読書会だより

意識の棲む世界とは

今回の哲学的問いは「我々の意識の棲む世界とは、哲学的にどのようなものなのだろうか」でした。

A

意識は分別された世界を生きているんじゃないんですか?
佐野
でも意識が「棲む」とありますね。

B

この「棲む」って文学的で好きです。

C

(出題者)
私は文学は嫌いです。
佐野
まあまあ。

A

その意識は「意識する意識」ですか?それとも「意識された意識」ですか?

C

(出題者)
「意識する意識」です。
佐野
だったら分別できない世界に棲んでいる、ということになりますね。

C

(出題者)
そうです。
佐野
でもそのように分別・無分別を分けて無分別の世界に棲んでいる、といったらすでに分別ですよね。そうした分別の世界に棲んでいるのではない、と言いたいのでしょ?西田が晩年好んで引用した大燈国師の語に「億劫相別れて須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」という言葉があります。「億劫」とは非常に長い時間、永遠と言い換えてもいいと思います。「永遠にお互い分かれていて」。「須臾」とは非常に短い時間です。「一瞬も離れない」。後半は「尽日」、一日中、つまり「つねに」ということですね。「つねに向き合っていて」。「刹那も対せず」、「一瞬も向き合っていない」。まとめると「永遠にお互い別れていて一瞬も離れない。つねに向き合っていて一瞬も向き合っていない」。みなさん、これ何だと思いますか。

D

自分だと思います。
佐野
なるほど。実はこれと同じ質問を離任式の時に中学生にしたんです。そうすると「自分と他者」あるいは「忘れられない体験」という答えや「世界」という答えが返ってきました。面白いでしょ。何故「世界」か、と聞いたら、自分はすでにその中に住んでいるからそこから離れられないけど、それを見ようとするともう自分がそこに住んでいないものになっているからだ、というんです。「意識が棲む世界」もまさにそういうものですね。

E

私は夫婦だと思いました。一日中向き合っていて、一瞬も向き合っていません。
(笑い)
佐野
確かに一日中イエスといっしょににながら一瞬もイエスと出会っていないということはありそうですね。
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読書会だより

転換とは

 みなさんこんにちは。山口西田読書会でコーディネーター役を務めます佐野之人と申します。山口西田読書会では原則毎週土曜日に佐野の司会の下で西田幾多郎の講読を行っております。(木曜日には岡村康夫山口大学名誉教授の御指導の下でニーチェの講読が行われています)。毎回の講読に先立ちまして、前回のプロトコル(議事録)を担当者が発表します。その最後に「哲学的問い」というのがあります。そこでの議論が結構楽しいので、是非皆さんにもその一部を(私の記憶に基づいて編集してありますが)ご紹介してみたいと思った次第です。

 私はこの3月まで山口大学教育学部附属山口中学校の校長を務めておりました。この文章をご覧の皆様の中には中学校のHP内の「校長の部屋」でお目にかかった方もいらっしゃるかもしれません。

 そうした方は引き続き、また初めての方も共に哲学の対話を楽しんでいただけたらと思います。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、どうぞ・・・

A

ききたいことがあるって?言ってたんじゃないの?

B

(高校生)
はい。前回問題になっていた「転換」ということが分かりません。
佐野
生き方の転換のことですね。人間は「自分」という言葉を知ってからは「自分」を出発点にして生きる以外ない。自分が生きる、という生き方です。それが「生かされて生きる」ことへ転換する、そういうことでしたね。

B

ええ。それがよく分かりません。やっぱり自分が生きるんじゃないですか?
佐野
たしかに人間は自分ではそれしかできません。でも・・・たとえば「驚く」というのはどうですか。Bさん。驚いてみてください。

B

できません。
佐野
ですよね。「頷く」というのもそうです。頭でいくらそう思おうと思っても身が頷かないんですね。「帰る」といっても待ってくれている人や場所がなければ帰ることはできません。人間はつねに何かに促されて始めて行動できるんです。そういうことからも「生かされて生きる」ということは言えるんじゃないかな。ただ「生かされて生きる」ということを聞くと人間は、「よし、じゃあこれからは生かされて生きよう」ってなってしまって、結局「自分が生きる」になってしまうんですね。それしかできない。だけどその「それしかできない」というところに身が頷くところで「生かされて生きている」ということが現成しているんです。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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