非連続の連続——意志と直覚の狭間

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 257ページの10行目「此の如きものを私は場所としての一般概念と考へるのである」から258ページの8行目「限定せられた場所を脱することはできない」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「意識に於いては、要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立するのである」で、選んだ理由は「特殊のなかに一般がひらける様子が伝わるようで面白い表現だと思いました」とのことです。「考えたこと」は「無限に自己を充実していくこと(作用)の限りなき行先が志向対象として知覚に内在している。それは最も深い場所に「於いてある」ことであり意識は全体へと開けていく――との理解に誤りはないか。その場合、作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか。限定せれられた場所を脱することができず直覚には達しないのか」(164字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
理解に誤りはないか、ということですが、文面を見る限り無理のない解釈だと思われます。ですが「作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか」というのはテキストにありませんね。

O

でも「作用の作用との結合は裏面に於ては意志である」とあって、そうした意志も「限定せられた場所を離れることはできない」とあります。
佐野
これは今日読むところですが、今挙げていただいた文章のすぐ後に「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」とあります。そうなると意志の場所を越えた所に直観ないし無の根柢があることになります。

O

意志を越えた先に直観がある、ということですが、そこが分からないんです。意志によってどこまでも語り得ない個物を主語の方向に限定していくんですが、それだと個物のありのままの在り方には到達できないと思うんです。同じことですが意志は直観には達し得ない、そう思うのですが。

A

でも私たちはつねにありのままの世界、直観の世界に生きているんじゃないですか?そこが純粋経験の世界だと思うんです。その世界に死んで反省の世界に生まれるんだと思います。
佐野
今のは直観から反省、あるいは知識や意志に行くには、否定を介さなければならない、ということだと思いますが、知識や意志から直観に行くにも、いっぺん死ぬということ、つまり否定がなければならない、とも言えますね。

A

そう思います。
佐野
そうなると、そこには超越がありますね。連続じゃない。いわば「非連続の連続」。でもこういう言葉を振り回すことは注意が必要だと思います。「絶対矛盾的自己同一」もそうですが、その言葉を聞いて分かった気になってしまう。今のところでは反省から直観へ行く道はない。しかし突如として超越が起って直観の中にいる自分に目覚める。その立場から反省との連続が見えてくる、このように解釈することもできます。しかし直観から反省へ行く場合もそんなに簡単じゃないと思います。さっきAさんが仰ったように、そこにも超越がある、気がついたら反省のうちにいる、ということがあると思います。反省と直観の関係、これはとても難しいと思います。プロトコルはここまでにしておきましょう。今日は259頁9行目まで講読します。今日初めてご参加のBさん、お願いします。

B

(読む:8~10行目)

C

「一般の中に特殊を包摂していくことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とありますが、具体的に例を挙げて説明してください。
佐野
これは皆さんで考えましょう。どなたか説明していただけませんか。

D

たとえば、「この」ミカンはミカンである、というのが「知識」で、その場合〈ミカン一般〉が〈このミカン〉という特殊を包摂していることになると思います。逆に、ミカンが食べたい、と言っても〈ミカン一般〉を食べることはできず、〈このミカン〉を食べるしかない、これが「意志」だと思います。
佐野
ありがとうございます。皆さん、いかがでしたか。よく分かりましたね。次、Eさん、お願いします。次読んでください。

E

(読む:10~13行目)

C

「主語となって述語となることなき基体が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」を具体的に説明してください。
佐野
基体はアリストテレスのヒュポケイメノンですね。ここでは実体つまり個物と同じと考えていいと思います。例えば〈この塩は白い〉というのは〈この塩〉という特殊が、〈白い〉という一般を包摂していると見ることができますね。西田はここに、特殊の中に一般を包摂する作用を見ているのだと思います。そうしてそれを意志だと。次に現象学が出てきますね。これは初期フッサールです。初期フッサールの場合、この作用が志向作用で、これが知覚作用によって基礎づけられ知覚が充実することになります。

F

どういうことですか?
佐野
玄関にカギがあることを意識した場合、〈玄関のカギ〉が志向対象になります。実際に行ってみて確認した場合、はじめて知覚が充実することになります。「現象学に於て知覚が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」とありますね。「この方向」とは?

D

対象の方向だと思います。
佐野
そうですね。主語の方向ということもできますね。その方向で、基礎づける作用(知覚作用)も基礎づけられる作用(志向作用)も「一つの直覚の圏内に入って行く」と書いてありますが、Oさんはここが分からない、ということになります。とにかく、ここには超越があります。その時には術語方面で言えば、二つの作用が「共に無の場所に於てある」ということになります。よろしいでしょうか。それではGさん、次お願いします。

G

(読む:258頁13行目~259頁1行目)
佐野
「範疇的直覚」というのが分からないと思います。これも初期フッサールの用語です。例えば私は今椅子に座っていますが、「この椅子はクッション付きで、かつ茶色である」という文の中で目に見える部分はどれですか?

C

全部見えます。
佐野
「この」はどうでしょう。それから「かつ(and)」もどうでしょう。

C

見えません。思惟の働きだと思います。
佐野
そうですね。〈椅子〉や〈クッション〉〈黄〉は「知覚的直観」によってとらえることができますが、「この」「かつ」「である」などはそうはいきませんね。こうしたものを直観するのが「範疇的直観」です。それでは「我の全体がそこにある」の「そこ」とは?

D

知覚作用だと思います。
佐野
そうですね。そうして西田は「我の全体」がそこ、つまり知覚作用の中に含まれていると言っています。つまり知覚作用のなかに範疇的直観というような思惟によるものも含まれている、というのです。そうして「私は之を無の場所に於てあると云いたい」とあります。これは先ほどの基礎付ける作用と基礎づけられる作用、つまり知覚作用と志向作用(思惟的・意志的なもの)が「共に無の場所に於てある」というのと同じことを言っていますね。よろしいでしょうか。それではHさん、次お願いします。

H

(読む:1~4行目)
佐野
指示語がいくつか出てきますね。「知覚的なるものがその底の場所に映ったものが、その一般概念となる」とありますが、「その」とは?

D

「知覚的なるもの」だと思います。これを西田が「知覚作用」と言わなかったのは、そこにすでに思惟的なものが含まれているからではないでしょうか。
佐野
面白いですね。それにこういう所を何でだろう、と考えることが読む場合にはとても大事だともいます。ここではそうした「知覚的なるもの」に「底」があり、それが「場所」で、そこに知覚的なるものが映ったもの(影)が「一般概念」だと言っています。それでは次をIさん、お願いします。

I

(読む:4~9行目)

F

「一つの平面」の話がよく分かりません。
佐野
先程の「底」「場所」を平面と考えているのだと思います。

D

「一つの平面に於ては、或一の点から無限の果を廻っても、亦元の点に還ることが可能でなければならぬ」とありますが、四次元空間では時間が入りますので、それは言えないと思います。
佐野
なるほど。時間は不可逆だと。(それでも四次元空間というように「空間」として考えているならば西田の言うようになるのかもしれない、と後で考えてもみました。)ここでの主眼は「真の無の場所」が「無限なる次元の空間」と考えられ、それを「一平面」に限定するのが「一般概念」だということです。私たちは実は「真の無の場所」に生きているのですが、そのことは理解できない。我々が何かを理解するのはいつも「一般概念」という土俵の上です。誰かと話をする場合でもこうした土俵がなければ話ができない。Iさん、「真の無の場所」で人間が話し合うことはできますか?

I

そこではコミュニケーションはすでに必要がないと思います。
佐野
なるほど。

D

私は日常的な世界は「一般概念」つまり土俵の上に成り立った世界で、「真の無の世界」とは、生成が同時に消滅であるような矛盾の世界だと思います。
佐野
ありがとうございました。今日はここまでにしておきましょう。
(第49回)
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場所としての一般概念

今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードは「アリストテレスの所謂共通感覚の如きもの」(257,7-8)で、考えたことないし問いは「西田は「場所としての一般概念」を、感覚と乖離し内容を分別(識別)する判断作用のようなものではなく、感覚に附着し特殊な感覚的内容を分別する共通感覚のようなものだとしている。また音や色などの特殊な知覚的内容は「一つの知覚の野に於いてあ」り、この知覚の野を深めることで共通感覚のようなものに到るとされる。『善の研究』では、感覚や知覚は端的に純粋経験の事実に属するが、新たな事象を学習することはないのだろうか」(200字)でした。
佐野
この問いについて口頭でお伝えしたいことがあるとのことですが…

Y

通常の経験では、自分がいて、そうして熱いものがあって、それで「熱い」となります。そうして子供が次第に熱いお茶を飲めるようになっていきます。つまり通常の経験は成長すると考えられます。学びが可能だということです。西田の考える「共通感覚」は『善の研究』の「純粋経験」に通じるものだと思いますが、「純粋経験」は「自分がいて、そうして熱いものがあって」という考え方をしていません。そうなると「純粋経験」に成長や学びはあるのか、ということが問題となります。
佐野
「自分がいて、そうして熱いものがあって、それで「熱い」となる」というのは、すでに反省されたものですね。そうした反省以前の「熱い」をどのようにお考えですか?

Y

まず「感覚」の段階があります。これは「熱い」と感じる前、言葉以前です。次に「知覚」の段階が来ます。これは感覚を知り得た段階で、「熱い」という言葉によって感覚をとらえた時です。感覚と知覚の間には断絶はありますが、無関係ではなく、通常セットになっています。
佐野
言語以前の感覚と言語的な知覚、合わせて通常の経験ですね。これを反省して「自分がいて…」というように反省される、ということですね。この場合成長や学びはどうなりますか。感覚や知覚にも成長や学びがあるということですか?

Y

はい。どちらも成長すると思います。
佐野
Tさん、何か発言したそうですね。どうぞ。

T

生活上は成長するという実感があります。嗅覚と味覚は明確な区別は難しいのですが、どちらもはじめ違和感があっても体験を経ることで、例えば順応とか耐性ができるという仕方で変わっていきます。
佐野
熱いものに触れて「反射」によって手を引っ込める場合は?その場合でも同じことが言えますか?

T

「反射」の場合は分けて考えた方がいいと思います。予測ができれば熱いものに対する反応も抑制できると思います。
佐野
「とっさ」の場合や「思わず」の場合はどう?

T

その場合は「反射」的な行動になると思いますが、その場合でも例えば柔道の稽古をしていた人がとっさに受け身を取るように、行動内容は変わってくると思います。
佐野
Tさんも感覚・知覚は成長するとお考えのようです。純粋経験はどうでしょうか。

T

純粋経験が変わらないというのはおかしい感じがします。やはり成長するのではないでしょうか。芸術体験などを考えればそれは言えると思います。
佐野
子供のころはビー玉が美しいと思っていたけど、大人になり、老人になるにつれて石が面白いと思うようになる。ここに成長があると。

T

子供が美しいと感じることも老人が美しいと感じるのと遜色ない気もします。

N

老いというのが出てきたので申し上げます。私はあと少しで後期高齢者ですが、老いてますます成長するのが芸術だと思います。
佐野
ベートーヴェンでも中期よりも後期の方が優れていると。

N

やはり後期です。ただ、共通感覚の第一の意味(狭義)である、運動や静止、大きさや数、形などは成長しない。それに対して色、音、味などに対する感覚は成長すると思います。

Y

西田も「純粋経験」は自発自展すると言っていますが、これは成長するということに通ずると思います。分からないことが分かるようになるということ、これが成長だと思います。

O

「純粋経験」に成長があるとかないとか言うことに違和感があります。どちらもこちらの都合のようで。つまり人間から見た解釈に過ぎません。そもそも2時点の比較ですから。

N

発展しないと同時に、人間は絶えず発展成長するという、二つが共存しているのが「純粋経験」なのでは?
佐野
西田も「純粋経験」については静中動、動中静という言い方をしていますね。今日はこの辺りにしておきましょう。本日は257頁10行目から258頁8行目まで講読します。まずアリストテレスの「共通感覚」の如きものが「場所としての一般概念」とされます。そうしてそれが「更に無限に深い無の場所としての一般概念」に映された「影像」が「所謂一般概念」だとされます。「場所としての一般概念」は「無の場所」に「更に無限に深い」という仕方で通じています(後に259,13-15でこの事態を「一般概念の外に出る」として押さえながら、それは「限定せられた場所から限定する場所に行くこと」、「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到ることだとしています。これについてはその時になって考えることにしましょう)。

A

次に「知覚が充実して行くというのは、此の如き場所としての一般者が自己自身を充実し行くことである」とあって、さらに「その行先が無限であって、無限に自己を充実して行くが故に作用と考えられる、而してその限なき行先は志向的対象として之に含まれると考えられる」とありますね。最初の文は西田の考えだと思いますが、あとの「考えられる」も西田の「考え」でしょうか。
佐野
違うと思います。「志向的対象」とあるように、これは初期フッサール批判です。フッサールは「所謂一般概念」(「限定せられた場所」(259,12)、「意識せられた意識」(248,15))が無限に自己を充実して行く「行先」を「志向的対象」(主語)の方向に考えるのに対し、西田はそうではないと考えます。そうして「場所としての一般概念」(「限定する場所」、「意識する意識」)が無限に自己を充実して行く「行先」が「無限に深い場所に於てある」、そのように考えます。この「無限に深い場所に於てある」もの、それは主語の方向にあるのではなく、逆に述語の方向の「無限に深い場所」に於てある、ということだと思います。

B

次に「斯くその底が無限に深い無なるが故に、意識に於ては、要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立するのである」とありますが、よくわかりません。無なのに何故「その底が無限に深い」などという必要があるのですか?
佐野
「場所としての一般概念」を徹底させると「真の無の場所」に到らざるを得ない、ということがあると思います。たしかに「一般」を徹底すれば、有と無の対立をも超えて行かなければなりません。

C

「要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立する」とはどういうことでしょうか。イメージできません。
佐野
難しいですね。要素とは例えば「この音(ド)」のことです。個物と言ってもいいと思います。それはそれだけで成り立っていません。それに先立つ音やこれから来るであろう音、さらにはほかの音、音だけではなくて音色も、というような仕方で、すべての感覚がこの一音に凝縮しています。要素がそのまま全体、とはこのような事態を言っているのでしょう。そうして要素(個物)がこのような在り方を現わすのは、それが真の無の場所に於てあるからだ、そう西田は言わんとしていると思います。個物はどこまでも語り得ない。その語り得ないままに立ち現れている、それが「その儘にして」ということだと思います。真の無の場所に於て、一即一切、一切即一が成立している、そんな感じです。

D

次に「作用の作用」が出てきて、作用と作用を結合するものは「裏面に於ては意志」だとされています。表面は「知覚」ということでいいでしょうか。
佐野
面白いですね。それで読んで見ましょう。しかしその意志も「直に作用と作用を結合するのでない」とされ、意志も「此の場所に映されたる影像に過ぎない」とか「意志も尚一般概念を離れることはできない」とありますね。この「一般概念」は「所謂一般概念」でしょうか、それとも「場所としての一般概念」でしょうか。

D

「場所としての一般概念」だと思います。
佐野
ですが、そうした一般概念を離れられない意志も「影像」だとされていますね。以前「影像」は「所謂一般概念」について用いられていました(257,11)。ですからこの「一般概念」も「所謂一般概念」と考えるべきでしょう。我々の通常の意志はつねに目的概念を必要とし、それは「所謂一般概念」です。そうした場合の意志も「影像」だとされています。この意志は「作用としての意志」です。それについては229頁をご覧ください。今日はここまでにしましょう。
(第48回)
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先験的(超越論的)空間は成長するか

前回のお約束通り、まずはTさんのプロトコルから。キーワードは「先験的空間」で、キーセンテンスは「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない。併しそれは先験的空間に於いてあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」でした。そうして考えたことは「私の最初の記憶は、断片的なものですが1歳台からあります。幼児を取り巻く世界は粗削りで、恐怖と驚異に満ちていました。それを人生最初の経験と呼んで差し支えなければ、その時の「先験的空間」は未熟であった一方で、「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった気もします。先験的空間は経験によって成長するものなのでしょうか。それとも、経験は「一般概念の外に出る」ことを邪魔するのでしょうか(ピッタリ200字!)」でした。Tさんはパワーポイントまで用意してくださってとても分かりやすい説明でした。例によって私の記憶と現在の理解に基づいてアレンジしてあります。
佐野
それでは、ご自由に発言してください。

A

いいですか?
佐野
もちろん。

A

「「先験的空間」は未熟だった」とありますが、これはすでに「先験的経験は経験によって成長するもの」ということを前提していませんか?
佐野
確かにそこのところは論点になりますね。たしかに我々の現実的な経験はその人の、そのつどの空間理解によって構成されていて、この空間理解がまたその人のそれまでの経験によって形成されています。この空間概念は経験的なものですから、未熟とか成長とか言ったことがありえます。しかし先験的空間というのはカント哲学を念頭に置いていますね。その場合の「先験的」というのは原語(ドイツ語)ではtranszendentalですが、最近ではむしろ「超越論的」と訳されます。経験を可能にする認識のことを言います。そうした認識は経験に先立った、経験を越えたものとなります。「先だって」とありますから「先験的」とも訳されますが、時間的な「先」ではありません。空間にしても時間にしても、あるいは意識(自我)にしても、「超越論的(先験的)」という語がついた時には、いかなる意味でも経験的ではありません。ですから誰それの、とか未熟とか成長ということもあり得ません。超越論的自我(統覚)や意識一般もそうです。空間について言うならば、実際にはカントは絶対空間のようなものを考えていましたが、本来そういうものにも限定されない、形式としての「空間」そのもののことです。

B

そんなかっちりした「空間」より、Tさんのいうような経験的で成長する空間の方が私は好きです。
佐野
Bさんは、まだまだ成長しますからね。

B

そうです。私はまだまだ成長します。

C

質問があります。幼児は「「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった」とありますが、どういうことですか?

T

幼児は「真の無の場所」から出てきたということです。人間は「真の無の場所」から出てきて、最後にはぼけてまた「真の無の場所」に帰るんです。
佐野
禅の高僧などは修行によって「真の無の場所」に到れるということはないですか?

T

そういうことにもめっちゃ興味あります。
佐野
カントは、我々の経験を根本において可能にしている一般的なるもの、例えば「意識一般」がなければならないと考えましたが、同時にそれが実際に自覚のような仕方で我々に感覚されるとも考えていました。西田はこの辺りを徹底させて、我々は「意識一般」の外に出て「真の無の場所」からこれを見る(直観する)ことができると考えたわけです。プロトコルはここまでとしてテキストに入りましょう。今回は256頁3行目から257頁10行目までを講読します。それに先立って、前回255頁15行目(さらに256頁1・3行目にも)にある「それ」が何であるかが問題になりましたね。Aさん、その後どのようにお考えになりましたか?

A

あれから考えて見たのですが、「受取る」「映す」でよいのではないかと思い始めました。
佐野
では、まあ一応そういうことで次に進みましょう。「かかる場合、我々は直に映すものと映されるものと一と考える」とありますが、「かかる場合」とは「映すものなくして映す」という場合のことですね。その場合には映すものと映されるものが一であると。この結合をどう考えるか。まず「その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない」とありますね。背後的な基体の拒否ですね。

D

なんか『善の研究』と違うことを言っているような。『善の研究』では「統一的或者」があると言っていました。
佐野
なるほど。どうでしょうね。例が挙がっていますからそこを読んで見ましょう。

D

「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」。
佐野
ありがとうございます。これだと聴覚的意識の野が背後にあって、いろんな音を結合しているように読めませんか?映すものが「聴覚的意識の野」で、映されるものが「各の音」です。

D

「聴覚的意識」が無になるということじゃないですか?それによって映すものと映されるものが一になる。
佐野
なるほど。そうだとすればその無と、先程の「統一的或者」をどう考えるかが面白そうですね(この問いは後から思いつきました)。次に行きましょう。西田は感覚のみならず思惟にも「意識の野」を考えるべきだと言います。そうして「意識の場所に於ては、無限に重なり合うことが可能」と言います。今音楽を聴いているとして(今自宅では、ブラームスの交響曲第2番を聴いています。ながら勉強です)現在聴いているのは一つの音ですが、実はそれと同時にひとつ前の音が現在の音に重なっていて、さらにこれから聞くであろう音もその現在の音に重なっています。しかもそれはバイオリンの音であり、それにチェロの音が重なっている。それぞれの音には音程だけでなく音色もあり、強弱もある。こうして考えていくと現在の一つの音に無限に多くのものが重なり合っていることが分かります。むしろ感覚にはそもそも識別作用が備わっていて、この識別作用は後からこれを考えるというような抽象的な判断とは異なる。そこで出てくるのがアリストテレスの「共通感覚」です。西田はこれについて「判断作用の如く感覚を離れたものではない、感覚に附着して之を識別するのである」と述べていますね。そうして「此の如きものを私は場所としての一般概念と考える」と述べています。今日はここまでとしましょう。
(第47回)
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「記載」と「構成」——初期フッサール批判

「場所」論文を読むのは久しぶりですね。7月30日以来です。その時のプロトコルはTさんにお願いしたのですが、今日はTさんがご欠席ということで、そのプロトコルは次回扱うことにしましょう。今日は255頁5行目から256頁3行目まで講読します。振り返りは架空の対話の形式で紹介します。
佐野
少し振り返っておきましょう。それから以前の解釈に間違いがあったことが判明しましたので合わせてこの場を借りて訂正させていただきます。252頁15行目から253頁2行目にかけて「無なる意識の場所と、之に於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる、有の場所から真の無の場所への推移に於て力の世界が成立するのである」とありますね。「有の場所」とは「物」と「物質」のことです。「物」の場合は触覚筋覚が基礎となって、これに他の視覚などの性質的なるものが盛られる。この場合触覚筋覚が「限定せられた場所」つまり「有の場所」になっています。ここまではよろしいでしょうか。

A

はい。大丈夫です。
佐野
ここからは訂正です。以前この限定をはずしていって視覚聴覚味覚臭覚へと広げていけば、「最も一般的なる感覚的性質」になり、西田はこれを「物質の概念」と呼んでいるとし、これは『善の研究』の「版を新にするに当って」における「昼の見方」相当するとしましたが、どうもこれは間違いだったようです。むしろ逆に触覚筋覚という性質をなくしていく方向で「何處までも推し進め」て「遂に最も一般的なる感覚的性質となる」と読むべきだと思います。そうなるとそこに出てくるのは、『善の研究』で言う所の「純物質」(111頁、岩波文庫改版)です。『善の研究』では、「純物質」は「全く我々の経験のできない実在」(同)であり、「数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎない」(同)とされています。これに対し「場所」論文では「物質の概念は斯くして成立するのである。物質は直接に知覚すべからざるものと考えられるが、それは特殊なる知覚対象ではないというに過ぎない。知覚の水平線を越えては物質というものはない」となっていますので、「純物質」を念頭に置きながらも、それは「知覚の水平線」上になければならない、と述べていることになります。たとえ直接に見ること触れることができなくても、つまり間接的な仕方で見る・触れることができなければならない、そのように言っているのだと解釈されます。どうでしょうか?

B

この方が分かりやすいですが、『善の研究』の「純物質」とは扱いが異なるということでしょうか。
佐野
そうですね。『善の研究』では「純物質」は実在しない、とされましたが「場所」論文では原理的に知覚可能なものになっていると思います。もう少し先を振り返っておこうと思います。さて「物」と今言った「物質」とを合わせて「知覚」の世界です。西田は「知覚」も「知覚の範囲」に「限定せられた有の場所」と考えます。「物」(「物質」)においては「相異」と「相反」が見られますが、そこには「力の世界」は見られないとされ、「力の世界」を見るには「矛盾の世界」に出なければならないとされます。塩(物)は白くて同時に辛い。相異は「物」においてある。これに対し木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変化した、という場合には「時」の概念を入れて「物」において「相反」を矛盾なく考えることができる、そのように我々は考えているけれども、そこにはすでに「矛盾」があり、そのことは「矛盾の世界」が開けることで見えてくる、そのように西田は言おうとします。ここまでは大まかな説明です。次にもう少しテキストに即して見ていきましょう。

C

お願いします。
佐野
我々の判断は数学的なものであれ、知覚であれ「一般概念」に則って行われます。数学の場合は例えば数がそうです。数学的な判断自体は矛盾律に従っています。5が同時に3になったりしません。しかし我々が矛盾律に従うことができるのは矛盾律以前に我々が矛盾ということを知っているからでしょう?また我々が5とか3とか言う時に、それらが数であることを理解していますが、そこには特殊(5と3)が同時に一般(数)であるということが前提されています。特殊と一般は対立する概念です。つまり我々が数学的判断をする場合に前提となる「一般概念」は「矛盾的統一」だということになります。この「矛盾的統一」が5や3といった特殊を「矛盾律」に従って矛盾なく統一していることになります。ここまではよろしいですか?

C

はい。
佐野
それでは知覚の場合はどうでしょう。知覚の場合も矛盾律に従わなければ我々は考えることはできません。ですが、この塩は白くて、同時に辛い。そのままでは矛盾してしまいますので我々はそこに「物」を考える。それによって白と辛を「相異」というように矛盾なく理解しようとする。また「白」一般はどこまで行っても「この白」に到達することはできませんが、そのことも「物」を個別化の原理と考えることで矛盾なく考えることができます。「物」における「相反」、例えば木の葉における緑と赤(緑ならざるもの)については、これを「時」の中で「変化」と捉えることによって矛盾なく考えることができます。以上が知覚の場合です。

C

どこにも矛盾は感じませんが。
佐野
もう少し待ってくださいね。先を続けましょう。誰も感覚的でない数学におけるような直観(純粋直観)と、感性的直観(「感覚的直覚」)を「同じとは考えない」(254,5)けれども、数学的判断も知覚的判断も「判断」である以上、その「根柢には一般的なるものがある」(同)、そのように西田は言います。それを見るためにはそうした「一般概念の外に出て之を見」なければならない、とされます。それによってカントがそうしたように「我々は斯くなければならぬ、然らざれば知識は成立せない」といった「先験的知識」が成立するのだ、そのように西田は考えます。我々は当たり前のように判断していますが、それは判断の一般者に乗っかって判断しているわけで、そうした我々の前提(一般者)を見るためには、その一般者の外に出なければならないことになります。ここには超越があります。それは「限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ること」であり、「有の場所其者を無の場所と見る」ことであり、「有其者を直に無と見る」ことだとされます。具体的には数学的判断も知覚的判断も矛盾律に従っていますが、その根柢に矛盾を見るということです。3と5の間に矛盾を見、塩の白と辛さの間に矛盾を見、木の葉の緑と赤の間に矛盾を見るということです。そうするとそこに「働くもの」つまり「力の世界」を見ることができる、ということになります。これで一応復習と訂正が終わりました。それでは本日の講読箇所を読みましょう。Aさん、読んでください。

A

はい。(音読)
佐野
まず「記載」と「構成」(255,6)ということが出てきますが、これは後で「現象学的立場」(同9)と出てきますように、初期フッサール批判です。初期フッサールは知覚の立場に立ちますが、それが「考えられた一般概念」の外に出ることができない以上、その一般概念の中で単に「記載」(記述)しているにすぎない、というのです。「構成」と言う以上、この一般概念の外に出て、知覚を見る必要があるというわけです。これは初期フッサールが「意識せられた意識」の立場に立っていて、「意識する意識」の立場に立っていない(248,13-249,2)というのと同じ批判になります。次をBさん、読んでください。

B

はい。(音読)
佐野
ここではアリストテレスの感覚の話が出てきますね。これは『デ・アニマ』424a17に見えますが、もとはプラトンの『テアイテトス』191c-dにあるものです。西田はこのアリストテレスの感覚を「共通感覚」の話に結び付けて考えようとします。さしあたりここでは「感覚」が「封蝋の如く、質料なき形相を受取るもの」だとされています。封蝋ってご存じですか?

A

最近は見ないですね。それどころか、今の人は手紙に封をする時に締(〆)も書かない。Bさん、どうですか?

B

私は書きません。
佐野
昔は封をする時にを蜜蝋を塗ってその上から指輪の印章を押して密封したんですね。その時印の形だけを蜜蝋は受け取るわけで、指輪の材料(金属など)は受け取らない。このことを言っているんですね。そうしてこうした「質料なき形相を受取るものは形相を有たないものでなければならぬ」とまずは言われます。蜜蝋は形がない。しかしさらに「斯く受取るとか、映すとかいうことが何等かの意味に於て働きを意味するならば、それは働くものなくして働き、映すものなくして映すということでなければならぬ」と言われます。

C

受取るとか映すということがどうして働きなんですか?働きと言うと能動的なものだと思うのですが。
佐野
「何等かの意味に於て」とありますね。受動的な意味において、ということでしょう。

D

「それは働くものなくして働き」とありますが、この「それ」って何ですか?
佐野
私は「受取るとか、映すとかいうこと」と取ったのですが…今回はここまでとして、次回改めて考えて見ましょう。
(第46回)
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「矛盾の関係」をどう理解するか

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はRさんでした。またキーセンテンスは「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである」(254,14-255,1)でした。疑問ないし考えたことは「一般概念を破ってその根抵へと徹底すれば、有の場所からその根抵である真の無の場所に到る。そこに「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」というような矛盾的関係が見られる。それは具体的にどういうことであろうか。それは有の場所や物がなくなり、すべてのものは無となるとことではなく、有其者(物や物質)はそのまま無であるように見られるでしょうか」でした。
佐野
まず、この箇所の読みですが「真の無の場所」において「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」ではありません。「真の無の場所」に到って、そこから「有の場所」を見るということです。それが具体的にどう見えるのか、こういう質問でいいですか?

R

質問を変えたいと思います。「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理の根柢に於ける一般者とは如何に異なるか」(254,6-7)という文章があります。私はこの二つの一般者は両方とも「根柢」における一般者として「真の無の場所」だと考えています。
佐野
そういうことでしたら、先に本日の講読箇所を読んでから考えましょう。今日の講読箇所は255頁1行目から5行目です。まず「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない」とありますね。「先験的空間」とは経験を可能にする空間、つまり感性の形式としての空間のことですね。カント哲学を念頭に置いています。これはアプリオリ(先天的)な形式で、感性(感覚)的ではありません。ですから「知覚的空間は直に先験的空間ではない」ということになります。続いて「併しそれは先験的空間に於てあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」とあります。ここで「知覚的空間」が「先験的空間」に「於てあり」、その「背後」が「真の無」であることが分かります。ここには三つの層(知覚的空間、先験的空間、真の無)がありますね。続いて「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於てあると云うことができる」とあります。この「それ」とは何ですか。

R

「知覚的空間」ではないでしょうか。

K

私もそう思います。ですが「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に」という文章との続き具合がよく分かりません。「意識」という語がポイントになっていると思います。

R

この「意識」は「意識の野」のことですよね。
佐野
「先験的意識」とは経験を可能にする意識、つまり「意識一般」のことです。以前にも「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。ここでは「無の場所に於てある」ということが「意識」を意味する、となっていますね。以前〈有の場所―対立的無の場所―真の無の場所〉という系列と〈有の場所―相対的無の場所―絶対的無の場所〉の二つの系列があることが確認されましたね。242頁で後者の系列が初めて出てくるのですが、そこではこの「絶対的無の場所」が「意識の野」とされていました。目下の講読箇所でもそれに従っているようです。つまりRさんのおっしゃる通り、ここでの「意識」は「意識の野」ですが、それは後の方の系列の「絶対的無の場所」と同義です。したがってそれは「対立的無の場所」と「真の無の場所」を含んでいて、両者の門口となるのが「先験的意識」つまり「意識一般」です。そうなると「それは先験的意識に於てある」とは、「知覚的空間」がまず「先験的空間」に於てあり、それは「先験的意識」(意識一般)の形式であるから、結局「知覚的空間」は「先験的意識」に於てあることになり、その背後が「真の無の場所」に通じている、そのように読めるでしょう。ここまでいかがですか?特にご意見はありませんか?なければ次を読んで見ましょう。Tさん、お願いします。

T

はい。「是故に一般概念の外に出るということは、却って之によって、真に一般的なるものを見ることである。先験的空間という如きものは、此の如き一般者を云い表したものである」。
佐野
「此の如き一般者」とは何を指していますか?

T

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
私もそう思います。我々は「知覚」という「一般概念」の上に立って知覚し、「先験的空間」という「一般概念」の上に立って空間的に認識(判断)しています。空間のみならず、我々は「先験的真理」という「一般概念」の上に立って判断しています。しかしその「一般概念」を「真に」見ようとすれば、一旦その「外に出」なければなりません。それが「真の無の場所」に到って、そこから自分が立っている「真に一般的なるもの」を見る、ということだと思います。ここまではいかがですか?

N

日常自分が立っているところの外に出て、それを見るというのは人間にはできないことではないでしょうか。目は目を見ない、と言うように。
佐野
確かにそうですね。反省的思惟という仕方をとる限り不可能です。しかしその反省が成立するためには、その奥に直観がなければならない、それを西田は明らかにしようとしているのだと思います。難しいところですが、ここはとりあえず、それでよろしいでしょうか。さて、それではここからもう一度Rさんの問いに戻って考えて見ましょう。「真の無の場所」から見ると、「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」、これが具体的にどういうことか、ということでした。塩は白くて辛い、これは相異の例、木の葉が緑から赤、つまり緑ならざるものに変わる、これは相反の例ですね。以前(「内部知覚について」88,14-89,4)にもありましたが、緑から緑ならざるものへ移るその転回点、そこは何色でしょうか?

T

緑と緑ならざるものの中間の色だと思います。
佐野
しかし緑と緑ならざるものが同時に成り立つというのは矛盾ですね。時の考えを入れれば矛盾なく説明できると思われた変化ですが、さらに考察してみると矛盾が見えてくる。

Y

木の葉が緑から緑ならざるものに変わる時に、緑でも緑でもない木の葉そのものが実在として見えてくる、というようには言えませんか?
佐野
相反するものが同時に成り立つ基体として物を考える、ということですか?それは少なくとも西田は認めていませんね。191頁15行目から192頁1行目に「相矛盾する二つの概念にいたっては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とあります。相反するものが同時に成り立つのは力に於てだ、というのが西田の考えだと思います。

Y

191頁14行目から15行目にかけて「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とあり、緑と緑ならざるものは「色」という類概念に統一される、と考えられますが、「相矛盾する二つの概念にいたっては、…類概念を以てすることもできない」とあるのはどう理解したらよいでしょうか?
佐野
そうですね。これは類概念(一般概念)の拒否ですね。どう考えましょうか。相矛盾するというのは、今の例で考えると、緑と緑ならざるものを同時に統一する、ということではないでしょうか。それは最早「色」を見るということにならない。89頁3行目から4行目にかけて「我々が色の推移を見る時、単に色を見るという意味に於て見ることのできないものを見て居るのである」とあります。

Y

分かりました。
佐野
今のは「相反」の場合ですが、「相異」の場合はどうでしょう。塩が白くて辛い。このどこに矛盾を見るのでしょうか?我々は感覚を五感に分けて考える習慣がありますから、その前提では矛盾などどこにもない。しかし西田はそう考えない。五感に分けて考えるのはすでに思惟の結果だと考えます。そうなるとそのように分ける以前の在り方が問題になります。そこでは運動、静止、数、形、大きさ、色、音、味、匂いなどが一体になっています。これらから触覚筋覚に属するようなもの(運動、静止、数、形、大きさ)を物にして、これにおいて白という色と辛いという味が同時に成り立つと考える場合でも、同じ所に白と白ならざるものが同時に存在することになります。そうなるとこれは矛盾です。この矛盾を「物」は支えることができない。それを支えるのは「力」だということになります。

O

一つの主語の中に森羅万象のすべてが含まれている感じですね。
佐野
そうですね。そうしてその一つ一つが互いに矛盾しているのです。今日はここまでにしましょう。
(第45回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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