市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 6

第5段落

ここから第5段落です。第5段落では思惟の根柢に知的直観があることが述べられます。思惟とは「表象間の関係を定めこれを統一する作用(第1編第2章第1段落)」のことですが、この関係の本にどこまでも説明のできない、神秘的或者の直覚がある、と西田は言います。それは小にしては主語述語の関係としての判断の根柢に働く直覚であり、大にしてはプラトンやスピノザの如き体系的思想の背後に働く大なる直覚となります。

小の場合から考えていきましょう。「馬が走っている」でも「カルタの一束が机上にある」でもいいですが、そういう判断が起こる本に説明のできない直覚があるわけです。それにピッタリとした言葉を与えようとしてまず主語から語り起こす。しかしその時すでに客語が暗に含まれており、その客語が発せられた時にも、そこに主語が暗に含まれているということになります。こうして語り終えた時、ようやく自分が何を言いたかったかが顕わになります。先程の言葉で言えば、一般的なるものが個体となるわけですが、それはピッタリとした言葉を与え、過不足なく説明し尽くしているにもかかわらず、どこまでも説明のできないものの説明という性格を帯びます。

この点は大なる場合も同様ですし、芸術作品でも同様でしょう。「芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わす」と西田は述べていますが、どこまでも形にできないものを形にできないままに形にしているということだと思います。「画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない」、とありますから画の精神は個々の事物と一つでありながら、それとはあくまで異なるのです。こうして語られた「思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んでいる」「我々が如何に縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立する」などと言われることになります。しかも芸術家の場合同様、この神秘的或者が我々の「思惟の力」となり、我々の思惟と言葉を導くのです。

ここでも大と小、しかもこれまでの叙述からすればプラトンやスピノザ哲学の背後に働いている直覚の大は極大ですが、そうした大と小が区別されつつ、「思想において天才の直覚と言うも、普通の思惟と言うもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新たにして深遠なる統一にすぎない」というように、大と小の区別が量的差異に還元されています。しかもすでに指摘しましたが、第2段落ではモーツァルトの例が持ち出されて、この違いは単に数量的でなく、性質的だとされています。つまり単に大小の量的差別では済まない、ということです。第2段落の記述と第5段落の記述には明らかに齟齬があるように思われるのです。

つまりここでも凡人の見ているものをどこまでも発展させれば偉大なる思想家の見ているものに行き着く、あるいは大思想家の見ている神秘的或者が凡人の見ているものにまで逆に拡大されて適用されている、というような印象があります。西田は「幾何学の公理の如きものすらこの(神秘的或者:引用者)の一種」と言っています。たとえば〈2点を直線でつなぐことができる〉などという公理は誰でも直観できるでしょう。このような直観が大思想家の直観とどのような仕方で直結していると言えるのでしょうか。

次回は第6段落についてお話しします。更新は13日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 5

第4段落

ここからは第4段落です。これまでの通説は知的直観と普通の知覚は違うということを主張していました。それに対する西田の反論は両者の違いは量的な差にすぎない、というものでした。いろいろ疑問はありますが、基本線はそういうことです。第4段落では知的直観についての通説が、普通の知覚との比較ということでなしに、もっと一般的に扱われています。この通説には三つあって、第一は知的直観が受動的だとする説、第二は主観的作用だとする説、第三は事実を離れた抽象的一般性の直覚だとする説です。

第一の通説は知的直観が普通の知覚同様受動的だとする説ですが、もともと普通の知覚ですらすでに申しました通り構成的です。我々は「モナリザ」を見て、「画」「女の人」という概念(理想)に基づいて、能動的に経験を構成しているのです。ですから知的直観が能動的であるというのは言うまでもないことですが、ここでの西田の反論の仕方が面白く、知的直観のあり方を具体的にイメージしやすいものにしています。西田は次のように言います。

真の知的直観とは純粋経験における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨の如きもの、一層深く言えば美術の精神の如きものがそれである。たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。この一物の会得が知的直観であって、しかもかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。

最初の文の「純粋経験における統一作用そのものである」は「生命」にかけて読んだ方がよいと思います。知的直観とは直観として何らかのものの「捕捉」であり、「会得」だからです。またそう読まないと「生命」も漠然としたものになってしまうからです。ここでは「純粋経験における統一作用そのもの」が「生命」であると理解するのが自然だと思われます。それで知的直観とは純粋経験を統一している働きそのもの、純粋経験を生き生きとさせている生命を捕捉していることになります。よく「骨を摑んだ」と言いますが、その時には何かが見えているんですね。それは技術の表面ではなくて技術の本質のようなもの、それが見えているのでしょう。次に「一層深く言えば」と、「極致」の話が出てまいります。「美術の精神の如きもの」。画家の例が出ていますね。興来り筆自ら動くような複雑なる作用の背後に働いている「統一的或者」、この「一物」を会得することが知的直観だと。天才的な彫刻家は大理石の中にすでに完成された像を何らかの仕方で直観しており、後はいらない部分を削って像を取り出すだけだ、などと言われます。第1段落ではこれが「理想的なるもの」の直覚と呼ばれていました。こうして知的直観は普通に経験といっているものの「根柢」ないし「背後」に「理想的なるもの」を見ており、これが経験を統一している、とこういうことになるのです。

しかもこれが高尚なる芸術の場合だけではない、我々の熟練した行動に普通に見られるというのです。「モナリザ」をすぐに「画だ」と見るのも熟練と言えば熟練です。こうなれば何でもかでも知的直観です。だから西田も「極めて普通の現象」だと言うのでしょう。テキストではそれに続いて次のように述べられます。

普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的現象であるとか言うであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。

「普通の心理学」と「純粋経験説の立場」が対比されていますね。少し補足をしておきましょう。「心理学」は意識現象を原因結果の関係から考察する「理論的研究」に属します。科学の立場です。『善の研究』第3篇「善」第4章「価値的研究」では心理学が「理論的研究」に属することがはっきりとは述べられていませんが、『倫理学草案第一』でははっきりと心理学は物理学や化学と並んで「説明的学問」に分類されています(第16巻156頁)。「説明的学問」は「理論的研究」と同義と見てよいと思います。『倫理学草案第二』でも生理学、社会学と並んで心理学も「説明的学問」の属するとされていると見てよいと思います(第16巻204-205頁、207-208頁)。ですから心理学は『善の研究』でも「理論的研究」に属していると見てよいでしょう。この「理論的研究」に対し、『善の研究』では意識現象を目的の観点から考察するのが「価値的研究」です。真偽、美醜、善悪をその目的に照らして価値判断する立場で、論理学、美学、倫理学がこれに属するとされています。

目的には統一力が必要ですが、西田にとってこの統一力とは自然と精神とに同一の統一力です。ところで純粋経験を唯一の実在として全てを説明するというのが、「純粋経験(説)の立場」でした。純粋経験を統一的方面から見たのが、主観ないし精神で、統一される方面から見たのが客観ないし自然です。ですから当然自然と精神は同一の統一力によって成り立っている、ということになるのです。難しいでしょうか。西田の挙げている例で少し説明しておきましょう。(第2編第9章第段落)

ここに石があるとします。普通はこの石が自然の力によって存在している、と考えます。しかしこの石を視覚触覚などの感覚の結合と見ることもできます。そうするとそれらを結合しているのは我々の意志の統一力ということになります。しかしこの両面、つまり物体現象と精神現象はもともと純粋経験の事実という同一実在の両方面にすぎません。だとすれば統一力も同一だということになるのです。

こうして物体現象と精神現象は同一実在の両方面ということになったのですが、それを原因結果の観点から考察するのが「理論的研究」、目的すなわち統一力の観点から考察するのが「価値的研究」ということになります。西田のよく使う例で言えば(第3編第3章第5段落等)、ここに一つの銅像があるとします。銅としては物理化学の法則、つまり原因結果の法則に従いますが、それが現わす「理想」、ヘルメスであれ、観音菩薩であれ、それがこの像を統一しています。二つの説明が相犯す筈はなく、このように原因結果と目的の両方面から説明することで、言い換えれば「理論的研究」と「価値的研究」が相俟って実在の完全なる説明ができるというのが、『善の研究』における「純粋経験の立場」です(第3編第4章末、第2編第8章第4段落註の2)。そうして「心理学」はその内の「理論的研究」に属することになります。

ところで今述べたのは西田の考える哲学体系の中での「心理学」です。しかしテキストで問題になっているのは「普通の」心理学です。そのことで西田が念頭に置いているのはおそらく「現今科学の趨勢」に流された心理学のことでしょう。西田は次のように述べています。

現今科学の趨勢はできるだけ客観的ならんことを努めている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。(第2編第8章第2段落)

そうして我々は「普通に純機械的自然を真に客観的実在とな」している、と言うのです(第2編第8章第3段落註)。何度も言いましたが、意識現象を離れてそのような自然が実在するというのは独断です。ですからここで「普通の心理学」ということで西田が念頭に置いているのは独断的な科学的心理学ということになるでしょう。そうした科学的心理学は知的直観を単なる習慣に還元し、さらに生理学的に「有機的作用」に還元する、そういうことを言っているのでしょう。

それに対して西田は「純粋経験説の立場」を対置させます。その立場では酩酊して知らぬ間に家に帰っていたというのも、「実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすでもなく、我が物を動かすでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」ということになります。なんか大げさな気もしますが、そういうことになるのです。しかし本当にそれでいいのでしょうか。これも普通の知覚、ないし日常における没頭と、美術家、宗教家の直覚との関係を巡る問題ですね。

第二の通説は知的直観を主観的作用だとする説です。これについては簡単にそれが「主客を超越した状態」であるというように片づけられます。そうして「主客の対立はむしろこの統一によりて成立する」と言っていますが、統一が破れ、我に返った時に主客の対立が成立する、ということでしょう。ここでも「芸術の神来の如きものはみなこの境に達するのである」とあるように、芸術家の直観が念頭に置かれています。西田はこの「知的直観」の章では軸足を美術家、宗教家の直覚に置いたうえで、それを普通の知覚にまで拡大しているのではないか、そんな気もします。

第三の通説は知的直観が「事実を離れたる抽象的一般性の直覚」だとする説です。事実を離れて神や絶対者、イデアなどを直観するという立場が念頭に置かれているのかもしれません。西田は画の例を挙げて明快に説明しています。

画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。

『純粋経験に関する断章』にも同趣旨の記述がありますので紹介しておきます。

知的直覚は理想の直覚である。或人は理想のような形而上の者は直覚することができないというであろう。併し真に形而上実在である理想は抽象的概念とは異なって居る。理想は具体的事実を離れて孤立して居るのではない。具体的に事実の統一力である。吾人が音楽を聞いて種々なる音の変化の上一種統括的意義をかんずる、これが理想である。精細に考えて見れば通常の概念というのも此種の作用である。我々が概念を思い浮かべる時は単に語の聴覚心像を想起するか、さなくば具体的事実を想起して此の全体の上の統一を直覚するのである。要するに、知的直覚は知覚の発展したる者である。この発展は無限であって、遂に神の直覚に至ってとどまる。(旧岩波全集版第16巻324頁)

「理想」は具体的事実の「統一力」だということです。西田はこうした統一力を美術や音楽などの理想だけでなく「通常の概念」においても認めている点、知覚が無限に発展する点、そうして神の直覚に至ってその極致に達するという点、この三点に注意しておきたいと思います。『倫理学草案第一』にも「理想界」という項目が有ります。これも紹介しておきましょう。

右に云った様に世界の根本は精神であって、吾人が日常経験するこの感覚界の外に空間、時間の関係を離れ機 械的因果律の外に超然たる形而上的理想界なるものがある。この理想界なる者が凡ての哲学、美術、宗教、道徳の基礎となるのであって、感覚界と同じく客観的実在であるのみならず反って之より深き永久的実在である。例之此処に一つの塑像ありとせよ。之を作り居る材料は物体として機械的因果律によりて成立するものである。此の像は単なる土石にあらずして或る無形なる作家の理想を顕わし居るのである。而して此の理想は又見る人の精神を直覚的に動かす力を有するのである。此の塑像に於いては理想が本体であって此の材料は仮現であると見てよろしいのである。之と同じく此の自然界人類界に於いて其千変万化する中に於いて此等の現象が無意義なる変化ではなくて理想的意義を有することを読み得るのである。昔プラトーが唱道せし如く此の世は理想の仮現と見ることができる。此の理想的実在は数理の何處にても変わらざるが如く人情の古今に一貫せるが如く永久に新たなる実在である。理性を本体とせる吾人の意志は実にこの理想界の法則に従うのであって物体の如く機械的因果律に従うのでない。(同178-179頁)

この記述によって「理想」とはイデアでもあることが分かります。しかしこの「理想」は静的なものではなく、動的なものです。『善の研究』第3篇「善」第3章「意志の自由」にも「理想」が出てまいります。見ておきましょう。

意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例に過ぎない。すなわち理想がおのれ自身を実現する一過程にすぎない。(第3篇第3章第7段落)

この「理想」は「我々は普通に思惟によりて一般的なものを知り、経験によりて個体的なものを知ると思うておる。併し個体を離れて一般的なものがあるのではない、真に一般的なるものは個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発現せしむる力である、例えば植物の種子の如きものである(第1編第2章第8段落)」における「一般的なるもの」と同じものです。知的直観における「理想的なるもの」とは個体的実現の背後における潜勢力としての「一般的なるもの」のことです。この「一般的なるものが発展の極処に至ったところが個体(同)」なのです。「知的直観」のテキストではこの箇所を受けて次のように述べられています。

嘗て云った様に、真の一般と個性は相反するものではない、個性的限定によりて反って真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすが為である。

「一般的なるもの」が芸術家の一刀一筆によって次第に限定され個体としての作品に仕上がっていく様が目に浮かびます。逆に言えば芸術家はこの「一般的なるもの」を直観しつつ、これを作品にすべく一刀一筆を揮っているのでしょう。

この「一般的なるもの」はさらに「独立自全なる真実在の成立する方式」、すなわち「まず全体が含蓄的implicitに現われる、それよりその内容が分化発展する、しかしてこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つのものが自分自身にて発展完成するのである」(第2編第4章第2段落)における「全体」ないし「一つのもの」のことです。この「一つのもの」が「統一的或物」と呼ばれ、その会得が「知的直観」と呼ばれているのです。

さてこの段落における西田の通説に対する反論を通じて、第1段落で提示された知的直観の定義、すなわち「いわゆる理想的なるものの直覚」、「普通に経験以上と言っているものの直覚」の意味がさらに具体的に理解できたことになります。「普通に経験以上と言っているもの」が「理想的なるもの」に他ならず、それは「純粋経験における統一作用そのもの」であり、「一般的なるもの」だということになります。いまだ経験されておらず、具体的実現に至っていない理想、一般的なもの、経験を統一しているものを直覚する、ということです。いわば実現された全体を暗に(含蓄的に)直覚するということで、ある意味で実現された結果の方から見る、と言ってもいいでしょう。モーツァルトの例が分かりやすいと思います。

それともう一つ確認しておきたいのは、西田がこの段落で知的直観の例として挙げているのは何よりもまず、芸術家の直観であり、それを極めて普通の経験や知覚にまで拡大している、という点です。普通の経験や知覚からすれば、つまり向上面から考えるならば、その内に含まれる理想的要素を無限に発展させて最後に(もちろん才能があればの話ですが)美術家、宗教家の直覚という極致に至る、ということになり、向下面から考えるならば、美術家や宗教家の直覚がそのまま普通の知覚や経験に拡大されているというように見ることもできます。いずれにしても大変不可解であることに変わりはありません。

次回は第5段落についてお話しします。更新は11日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 4

第3段落

ここからは第3段落です。ここまでの本論の流れとしては、通説の第一、すなわち知的直観が「一種独特の神秘的能力」である、あるいは「空想」であるとする通説を批判して、知的直観が普通の知覚と同一種であって、両者の間にはっきりとした分界線を引くことはできない、真の直覚と空想の間にもはっきりとした分界線を引くことはできないということを示した、とこういうことになると思います。

これまでの議論は基本的に天才にせよ凡人にせよ、個人の中の直観に限られていました。その上で経験が進むと言えば時間が、他への効果と言えば空間が前提されていたと言えるでしょう。このように個人、時間、空間を前提とした議論ではどうしても相対的とならざるを得ません。どこまでが天才で、どこまでが凡人なのかははっきりしませんし、誰の言っていることが真の直覚で、誰の言っていることが空想なのかがはっきりしないのは当然と言えます。これに対し、あるいはこれまでの議論を受けてのことでしょうか、第3段落で扱われる第二の通説はもっとはっきりした基準を提示します。それは「知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」という説です。

例えば美しい音楽に心を奪われている状態を考えて見ましょう。そこでは時間が忘れ去られています。天地が音楽でいっぱいになっていますから空間も忘れ去られています。自分が聴いているということも忘れ去られています。ここで直観されているのは美そのものであって、ただの音ではありません。その意味で普通の知覚とは異なっています。そうしてこの美そのものこそがこの音楽において真にある(実在)と言えるものです。このような経験は今述べた「時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直観する点において普通の知覚とその類を異にする」「知的直観」の例に該当すると考えられます。

ところが実はこの音楽の例を西田は「純粋経験」の例として挙げています(第2編第3章第3段落)。「純粋経験」ということであれば、どのような経験も純粋経験の形をとり得る、ということになります。「一生懸命に断崖を攀ずる場合(第1編第1章第3段落)」のように、何かに没頭していればよい、我に返ってその経験について判断していなければよい、ということになります。これは極めて普通の知覚においても起こりえます。時間や空間を意識し、個人を意識するのは常にそうした経験から我に返った時です。そうであるならば我々が純粋経験の内にある時、それがどのような純粋経験であれ、それは同時に知的直観であることになります。普通の知覚でも知的直観でありうるのです。だから時間、空間、個人を超越しているという基準で知的直観が普通の知覚とは違う、とは言えないことになります。

テキストでの西田の反論は次のようになっています。反対論者は(1)知的直観が時間、空間、個人を超越している点において、また(2)実在の真相を直視する点において、普通の知覚と異なると主張していますので、西田の反論も二段構えになっています。まず第一の点について。

しかし前にも云った様に、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これ等の差別は反ってこれらを超越せる直覚によりて成立するものである。

「前にも云った様に」とあるのは、例えば第1編「純粋経験」第2章「思惟」第8~9段落のことを言っていると思われます。引用しておきます。

純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべき者である。時間空間という如きもののかかる内容に基づいてこれを統一するひとつの形式にすぎないのである。(第1編第2章第8段落)

経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのでなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。(第1編第2章第9段落)

難しいですね。少しずつ説明します。まず「純粋経験の立場より見れば」とか「純粋経験の立脚地より見れば」という表現が見られますが、それは「純粋経験を唯一の実在として凡てを説明する(序)」立場のことです。先程美しい音楽に心を奪われている状態を例に挙げて、純粋経験を具体的にイメージしていただきましたが、西田はこの純粋経験だけが真にあると言えるものであって、ここからすべてを説明しようとします。これは第2編「実在」第1章「考究の出立点」の内容となりますが、簡単に触れておきましょう。

西田は真にある(真の実在)と言えるものは「疑うにも疑いようのない直接の知識(第2編第1章第3段落)」であるとし、哲学はここから出立しなければならないと考えます。では「疑うにも疑いようのない直接の知識」とは何でしょうか。それが純粋経験です。音楽を夢中に聴いている時は聴いている自分も、聴かれている対象である音楽も意識されません。鳴っている音楽という「事実」ないし「意識現象」と、それを聴くという「知」とが一つになっています。「事実と認識の間に一毫の間隙もない。真に疑うに疑いようがない(同)」、西田はこのように言います。こうして西田は純粋経験を「考究の出立点」として、「純粋経験を唯一の実在として全てを説明」しようとするのです。これが「純粋経験の立場」ないし「純粋経験の立脚地」です。

一つだけ注意しておきたいことがあります。それは「純粋経験の立場」が「純粋経験」に立つ立場とイコールではない、「純粋経験の立脚地」が「純粋経験」そのものを立脚地にしているのではない、ということです。純粋経験の中にいる間は自分が純粋経験の中にいることすら気づかれません。ですから純粋経験に立っている限り、それについて何も語ることはできません。純粋経験について何かを語ろうとすれば、純粋経験の外に出てこれを対象化しなければなりません。また西田は純粋経験が自得すべきものであって、言語に言い表すべきものではないことを繰返し注意しますが、西田の立場は純粋経験が言語に言い表せないものである、という所に止まる立場でもありません。西田は「純粋経験はある」とはっきりと主張し、そこから我々のすべての差別的知識の成立を説明しようとします。これが「純粋経験を唯一の実在として全てを説明する」立場であり、「純粋経験の立場」です。それは対象化できないものを対象化し、言葉にならないものを言葉にしていくといったいわば矛盾した立場であり、この矛盾は人間存在に根差した矛盾と言えるでしょう。

本論に戻ります。知的直観が普通の知覚と異なることを主張する者は第一に知的直観が時間、空間、個人を超越していることを根拠に持ち出しますが、西田は通常の純粋経験がすでに時間、空間、個人を超えていることを純粋経験の立場から反論します。そうして時間空間は経験内容を比較しつつ統一する形式にすぎず、経験がこのような時間、空間、個人を知っているが故に経験は時間、空間、個人以上であると言います。普通の知覚ですら経験内容を統一的に直覚する際に、時間、空間、個人という形式を直覚していると言うのです。

これも我々の常識と大きく異なっていますので説明が必要でしょう。まず時間と空間について。我々は時間というものがまずあって、その上に様々な出来事が起こる、あるいは空間というものがまずあって、その中に様々な物が存在している、とこう考えるわけですが、それは時間や空間というものを独断的に設定している、と西田は批判するのです。そうして純粋経験の立場に帰って考えなさい、ということになるのです。「純粋経験の立場」とは「経験がある」ということは疑いたくても疑えないだろう、そこから出発すればいいんだよ、そうした立場です。そうした立場からすれば経験に先立って何かが存在するというのは独断ということになるのです。何しろ我々は決して経験(意識)の外に出られないのですから。時間、空間もそうです。経験に先立って時間や空間が実在としてあるというのは独断だということになります。純粋経験の立場からすれば、時間や空間は経験の内容を整頓する形式にすぎない、ということになります。私はよくあるのですが、お酒を飲みすぎると前後不覚になりますね。よろよろする。しっかりと前後や左右を確認しないと危ない。素面の時はこの作業を無意識のうちにちゃんとやっているのです。経験をしっかりと整頓しているのです。また酩酊すると時間的な前後も怪しくなります。このように考えると時間や空間は我々の経験の内容を整頓する形式であることが分かります。時間について西田は次のように述べています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考えの起るには意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。しからざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用によって成立するのである。(第2編第6章第3段落)

時間が成り立つためにはまず経験の内容の統一ということがなくてはならない、ということです。この統一の形式、仕方の一つが時間というわけです。空間も同様です。

次に個人について。これも我々の常識とは大きく異なっています。我々の常識では意識というのは身体の内に、もっと言えば脳の中にあると思っています。そうしてその意識を所有しているのは心だと思っています。ところが西田は純粋経験の立場から、こうした常識を覆します。意識が脳の中にあるというのは、意識を離れて物(この場合は脳)が存在することを認める立場です。我々は決して意識の外に出ることはできませんから、意識を離れた物を仮定するのは独断だということになります。心も同様です。物や心が意識から独立に存在しているというのはそう考えた方が整合的だ、辻褄が合うというにすぎません。ですから物(身体)にせよ心にせよ、そのようなものが個人としてまずあって、その個人が経験する、と考えることは、それがどれほど常識的に見えようとも、哲学的には独断だということになります。少なくとも西田はそう考えます。それで西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と言うのです。実際純粋経験において個人は意識されません。個人は純粋経験から我に返った時に意識されます。もっともこの個人性の概念は『善の研究』では両義的で、一方で先の引用にも見られたように、「特殊なる一小範囲」とされながら、他方で「完全なる真理は個人的(第1編第3章第6段落)」とされていて、これも容易ならない概念であることが分かります。我々は特殊な個人的な意識であることをどこまでもやめることはできないにもかかわらず、そうした個人性が最終的には一般的なもの、つまり神の発展の一部となる(第4篇第4章第4段落)のみならず、そうした一般的なるものの発展の極致と考えられてもいる(第1編第2章第8段落)のです。この点は措いておくとして、以上の説明で経験が時間、空間、個人を超えたものであることはご理解いただけたと思います。

さて、反対論者の第二の論点は、知的直観が実在の真相を直視している点で普通の知覚と異なる、というものでした。これに対する西田の反論は以下の通りです。

また実在を直視するというも、すべて純粋経験の状態に於いては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、一人知的直観の場合に限ったわけではない。

そうしてシェリングの同一性やショーペンハウエルの純粋統覚の例を持ち出して、「天真爛漫なる嬰児の直覚は全てこの種に属するのである」とまで言います。

美術家が直覚しているのは美という理想です。普通の知覚が直覚しているのはそのつどの概念(画、女の人等)です。しかし言葉を知らぬ嬰児が見ているものはおそらくそのつどの概念ではありません。西田はこれ等のいずれをも純粋経験であるとし、どれも実在と直面していると考えます。たしかにこれ等のいずれも我に返った時に、自分が見たものを「本当にある」と言うでしょうから、当人にとっては実在ということになるのでしょうが、この三者の実在を同等に扱っていいのか、疑問が残ります。しかしこの点も残しておきましょう。

こうして嬰児の直覚も普通の知覚も美術家の直覚も同様に実在と面々相対している知的直観ということになるのですが、西田はやはりこれらの間に量的差異を設けようとして次のように言います。

それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層大きくしたものにすぎない、すなわち意識体系の発展上における大なる統一の発現を言うのである。

それに先程「極致」とされた知的直観の記述が続きます。

学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのもすべてかかる統一の発現に基づくのである[故にすべて神秘的直覚に基づくのである]。

嬰児の直覚から始まり、普通の知覚を経て、理想的要素が次第に量的に豊富深遠となり、ついに学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚に至ってその頂点に達する、そんなイメージです。そうして次の文章を以てこの段落が締めくくられます。

我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、しかしてこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。

ここに至って第2段落を考察した際の疑問は一層明確な形をとることになります。第一に理想的なる精神が無限なる統一を求めるのならば、これで終わりということはないはずです。どこまでも豊富深遠となるはずです。だのになぜ「この統一はいわゆる知的直観の形において与えられた」と言えるのでしょうか。美術にせよ、学問にせよ、これで終わりということはありません。絶えずより大なる統一を求めます。これで頂点に達した、などというのはそれこそ妄想ではないか、そのように考えられます。以上が第一の疑問です。

引用文中の「知的直観」は脈絡から言って美術家などの極致の知的直観でしょう。最後の一文「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である」の言わんとしていることは何でしょうか。「最も統一せる状態である」というようなことはここでとくに言う必要はありません。だとすればここでの主眼は神秘的な知的直観と知覚が同じだ、ということです。先程の言葉で言えば、どちらも「実在と面々相対している」ということが言いたいのだと思われます。そうだとすれば嬰児の直覚と普通の知覚と神秘的直覚は理想的要素の豊富さ、深遠さに関して量的に異なるとされながら、どれもが実在の直覚だということになります。ところで西田には意識統一の頂点が同時に意識本来の状態でもあるとする考えがあります(第4編第1章第4段落)。もともといたところに帰りたいと思う、と言うようなことです。これによりますと嬰児の直覚と美術家の直覚は同一ということになります。これ自体がとても不可解なことですが、仮にそうだとしますと極致でもあり本来でもある直覚と、普通の知覚における直覚の関係が問題になります。両者が区別されながらどちらも実在の直覚だというのは一体どういうことなのでしょうか。これが第二の疑問です。両者の区別をなくしてしまうならば、美術家や宗教家の直覚も、凡人がゲームに夢中になったり、孫の運動会の応援に我を忘れたりすることも、それどころか夢中で人殺しをするのも皆同じことになってしまいかねません。本当にそうなのでしょうか。知的直観と知覚との関係、言い換えるなら美術家や宗教家の直覚と我々の日常生活での没頭との関係はどのように考えたらよいのでしょうか。これが第二の疑問です。

もう一つ気になることがあります。ここでは学者、道徳家、美術家、宗教家の直覚が同列に扱われているのに、この章の終りには「学問道徳の本には宗教がなければならぬ」とされていることです。ここには明白な齟齬があるように見えますが、これをどのように考えたらよいのでしょうか。これが第三の疑問です。謎は深まるばかりです。

次回は第4段落についてお話しします。更新は9日を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 3

第2段落

ここから第2段落です。第1段落のように「知的直観」は美術家、宗教家、天才、名人のものだということならば、それは我々凡人には関係のない話だということになります。しかしある人が「私は神を見た」などと言えば、それは「空想」ではないか、と疑いたくなります。そうなると天才などの知的直観と空想とはどう違うのかが気になり始めます。そこで西田は第2段落で次のように語り始めます。

知的直観ということは或る人には一種独特の神秘的能力のように思われ、また或る人にはまったく経験的事実以外の空想のように思われている。

西田はこれを通説として扱い、これに反論します。そうして第2段落では第1段落で受けた印象とは反対に、知的直観と「普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる」、とこのようなことを言い始めるのです。「空想」と「真に実在の直覚」との区別も同様で、はっきりした分界線はどうやらなさそうです。

まず知的直観と普通の知覚が同一種とはどういうことでしょうか。最初の例に戻って考えて見ましょう。先程は「モナリザ」を見て、画だ、女の人が描かれている、というのは「普通の知覚」だということになっていました。しかしそれは決して「現在のままを見ているのでは」ありません。「現在のまま」ということであれば絵具が塗り重ねられているだけです。しかし皆さんはそこに「画」を見、さらに「女の人」を見た。どうしてでしょう。「画」や「女の人」という概念を知っていたからです。目の前の絵具の塗り重ねられたもの(厳密に言えばそれすらもすでに概念ですが)を見て、自分が知っている「画」や「女の人」という概念を過去の記憶から大急ぎで呼び起こし、それをもとに現在の知覚を纏め上げているのです。その意味では「普通の知覚」も「経験以上のもの」つまり「理想」(この場合は「画」や「女の人」)を見ていることになります。それで西田は次のように言うのです。

普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ているものは現在のままを見ているのでない、過去の経験の力によりて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた聯想というようなものではなく、知覚そのものを構成する要素となっている、知覚そのものがこれによりて変化せられるのである。

「現在見ているもの」は単に「画」や「女の人」だと言っている段階から、「美しい」と感動を覚えるにまで至る、深まりの可能性を秘めていると言えます。もちろんそうならない人もいます。その場合は才能がない、とこういうことになります。それで西田は次のように言います。

この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩によりて異なってくるのである。始めは経験のできなかったことまたは弁証的にようやくに知りえたことも、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる、この範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬということはない。

「弁証的にようやく知りえたこと」が「経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる」とは、先に挙げた名人の例を思い起こすとよいかもしれません。西田は「音楽家が熟練した曲を奏する」例を「純粋経験」の例として挙げていますが(第1編第1章第3段落)、これを「知的直観」の例として挙げることもできます。熟練とはまさに一つひとつ意識して練習した結果ですが、この一つひとつというのが「弁証的」ということです。

こうして普通の知覚も知的直観であることになりましたが、「この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる」というのがここでのもう一つのポイントです。「根柢」とは「統一力」のことを指しますが、そのことは後で述べたいと思います。どこまでも豊富、深遠となったその先に美術家、宗教家、天才、名人の直覚があるのです。見ているものが違う、とこういうことになるわけです。そこで西田はモーツァルトや宗教家の例を出します。

モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、例えば我々の愛によりて彼我合一の直覚を得ることができる、宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。

ここには我々を少し訝しく思わせる表現が二つあります。一つは「単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となる」という表現です。先程普通の知覚と超凡的な知的直観の間にはっきりとした分界線を引くことはできない、と述べられていました。そうであれば両者の違いは量的でなければなりません。事実後の第5段落の記述には次のように明記されています。

思想において天才の直覚というも、普通の思想というもただ量において異なるので、質において異なるのでない。

これは明らかに齟齬をきたしているとしか言いようがありません。どう考えたらよいのでしょうか。

もう一つもこれに係るのですが、先程は「この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる」と言っていたのに、「極致」を認めているという点です。「どこまでも」というのはこれで終わりということ、つまり「極致」がないということでなければなりません。ここにも明白は齟齬があるように思われます。しかしこの問いも残しておきましょう。

第2段落も終わりに差し掛かるところでようやく西田は天才などの直覚と空想の違いについて次のように述べます。

或る人の超凡的直覚が単に空想であるか、はた真に実在の直覚であるかは他との関係すなわちその効果如何によって定まってくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもっている、ただその統一の範囲において大小の別あるのみである。

「真の直覚」と「空想」を分ける基準は二つ挙がっています。一つは「他との関係すなわち効果」ということであり、もう一つは「統一の範囲における大小の別」です。まず「他との関係すなわち効果」とはどういうことでしょうか。名人芸であれば結果を出すということが考えられます。将棋や囲碁では勝つということです。しかし名人とか達人とは勝ち続ける者のことを言うのでしょうか。美術家や宗教家の場合はどうでしょう。多くの人に感動を与え、多くの信者を得るということでしょうか。それとも歴史に名を残すということでしょうか。いずれにしても量的な差別しかなく両者を決定的に分ける基準とはなりえません。

もう一つの基準はどうでしょうか。「真の直覚」と「空想」を分ける基準というのですから、ここで問題になっているのは「真理」です。西田の真理観については他の箇所で述べられていますので参照してみましょう。

我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、すなわち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。(第1編第2章第5段落)

真理とは我々の経験的事実を統一したものである、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。(第1編第3章第4段落)

「真の直覚」と「空想」を分ける「統一の範囲における大小の別」もこの真理観に従っていることが分かります。しかし何を以て「最大最深」「最も有力」とするのでしょうか。それはそのつど乗り越えられていくものでしょう。これで「最大最深」だ、とは言えないはずです。「真の直覚」も同様です。これこそが「真の直覚」だと何を根拠に言えるのでしょうか。このことは真と偽同様、真の直覚と空想も常に相対的なものであり、両者の間には絶対的な区別はなく、量的な区別しかない、ということになりそうです。このことは真がつねに偽を抱え込むのと同様に「真の直覚」も常に「空想」を抱え込むということを意味します。

これまでのところで示されているのは、第一に美術家、宗教家の直覚と普通の知覚は量的にのみ異なるとされながら、他方で質的に異なるとされていること、第二に普通の知覚における理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができるとされながら、他方でその極致があるとされ、それが美術家、宗教家の直覚だとされていること、第三に真の直覚と空想との区別も、一方であるとされながら、他方でそれが量的な区別にすぎないこと、以上三点で、これがすべてだと思われますが、いずれも不可解というほかありません。どのように統一的に考えたらよいでしょうか。

次回は第3段落についてお話しします。更新は17日のプレ読書会までの奇数日(全7回)を予定しています。

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市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 2

「知的直観」の章を読む(第1編第4章)

これから9月24日開催の「西田幾多郎に出会う」の「読む時間」と「考える時間」に向けて皆さんと一緒に「知的直観」の章を読んでいきたいと思います。「知的直観」の章は『善の研究』の中で最も短い章です。文庫本にして7頁くらいです。今回この章を取り上げた理由の一つにこの短さがあるのは確かです。何しろ1時間30分で「読む時間」を終えなければならないのですから。

しかしこの章を取り上げたのはそれだけではありません。「知的直観」の章は『善の研究』の中心部、心臓部を成していると言えるのです。そのことはまず『善の研究』の構成の上から言えると思います。『善の研究』は第1編「純粋経験」、第2編「実在」、第3編「善」、第4篇「宗教」の四篇から成っています。第1編が経験、第2編が思惟、第3編が意志、第4編が直観(直覚)を扱っていると考えられますが、第1編自体がさらに四章に分かれていて、第1章「純粋経験」、第2章「思惟」、第3章「意志」、第4章「知的直観」となっています。こうして見ますと第1編はちょうど種子のように全編を自らの内に含んでいることが分かります。その最終章が「知的直観」ですから、この章が『善の研究』の心臓部に位置していることは何となく予想がつきます。

思想面から言ってもこの章はある意味で中心部を成しています。『善の研究』は円環を成した体系です。第1編「純粋経験」から出て、第2編「実在」、第3編「善」という哲学の両部門を経て、第4編「宗教」に至り、最初の純粋経験に帰っていく。あるいは第1編の内部で申しますなら、第1章「純粋経験」から始まり、第2章「思惟」、第3章「意志」を経て、第4章「知的直観」に至り、最初の「純粋経験」に帰っていく。このような円環を成していると考えられるのですが、この円環行程を導いているのが知的直観に他なりません。

最初の「純粋経験」とは色を見、音を聞く刹那、これが色であるとか音であるという判断が起らない有り方を言っています。とはいえ気を失っているのでも眠っているのでもありませんから、何かを見ているはずです。何かを見ているというのは何かを統一的に見ているということです。この「何かを統一しているもの」を見る、それが知的直観の働きです。純粋経験を統一しているものを見る働き、これが知的直観です。これがないとそもそも純粋経験自体が成り立ちません。

この知的直観がさらに思惟と意志の根柢に働いてそれらを導いています。何か言いたいことがある、何かしたいことがある、これに導かれて私たちは物を考えたり、行為したりしますが、この「何か」を見るのが知的直観です。

しかもこの知的直観は宗教家や美術家の直観のような極致に至った直観と、普通の知覚、思惟、意志における直観の「間」にも立っています。知的直観は先程申しましたように純粋経験を統一しているものを見ています。それが普通の知覚、思惟、意志ではそのつどのそれらの対象であるのに対し、極致の直観では根源的な意志の統一力そのものが直観されているのです。凡人はありきたりの仕方で物を見、考え、行為することしかできませんが、天才や偉人は同じ物でも違ったように見、考え、行為するということです。

このように「知的直観」の章は構成面からも思想面からも『善の研究』の中心部を成しており、ある意味で『善の研究』の全体を凝縮したような叙述になっています。その点では『善の研究』の他の箇所か絶えず顧みられなければならないのですが、その点についてはこちらの方でお手伝いしたいと思います。また同時期に書かれた『心理学講義』や『倫理学草案第一』『倫理学草案第二』『純粋経験に関する断章』も必要に応じて参照したいと思います。

「知的直観」はこのような章ですので哲学的にも西田哲学の核心に係る問いを避けて通ることができません。9月24日の会では皆さんと共に議論を深めていくことができればと思って居ります。

この章全体の構成を述べておきましょう。第1段落では西田の「知的直観」の定義が述べられます。第2段落から第4段落までは「知的直観」に関する通説とそれに対する西田の反論が述べられます。そうして第5段落では思惟の根柢における知的直観が、第6段落では意志の根柢における知的直観が、第7段落では知識(思惟)および意志の根柢における知的直観としての宗教的覚悟が述べられます。順に見て行きましょう。

第1段落

第1段落では「知的直観」が「理想的なる」ものの「直覚」であると定義づけられます。西田はこの「理想的なるもの」を「普通に経験以上といっているもの」と言い換えています。具体的な例で考えて見ましょう。たとえば私がここに実物の「モナリザ」を皆さんにお見せする、しかも皆さんはこれを生れて初めて見る、とこういうことにいたしましょう。さて皆さんはこれをどう見るでしょうか。まず、画だ、そうして女の人が描かれている、ということになるでしょう。これと言って特に美しいとも思わない。これが「普通に経験」と言っているものです。ところがたまにその美しさが分かる人がいる。この人たちは「普通に経験以上と言っているもの」、この場合には美ですが、そうしたものを見ていることになります。これを西田は「理想的なるものの直覚」と言っているのです。それで西田は「たとえば美術家や宗教家の直覚の如きものを言うのである」と言っているのです。同じものを見ているようでもそうではない、美術家や宗教家は違うものを見ているというわけです。

西田は知的直観をさらに「弁証的に知るべきものを直覚するのである」とも言い換えています。「弁証的」とは同じころに書かれた『純粋経験に関する断章』の断片7を見ますとdiscursiveの訳語であることが判明します。Discursiveはintuitive(直観的)の対義語ですが、西田はそこでdiscursiveという語をほぼ「分析的」「推論的」という意味で用いています(旧岩波版全集第16巻322-323頁)。幾何学の証明問題などでひらめくということがありませんか。「あ、そうか、分かった」というような瞬間です。しかしそれを証明しようとすると長い説明を要することになります。この一歩一歩の説明が「弁証的」と呼ばれるものです。しかしひらめいた瞬間はそのように「弁証的に知るべきもの」が一挙に「直覚」されているのです。同じようなことが様々な方面における名人芸に見られると思います。将棋や囲碁がよい例でしょう。西田も知的直観を「技術の骨の如きもの(第4段落)」とも言っていますので名人芸を例に挙げることは強ち不当なことではないでしょう。それで西田はこうした宗教家や美術家、天才や名人のことを主として念頭に置きながら次のようにこの段落を締めくくります。

直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においてははるかにこれより豊富深遠なるものである。

次回は第2段落についてお話しします。更新は9月5日(月曜日)から17日のプレ読書会までの奇数日(全7回)を予定しています。

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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