意識現象の知

本日の「哲学的問い」は「「三」の最後に、「判断意識が精神現象を対象とする時、判断意識は自己自身の中に省みるのである」と言われているように、ここで成立した立場は「意識現象の知」であり、しかもそれは「意志」を根本としている。この立場は『善の研究』の立場と同じと考えてよいか、それとも異なるか」でした。今回(令和2年6月6日)より対面式での講座の再開です。予定していた範囲を終えるには時間が足りなかったようです。急いでも仕方がないので、今回は頁行目まで読了し、次回はその続きを皆さんと一緒に読み進めようと思います。なお予期していたことではありませんが、依然オン・ラインでの対話も続いており、こちらも貴重なので、この読書会だよりで紹介したいと思います。それでは最初の方とのやり取りです。

A

プロトコルありがとうございました。自分なりにノートを作ってみたのですが、プロトコルでかなり頭の中が整理できました。
佐野
それはうれしい限りで。

A

その中いくつかで質問させてください。
佐野
はい。

A

第4段落144頁8行目、「原因と結果は一つのものの両面である」、の件で、「前にも云った如く」という文言の意味ですが、これは、136頁最終行から137頁1行目「原因は結果から独立するものではない、…相関的でなければならぬ」を指すという理解でいいのでしょうか?
佐野
そうですね。

A

これとの関連で、というより、ここから、始と終の結合、無始無終にして繰り返すことのできない時の系列の成立(145頁9行目)につながり、高次的なる直観の立場を時の成立の起源であり、終極とせしめている(145頁9~10行目)、と考えていいのでしょうか?
佐野
そうだと思います。

A

哲学的問について、問いの趣旨を整理させてください。
佐野
はい。

A

「すべて意識現象とは、純粋統覚が自己自身の中に省みることによって、見られ得る対象界」、とあります。「純粋統覚が自己自身を省みるということは、純粋統覚自身が働くものとなること、意志に形をとること」(以上147頁終わりから1行目~148頁2行目)とも書かれています。
佐野
ええ。

A

他方で、「純粋統覚の対象界には、如何なる形に於ても意志をみることはできぬ」(同2~3行目)とも書かれています。
佐野
はい。

A

すなわち、純粋統覚は意志その者ということか?その「意志」は、善の研究第3章「意志の自由」における「意志」と同じものなのか?いろいろまとまらないままに書いてしまいました。
佐野
いえいえ。ここは注意して読まなければならないと思います。後の方の引用では「対象界」という言葉に注意すべきでしょう。これは前のページでは「自然界」と呼ばれていたものです。そこで統覚が「対象」とするものが「機械的因果」と「合目的的因果」です。これを統覚は外から見るのです。こうした「対象界」ないし「自然界」に対するのが「意識現象界」です。これは内に省みる他はないものです。ただプロトコルでも申し上げましたが、この「省みる」は自分を残したまま反省的に省みるのではなく、自分を没して有ないし客観に成り切って、そこから省みるということです。

A

失礼しました。西田の使う言葉に重点を置いて整理ノートを作っているのですが、先生のプロトコルで、いくつかの点に線を引いていける感じで面白く思っています。
佐野
ありがとうございます。

A

今日は失礼しました。終日、田の畔草刈りでした。哲学的問いとの関係ですが、「精神現象」という言葉について、改めてこれまでの西田の著述から振り返ってみました。その中で、71頁に「意志が能動的自己に還ったとき、内的知覚の立場から内容ある時を見る。それが所謂精神現象である」とあります。
佐野
ええ。「物理現象の背後にあるもの」という論文ですね。今読んでいるところと同一のテーマを扱っている箇所です。

A

そして、142頁で「すでに、統一が内在的と考えられる精神現象においては、合目的的というのは、統一が統一自身に還ることでなければならぬ」とある。
佐野
これは今読んでいるテキスト(「表現作用」)ですね。

A

ここでの「統一が統一自身に還る」というのは、意志が能動的自己に還るということと同じでではないか。
佐野
ええ。その通りだと思います。

A

142頁では「(合目的的とは)統一が自己自身を客観化すること」と言っています。これは、判断意識が、精神現象を対象としたとき、統一が自己自身を客観化し、すなわち、統一が統一自身に還り、判断意識は、自己自身の中に省みて、自己の精神現象を合目的的とする。
佐野
ええ。そういうことになると思います。

A

善の研究との関係ですが、純粋経験における統一と基調は同じ気がするのですが、「合目的的」という観点が、そこにあったか、という点がよくわかりません。
佐野
『善の研究』で「目的」が論じられるのは第3編第4章の「価値的研究」で、その後、善を目的としてその実現が第3編の最後まで目指されます。第12章は「善行為の目的」となっています。善の実現を目指すとは「真の自己を知る」ことだと第3編の最後で言われていますが、どこまでも「ねばならぬ」と命令形で書かれています。私はここに「挫折」を読み取ります。そうして第4編の宗教が始まり、ここで「自己の変換」「生命の革新」が起り、いわば逆説的な仕方で「目的」が実現します。ここで「神を見る」といわれるものは同時に「真の自己を見る」ということで、まさしく統一自身に還ることだと思われます。それでは次の方とのやり取りです。この方は6日の読書会を終えた後のメールから始まります。

B

今日はありがとうございました。色々失礼で生意気ですみませんでした。実は久しぶりに西田を読んだのです。ずっと旧全集3巻を読んでいて少し疲れてしまっていたのです。西田幾多郎という人の文章は非常に難解で、しかも「逃げ」がないのです。なんだか逃れられない何かそのもののような気がして真剣に取り組む程辛かったのです。でも、久しぶりに西田に触れ、もう逃れることができないんだなあ。と思いました。あきらめてまたこつこつ勉強しようと思います。
今日びっくりしたのは『善の研究』の第三章を私はほとんど理解していないということです。もう一度『善の研究』第三章を読み直したいと思います。
佐野
それはよい「あきらめ」です。今読んでいるところもそうですが、西田は一つのことをしつこくずっと見つめて考えていくところがありますね。徹底性、それが「逃げ」のなさを感じさせるのでしょう。
しかしそうかといって、禅のように突き抜けていかないのは「悲しみ(悲哀)」といった人間の有限性を深く自覚し、おそらくは愛してさえいたからだと思います。この辺り、不徹底とも思われるかもしれませんが、魅力でもあるわけです。
西田が気にしている一つの極が禅だとすれば、もう一つの極がカントだと思います。カントは認識に関する人間の有限性にあくまでとどまった。それに対し西田はどこまでも真理の把握が可能であるという立場に立とうとします。この辺り、カント主義者からは自覚が足りない、と非難されるかもしれません。
禅のように突き抜けもしない、カントのように有限性に徹底することもない、そこのところ、矛盾を矛盾のままに徹底したと言えるでしょうか。
それにしても今読んでいるところなど特にそういう印象が強いのですが、『善の研究』で到達したところを、繰り返し確認しているような気がしてなりません。ある意味で西田は一生をかけてその作業をしている、そんな気さえします。どう思われます?

B

(「私には無理なように思われます」のタイトルの下で)佐野先生に どう思われます。と、問われて「私にはわかりません。」と正直に告白したいです。つまり、『善の研究』で考えたことを生涯反芻し続けたのではないか。ということですよね。
例えば「意志の自由」についてもう一度『善の研究』「意志の自由」を読み返してみました。西田は、意志の自由についてつまり
「動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でたとき、最も自由と感ずるのである」(151頁)、
「己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである」(151頁)意志の自由」について「自己の自然に従うがゆえに自由」である。
としています。おそらく「自己の自然に従う」とは真の自己に従うということ真の自己になるということでしょう。しかし、ここで重要なのは「生じたことを自知している。」(152頁)「我々はこれを知るが故にこの行為のなかに窘束せられて居らぬ。」(153頁)ということではないか。と思います。
岡村先生の先日の論文に「完全な脱落」をたんなる「忘我状態」ではなく、「きわめて明瞭な意識をもった」経験として記述していることは注目に値する。(4頁)とありました。「きわめて明瞭な意識をもった」経験とは忘我状態にある自己自身をもう一人の自分が透徹した眼でみているような感覚です。これを『善の研究』における「生じたことを自知している」や『内部知覚について』における「全然我を没し尽くして、主客合一となるところに有を見る」と重ねて考えることはできないでしょうか。
西田はやはり『善の研究』を生涯をかけて何度も繰り返しているのかもしれません。すみません。何が何だかわかりませんね。
佐野
そうなんです。重なるよう思われるのです。自己を没して自己に還る、ということです。「脱落」に通じます。
「忘我」と訳さずに「脱落」と訳されたのは何かに夢中になって我を忘れるというようなものではなく、また単なる茫然自失というのでもない、自我意識が抜け落ちる体験を言ったもので、おそらく岡村先生自身、そうした体験がおありなのでしょう。
ところでタイトルの「私には無理なように思われます」って何が無理なの?

B

先生のメールを読んだ時、今日の夕飯のおかずの事を考えていたので、『善の研究』の難題にお答えするのが無理なように思われます。という意味です。
私はずっと人間はある一定の方向に発展していくつまり「真の自己」なるものに神のような存在に近くなっていくのだと信じていました。きっと西田の作品もそのように発展していくのだとそう思いたかったしそうかも知れません。
でも、もし、『善の研究』を何度も繰り返しているのなら既に最初の『善の研究』を完成する段階でニーチェにあった「きわめて明瞭な意識を持った完全な脱落」のようなものを西田が意識していてそれを何度も反芻していたのならばそこに何の意味があるのか。
しかし、すぐ何らかの意味を見出そうとするのもどうなのかと、またくどくど考えてしまいます。考えるのが好きなので。とりあえず、もう少し『善の研究』を読みたいです。
あと、とても及ばないですが私にもそのような体験があります。ますます変わった人になりたくないので、またコロナが収束したらいつかお酒でも飲みながら聞いてください。今日の夕飯はから揚げになりました。
佐野
から揚げですか。ご家族は幸せ者です。
根本経験のはなしですね。実は我々がいつも迷っているので、おそらく何かがいつも呼びかけてはいるんですね。だけれど我々は自分のことに忙しくて、一向に聞こえない。それが、ふと、聞こえることがある。これが根本経験ですが、これがまた「あった!」とは言わせてはくれないもので、それが何だったのか、本当にあったのか、繰返し問わざるを得ないもの、それが根本経験だと思います。
私は今のところ、西田にこうした根本経験があった(?)、それが 『善の研究』の原形となる「実在論」を執筆する以前、つまり明治39年の初夏ではないかと思うのです。そうして彼の天才によって、『善の研究』が奇跡的に現在あるような形で出来上がった。
自分の経験もそうですが、自分が書いたものを自分が分かっているかどうか、それは分かりません。作者はいわば忘我(脱落?)状態で書いている場合があり、そのことの反省的な意味が分かっているわけではない、ということはよくあると思います。
どうでしょうか。(「私には無理です」などと仰らないでください)

B

こんにちは。今日は本当に暑いですね。メールありがとうございました。
西田の根本経験が明治39年の夏だったというのはその通りだと思います。
明治39年は次女の幽子が病にかかり、西田はその看病の合間に「実在」を書いています。日記には3月25日「今日宗教問題を考ふ、解決を得ず」とあり、4月4日を最後に40年の1月まで長い空白があります。西田のような性格の人が日記を中断するようなことなまれな事だと思います。なんらかの精神上の強い緊張があったのではないでしょうか。
注目すべきはこの頃、網島梁川の「病間録」などに深く感銘をうけていることです。ちょうど病の子を看護しながらおそらく眠れぬ夜も何度もあったでしょう。なんの罪もなくそれなのに苦しむ我が子の細い背中を抱くなかで、小自我をなくすような宗教的な体験がおそらくあったのでしょう。
この体験はある時はっきりとやってくるもので、強い「多幸感」のなか、まるで光に包まれているような安心感と自身を失うような感覚を伴い、しかしそれは忘我ではなく極めて明瞭な意識をもっているのです。西田が忘我の中で完成させたのではなく極めて明瞭で透徹した眼でそれをみつめていたのではないでしょうか。自身を失いながら失えば失うほど自らを見つめる目はより明瞭になっていく感覚です。
佐野
これはこれは。力強いメールをいただきました。ご自身の体験が背景にあるのではないかと推察しております。言葉にして、論理化しましょう(笑)
(第35回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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