読書会だより

誰でも良心の声が聞こえるのか

今回の哲学的問いは「誰でも良心の声が聞こえるのか。人間にはその声に従うか従わないかを決める自由があるか」でした。

A

良心の声には道徳の制約、つまり文化的制約があるんじゃないですか。

B

でも埋葬は全ての文化に共通していると思います。

C

そんなことはないですよ。鳥葬だって風葬だってあります。

B

でも死者へのいたわりの心は共通だと思います。

C

キリスト教は死体には全く関心がないから、宗教によって違うのでは。そもそもこれは良心の問題とは異なると思います。

D

良心の声は従わざるを得ないものだと思います。体が自然に動くというか。迷うことは有りません。

C

そうです。真の高次的な統一に常に身を置いている者は迷う必要は有りません。
佐野
ずいぶん極端というか、特色のある良心の声だと思いますが、他の方はどうですか。

D

西田のテキストを読んでいると転換が問題になりますよね。窮した状況で。そうしたどうしようもない状況で良心の声は聞こえて来るのでは。

E

(出題者)
その場合、従う従わないの自由はありますか。

D

選択肢はあり得ない。

E

(出題者)
それでもそれでよいのか、という声は聞こえてきませんか。それが良心の声だと思うのですが。

F

それでも自分で決めた時には人間はエゴでしかありえない。直観で見た、聞いた、動いたと言う時は良心の声に従ったと言えるけど、それを判断したらもうエゴ。
佐野
この問いには背景があるんです。良き「サマリア人の喩」というのが新約聖書にあって、ボコボコにされたユダヤ人を同じユダヤ人の偉い聖職者が見てみぬふりをしたのに、当時ユダヤ人とは血で血を洗う争いをしていたサマリア人が「かわいそうに思って」介抱した、という話です。それを解説している人が、このサマリア人は神の促しに自由な決断によって従った、従ってみたらその決断も神の働きであったことが分かる、そのように言うんです。

F

そんな自由はありませんよ。
佐野
この場合良心の声は「かわいそうに思って」という神の促しになっていますね。はじめに良心の声は文化的な制約があるという話がありましたが、良心の声は「善をなせ」とだけ言って来ます。(もっと言うと、人間は善も愛も直観的に知っています。だから人間は真の人間関係や無償の愛の理念を決して手放しません。知っているから命令になります)。ですが具体的な内容は何ひとつ言って来ない。言ってこないものだからそのつど自分で解釈しなければならない。だけど人間は不安を抱えているものだから、どうしてもエゴを捨て切らない。その意味では自由に選んでいるつもりでも、根本に不安があり、エゴがある。それに縛られているから自由はない、ということになります。こうした行為に対して良心の声は「それでいいのか」と呼びかけてきます。それでもエゴを捨て切らない。どうにもならない。そこに身が頷く所で自分へのこだわりから少し解放される。そこで聞こえて来るものがある、それが「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」あるいは「既に我生けるにあらず基督我にありて生けるなり」、つまり「生かされて生きる」という在り方への転換ですね。
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読書会だより

私は今何を見ているのか

―今日の哲学的問いは「私は今何を見ているのか」です。
(沈黙)
佐野
こう聞かれると困るのよね。

A

質問の意図がよく分かりません。
佐野
今日読む所の内容に関係しているんですよ。例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?

B

言葉じゃないと思います。
佐野
じゃあ、何を見ていたの?

C

何だかわからないものですよ。それが過去に見たものとの関係で青と判断されたんだと思います。
佐野
なるほど。

D

「私のことを見ていない」ということ有るじゃないですか。特に男女関係において。
佐野
どういうことです?

D

いや。見てはいるんですよ。ですが「見ている」というように言ってしまうと自分と相手の関係だとか、意識しまうんですよね。
佐野
それが見ていないと。確かにマーカーでも青だけ見ていることはありませんね。「青」と判断した時は、それは書くものだという連想が生じている。それで文字を書くと、次の言葉が連想されている。でもそれはもともと何かを書きたいということがあったわけで、そうすると見ていたものは書きたいことで、それを書いてしまうと、また別のしたいことが連想される。これが無限に続く、ということになりますね。

C

この問いは面白いなあ。目の前の注意に限られていない。禅のお坊さんに聞いてみたい。
読書会でではこの後、講読に入りました。その中で、例えば塩が白と辛いと結晶は立方体だというような性質を統一したものであるように、「物を見る」とはこの「統一点」を見ることだとされました。そうしてこの統一点が「意識の統一点、即ち注意の焦点」です。そこでそうした注意を「指導」するものが「統一的或るもの」、上の例で言えば「何かを書きたい」であることが確認されました。しかし「何かを書きたい」という衝動の根源を突き詰めて行って「本当にしたいこと」を考えると分からなくなります。それで「私たちは今何を見ているか」ということはどこまでも分からないものになります。こんなことが確認された後で——
5歳の娘さんがお父さんと一緒に来てお父さんが読書会に参加している間、静に遊んでいます。

E

(パパ)
お前は今何を見ているの?
(集中しているのでお返事がない)
佐野
統一力って言ったらびっくりするね。
(笑)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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