媒語による有と無の超越

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に照らして」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し特殊概念は更に特殊なものに対して、一般概念とならねばならぬ」(261.12)で、「考えたことないし問い」は「読書会では一例として、小語→ソクラテス、媒語→人間、大語→死すべきものという例があげられた。恐らく今大語の位置にあるものが次に媒語となって、さらに大きな述語的なものに包摂されてしまうであろう。読書会において個物を主語の方向に向かっていくら語りつくしても個物に到達不可能であるということは何度も確認している。ならば述語の方向に向かって今度は個物に到達しようと試みているわけであるが、それは果たして可能なのだろうか」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。

M

問いを深めるために「我々はすでに個物に到達しているのか、それとも個物だと思っているのが本当に個物であるのか」に改めようと思います。
佐野
分かりました。それでは皆さん、到達していると思われる方は挙手してください。(挙手する。約半々に分れる)。反対意見の方からお伺いしましょう。

A

到達したと思ったとたん概念化していると思います。離れた所からなされた判断になっています。
佐野
その場合、「個物」というのもすでに概念だ、ということになりますね。

A

そうだと思います。到達していると思っているだけで、いつも個物からは目を逸らしているんです。

M

個物は概念ではないと思います。「この花」は概念ではありません。私の目の前にある唯一のものですから。
佐野
でもその「この花」も「私の目の前」も、誰にとってもそういうことになりませんか?つまり「これ」も「私」も一般概念ということになりませんか?

B

西田は「実在は現実そのままのものでなければならない」と言います。我々はつねに、そうしてすでに個物に到達しているのだと思います。もし個物に到達していなければ、例えば「ポチは犬である」という判断につながっていかないと思います。実在は論理につながっていなければならないと思います。

M

その意味では個物に到達するということは「純粋経験」に到達することだと思います。

C

「僕自身」とか「本当の所」というのはどこまで行っても、「分かった」ということにはならないし、現実そのものを捉えた、とは言えないと思います。

M

積み上げるような仕方では到達できない。だから直観によって個物に到達できるとされるのでしょう。

A

私たちは直観の中で生きていますが、そこから概念や論理が生じるというのはどういうことかが問題になると思います。
佐野
直観と概念・論理との関係は?Bさんは実在と論理はつながっていなければならないとしていましたが。両者は単純に連続しているのですか?

M

西田は個物と概念の間には飛躍がなければならない、と言っていたように思います。個物は点のようなもので、概念がそれを映す鏡です。
佐野
点は見えませんね。我々は概念の鏡を通じてしか個物を見ることはできないのでは?ならばどうして個物があると言えるんですか?

M

信仰です(笑)。

C

このポチがまずいるよなあ、それから、ポチは犬だなあ、それから「ハアハア」言っているなあ、となると思います。まずは直観がある。でも言語がなければ判断ができない、こういう関係ではないでしょうか?
佐野
でも、「このポチがいるなあ」というのはすでに「この」とか「いる」という言葉を使っていますが、これはすでに言語であり、概念では?

C

判断の方から逆に考えるんです。そうすると個物に触れている、ということがなければならないことになります。でも「あってほしい」という願望がないとは言えません。
佐野
判断が破れる、言葉を失い、そこで沈黙せざるを得ないような「体験」においてそうした「個物」に触れている、というようには考えられませんか?沈黙を守っていらっしゃるDさん。何かありませんか?

D

個物と一般は矛盾的な関係にあると思います。それを「いま・ここ」として掴む。個物と一般がせめぎ合う矛盾こそが「場所」であり、そのせめぎ合う落ち着かない場所を「この(いま・ここ)」で固定するのが概念の力です。
佐野
なるほど。同じく沈黙を守っていらっしゃるEさん、いかがですか?

E

「この鉛筆」を分析するとさらに新たな個物が出てきて、これは限りがないので、個物に到達することはできないのではないかと思います。
佐野
Fさんは?

F

「これ」というものに直接アクセスすることはできないと思います。だから直覚とか言われるんじゃないかと。

M

芭蕉の句に「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」というのがありますが、ここには「おどろき」があります。純粋経験の中にあるとはこういうことだと思います。そこでは自分を失う、ということがあります。そこにおいて、これまでもずっと咲いていたなずなであるはずなのに、それがありありと咲いている事実に出会う、その意味でここにはやはり「飛躍」があると思います。そうしてそれが同時に「生死の場所」だと、そういうお話を以前伺いました。
佐野
なるほど。本質に迫るような意見が出た所で、本日の講読箇所に移りましょう。今日は261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁5行目「異なったものでなければならぬ」まで講読します。Dさん、読んでください。

D

読む(262頁5行目まで)。
佐野
最後に「此地位」とありますね。「此」は何を指していますか?

A

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
そうですね。あるいは「有無を超越し而も之を内に含むもの」「自己自身の中に矛盾を含むもの」でも、「最高の一般概念」でもいいですね。

A

「最高の一般概念」は大語じゃなかったんですか?何故それが「媒語」になるのかが分かりません。究極の大語があれば媒語はいらないんじゃないですか?
佐野
それはたぶん大語の究極的なところでなお有を考えているからでしょう。有と無を包むものをさらに「有」として考えていませんか?後から来られたGさん、何かございませんか?

G

遅れてすみません。この「推論式」って何ですか?
佐野
三段論法はよろしいですか?例えば、「人間は死すべきものである」が大前提、「ソクラテスは人間である」が小前提、故に「ソクラテスは死ぬ」が結論です。結論の述語(死すべきもの)が「大語」、結論の主語(ソクラテス)が小語、両者を媒介するもの(人間)が媒語です。大語、媒語、小語の三つの語から結論を引き出す式が推論式です。これまでの叙述では、この大語の方向に一般概念を限定するものを求めていくと、最後に至る「最高の一般概念」は「何處までも一般的なるもの」でなければならない、とされています。小語方向なら、どこまでも特殊なるものになりますね。これに到達できるかどうかが今日プロトコルで問題にされたわけです。一般の方向の話に戻ると、一般化を進めていくと、最後には全部「有」に包括されることになりますね。問題はここからです。すべてが有だということになると、有ということもなくなってしまいますね。有というのもすでに規定性であり、限定されたもので、限定されたものは〈すべて〉ではありませんから。これをテキストでは「すべての特殊なる内容をこえたもの」と呼ばれ、それが「無に等しき有」だとされています。そのような無が直ちに有だからです。(この辺りヘーゲルの有と無の弁証法を思わせます)。

G

そうなると推論式は崩壊しますね。
佐野
ええ。同じことは小語の方向、特殊化の方向についても言えるはずです。最後に点になって消失するということです。大きな円も小さな円も消失して、残るのは中位の円だけ、媒語だけということになります。(この媒語の円が無限に重なり合うことになります。)今日のプロトコルでも問題になったように、小語の方向で言えば、我々はどこまでも一般概念を離れることができません。「これ」と言っても「ある」と言っても、むしろそれは一般的なものになってしまいます。しかしそれでは特殊(個)は真に特殊になることはないだけでなく、一般も真に一般になることはありません。さらにもう一歩の超越・飛躍が必要となります。この飛躍が一般の方向で言えば、「有」をも越えて、「無に等しき有」となることです。我々はそこで「個物」に出会うわけです。しかしそのことと同時に、無限の媒語の円(鏡)の重なり合い、映し合いが現出する。そうなると一つ一つの媒語に最高の一般者(と個物そのもの)が属していることになります。これが「推論式に於ての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味に於ては既に此地位にあるものでなければならぬ」の意味だと思います。前半が日常の見方、後半が体験における見方(「深い意味に於ては」)です。

M

媒語が「自己自身の中に矛盾を含むもの」になるのだと思いますが、矛盾は無矛盾に対して言われるものですよね。
佐野
ええ。我々の日常経験には矛盾はないかのように見えます。一般概念の土俵の上では矛盾律が成立しなければなりません。そうでなければ我々は考えることすらできません。しかし体験を経た後には、実はそうした日常的な経験の一つ一つが根本的な矛盾の現出であったことに気付く、そうしたことだと思います。なずなが実はずっと垣根に咲いていた、という経験に通じると思います。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(262頁11行目まで)。
佐野
「単に知識の立場から云えば、それは考うべからざるものであろう」とありますが、「それ」とは何ですか?

C

前の文だと思います。
佐野
そうですね。媒語が大小両語の中間にありながら、「有無を超越し而も之を内に包む」「最高の一般概念」ような地位にあることですね。つまり媒語が媒語でありながら、同時に真の大語であるということだと考えられます。このようなことは「単に知識の立場」では考えられないと。「知識」は無矛盾でなければならないからです。それを受けて「然らば、矛盾の意識は何によって成立するであろうか」と来ます。我々は矛盾を意識しているから「無矛盾」ということも分かるわけです。じゃあ、その矛盾をどこで意識しているのか、それが問題になります。ついで「論理的には」とあるのは〈知識としては〉と同義でしょう。「それ」つまり「矛盾の意識」は「唯矛盾によって展開し行くヘーゲルの所謂概念の如きものを考える外ない」とあります。ヘーゲルの概念が問題になりますね。ヘーゲルは、我々の経験の根柢に思想(論理、ロゴス)があると考えます。カテゴリーと言ってもいい。有も無もそうしたカテゴリー(思想)です。さらにこの思想を徹底的に考えていくと、反対のものに転じてしまう、ということが起こります。これが弁証法ですが、それは単なる無に終わらずに、次のカテゴリーがそこから生じてきます。このように運動する「思想」が「概念」です。西田は「知識の立場」ではこうした仕方でしか矛盾は意識されないと考えます。しかしそうした「論理的矛盾其者を映すものは何であるか」、それを西田は問題にします。裏には、ヘーゲルはそのことを問題にしていないという主張が含まれています。そうしてそれが「意志の立場」だ、そう西田は言います。

D

直観ではないのですか?
佐野
とりあえずは「意志」です。もう少し待ちましょう。「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識」だとされています。知識と意志の関係についてはこれまでも何度か述べられていましたね。例えば「判断と意志とは一つの作用の表裏」(234.9-10)とされ、「円い四角形という如きものを意識するには、背後に於ける意志の立場が加わらねばならぬ」(同12-13)とされています。ここではカントの「意識一般」が「門口」とされていました。この「門口」が超越の起るところです。「知識の立場」から「意志の立場」への超越です。そうした立場で「媒語が一般者となる」。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(262頁14行目まで)。
佐野
「媒語が単に大語の中に含まれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない」とありますね。これは大語と小語、それぞれの方向に無限に連結していく考え方です。ここには矛盾はありません。しかしそれを徹底するならば、この推論式が崩壊し、転換して媒語が「統一的原理の意義」を含み、「大語も小語も之に於てある」ということになります。こうした「推論式的一般者」はここではじめて登場するので、重要な箇所だと思います。次へ行きましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(263頁2行目まで)。
佐野
「媒語は此場合、私の所謂意識の場所の意義を有って来る」とありますね。これはカントの「意識一般」と考えてもよいかもしれません。上に挙げた箇所では「意識一般」が「門口」となって「判断(知識)の立場」から「意志の立場」への移行がなされましたが、ここでは「推論式に於て」そうした「推移を見る」とされています。因みにカント哲学では理論理性から実践理性、純粋理性批判から実践理性批判への移行ということになります。次に「判断に於ては我々は一般より特殊に行く」とありますが、すぐ後で「特殊から一般に行く」のが「帰納法」とされているのに対し、これは何と呼ばれるでしょうか?

E

演繹法です。
佐野
そうですね。以前にも「一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とされていました。我々はミカン一般を食べることはできず、このミカンを食べるほかない、意志をそのように考えました。すでにそうした性質は「帰納法」にもある、ということになります。あと少し時間がありますね。次をFさん、お願いします。

F

読む(263頁5行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありませんか?

F

「かかる一般者」というのがよく分かりません。

C

媒語のことではないでしょうか?

A

すぐ前の文に「特殊なるものの中に判断の根柢となる一般なるものが含まれて居なければならぬ」とありますから、この「一般なるもの」のことではないでしょうか?
佐野
さしあたりはそう考えるべきでしょう。ここでは特殊が主語となる「事実的判断」が問題になっています。ソクラテスは知者である、醜いといった判断ですね。こうした判断のなかにある「一般的なるもの」が「かかる一般者」と呼ばれ、それが「たんに包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならぬ」とされています。そうだとすれば、それは「媒語」ではないか、そんな風に思えてきますが、それは次回にしましょう。
(第52回)
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自ら照らす鏡

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 259頁9行目「知覚の意識面を限定する境界線」から260頁12行目「知覚と云い得るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「単に映す鏡」(259,15)「自ら照らす鏡」(260,1)で、「考えたことないし問い」は「対立的無の場所に於いて有るのが「単に映す鏡」(外を映す鏡(231 頁8-10 行目))、元来、真の無の場所の底にあるのが「自ら照らす鏡」(内を映す鏡(同上))、であるとした場合、「自ら照らす鏡」は矛盾の関係をどう映すのだろうか?「一般概念の外に出ることで矛盾の関係を見る(254 頁15行目)」ということとの関係をどう考えたらいいのだろうか?」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
いくつかの対応関係が重なっていますね。整理しておきましょう。
1.「単に映す鏡(外を映す鏡)」と「自ら照らす鏡(内を映す鏡)」
2.「対立的無の場所」と「真の無の場所」
3.「一般概念」と「一般概念の外」
4.「相異」・「相反」と「矛盾」
さらにこれに
5.「限定せられた場所」と「限定する場所」
を加えることもできますね。それぞれ前と後が対応しています。さて、そこで何が問題になっているのでしょうか?

K

矛盾の概念をどう考えたらよいかということです。生成と消滅は普通に考えれば対立(相反)です。しかしこれを突き詰めて考えると、生成がそのまま消滅ということになる。例えば、生と死は普通に考えれば生は生だし、死は死です。しかし生はつねに死をはらみ、死は生をはらんでいます。これが「自ら照らす鏡」とどう関係するか、ということです。
佐野
矛盾を映す、ということではだめですか?矛盾が見えてくる、ということです。生と死について言われたことは、木の葉が緑から緑ならざるもの(黄色)に変化する場合にも言えますね。

K

ええ。緑はつねに黄色を抱え込んでいるということです。
佐野
同じことは〈塩が白くて辛い〉という場合にも言えるでしょう。「一般概念」によって限定せられた場所では、矛盾律が成立しなければなりません。緑は緑、黄色は黄色です。矛盾律を守ろうとすれば、塩の白と辛さが同時に成立しているということは矛盾ですから、両者は塩という〈物〉の性質である、このように考えるわけです。これは「相異」です。しかし〈物〉の性質でも反対のもの(「相反」)は同時には存在し得ない。その場合には〈時〉をもってくる。しかし相異の場合でも相反の場合でも、突き詰めて考えると、そこに矛盾が見えてくる。もちろんこの「突き詰める」というところに「超越」がなければなりませんが、そこに「矛盾の関係」が映し出されている。これが「自ら照らす鏡」ということでしょうね。

K

そこに「芸術的内容をも見る」とありますから、矛盾が照らされる場所は、言葉にならない感動の世界ということにもなると思います。じつは我々はつねに一般概念の内と外を出入して、言葉にならないものを言葉にしていると言えませんか?

A

〈この赤が赤である〉というのも、そうだと思います。「この赤」は無限に深いものだと思います。
佐野
そこにもじつは「特殊(この赤)」と「一般(赤一般)」の矛盾がありますね。一般という「一般概念」と特殊という「一般概念」が映し合っている。

A

合わせ鏡ですね。「鏡と鏡とが無限に限なく重なり合う」とありますけど、どういうことでしょうか。
佐野
知覚のことについては以前の「共通感覚」のところの記述(257頁)が参考になると思います。「感覚に附着して之(感覚:引用者)を識別する」(同10)ことによって、「知覚の野を何處までも深めて行く」(同7)。それによって「共通感覚」に到達するとあります。個々の音に「音調」(一般概念)、さらに「色調」(一般概念)がそれに重なり合う。

B

それは鏡と鏡が「重なり合う」のであって、合わせ鏡のように「映し合う」のとは違うのでは?

C

いや、やはり「映し合う」のだと思います。鏡ですから。そうして光源は「自ら照らす鏡」の方にある。
佐野
「鏡と鏡とが限なく重なり合う」という表現をどうイメージするのか、ピッタリ一枚に重なっているのか、それとも層をなして重なっているのか、それとも合わせ鏡のようになっているのか、それはここではペンディングにしておきましょう。プロトコルはこのくらいにして先を読み進めましょう。今日は260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」まで講読します。Cさん、読んでください。

C

読む(261頁1行目まで)。
佐野
「直覚を概念の反射鏡に照らして見る」とありますね。「概念の反射鏡」というのは?

C

「一般概念」だと思います。
佐野
そうですね。直覚が(知覚という)「一般概念」に映ったものが「知覚」だということですね。そうして「知覚を芸術的直観の如きものから区別して、之を知識と考え得る限り、それは直覚其者ではない」とありますが、「之」とは何を指していますか?

D

「知覚」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると、ここでは直覚を芸術的直観のようなものと同類に見て、それに概念と一つになった知識としての知覚を対比していることになります。直覚そのものは概念的言語を超えたものです。それを概念で切るところに土俵ができて、言葉で説明できるようになるわけです。つぎに「数学者の所謂連続の如きもの」とありますが、これは概念的なもので、目に見えるものではありません。ですからそのようなものは「見ることはできぬ」とあります。そうして「知覚の背後に」このような「概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ」とあります。芸術的内容は概念化できないということです。どこまでも分からない深いものです。それは「ベルクソンの云う如く唯之と共に生きることによって知り得る内容である」とあるように、対象化して知ることのできない、その意味では体で知るほかないものです。Dさん、次お願いします。

D

読む(261頁4行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここでは「知覚の水平面」は「概念面」と平行して広がっていることが述べられています。ではEさん、次お願いします。

E

読む(261頁9行目まで)。
佐野
ここは難解です。述語が無、主語が有で、述語が主語を包んでいる、とは包摂判断ですね。それが「窮まる」。すると主語面(有)は述語面(無)に没する。それが「転回」の所と言われる。これはどういうことでしょうね。主語を対象化できないところ、判断が成立しないところと考えることができますね。

F

純粋経験のことでしょうか?
佐野
そうですね。本質的なところは同じかもしれない。先を読むと、その転回の所で「範疇的直観」が成立する、とあります。また「カントの意識一般」もおそらくここで成立する。これまでそれに乗っかって判断を行っていた、「一般概念」が直観される。ところでカントの意識一般は「一般概念」ですか?

G

違うと思います。テキストにも「無の場所」とあります。
佐野
そうですね。ですがカントの意識一般を以前、西田はどのように位置づけていたか覚えていますか?

G

対立的無の場所と真の無の場所の間の「門口」です。
佐野
そうでしたね。ここでも意識一般は転回点として位置付けられています。さらに西田は「かかる転回を一般概念によって限定せられた場所の外に出る」と言っています。「一般概念によって限定せられた場所」でひとまとまりです。さらにそれを言い換えて「小語から大語に移り行く」と述べています。「小語」とは「ソクラテス」のような特殊面でした。今までこれが主語になっていたのです。それに対して「大語」とは「死すべきもの」のような一般面でした。これが述語を成していました。ですから「小語から大語に移り行く」とは、これまで主語的なるものが基体であったのが、「述語的なるものが基体となる」ことであり、「これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入する」ということになるのです。このように主語面が述語面に没入し、述語面が基体となることで、今度は逆に、「特殊なるものの中に一般的なるものを包摂するという意志の意味を含んで来る」ことになります。ここに意志の成立を見るのです。もう少し時間がありますね。次の段落に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(261頁14行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここは大前提(人間は死すべきものである)―小前提(ソクラテスは人間である)―結論(ソクラテスは死ぬ)を、大語(死すべきもの)―媒語(人間)―小語(ソクラテス)というように語によって連結させて「推理式」と呼んでいます。これをさらに一般化させると、まず「最高の一般概念」があって、無限の特殊化の過程を経て個物に至る、と考えられます。これを西田は「論理的知識」と呼んでいます。今日はここまでにしましょう。
(第51回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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