何處までも述語となって主語とならないもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落276頁11行目「アリストテレスは」から同段落278頁4行目「撞着せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードは「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他とを更に包含する一般者を見ることはできない」(278, 1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「基礎医学研究の恩師の「研究とは靄の中を進むようなものだが、いろいろもがいていると一瞬靄が晴れるような瞬間がある」という言葉を思い出しました。私達の知識世界は靄の立ち込めたフロンティアに取り囲まれていますが、それが「矛盾的統一の対象」ではないでしょうか。知識世界の拡大活動を続ける=矛盾的統一の対象にまで行き詰り続ける、ということになり、靄が晴れる瞬間は探究者の気づきとして訪れるのでは、と考えました」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Tさん、何か付け加えることはありますか?

T

西田は「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」と言いますが、そんなに苦悩しなくても矛盾は常にあると思いました。我々は常に是非も分からないもの(モヤモヤ)に取り囲まれているのだと思います。
佐野
なるほど。しかし我々は通常は人生ほど明らかなものはないと思っていて、そこにモヤモヤを感じませんね。ところで質問ですが、Tさんは「モヤモヤ」の状態が「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」、それが「晴れるような瞬間」が「(是と非是とを包含する)一般者を見る」時、そのようにお考えですか?

T

そうですが、「一般者を見る」ではなく、「見たかのように」ということです。「見た」とするのはおこがましいと思います。あくまでも垣間見るという仕方です。
佐野
ここで、Tさんは所用のため、一時退出します。Wさんが入ってきましたので、ちょっとWさんにお聞きしてみましょう。Wさんは前回のプロトコル担当者でしたが、学会出席のためにご欠席でした。Wさん、「読書会だより」をご覧になったと思いますが、何かご発言はありますか?

W

西田は人間が根底に矛盾を抱えているように考えていますが、そこのところがよく分からない、というか難しいな、と。最後の所で「ただ有る」ということがあって、矛盾は人間がそれを言葉にもたらすから生ずる、というようになっていて。

M

矛盾を突き詰めたら矛盾がなくなるとお考えですか、それとも矛盾はそのままに有るとお考えですか?

W

矛盾が生み出される前には矛盾はないように思います。

M

矛盾が生み出されるのは人間が言葉をもつからですよね。ですが人間は言葉を用いることを止められない、だから人間には矛盾が避けられないのでは?
佐野
難しいところに入ってきましたね。Tさんがお戻りです。今の議論はTさんのプロトコルにも関わりそうですね。

O

人知が及ぶ範囲だと「行き詰る」けれど、人知の及ばないところにいれば「行き詰」らない。だけど、人知の及ばないところにどうしても法則なり統一があるように見えてしまう、ということがあると思います。

T

研究者は誰も見たことのないところへ行って、そこで何かを見てそれを理解しようとするのですが、勘違いも多い。「私」が見つけたものはどうしても主観的な気がするんですね。そうすると揺らぐ。主観を排除したいのだけれど、どうしても入ってしまう。
佐野
それで「かのように」とおっしゃるのですね。しかし西田は直観(直覚)を認める。これがないと判断が成り立たないと考えます。フロンティアの探究も何かが見えていないと探究は成り立たない、ということがあると思います。他に質問はありませんか。

R

分けることと直観、あるいは言葉と経験についてですが、言葉にすることも経験ですし、この二つは分かれていないのではないでしょうか。そのように初めからすべてがあるのだとすると、そこからどうして分かれることが生じるのかが分かりません。
佐野
目下読んでいるところの脈絡では、判断や知識の成立からその条件を求めていくという、表からの考察です。そうして判断の成立には真の無の場所や直観がなければならない、そういう論じ方をしていますね。判断が破れなければ、破れた所は見えない。だから判断の立場では初めからすべてが顕わになっているとしても、それを捉えることはできないのだと思います。逆に真の無の場所の方から有の場所の成立をどう説明するのか、つまり無分別のところから分別の成立をどう説明するのか、ということになれば、おそらくそれはこの後「一般者の自己限定」という形で説明することになるのでしょうけれども、それがうまく言っているのかはさらに考える必要があるでしょう(因みに無分別の直観から分別や反省が如何に成立するか、はシェリングを苦しめた問いです。ヘーゲルは無分別や直観の立場に立つということがすでに分別・反省の立場に立っているという論じ方をします)。プロトコルはこの位にして講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(278頁4行目~9行目)
佐野
3行目から4行目にかけて「単なる述語面、純なる主観性」と言われたものが「純なる主観性、体験の場所」と言い換えられていますね。いずれも「真の無の場所」であると考えられます。「かかる場所に於て繋辞の有は存在の有と一致するのである」とありますが、どういう意味でしょうか?

A

「繋辞の有」とは「である」、「存在の有」とは「がある」ということで、判断と直観(直覚)のことだと思います。
佐野
そうだと思います。判断の「である」を押し詰めて行けば、直観の「がある」に一致していく、ということでしょう。この「存在」は「豪末も異他性を容れない」主語、つまり矛盾もなくただ存在しているものとも考えられますが、「かかる場所に於て」とありますから、こうした「真の無の場所」に於てあるもの、ということでここは「矛盾的統一の対象」としておくにとどめておきましょう。

B

次の「客観的対象の主観と考えられる意識一般」というのがよく分かりません。
佐野
「客観的対象」というのは物自体のようなものではなく、意識の対象、次の行に見える「意識せられた対象」という意味です。そうした者を対象とする「主観」は「意識一般」、つまり「意識する意識」です。これでどうですか?

B

分かりました。
佐野
指示語がありますね。「而して判断の立場から云えばそれは」とありますが、「それ」は何を指しますか?

C

「意識一般」ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。それが「対象が於てあるもの、述語的なるもの」とされています。こうしたものによって「判断意識が成立する」と言われています。「真の無の場所」によって判断が成立するということです。逆に言えばそれがなければ判断の成立を説明できない、ということです。西田は判断の根柢にある直観においても述語面、場所が失われることはないことを強調します。そうでないと判断が成立しえないと考えるからです。ここが西田哲学、場所論の大きな特徴です。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(278頁9行目~11行目)
佐野
「判断の立場から意識を定義するならば、何處までも述語となって主語とならないものと云うことができる」とありますね。「何處までも述語となって主語とならないもの」は今後術語として頻出することになりますが、これがおそらくはその初出です。さりげない仕方で登場していますね。ここでは「意識」がそのように定義されていますが、この意識は「意識一般」「意識する意識」で、「真の無の場所」のことです。

C

「意識の範疇は述語性にある」はどういう意味でしょうか?
佐野
通常、範疇は主語となる対象を構成するものであることを念頭に置いた発言でしょう。意識の範疇は主語性にあるのではなく、述語性にあるのだ、と西田は言いたいのです。

D

次の「述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる」というのがよく分かりません。意識は対象化されない、客観的に見ることはできない、ということではなかったですか?
佐野
ここはそういう疑問が起こっても不思議ではないですね。次に「反省的範疇の根柢は此にあるのである」とありますね。ラスクのことを念頭に置いています。ラスクによれば、我々の判断というのは、「構成的範疇」によって構成された対象(超対立的対象)が原像となり、それがさらに「反省的範疇」によって判断領域にもたらされます。その時には対象は似像になっています。ラスクにとって重要であったのは構成的範疇の方でしたが、西田は逆に判断を成立せしめる反省的範疇に重要性を認めます。ところでこの反省的範疇はどのようにして知られうるでしょうか。それが「述語を対象とする」、「意識を客観的に見る」ということです。そうなるとこの「意識」は「意識する意識」「意識一般」でしょうか?それとも「判断意識」でしょうか?

D

判断意識だと思います。
佐野
私もそう思います。それは「意識せられた意識」ですね。判断意識は有の一般者(一般概念)の上に成り立っていますが、それを見るためにはその外に出なければなりません。こうして「意識」を見ることができるのだと考えられます。

D

分かりました。
佐野
それでは次を読みましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(278頁11行目~279頁5行目)
佐野
「従来の所謂範疇は一般者の求心的方向にのみ見られた」とありますね。「求心的方向」とは?

E

主語の方向だと思います。
佐野
そうですね。それに対し「遠心的方向」は述語の方向です。円が念頭に置かれていますね。述語の方向に範疇を見るべきだ、そのように西田は主張しているようです。「何處までも主語は述語に於てなければならぬ」と来て、「判断作用と云う如きものは第二次的に考えられる」とありますね。では第一次的なものは何でしょうか?

E

「述語的なるもの」でしょうか?
佐野
そうですね。すぐ後には判断的知識の「根柢に述語的一般者がなければならぬ」とありますから、「述語的一般者」でもいいかもしれません。次いで「すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴われねばならぬ」とあります。カントですね。「我考う(ich dende)」です。デカルトのコギト同様、これは図と地で言えば、地ですね。対象化できない(対象化したら図になってしまう)けれども感じられる。そうした自己意識(「自覚」)です。そうした「自覚が経験的判断の述語面となる」とされます。こうした超越論的統覚の自我(我)は「主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と述べられます。主語的統一、点、物と述語的統一、円、場所がパラレルに述べられています。

E

次に「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」とありますがおかしくありませんか?真の自己を知るというのが西田の考えではないですか?
佐野
「知る」の意味でしょうね。テキストで言われているのは対象化して知るということですから、そういう知り方では超越論的統覚としての我(真の我)を知ることはできない、ということでしょう。問題はこうした「我」が本当に「我」なのか、ということです。この我は誰の我でもなく、誰の我でもある、そうした我です。そうした「我」がここで「真の無の場所」と一つになって語り出されていることに注目したいと思います。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(279頁6行目~13行目)
佐野
「それでは数学的判断の根柢となる一般者と経験科学的判断の一般者の根柢となる一般者とは如何に異なると云うでもあろう」と来ますね。「それでは」とはどういうことを受けているのでしょうか。これまで示されたことは判断意識一般の根柢が述語的一般者である、ということです。「それでは」というので、この二つの判断の根柢の違いはどこから来るのか、それを説明できてはいないではないか、そうした異論が出て来ることを想定したのでしょう。数学的判断の根柢となる一般者が、例えば5(特殊)がそのまま数(一般)である(「5は数である」)というように、「特殊の面と一般の面とが単に合同する」のに対し、後者、即ち「経験科学的判断の根柢となる一般者」においては、「特殊を含む一般の面が之を包んで尚餘あるのである」とされています。おや、と思うでしょう。逆ではないか、そのように思われて当然です。例えば193頁では「所謂経験的一般概念と考えられるものに於ては一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ」とされていました。この花の赤を一般の側から限定することはできないということです。そうであれば特殊の方が一般を包んでなおあまりあるというべきではないか、そう思われるはずでしょう。そこはとりあえず置いておいて、次を読むと「元来判断に於ては、述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広いのである」とある。「元来」とありますが、それがどういう意味か考えて見ると、判断の元来、つまり「包摂判断」のことを言っているようです。包摂判断ならば、究極的な述語である、「述語となって主語とならないもの」がもっとも広いことは頷けます。そうして「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場から云えば、それは単に抽象的一概念と考えられるであろう」と来ます。そこで、ははあ、先程の特殊の方が一般を包んで余りある、というのは「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場」だったのだな、と気づくことになります。こうした判断的意識の立場から考えるならば、包摂判断のやり方は「抽象的一般概念」にしか妥当しないと思われるからです。西田はそうした判断的意識の立場を承知の上で、あえてその逆を主張しているのです。そうして「併し我々の経験的知識の基礎は此の如き述語的なるもの、云わば性質的なるものの客観性に置かれねばならぬ」と言います。理由は述べられていません。

D

この「客観性」の意味がよく分かりません。
佐野
この「客観性」とは物自体のような意味での客観性ではなく、普遍妥当性という意味での客観性でしょう。カントは知識の客観性をこうした普遍妥当性に求めましたが、そのことを念頭に置いていると思われます。また新カント派のラスクはそうした客観性を主語の側の「超対立的対象」に求めましたが、そうしたことも念頭に置いて、経験的知識の客観性は述語的なるものの側にある、そのように主張したのでしょう。そうして「性質的なるものが(、)主語となって述語とならない意義を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのである」と続きます。「主語となって述語とならない」ものとは、個物のことですから、性質的なるものが限定されて、個物となる、そうしたことが念頭に置かれているのではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第65回)
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無限定なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落275頁11行目「意識が純粋作用と考えられるにも」から同段落276頁11行目「此に到達せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードは「意識作用が純粋作用と考へられるのも我々の意識と考へられるものがかかる矛盾の統一の場所なるが故である」(276, 4-5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「われわれの意識と考えられるもの」が「矛盾の統一の場所」なるが故に、「意識作用が純粋作用と考へられる」という。しかし、ただ「生きる」、ただ「歩く」といった、その都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる。こうした「述語的なるもの」の中で、西田は、「意識する意識」に焦点を当てることによって、映されたものを対立させ、自ら矛盾をつくりだしているのではないか。「意識」に映されることによって、つくりだされた矛盾的関係が、矛盾の統一の場所なる「意識」におかれているとはどういうことだろうか」(251字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Wさんは、今日学会出席のためお休みです。私の方から皆さんにお聞きしたいのですが、「ただ「生きる」、ただ「歩く」といったその都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる」とありますね。たしかに通常はありませんね。Wさんも「思われる」と書いていますね。では「生きる」や「歩く」のどこに矛盾があるのでしょうか。

T

主語に矛盾があると思います。たとえば「私が生きる」「私が歩く」という場合、主語は移ろい行くものです。幅がある。「私は死ぬ」「私は止まる」にもなります。
佐野
瞬間はどうですか。そこには矛盾はないのですか?

T

瞬間は存在しません。しかし「今」しかないともいえるかもしれません。その場合は矛盾的になると思います。
佐野
死が近くなると実感されると思いますが、「生きる」ということは「死につつある」ということです。また私の父は現在、車椅子生活ですが、「歩く」ということもつねに「歩けなくなりつつある」ということと一つです。我々は生死を常に生の側から見て、生は生、死は死というように考え、死を自分でないものとして先に追いやります。病や老いもそうです。それで何の矛盾もないような顔をしている。しかし実は根柢にそうした矛盾を常に抱えている、そう言えると思います。

M

矛盾を「つくりだしている」という表現が気になります。
佐野
Wさんは私へのメールではそれは「人間」が作り出してしまうのだ、というように書いておられました。動物も含めて、人間以外のものに、生死はありません。老いも病もありません。彼らはただただ生死するのみです。ところが人間はそれができない。それは言葉をもつからだと思います。言葉は本質的に「分ける」。例えば生と死を分ける。しかしもともと分けることのできないものを分けているのですから、その矛盾に苦しむことになります。その意味ではこうした矛盾を人間は「つくりだしている」とも言えるかもしれません。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(276頁11行目~15行目)
佐野
ここはアリストテレスの「物理学(自然学)」についての記述ですね。アリストテレスの「自然学」に関する資料がお手元にあると思います。207aですね。岩波の新しい全集第4巻の154頁(内山勝利訳)です。内山訳では「統括する(ペリエケイン)」となっているものを西田が「包む」と訳していますが、ほぼ忠実な要約になっていることが分かります。「全体」と「無限定なるもの」(内山訳では「無限なるもの」、量的質的な無限、無限定のこと)が「類似」しているから、パルメニデスたちは「無限定なるもの」に威厳をもたせて、「無限定なるもの」が「すべて(全体・万有)」を「包む」と言っているが、アリストテレスはこれに反対して、逆に「全体」が「無限定なるもの」を包むと主張している、ということです。その根拠は「全体」が形相(現実態・顕現(エネルゲイア)、終極実現態(エンテレケイア))であるのに対し、「無限定なるもの」は質料(素材、可能態・潜在)だから、というのです。アリストテレスにとっては形相が「全体」であり、これが質料を包むことによって、これを限定するのです。

T

無限なるものが限定される、というのがよく分かりません。例えば時空は限定されないのではないですか?
佐野
ここにはギリシャ哲学の特殊性を考慮しなければならないと思います。ギリシャ哲学にあっては完全・完結こそが神的なものの在り方です。例えば、パルメニデスは「有(存在)」を球体のように考えていた。パルメニデスはエレア派の祖です。その弟子筋にメリッソスというのがいて、存在は無限だ、と言い出したのですが、これはむしろ例外だということです。207aにも同趣旨の記述がありますね。

T

それでようやく分かりました。
佐野
このアリストテレスの考えに西田は反対するのです。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(276頁15行目~277頁6行目)
佐野
西田は場所論の根本テーゼ「有るものは何かに於てなければならぬ」(208頁)を持ち出します。アリストテレスの形相(エイドス)もプラトンのいわゆるイデアもその「於てある場所」がなければならない、そう言います。そうでなければ判断(認識)の成立を説明できない、そう考えます。文中、「量の分割作用によって潜在と顕現が分たれる」とありますが、これに関する記述もアリストテレスの「自然学」207aに見えますね。量は「無限定なるもの」です。それではそれを限定するもの、分割作用は何ですか?

C

形相です。
佐野
そうですね。そうだとしてもそうした「作用自身を見るものがなければならぬ」、西田はそう言います。これは判断(認識)の根本にある直観のことですね。西田は直観においてすら、「場所」を必要とすると考えます。次に「潜在として有に包まれた無」とありますね。この「有」とは?

C

形相のことです。
佐野
そうですね。形相こそが本当に「有」と言える(ウーシア、実体だ)とギリシャ人たちは考えます。そうすると「潜在として有に包まれた無」とは何のことですか?

C

無限定なるもの、ではないですか?
佐野
そうですね。それは「真の無」ではない、そう西田は主張します。そうして「真の無は有を包むものでなければならぬ」と言います。そうして「主知主義の希臘人はプロチンの一者に於てすら、真の無の意義に徹底することができなかった」と述べます。ここではじめてプロティノス批判が登場します。『働くものから見るものへ』前半ではプロティノス万歳でしたね。Dさん、お願いします。

D

読む(277頁6行目~10行目)
佐野
指示語がありますね。それを押さえておきましょうか。7行目に「それ」とありますが、何を指していますか?

E

「限定せられた一般者を越ゆる」こと、ではないですか?
佐野
私もそう思います。我々は限定された一般者があるから、通常の判断を行うことができます。限定された一般者がなければ、判断(知識)が成り立たないと思われますが、西田はそうではない、それを越えることこそが「知識成立に欠くべからざる約束」だ、と言います。「約束」とは条件のことですね。これがなければ知識が成り立たない、ということです。我々は通常限定された一般者のもとで判断を行っており、それで矛盾なく分かった気でいますが、実はその根柢に「真の無」がある、それは矛盾的関係が於てある場所だ、そう考えます。「単に一般と特殊との包摂的関係に於ても、既に此両者を包むものがなければならぬ」とありますが、「人間は動物である」という命題において、特殊と一般はどうなりますか?

F

人間が特殊で、動物が一般です。
佐野
そうですね。その命題を意識した時に、すでに特殊と一般をさらに包むものが意識されている、ということです。この「意識」が「真の無」だというのです。次に「判断的知識の極致と考えられる矛盾的関係に於ては、明に之を見ることができる」とありますが、「之」は何を指していますか?

G

「真の一般者」です。
佐野
そうですね。「真の無」のことです。「判断的知識の極致」とありますね。通常の判断ではありません。そうした判断が行き詰って、破れたところです。直観するほかないところです。そこが「真の無」の場所だと。「矛盾的関係」が出てきましたね。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(277頁10行目~278頁4行目)
佐野
「矛盾的関係」とありますね。我々は通常、矛盾は考えられません。相異と対立までです。犬と人間は違う。相異ですね。それが考えられるのはその根柢に「動物」という一般者を置くからです。塩の白さと辛さも相異です。それが成り立つのは両者の根柢に「塩」という「物」を置くからです。相異は対立に発展します。例えば犬と人間の相異は、犬と犬ならざるものと考えることもできますが、こうなると対立です。この場合でも根柢に一般者を置けば思考可能です。またAとAでないものは同時には成り立ちませんが、時間の経過を考えれば矛盾なく理解できます。木の葉が緑から緑ならざるものに変化した、というように。この場合でも「木の葉」というものが一般者になっています。しかし、こうした一般者がないとなると、対立したものが直接ぶつかり合います。これが矛盾です。そうした関係として、これまで「生と死」「有と無」が例に挙がっていました。テキストではこうした「矛盾的関係に於ては、少くも知るものと知られるものとが相接触して居なければならない、主語の面と述語の面とが或範囲に於て合同して居なければならない」とあります。「知るもの」は主語、述語、どちらの面に来ますか?

G

述語です。
佐野
そうですね。主語は対象ですから、「知られるもの」に側に来ます。「少くも」「或範囲に於て」という言葉がありますが、西田は直観が成立する真の無の場所においても、主語と述語が単に合一するとは考えません。そこに於てあるものと場所を区別します。そうしたことが念頭に置かれていると思います。そうして「矛盾的統一の知識の対象も、対象其者として矛盾を含んで居るのではない、否寧ろ厳密に統一せられたもの、豪末も異他性を容れないものと云い得るであろう、最勝義に於て客観的と云わねばならぬ。矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於て云い得るのである」と来ます。ここは以前取り上げましたね。人間以外の言葉をもたないすべてのものは、生即死、有即無をそのまま生死、有無します。そこには老いも病もありません。言葉をもたないからです。しかし人間は言葉をもつ。言葉は本質的に分ける、ということです。そうして我々は自らを生や有の側に置き、死、無、老い、病を向うに置き、それで矛盾のない世界を生きている気になっています。しかしもともと一体なのですから、こうしたものに煩わされ、苦悩することになります。こうした苦悩の中に矛盾が現れているのです。我々は自らの力でこうした矛盾を直視することはできず、それから目を逸らします。しかし何らかの機縁で判断が破れるよう体験が起こる。そこが「真の無」の場所、ということになります。要するに本来矛盾のない主語(対象)が述語に映されることで「矛盾的関係」が生ずるということです。

G

人間じゃない方がよかったかもしれませんね。
佐野
そうかもしれませんね。次を見てみましょう。「所謂主語面に於ては、是か非是かの対立性を成す」とありますね。「所謂」とありますように、ここは通常の判断です。通常の判断ではAか、Aでないかはっきりしていないといけません。生も死も同様です。しかしそれが「矛盾的統一の対象にまで行き詰る」。そこでは「判断的知識の立場からしては、もはやそれ(是)と他(非是)とを更に包含する一般者を見ることはできない」。まさに判断が破れたところですね。分かりきった言葉を失うところです。しかし「併しかかる対象といえども、述語可能性を脱することはできぬ。然らざれば、判断の対象となることはできない」。通常の言葉を失ったところ、絶句、沈黙のところから、言葉が、やはり判断という形を取りながらも、出て来るということです。ここにおいて「我々は単なる述語面、純なる主観性というものに撞着せざるを得ない」とされます。「真の無」ないし「意識」が述語面として捉えられていることが分かります。今日はここまでとします。
(第64回)
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意識する意識

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」五 第2段落、274頁の9行目「右の如く特殊と一般との包摂的関係から出立し」から同275頁の11行目「矛盾的対立の対象に於いて初めて働くものが考へられるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードは「一般と特殊が合一し自己同一となる(275,1)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般と特殊の合一が特殊の矛盾的対立とその統一を含むことから、その無の場所は特殊を知覚している範囲での無の場所に限定されるのではないか?(一般の特殊との間に間隙のない数字のような場合は別として) 一般と特殊の合一は無限に接近して極限に達することであると述べてある(275頁冒頭)。感覚的には特殊を包摂していた一般が無限の接近のどこかで逆転し、特殊のなかにあった一般が表にでてくるようにイメージできる(極限に達して逆転するというより、逆転したところが極限であるという気がする)。無限の特殊が無限に一般に接近する(あるいはその逆がある)としても、具体的(体験的)には目のまえにある特殊の範囲でそれは起こるように思えるが、そのような理解でよいか」(315字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Oさん。何か補足説明はありますか?

O

読んだ時は「一般」にしても観念的に知識として読んでいる。ああ、そうですか、といた感じです。だけどそれでは受け取ったことにならない。ここには「問い」とある。「問い」とは何か?単なる疑問や質問は問いではなく、問いとは生身の自分のこと。そういうことに思いついた時、「特殊」とは眼前に広がる世界で、それは宇宙に一致した一般にまでは広げられない。だけど「一般と特殊の合一」を我々は眼前の知覚の範囲の中で、垣間見るような仕方で見ているのではないか、そう考えたわけです。

Y

知覚=世界、ということでいいですか?

O

ええ。知覚しているものはこの花であったり、この木であったりするわけですが、それが逆転すると見方が変わるんです。そこで「一般」を感じる、そういうことが垣間見るような仕方で起こっているのだと思います。
佐野
通常我々は個々のもの(特殊)、例えばこの机などを見ていると思っている。これはいわば図と地で言えば、図ですね。そうした見方を破って、それを成り立たせていた地が垣間見るような仕方で顕わになる、その地に当たるものが一般だと、そういう理解でいいですか?

O

はい。

T

いろんな川がある、これを特殊とすると、水を一般と考えることができます。こう考えると「体験的」ではなく、他人事になってしまいますが、これを私たちの身体について考えると、私たちは川のようなもので、それを物質的精神的なものがグルグルめぐっていると考えれば、だんだん特殊と一般が重なって来る、と思うのですが、この考え方だと「極限」がどうなるのか、それがよく分からないので考え中です。

K

一般と特殊の関係は「無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる」とあるように、流動的だと思います。特殊を説明するには一般がなければできませんので、我々は一般にこだわるのだと思います。ですが一般と特殊が合一して、一般が無の場所になると、もう説明ができません。そうなると体験の中で「然り」という外ない。膝を叩くという言葉がありますが、そういう頷き方です。

N

私はこの極限の体験について三つのイメージを持っています。①唯一無二。Oさんそのもの、②純粋経験。純粋経験は見えず、まさに感じることに尽きています。昔川上哲治という打者が「ボールが止まって見える」と言ったということです。他にももっとすごい打者もいると思うが、川上はそれを言葉にすることができた。このように言葉にできる人が、純粋経験を経験できるのだと思います。③数学者にとっての抽象概念。例えば実無限が数学者には実在と感じられる、というものです。
佐野
いずれも通常の経験を超えた経験ですね。最後のお話は、芸術家にとっての美もそう言えるかもしれませんね。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、前回最後の部分(275,4-11)を読んだだけで終えましたので、もう一度見ておきましょう。いきなり「無論、右の如き意味に於ける純粋作用」と出てきますので、少し振り返っておきます。
佐野
通常は一般と特殊の間に間隙があります。〈人間は動物である〉において〈人間〉(特殊)と〈動物〉(一般)は異なります。そうして「一般(動物)によって包含せられたる特殊(人間と犬)は互いに相異なれるもの」ということになります。ここでは「相異」のみが言われていますが、〈人間と犬〉というのを〈人間と人間でないもの〉と考えれば〈相反〉も含めて考えることができます。「一般」によって「相異」(相反)が矛盾なく考えられる、ということです。
佐野
しかし「一般と特殊との間隙がなくなる時」、この時には「一般」がなくなりますから、「特殊は互いに矛盾的対立に立つ」ことになります。〈Aである〉と〈Aでない〉が「一般」なしに対立することになりますが、西田はこうした「矛盾的対立」を「矛盾的統一」とも呼びます。〈Aである〉と〈Aでない〉を統一することが「構成」です。例えば5だけ取り出して5であることをいくら考えても5にならないのと同様、A(特殊)は〈Aでない〉と統一されることで初めて〈Aである〉と言えます。
佐野
今の場合は〈類概念〉を一般とした場合ですが、〈物〉(基体ないし質料)を一般とした場合にも同様に考えることができます。
佐野
塩において〈この白〉と〈この辛さ〉は相異なります。この場合塩が一般で、白と辛さが特殊で、一般と特殊の間に「間隙」があり、それによって白さと辛さは矛盾なく存在できると考えられています。しかしこの一般がなくなると、〈この白〉と〈この辛さ〉が直接にぶつかります。〈この辛さ〉は〈この白でないもの〉ですから、相異は同時に相反です。両者が一つになっているので、これは矛盾になります。この矛盾から出発して、そこに塩という〈物〉(一般)を置くことで両者を矛盾なく統一することが「構成」です。
佐野
いずれの場合においても、「一般」が「構成的意義」を持ってくるのですが、それは「一般」が〈動物〉や〈塩〉のような外に置かれたものではなく、「意識」そのものになることです。それは「一般」が「限定せられた一般者」から限定せられない真の一般者になることでもありますから、「一般が自己自身に同一なるものとなる」とも言われています。「一般と特殊とが合一し自己同一となる」ということは特殊が特殊になること、換言すれば〈個〉になることであると同時に、一般が真に一般になるということでもあるのです。
佐野
これだけでしたらヘーゲルと同じですが、西田は一般が一般になる、というところに「無の場所」としての「意識」ないし「意識作用」を見ます。これが体験としてどういうことかがプロトコルで扱われました。我々は通常この机とかこのペンとかといった個物(特殊)を見、それに関わっていると思っていますが、それは実はすでに認識であって、例えば物心の独立存在のような枠組み(一般概念)を通してみているわけです。ところがそうした枠が破れるような経験というものがある。その場合には枠組みが破れる、という仕方で一般概念が無となる。それと同時にそうした無の深みから個物が立ち上がることになります。さらにはこれまでの一般概念の外に出ることによって、そうした一般概念(物心の独立存在といった「先験的知識」254,9)が明らかになります。これがテキストで言う一般と特殊が相接近していった先の「極限」の具体的な体験だと考えられます。
佐野
テキストではここでは「包摂的関係は純粋作用の形を取る」とされています。通常の判断における包摂関係がなくなるということです。強いて言えば包むものなくして包む、ということになるのでしょうが、ここでは「純粋作用」と呼ばれています。この「純粋作用」は後で「意識」(275,11)とか「意識作用」(276,4)と言い換えられています。〈意識せられた意識〉ではなく〈意識する意識〉のことです。ついで「かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである」とあります。「之」は「述語面」でもいいですし、それは「主語面を離れて見られない」のですから、「純粋作用」でもいいと思います。そうして「主客合一の直観というのは、此の如きものでなければならぬ」とされます。〈意識せられた意識〉ではなく〈意識する意識〉でなければならない、換言すれば『善の研究』第2編の「直接経験」ではなく第1編の「純粋経験」でなければならないということです。
佐野
前置きが長くなりましたが、これを受けて「無論、右の如き意味における純粋作用は未だ働くもの、動くものではない」と言われます。「働く『もの』」、「動く『もの』」というように「もの」がついていることに注意すべきだと思います。作用主体が考えられているということです。そうだとすれば「純粋作用」とは動くものなくして動く、あるいは働くものなくして働く、そうした動きそのもの、働きそのもののことを言っており、それが「純粋作用」の純粋たる所以であることになります。これに対し「動くもの」「働くもの」は後で出てくる「物理的作用」(275,12)や、「五」の最初に掲げられていた「知覚、思惟、意志、直観」が念頭に置かれていると考えられる「種々なる作用の形」(274,11)が考えられると思います。西田は「純粋作用」からこうした「種々なる作用の形」を考えようとしていると思われます。そうしてテキストでは「純粋作用」が「唯述語的なるものが主語となって述語とならない基体となると云うことである」と換言されます。
佐野
この文章は句点を一つ補う方がよいでしょう。「唯述語的なるものが(、)主語となって述語とならない基体となると云うことである」というように読みます。つまり「述語的なるものが主語となって」と続けて読まずに、「述語的なるものが」「基体となる」というように読むということです。「述語的なるもの」が「主語となって述語とならない基体となる」ということです。
佐野
それはどういうことか。さらに換言は続きます。
佐野
「判断が内に超越することである、内に主語を有つことである」。判断は通常、外にある主語を見ていますが、目が内に、述語の方に転じるということです。転じると言っても、見ている自己をそのままに目を述語に転じるということではありません。それではやはり述語を主語にして、それを外においてしまうことになります。そうではなく、「内に主語を有つ」ことだと。私はこの言葉を聞くと、ここまで読み込んでいいのかは分かりませんが、『臨済録』の「随処に主と作(な)る」という語を思い出します。
佐野
それは次のような脈絡で出てきます。「師又た云く、仏法は功を用うる処無し。祇だ是れ平常無事にして、屙屎送尿(あしそうにょう)、着衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来(きた)れば即ち臥す。愚人は我れを笑うも、智は乃ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向って功夫(くふう)を作(な)すは、揔(そう)に是れ痴頑の漢と。你(なんじ)且つ随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり」。我々は日常生活において、糞をひったり小便を垂れたり、着物を着たり飯を食ったりして、疲れたら横になって寝ます。これじゃだめだということで、外に向って工夫をして、学んだり、修行をしたりしようとします。こんな奴は大バカ者だ、と臨済は言うのです。何故か。外に目を向けてそれに価値を認めることで、それに振り回されているからです。そうではない。どんな所でもその主となれ、そうすれば立っているところがすべて真実になる、というのです。
佐野
「内に主語を有つ」ということはまさに絶対的主体性を貫く生き方にも通じるのではないかと思うのです。さてテキストでは続いて「主客合一を単なる一と考えるならば、包摂的判断関係は消滅し、更に述語が基体となると云う如きことは無意義と考えられるであろう」とおそらくはヘーゲルを念頭に置いて(同様のヘーゲル批判が269頁7~10行目に述べられていると考えられます)異論が述べられます。「併し包摂的関係から推し進めて行けば、何處までも此両者の対立がなくなる筈はない」と述べられます。とはいえもちろん通常の判断における包摂的関係がそのまま維持されるわけではありません。それは先にも申しましたが、包むものなくして包むというような逆転を含んだ包摂的関係です。それ故に「直観というのは述語的なるものが主語となることである」と述べられるのです。そうして「私はすべて作用と考えられるものの根柢を此に求めたいと思う」と「五」の趣旨が改めて確認されます。すなわち判断(知覚・思惟)作用、意志作用を直観から考えたい、というのです。そして「矛盾的対立の対象に於て初めて働くものが考えられるのである」と述べられます。
佐野
「矛盾的対立」という表現は274頁14行目にもありました。この「矛盾的対立」とか「矛盾的統一」をどう考えるかが大切です。これまでのところでは生即死、有即無がそれだとされてきました。〈Aである〉と〈Aでない〉の相即も有即無です。先回りをすることになりますが、「矛盾的統一の知識の対象」(277.12)という表現があります。「矛盾的対立の対象」とほぼ同義と考えられます。そうした対象は「対象其者として矛盾を含んで居るのではない、否寧ろ厳密に統一せられたもの、豪末も異他性を容れないものと云い得るであろう、最勝義に於て客観的と云わねばならぬ」とされます。あらゆる事物が生即死、有即無をそのままに生死し、有無する。生と死、有と無の「即」は「厳密に統一」せられており、そこには「豪末も異他性を容れない」。したがって「矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於て云い得る」ということになります。
佐野
つまりあらゆる生き物は矛盾なく只管生死し、あらゆる事物は矛盾なく生滅する。ところが人間は言葉を持ち、判断する。判断に矛盾があってはなりません。矛盾があれば考えることも、行為することもできないからです。こうして人間は必然的に矛盾から目を背け、無矛盾的な限定せられた一般者の世界を構成してそのうちに住もうとします。しかしその根柢は矛盾に他なりませんから、そこに人間的な苦悩や悲哀が不可避となります。こうした矛盾的対象を対象とするのが直観だということになりますが、こうした対象において「初めて働くものが考えられる」とされます。「働くもの」とは前文の「作用」ということでしょう。物理的作用、判断作用、意志作用などの「作用」ないし「働くもの」がこうした矛盾的対立の対象から考えられる、換言すれば直観から考えられる、そのようなことを言っているのでしょう。
佐野
大変長くなりました。それでは本日の講読箇所に入りたいと思います。Aさん、お願いします。

A

読む(275頁11行目~276頁5行目)
佐野
「意識が純粋作用と考えられるにも、意識の根柢にかかる直観がなければならぬ」とありますね。この「意識」は働くものなくして働く、そうした純粋作用ですが、そのように考えられるにもその根柢に直観が必要だということです。続いて「物理的作用」と「意識作用」の違いが論じられています。まず原則として「時間的変化という如きものの成立する前に、論理的なるものがなければならぬ」(276,2-3)とされます。時間的なものを論ずるにも論理を前提とするからです。物理的作用の根柢にも「非時間的なもの」として「物」とか「力」が考えられますが、それらはまだ「述語的なるもの」ではない、逆に言えばそれらは主語的なるものだ、ということです。我々は物や力を対象化し、これを主語として論じているのです。これに対し意識作用の根柢は「述語的なるもの」でなければならない、とされます。心理学的な意識作用については、時間的変化の中で、「矛盾せるものに移り行くこと」が問題になります。例えばある状態から、そうでない状態へ、というようにです。ところがそうした「時の根柢に矛盾せるものに移り行くことの可能、矛盾せるものの統一がおかれねばならぬ」とされます。そうして「矛盾の統一の場所」が「述語的なるもの」としての「意識」だというのです。この「意識」は〈意識せられた意識〉ではなく、〈意識する意識〉です。それではBさん、次をお願いします。

B

読む(276頁5行目~11行目)
佐野
「数理の統一は矛盾的統一である」とありますね。以前も同じようなことが述べられていたことを覚えていらっしゃいますか?

C

何となくですが…
佐野
「働くもの」という論文になりますが、192頁から193頁にかけて扱われています。数理の場合は、例えば数という一般と5という特殊の間に間隙はありません。5は数であるということがそのまま成り立っています。それに対して白一般がこの塩の白であるためにはその間に〈塩〉というものを持ってこなければいけません。一般と特殊の間に間隙がない、そういう意味で「数理の統一は矛盾的統一である」と言われていると思われます。数理の場合には〈数〉が一般となり、個々の数が特殊となります。〈5は数である〉のように、一般と特殊の間には矛盾的統一が成立しますが、一般に包まれることによって、特殊同士、例えば5と3は矛盾律に従って無矛盾的に構成されることになります。同じことは〈三角形は図形である〉のような図形についても言い得るでしょう。さて、テキストでは「併し数理が数理自身を意識するとは云われない、論理的矛盾から意識作用は出て来ないと云い得るであろう」と異論が述べられます。〈おまえは「矛盾せるものの統一」が「意識」と言ったが、数理の場合はどうだ?数理の場合も「矛盾せるものの統一」があるが、それは「意識」ではあるまい!〉というわけです。これに対し西田は「併し数理の根柢となる一般者は尚限定せられた一般者であり、限定せられた場所である」と反論します。〈数理における一般者は「限定せられた一般者」「限定せられた(有の)場所」であって、「(真の)無の場所」ではないゾ!〉、ということです。そうしてこの「無の場所」が「意識」だ、そう言いたいわけです。そうして「唯、包摂的関係に於ての一般的方向、判断に於ての述語的方向を何處までも押し進めて行けば、私の所謂真の無の場所というものに到達せなければならない」と述べます。

D

ちょっと待ってください。どうして数一般といった「一般者」をどこまでも推し進めると真の無の場所になるんですか?
佐野
数には数という限定があり、この限定をさらに一般化すると例えば〈有(存在)〉ということになると思います。この〈有〉という限定を取っ払うとそこに無限定の「真の無の場所」に到達する、そのように考えていると思います(この説明は後で気がつきました)。次に行きましょう。「無論、限定せられた一般を越えるという時、判断は判断自身を失わねばならぬであろう」と述べられます。〈特殊は一般である〉の一般が無になってしまったのでこうした判断が成り立たない、ということです。そうして「併し具体的一般者というものをその極限にまで推し進めて行けば、此に到達せざるを得ない」と来ます。「此」とは判断を失う、ということでしょう。「真の無の場所」でもいいと思います。「具体的一般者」とは特殊を含んだ一般者のことですが、ここでは「限定せられた一般者」という意味で読めると思います。今日はここまでとしましょう。
(第63回)
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一般と特殊との合一

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」五 272頁冒頭から274頁8行目(第1段落終まで)を講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーセンテンスは「かかる包摂的関係の時間上に於ける完成として、判断作用というものが理解せられるのである」(273, 2-3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時間は、宇宙誕生のような過去から、未来に継続しているとも考えられますが、ここではどのような時間なのでしょうか、また、完成とはどのようなこと・状態をいうのでしょうか。下記のような時間を指し、完成のために判断作用があると解することは如何ですか。①ある包摂関係が世に生じたときから関係が完成するまでの連続的な時間➁ある包摂関係を考える人がその考えが完成するまでの断続的な時間。完成とは、理想の包摂関係になることで、二つのものが合一することでしょうか」(220字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
ここでの「時間」がどのようなものか、という問いですね。その解釈に①と②があり得ると。

K

ええ。「時間上に於ける完成」というのは272頁14行目にある「時間的意義を除去すれば」という場合の「時間」とは異なる意味で用いられているように感じられたので。

A

同じではないですか?「包摂的関係」に「時間」を加えることで「判断作用」になるということを別の仕方で述べていると思います。

K

272頁の方はそれでいいと思いますが、「完成」と言う以上、別の意味があるような感じがしたので。
佐野
Kさんは①と②のどちらだとお考えですか。①は所謂客観的な時間、②は所謂主観的な時間ですね。

K

どちらかといえば①です。
佐野
その場合、「包摂的関係の時間上に於ける完成」として「判断作用」を理解するということを、具体的にはどのようにお考えですか?

K

戦争で意志を通して包摂するとか、自然界で言えば小さいウィルスを包摂するとか、そういう仕方で判断作用を考えるということです。
佐野
テキストのこの箇所では判断作用と包摂的関係が対比的に述べられていますね。前回の読書会で少し申し上げましたが、ここには哲学史的背景がありそうです。当時は哲学を心理学に還元しようとする傾向(心理主義)に対して新カント派やフッサールが論理の立場から批判を展開していました。(因みに心理学は19世紀末にようやく従来の哲学的心理学から科学的心理学として独立します。ドイツではヴント、アメリカではジェームズがその貢献者です。その流れの中から心理主義が成立してきます。西田は若いころヴントやジェームズの強い影響下にありましたが、新カント派やフッサールに触れて大きな衝撃を受けます。しかし『善の研究』のころから彼が考えていたのは、「論理」の上に立てられた従来の本体論的形而上学でもなく、単なる「心理」の上に立てられた科学的心理学でもない、新しい形而上学としての純粋経験の哲学であったと考えられます。)そういう背景を考えると、この「時間」はやはり心理学的な時間、例えば「人間は動物である」という判断が、不明瞭な在り方から明確な判断の形をとるまでの時間、そのように理解する方が分かりやすいと思います。そういう意味ではKさんの分類では②の方に近いと思います。

A

私も②でよいと思います。

K

私もそんな気がしてきました。
佐野
(その後、この「時間」について、これはカイロス的な「一発勝負」の判断の瞬間だとする説などが飛び出し、一挙に深まる可能性も出てきましたが、ペンディングということで、ここでは割愛します。すみません。)それでは本日の講読箇所に移りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(274頁9~15行目)
佐野
強烈に難しいですね。少しずつ見ていきましょう。まず「特殊と一般との包摂的関係から出立し」ここまではいいですね。たしかにそういう叙述になっていました。「何らの仮定なき直接の状態に於ては、一般は直に特殊を含み」ここは難しいですね。前の段落の終わりではこの「直接の状態」は「真に直接なる意識の場所」(274,7)と言われていましたね。その「意識」とは一般と特殊とが無限に「重なり合う場所」(274,1)で、そこにおける判断において、真に主語となるものは「具体的一般者」であり、判断とは「一般なるものの自己限定」だとされていました。この「判断」とは「所謂判断作用」の「根柢」(274,6)としての判断で通常の判断ではありません。問題はこうした「直接の状態」を我々の経験の中に見出すことです。次に行きましょう。「一般より特殊の傾向」、これは「一般者の自己限定」ですね。そこに「判断の基礎」が置かれる、これは普通に言われる判断(所謂判断作用)の「根柢」がここにあるということでしょう。そうであるとするならば「一般と特殊との包摂的関係から種々なる作用の形を考え得る」とありますね。「種々なる作用」とは「五」の初めに出てきた「知覚、思惟、意志、直観」のことを念頭に置いているのかもしれません。それらはそこでは「意識作用」(272,4)と呼ばれていました。次の「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる」、これは分かりやすいですね。「人間は動物である」において人間は特殊で動物は一般ですが、人間(特殊)の方向にさらに日本人という特殊を考えることができますし、動物(一般)の方向に生物という一般を考えることができます。「かかる関係に於て、一般と特殊の間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない」、これはどうですか。例えば「赤は色である」において、赤(特殊)と色(一般)の間に間隙がある、と考えることができますね。その場合赤と青という「特殊は相異なる」、そう考えることができます。この一般は「相異」のみならず「相反(対立)」、例えば赤と赤ならざるものも包含できますね。ところで皆さん、「間隙」とか「相異」「相反」という言葉、聞き覚えがありませんか?

C

あります。
佐野
191頁から193頁にかけて出てきますね。そこでは①「数(数理)の対象界」と②「経験的一般概念(経験界)」と③「矛盾的統一の対象界」が区別されています。①は矛盾律によって構成されていますが、その根本には「矛盾の統一」があります。例えば〈5は数である〉において、特殊が直ちに一般とされています(「数の概念に於ては一般と特殊とが直に結合する」(197,15-198,1)「数理の統一は矛盾的統一である」(276,6))ここには「間隙」はないと考えられています。しかし数理の場合にはそこに数という「一般的なるもの」(一般概念)があります。これに対して「経験的一般概念」の場合には「一般と特殊との間に間隙がある」とされます。そこでのその意味は「一般より最後の種差に達することはできぬ」ということです。〈この赤〉には一般概念としての〈赤〉は到達できないということです。ここでは一般と特殊(一般化の原理と特殊化の原理)が「合一することができない」。そのため、その「間隙を充填し両者を結合するため、超越的にして不変なる基体」というものを持ってくる、というのです。例えば〈赤〉が〈この赤〉になるのは〈赤〉が個物においてあるからだ、ということになります。この基体を持ってくることで、例えば〈塩は白くて辛い〉というような「相異」の関係も、時間の概念を入れれば〈木の葉が緑から緑ならざるものに変化する〉といった「相反(対立)」の関係も矛盾なく説明できることになりそうです(もちろん西田はそうは考えません)。③については「一般的なるものは即特殊化の原理なるが故に、その間に基体の如きものを容れる余地はない、一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所とか、相互関係の媒介者とか考えるの外はない」(193,4-6)とされます。この論文は「働くもの」で、ここではまだ「場所」概念が術語としては確立していませんが、「矛盾概念を統一するもの」(192,3)としての「場所」(「概念の生滅する場所」(同4))としてはこの辺りが初出でしょう。この「場所」は「働くもの」論文では「自己の中に自己を映す鏡」(194,11)などと呼ばれています。もちろん目下の講読箇所と「働くもの」の上の箇所とが厳密に同じ内容であると考えることはできません。テキストの解釈はつねに、そうして西田の場合は特に現在の文脈の中で行うべきだからです。しかし「間隙」「相異」「相反」「矛盾」といった概念についてはこれまでも西田は論じていることは念頭に置くべきでしょう。次に行きます。「併し一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊との間隙がなくなる時、特殊は互いに矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する」とありますね。これはどうでしょうか?大丈夫ですか?

A

全然大丈夫じゃありません。
佐野
これまで「矛盾」と呼ばれてきたものは、例えば「死することが生まれること」、「否定することが肯定すること」、「無にして有」(以上1923-5)ですね。生と死、否定と肯定、有と無が「特殊」ですね。これらが「矛盾的対立」に立ちつつ「矛盾的統一」が成立する、ということです。これが成り立つ場所がこれまでの流れだと、「意識」(直接なる意識の場所)ということになる。次を読んで見ましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(274頁15行目~275頁5行目)
佐野
ありがとうございます。頭から行きます。「是に於て」、こうした「矛盾的統一が成立する」ことにおいて、「一般は単に特殊を包むのみならず」、「特殊を構成する」という意味でしょうね、「構成的意義を有って来る」とあります。「自己限定」という意味かも知れませんがよく分かりません。次を読んで見ます。「一般が自己自身に同一なるものとなる、一般と特殊とが合一し自己同一となると云うことは、単に両者が一となるのではない」とあります。単に一となるだけなら、一般は「構成的意義」を持たない、ということを念頭に置いているのかもしれません。次いで「両面は何處までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである」とありますが、これでは合一や同一には至りませんね。しかし「斯くしてその極限に達するのである」とある。ということはここに逆転、転回があるということです。「是に於て包摂的関係は所謂純粋作用の形を取る」。「所謂」とありますが何のことかよく分かりません。包摂的関係が逆転したところで「純粋作用」の形を取るということでしょうが…。次いで「かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである」とありますね。「之」とは何でしょう。

C

「極限」だと思います。
佐野
「純粋作用」と言い換えてもいいですか?

C

いえ、純粋作用ではなく、極限です。
佐野
何故ですか?

C

よく分からないのですが。

D

私は「述語面」だと思います。それも「主語面」を離れて見ることができない述語面です。
佐野
なるほど。たしかに「之」の前の文の主語は「述語面」になっていますね。次に「主客合一の直観というのは、此の如きものでなければならぬ」とあります。またしても「此の如き」の内容が判然としない。いったいこれは何を言っているのでしょうか。西田は何かについて言おうとしているのですが、それが一体何であるか。それを我々の身に尋ねてみる必要があると思います。素敵な言葉は出てきませんか?Dさん、笑っているから、おっしゃってください。

D

私が思いついたのは「単に映す意識の鏡」です。
佐野
いいですね。私は「意識された意識」とは異なる「意識する意識」、図に対する地と言ってもいい(英国にいて英国の完全なる地図を描く例のことを思い浮かべていました。描かれた地図は一般に対する特殊で、それに着目しているうちはどこまでも一般と特殊の間に間隙があります。これに対して描かれたものの手前に描かれるべきものがある。この直観(自覚)がなければ地図を描くことができない。そこに気付く。ここに逆転があるわけですが、このようなことを思い浮かべていました。そこでは特殊と一般が一つになります)。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(275頁5行目~11行目)
佐野
ありがとうございます。ここも強烈に難しい。もう時間が来ましたから、ここは次回ゆっくり読むことにしましょう。今日はここまでとします。
(第62回)
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判断 一般的なるものの自己限定

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 270頁8行目「我々は常に主客対立の立場から」から271頁最後までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「真の無の場所に於ては意志其者も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなると共に意志も映されたものとなるのである。」(271, 11-12)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ」(270, 12)るという。単に映す鏡は、「無の場所」(271, 7-8)や「永遠なるもの」(271, 12)ともいわれる。つまり、単に映す鏡は、「(意識する)意識」、「無の場所」、「永遠なるもの」である。しかし、述語的方向の極地が「意識」や「永遠なるもの」と考えられるとき、あらゆる動的な働きはつねに「影」に転じ、否定されてしまう。そのため、「場所」の体系では「単に映す意識の鏡」を破るような「何か」は想定されえない。これでは、「無の場所」は問いえない前提のままにとどまるのではないか。」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

A

「影」とはどういう意味ですか?

O

271頁最後の一文に「動くもの、働く物はすべて永遠なるものの影でなければならない」とあることを踏まえています。
佐野
問いの趣旨を明確にするために、221頁で言われていたことをまず確認しておきましょう。そこでは「対立的無の場所」が「単に物の影を映す場所」、「真の無の場所」が「物が於てあるある場所」となっていて、さらに「意識の野は真に自己を空しうすることによって、対象をありのままに映すことができる」ともあります。これを読むと「影」が否定的な意味を持っていることが分かりますね。見るべきは動中の静で、動いているものに目を奪われている間は直観とは言えないということでしょう。Oさんはこのプロトコルを書くために次の「左右田博士に答う」まで読まれたとか。その最後の部分に着目されていましたね。その部分が今回のOさんの問いの根本にあるように思われますので、Oさん、その部分を読んでいただけませんか。

O

はい。「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。真の無の又無がないかという如き質問に対しては、私は答えるところを知らない。私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識と考え、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである。直覚の又直覚がないかと云われても、私はその意味を解することができない」(322,8-13)。
佐野
ありがとうございます。これを読むと、西田はまず判断から出発して、それが成り立っている「一般概念」をつきつめていって、もはや一般概念として限定できないものがなければならない、それが「無の場所」だと考えていることが分かりますね。これに対して「無の場所」というのも一般概念ではないか、図に対する地になっていないか。そうだとすれば「真の無」のまた無があるのではないか、という問いが成り立つのですが、この問いを西田は拒否しています。そのような問いは「単に無の概念を弄している」のだ、そのように言います。しかし「なければならぬ」ものを「ある」と言ってよいものか、そうした疑問は残ります。何故西田が無の概念を弄していないかと言えば、直覚しているからだというのでしょう。だから有るのだと。さて、これを受けてOさん、改めてプロトコルの問いに戻りましょう。

O

直覚だから、というのは有無を言わせない言い方です。ありのままを見る、ここから出発している印象があります。

B

ありのままの月を見ることができるということは大切なことではないですか?

O

でも、ありのままが見えてしまうということは、それ以上に月は違った形で見えないということで、それは残念だと思います。

B

月がありのままに見えることが幸せで、それが見られないことが苦悩を生む、そういうことではないですか?

O

そこに、ありのままを見たいなあ、という執着のようなものがあると思うんです。だけどこれ以上月がきれいに見えないのか、ありのままの月を見たいけど、見えてほしくないなあ、という気持ちもあります。

C

Oさんは逆に捉えているように思います。西田は、真の無は固定的な概念、一般概念ではないということ、概念では扱えないことを言っているので、それは正しいと思います。

O

概念ではないというのはその通りだと思います。でも「真の無の場所」と言ってしまうと、それが「底」になってしまう。
佐野
(「底」になれば一般概念となってしまうが、それは一般概念ではないとされているので、概念化された「真の無の場所」ことが否定され、そこに「真の無の場所」が立ち現れ、それが一般概念になってしまう。これが無限に続く。西田はこれを「無の概念を弄している」と言っているのだと思います。こうした態度に対して、西田は、自分は概念を弄するのではない、つまり直観からものを言っているのだ、そのように考えているのだと思います。)Oさんは、「真の無の場所」に於てあるものを概念で捉えることはできないけれども、直観されている、ありのままに見えている、そこを問題とされているのでは?つまり物が我々に実はもともとありのままに現れているのだけれど、我々の迷いによって、それが見えなくなっている、しかし突如としてそれが顕わになることがある、あるいは、物は隠れているということを含んで、実は常に顕わになっている、こういう考え方に対する反論なのでは?

O

顕わになっているのか、なっていないのか、それが分からない、そこが重要だと思うのです。
佐野
顕わになっている、というのは顕わになっていてほしい、その方が幸せだから、そうした人間の願いというか、執着ということになりますね。

D

「影」という言葉は古語ではまず「光」です。「影」と言うと虚像といったイメージが強いですが、そこには実像が反映していて、その実像が光です。光は常に我々に届いています。生じて生ぜぬもの、動中静こうした逆説的レトリックによってすべてが収まっている。
佐野
Oさんからすれば、まさにそこが「残念」ということではないですか?

O

そうです。

D

「残念」ということこそ、個人の心情で、そこに願いが反映しているのでは?

A

ありのままに見える(直観)とか、「真の無の場所」が人間の願いだということでしたが、そうした願いが外から照らされるということがあると思います。
佐野
今日はDさんとOさんの対決となりました。哲学的にとても興味深いですが、今日はこの位にしておきましょう。本日より「五」に入ります。それではEさん、お願いします。

E

読む(272頁1~4行目)

E

知覚、思惟、意志、直観の根柢にこれらを統一するものを掴む、とありますが、とても興味があります。
佐野
特に分からないところがないようなので、次をお願いします。

F

読む(同4~11行目)
佐野
「知識の立場から見て最も直接にして内在的なるもの」が「判断」とされていますね。おやっと思われませんでしたか?それは「知覚」じゃないかって。

E

知覚と判断は区別がつきにくいからだと思います。
佐野
たしかに西田は「知覚」については二面性を主張していますね。一方で知覚は作用でない、対象の対立性がないから(判断作用には明らかにそれがある)、と言いながら、他方で知覚も意識である以上対立を含んでいる(そうでなければ無意識になる)と言っています(267,11~268,3)。しかしここでは「知識の立場」から見ていますね。知識ということになれば、判断から出発しなければならない、そのように考えることもできると思います。知覚も判断を含んでいる、これも合わせてここを読んでおきましょう。ここでは判断として最も根本的なものが「包摂判断」であること、ここでは包摂作用ではなく、「包摂的関係」を問題にすること、包摂的関係こそが関係として最も根本的であることが述べられています。何故包摂的関係が最も根本的なのですか?

E

「二つのものが対立的に考えられるには、二つのものが共同の一般者に於てなければならぬ」とあります。赤と赤でないものは色という一般者においてなければならない、ということだと思います。ですが赤は色である、という包摂的関係は赤と赤でないものという対立関係をも含んでいます。だから「最も根本的」といえるのではないでしょうか。
佐野
なるほど。それではここはそのように読んでおきましょう。それでは次をGさん、お願いします。

G

読む(272頁11行目~273頁3行目)
佐野
ここでは判断作用と包摂的関係の関係が述べられていますね。判断作用から時間的意義を除去すると包摂的関係が残ること、判断作用は包摂的関係をもととして考え得ることが述べられています。こうしたことは心理主義に対する新カント派やフッサールの批判といった当時のドイツの哲学界の流れを背景にしていると思われますが、ここでは扱わないことにします。それではHさん、次をお願いします。

H

読む(273頁3~8行目)
佐野
ここでは「特殊なるものを主語として、之について一般なるものを述語するとは、如何なることを意味するか」が問題になっていますね。その際に主観客観の対立を前提しないで、「主語となるものと述語となるものとの直接の関係」「概念自身の独立なる体系」を問題にする、そういうことが述べられています。

E

主観客観の対立を前提とした見方ですが、「主語となるものが客観界に属し、述語となるものは主観界に属すると考えて居る」というのがよく分かりません。
佐野
「これは花である。この花は赤い。この赤い花は美しい」という判断の場合、述語の方は主観による認識であるのに対し、最初の主語(「これ」)は認識以前に与えられたもので、客観界に存在するものと考えられますね。これでどうでしょうか?

E

とりあえず、よしとしておきます。
佐野
それでは次をIさん、お願いします。

I

読む(273頁8行目~274頁1行目)
佐野
前者と後者が出てきますね。それぞれ何ですか?

E

「前者」とは「一般的なるものが基となって特殊なるものを包む、特殊なるものが一般的なるものに於てある」で、「後者」が「特殊なるものが基となって一般的なものを有つ」です。
佐野
そうですね。そうして「概念自身の体系」としては「前者」をとる、とありますね。

E

「後者」の考え方がよく分かりません。
佐野
先程と同じ、主観客観の対立を前提とした見方ですね。「主語となるものが外に射影せられて居る」というところですね。「これは花である」の「これ」が「主語」ですね。これが客観界に投影されたものです(ここには特に書いてありませんが、「自己」の投影と考えられます)。そうして「これ」が赤であり、美しくもある。「一が多を有する」ことになります。

A

次の「一般的なるものが特殊なるものを含む」とは前者の考え方ですよね。「一般的なるものが自己自身を超越する」とありますが、どういうことですか?
佐野
次にあるように「概念を考えられたものの如く見る」ということです。「一般的なるもの」を対象化して、外に立てる(超越する)ということです。「一般的なるもの」や「概念」は「意識」と離すことはできないのに、「意識」から「概念」を「考えられたもの」として切り離して対象化する、そういうことだと思います。そうして「直接には一般と特殊とは無限に重り合って居る、斯く重り合う場所が意識である」といわれます。それではJさん。最後の部分、お願いします。

J

読む(274頁1~8行目)
佐野
ここでは普通の判断とは異なった見方が示されていますね。ふつうは判断の主語は特殊です。ところが「判断に於て真に主語となるものは特殊なるものではなく、却って一般的なるものである」とされています。そうして「判断とは一般的なるものの自己限定」だと、重要な語が出てきます。この一般者は「具体的一般者」、つまり特殊化の原理を具えた一般者です。またここでいう「判断」とは、主客の対立を前提した、特殊が一般を持つといった、「判断作用」ではなく、その「根柢となるもの」(包摂的関係、概念自身の体系)を意味しているのだ、と念を押します。最後に「希臘人(アリストテレス:引用者)の如く形相を能働的(エネルゲイア:引用者)と考えるのは、真に直接なる意識の場所に於てのみ可能である」と述べられてこの段落を閉じます。アリストテレスの場合は「変ずるもの」したがって動(キーネーシス)が残り、真の零になっていない、という指摘は272頁にもありました。今日はここまでとします。
(第61回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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