読書会だより

「在りて在るもの」とは何か

今回の「哲学的問い」は「『神はあってあるもの』という言葉を聞いたことがある。これは哲学の問いなのか。この『ある』は以前の哲学的問の『ある』ということなのか」でした。
佐野
以前の哲学的問の『ある』ということをどのように理解されていますか。

A

(出題者)
以前は神を信じている人には神はあり、そうでない人には神はないと思っていましたが、神があるということはそんなに簡単ではないと思ったのです。
佐野
この「神はあってあるもの」というのはモーセの出エジプト記に出てくる表現ですね。「ありてあるもの」とも訳されています。どう考えましょうかね。Bさん。西田ではどうですか。

B

実在の根柢にして自己の根柢です。呼び声なんですが、通常は聞いても分からないものです。むしろ我々は神を失ったところで真の神を見ると言えると思います。対象化偶像化はできないもので、出会うことによって私たちに感動を与えるものです。主観を破ったところで出会うものだと思います。その意味では体験の事柄です。海の中に飛び込むと最初は真っ暗で気持ちが悪い。そんな中で考える自己がなくなっていく、そんな感じです。
佐野
「ある」ということは「体験」に根拠を持つものだと。

C

体験より先に神と合一しているのだと思います。生かされて生きているというのは「事実」だと思います。そのことは「体験」によらずにあることだと思います。

D

でも信仰があっての神ではないですか。
佐野
その信仰が自分から起こした信仰と言い切れるでしょうか。神からいただいたものという考え方もあると思います。

D

そうなると、信仰するしないの選択も神によってなされることになってしまう。そこにはやはり人間の決断というものが不可欠だと思います。

C

そうではなく、意識しないほうが神に近いのだと思います。意識にはかかわらないことです。
佐野
そうだとしてもそのことは気づきがなければ分かりませんね。しかし自らの体験を根拠にできないものとして体験されている、そういうことも言えるのではないでしょうか。大きな問題です。今日はこのくらいにしておきましょう。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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