読書会だより

真にあるものは個物か、普遍か

お久しぶりです。夏休みも終わり読書会が再開されました。今回は哲学的問に先立って、この「読書会だより」の愛読者より、以前(4月6日)の「より良い自分と本当の自分」の記事をご覧になった感想をいただきました。とても面白いのでご紹介させていただきます。

T

(読者)
少し前の話題になりますが。「自己」と「自我」の違いについての個人的体験を、恐縮ながら述べさせていただいてよろしいでしょうか。それは、ユング心理学に影響されて「夢日記」をつけていた時期を通じて、何となく体感されるようになりました。表面的な自我が、日頃にああしたいこうしたいと思っていることと、夢全体が指し示す自己の方向性には、常にズレがあることがだんだんわかってきたのです。そして、体性感覚を研ぎ澄ますことによって自分の身体の重心を感知する術があるのと同様に、内的感覚(とでもいうようなもの)を研ぎ澄ますことによって自分という雑多な要素の集合体の重心を感知する術があるのでは、そして自己とはそのような重心のことを言っているのでは、と考えるようになりました。そうすると自我は自己の周辺にあって「空回り」するだけの存在かというと、そうでもないようにもかんじています。自我の浅薄な「ああしたいこうしたい」も、自己がその目的を達成するための布石となっているように見えることもあります。そのような視点を得てからは、かえって「自分らしさ」を意識するようなことはなくなりました。
「自己」と「自我」を体験を通して考えていること、それと「自分らしさ」を意識しなくなる過程がとても面白いと感じました。皆さんはどのようにお感じなりましたか。Tさん、貴重なコメントありがとうございました。それでは本日の哲学的問です。本日は「真にあるものは個物であるか、普遍であるか」でした。
佐野
プラトンとアリストテレスを念頭に置いた問ですね。今ちょうど話題になっていますから。

A

真にあるものは個物です。真にあるもの、普遍、全体というようなものを頭でイメージできるところが怪しい。何故そのようなものが立てられるのか。指し示した段階でそれは普遍ではないと思います。
佐野
普遍をどのようにお考えですか。

A

それは分かりません。
佐野
イデアのようなものですか?

A

三角形は分かりやすいですね。それは約束、定義のようなものです。
佐野
大のイデアはどうでしょうか。約束や定義とは違いますね。

A

ですがすべてのものについてイデアがあるとは・・・
佐野
それでは何故個物が真にあるものといえるのですか。

A

受け止めている範囲があり、何かを指し示しているからです。これは普遍ではない。全体は足し算にすぎないと思います。何を言ってもその外というものがあるからです。ですから普遍はありません。
佐野
Bさん。何か言いたそうですね。

B

発言してもいいですか。真にあるものは普遍です。プロチノスの一者です。それ以外はみな偽物です。ですが、一者から流出したものも、その限りで本物です。これが宇宙の真実です。

C

私は個物のみが実在だと思います。自分、現在という一点において接しているものだからです。「この赤い花」こそが実在で、赤い花一般は実在ではありません。
佐野
でも、私が赤いチューリップをもっていて・・・

C

先生はいつもチューリップですね。
佐野
Cさんは何がいいですか。

C

薔薇です。
佐野
ではCさんが薔薇をもっていて、それぞれに「この赤い花」といっている。「この」とか「個物」というのも普遍ということになりませんか。つまり言葉にした時点ですべては普遍ではないでしょうか。

A

私は言葉に過度の期待はしていません。言葉にするとすべて普遍になるというのは言葉の影の部分にすぎません。場面から切り離すともちろん普遍になり、そこに文芸などの面白さがあるわけですが、言葉は状況の中にあると思います。
佐野
そうした状況を私たちは共有できると?Dさん、何か言いたそうですね。どうぞ。

D

文脈を離れて言葉は意味をなさない、というのは分かります。しかし文脈100パーセントととなるとどうでしょう。例えば岩と砂の辞書的な意味はあるわけですから。

A

バカや利口にも辞書的な意味はありますが、「おまえはバカだ」「おまえは利口だ」の意味は文脈による以外にないと思います。

D

ですが、辞書的な意味のような何かがなければ文脈は成立しません。

A

言葉を取り出せば、それは別の文脈の中に置かれることになります。つまり、私が言いたいのは犬がワンという方が真理を見ているのではないかということです。声に出して言葉にする本の方に言葉の本質があるということです。
佐野
言葉にならないところと言葉にしたところという問題になってきましたね。テキストもその問題を扱っているようですので、この辺りでテキストに入りましょう。
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読書会だより

「在りて在るもの」とは何か

今回の「哲学的問い」は「『神はあってあるもの』という言葉を聞いたことがある。これは哲学の問いなのか。この『ある』は以前の哲学的問の『ある』ということなのか」でした。
佐野
以前の哲学的問の『ある』ということをどのように理解されていますか。

A

(出題者)
以前は神を信じている人には神はあり、そうでない人には神はないと思っていましたが、神があるということはそんなに簡単ではないと思ったのです。
佐野
この「神はあってあるもの」というのはモーセの出エジプト記に出てくる表現ですね。「ありてあるもの」とも訳されています。どう考えましょうかね。Bさん。西田ではどうですか。

B

実在の根柢にして自己の根柢です。呼び声なんですが、通常は聞いても分からないものです。むしろ我々は神を失ったところで真の神を見ると言えると思います。対象化偶像化はできないもので、出会うことによって私たちに感動を与えるものです。主観を破ったところで出会うものだと思います。その意味では体験の事柄です。海の中に飛び込むと最初は真っ暗で気持ちが悪い。そんな中で考える自己がなくなっていく、そんな感じです。
佐野
「ある」ということは「体験」に根拠を持つものだと。

C

体験より先に神と合一しているのだと思います。生かされて生きているというのは「事実」だと思います。そのことは「体験」によらずにあることだと思います。

D

でも信仰があっての神ではないですか。
佐野
その信仰が自分から起こした信仰と言い切れるでしょうか。神からいただいたものという考え方もあると思います。

D

そうなると、信仰するしないの選択も神によってなされることになってしまう。そこにはやはり人間の決断というものが不可欠だと思います。

C

そうではなく、意識しないほうが神に近いのだと思います。意識にはかかわらないことです。
佐野
そうだとしてもそのことは気づきがなければ分かりませんね。しかし自らの体験を根拠にできないものとして体験されている、そういうことも言えるのではないでしょうか。大きな問題です。今日はこのくらいにしておきましょう。
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読書会だより

哲学体系を用いて思想を語る不自由

今回の「哲学的問い」は「西田が西欧の哲学体系を用いて己の思想を語るとき、語りえないことや不自由さに直面しなかったのだろうか」でした。
佐野
西田への質問ですか。もう少し説明してください。

A

(出題者)
エイドス、ヒューレーなどこれまでになかった新しい概念に出会ってこれをストンと分かることなどあるのだろうか。しかも西田はそれらを自由に使いこなし、自分流に理解してそれで自分の思想を展開している。文学ではとてもあり得ないことだ。やはり西田は天才ではないだろうか、そういう質問です。
佐野
それでは、西田が西洋の思想に直面して不自由を感じなかったか、その辺から議論を始めましょう。

B

不自由に直面していたと思います。だからこそ今読んでいる「内部知覚について」でもアリストテレス解釈で苦労しているんだと思います。西田哲学の根本は禅だという人に対して西田は強い口調で否定したそうです。西田は自分の思想に禅でもない、西洋でもない独自のものを見ていたんだと思います。
佐野
ならば批判してしかるべきでしょう。ところが西田はアリストテレス批判を行ってはいませんね。むしろアリストテレスの土俵の中に入って行って、それを自分の土俵の中に取り込んでしまうような、そんな感じです。

A

(出題者)
夏目漱石はoccupyという語に接し、それを深く考え込んでしまった。所有についての日本人の甘い考えを思い知らされたんです。異質なものに接するとそういう問題にぶつかるはずですが、西田にはそれが感じられない。
佐野
確かにそれは言えますね。西田はたとえばアリストテレスの思想の中に自分が考えるべきものを見ていたのではないでしょうか。自分が考えるべきもの、それが何であるか、西田自身にも分からない。アリストテレスの思想が何であるか、それも分からない。ですがそこに何かが見えていた。

C

ミュージシャンが新しい曲を作るとき、ディレクターならば何々みたいな曲、と言ってしまうところを、そういうものにとらわれずにストレートに反応するんですね。それに近いものを感じます。
佐野
それでは、今日はあまり時間もありませんから、さっそくその西田が見ていたものを考えることにしましょう。
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読書会だより

哲学における独自性とは何か

今回の「哲学的問い」は「西田幾多郎の哲学は『日本独自の哲学を打ち立てようとした』というような日本の特殊性を強調した文脈において語られることがある。哲学が普遍性を志向する(真実か、真実でないかを考える)学問であるとするならば、日本の特殊性をこの普遍性との関係でどのように考えればよいか」でした。

A

(出題者)
西田哲学は日本独自の哲学とキャッチコピーのように言われますが、西洋との交わりの中で成立したと思います。日本の独自性を強調すれば普遍性は飛んで行ってしまいます。しかし西田は普遍性を追求した、この辺りを考えたいと思います。

B

日本的西洋的というのは思考プロセスの方法が違うだけで、たどり着くところは同じです。西田は方法を西洋に合わせてやってあげている、付き合ってやっているだけです。西洋文明の言葉で東洋を語ったと言えると思います。

C

パラダイムという考えがありますね。パラダイムの中にあるものが普遍です。その外は特殊。

B

パラダイムは転換するだけすね。

D

そもそも哲学が普遍性を志向すると言えるのか。数学でいう特殊解というのがあるが、哲学はこうした解を求めていくものではないか。

A

(出題者)
ですが哲学には真実を求めるということがあると思います。本当かどうかということです。ソクラテスもそれで吟味を行った。西田哲学は普遍性を求めているのか、或いは西田哲学に普遍性があるのか、それを考えたいのです。
佐野
普遍性とは何ですか。

A

(出題者)
同じように考えうるということです。

B

東洋と西洋を統合できたのは西田の哲学が独自だったからです。
佐野
東洋と西洋というものが始めからあったわけではないですね。出会いを通じてそれぞれが自らをそのように意識する。それと同時にそこに新たな普遍性というのが生じている。その中に西田は新たな普遍性を発見したのだと言えるのでは。

B

サイードのことを念頭に置いているのですか。
佐野
いえ。西田自身のことを念頭に置いていました。西田は西洋との出会いを通じて、和魂洋才というような折衷ではなく、日本の思想は普遍性を持たなければならないと思っていました。

B

その普遍性のカギは、西洋でいえば倫理、東洋でいえば道、つまり人間の生き方だと思います。宇宙と生き方の問題に帰ってくると思います。

E

西田も『善の研究』で「人生の問題が中心であり、終結である」と言っていました。
この後も議論は続きましたが、この辺で今回の読書会だよりの中継を終えたいと思います。どうも司会者の不手際で議論をなかなか深めることができません。
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読書会だより

内在的超越はいかに可能なのか

今回の「哲学的問い」は「反省が破られて、客観・神と一体になった後、意識的構造としての人間は反省・主観的な状態に必ず戻る。人生は無意味の繰り返し・永劫回帰ではないか。その場合、内在的超越はいかに可能なのか」でした。

A

禅宗では見性、キリスト教では帰依だね。それを得ても何も変わらない。それが絶望にならない。絶望するのは悟っていないから。あるものをあるがままに捉えればよい。

B

(出題者)
人間には分別がありますよね。どのようにして「あるものをあるがまま受け入れる」ことができるのですか。

A

「あるがまま」に接すればいい。「どうしよう」は煩悩です。私は真宗門徒ですが、死んだら悟れると言われている。生きている間は悟れない。悩んでいること自体が見性ではないんですよ。

C

この赤が赤であるということが「悟り」ではないですか。直観の内にあるということが。
佐野
「この赤が赤である」というのは判断では?直観の内にある、直観の内にある、悟ったというのも判断では?

D

出題者の問題意識はとても価値があると思います。これは求道心です。必ず戻るんですが、螺旋を描いて同じところには戻りません。そうしてブレが大きいほど大きく進みます。大きな悪ほど大きな善に触れる機縁となります。
佐野
しかしそれは絶えず小を抱え、悪を抱え続けることを意味しませんか。

B

(出題者)
それが無意味の繰り返しのように思えるんです。

A

どのように受け入れるかの問題です。真宗のほうでは自然(じねん)といいます。

C

宮沢賢治は「詩人は苦痛をも享受する」「永遠の未完成これ完成である」と言っています。これは見性できないということだと思います。

D

プロセス意志、というかベクトルというか、途上にあるんだけれども、その方向性が大切だと思います。これも求道心の問題ですね。

E

神と一体になることがいいことのように言われていますが、大したものじゃないのでは。一体を目指さなくてもよいのはないか。

B

(出題者)
神じゃなくてもいいんです。自然といったほうが良ければ自然でもいいです。究極的に安心できるというか、意味を求める必要もないところです。
佐野
それなら犬のほうが幸福かもしれませんね。悩むことを人間はやめることができませんから。どうですか?若い人に聞いてみましょうか。人間をやめたいと思いますか?

F

すべてのしがらみを捨てて山に帰りたいと思うことはあります。

G

神と一体になって完成するというのだけれど、そのことをだれが直観するのですか?

D

もちろん自分です。

B

(出題者)
それは判断の言葉になることによって崩れます。そこに永劫回帰があると思うんです。
佐野
これで終わりにしたいですが、最後にちょっと。永劫回帰は無意味な繰り返しですから、人間はこれを直視できません。逃げるようにして何かに飛びつく。それがまた永劫回帰に取り込まれて行きます。どうにもなりませんし、人間はこれをやめることもできません。ですがこのことに「そうだな」と身が頷くことによって、人間はこの「どうにもならなさ」から少し離れることになります。それは同時にそれを少し受け入れることができるようになるということです。そんなことができるのは「どうにもならない」厳粛なもの、どこまでも分からない深いものに触れているからです。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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