判断意識を超越する

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落279頁13行目「直観の形式としての空間の如きものであっても」から同段落末281頁3行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードは「普通には始から主客を対立的に考へ、知るといふことは主観が客観に働くことと考へるが故に、対立なき対象というものが主観の外に考へられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である」(280,9-13;下線R)でした。そうして「考えたことないし問い」は「普通の主客対立を前提とする認識論と異なり、従来主観の外にあるとされる判断以前の「対立なき対象」或は「直覚的なるもの」と、従来主観においてあるとされる「一般概念」或は「意味」は、西田にとって、ことごとく「意識において内在する」のである。さらに、一般概念を「直覚的なるものの意識面の輪郭」とし、意味もそれによって生じると考える。プロトコルの図(下図)で示されているような構造から、「直観とは主語面が述語面の中に没入」し「述語的なるものが主語となる」ことをどう考えるのか、また「直覚的なるものは自己自身に同一的なるものに」とはどのような意味であるのか」(263字、図有り、プロトコル参照)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
この図ですけれども、これだと「一般概念」の範囲だけが「意味の世界」のように見えます。ですがテキストでは「主語面」(「対立なき対象」)の「余地」が「意味の世界」となっていますので、「一般概念」の外も「意味の世界」ということになりますね(描きにくかったのかもしれません)。皆さんその他にこのプロトコルでお気づきの点はありませんか?

K

下線部ですが、前回「之」を「輪郭」を受けるものとして解釈されましたが、「直覚的なるもの」ではないでしょうか。その後に「恰も力の場の如きものである」とありますので、その方が理解しやすいかと。
佐野
たしかに「力の場」に「直接的なるもの」を放り込むと「種々の変化」が起こるというのはイメージしやすいですね。しかしやはり「之」は指示語としては「輪郭」を指すと考えた方が自然ですし、判断以前の主語である「直観的なるもの」に「一般概念」の枠を当てはめることで「力の場」が生じ、それによって「意識面の種々の変化」が「力線」として描かれる、とも考えられますね。同じ花を見てもMさんと私では「一般概念」が異なりますから、まったく違ったように見える、ということです。どうでしょうか?

K

もう少し考えて見ます。
佐野
Rさんのプロトコルは、結局前回の問いをそのまま持ち越した形ですね。テキストでしばしば登場する「直観」はカントの感性的直観で、西田の言う「直観」ないし「直覚」ではないのではないか、と。

R

そうです。
佐野
前回も申し上げましたが、ここで西田が「直観」ないし「直覚」をどのように使っているかはテキストの文脈によって判断するほかありません。西田はもしかすると「直観」にいくつかのレベルを考えていて、例えば「判断意識」における直観と、「意志の意識」における直観、さらに西田が『善の研究』で言っていた「知的直観」のような「真の直観」(この言葉は後に286頁8行目で出てきます)を同じ「直観」という語のもとに統一的に表現しようとしている可能性があります。それが「直観」としてこれまで出てきた「主語面が述語面の中に没入すること」(279,15)や、「述語的なるものが主語となる」(275,9-10)や、「直覚的なるものは自己自身に同一的なるもの」(281,2-3)という表現かもしれません。西田に限らず、テキストを読む場合には〈こうだ!〉と決めつけず、〈こうかもしれないが違うかもしれない〉という気持ちで、つねに判断を停止(エポケー)し括弧に入れる心構えが必要だと思います。これはある意味で早く分かりたいという〈自我〉を削り落とす修行です。私は、哲学は役に立たないとつねに言ってきましたが、意外に役立つかも。

R

私はどうしても決めつけて読む傾向がありますので気を付けたいと思います。それにしても「直覚的なるものが自己自身に同一なるもの」とはどういう意味でしょうか?
佐野
281頁15行目に「自同律に於て表される直覚面」という語があります。「自同律」とは〈A=A〉のことです。これを受けて「自己自身に同一なるもの」と言ったのではないでしょうか。以前(277,12-13)「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」という表現がありましたし、西田はこれを「対立なき対象」と呼んでいるのではないか、前回はそのように解釈しました。

R

主語面と述語面が同一になることではないでしょうか。
佐野
それでもいいのですが、それではその直後に出て来る「(直覚的なるものは)述語面の中に含まれて居なければならない」をどう解釈しますか?「包摂的関係」を推し進めて行くと、最後に判断以前の主語において、主語面と述語面(特殊と一般)が一致します。これはたしかに主語面と述語面が同一になることです。しかし西田はその背後にもこれを越えて、これを含む述語面があると考えています。志向対象に対しても、その「意味の縁暈」があるということです。図には地がある、と言い換えてもいい。そうなるとこの「直覚的なるものは自己自身に同一なるもの」というのはやはりA=Aという「自同律」において表される「対立なき対象」のことではないか、そうした読みの可能性が出てきます。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(281頁4行目~8行目)
佐野
指示語の「之」がいっぱい出てきますね。押さえていきましょうか。「一般と特殊との包摂的関係を何處までも推し進めて行って、自己自身に同一なるものの背後にも、尚之を越えて広がれる述語面が真の意識面である」とありますね。先程申し上げたことが述べられていますが、ここに出て来る「之」とは何を指していますか?

A

「自己自身に同一なるもの」です。
佐野
そうですね。「真の意識面」とありますが、これは「対立的無の場所をのみ意識面」(281,1)と考える「普通」の見方に対するものでしょう。〈真の無の場所〉に限定する必要はないと思います。「一般概念」内の「意識面」も含めておきます。次に「直覚も直に之に於てあり、思惟も直に之に於てある」の「之」は同じものを指すと考えられますが、この「之」は?

A

「述語面」ないし「真の意識面」です。
佐野
そうですね。次に出て来る「対立的対象が之に於てあるのみならず、無対立の対象も之に於てあるのである」の「之」も同じく「述語面」ないし「真の意識面」を指していますね。「無対立の対象」とは「対立なき対象」、〈判断以前の対象〉のことでしょうから、「対立的対象」とは〈判断の対象〉で、280頁2~3行目に出て来る「思惟の対象」「知覚の対象」などが念頭に置かれていると思います。次に「すべての主語面を越えて之を内に包むが故に」の「之」は?

A

「すべての主語面」です。
佐野
そうですね。続いて「すべての対象は之に於て同様に直接でなければならぬ」の「之」は?

A

今度は「述語面」です。
佐野
ありがとうございます。続く「種々なる対象の区別は之に於てあるものの関係から生ずるのである」の「之」も同様ですね。種々なる対象とは直覚の対象(無対立的対象)、知覚の対象や思惟の対象など(対立的対象)のことを言うのでしょう。それではBさん、次を読んでください。

B

読む(281頁8行目~11行目)
佐野
難しいですね。「場所」論文も終わりに近づいていますが、内容が凝縮していて強烈に難しい。「主語面を越えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越すると云わねばならぬ」とありますね。ここには「超越」があります。この超越について皆さんはどのようなイメージをお持ちですか?私はあの「英国にいて完全なる英国の地図を写す」という企図を思い浮かべます。描かれた地図を見ているのが「反省」で、そこから判断が成立しますが、そうした時にはその地図はすでに過去のものとなっています。そこでまた新たに地図を描かなければなりません。こうした運動はどこまでも続きます。完全な地図は完成しません。しかし地図が描けたということは、描く以前に描くべきものを直観しているから描けるわけで、こうした足下に実は完全なる地図が常に直観されていることになります。これは一種の気づきであり、転換ですね。テキストではこの「超越」はすぐ後に出て来るように、「意志」への超越です。判断意識から意志の意識への超越ですね。これはずっと前の『倫理学草案第二』では「見者」(観察者)の立場から「作者」(行為者)の立場への転換、『善の研究』では第二編から第三編への移行に当たります。少し『善の研究』の該当箇所を見ておきましょう。Cさん、岩波文庫改版『善の研究』52頁15行目から読んで見てください。

C

読む
佐野
「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である」とありますね。これが「無対立の対象」です。次いで「これについて種々の連想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる」とありますが、これが、ペンが「知覚の対象」ないし「思惟の対象」になったことを意味しています。ここまではよろしいですか?

C

はい、大丈夫です。
佐野
次いで「これに反し、このペンは文字を書くべきものだという様な連想が起る。この連想がなお前意識の縁暈としてこれに附属して居る時は知識であるが、この連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」、とありますね。これが知識ないし判断から意志への移行です。テキストに戻ると、次に「主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる、主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる」とありますが、これは対象を外に見る見方の消失ということで、判断ないし反省の消失です。そこに、つまり「此の如き述語面に於て意志の意識が成立するのである」ということになります。外から観察するという態度がなくなったところに意志が成立する、ということです。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(281頁11行目~282頁2行目)
佐野
「判断の立場のみ固執する人には、此の如き述語面を認めることはできないであろう」、とまず来て、次に「併し意志は判断の対象となることはできぬが」とあります。そんなことはない、〈私がみかんを食べたい〉という意志は反省できるではないか、そう考えられるかもしれませんね。しかしそのように反省された意志はすでに反省の対象であって、意志そのものではない。意志は自覚するほかない。それで「我々が意識の自覚を有する以上、意志を映す意識がなければならぬ」と言われます。この「意識」は対象化できない意識で、「意識する意識」です。図に対する地です。しかし同じことは判断そのものについても言える、というのが次の文です。「判断自身すら判断の対象となることはできないが、我々は判断を意識する以上、判断以上の意識がなければならぬ」というのがそれです。この「判断以上の意識」は「意識一般」、つまり「意識する意識」であると考えられます。

M

280頁4行目に「知覚する私」「思惟する私」とありますが、その「意識」はこの「私」と同じですか?
佐野
そうだと思います。Mさんという「私」ではありません。誰でもなく誰でもあるような「私」です。前回Mさんはそれを「我」と呼んでいましたが。次へ行きましょう。「而して此の如き意識面は之を述語方向に求めるの外はない」とあります。判断の意識にせよ、意志の意識にせよ、こうした地に相当するものは述語的方向に求める外はない、ということです。次に「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」とありますが、これは注目すべき表現です。つまり述語面に深浅、広狭があるということです。それに応じて意志が自由になるということは、意志ないし自由にも深浅、広狭があるということになります。また述語面に深浅、広狭があるということは、通常の意識における述語面は限定せられた有の場所、つまり一般概念内にあるということです。時間がなくなってきましたので、次に行きます。「併し何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」とあります。

R

この「意志は述語を主語とした判断である」というのが分かりません。直観も同じように規定されていましたが。
佐野
以前「直観というのは述語的なるものが主語となる」と言われていた時には、「すべて作用と考えられるものの根柢」として求められるものでした(275,9-10)。その際にはもっとも深い意味で捉える必要がありますので、〈随処に主と作(な)る〉という意味に解釈しました。「すべて作用」には「判断」も「意志」も含まれます。判断の場合は、例の「英国の地図」の例を想い起せば、直観が根底にあることは理解できますが、意志の場合も「述語が主語になる」という形を取ります。

R

それがよく分からないのです。
佐野
Rさんは論文を書いていますね。それは「院生は論文を書くものだ」という一般的な知識の問題ではないでしょう。「この論文」を書かねばならない。「この論文」は「目的」になります。意志一般(意志が「善」を求めるものだとすれば善一般)をこの目的(この善)にして、それを実現すべく対象とする、ということです。それが述語(一般)を主語(特殊)とした判断であると解釈できます。同じことは〈ミカンが食べたい〉でも言えます。我々はミカン一般を意志しない。現実に食べるのは〈このミカン〉です。〈このミカンが食べたい〉、ここに西田は「勝義」の「判断」を見て取ります。「勝義」ですから通常の判断ではありません。こうした「判断」を含まない意志は「単なる動作に過ぎない」と西田は言います。今日はここまでにしましょう。
(第67回)
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述語面に於いて意識される

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落278頁4行目「始から主客の対立を」から同段落末279頁13行目までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードは「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである」(279,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「言葉にするということは対象を判断の述語面に映すということである。鏡に映すということである。それは対象としては矛盾を含まないものに対し、矛盾を与える事であり、そうした矛盾を生み出す存在として今、私は在る。しかし、西田のいう「我」は「誰の我でもなく、誰の我でもある。そうした我である」(読書会だより10月14日)という。またテキストに「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」(275.8)とある。述語的なるものが主語となるような事態、直観においては、矛盾を生み出す存在である私も「我」として存在し得るのだろうか」(256字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Mさん、何か付け加えることはありますか?

M

「読書会だより」に「意識せられた意識」に対するものとして「意識する意識」というのが取り上げられています。その場合、「意識せられた意識」は『善の研究』で言えば、第二編の直接経験で、それは「限定せられた一般者」になると思います。それに対し、「意識する意識」は第一編冒頭の「純粋経験」で、これは「真の一般者」です。そうした場合、「意識する意識」は「意識するものなくして意識する意識」であるとも思えるのですが、この行為的主体のないように思えるものがどうやって意識するものを私たちの認識にもたらすのでしょうか。「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」がどうやって私に認識をもたらすのかというのを問うてみたかったのです。
佐野
難しいですね。少し問いを整理してみましょう。対象が矛盾を含まないというのは、277頁12行目を受けていますね。

M

はい。
佐野
つまり、対象は生即死、有即無という在り方をしている。それが判断の述語面に映された時に矛盾となる、ということでしたね。

M

はい。
佐野
述語面とは意識面のことです。そこで意識とは「矛盾を生み出す存在」で、それが「私」だと。

M

はい。
佐野
それに対して「我」とは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」であり、これが「意識する意識」だと。

M

はい。『善の研究』にも「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬという意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である」(岩波文庫改版74頁)とありました。
佐野
そうすると、問いは「我」がどうして「私」になるのか、つまり「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を生み出す私」になるのか、「意識する意識」が「意識」ないし「認識」をもたらすのか、ということですね。

M

そうです。「直観というのは述語的なるものが主語となることである」とありますが、これは「意識するものなくして意識する意識」のこと、つまり「意識する意識」のことだと思います。
佐野
以前その箇所を読んだ時は、それを「包むものなくして包む」と解釈しましたね。

M

この直観は「自己が自己に於て自己を見る」ということで、この内「自己に於て」というのが「体験の場所」です。西田は同時に「自己を失う」とも言っています。これは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」だと思うのです。それがどうして認識を生むのか、そういう問いです。
佐野
それでは、皆さん、ご自由に質問してください。

R

「考えたことないし問い」に「矛盾を産み出す存在として今、私は在る」とありますが、どうして「在る」と言えるのですか?
佐野
たしかにその問いは起こりますね。Rさんはこの「私」をどのように考えますか?

R

この「私」はすでに「意識された意識」だと思います。それは認めたくない自分だが認めざるを得ない自分である、そういう自分としてあるのだと思います。
佐野
在る、と言ってよいのですか?

R

言ってはいけないけれど、そうした矛盾として在るということです。

M

たしかに「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」という側面から言えば、「在る」とは言えないですね。しかしこの「知る」は判断で、今問題にしているのは直観です。直観においてどうして「私」があると言えるのか、そういう問題です。
佐野
この「私」は〈Mさん〉というような〈個としての私〉ではないですね?

M

違います。認識がどう成り立つか、です。『善の研究』でもすべてが純粋経験の発展となっていますが、それを「場所」において見るというのが「場所」の論文だと思います。その場合の「見る」というのが「誰の我でもない我」であるのに、どうして認識が生ずるか、ということです。
佐野
西田は『善の研究』では純粋経験から出発していますね。

M

はい。「場所」論文では「有るものは何かに於てなければならぬ」から出発しています。
佐野
ええ。おそらく認識は、そうした場所の自己限定ということになるでしょうが、これは純粋経験の自己発展と同じことですね。しかし「純粋経験」にしても「有るものが有る」という経験にしても、或る種の〈驚き〉であり、そこには出会いがあり、したがって〈他者の契機〉が必要だと思うのです。それがないとそもそも「体験」という出来事もありえないし、「認識」ということも、まして〈個としての私〉も出て来ないように思います。(後で考えたことですが、「意識する意識」とは〈意識するものなくして意識する〉ということであり、この〈意識するものなくして〉というところが「真の無の場所」になるのでしょう。それは「自己が自己に於て自己を見る」において、最初の「自己」が無になることで「自己に於て」という「真の無の場所」になるということだと思います。したがってこの「真の無の場所」は「意識するものなくして意識する」(「自己なくして自己を見る」)が成立する場所として、すでに有即無といった矛盾を含んでいます。このうち有が主語、無が述語ですが、この有を無が包むという仕方で有と無が同一の述語面に於てある、と考えられます。主語は有即無として「対立なき対象」ですが、それ自体が有とされることで、述語と対立・矛盾し、こうして述語面において矛盾が顕わになる、「矛盾するとは述語のことである」と言えるのではないでしょうか。Mさんの問いに即して言えば、「誰の我でもなく、誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を産み出す存在」としての「私」になるということです。どうでしょうか?)プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(279頁13行目~280頁1行目)
佐野
「直観というのは主語面が述語面の中に没入することに外ならない」とありますが、こうした直観の規定と、先の「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」という規定と整合的に理解できますか?

B

主語面が述語面に没入して、そうした述語面が主語となるということで、大丈夫です。
佐野
ほかにありませんか?

C

「対立なき対象」というのが分かりません。
佐野
「対立なき対象」ということでまず思い浮かぶのはラスクです。ラスクの「対立なき対象」は判断以前のものでしたね。あるいはこれを277頁に出てきた、矛盾を含まない「対象其者」と考えることもできますね。ここでは数学において空間が三角形を「含む」あるいは「包む」とか、三角形が空間に「含まれる」「包まれる」とかいう、いわば第二次的な関係より先に「すべてが空間である」ということがなければならないのと同様、「経験科学的判断」においてもまずはすべてが「意識界」だと言おうとしていますね。

D

279頁には「数学的判断」の場合には特殊の面と一般の面とが「単に合同する」のに対し、「経験科学判断」の場合には「特殊を含む一般の面が之(特殊)を包んで餘ある」とありますが。
佐野
そうですね。数学の場合に「包む」「包まれる」と言ったのは間違いですね。5(特殊)が数(一般)であるとか、三角形が空間であるとかいうのは、厳密には「含む」「含まれる」というよりは5がそのまま数であり、三角形がそのまま空間である、ということでしょう。「含む」「含まれる」という関係はあくまで二次的だということです。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(280頁2行目~9行目)
佐野
「意識」されるということが「述語面に於てある」ということで、思惟の対象も、知覚の対象も、意識としての「作用」も同一の「意識面」つまり「述語面」あるとされています。次いで「意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面」とありますね。今度は「包む」です。このように「包み込まれた主語面が対立なき対象となり、その余地が意味の世界となる」とあります。図に描きたくなりますね。ドーナツ型の二重の円になりますね。外側の円が述語面ですが、真の無として本来それには一定の大きさはないのですが、一応このように描いておきます。それに対して内側の円が主語面になります。その間のドーナツの部分が「意味の世界」ですね。次を読むと内側の円はさらに「感覚的なるもの」「直覚的なるもの」が来て、ドーナツの部分に「意味の縁暈」「思惟的なるもの」が来そうですね。

E

質問があります。「余地」(ドーナツの部分のこと:佐野)とありますが、これは1行目等にある「尚餘ある」を受けているのでしょうか。
佐野
そうだと思います。279頁8行目にもありますね。「経験科学的判断」の場合です。他にありますか。

F

「対立なき対象」が主語面に来て、「意味の世界」がその外にありますが、ラスクの場合、すべてが意味ではなかったですか?
佐野
そうですね。そうなるとこの「対立なき対象」はラスクを離れて、西田の言葉として理解しなければなりませんね。例えば判断以前の矛盾なき対象のようなものを考えて見てはどうでしょうか。

F

分かりました。もう一つ質問があります。この「直覚的なるもの」は西田の本来的な意味での直覚ではなく、感覚的なものと置き換えられているので、カント的な感性的直観のことではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうするとこれまでに出てきた、たとえば「直観というのは主語面が述語面に没入することに外ならない」とあったのも、実はカント的な感性的直観に限定されると。ここでは一応、そうした読みの可能性もあることを頭の隅に置いたまま、次を読み進めましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(280頁9行目~13行目)
佐野
「普通には」とありますので、これは西田の立場でありませんね。普通は「知る」ということを主観客観の対立の中で考えるから、「対立なき対象」が主観の外に置かれて、「概念的なるもの」、カテゴリーなどの一般概念ですね、それが主観においてあると考えられる、というわけです。しかし西田はそうじゃない、と言います。「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である、恰も力の場の如きものである」、このように言います。指示語がありますね。「之」とは何でしょう。

D

「輪郭」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。もう一つ指示語がありますね。「その意識面」の「その」とは?これも「輪郭」でしょうね。そうすると「その意識面」とは「輪郭」に属する「意識面」ということでしょう。こうなると円は三重になりますね。ドーナツの部分にもう一つ円が描かれることになる。「一般概念」の円です。この一般概念によってその円内の「意味」は矛盾のないものとなります。「種々なる変化」とはそうした「一般概念」のうちに主語面が置かれることによってさまざまな意味を生ずる、ということでしょう。そうしてそれが「力の場」のようだ、そのように言っているのではないでしょうか。とりあえずこのように解釈しておきましょう。次をDさん、お願いします。

D

読む(280頁13行目~281頁3行目)
佐野
「意識に於ては意味が内在するのみならず、対象も内在するのである」、これはよろしいですね。次に「志向的関係」と出てきますが、これはフッサールを念頭に置いたものでしょう。フッサールによれば志向的関係とは「意識外のものを志向する」のだが、そうではなくそれは「意識面に於てあるものの力線」だというのです。フッサールは意識が志向する対象は表象ではなく、意識外の対象だとしますが、西田はそれをも含めて、「意識面に於てある」と考えていることになります。

E

「力線」とはどういうことでしょうか?
佐野
「一般概念」の「輪郭」に囲まれた部分を「力の場」と呼んだことに関連しています。その場に対象が置かれるとその対象の方向に力が働きますが、これを「力線」(力の場で、接線がその点における力の方向と一致するように引いた曲線群)と呼んで、こうしたものが「志向的関係」だというのでしょう。

F

次の「自同律」とは何ですか?
佐野
〈AはAである〉ということです。矛盾律〈Aは非Aではない〉と言い換えてもいいと思います。そうすると「普通に自同律に於て表される直覚面」とは「対立〔矛盾〕なき対象」のことだと考えられ、これまでの叙述とも整合的になります。テキストでは、「普通には」そうした「直覚面」を「意識面」から除去して、「剰余面」だけを「意識面」と考えている、そうした場合には、この意識面は「対立的無の場所」になるとしています。これに対し「直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれて居なければならない」と述べ、そのような述語面を「真の無の場所」と考えているようです。今日はここまでとしましょう。
(第66回)
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何處までも述語となって主語とならないもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落276頁11行目「アリストテレスは」から同段落278頁4行目「撞着せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードは「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他とを更に包含する一般者を見ることはできない」(278, 1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「基礎医学研究の恩師の「研究とは靄の中を進むようなものだが、いろいろもがいていると一瞬靄が晴れるような瞬間がある」という言葉を思い出しました。私達の知識世界は靄の立ち込めたフロンティアに取り囲まれていますが、それが「矛盾的統一の対象」ではないでしょうか。知識世界の拡大活動を続ける=矛盾的統一の対象にまで行き詰り続ける、ということになり、靄が晴れる瞬間は探究者の気づきとして訪れるのでは、と考えました」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Tさん、何か付け加えることはありますか?

T

西田は「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」と言いますが、そんなに苦悩しなくても矛盾は常にあると思いました。我々は常に是非も分からないもの(モヤモヤ)に取り囲まれているのだと思います。
佐野
なるほど。しかし我々は通常は人生ほど明らかなものはないと思っていて、そこにモヤモヤを感じませんね。ところで質問ですが、Tさんは「モヤモヤ」の状態が「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」、それが「晴れるような瞬間」が「(是と非是とを包含する)一般者を見る」時、そのようにお考えですか?

T

そうですが、「一般者を見る」ではなく、「見たかのように」ということです。「見た」とするのはおこがましいと思います。あくまでも垣間見るという仕方です。
佐野
ここで、Tさんは所用のため、一時退出します。Wさんが入ってきましたので、ちょっとWさんにお聞きしてみましょう。Wさんは前回のプロトコル担当者でしたが、学会出席のためにご欠席でした。Wさん、「読書会だより」をご覧になったと思いますが、何かご発言はありますか?

W

西田は人間が根底に矛盾を抱えているように考えていますが、そこのところがよく分からない、というか難しいな、と。最後の所で「ただ有る」ということがあって、矛盾は人間がそれを言葉にもたらすから生ずる、というようになっていて。

M

矛盾を突き詰めたら矛盾がなくなるとお考えですか、それとも矛盾はそのままに有るとお考えですか?

W

矛盾が生み出される前には矛盾はないように思います。

M

矛盾が生み出されるのは人間が言葉をもつからですよね。ですが人間は言葉を用いることを止められない、だから人間には矛盾が避けられないのでは?
佐野
難しいところに入ってきましたね。Tさんがお戻りです。今の議論はTさんのプロトコルにも関わりそうですね。

O

人知が及ぶ範囲だと「行き詰る」けれど、人知の及ばないところにいれば「行き詰」らない。だけど、人知の及ばないところにどうしても法則なり統一があるように見えてしまう、ということがあると思います。

T

研究者は誰も見たことのないところへ行って、そこで何かを見てそれを理解しようとするのですが、勘違いも多い。「私」が見つけたものはどうしても主観的な気がするんですね。そうすると揺らぐ。主観を排除したいのだけれど、どうしても入ってしまう。
佐野
それで「かのように」とおっしゃるのですね。しかし西田は直観(直覚)を認める。これがないと判断が成り立たないと考えます。フロンティアの探究も何かが見えていないと探究は成り立たない、ということがあると思います。他に質問はありませんか。

R

分けることと直観、あるいは言葉と経験についてですが、言葉にすることも経験ですし、この二つは分かれていないのではないでしょうか。そのように初めからすべてがあるのだとすると、そこからどうして分かれることが生じるのかが分かりません。
佐野
目下読んでいるところの脈絡では、判断や知識の成立からその条件を求めていくという、表からの考察です。そうして判断の成立には真の無の場所や直観がなければならない、そういう論じ方をしていますね。判断が破れなければ、破れた所は見えない。だから判断の立場では初めからすべてが顕わになっているとしても、それを捉えることはできないのだと思います。逆に真の無の場所の方から有の場所の成立をどう説明するのか、つまり無分別のところから分別の成立をどう説明するのか、ということになれば、おそらくそれはこの後「一般者の自己限定」という形で説明することになるのでしょうけれども、それがうまく言っているのかはさらに考える必要があるでしょう(因みに無分別の直観から分別や反省が如何に成立するか、はシェリングを苦しめた問いです。ヘーゲルは無分別や直観の立場に立つということがすでに分別・反省の立場に立っているという論じ方をします)。プロトコルはこの位にして講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(278頁4行目~9行目)
佐野
3行目から4行目にかけて「単なる述語面、純なる主観性」と言われたものが「純なる主観性、体験の場所」と言い換えられていますね。いずれも「真の無の場所」であると考えられます。「かかる場所に於て繋辞の有は存在の有と一致するのである」とありますが、どういう意味でしょうか?

A

「繋辞の有」とは「である」、「存在の有」とは「がある」ということで、判断と直観(直覚)のことだと思います。
佐野
そうだと思います。判断の「である」を押し詰めて行けば、直観の「がある」に一致していく、ということでしょう。この「存在」は「豪末も異他性を容れない」主語、つまり矛盾もなくただ存在しているものとも考えられますが、「かかる場所に於て」とありますから、こうした「真の無の場所」に於てあるもの、ということでここは「矛盾的統一の対象」としておくにとどめておきましょう。

B

次の「客観的対象の主観と考えられる意識一般」というのがよく分かりません。
佐野
「客観的対象」というのは物自体のようなものではなく、意識の対象、次の行に見える「意識せられた対象」という意味です。そうした者を対象とする「主観」は「意識一般」、つまり「意識する意識」です。これでどうですか?

B

分かりました。
佐野
指示語がありますね。「而して判断の立場から云えばそれは」とありますが、「それ」は何を指しますか?

C

「意識一般」ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。それが「対象が於てあるもの、述語的なるもの」とされています。こうしたものによって「判断意識が成立する」と言われています。「真の無の場所」によって判断が成立するということです。逆に言えばそれがなければ判断の成立を説明できない、ということです。西田は判断の根柢にある直観においても述語面、場所が失われることはないことを強調します。そうでないと判断が成立しえないと考えるからです。ここが西田哲学、場所論の大きな特徴です。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(278頁9行目~11行目)
佐野
「判断の立場から意識を定義するならば、何處までも述語となって主語とならないものと云うことができる」とありますね。「何處までも述語となって主語とならないもの」は今後術語として頻出することになりますが、これがおそらくはその初出です。さりげない仕方で登場していますね。ここでは「意識」がそのように定義されていますが、この意識は「意識一般」「意識する意識」で、「真の無の場所」のことです。

C

「意識の範疇は述語性にある」はどういう意味でしょうか?
佐野
通常、範疇は主語となる対象を構成するものであることを念頭に置いた発言でしょう。意識の範疇は主語性にあるのではなく、述語性にあるのだ、と西田は言いたいのです。

D

次の「述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる」というのがよく分かりません。意識は対象化されない、客観的に見ることはできない、ということではなかったですか?
佐野
ここはそういう疑問が起こっても不思議ではないですね。次に「反省的範疇の根柢は此にあるのである」とありますね。ラスクのことを念頭に置いています。ラスクによれば、我々の判断というのは、「構成的範疇」によって構成された対象(超対立的対象)が原像となり、それがさらに「反省的範疇」によって判断領域にもたらされます。その時には対象は似像になっています。ラスクにとって重要であったのは構成的範疇の方でしたが、西田は逆に判断を成立せしめる反省的範疇に重要性を認めます。ところでこの反省的範疇はどのようにして知られうるでしょうか。それが「述語を対象とする」、「意識を客観的に見る」ということです。そうなるとこの「意識」は「意識する意識」「意識一般」でしょうか?それとも「判断意識」でしょうか?

D

判断意識だと思います。
佐野
私もそう思います。それは「意識せられた意識」ですね。判断意識は有の一般者(一般概念)の上に成り立っていますが、それを見るためにはその外に出なければなりません。こうして「意識」を見ることができるのだと考えられます。

D

分かりました。
佐野
それでは次を読みましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(278頁11行目~279頁5行目)
佐野
「従来の所謂範疇は一般者の求心的方向にのみ見られた」とありますね。「求心的方向」とは?

E

主語の方向だと思います。
佐野
そうですね。それに対し「遠心的方向」は述語の方向です。円が念頭に置かれていますね。述語の方向に範疇を見るべきだ、そのように西田は主張しているようです。「何處までも主語は述語に於てなければならぬ」と来て、「判断作用と云う如きものは第二次的に考えられる」とありますね。では第一次的なものは何でしょうか?

E

「述語的なるもの」でしょうか?
佐野
そうですね。すぐ後には判断的知識の「根柢に述語的一般者がなければならぬ」とありますから、「述語的一般者」でもいいかもしれません。次いで「すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴われねばならぬ」とあります。カントですね。「我考う(ich dende)」です。デカルトのコギト同様、これは図と地で言えば、地ですね。対象化できない(対象化したら図になってしまう)けれども感じられる。そうした自己意識(「自覚」)です。そうした「自覚が経験的判断の述語面となる」とされます。こうした超越論的統覚の自我(我)は「主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と述べられます。主語的統一、点、物と述語的統一、円、場所がパラレルに述べられています。

E

次に「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」とありますがおかしくありませんか?真の自己を知るというのが西田の考えではないですか?
佐野
「知る」の意味でしょうね。テキストで言われているのは対象化して知るということですから、そういう知り方では超越論的統覚としての我(真の我)を知ることはできない、ということでしょう。問題はこうした「我」が本当に「我」なのか、ということです。この我は誰の我でもなく、誰の我でもある、そうした我です。そうした「我」がここで「真の無の場所」と一つになって語り出されていることに注目したいと思います。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(279頁6行目~13行目)
佐野
「それでは数学的判断の根柢となる一般者と経験科学的判断の一般者の根柢となる一般者とは如何に異なると云うでもあろう」と来ますね。「それでは」とはどういうことを受けているのでしょうか。これまで示されたことは判断意識一般の根柢が述語的一般者である、ということです。「それでは」というので、この二つの判断の根柢の違いはどこから来るのか、それを説明できてはいないではないか、そうした異論が出て来ることを想定したのでしょう。数学的判断の根柢となる一般者が、例えば5(特殊)がそのまま数(一般)である(「5は数である」)というように、「特殊の面と一般の面とが単に合同する」のに対し、後者、即ち「経験科学的判断の根柢となる一般者」においては、「特殊を含む一般の面が之を包んで尚餘あるのである」とされています。おや、と思うでしょう。逆ではないか、そのように思われて当然です。例えば193頁では「所謂経験的一般概念と考えられるものに於ては一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ」とされていました。この花の赤を一般の側から限定することはできないということです。そうであれば特殊の方が一般を包んでなおあまりあるというべきではないか、そう思われるはずでしょう。そこはとりあえず置いておいて、次を読むと「元来判断に於ては、述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広いのである」とある。「元来」とありますが、それがどういう意味か考えて見ると、判断の元来、つまり「包摂判断」のことを言っているようです。包摂判断ならば、究極的な述語である、「述語となって主語とならないもの」がもっとも広いことは頷けます。そうして「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場から云えば、それは単に抽象的一概念と考えられるであろう」と来ます。そこで、ははあ、先程の特殊の方が一般を包んで余りある、というのは「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場」だったのだな、と気づくことになります。こうした判断的意識の立場から考えるならば、包摂判断のやり方は「抽象的一般概念」にしか妥当しないと思われるからです。西田はそうした判断的意識の立場を承知の上で、あえてその逆を主張しているのです。そうして「併し我々の経験的知識の基礎は此の如き述語的なるもの、云わば性質的なるものの客観性に置かれねばならぬ」と言います。理由は述べられていません。

D

この「客観性」の意味がよく分かりません。
佐野
この「客観性」とは物自体のような意味での客観性ではなく、普遍妥当性という意味での客観性でしょう。カントは知識の客観性をこうした普遍妥当性に求めましたが、そのことを念頭に置いていると思われます。また新カント派のラスクはそうした客観性を主語の側の「超対立的対象」に求めましたが、そうしたことも念頭に置いて、経験的知識の客観性は述語的なるものの側にある、そのように主張したのでしょう。そうして「性質的なるものが(、)主語となって述語とならない意義を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのである」と続きます。「主語となって述語とならない」ものとは、個物のことですから、性質的なるものが限定されて、個物となる、そうしたことが念頭に置かれているのではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第65回)
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無限定なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落275頁11行目「意識が純粋作用と考えられるにも」から同段落276頁11行目「此に到達せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードは「意識作用が純粋作用と考へられるのも我々の意識と考へられるものがかかる矛盾の統一の場所なるが故である」(276, 4-5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「われわれの意識と考えられるもの」が「矛盾の統一の場所」なるが故に、「意識作用が純粋作用と考へられる」という。しかし、ただ「生きる」、ただ「歩く」といった、その都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる。こうした「述語的なるもの」の中で、西田は、「意識する意識」に焦点を当てることによって、映されたものを対立させ、自ら矛盾をつくりだしているのではないか。「意識」に映されることによって、つくりだされた矛盾的関係が、矛盾の統一の場所なる「意識」におかれているとはどういうことだろうか」(251字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Wさんは、今日学会出席のためお休みです。私の方から皆さんにお聞きしたいのですが、「ただ「生きる」、ただ「歩く」といったその都度の「述語的なるもの」において矛盾はないように思われる」とありますね。たしかに通常はありませんね。Wさんも「思われる」と書いていますね。では「生きる」や「歩く」のどこに矛盾があるのでしょうか。

T

主語に矛盾があると思います。たとえば「私が生きる」「私が歩く」という場合、主語は移ろい行くものです。幅がある。「私は死ぬ」「私は止まる」にもなります。
佐野
瞬間はどうですか。そこには矛盾はないのですか?

T

瞬間は存在しません。しかし「今」しかないともいえるかもしれません。その場合は矛盾的になると思います。
佐野
死が近くなると実感されると思いますが、「生きる」ということは「死につつある」ということです。また私の父は現在、車椅子生活ですが、「歩く」ということもつねに「歩けなくなりつつある」ということと一つです。我々は生死を常に生の側から見て、生は生、死は死というように考え、死を自分でないものとして先に追いやります。病や老いもそうです。それで何の矛盾もないような顔をしている。しかし実は根柢にそうした矛盾を常に抱えている、そう言えると思います。

M

矛盾を「つくりだしている」という表現が気になります。
佐野
Wさんは私へのメールではそれは「人間」が作り出してしまうのだ、というように書いておられました。動物も含めて、人間以外のものに、生死はありません。老いも病もありません。彼らはただただ生死するのみです。ところが人間はそれができない。それは言葉をもつからだと思います。言葉は本質的に「分ける」。例えば生と死を分ける。しかしもともと分けることのできないものを分けているのですから、その矛盾に苦しむことになります。その意味ではこうした矛盾を人間は「つくりだしている」とも言えるかもしれません。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(276頁11行目~15行目)
佐野
ここはアリストテレスの「物理学(自然学)」についての記述ですね。アリストテレスの「自然学」に関する資料がお手元にあると思います。207aですね。岩波の新しい全集第4巻の154頁(内山勝利訳)です。内山訳では「統括する(ペリエケイン)」となっているものを西田が「包む」と訳していますが、ほぼ忠実な要約になっていることが分かります。「全体」と「無限定なるもの」(内山訳では「無限なるもの」、量的質的な無限、無限定のこと)が「類似」しているから、パルメニデスたちは「無限定なるもの」に威厳をもたせて、「無限定なるもの」が「すべて(全体・万有)」を「包む」と言っているが、アリストテレスはこれに反対して、逆に「全体」が「無限定なるもの」を包むと主張している、ということです。その根拠は「全体」が形相(現実態・顕現(エネルゲイア)、終極実現態(エンテレケイア))であるのに対し、「無限定なるもの」は質料(素材、可能態・潜在)だから、というのです。アリストテレスにとっては形相が「全体」であり、これが質料を包むことによって、これを限定するのです。

T

無限なるものが限定される、というのがよく分かりません。例えば時空は限定されないのではないですか?
佐野
ここにはギリシャ哲学の特殊性を考慮しなければならないと思います。ギリシャ哲学にあっては完全・完結こそが神的なものの在り方です。例えば、パルメニデスは「有(存在)」を球体のように考えていた。パルメニデスはエレア派の祖です。その弟子筋にメリッソスというのがいて、存在は無限だ、と言い出したのですが、これはむしろ例外だということです。207aにも同趣旨の記述がありますね。

T

それでようやく分かりました。
佐野
このアリストテレスの考えに西田は反対するのです。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(276頁15行目~277頁6行目)
佐野
西田は場所論の根本テーゼ「有るものは何かに於てなければならぬ」(208頁)を持ち出します。アリストテレスの形相(エイドス)もプラトンのいわゆるイデアもその「於てある場所」がなければならない、そう言います。そうでなければ判断(認識)の成立を説明できない、そう考えます。文中、「量の分割作用によって潜在と顕現が分たれる」とありますが、これに関する記述もアリストテレスの「自然学」207aに見えますね。量は「無限定なるもの」です。それではそれを限定するもの、分割作用は何ですか?

C

形相です。
佐野
そうですね。そうだとしてもそうした「作用自身を見るものがなければならぬ」、西田はそう言います。これは判断(認識)の根本にある直観のことですね。西田は直観においてすら、「場所」を必要とすると考えます。次に「潜在として有に包まれた無」とありますね。この「有」とは?

C

形相のことです。
佐野
そうですね。形相こそが本当に「有」と言える(ウーシア、実体だ)とギリシャ人たちは考えます。そうすると「潜在として有に包まれた無」とは何のことですか?

C

無限定なるもの、ではないですか?
佐野
そうですね。それは「真の無」ではない、そう西田は主張します。そうして「真の無は有を包むものでなければならぬ」と言います。そうして「主知主義の希臘人はプロチンの一者に於てすら、真の無の意義に徹底することができなかった」と述べます。ここではじめてプロティノス批判が登場します。『働くものから見るものへ』前半ではプロティノス万歳でしたね。Dさん、お願いします。

D

読む(277頁6行目~10行目)
佐野
指示語がありますね。それを押さえておきましょうか。7行目に「それ」とありますが、何を指していますか?

E

「限定せられた一般者を越ゆる」こと、ではないですか?
佐野
私もそう思います。我々は限定された一般者があるから、通常の判断を行うことができます。限定された一般者がなければ、判断(知識)が成り立たないと思われますが、西田はそうではない、それを越えることこそが「知識成立に欠くべからざる約束」だ、と言います。「約束」とは条件のことですね。これがなければ知識が成り立たない、ということです。我々は通常限定された一般者のもとで判断を行っており、それで矛盾なく分かった気でいますが、実はその根柢に「真の無」がある、それは矛盾的関係が於てある場所だ、そう考えます。「単に一般と特殊との包摂的関係に於ても、既に此両者を包むものがなければならぬ」とありますが、「人間は動物である」という命題において、特殊と一般はどうなりますか?

F

人間が特殊で、動物が一般です。
佐野
そうですね。その命題を意識した時に、すでに特殊と一般をさらに包むものが意識されている、ということです。この「意識」が「真の無」だというのです。次に「判断的知識の極致と考えられる矛盾的関係に於ては、明に之を見ることができる」とありますが、「之」は何を指していますか?

G

「真の一般者」です。
佐野
そうですね。「真の無」のことです。「判断的知識の極致」とありますね。通常の判断ではありません。そうした判断が行き詰って、破れたところです。直観するほかないところです。そこが「真の無」の場所だと。「矛盾的関係」が出てきましたね。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(277頁10行目~278頁4行目)
佐野
「矛盾的関係」とありますね。我々は通常、矛盾は考えられません。相異と対立までです。犬と人間は違う。相異ですね。それが考えられるのはその根柢に「動物」という一般者を置くからです。塩の白さと辛さも相異です。それが成り立つのは両者の根柢に「塩」という「物」を置くからです。相異は対立に発展します。例えば犬と人間の相異は、犬と犬ならざるものと考えることもできますが、こうなると対立です。この場合でも根柢に一般者を置けば思考可能です。またAとAでないものは同時には成り立ちませんが、時間の経過を考えれば矛盾なく理解できます。木の葉が緑から緑ならざるものに変化した、というように。この場合でも「木の葉」というものが一般者になっています。しかし、こうした一般者がないとなると、対立したものが直接ぶつかり合います。これが矛盾です。そうした関係として、これまで「生と死」「有と無」が例に挙がっていました。テキストではこうした「矛盾的関係に於ては、少くも知るものと知られるものとが相接触して居なければならない、主語の面と述語の面とが或範囲に於て合同して居なければならない」とあります。「知るもの」は主語、述語、どちらの面に来ますか?

G

述語です。
佐野
そうですね。主語は対象ですから、「知られるもの」に側に来ます。「少くも」「或範囲に於て」という言葉がありますが、西田は直観が成立する真の無の場所においても、主語と述語が単に合一するとは考えません。そこに於てあるものと場所を区別します。そうしたことが念頭に置かれていると思います。そうして「矛盾的統一の知識の対象も、対象其者として矛盾を含んで居るのではない、否寧ろ厳密に統一せられたもの、豪末も異他性を容れないものと云い得るであろう、最勝義に於て客観的と云わねばならぬ。矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於て云い得るのである」と来ます。ここは以前取り上げましたね。人間以外の言葉をもたないすべてのものは、生即死、有即無をそのまま生死、有無します。そこには老いも病もありません。言葉をもたないからです。しかし人間は言葉をもつ。言葉は本質的に分ける、ということです。そうして我々は自らを生や有の側に置き、死、無、老い、病を向うに置き、それで矛盾のない世界を生きている気になっています。しかしもともと一体なのですから、こうしたものに煩わされ、苦悩することになります。こうした苦悩の中に矛盾が現れているのです。我々は自らの力でこうした矛盾を直視することはできず、それから目を逸らします。しかし何らかの機縁で判断が破れるよう体験が起こる。そこが「真の無」の場所、ということになります。要するに本来矛盾のない主語(対象)が述語に映されることで「矛盾的関係」が生ずるということです。

G

人間じゃない方がよかったかもしれませんね。
佐野
そうかもしれませんね。次を見てみましょう。「所謂主語面に於ては、是か非是かの対立性を成す」とありますね。「所謂」とありますように、ここは通常の判断です。通常の判断ではAか、Aでないかはっきりしていないといけません。生も死も同様です。しかしそれが「矛盾的統一の対象にまで行き詰る」。そこでは「判断的知識の立場からしては、もはやそれ(是)と他(非是)とを更に包含する一般者を見ることはできない」。まさに判断が破れたところですね。分かりきった言葉を失うところです。しかし「併しかかる対象といえども、述語可能性を脱することはできぬ。然らざれば、判断の対象となることはできない」。通常の言葉を失ったところ、絶句、沈黙のところから、言葉が、やはり判断という形を取りながらも、出て来るということです。ここにおいて「我々は単なる述語面、純なる主観性というものに撞着せざるを得ない」とされます。「真の無」ないし「意識」が述語面として捉えられていることが分かります。今日はここまでとします。
(第64回)
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意識する意識

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」五 第2段落、274頁の9行目「右の如く特殊と一般との包摂的関係から出立し」から同275頁の11行目「矛盾的対立の対象に於いて初めて働くものが考へられるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードは「一般と特殊が合一し自己同一となる(275,1)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般と特殊の合一が特殊の矛盾的対立とその統一を含むことから、その無の場所は特殊を知覚している範囲での無の場所に限定されるのではないか?(一般の特殊との間に間隙のない数字のような場合は別として) 一般と特殊の合一は無限に接近して極限に達することであると述べてある(275頁冒頭)。感覚的には特殊を包摂していた一般が無限の接近のどこかで逆転し、特殊のなかにあった一般が表にでてくるようにイメージできる(極限に達して逆転するというより、逆転したところが極限であるという気がする)。無限の特殊が無限に一般に接近する(あるいはその逆がある)としても、具体的(体験的)には目のまえにある特殊の範囲でそれは起こるように思えるが、そのような理解でよいか」(315字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Oさん。何か補足説明はありますか?

O

読んだ時は「一般」にしても観念的に知識として読んでいる。ああ、そうですか、といた感じです。だけどそれでは受け取ったことにならない。ここには「問い」とある。「問い」とは何か?単なる疑問や質問は問いではなく、問いとは生身の自分のこと。そういうことに思いついた時、「特殊」とは眼前に広がる世界で、それは宇宙に一致した一般にまでは広げられない。だけど「一般と特殊の合一」を我々は眼前の知覚の範囲の中で、垣間見るような仕方で見ているのではないか、そう考えたわけです。

Y

知覚=世界、ということでいいですか?

O

ええ。知覚しているものはこの花であったり、この木であったりするわけですが、それが逆転すると見方が変わるんです。そこで「一般」を感じる、そういうことが垣間見るような仕方で起こっているのだと思います。
佐野
通常我々は個々のもの(特殊)、例えばこの机などを見ていると思っている。これはいわば図と地で言えば、図ですね。そうした見方を破って、それを成り立たせていた地が垣間見るような仕方で顕わになる、その地に当たるものが一般だと、そういう理解でいいですか?

O

はい。

T

いろんな川がある、これを特殊とすると、水を一般と考えることができます。こう考えると「体験的」ではなく、他人事になってしまいますが、これを私たちの身体について考えると、私たちは川のようなもので、それを物質的精神的なものがグルグルめぐっていると考えれば、だんだん特殊と一般が重なって来る、と思うのですが、この考え方だと「極限」がどうなるのか、それがよく分からないので考え中です。

K

一般と特殊の関係は「無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる」とあるように、流動的だと思います。特殊を説明するには一般がなければできませんので、我々は一般にこだわるのだと思います。ですが一般と特殊が合一して、一般が無の場所になると、もう説明ができません。そうなると体験の中で「然り」という外ない。膝を叩くという言葉がありますが、そういう頷き方です。

N

私はこの極限の体験について三つのイメージを持っています。①唯一無二。Oさんそのもの、②純粋経験。純粋経験は見えず、まさに感じることに尽きています。昔川上哲治という打者が「ボールが止まって見える」と言ったということです。他にももっとすごい打者もいると思うが、川上はそれを言葉にすることができた。このように言葉にできる人が、純粋経験を経験できるのだと思います。③数学者にとっての抽象概念。例えば実無限が数学者には実在と感じられる、というものです。
佐野
いずれも通常の経験を超えた経験ですね。最後のお話は、芸術家にとっての美もそう言えるかもしれませんね。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、前回最後の部分(275,4-11)を読んだだけで終えましたので、もう一度見ておきましょう。いきなり「無論、右の如き意味に於ける純粋作用」と出てきますので、少し振り返っておきます。
佐野
通常は一般と特殊の間に間隙があります。〈人間は動物である〉において〈人間〉(特殊)と〈動物〉(一般)は異なります。そうして「一般(動物)によって包含せられたる特殊(人間と犬)は互いに相異なれるもの」ということになります。ここでは「相異」のみが言われていますが、〈人間と犬〉というのを〈人間と人間でないもの〉と考えれば〈相反〉も含めて考えることができます。「一般」によって「相異」(相反)が矛盾なく考えられる、ということです。
佐野
しかし「一般と特殊との間隙がなくなる時」、この時には「一般」がなくなりますから、「特殊は互いに矛盾的対立に立つ」ことになります。〈Aである〉と〈Aでない〉が「一般」なしに対立することになりますが、西田はこうした「矛盾的対立」を「矛盾的統一」とも呼びます。〈Aである〉と〈Aでない〉を統一することが「構成」です。例えば5だけ取り出して5であることをいくら考えても5にならないのと同様、A(特殊)は〈Aでない〉と統一されることで初めて〈Aである〉と言えます。
佐野
今の場合は〈類概念〉を一般とした場合ですが、〈物〉(基体ないし質料)を一般とした場合にも同様に考えることができます。
佐野
塩において〈この白〉と〈この辛さ〉は相異なります。この場合塩が一般で、白と辛さが特殊で、一般と特殊の間に「間隙」があり、それによって白さと辛さは矛盾なく存在できると考えられています。しかしこの一般がなくなると、〈この白〉と〈この辛さ〉が直接にぶつかります。〈この辛さ〉は〈この白でないもの〉ですから、相異は同時に相反です。両者が一つになっているので、これは矛盾になります。この矛盾から出発して、そこに塩という〈物〉(一般)を置くことで両者を矛盾なく統一することが「構成」です。
佐野
いずれの場合においても、「一般」が「構成的意義」を持ってくるのですが、それは「一般」が〈動物〉や〈塩〉のような外に置かれたものではなく、「意識」そのものになることです。それは「一般」が「限定せられた一般者」から限定せられない真の一般者になることでもありますから、「一般が自己自身に同一なるものとなる」とも言われています。「一般と特殊とが合一し自己同一となる」ということは特殊が特殊になること、換言すれば〈個〉になることであると同時に、一般が真に一般になるということでもあるのです。
佐野
これだけでしたらヘーゲルと同じですが、西田は一般が一般になる、というところに「無の場所」としての「意識」ないし「意識作用」を見ます。これが体験としてどういうことかがプロトコルで扱われました。我々は通常この机とかこのペンとかといった個物(特殊)を見、それに関わっていると思っていますが、それは実はすでに認識であって、例えば物心の独立存在のような枠組み(一般概念)を通してみているわけです。ところがそうした枠が破れるような経験というものがある。その場合には枠組みが破れる、という仕方で一般概念が無となる。それと同時にそうした無の深みから個物が立ち上がることになります。さらにはこれまでの一般概念の外に出ることによって、そうした一般概念(物心の独立存在といった「先験的知識」254,9)が明らかになります。これがテキストで言う一般と特殊が相接近していった先の「極限」の具体的な体験だと考えられます。
佐野
テキストではここでは「包摂的関係は純粋作用の形を取る」とされています。通常の判断における包摂関係がなくなるということです。強いて言えば包むものなくして包む、ということになるのでしょうが、ここでは「純粋作用」と呼ばれています。この「純粋作用」は後で「意識」(275,11)とか「意識作用」(276,4)と言い換えられています。〈意識せられた意識〉ではなく〈意識する意識〉のことです。ついで「かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである」とあります。「之」は「述語面」でもいいですし、それは「主語面を離れて見られない」のですから、「純粋作用」でもいいと思います。そうして「主客合一の直観というのは、此の如きものでなければならぬ」とされます。〈意識せられた意識〉ではなく〈意識する意識〉でなければならない、換言すれば『善の研究』第2編の「直接経験」ではなく第1編の「純粋経験」でなければならないということです。
佐野
前置きが長くなりましたが、これを受けて「無論、右の如き意味における純粋作用は未だ働くもの、動くものではない」と言われます。「働く『もの』」、「動く『もの』」というように「もの」がついていることに注意すべきだと思います。作用主体が考えられているということです。そうだとすれば「純粋作用」とは動くものなくして動く、あるいは働くものなくして働く、そうした動きそのもの、働きそのもののことを言っており、それが「純粋作用」の純粋たる所以であることになります。これに対し「動くもの」「働くもの」は後で出てくる「物理的作用」(275,12)や、「五」の最初に掲げられていた「知覚、思惟、意志、直観」が念頭に置かれていると考えられる「種々なる作用の形」(274,11)が考えられると思います。西田は「純粋作用」からこうした「種々なる作用の形」を考えようとしていると思われます。そうしてテキストでは「純粋作用」が「唯述語的なるものが主語となって述語とならない基体となると云うことである」と換言されます。
佐野
この文章は句点を一つ補う方がよいでしょう。「唯述語的なるものが(、)主語となって述語とならない基体となると云うことである」というように読みます。つまり「述語的なるものが主語となって」と続けて読まずに、「述語的なるものが」「基体となる」というように読むということです。「述語的なるもの」が「主語となって述語とならない基体となる」ということです。
佐野
それはどういうことか。さらに換言は続きます。
佐野
「判断が内に超越することである、内に主語を有つことである」。判断は通常、外にある主語を見ていますが、目が内に、述語の方に転じるということです。転じると言っても、見ている自己をそのままに目を述語に転じるということではありません。それではやはり述語を主語にして、それを外においてしまうことになります。そうではなく、「内に主語を有つ」ことだと。私はこの言葉を聞くと、ここまで読み込んでいいのかは分かりませんが、『臨済録』の「随処に主と作(な)る」という語を思い出します。
佐野
それは次のような脈絡で出てきます。「師又た云く、仏法は功を用うる処無し。祇だ是れ平常無事にして、屙屎送尿(あしそうにょう)、着衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来(きた)れば即ち臥す。愚人は我れを笑うも、智は乃ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向って功夫(くふう)を作(な)すは、揔(そう)に是れ痴頑の漢と。你(なんじ)且つ随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり」。我々は日常生活において、糞をひったり小便を垂れたり、着物を着たり飯を食ったりして、疲れたら横になって寝ます。これじゃだめだということで、外に向って工夫をして、学んだり、修行をしたりしようとします。こんな奴は大バカ者だ、と臨済は言うのです。何故か。外に目を向けてそれに価値を認めることで、それに振り回されているからです。そうではない。どんな所でもその主となれ、そうすれば立っているところがすべて真実になる、というのです。
佐野
「内に主語を有つ」ということはまさに絶対的主体性を貫く生き方にも通じるのではないかと思うのです。さてテキストでは続いて「主客合一を単なる一と考えるならば、包摂的判断関係は消滅し、更に述語が基体となると云う如きことは無意義と考えられるであろう」とおそらくはヘーゲルを念頭に置いて(同様のヘーゲル批判が269頁7~10行目に述べられていると考えられます)異論が述べられます。「併し包摂的関係から推し進めて行けば、何處までも此両者の対立がなくなる筈はない」と述べられます。とはいえもちろん通常の判断における包摂的関係がそのまま維持されるわけではありません。それは先にも申しましたが、包むものなくして包むというような逆転を含んだ包摂的関係です。それ故に「直観というのは述語的なるものが主語となることである」と述べられるのです。そうして「私はすべて作用と考えられるものの根柢を此に求めたいと思う」と「五」の趣旨が改めて確認されます。すなわち判断(知覚・思惟)作用、意志作用を直観から考えたい、というのです。そして「矛盾的対立の対象に於て初めて働くものが考えられるのである」と述べられます。
佐野
「矛盾的対立」という表現は274頁14行目にもありました。この「矛盾的対立」とか「矛盾的統一」をどう考えるかが大切です。これまでのところでは生即死、有即無がそれだとされてきました。〈Aである〉と〈Aでない〉の相即も有即無です。先回りをすることになりますが、「矛盾的統一の知識の対象」(277.12)という表現があります。「矛盾的対立の対象」とほぼ同義と考えられます。そうした対象は「対象其者として矛盾を含んで居るのではない、否寧ろ厳密に統一せられたもの、豪末も異他性を容れないものと云い得るであろう、最勝義に於て客観的と云わねばならぬ」とされます。あらゆる事物が生即死、有即無をそのままに生死し、有無する。生と死、有と無の「即」は「厳密に統一」せられており、そこには「豪末も異他性を容れない」。したがって「矛盾するとは述語のことである、矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於て云い得る」ということになります。
佐野
つまりあらゆる生き物は矛盾なく只管生死し、あらゆる事物は矛盾なく生滅する。ところが人間は言葉を持ち、判断する。判断に矛盾があってはなりません。矛盾があれば考えることも、行為することもできないからです。こうして人間は必然的に矛盾から目を背け、無矛盾的な限定せられた一般者の世界を構成してそのうちに住もうとします。しかしその根柢は矛盾に他なりませんから、そこに人間的な苦悩や悲哀が不可避となります。こうした矛盾的対象を対象とするのが直観だということになりますが、こうした対象において「初めて働くものが考えられる」とされます。「働くもの」とは前文の「作用」ということでしょう。物理的作用、判断作用、意志作用などの「作用」ないし「働くもの」がこうした矛盾的対立の対象から考えられる、換言すれば直観から考えられる、そのようなことを言っているのでしょう。
佐野
大変長くなりました。それでは本日の講読箇所に入りたいと思います。Aさん、お願いします。

A

読む(275頁11行目~276頁5行目)
佐野
「意識が純粋作用と考えられるにも、意識の根柢にかかる直観がなければならぬ」とありますね。この「意識」は働くものなくして働く、そうした純粋作用ですが、そのように考えられるにもその根柢に直観が必要だということです。続いて「物理的作用」と「意識作用」の違いが論じられています。まず原則として「時間的変化という如きものの成立する前に、論理的なるものがなければならぬ」(276,2-3)とされます。時間的なものを論ずるにも論理を前提とするからです。物理的作用の根柢にも「非時間的なもの」として「物」とか「力」が考えられますが、それらはまだ「述語的なるもの」ではない、逆に言えばそれらは主語的なるものだ、ということです。我々は物や力を対象化し、これを主語として論じているのです。これに対し意識作用の根柢は「述語的なるもの」でなければならない、とされます。心理学的な意識作用については、時間的変化の中で、「矛盾せるものに移り行くこと」が問題になります。例えばある状態から、そうでない状態へ、というようにです。ところがそうした「時の根柢に矛盾せるものに移り行くことの可能、矛盾せるものの統一がおかれねばならぬ」とされます。そうして「矛盾の統一の場所」が「述語的なるもの」としての「意識」だというのです。この「意識」は〈意識せられた意識〉ではなく、〈意識する意識〉です。それではBさん、次をお願いします。

B

読む(276頁5行目~11行目)
佐野
「数理の統一は矛盾的統一である」とありますね。以前も同じようなことが述べられていたことを覚えていらっしゃいますか?

C

何となくですが…
佐野
「働くもの」という論文になりますが、192頁から193頁にかけて扱われています。数理の場合は、例えば数という一般と5という特殊の間に間隙はありません。5は数であるということがそのまま成り立っています。それに対して白一般がこの塩の白であるためにはその間に〈塩〉というものを持ってこなければいけません。一般と特殊の間に間隙がない、そういう意味で「数理の統一は矛盾的統一である」と言われていると思われます。数理の場合には〈数〉が一般となり、個々の数が特殊となります。〈5は数である〉のように、一般と特殊の間には矛盾的統一が成立しますが、一般に包まれることによって、特殊同士、例えば5と3は矛盾律に従って無矛盾的に構成されることになります。同じことは〈三角形は図形である〉のような図形についても言い得るでしょう。さて、テキストでは「併し数理が数理自身を意識するとは云われない、論理的矛盾から意識作用は出て来ないと云い得るであろう」と異論が述べられます。〈おまえは「矛盾せるものの統一」が「意識」と言ったが、数理の場合はどうだ?数理の場合も「矛盾せるものの統一」があるが、それは「意識」ではあるまい!〉というわけです。これに対し西田は「併し数理の根柢となる一般者は尚限定せられた一般者であり、限定せられた場所である」と反論します。〈数理における一般者は「限定せられた一般者」「限定せられた(有の)場所」であって、「(真の)無の場所」ではないゾ!〉、ということです。そうしてこの「無の場所」が「意識」だ、そう言いたいわけです。そうして「唯、包摂的関係に於ての一般的方向、判断に於ての述語的方向を何處までも押し進めて行けば、私の所謂真の無の場所というものに到達せなければならない」と述べます。

D

ちょっと待ってください。どうして数一般といった「一般者」をどこまでも推し進めると真の無の場所になるんですか?
佐野
数には数という限定があり、この限定をさらに一般化すると例えば〈有(存在)〉ということになると思います。この〈有〉という限定を取っ払うとそこに無限定の「真の無の場所」に到達する、そのように考えていると思います(この説明は後で気がつきました)。次に行きましょう。「無論、限定せられた一般を越えるという時、判断は判断自身を失わねばならぬであろう」と述べられます。〈特殊は一般である〉の一般が無になってしまったのでこうした判断が成り立たない、ということです。そうして「併し具体的一般者というものをその極限にまで推し進めて行けば、此に到達せざるを得ない」と来ます。「此」とは判断を失う、ということでしょう。「真の無の場所」でもいいと思います。「具体的一般者」とは特殊を含んだ一般者のことですが、ここでは「限定せられた一般者」という意味で読めると思います。今日はここまでとしましょう。
(第63回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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