに「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる」と言っています。ここでも「盛る」という言葉が使われていますね。判断内部での超越として「触覚筋覚」を主語として限定して、そこに他の感覚を「盛る」というように以前(254,15)言われていましたが、ここでは感覚のみならず、判断の一般概念、さらにはそのことを通じて無そのものをも「盛る」ことになります。ここまでくると我々には最初からすべてが与えられていたことが分かります。その意味ではOさんがおっしゃったように世界は何も変わっていない。ですが我々が分別によって見方を限定してしまっているとも言えます。こうした限定を取っ払えば「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」ことになります。この「働くもの」が「力」の世界です。

F

具体的にどういうことですか?
佐野
「相異の関係」とありますが、「相反」の場合はもちろん、ということでしょうね。例えば木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変化しても、木の葉という「物」と「時」の概念を入れることで矛盾なく説明できると先には考えましたが、そこにはすでに矛盾がある、ということです。例えば緑から赤に変わる「瞬間」はどうでしょう?そこは緑でもなく赤でもなく、緑でも赤でもある。これは矛盾としか言いようがない。「相異」の場合はどうでしょうか。この塩は白く、辛い。ここにも西田は矛盾を見ます。

A

それは矛盾ではないと思います。白は視覚によるもの、辛さは味覚によるものです。
佐野
そこなんですが、西田は感覚を全体として考えています。感覚の原因として対象と感覚器官を分け、さらに感覚器官を五感に分けるのはすでに思惟の作用の結果だと考えるのです。「共通感覚」や「物質」の所でも扱いました。そうすると白くて辛いは白くて同時に白でない、ということになり、矛盾になるのです。

C

ちょっと待ってください。先程の矛盾は〈特殊=一般〉ということだったと思います。ここでは特殊同士の関係になっていませんか。矛盾的関係とはどういうことですか?
佐野
確かにそうですね。矛盾は特殊とそれに対立する特殊の間にも、特殊と一般の間にもあることになりますね。生と死、有と無など相対立するものが同時に成立する事態を西田は矛盾と言っているようですから、ある特殊とそれに対立する特殊、特殊と一般が同時に成り立てば矛盾ということになるのではないでしょうか。

G

その場合相異が相反になり、さらに矛盾になる、ということですか?
佐野
そうですね。今日はここまでとしましょう。すごい集中力でしたね。疲れたでしょう?
(第44回)
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〈物自体〉vs.「物体」

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「物体」(253,3)、「物」(同8)、「物質」(同10)でした。また疑問ないし考えたことは「西田はカントの〈物自体〉に反対し、「物体」とは、感官(感覚器官)のうち「触覚筋覚」(同4)によって感受された性質を基礎とし、更に他の感官による性質を積み重ねたものであるとしている。そして「物体」の基体である性質を一般化するとき、「最も一般的なる感覚的性質」(同10)となり、「物質」が知覚的対象として成立する。ところで「物」(個物)について、「判断は自己の中に自己を超越する」(同8)とはどういうことを意味するのだろうか」(209字)でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
文章の解釈が問題になっています。まず意味を一つ一つ確定していきましょう。「判断は自己の中に自己を超越する」とありますが、この「自己」は判断ですね。「私」という意味ではない。つまり「判断は判断の中に判断を超越する」という意味です。その前に「かかる意味に於ては」とありますね。「かかる意味」とは何でしょう。その一つ前の文章を読んでみないと分かりませんね。「超越的なる物という考は、却って内在的性質を限定して之に他の性質を盛ろうとするより起るのである」、とまずあります。「超越なる物」というとすぐにカントの物自体のようなものを思い浮かべるのですが、西田はそう考えない。「却って」という言葉がそのことを示しています。ではどう考えるかというと、「内在的性質」、これは感覚ないし知覚に内在している性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚触覚のことです。それを「触覚筋覚」に「限定」する。これに他の性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚を「盛る」。この文章と次の文章は読点(、)で区切られていますね。一続きです。「限定せられた場所の中に、場所以外のものを入れようとするより起るのである」。これは先ほどの一文の言い換えですね。「超越的なる物」は「却って」、「限定せられた場所」、これは「触覚筋覚」のことです。これに「場所以外のもの」つまり触覚を除いた視覚聴覚味覚嗅覚を「入れる」。この文章を受けて「かかる意味」と、こうなるわけです。「かかる意味に於ては、物を考える場合でも」と来る。物を考えるとは「判断」する、主語述語関係にするということです。その場合でも「判断は自己の中に自己を超越するということができる」、こう述べているわけですが、これをどう考えるか。皆さん、どのように考えますか?

Y

何度読んでも皆目分かりません。

A

内在が超越、超越が内在というダイナミックな論理が言われているのでは?
佐野
そうですか?前の文章ではカントの物自体を念頭に置いて「超越的なる物」に超越という語が用いられていましたね。ここでも「超越」という語が用いられていますが、これはカントの物自体とは違った意味での超越でなければなりませんね。どう違いますか?そもそも「自己の中に自己を超越」するとはどういうことですか?私はこう思うんですけれど・・・。「判断」の中での超越とは、視覚聴覚等々の内在的性質から、触覚筋覚を主語として立てること、これが判断の中での超越です。これに対し、カントの物自体は判断を越えて、知り得ないものになっています。判断の外への超越です。どうでしょうか?

A

その解釈は分析的な感じがして、あまり西田的でないと感じます。

B

私はかっこいいと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、今日は253頁12行目から254頁6行目まで講読したいと思います。まず「知覚」が「限定せられた有の場所」ないし「限定せられた性質の一般概念」とされていること、これを押さえておきましょう。これが知覚の世界です。これに対立しているのが「力の世界」です。そうしてこれに「相異」「相反」「矛盾」が重ね合わされる。「相異」と「相反」が「知覚」、「矛盾」が「力の世界」です。そうして前者と後者の間に西田は「転回点」を見ていて、これが「最も考うべきである」、と言っている。以上は図式的な整理です。ところで「相異・相反・矛盾」と聞いて何か思い出す人はいませんか?

C

論文「働くもの」の中に出ていました。191頁11行目からです。
佐野
読んでみてください。

C

(テキスト音読)
佐野
ありがとうございます。例えば「塩は白く辛い」という場合の「白」と「辛」は「相異」ですね。その場合白と辛は同時に「物」を背後に考えることによって成り立つ。これに対し緑と緑ならざるもの、これは「相反」ですが、これは背後に物を入れても同時には成り立たないですね。「時の考」を入れないといけない。そうすると木の葉が緑から緑ならざるもの(赤)というように説明できます。ところが矛盾の場合はこうした「背後の物」を置くこともできない。物自身の消滅がそのまま生成、否定がそのまま肯定、死することがそのまま生きることであるような、そんな関係です。「相異・相反」の場合には背後に物がある。これに反し「矛盾」の場合は「物」がない。そこに「力の世界」が見られるというのです。

D

次の「矛盾的統一の対象界」というのがよく分かりません。
佐野
次の文章では「数学的真理」に置き換えられていますが、これも192頁に出てきますね。数理は矛盾的限定によって組織せられており、そこに「矛盾の統一」を見ることができる、そのように述べられています。この矛盾とは〈一般=特殊〉のことです。5は数である、三角形は図形である、などがそれです。一般者が特殊化の原理を具えること、西田はここに矛盾を見て、これが「直覚」によって見える、というのです。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第43回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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