知覚的なものと思惟的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、284頁8行目「此故に意志はいつも自己の中に」から285頁5行目「此の如き述語面でなければならない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してその極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」(284,10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスには主語がありませんが、直前に「意志が」とありますので「而してその〔述語方向の彼方の〕極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所〔=極〕に〔意志が〕到る時、それが〔意志が真の無の場所において〕自己自身を見る直観となる」と〔〕部分を補い、文中の「それ」=真の無の場所における意志=自己自身を見る直観、と考えました。この「自己」とは何でしょうか。「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛けがある気がします」(212字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
厳密に読まれましたね。少し前から読んで見ましょうか。「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」(285,8-9)とあります。主語は「意志」ですね。意志は例えば、〈このペン〉を見る(知る)とか、それでこの文章を書くといった〈個々の目的(善)〉を抱いていますね。この場合〈このペン〉とか〈個々の目的(善)〉が「知的自己同一」で、これが「主語」になっています。そうしてこの「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる如く」(同9)とあります。この本体が〈このペン〉自体とか〈ペン〉のイデア、あるいは〈善〉のイデアだと考えられます。「意志」がはるかかなたに自分の目的を見ている場合ですね。これに対し反対方向の「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られるのである」(同9-10)とあります。これは「意志」が自らの根柢を見ている場合ですね。その根柢はどこまでも達することができない、どこまでも分からない、と。こうして意志は主語と述語の方向において無限に引き裂かれることになります。そうしてキーセンテンスの「而してその極」と来るのですが、Tさんは「その極」とは、述語方向の彼方の極の方だとお考えになる。

T

そうです。「その極、主語と述語との対立をも超越して」(同10)とありますが、次の行で「斯く述語をも超越する」(同11)とありますから、そう判断しました。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、「述語「をも」」とありますから、「その極」はやはり主述の無限の対立の「極」と考えた方がよいかもしれません。)テキストでは「その極」で「主語と述語との対立をも(ここも「をも」となっていますね。主語をも超越し、述語をも超越し、さらに主述の対立をも超越する、と読めると思います。)超越して真の無の場所に到る時」(同10-11)とありますが、この「到る」のは「意志」だと。

T

そうです。
佐野
なるほど。文の流れからすると、至極妥当だと思います。そうなると「それが自己自身を見る直観となる」(同11)の「それ」は「意志」だということになりますが。

T

「意志」ですが「真の無の場所における」という限定付きです。今までの意志のままではありません。
佐野
なるほど。ここまではよく分かるのですが、そうした「意志」が「自己自身を見る直観」となる時に、「この「自己」とは何でしょうか」ということが問題になるのがまずよく分かりません。意志が自己自身を見るわけですから、自己は意志自身でいいのでは?

T

そうなんですが、真の無の場所における意志は、これまでの意志と違っていて、「自己自身を見る直観」になっているんだと思います。
佐野
なるほど。それはよく分かります。そうだとして「「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛け」というのはどういうことですか?

T

それまでの意志は、主語の方向でも、述語の方向でも無限に到達できないものを持っていたと思います。ところが真の無の場所における意志は「自己自身を見る直観」になっています。しかしこの二つのことは別のことを言っているのではないと思います。これまでの意志の側から言えば、主語の方向でも述語の方向でも、無限に自己自身を見るということが続いていると思います。ちょうど英国にいて完全なる英国の地図を描く時と同じような無限進行です。
佐野
それが「無限仕掛け」だと。

T

そうです。ですがそれはこれまでの意志のレベルでの在り方です。そうした立場が真の無の場所における意志に高まることによって、「自己自身を見る直観」になる、見る自分と見られる自分が同一であるような直観が成り立っている。
佐野
なるほど。よく分かりました。ここには意志から直観への飛躍的な超入がありますね。これは私の解釈では『善の研究』における第3編から第4編への移行、つまり「宗教的覚悟」と同じ事態を言っているのだと思います。他に何かご質問はありませんか?

R

「自己自身を見る直観」では主語と述語の区別はなくなってしまうのでしょうか?

T

そうなると思います。見る自分が同時に見られる自分です。

K

テキストではその後、ヘーゲル批判があってヘーゲルの弁証法的な転化の「背後」に「肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面」がなければならないとされ、「無限なる弁証法的発展を照らすもの」が「述語面」だとされています。主語面と述語面の区別はやはりあるのでないでしょうか?
佐野
難しいですね。ちょっと先になるのですが、これに関連した叙述がありますので見て置きしょう。「併し述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となることであり、意志が意志自身を滅することであり、すべて之に於てあるものが直観となることである。述語面が無限大となると共に場所自身が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観するものとなる」(258,12-15)。

M

たしかに重要な箇所ですね。
佐野
ええ。まず注意すべき点は直観において「意志が意志自身を滅する」ということが起っている、ということです。この点は、先程のTさんも、意志を「真の無の場所における意志」とそれ以前の意志を明確に区別していましたね。滅せられる意志は「それ以前の意志」だということになります。以前の区別では「作用としての意志」と「状態としての意志」というのがありましたが、滅せられる意志は「作用としての意志」で、「真の無の場所における意志」は「状態としての意志」だということになるでしょう。ここは大丈夫でしょうか?

K

はい。よく分かります。
佐野
もう一つ注意すべき点は、述語面が真の無になることで、この真の無の場所に於てあるものが、「単に自己自身を直観するもの」となるとされていることです。自己を無にして見ることで、見る自己と見られる自己が同一になる、ということです。こういう在り方において、主述の区別はあるといえるのか、それともないというべきか、難しいところですね。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(285頁6行目~11行目)
佐野
「包摂的関係を何處までも述語の方向に押し進めて、その極限に於て意識面に到達する、主語面を越えて之を包むものが意識面である」とありますが、この「意識面」が「真の無の場所」であると即断しない方がよいでしょう。「一般概念」の可能性があります。ここでは両方を含意した意味で理解しておきましょう。

A

ここはまず主語の方から考え、意識面(述語面)に到達し、次にそれを意識面(述語面)の方から、主語面を包む、というように述べられていると考えてよいでしょうか?
佐野
たしかにそうなっていますね。続く叙述もそうした対比を念頭に置いていますね。まず「感覚的なもの」からその「背後」に「一般的なるもの」「述語的なるもの」がなければならないとされ、次いで「かかる述語的なるものが主語となる時、広い意味において働くものが考えられる」と、述語の方から考えられていますね。ところでこの「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」とはなんでしょう?例えば〈この木の葉は赤い〉の〈赤い〉は感覚的なるものですね。その背後にある「一般的なるもの」とは?

M

色一般です。
佐野
そうですね。しかし西田はこれまでもこうした「一般的なるもの」として〈色一般〉とともに〈物〉を考えていたと思います。この場合でしたら〈この木の葉〉がそれです。それが一般として、その内に〈この木の葉の赤〉を包むと考えるのです。少し先になりますが、「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」(287,15-288,3)という表現があります。この木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変わる場合、そうした変化のもとには「個体」としては〈この木の葉〉があり、それは「最後の種」としては〈この木の葉の色〉だというように考えることができます。目下の講読箇所に戻ると、「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」は、今の例で言うと〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉ということになります。ここまでで分からないところはありますか。

A

大丈夫です。
佐野
次いで「かかる述語的なるものが主語になる時」とあります。例の三角錐で言えば、中ほどの一般概念の断面がみずからを無にしながら、つまり主語面の内に吸収されながら、頂点の主語面まで上がっていく時、その時「広い意味において働くものが考えられる」と言われます。主語面において〈この木の葉の赤〉を見ているだけでは「働くもの」は考えられませんね。しかしそこのところに〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉が吸収されると、緑から赤へと働くものが考えられる、ということです。ここまではどうでしょうか?

A

まだよく分からないところがあります。
佐野
少し先にある叙述を見て置きましょう。「変化するものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない。かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ。唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」(287,7-11)とあります。

A

これで分かるようになりました。
佐野
では次を見て見ましょう。「而してかかる意味に於て働くものは我々の意識に最も直接なるものと云い得るのである」とありますね。これは「働くもの」が、「意識面」(「述語面」)が主語面になることによって成立しているからです。「此故に一般概念の限定なくして働くものを考えることはできない」とされます。〈この木の葉が赤くなった〉というのは〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉という一般概念が自らを限定したということです。そうして「我々は判断の方向を逆にすることによって働くものを考え得るのである」と言われます。この「判断の方向」とは?

A

主語から述語の方向です。
佐野
〈この赤〉から〈この木の葉の色〉へと行くことですね。〈物の判断〉では〈この木の葉の色〉が主語になりますが、包摂的判断としては〈この赤〉が主語になります。ですから「判断の方向を逆にする」とは、〈この木の葉の色〉から〈この赤〉へと行くことです。これによって「働くもの」を考えることができるのだと。次に行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(285頁11行目~286頁2行目)
佐野
「我々の経験内容が種々に分類せられ、概念的に統一せられるに従って、種々なる作用が区別せられる」とあります。私たちは無限に多くの変化を経験します。そうした内容が様々に分類されます。この分類は「概念的な統一」によってなされます。〈この木の葉の色〉の変化は〈木の葉一般の色〉へと概念的に統一されると共に、他の変化から区別されます。「而して種々なる一般概念が更にその上にも一般概念的に統一せられるに従って、作用の統一というものが考えられる」、例えば〈木の葉の色〉が〈落葉〉と結びつけられて、〈落葉樹〉の生命の作用というもののもとで統一的に考えられます。「かかる一般概念的統一の方向を何處までも推し進めて行けば、遂にすべての経験内容の統一的一般概念に到達するであろう」、例えば生命の作用が、化学的な作用、さらには物理学的な作用に還元される、というようなことが考えられます。そこで「此の如きものが物理的性質でなければならぬ」と言われます。

T

この「物理的性質」に還元されることによって、赤は波長になるということですか?
佐野
そうはならないと思います。西田が考えている「物理的性質」はあくまで「感覚的なもの」です。『善の研究』にも、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」(岩波文庫改版10頁)とありました。ここでも同じ見方が取られていると思います。ですからここでも「物理的性質」は「共通感覚の内容とも云うべきものであろう」と言われているのだと思います。

B

共通感覚って何ですか?
佐野
以前にも出て来ましたが、アリストテレスの『魂について(デ・アニマ)』に出て来るものです。視覚や聴覚などの個別の感覚を超えた感覚です。私たちは赤という時、それは青から区別して感じていますが、同時に辛いからも区別していますね。ということは個別感覚を超えた感覚の領域というものがそこになければならない。これが「共通感覚」です。進化論的にいえば、視覚や聴覚などの個別感覚に分れる以前の感覚です。

T

それはゾウリムシの感覚やな。
佐野
そうかもしれませんね。テキストではついで「フッサールの知覚的直覚というのは此の如き意味に於て一般概念によって限定せられたる直観に過ぎない」とあります。志向対象を充実するとされる直観も「知覚」という「一般概念」によって限定されたものにすぎない、ということです。それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(286頁2行目~5行目)
佐野
これまでは「感覚的なもの」ないし「知覚」という「一般概念」の範囲での話でしたが、今度は「思惟の場所」に入ることになります。「更にかかる限定を越えて述語的方向を押し進めれば、知覚的なるものを越えて思惟の場所に入る」とあります。「思惟」の対象は感覚されるものではありません。数学的なものや論理的なもの、時空、カテゴリーなどが考えられます。三角形が感覚を超えた概念でありながら、感覚的なものを離れないのと同様に、西田はここで「此場合に於ても意識は知覚的なるものを離れるのではない、知覚的なるものは直観的なるものとして之に於てあるのである」という注意を与えています。そうして「唯その剰余面に於て単なる思惟の対象という如きものが見られるのである」としています。具体的な経験においては知覚的なもののうちに思惟的なものが吸収され、それが対象(主語)となるのですが、この剰余面に注目することで、思惟の対象というものが考えられるというのです。ですがその場合でも、三角形を純粋に考える場合でも具体的な三角形を思い浮かべなければ考えることができないというように、その対象はやはり知覚的なものから離れないだろう、というのが西田の考えだと思われます。次をDさん、お願いします。

D

読む(286頁5行目~7行目)
佐野
我々の経験は感覚ないし知覚的なものと思惟的なものによって構成され、判断もそれによって成立しますが、こうした判断がまさに私の判断であることが自覚されると、「自覚的意識」となります。テキストでは「所謂自覚的意識とは、此の如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接に之に於てある場所である」と述べられています。「自覚的意識」とは〈私は考える(ich denke)〉 ということです。経験ないし判断内容が図であるとすれば、この「自覚的意識」は地に当たります。両者は対立した関係にあります。テキストでは「自覚的意識面とは恰も対立的無の場所に当たるであろう、我々が普通に意識面と考えて居るものは是である」と述べられています。客観(対象)と主観(所謂意識)ないし有と無が対立している在り方です。それ故この所謂意識は「対立的無の場所」と言われていました。ここまでで円錐形に、知覚面を頂点とすれば、二つの断面(思惟面、自覚的意識面)ができていますね。次をEさん、お願いします。

E

読む(286頁7行目~11行目)
佐野
「併し我々は尚一層深く広く、有も無も之に於てある真の無の場所というものを考えることができる」と、最後の場所が登場しました。「有」とは図、「無」とは地のことですね。続いて「真の直観」が出て来ましたね。これは先程の「自己自身を見る直観」と同じものでしょう。その「真の直観は所謂意識の場所(対立的無の場所)を破って直にかかる場所に於てあるのである」とされています。この「破って」のところに転換、ないし飛躍がありますが、この転換は最後の「真の無の場所」が開けるものとして、先程の意志から直観への飛躍的転入、つまり『善の研究』で「宗教的覚悟」と言われたものを必要とするでしょう。ここまではいかがですか?

E

大丈夫です。
佐野
そうして次に「対立的無の場所は限定せられた場所として、尚主語的意味を脱することができないから、すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越えたものでなければならぬ」とあります。

E

「対立的無の場所」が「限定せられた場所」だというのはどうしてですか?
佐野
有つまり客観(対象)と対立しているからだと思います。有でない、という限定を伴っているということです。

E

分かりました。
佐野
「主語的意味を脱することができない」とは、外に主語を必要とする、ということでしょう。そのように外に有るものは「超越的なるもの」ということになります。こうしたものを内に包摂して、そこに「真の直観」が成り立つためには、「対立的無の場所」を越えて「真の無の場所」に至らなければならない、ということです。次をFさん、お願いします。

F

読む(286頁11行目~14行目)
佐野
ここで「感覚的なるもの」に話が戻りますが、今度はそれが於てある場所は「一般概念」ではなく「真の無の場所」です。「所謂意識面を破って」つまり主客の対立を破って「真の無の場所」に於てあるものは、「真に直観的なるもの」(自己自身を見る直観)であり、「芸術的対象」であるとされます。同じ「感覚的なもの」でも於てある場所が異なると、別の意味合いをもって来ることになります。感覚的なるものを〈理解する〉ためには「一般概念」によらなければなりませんが、芸術はそうした〈理解〉を破って立ち現れてくるもので、無限の深みをもったものが直接に立ち現れる、という形を取ります。「芸術的対象」は「無対立的対象」つまり判断以前の主語ですが、そこには「場所が無になる」ことに伴って、無限なる分別的内容、「対立的対象」がすべて吸収されており、こうした対象は無限の意味を以て充たされている、ということになります。しかもこの「芸術的対象」とは述語面(意識面)が自己を無にすることによって成立する、言い換えれば自己を無にして対象そのものに成り切ることによって成立するものであり、そのうちで対象が無限の意味を持った対象自身を直観するというような事態です。芸術に触れるというのはこうしたことだということでしょうね。今日はここまでにしましょう。
(第71回)
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成(Werden)への批判

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、282頁14行目「判断的意識面に於ては」から284頁2行目「すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一といふものがなければならぬ。前者は単なる同一であって、真の自己同一は却って後者にあるのである」(283,8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「主語面に於て見られる自己同一ではなく、述語面に於て見られる自己同一を真であると西田はいう。これは円錐の頂点にある主語面(個物)が述語面に深く落ち込んで行くこと(283,12)であり、述語面自身が主語になること(同13)である。述語面が自己自身を無にすること。単なる場所となる(283,14)、その時述語面に於て自己同一が成立していると考えられる。それはどのような事態なのだろう。また、主語面に見られる自己同一と述語面に於て見られる自己同一はどう違うのだろうか」(217字、下線はM)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
ホワイトボードに図がありますね。これをもとに説明してください。(図とは円錐形のことで、頂点が「主語面=無対立的対象=個物」で、赤で記されています。底面の円が「真の無の場所」です。円錐形中程に断面があり、この円が「一般概念」です。この円錐形を上から見るのが「判断」、下から見るのが「意志」だということで、円錐形の上と下に目の形が描かれています。これは西田自身が別の所で描いたものだそうです。頂点の赤がまっすぐ下に降りて、「一般概念」の面の上と、「真の無の場所」の上に乗っています。もう一つ図があってこれはこの円錐形を上(あるいは下)から見たもので、真ん中に赤い点があり、それを囲む二重の円があります。内側の円が「一般概念」、外側の円が「真の無の場所」です)。まず、キーセンテンスの「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって」とあるのはこの図で言うと?

M

円錐形を上からみた「判断」の場合です。「主語面」の赤が例えば「一般概念」の「述語面」と重なること、これが「自己同一」です。これが「主語面」つまり赤の所で見られるんです。
佐野
なるほど。そうすると「述語面に於て見られる自己同一」とは?

M

例えば「一般概念」の所で見られる「自己同一」のことです。西田はこちらの「自己同一」の方が「真の自己同一」だと考えています。
佐野
テキストにはたしかにそう書いてありますね。これは282頁11行目からすると「我々の意志我の自己同一」ということになりますね。

M

そうです。
佐野
そうしてそれは「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいくこと」だと。この図で言うと?

M

知識的な直観の場合は、「主語面」つまり赤の所で「自己同一」が成り立っていますが、それが、ぐっと落ち込んできて、まずは「一般概念」の「述語面」のところまで来ます。このことを言っています。
佐野
その場合、「一般概念」の「述語面」のところでは「述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有すること」になりますね。なるほど、よく分かります。それから「述語面自身が主語面となること」とあるのは?

M

述語面がもう一度、上まで上がって行って主語面となることですが、最初は判断と同じように、主語面と述語面が分れます。
佐野
たしかに282頁1~2行目には「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とありますね。判断を含む意志とは目的概念を伴った意志ですね。例えば「このミカンが食べたい」というような「個物」つまり赤を意志するというような。

M

そうです。判断がなければ意志できません。ただ意志の場合は判断のように主語面から見るのではなく、述語面から見ます。「このミカンが食べたい」というのはまさに下から見ていますよね。
佐野
でもそこに止まらないんでしょう?

M

ええ。「述語面自身が主語面になる」ということは、最初は判断ですが、それは「述語面が自己自身を無にすることである、単なる場所となることである」だと言われます。
佐野
もう一度、述語面自身が上へ、主語面のところまで上がって行くのだけれども、その際に述語面が自分自身を無にする、単なる場所になるんだと。これは以前出て来た、「意味」が「述語面における自己同一」の中に吸収される、というのと同じことですね。その時は「述語面」たとえば「一般概念」の所で言われていましたが、ここでは「述語面における自己同一」つまり「一般概念」の上にある赤のところに意味がグッと吸収されながら、述語面自身は無、ないし単なる場所となり、同時に上の赤のところが豊かになって行く、そんなイメージでしょうか?

M

そうです。そのことをテキストでは「特殊が特殊になる」と言っています。
佐野
テキストを見て見ましょうか。「包摂的関係に於て、特殊が何處までも特殊になって行くということは一般が何處までも一般になって行くということでなければならぬ、一般の極致は一般が特殊化すべからざるものになるのである、すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」とありますね。一般つまり述語面が無になればなるほど、特殊つまり主語面、赤が特殊になって行く、そういうことですね。

M

そうです。そうしてその「極致」が、「無限に働くもの」、「純なる作用」です。
佐野
これもテキストで確認しておきましょう。「その極致に於て、述語面が無になると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられるのである」。「対立的対象」は例えば「一般概念」の領域にある分別的な「意味」ですね。そうした「意味」をたっぷりと吸収して、例えばペンが自ずと動く、と言った感じですね。しかしそれはその時点での「ペン」の理解(「一般概念」)にすぎません。この理解が深まれば、もっと豊かな仕方でペンが自ずと動くことになる。これはどこまでも深まりそうですね。その先に雪舟の筆みたいな境地がある。

M

でも先生のピアノもピアニストのピアノも、結局は同じことになるような気がするんです。
佐野
たしかに私のピアノは下手ですが、なんか失礼な気もします。それはともかくどういうことですか?

M

次に出て来ますが「真の無の場所」になると、あらゆるものが状態としての自由になり、それを意志というならば、雪舟が名画を描くことも、我々がこのペンで字を書くことも深浅こそあれ同じなのではないか、もしそうならば我々の意志は既に自由なのではないのか、そう思うんです。
佐野
なるほど。それは「真の無の場所」に至ったところで直観されるものですね。そのことは今日読むところに関わりますから、プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。(ただそのような所謂「自由の境地」を外に立てたら、そこにまた「意志作用」が出て来ますから、そんなことはどうでもよい、下手は下手でよいから、それを通じて何かにそのつど目覚めて行けばそれでよい、そんな風に思います。)それではAさん、お願いします。

A

読む(284頁8行目~12行目)
佐野
いきなり「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」とありますが、「此」とは何を指しますか?

A

「述語面が無となると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる」ことだと思います。
佐野
そうですね。「意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱く」とは、意志がいつも判断、したがってまたその主語を含んでいるということです。そうしてそれを意志の対象ないし目的にしているということです。例えばそれは〈このペン〉であったり〈このミカン〉であったりするわけです。意志の目的という点で言えば、〈個々の目的・善〉ということになるでしょう。ここまでで質問はありませんか?

A

大丈夫です。
佐野
しかし「知的自己同一」つまり「主語」ですね、その「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる」、つまり〈このペン〉ならその「本体」が見られる、ということです。〈このペン〉の「本体」とは何ですか?

A

どこまでも分からない〈このペン自体〉だと思います。
佐野
そうですね。ただし西田は「意志に於ては特殊の中に一般を含む」(282,12)と考えていますので、意志の目的である〈個々の善〉は〈善のイデア〉を含むことになりますね。私たちはそのつどの意志において個々の善を目的にしていますが、その先には〈善そのもの〉があるということです。そうしてそれはどこまでも到達できない。これが「主語の方向に於て無限に達することのできない本体」ですね。これに対し「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られることになるのである」とあります。我々は個々の目的の場合、例えば〈このミカンを食べる〉でしたら、それに対応した意志・欲求〈ミカンが食べたい〉が明確だ、そう考えます。しかし実はそれは、もともと分からない衝動が何らかの動機によって立ち現れたものに言葉を与えて分かっている気になっているにすぎません。そうした衝動の根源、例えばそもそも何で食べるのか、何で生きているのか、本当は一体何をしたいのか、ということになると、分かりません。『善の研究』でも「我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である」(岩波文庫改版158頁)と言われていました。『善の研究』ではその後この要求は「人格の要求」(同201頁)というように明確化されます。ここ(「場所」論文)でもこうしたものを念頭に置いているのでしょう。ここまでで何か質問はありますか?

A

いえ。大丈夫です。
佐野
次に「而してその極」とありますから、ここで「無限に達することができない」という挫折と同時に転換が起ることが分かります。あるいは「無限に達することのできない本体」や「無限に達することのできない意志」が「見られ」たが故に「極」に達して転換が起ったとも言えます。ここはおそらく啐啄同時でしょう。「その極」はつねに予期できない瞬間の出来事です。そこにおいて「主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」とあります。意志と目的の対立が越えられるということです。「真の無の場所」とありますね。これまでは単に「無の場所」でした。いよいよ最終的な局面に入ったことが分かります。『善の研究』でしたら「宗教的覚悟」ということになり、私の解釈では第3編から第4編への転入ということになります。それがここでは「自己自身を見る直観」と言われているのだと思います。

A

「それが自己自身を見る直観となる」とありますが、「それが」とは何を指しますか?

B

「真の無の場所に到る時」ということでよいのでは?
佐野
そうでしょうね。「時」が「直観」となると。ところでここには注目すべき記述があります。それはこの直観について「斯く述語をも超越する」と書かれてある点です。西田は一方でどこまでも「述語面」がなければならないと考えている(例えば285,4-5)ようですから、ここをどう考えるべきか。これは主述の対立を越えるということと同義ですから、超越される「述語」とはなお主語に対立する述語で、どこまでもなければならない「述語」とは主語と対立しない述語、まさに「真の無の場所」としての述語ということになるでしょう。これで分かった気になるわけにはいきませんが。では次をお願いします。

B

読む(284頁12行目~15行目)
佐野
「併し述語が主語を超越するということが意識するということであり、此方向に進むことが意識の深底に達することであるとすれば、知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるものが、意志の立場に於ては最も近いものとなる」とありますが、「知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるもの」とは何ですか?

B

主語の方向にあるものではないですか?
佐野
すぐ次に「対立的対象と無対立的対象との関係は逆となると考えることができる」とありますが、それで言うとどれになりますか?

B

無対立的対象です。
佐野
そうですね。「無対立的対象」は「知識の立場に於ては最も遠い」が「意志の立場に於ては最も近い」ということです。それと反対に「対立的対象」、つまり知覚や思惟の対象である分別的なものですね、それは「知識の立場に於て我々に最も近い」が「意志の立場に於ては最も遠い」ということになります。知識は分別的な立場に立ち、分別を求め、意志は無分別的な立場に立ち、無分別ないし分別の解消を求めるということかもしれません。次をCさん、お願いします。

C

読む(284頁15行目~285頁5行目)
佐野
ここはヘーゲル哲学を念頭に置いて書いていますね。「「或者がある」「或者がない」という二つの対立的判断に於て、その主語となるものが」とありますが、「その主語となるもの」とは何ですか?

C

「或者」です。
佐野
そうですね。そうした「主語」としての「或者」は「有る」のでなければならない。ところが「その主語となるもの」が単に「有る」ということだけであったら、「全然無限定」、つまり全然限定できない。そうであれば「無」に等しいものになってしまう。そうして有と無の「総合」として「転化」つまり成(Werden)を見る、もう少し詳しく言えば、有と言えば無になってしまい、無と言えばただちに有になってしまう、こうした相互転化が成だ、というのです。これはヘーゲルの『論理学』の最初の部分を念頭に置いたものです。これに対して以下に続く文章はヘーゲル批判です。「かかる場合」、ヘーゲルの論理学の場合ですね、その場合には「我々は知的対象として主語的なるものを求むれば唯転化するものを見るのみであるが」、ここは、ヘーゲルの『論理学』で言えば、有が無になり、両者が成になり、さらに定有になり、さらにカテゴリーが続いて、最後には元に戻ってきて「論理学」が完結するのだけれども、今度は「論理学」が「自然哲学」へと移行し、さらに「精神哲学」に移行し、こうした学の体系が完結しつつ、それが生とのかかわりの中で、絶えず新たに更新されるという形で、体系が永遠に運動することを言っていると思います。そうだけれども「その背後には肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面という如きものがなければならぬ」そのように言います。ヘーゲルも学がそこに於て成り立つ「場(エレメント)」というものを考えていて、『精神現象学』の場合は、主客の対立を本質とする「意識」が、学の体系の場合は、主客の同一を本質とする「絶対知」がそのエレメントです。ヘーゲルの場合この「エレメント」そのものをテーマにして扱うことはありませんでしたが、西田はそれを「場所」として主題的に扱っています。そうして「無限なる弁証法的発展を照らすものは此の如き述語面でなければならない」と述べます。この「述語面」は弁証法的に発展する学という「主語」に対立する「述語」ではなく、「真の無の場所」でしょう。今日はここまでにします。
(第70回)
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真の自己同一――述語面自身が主語面になる

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、282頁2行目「判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する」から282頁14行目「判断的意識の面からその背後に於ける意思面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードは「述語面に於ける自己同一が即ち我々の意志我の自己同一である(282,11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「未知の個物に対する意志(好奇心、探求心)はどのように生じるのか。対象が未知の物であるとき述語面は乏しく意志が起こりにくいように思えるが、未知の物に対する好奇心、探求心は自己同一でどのように説明できるか。また既知であっても対象が山、海、風、雲、空のような場合、それほど豊富な述語面を持っているとは思えないがどうか。にもかかわらず、わたしたちは易々と輪郭線を越えてはいないか。述語面は「主語面を越えて深く広くな」(281.15)るとされるが、それは対象に応じて違ってくるのか、対象が何であっても深く広くなるのか。テキストは後者のように思えるが、深まり広がる述語面のありさまをもうすこし議論してみたい」(292字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
前回、『善の研究』52頁(岩波文庫改版)の叙述をもとに目下のテキストの箇所を考察しましたが、それに対する疑問ですね。ここに一本のペンがある、ということをまずは知識として捉える。ついで「ペンは文字を書くものだ」という連想が起り、この意識が独立的となる時に、欲求・意志になる、ということでした。そうして真にペンを知るということはそれを意識せずに自在に用いるということで、それには深まりというものがあって、どこまでも自由になり得る、果ては雪舟のようにもなり得る(才能は別として)ことも確認しました。ここで意志は「このペン」という個物を意志していますが、〈未知の物〉の場合、つまり意志が〈好奇心・探究心〉として働いているような場合はどう考えたらよいのか、これが第一の疑問ですね。第二の疑問は〈山、海、風、雲、空〉のような既知のものであっても、「この山」というような個物の輪郭線を〈易々と越えていないか〉という疑問です。後の方の疑問についてSさん、もう少し説明してください。

S

例えば山ですが、麓から山を見ると、まず圧倒されるんです。ですが実際にその山を登るとテクニカルなことだけが前景に出て来るんです。
佐野
なるほど。西田は無心で山に登る、そこで山の呼吸と一体になるというような、行為の中に純粋経験の究極的な統一状態を見ていますが、そうではないと。(後で考えたことですが、「実在」との出会いがどのようなものであるかが、その人の思索を決定的に規定するというように言えるかもしれません。山との出会いを崇高な畏れ多いものとして経験した者は、実在とは容易に近づくことのできないものである、ということが実在を思索をする場合の根本的な気分になるのかもしれません。)

T

第一の疑問についてですが、好奇心は人間の根源的な欲求ではないでしょうか。小さな子供をサークルの中に入れてもすぐに出てしまう。柵を越えることで自分を確認しているようなところがあります。ぶつかっていくことで自他を認識していきます。対象を認識する以前に行動しています。その意味で未知の物に向う好奇心は衝動に近いと思います。つまり、我々は認識以前にすでに未知に開かれていて、認識による線引きは後で行われるということです。こうした好奇心は大人になっても残っていて、例えばここでこうして西田を読むということもそうしたものじゃないでしょうか。向かっていこうとする意志によって顕わになって来るのであって、深まりはこうした好奇心によってもたらされるのだと思います。漫画の『進撃の巨人』もそんな感じでした。

K

私も飛び出したくなりますね。

S

僕も知識や認識より、〈すごみ〉が先だと思うんです。
佐野
なるほど。Wさんはどう思われますか。こうした認識より以前の実在を立てることに違和感はありませんか?

W

すごい振り方ですね。違和感ですか?そうですね。昔子供のころに竹藪の中で〈ケー泥〉という鬼ごっこのような遊びをやっていたことを思い出します。竹藪の中を、来るものを反射的によけながら、転ばないように滑り落ちるんです。その時〈予期〉するというのではなくて、直面したものに身を任せるんです。竹藪を滑り落ちることと一体化して、ただ滑り落ちるんです。そこに不安とかはありません。上手に滑ろうなんて思えば、そうはいかないし、そのことが目的になると思います。もちろんそうすることで、深まりとか広がりとかはあると思いますが。

S

やはり、〈すごみ〉が先だと思います。僕はそれを言葉や認識に帰着させようという感覚はありません。言葉では決して腑には落ちませんから。
佐野
なるほど。(これも後で考えたことですが、そうした好奇心の対象である〈未知の物〉も、圧倒的な経験における〈すごみ〉も、〈ケー泥体験〉といった直観も、言語に表さ(判断し)なければ顕わにならないでしょうし、そこから「知りたい」と思ったり、山を見たい、山に登りたいと思ったり、〈ケー泥〉をもう一度やりたいと思えば、意志するしかありませんし、具体的には「この柵」を越え、「この本」を読み、「この山」に登り、「この〈ケー泥〉」を行う外はない、と西田の立場からは言えるだろうと思います。ここにはどこまでも深まり行くプロセスがあるでしょうが、西田からすれば、その極限=転換点というものがあり、それが「主語と述語の対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」(284,10-11)のでしょう。そうしておそらく、そこに根源的な開けのようなものがあって、それを知りたい、概念的な言葉で把握したいという哲学的な好奇心・欲求や、圧倒されるような〈すごみ〉の経験や、予期せずに直面するものに身を任せる〈自由〉が関わっているのでしょう。)プロトコルはこれくらいにして、テキストに移りましょう。Aさんお願いします。

A

読む(282頁14行目~283頁7行目)
佐野
「判断的意識」が出て来ましたね。「意志は勝義に於て述語を主語とした判断」ですから、意志が主語である「個体」を目的とする時、そこに勝義の判断が成り立つことになります。それを通常の「判断的意識」の面から見ると、やはり「個体」となるのですが、それは自らの「背後に於ける〈意志面に於ける自己同一なるもの〉」を見る、という形を取ることになります。こうした通常の「判断的意識」(対立的無の場所)においては主客が分かれていますから、「対象と意味とは区別せられる」ことになります。「対象」とは「無対立の対象」、つまり判断以前の主語のことで、「意味」とは判断の主語となる分別的な「対立的対象」のことでしたから、「無対立の対象と対立的対象とも区別せられる」ことになります。ここまでは大丈夫ですか?

A

はい。大丈夫です。
佐野
ここでは、無対立と対立が対立していることに注意したいと思います。判断が分別意識だからこういうことになります。「併し」と来て、「自己同一の極限を越えて単なる述語面に出た時」とあります。「自己同一」とは無対立の対象、直覚的なるもののことですね。判断以前の主語と言ってもいい。その場合、主語面と述語面がピタッと重なって「単なる述語面」となります。その時、「自己同一の主語面を囲繞して居た意味は、述語面に於ける自己同一の中に吸収せられる」(282,10-11)ために「対象と意味」、「無対立の対象と対立的対象」といった「此等の区別は消滅して同等となる」ことになります。こうして出来上がっているのが「個体」です。そうしてこれを「意志我」が主語(対象)とすることになります。〈このミカンを食べる〉という状態です。〈このミカン〉という「個体」には「対象と意味」が一つになっています。ここまで、いかがですか?

A

はい。分かります。
佐野
これに対して「単なる意識我の立場に於ては」、「単なる」とありますから「反省的意識」に限定された「意識我」のことでしょう。そうした「意識我の立場に於ては、直覚的なるものも、思惟的なるものも同位的に意識せられる」とありますね。この「同位的」というのはどういう意味でしょうか?すぐ前に出て来た「同等となる」と同じ意味でしょうか?

A

いいえ。むしろ対等、同格的という意味のような気がします。
佐野
そうですね。次に「作用の意識に於ては、感覚作用も思惟作用も同様に意識せられる」とありますが、これも「同様に〔同位的に〕意識せられる」ということでしょう。そこで「ここに随意的意識の世界が開かれる」ということになるのでしょう。随意としての自由は特に思惟の場合に見られますね。西田も『善の研究』(岩波文庫改版)32頁で「我々が或る問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由である様に思われる」けれども、こういうことは「知覚」の場合にもあって、「例えば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる」とされています。

B

ここは「随意的意識の世界が開ける」ということで、意志の世界が開けるということを言っているのではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうかもしれませんね。しかし随意的「意識」と言っているのが気になりますし、「随意的意識の世界が開かれると共に意味と対象との直接なる結合も可能となるのである」とあって、この「直接なる結合」とはさしあたり主客同一の「直観」と考えられますから、ここで「意志」を持ち出すのはやはり早いのではないでしょうか。

B

その場合、どのようにして「単なる意識我の立場」から「意味と対象との直接なる結合」である直観が可能となるのですか?
佐野
やはり単なる意識我の立場からの、何らかの転換が必要だと思います。例えば英国にいて、完全なる英国の地図を描く際に、描くべきものがすでに直観されている、というような。読みにくい箇所ですが、とりあえずそのように押さえておきましょう。次を読みます。Cさん、お願いします。

C

読む(283頁4行目~7行目)
佐野
ここは問いの提出ですね。「斯く一旦述語面に於て意味と対象が両ながら直接となった後」とあります。「一旦」とありますので、やはりこれは「直観」のことを言っているのでしょうね。そうして次に「意志」に移行する、ということです。また「両ながら」とあるのは、意味と対象が両者の区別を失わずにピタッと重なった状態を言うのでしょう。以前にも「何處までも両面が重り合っている」(282,9)という表現がありました。さてこうした直観が成立した後、「述語面に於て対立的対象と無対立的対象とは如何なる関係に於て立つか、述語面に於ての統一とは何を意味するか、述語面に移されたる自己同一とは如何なるものであろうか」と立て続きに問いが提出されます。これらはすべて「直観」成立後の「意志」に関することであると考えられます。次を読んで見ましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(283頁7行目~10行目)
佐野
「単に知識的に云えば」とありますから、これに対するものが想定されています。おそらく、〈意志的に云えば〉ということが念頭に置かれているはずです。次を読んで見ます。「単に知識的に云えば、既に主客合一であって、更にそれ以上のものを考えることはできない」。これはいいですね。「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られた自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一というものがなければならぬ」とされます。「主語面に於て見られた自己同一」が知識的な直観です。これに対し「述語面に於て見られる自己同一」とは282頁11行目にあったように、「意志我の統一」です。かくしてピタッと重なっていた主語面と述語面とが両面に即して見られることになります。そうして「主語面に於て見られる自己同一」は「単なる同一」であって、「述語面に於て見られる自己同一」こそが「真の自己同一」であるとされます。次に参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(283頁10行目~284頁2行目)
佐野
いよいよ難しくなってきました。「直観とは一つの場所の面がそれが於てある場所の面に合一すること」とありますが、「一つの場所の面」とは?

E

主語面だと思います。
佐野
「それが於てある場所の面」とは?

E

述語面です。
佐野
そうですね。続いて「斯く二つの面が合一すると云うことは単に主語面と述語面とが合一すると云うことではなく」、つまり知識的な直観に過ぎないのではなく、ということですね。「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいくことである、述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有することである、述語面自身が主語面となることである」とされています。

M

先生、図に書いてください。
佐野
それはMさんにお任せします(乞う、次回ご期待)。「主語面が深く述語面の底に落ち込んで行」きながら、「述語面が何處までも自己自身に於て主語面を有する」、とありますね。そうして述語面が主語面を有する、とは「述語面自身が主語面になること」で、それがまた「述語面が自己自身を無にすること」、「単なる場所となること」だと。これを一体どのように解釈しましょうか。

E

難しいですね。
佐野
「意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」(282,1)という表現がすでに見られました。以前この箇所を講読した時には、主語を目的とする、というように解釈しました。そうしてこの主語面を囲繞していた述語面が、述語面における主語面の中に吸収されて個体になっている、そのように解釈しました。そうすると「主語面が深く述語面の底に落ち込む」とは、判断的意識が意志になる、例えばこのペンは書くためのものだ、という知識が意志に転じる、ということを言っているのではなく、叙述はすべて「述語面における自己同一」つまり意志について言われていることになります。つまり、外に立てた目的としての主語面が深く述語面の底に落ち込んでいく、という読みになります。その間にあっても「述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有すること」になります。外にペンを見ている場合にはこういうことにはなりません。ここでは〈このペンを用いること〉を意志している段階のことを言っているのだと考えられます。ここまでで何か質問はありませんか?

E

とりあえずもう少し聞いてみます。
佐野
では「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいく」ということ、あるいは「述語面自身が主語面となる」ということがさらにどういうことになるか、それが次に述べられていると考えられます。それは「述語面が自己自身を無にすること」、「単なる場所となること」だとされています。ということはそれまでにすでに主語面に述語面が吸収されて「個体」となっているとされましたが、そこではなお述語面は無になってはいない、まだ主語と述語の対立が残っている、ということです。つまり目的がいまだ外に立てられている在り方です。まだ自分とペンが一体になっていない。〈このペン〉が真に〈このペン〉になる、そのためには、「特殊が何處までも特殊になって行」き、その極致に達するということがなければなりません。それは同時に「一般が何處までも一般となって行」き、「一般の極致」に達するということがなければなりませんが、それが、「すべての特殊的内容を超越して無なる場所となること」です。いわば自らを無にして〈このペン〉に成り切ってこのペンを用いることです。ここで「無の場所」とありますが、後で「真の無の場所」が出て来ますから、この「無の場所」はなお「一般概念(限定せられた有の場所)」内での「無の場所」であると考えられます。我々がペンを自在に用いるのと、雪舟が自在に筆を用いるのとでは雲泥の差があり、ここから我々は『善の研究』の言葉を用いるならば「更に一層大なる統一」に向わなければならないことになります。ここまではいかがでしょうか。

E

続けてください。
佐野
それではFさん、次をお願いします。

F

読む(284頁2行目~8行目)
佐野
「主語と述語との判断的関係から云えば」とありますが、これは直覚も含めた「単に知識的に云えば」(283,7)と同義でしょう。そうした立場から言えば、之を単に主客合一の直観と云うのである」とありますね。「之」とは?

F

「無の場所となること」を指していると思います。
佐野
そうですね。特殊が真に特殊になり、一般が真に一般、つまり「無の場所」となることですね。「是故に無対立なる対象の意識は意識が意識自身を超越するのではなく、意識が深く意識自身の中に入るのである」とありますが、「無対立なる対象の意識」が「意識が意識自身を超越する」と考えたのは誰だと思いますか?

F

分かりません。
佐野
おそらくラスクのことを念頭に置いていると思います。ラスクにとって無対立なる対象(超対立的対象)は判断(意識)を超越したものと考えられていました。それに対し西田は、それは意識を判断に限定している(「対象的関係のみを見て意識自身の本質を考えない」)からそうなるのだ、と考えます。西田は意識ということで判断や直観、さらには意志をも含めて考えています。ここでは目的を外に置いた意志の在り方から、自らを無にする在り方が念頭に置かれていると考えられますが、それは「意識が深く意識自身の中に入る」ことだ、そのように西田は考えます。そうして「意識の本質を主語面を包んで広がる述語面に求めるならば、此方向に進むことが純な意識に到達することである」と述べられます。述語面が無になることと同じことを言っています。その「極致」はどうなるか。西田は「述語面が無になる共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられる」とされています。ペンそのものに成り切る、ということですね。ただここではまだ「真の無の場所」にはなっていません。今日はここまでとしましょう。
(第69回)
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主語面が述語面に重なる――意志の成立

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第3段落冒頭281頁4行目から同段落282頁2行目「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードは「述語面が主語面を越えて深く廣くなればなる程、意志は自由となる」(282,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田はまず、述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越するという(281頁8,9行目)。更に、述語面に、深さという概念を与え、上記キーセンテンスとなる。更に、意志は「自由」になるが、その自由は、判断を離れるのではない、と云い、意志について、「述語を主語とした判断」という定義を勝義とする(282頁1行目)。それでは、このような「判断」である「意志」の「自由」を拘束していたものは何だったのだろうか?」でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
順に確かめていきましょう。「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」から行きましょう。まず「主語面」とは?

K

「自己自身に同一なるもの」、「直覚的なるもの」です。
佐野
そうですね。判断以前の主語と言ってもいい。『善の研究』(岩波文庫改版52-53頁)の例で言えば、「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということも意ということもなく、ただ一個の現実である」、この段階ですね。これに対し「述語面」とは「意識面(意識界)」のことですね。それでは「述語面が意識面を越えて広がる」をどのようにお考えですか?

K

情報量が増えていくといったイメージです。
佐野
このペンは赤い、とか、断面が六角形だとか、そういうことですね。

K

はい。
佐野
ですが、「このペン」は個物ですから、基本的に語り尽くせない。どこまでも情報量が増えるのみです。そうなると、「判断意識」の「超越」は起こりませんね。たとえ、「ペンは文字を書くべきものだ」というような連想が起っても、それは情報量を増やすだけのもので、意志への転換は起こらない。ここはあの〈英国にいて、英国の完全なる地図を描く〉を想い起す必要があるように思われるのです。情報量を増やすというのは、主語と述語が分かれた判断の在り方ですね。この立場だとどこまで行っても転換は起こりません。しかしそうした在り方が破れるということが起こります。それがあの〈英国の地図〉の話です。判断すべきものがすでに手前にあった、という直観です。その時主語面と述語面が一つに重なります。これが「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」ということだと思うのです。主語面を越えて広がる述語面に目覚める、といった感じです。どうでしょうか?

K

‥‥
佐野
この直観が意志へと転換する、そのように読みます。『善の研究』では「(このペンは文字を書くべきものだという)連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」というように書かれていると思います。いかがでしょうか?

K

‥‥
佐野
次にこの「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」というところですが、意志を成立させる「述語面」自体に、さらには意志自体にも深浅広狭があるようなことが書かれています。そうすると、初めは直観を成立させる述語面も限定されていたことになる。意志も同様ですね。初めは自由と言っても限定されていたことになります。Kさんはこれを拘束していたものは何か、そのように問うていたのだと思います。

K

そうです。
佐野
そうだとすると、述語面を限定するものは「一般概念」しかないと思います。前回出て来た「輪郭」ですね。そこには「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭」(280,12)とありました。我々は「このペン」が文字を書くべきものであることを知っていても、雪舟が筆を操るようにはいかない。

M

先ほどの『善の研究』にも意志になった時が「真にこれを知ったというのである」とありましたが、この「知る」ということが重要だと思います。
佐野
ええ。ですからその「知」に深浅広狭があり、我々が筆を知るのと、雪舟が筆を知るのとでは「筆」の一般概念が違うのです。それが意志にも行為にも表れて来る。

K

その場合、「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」とあるのはどうなるのでしょうか?
佐野
直観においては主語面と述語面とがぴったりと重なります。その際述語面は主語面を含んで餘ありますから、直観において述語面は主語面を越えて広がりますが、それは逆から見れば、主語面が述語面を「吸収」することになります。こうして「意志は勝義に於て述語を主語とした判断」ということになるのだと思います。「吸収」という語はすぐ後(282,11)に出て来ます。この主語は同時に「個物」です。意志の場合にそれを実現する際には個物において実現するほかはありませんから。使うのはいつも〈このペン〉ですし、食べるのはいつも〈このミカン〉です。ただその意志や行為自体に深浅広狭があるということです。そうしてそれは述語面の深浅広狭、つまり筆をどこまで知っているか、それが筆を使う時の判断に現れてくるのだと思いますが、どうでしょう?

M

ですが、認識主観が消えれば私たちはいつでも純粋経験の状態にあるのでは?その意味ではそれは私たちの日常のうちに普通に見られるものではないですか?
佐野
日常生活に没頭している時も、『善の研究』における「知的直観」(「例えば画家の興来り筆自ら動く」(59頁)時も、認識主観は出て来ませんね。この問題はとても難しいと思います。日常性と、晩年西田が使うようになる「平常底」の問題につながると思います。日常性において山は山、川は川ですが、それが逆転し、山は山でない、川は川でない、となるのが空の働きです。しかしそうした在り方も空ぜられて、ふたたび山は山、川は川へと戻って来ます。最初と最後はどちらも同じですが、この両者の関係をどう考えるか、という問題になると思います。どちらにも判断は出て来ませんね。

H

ですがテキストには「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とあります。
佐野
日常に埋没している時、私にも最近しばしばあるのですが、記憶が飛んでいる。そんな時にもじつは判断している、ということでしょうか?そうであれば、動物も判断している、ということになりそうです。

T

認知症と動物は違うと思います。動物は判断しているのではないでしょうか? 判断と言えるのか分かりませんけれど。
佐野
私にも動物は判断しているように見えますが、それは言語をもった人間の側からの解釈だと思うのです。たしかに動物も感覚し、思考し、判断し、意志しているように見えますが、おそらくそれは言語を通していない。だとすれば、そうしたものをもっていても、人間のそれとは本質的に異なると思います。同じ「熱い」という感覚でも、動物のそれには言葉がありません。多分。ですが今テキストで問題になっているのは、「一般と特殊との包摂関係」を出発点とした、言語的な判断だと思います。そうだとして、ボケた状態や神来の境地にも言語的な判断はあるのでしょうか?

M

『善の研究』でも「音楽家が熟練した曲を奏する時」(20頁)「少しの思想も交えず」(同)とあります。
佐野
ここに一々言語的な判断が起きているとは考えられませんね。私の下手なピアノではいつも言語的判断だらけですが。次はああしよう、こうしようとね。しかし音楽家が熟練した曲を奏する時は、どうなんでしょう。別の判断があるということでしょうか。何が違うのでしょうか? 痴呆と名人(中島敦の『名人伝』を念頭に置いています)は。

K

「場所」論文に、以前「真の無の場所に於ては、我々は意志其者をも見るのである。意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と択ぶ所はない」(228,15-229,1)とあります。それからすると違いは「見る」ということではないでしょうか?
佐野
そしてそれがまた、対立的無の場所に映された「作用としての自由」とは異なる、「状態としての自由」ということですね。前者は所謂選択的意志ですね。その場合、意志は判断を含みますが、そうした判断を含まない、ボケと名人の違い、さらには日常性と平常底との違いの根本は「見る」ということだと。なるほど。プロトコルはこれくらいにして、テキストに移りましょう。「場所」論文もあとわずかとなりましたが、いよいよ強烈に難しくなりましたね。Aさん、お願いします。

A

読む(282頁2~4行目)
佐野
「判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する」とありますが、これは今まで言ってきたことの繰り返しですね。「自己同一的なるもの」とは「自己自身に同一なるもの」(281,2-3)、つまり「直覚的なるもの」(281,2)のことですね。この場合「自己自身に同一なるもの」とは「自同律に於て表される」ということです。判断以前の無対立の対象のことです。以前にも「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」(277,12-13)とありました。このことだと思います。判断はこうした直覚において、主語面が述語面にピタッと重なります。それが「極限に達する」ということだと思います。そうなると判断は「かかる自己同一なるものの輪郭線を越える」。「輪郭」という言葉が出て来ましたが、これは280頁12行目にある「輪郭」とは異なります。そこでの「輪郭」は「一般概念」のことでした。Rさんの図(前回の「読書会だより」参照)で言えば、ドーナツ型の二重の円の間に引かれたもう一つ円です。ここではそうした「一般概念」ではなく、「自己同一なるものの輪郭線」ですから、一番内側の円、つまり主語面のことです。つまり判断が、これは述語面と言い換えてもいいと思いますが、それが主語面を越えて広がる時、ということで、これまで言われてきたことと同趣旨ですね。そうなると「意志になる」、とこういわれています。これも同趣旨です。そうして「それで意志の中心には、いつでも自己同一なるものが含まれて居る」と来ます。ここは大丈夫ですか?

A

大丈夫じゃありません。
佐野
「意志の中心」ですから、目的と考えていいと思い」ます。「このペン」が主語(面)ですが、その中に「文字を書くべきもの」という述語面が吸収されて目的になっていると考えられます。意志の中心にはこうした目的がなければならないということだと思います。今度はどうですか?

A

大丈夫です。
佐野
では次を Bさん、お願いします。

B

読む(282頁4~8行目)
佐野
「上に云った如く」、280頁9行目ですね、「自己同一なるもの」つまり判断以前の主語、「直覚」、その「周囲は意味を以て囲繞せられて居る」。たしかにそう書かれていましたね。さらにこれを言い換えて「対立なき対象の周囲は対立的対象を以て囲繞せられて居る」とあります。「対立的対象」とは判断における主語、知覚や思惟の対象のことで、分別されたものと考えてよいと思います。次いで「述語面が自己同一なるものを含んで更にそれ自身の領域を有する時」、「意味の領域」をも含んで、ということでしょう。その時「述語面は主語面に対して無なるが故に、それ」、「それ」って何でしょう?

B

「述語面」だと思います。
佐野
そうでしょうね。述語面が「深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」。どういうことでしょう。(以下は後で思いついたことの加筆です。)円錐形を思い浮かべてみてください。頂点に直観の対象、無対立的対象があります。これが主語面です。その少し下の断面が「一般概念」によって囲まれた述語面です。主語面が述語面に重なる(を越えて広がる)ということは、頂点の主語面がこの述語面のところまで「落ち込んで」(283,12)くることです。述語面の上に重なる。これは広がると同時に深まるということですね。そうした広さと深みをもった(それでも一般概念によって限定されています)述語面が主語面となって目的となる時、意志が成立する、このように考えて見てはいかがでしょう。(因みにこの目的を対象化すると、直観から離れて再び対立的無の場所における関係、主客関係になります。)「述語面は主語面に対して無なるが故に」とは、円錐形で言えば、無が下の方向に位置するからです。下に行くほど断面は大きくなりますから、「それが深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」ということになります。これを言い換えて「無対立の対象の中に対立的対象が含まれる様になる」、無分別の中に分別的な意味を含むということです。それによって「自己同一なるものは意志の形を取って来る」というのですが、ここは少しわかりにくいですね。あらゆる知的な意味は意的な意味を含んでおり、そうした意味と一つになることで、知的な判断は意的な判断に転ずると考えて見てはどうでしょうか。ペンなどは分かりやすいと思います。ハッと気づいた時にそこにペンがある。こうした知でも意でもないところから始まり、知を経て意となり、これを意識せずに用いることで知でも意でもないところに帰っていく、こんなイメージです。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(282頁8~14行目)
佐野
「自己同一」、直覚ですね。それは「主語面と述語面とが単に一になることではない、何處までも両面が重り合って居るのである」とあります。「重り合っている」ということで何か思い出しませんか? 256頁6行目に「重り合う」という言葉が見えます。そうして「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」(256,6-7)とあります。これをブレンターノの「感官心理学」から西田は学んでいるようですが、それについては61頁15行目~62頁8行目に詳しく述べられています。つまり「過ぎ去ったと思うものも、之を現在に於て有って居る、即ち斜視的に表象している」というのです。同じように、一つの主語の中に、様々な意味が重なり合っていると考えられます。これをさらに西田は言い換えて「自己同一なるものがその背後に述語面に移された時」、「落ち込んだ」時のことですね、「自己同一の主語面を囲繞して居た意味は、述語面に於ける自己同一に吸収せられるのである」とあります。深まることが同時に広がることであり、広がることは逆に吸収することです。大丈夫ですか?

C

はい。大丈夫です。
佐野
次を見ます。「述語面に於ける自己同一」、つまり主語面に意味を吸収された述語面ですね、これが「意志我の自己同一である」とされます。目的ですね。「自己同一の外にあった意味が自己同一の中に含まれるが故に、意志に於ては特殊の中に一般を含むと考えられる」とありますが、「意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」と同じことですね。次へ行くと「無論それはもはや特殊というべきものではなくして個体でなければならない」とあります。意志の目的となるものは「このペン」「このミカン」でなければならない、ということです。

K

何故「特殊」ではなく、「個体」だと言わなければならなかったのでしょうか?
佐野
よく分かりませんが、一つにはこの特殊が一般と対立する通常の特殊ではないからではないでしょうか。あるいはヘーゲルが特殊の中に一般を含むものを「個別」と呼んだことが念頭にあったのかもしれませんね。それについてはさらに「判断的意識の面からその背後に於ける意志面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである」とあります。「判断的意識」が出て来ましたね。これについては続いて論じられていますから、これは次回に考えましょう。今日はここまでにしておきます。
(第68回)
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読書会での「場所」の読書箇所と
当ブログ「読書会だより」の対応インデックス

 読書会では岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」を読み、当ブログに「読書会だより」として議論のエッセンスを投稿してきました。ここで、各回に読んだ箇所とそれに対応する「読書会だより」の投稿の一覧表(リンク付き)をまとめました。「場所」の読み解きのヒントとしてご活用いただければ幸いです。

「西田幾多郎全集」旧全集(岩波書店)第四巻「場所」

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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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