一般と特殊との合一

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」五 272頁冒頭から274頁8行目(第1段落終まで)を講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーセンテンスは「かかる包摂的関係の時間上に於ける完成として、判断作用というものが理解せられるのである」(273, 2-3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時間は、宇宙誕生のような過去から、未来に継続しているとも考えられますが、ここではどのような時間なのでしょうか、また、完成とはどのようなこと・状態をいうのでしょうか。下記のような時間を指し、完成のために判断作用があると解することは如何ですか。①ある包摂関係が世に生じたときから関係が完成するまでの連続的な時間➁ある包摂関係を考える人がその考えが完成するまでの断続的な時間。完成とは、理想の包摂関係になることで、二つのものが合一することでしょうか」(220字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
ここでの「時間」がどのようなものか、という問いですね。その解釈に①と②があり得ると。

K

ええ。「時間上に於ける完成」というのは272頁14行目にある「時間的意義を除去すれば」という場合の「時間」とは異なる意味で用いられているように感じられたので。

A

同じではないですか?「包摂的関係」に「時間」を加えることで「判断作用」になるということを別の仕方で述べていると思います。

K

272頁の方はそれでいいと思いますが、「完成」と言う以上、別の意味があるような感じがしたので。
佐野
Kさんは①と②のどちらだとお考えですか。①は所謂客観的な時間、②は所謂主観的な時間ですね。

K

どちらかといえば①です。
佐野
その場合、「包摂的関係の時間上に於ける完成」として「判断作用」を理解するということを、具体的にはどのようにお考えですか?

K

戦争で意志を通して包摂するとか、自然界で言えば小さいウィルスを包摂するとか、そういう仕方で判断作用を考えるということです。
佐野
テキストのこの箇所では判断作用と包摂的関係が対比的に述べられていますね。前回の読書会で少し申し上げましたが、ここには哲学史的背景がありそうです。当時は哲学を心理学に還元しようとする傾向(心理主義)に対して新カント派やフッサールが論理の立場から批判を展開していました。(因みに心理学は19世紀末にようやく従来の哲学的心理学から科学的心理学として独立します。ドイツではヴント、アメリカではジェームズがその貢献者です。その流れの中から心理主義が成立してきます。西田は若いころヴントやジェームズの強い影響下にありましたが、新カント派やフッサールに触れて大きな衝撃を受けます。しかし『善の研究』のころから彼が考えていたのは、「論理」の上に立てられた従来の本体論的形而上学でもなく、単なる「心理」の上に立てられた科学的心理学でもない、新しい形而上学としての純粋経験の哲学であったと考えられます。)そういう背景を考えると、この「時間」はやはり心理学的な時間、例えば「人間は動物である」という判断が、不明瞭な在り方から明確な判断の形をとるまでの時間、そのように理解する方が分かりやすいと思います。そういう意味ではKさんの分類では②の方に近いと思います。

A

私も②でよいと思います。

K

私もそんな気がしてきました。
佐野
(その後、この「時間」について、これはカイロス的な「一発勝負」の判断の瞬間だとする説などが飛び出し、一挙に深まる可能性も出てきましたが、ペンディングということで、ここでは割愛します。すみません。)それでは本日の講読箇所に移りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(274頁9~15行目)
佐野
強烈に難しいですね。少しずつ見ていきましょう。まず「特殊と一般との包摂的関係から出立し」ここまではいいですね。たしかにそういう叙述になっていました。「何らの仮定なき直接の状態に於ては、一般は直に特殊を含み」ここは難しいですね。前の段落の終わりではこの「直接の状態」は「真に直接なる意識の場所」(274,7)と言われていましたね。その「意識」とは一般と特殊とが無限に「重なり合う場所」(274,1)で、そこにおける判断において、真に主語となるものは「具体的一般者」であり、判断とは「一般なるものの自己限定」だとされていました。この「判断」とは「所謂判断作用」の「根柢」(274,6)としての判断で通常の判断ではありません。問題はこうした「直接の状態」を我々の経験の中に見出すことです。次に行きましょう。「一般より特殊の傾向」、これは「一般者の自己限定」ですね。そこに「判断の基礎」が置かれる、これは普通に言われる判断(所謂判断作用)の「根柢」がここにあるということでしょう。そうであるとするならば「一般と特殊との包摂的関係から種々なる作用の形を考え得る」とありますね。「種々なる作用」とは「五」の初めに出てきた「知覚、思惟、意志、直観」のことを念頭に置いているのかもしれません。それらはそこでは「意識作用」(272,4)と呼ばれていました。次の「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる」、これは分かりやすいですね。「人間は動物である」において人間は特殊で動物は一般ですが、人間(特殊)の方向にさらに日本人という特殊を考えることができますし、動物(一般)の方向に生物という一般を考えることができます。「かかる関係に於て、一般と特殊の間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない」、これはどうですか。例えば「赤は色である」において、赤(特殊)と色(一般)の間に間隙がある、と考えることができますね。その場合赤と青という「特殊は相異なる」、そう考えることができます。この一般は「相異」のみならず「相反(対立)」、例えば赤と赤ならざるものも包含できますね。ところで皆さん、「間隙」とか「相異」「相反」という言葉、聞き覚えがありませんか?

C

あります。
佐野
191頁から193頁にかけて出てきますね。そこでは①「数(数理)の対象界」と②「経験的一般概念(経験界)」と③「矛盾的統一の対象界」が区別されています。①は矛盾律によって構成されていますが、その根本には「矛盾の統一」があります。例えば〈5は数である〉において、特殊が直ちに一般とされています(「数の概念に於ては一般と特殊とが直に結合する」(197,15-198,1)「数理の統一は矛盾的統一である」(276,6))ここには「間隙」はないと考えられています。しかし数理の場合にはそこに数という「一般的なるもの」(一般概念)があります。これに対して「経験的一般概念」の場合には「一般と特殊との間に間隙がある」とされます。そこでのその意味は「一般より最後の種差に達することはできぬ」ということです。〈この赤〉には一般概念としての〈赤〉は到達できないということです。ここでは一般と特殊(一般化の原理と特殊化の原理)が「合一することができない」。そのため、その「間隙を充填し両者を結合するため、超越的にして不変なる基体」というものを持ってくる、というのです。例えば〈赤〉が〈この赤〉になるのは〈赤〉が個物においてあるからだ、ということになります。この基体を持ってくることで、例えば〈塩は白くて辛い〉というような「相異」の関係も、時間の概念を入れれば〈木の葉が緑から緑ならざるものに変化する〉といった「相反(対立)」の関係も矛盾なく説明できることになりそうです(もちろん西田はそうは考えません)。③については「一般的なるものは即特殊化の原理なるが故に、その間に基体の如きものを容れる余地はない、一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所とか、相互関係の媒介者とか考えるの外はない」(193,4-6)とされます。この論文は「働くもの」で、ここではまだ「場所」概念が術語としては確立していませんが、「矛盾概念を統一するもの」(192,3)としての「場所」(「概念の生滅する場所」(同4))としてはこの辺りが初出でしょう。この「場所」は「働くもの」論文では「自己の中に自己を映す鏡」(194,11)などと呼ばれています。もちろん目下の講読箇所と「働くもの」の上の箇所とが厳密に同じ内容であると考えることはできません。テキストの解釈はつねに、そうして西田の場合は特に現在の文脈の中で行うべきだからです。しかし「間隙」「相異」「相反」「矛盾」といった概念についてはこれまでも西田は論じていることは念頭に置くべきでしょう。次に行きます。「併し一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊との間隙がなくなる時、特殊は互いに矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する」とありますね。これはどうでしょうか?大丈夫ですか?

A

全然大丈夫じゃありません。
佐野
これまで「矛盾」と呼ばれてきたものは、例えば「死することが生まれること」、「否定することが肯定すること」、「無にして有」(以上1923-5)ですね。生と死、否定と肯定、有と無が「特殊」ですね。これらが「矛盾的対立」に立ちつつ「矛盾的統一」が成立する、ということです。これが成り立つ場所がこれまでの流れだと、「意識」(直接なる意識の場所)ということになる。次を読んで見ましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(274頁15行目~275頁5行目)
佐野
ありがとうございます。頭から行きます。「是に於て」、こうした「矛盾的統一が成立する」ことにおいて、「一般は単に特殊を包むのみならず」、「特殊を構成する」という意味でしょうね、「構成的意義を有って来る」とあります。「自己限定」という意味かも知れませんがよく分かりません。次を読んで見ます。「一般が自己自身に同一なるものとなる、一般と特殊とが合一し自己同一となると云うことは、単に両者が一となるのではない」とあります。単に一となるだけなら、一般は「構成的意義」を持たない、ということを念頭に置いているのかもしれません。次いで「両面は何處までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである」とありますが、これでは合一や同一には至りませんね。しかし「斯くしてその極限に達するのである」とある。ということはここに逆転、転回があるということです。「是に於て包摂的関係は所謂純粋作用の形を取る」。「所謂」とありますが何のことかよく分かりません。包摂的関係が逆転したところで「純粋作用」の形を取るということでしょうが…。次いで「かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである」とありますね。「之」とは何でしょう。

C

「極限」だと思います。
佐野
「純粋作用」と言い換えてもいいですか?

C

いえ、純粋作用ではなく、極限です。
佐野
何故ですか?

C

よく分からないのですが。

D

私は「述語面」だと思います。それも「主語面」を離れて見ることができない述語面です。
佐野
なるほど。たしかに「之」の前の文の主語は「述語面」になっていますね。次に「主客合一の直観というのは、此の如きものでなければならぬ」とあります。またしても「此の如き」の内容が判然としない。いったいこれは何を言っているのでしょうか。西田は何かについて言おうとしているのですが、それが一体何であるか。それを我々の身に尋ねてみる必要があると思います。素敵な言葉は出てきませんか?Dさん、笑っているから、おっしゃってください。

D

私が思いついたのは「単に映す意識の鏡」です。
佐野
いいですね。私は「意識された意識」とは異なる「意識する意識」、図に対する地と言ってもいい(英国にいて英国の完全なる地図を描く例のことを思い浮かべていました。描かれた地図は一般に対する特殊で、それに着目しているうちはどこまでも一般と特殊の間に間隙があります。これに対して描かれたものの手前に描かれるべきものがある。この直観(自覚)がなければ地図を描くことができない。そこに気付く。ここに逆転があるわけですが、このようなことを思い浮かべていました。そこでは特殊と一般が一つになります)。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(275頁5行目~11行目)
佐野
ありがとうございます。ここも強烈に難しい。もう時間が来ましたから、ここは次回ゆっくり読むことにしましょう。今日はここまでとします。
(第62回)
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判断 一般的なるものの自己限定

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 270頁8行目「我々は常に主客対立の立場から」から271頁最後までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「真の無の場所に於ては意志其者も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなると共に意志も映されたものとなるのである。」(271, 11-12)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ」(270, 12)るという。単に映す鏡は、「無の場所」(271, 7-8)や「永遠なるもの」(271, 12)ともいわれる。つまり、単に映す鏡は、「(意識する)意識」、「無の場所」、「永遠なるもの」である。しかし、述語的方向の極地が「意識」や「永遠なるもの」と考えられるとき、あらゆる動的な働きはつねに「影」に転じ、否定されてしまう。そのため、「場所」の体系では「単に映す意識の鏡」を破るような「何か」は想定されえない。これでは、「無の場所」は問いえない前提のままにとどまるのではないか。」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

A

「影」とはどういう意味ですか?

O

271頁最後の一文に「動くもの、働く物はすべて永遠なるものの影でなければならない」とあることを踏まえています。
佐野
問いの趣旨を明確にするために、221頁で言われていたことをまず確認しておきましょう。そこでは「対立的無の場所」が「単に物の影を映す場所」、「真の無の場所」が「物が於てあるある場所」となっていて、さらに「意識の野は真に自己を空しうすることによって、対象をありのままに映すことができる」ともあります。これを読むと「影」が否定的な意味を持っていることが分かりますね。見るべきは動中の静で、動いているものに目を奪われている間は直観とは言えないということでしょう。Oさんはこのプロトコルを書くために次の「左右田博士に答う」まで読まれたとか。その最後の部分に着目されていましたね。その部分が今回のOさんの問いの根本にあるように思われますので、Oさん、その部分を読んでいただけませんか。

O

はい。「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。真の無の又無がないかという如き質問に対しては、私は答えるところを知らない。私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識と考え、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである。直覚の又直覚がないかと云われても、私はその意味を解することができない」(322,8-13)。
佐野
ありがとうございます。これを読むと、西田はまず判断から出発して、それが成り立っている「一般概念」をつきつめていって、もはや一般概念として限定できないものがなければならない、それが「無の場所」だと考えていることが分かりますね。これに対して「無の場所」というのも一般概念ではないか、図に対する地になっていないか。そうだとすれば「真の無」のまた無があるのではないか、という問いが成り立つのですが、この問いを西田は拒否しています。そのような問いは「単に無の概念を弄している」のだ、そのように言います。しかし「なければならぬ」ものを「ある」と言ってよいものか、そうした疑問は残ります。何故西田が無の概念を弄していないかと言えば、直覚しているからだというのでしょう。だから有るのだと。さて、これを受けてOさん、改めてプロトコルの問いに戻りましょう。

O

直覚だから、というのは有無を言わせない言い方です。ありのままを見る、ここから出発している印象があります。

B

ありのままの月を見ることができるということは大切なことではないですか?

O

でも、ありのままが見えてしまうということは、それ以上に月は違った形で見えないということで、それは残念だと思います。

B

月がありのままに見えることが幸せで、それが見られないことが苦悩を生む、そういうことではないですか?

O

そこに、ありのままを見たいなあ、という執着のようなものがあると思うんです。だけどこれ以上月がきれいに見えないのか、ありのままの月を見たいけど、見えてほしくないなあ、という気持ちもあります。

C

Oさんは逆に捉えているように思います。西田は、真の無は固定的な概念、一般概念ではないということ、概念では扱えないことを言っているので、それは正しいと思います。

O

概念ではないというのはその通りだと思います。でも「真の無の場所」と言ってしまうと、それが「底」になってしまう。
佐野
(「底」になれば一般概念となってしまうが、それは一般概念ではないとされているので、概念化された「真の無の場所」ことが否定され、そこに「真の無の場所」が立ち現れ、それが一般概念になってしまう。これが無限に続く。西田はこれを「無の概念を弄している」と言っているのだと思います。こうした態度に対して、西田は、自分は概念を弄するのではない、つまり直観からものを言っているのだ、そのように考えているのだと思います。)Oさんは、「真の無の場所」に於てあるものを概念で捉えることはできないけれども、直観されている、ありのままに見えている、そこを問題とされているのでは?つまり物が我々に実はもともとありのままに現れているのだけれど、我々の迷いによって、それが見えなくなっている、しかし突如としてそれが顕わになることがある、あるいは、物は隠れているということを含んで、実は常に顕わになっている、こういう考え方に対する反論なのでは?

O

顕わになっているのか、なっていないのか、それが分からない、そこが重要だと思うのです。
佐野
顕わになっている、というのは顕わになっていてほしい、その方が幸せだから、そうした人間の願いというか、執着ということになりますね。

D

「影」という言葉は古語ではまず「光」です。「影」と言うと虚像といったイメージが強いですが、そこには実像が反映していて、その実像が光です。光は常に我々に届いています。生じて生ぜぬもの、動中静こうした逆説的レトリックによってすべてが収まっている。
佐野
Oさんからすれば、まさにそこが「残念」ということではないですか?

O

そうです。

D

「残念」ということこそ、個人の心情で、そこに願いが反映しているのでは?

A

ありのままに見える(直観)とか、「真の無の場所」が人間の願いだということでしたが、そうした願いが外から照らされるということがあると思います。
佐野
今日はDさんとOさんの対決となりました。哲学的にとても興味深いですが、今日はこの位にしておきましょう。本日より「五」に入ります。それではEさん、お願いします。

E

読む(272頁1~4行目)

E

知覚、思惟、意志、直観の根柢にこれらを統一するものを掴む、とありますが、とても興味があります。
佐野
特に分からないところがないようなので、次をお願いします。

F

読む(同4~11行目)
佐野
「知識の立場から見て最も直接にして内在的なるもの」が「判断」とされていますね。おやっと思われませんでしたか?それは「知覚」じゃないかって。

E

知覚と判断は区別がつきにくいからだと思います。
佐野
たしかに西田は「知覚」については二面性を主張していますね。一方で知覚は作用でない、対象の対立性がないから(判断作用には明らかにそれがある)、と言いながら、他方で知覚も意識である以上対立を含んでいる(そうでなければ無意識になる)と言っています(267,11~268,3)。しかしここでは「知識の立場」から見ていますね。知識ということになれば、判断から出発しなければならない、そのように考えることもできると思います。知覚も判断を含んでいる、これも合わせてここを読んでおきましょう。ここでは判断として最も根本的なものが「包摂判断」であること、ここでは包摂作用ではなく、「包摂的関係」を問題にすること、包摂的関係こそが関係として最も根本的であることが述べられています。何故包摂的関係が最も根本的なのですか?

E

「二つのものが対立的に考えられるには、二つのものが共同の一般者に於てなければならぬ」とあります。赤と赤でないものは色という一般者においてなければならない、ということだと思います。ですが赤は色である、という包摂的関係は赤と赤でないものという対立関係をも含んでいます。だから「最も根本的」といえるのではないでしょうか。
佐野
なるほど。それではここはそのように読んでおきましょう。それでは次をGさん、お願いします。

G

読む(272頁11行目~273頁3行目)
佐野
ここでは判断作用と包摂的関係の関係が述べられていますね。判断作用から時間的意義を除去すると包摂的関係が残ること、判断作用は包摂的関係をもととして考え得ることが述べられています。こうしたことは心理主義に対する新カント派やフッサールの批判といった当時のドイツの哲学界の流れを背景にしていると思われますが、ここでは扱わないことにします。それではHさん、次をお願いします。

H

読む(273頁3~8行目)
佐野
ここでは「特殊なるものを主語として、之について一般なるものを述語するとは、如何なることを意味するか」が問題になっていますね。その際に主観客観の対立を前提しないで、「主語となるものと述語となるものとの直接の関係」「概念自身の独立なる体系」を問題にする、そういうことが述べられています。

E

主観客観の対立を前提とした見方ですが、「主語となるものが客観界に属し、述語となるものは主観界に属すると考えて居る」というのがよく分かりません。
佐野
「これは花である。この花は赤い。この赤い花は美しい」という判断の場合、述語の方は主観による認識であるのに対し、最初の主語(「これ」)は認識以前に与えられたもので、客観界に存在するものと考えられますね。これでどうでしょうか?

E

とりあえず、よしとしておきます。
佐野
それでは次をIさん、お願いします。

I

読む(273頁8行目~274頁1行目)
佐野
前者と後者が出てきますね。それぞれ何ですか?

E

「前者」とは「一般的なるものが基となって特殊なるものを包む、特殊なるものが一般的なるものに於てある」で、「後者」が「特殊なるものが基となって一般的なものを有つ」です。
佐野
そうですね。そうして「概念自身の体系」としては「前者」をとる、とありますね。

E

「後者」の考え方がよく分かりません。
佐野
先程と同じ、主観客観の対立を前提とした見方ですね。「主語となるものが外に射影せられて居る」というところですね。「これは花である」の「これ」が「主語」ですね。これが客観界に投影されたものです(ここには特に書いてありませんが、「自己」の投影と考えられます)。そうして「これ」が赤であり、美しくもある。「一が多を有する」ことになります。

A

次の「一般的なるものが特殊なるものを含む」とは前者の考え方ですよね。「一般的なるものが自己自身を超越する」とありますが、どういうことですか?
佐野
次にあるように「概念を考えられたものの如く見る」ということです。「一般的なるもの」を対象化して、外に立てる(超越する)ということです。「一般的なるもの」や「概念」は「意識」と離すことはできないのに、「意識」から「概念」を「考えられたもの」として切り離して対象化する、そういうことだと思います。そうして「直接には一般と特殊とは無限に重り合って居る、斯く重り合う場所が意識である」といわれます。それではJさん。最後の部分、お願いします。

J

読む(274頁1~8行目)
佐野
ここでは普通の判断とは異なった見方が示されていますね。ふつうは判断の主語は特殊です。ところが「判断に於て真に主語となるものは特殊なるものではなく、却って一般的なるものである」とされています。そうして「判断とは一般的なるものの自己限定」だと、重要な語が出てきます。この一般者は「具体的一般者」、つまり特殊化の原理を具えた一般者です。またここでいう「判断」とは、主客の対立を前提した、特殊が一般を持つといった、「判断作用」ではなく、その「根柢となるもの」(包摂的関係、概念自身の体系)を意味しているのだ、と念を押します。最後に「希臘人(アリストテレス:引用者)の如く形相を能働的(エネルゲイア:引用者)と考えるのは、真に直接なる意識の場所に於てのみ可能である」と述べられてこの段落を閉じます。アリストテレスの場合は「変ずるもの」したがって動(キーネーシス)が残り、真の零になっていない、という指摘は272頁にもありました。今日はここまでとします。
(第61回)
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永遠なるものの影

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 269頁8行目「或は前者の如きもの」から270頁8行目「抽象的一般概念ともなるのである」までを講読しました。今回のプロトコルもMさんのご担当です。キーセンテンスは「或いは前者の如きものに到達した上、更に於てある場所といふ如きものを考へる要はないと云ふであらう」(269,8)でした。そうして「考えたことないし問い」は「なぜ「場所」が必要であったか。それは見る(直観する)ためである。「この花は赤い」の「この花」を主語面に、「赤い」を述語面に押し詰めると、それぞれ「眞の個物」と「眞の自己」に行き着くだろう。それは同じ『所謂眞の無の場所』であろう。その場所では「眞の個物」と「眞の自己」と「場所」は一体となっている。しかし「鏡に映す」「場所に於く」という事態においては未だ「映す我」「見る我」が残されている。三者は点在していて、一体となっていないのではないか。」(220字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
これは西田批判になっていますね。

A

私は一体となっていると思います。

M

直観はしていたと思いますが、論理がついていっていない。純粋経験のうちにあることが論証できていない。純粋経験のうちにあるということが「真の無の場所」ということだと思います。

B

「一体」とはどういうことですか?

M

主客未分というようなイメージです。
佐野
Mさんは「鏡は割られなければならない」とおっしゃっていましたね。これ、実は私の師である故辻村公一先生が講義でおっしゃっていた言葉なんです。禅の立場らしいですね。ですがそれでは認識もなくなってしまうのでは?別の所で西田も宗教においては「映すということもなくなる」と言っていますね。

A

たしかにそうですが、自分から映すのではなく、向うから映されるという仕方もありうると思います。西田は宗教的覚悟(直覚・直観)ということを言っている以上、宗教においても「見る」ということはあると思います。
佐野
一体でありながら、見るということが成り立つ在り方というものがあるとすれば、どのようなものですか?例えば、絶対無の無限の深みから個物が立ち現れるような体験のようなものが考えられますが、その場合、「映す」ということも外のものを映すような映し方でなく、いわば映すものなくして映す、包むということも、風呂敷が物を包むのではなく、包むものなくして包む、という仕方になると思いますが、そういうことですか?

C

はい。そうだと思います。
佐野
そうした解釈は伝統的・正統的な解釈だと思います。「述語の方向に押し詰める」、「述語の極致」という表現がありますが、押し詰めること自体はどこまでも続きます。どこまでも「極致」に行きつかない。やはりここには何らかの超越・転換がなければなりませんね。しかしこの転換が自覚によるもので、それによって意識するもの(意識する意識)に到達し、これが「真の無の場所」とされるならば、「他者」という契機が出て来ないと思うのです。英国にいてその地図を描く営みは、どこまでも続きます。しかし地図を描くことができるということは、それ以前に描くべきものが現前していなければならない。こうした立場の変換によって、自覚が成立するのですが、ここには「他者」という契機が出て来ない。これに対し『善の研究』第4編「宗教」第1章「宗教的要求」では「客観的実在」という言葉が明確に語られていた。目下の講読箇所の「真の無の場所」に至るこれまでの道行を見ても、日常の在り方である「有の場所」から出発し、直ちに「意識(意識された意識)」(対立的無の場所)に転じ、そこからさらに「真の無の場所(意識する意識)」へと転じる、という流れですね。こうした流れにおいて超越・転換があってもそこに他者が関与していない。『善の研究』における宗教的覚悟とはずいぶんと違うような気がします。単に「意識する意識」ということであれば、デカルトのコギトと変わらない。デカルトのコギトも図に対する地として考えることができます。(われわれの生には日常的な生、そこからの反省、そうした反省が破れる体験、それらが等根源的に属しており、直観は直ちに反省となり、それが日常のうちに埋没していく、そうした全体が我々の生であるのに、根源的で直接的な立場に立ちたいという焦り・執着(あるいはこれこそが「真摯」なのかもしれませんが)が、『善の研究』ののち、西田をして直観や自覚の立場に立たせた、そんな感じが今のところしています。)

D

意識する意識が地だとすると、この論ではたしかに他者は出てきそうもないですね。

E

日常性のレヴェルでは他者との対立が避けられない。そこには媒介の働きがなければならない。以前「媒語」という言葉が出てきましたが、そういう共通の場所というものが必要で、我々はそれによって不完全かもしれないけれど、一体になることができると思います。
佐野
まだご発言のないEさん、何かありませんか?

E

これまでの論述だけだと、他者が出てきていないとも言い切れないと思います。
佐野
なるほど。これからも注意深く見ていきましょう。(そもそも「日常性」の中にあるというところ、そこから何らかの仕方で、反省の立場に目覚めるというところ、反省が破れて真の無の場所が開けるというところ、そこに何らかすでに絶対的な他者の働きが隠れているかもしれません。)
佐野
Fさん、どうですか?

F

「一より一を減いた真の零」というのが面白いと思いました。これが「真の無の場所」で、それが「単に映す意識の鏡」ということであれば、この鏡は割れてこそ真の鏡になるのだと思います。
佐野
Mさんと同意見ですね。プロトコルはこの位にして本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(270頁8行目~13行目)

M

「意識の鏡」つまり「真の無の場所」が「我々に直接であり、内面的である」というところが重要だと思います。それが一体ということにつながると思います。
佐野
なるほど。根源的で直接の立場、西田はここに立とうとしますね。それが「真の無の場所」で、実はもともと我々が立っているところだ、ということになります。

E

次に「判断の述語的方面をその極致にまで推し進めて行くことによって、即ち述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ、之に於て無限なる可能の世界、意味の世界も映されるのである」とありますが、私は、真の無の場所は述語の方向に無限に押し詰めた極限に要請されるものだと思います。
佐野
要請というと、無限進行を続ける側からの要請ということになりますが、ここにはやはりこうしたいわゆる悪無限の中に真の無限を見ることのできるような立場の転換が不可欠のように思われます。

A

「述語を超越し行く」とありますから、「真の無の場所」はもはや述語でないように思うのですが。
佐野
そこなんですが、西田は「述語的方向に述語を超越し行く」と言っているだけで、「真の無の場所」が述語を超越したものだと積極的に言ってはいませんね。ただやはり風呂敷が物を包むような仕方で、主語を包むのではない包み方、包むものなくして包む、映すものなくして映す、という在り方が考えられなければならないとは思います。しかしこれは非常に難しいところだと思います。

M

私は「単に映す鏡」「単に映す意識の鏡」というのがどうも気になります。どうも「一体」になっている感じがしないのです。
佐野
「単に」とか「意識」という言葉に引っかかっているようですね。「意識」について言えばそれは「意識する意識」のことでしょう。また「単に」ということについて言えば、西田は以前「単に映す鏡」(231,8)を(単に)「外を映す鏡」(同,10)の意味で用いていました。これは「対立的無の場所」ですね。それに対して「内を映す鏡」(同)、とか「自ら照らす鏡」(260,1)が「真の無の場所」だとされていました。ここで出てくる「単に映す意識の鏡」は「真の無の場所」ですね。そうだとすると、以前の「単に」は否定的な意味ですが、ここでの「単に」は肯定的というより、「純粋にそれだけで」というような重い意味を持つことになりますね。それこそ「映すものなくして映す」とか「包むものなくして包む」というようなことになるでしょう。

M

だとすれば「単に」はここではすごく重要な言葉だと思います。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(270頁13行目~271頁6行目まで)

M

すみませんが、一つずつ指示語を押さえながら進んでいただけませんか?
佐野
そうしましょう。それでは次に「限定せられた有の場所」とありますが、日常生活もそうですね、そこで成り立っている。それが「無の場所に接した時」、ここに目覚め、転換の「時」がありますね。そこに「限定せられた有の場所」例えば日常の世界が「主客合一と考えられ」、つまり意識現象、直接経験として見られることになる。これはもう日常的な在り方ではありません。所謂反省の立場(対立的無の場所)です。(初めて読む者にとっての『善の研究』第2編の「直接経験」も、全集第4巻の「内部知覚」における「内部知覚」(確信)もそうだと思います。)「更に一歩を進めれば」、ここにも転換がありますね。以前(267,2)の表現を用いて丁寧に言えば「主客合一が、直に真の無に於てあると考えられる時」となるでしょう。ここでも「真の無の場所」に接するということが起っています。それをさらに「真の無に於てあると考える」。そのことによって、またしても主客合一は対象となって、対立する無の場所に於てあることになります。そのようにして見られるものが「純粋作用」です。知覚作用もしかり、判断作用もしかりです。「真の無の場所」は矛盾の場所ですから、そうした矛盾が判断の立場(対立的無の立場)には対立として現れてきます。それによって判断作用においては「一々の内容が対立をなし、所謂対立的対象の世界」が形成されます。この世界では矛盾は考えられません。そうであるかないか、有か無かいずれかです。矛盾律を犯すことはできません。また知覚作用も判断の形になっていないだけで実は対立を含んでいる。だから意識できる、西田はそのように考えています。しかし「更に又かかる立場をも越えた時」、これも転換の「時」です。そこに「単に映された意味の世界が見られる」。また「単に」ですね。重い意味の「単に」です。「単に映す意識の鏡」に映されたものが「意味の世界」「無限なる可能の世界」です。それは同時にすべてのものが無限に重なり合う矛盾の世界でもあります。そうして「我々の自由意志はかかる場所から純なる作用を見たもの」とされています。この「自由意志」は「純なる作用」とあるように、作用としての自由意志です。すでに対立的無の場所に映されたものになっています。続いて「此故に」とあって、「意志とは判断を裏返しにしたものである」とあります。何故「此故に」なのか。「述語を主語とした判断」だから、つまり述語(無の場所)から主語(意志)を見る判断だから、ということになりそうです。そうして「単に映す鏡の上に成り立つ意味はいずれも意志の主体となることができる」ことから、「意志」は「自由」だとされます。次に行きましょう。「意志に於て特殊なるものが主体となると考えられる」、そうして「意志の主体となる特殊なるものとは無の鏡に映されたものでなければならぬ」と来ます。「無の鏡に映されたもの」とは「意味」です。「意味」はもともと一般ですが、それを意志の主体とすることで特殊になります。我々が何らかの目的を実現する際、目的自体は一般ですが、実現される目的はつねに特殊です。しかしそれは「限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊ではなく、かかる有の場所を破って現れる一種の散乱である」とされます。「意志の主体となる特殊なるもの」と「限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊」とは異なる、ということです。「散乱」とは「一般概念の中に包摂」されていないことを言っているのでしょうが、読者の想像を掻き立て、思索を誘う表現になっています。「真の無の場所」に於てある「意味」が特殊という形で意志によって実現しても、一定の意図に回収されないような何かを感じさせます。あまり指示語はありませんでしたね。では最後の段落をCさん、お願いします。

C

読む(271頁7行目~最後まで)
佐野
(「一般概念によって囲繞せられた有の場所を破って、単に映す鏡とも云うべき無の場所があり、意志はかかる場所から有の場所への関係に於て見られ得ることを述べた」とありますが、前半部はともかく、後半部については十分に述べられてはいないような気がします。)「まだ単に之に於てあるものに論及することができなかった」と、また「単に」という語が見えますね。この「単に」という語も重い意味を持っていそうです。続いて「意志は真の無の場所に於て見られるものであるが、意志は尚無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定せられた有の場所が見られる限り、我々は意志を見るのである」とあります。我々が意志を意識するのは目的観念が意識された場合、例えば目的の実現が困難であったり、目的そのものが不明瞭であったりする場合ですが、こうした目的観念自体はそうした一般概念として「限定せられた有の場所」を形成しており、しかもそうしたものが意識されていることで、通常の判断とは逆になるにせよ、そこには判断(述語を主語とした判断)があり、意志は主客が分かれた「対立的無の場所」において意志作用(主)として映されていることになります。それ故この立場はなお克服されなければなりません。そこで「真の無の場所に於ては意志其者も否定せられねばならぬ」ということになります。そうした立場からは意志も「対立的無の場所」において「映されたもの」に過ぎないことが明瞭に映し出されることになります。そうすると「動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影」ということになる、そういうことを言っていると思います。

D

「永遠なるもの」とは「真の無の場所」のことですか?
佐野
「動くもの、働くもの」に対するものとして、つまり意志作用も含めた作用一般に対して「永遠なるもの」と言っているのでしょう。またそうした「映されたもの」に対して「映すもの」のことを言っているのでしょうから、そういうことになるだろうと思います。

D

だとすると、少し残念です。

E

何故ですか?ここが最も大事なところではないでしょうか。
佐野
「永遠なるもの」が実在として最後に控えているというところが残念ということでしょうね。今日はここまでにしておきましょう。
(第60回)
 
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意識せられたもの、意識するもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 268頁3行目「有の場所が」から268頁8行目「私の所謂真の無の場所である」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーセンテンスは「最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ」(269,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「最初の単なる有」とは西田にとっては最も大切な充実した「有」つまり純粋経験であったと思います。ヘーゲルの「絶対者」もそれに近い物だと私は理解しました。決定的に違うと西田が主張するのは「それが於てある場所」を考えたかどうか。私が分からないのは、確信の純粋経験から明白の純粋経験に至るために「場所に於てある」ということがどうして必要であったか。「場所に於てある」ということがどのような事態であるのかということです」(204字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
問いの核心部分だけを問題にしましょう。そうするとヘーゲルは「於てある場所」を問題にしなかったが、どうして西田はそれが必要であると考えたのか、また「場所に於てある」とはどのような事態であるのか、ということになりますね。たしかに西田の言うように、ヘーゲルは「於てある場所」と取り立てて問題にしているとは思えません。しかしヘーゲルの絶対者は主体(主観)でも実体(客観)でもなければ、主体でも実体でもあるというようなもので(「真なるものを、実体として把握し表現するのでなく、同様に主体(主観)として把握し表現すること」das Wahre nicht als Substanz, sondern ebensosehr als Subjekt aufzufassen und auszudrücken(『精神の現象学』「序文」第17段落の奇妙な句はそのように解釈すべきだと思います)、その意味では、西田が解釈するように、ヘーゲルの絶対者は主語の側に立つ実体とは言えません。それは主語でもなく、述語でもなく、主語でもあれば、述語でもない、そうしたものだと考えられます。西田は主語と述語を分けたうえで、こうしたヘーゲルの絶対者を主語(実体)の側に押しやり、自分は述語の側を押し詰めて「真の無の場所」を考えた、とも考えられます。こうしたやり方は不当なのか?それともこうしたことを踏まえた上でも述語の側に「於てある場所」を考えることは必要なのか?またそれはどのような事態なのか?そのようにMさんの問いを捉えてみたいと思います。このプロトコルは本日の講読箇所に深くかかわっていますので、まずその箇所を読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(269頁8行目~12行目)
佐野
指示語が多いので確認しておきましょう。「前者」と「後者」はそれぞれ何ですか?

A

「前者」は「自己同一なるもの」あるいは「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」で、「後者」は「私の所謂真の無の場所」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると先程申し上げたことがはっきりしましたね。「或は前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないと云う」のはヘーゲルですね。たしかにヘーゲルは絶対者の於いてある場所というものを特に取り立てて問題にしませんでした。しかし西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語の方向に押し詰めたもの」で、自分の「真の無の場所」は「その述語の方向に押し詰めたもの」だとしています。その上で「内在的ということが述語的ということ」で、「主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば」「後者」、つまり「真の無の場所」から出立せねばならぬ」と述べ、「後者が最も深いもの、もっとも根本的なるものと云い得るであろう」と結論付けています。

B

「内在的」とは何に内在的なのですか?人間に内在的ということですか?
佐野
「人間」とすると、人間が対象化され、主語に立ちますね。2行目に「判断の主語を外に見る」とありますが、主語に立ったものは外になります。そうすると何に内在的か、と言う問いに対しては、決して対象化されないもの(そう言えばまたしても対象化されますが、その点は措き)に内在的だ、ということになり、それが「真の無の場所」ということになりますね。

B

「内在的」ということが「述語的」だったら、「内在的なる限り」、つまり述語となる限り知り得る、となりますね。これはどういうことですか?
佐野
述語化する、ということが知るということ、例えば、これはバラである。このバラは赤い、というように述語化することで、主語を知ることができる、そのように考えることができるのではないでしょうか。そうすると、「知る」ということが主語を述語化するということだから、述語の方から「出発しなければならない」と言っていることになりますね。

B

主語をすべて述語化したら、主語も述語もなくなると思います。主語と述語の両方があるか、両方ともなくなるかのいずれかだと思います。
佐野
それは西田批判ですね。ヘーゲルに一票ということでしょうか?

B

そこまでは考えていませんでしたが。

C

私はそういうことだと思いました。述語の方面に「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として「真の無の場所」があるとするのはどうかと。

D

我々日本人の空気からすると、述語だけの世界が根本だと思います。西洋は神という実体が根本で、ヘーゲルの絶対者も同様です。しかし根柢からすれば、「絶対無」こそが真の実在です。
佐野
それは日本の風土が根拠になっていませんか?

D

いえ。もともと「絶対無」が根柢であり、これから(の時代において)もそれが明らかになるのだと思います。このことは風土が根拠というのではなく、論理的な必然です。

C

「絶対無」ないし「真の無」の場所というのは知り得るのですか?

D

ええ。知り得ます。それは実感できるものです。そうしてそれを知的に構成することもできる。

C

私は知り得ないと思います。

D

「真の無の場所」がなければ生きることも、考えることもできない、そういう意味で「真の無の場所」は不可欠なものだと思います。ミカンの皮のようにそれを包むものです。それがなければ存在し得ません。しかもそれは究極的には無なのですが、東洋の人間には、言葉で言い表せなくても体で分かっているものだと思います。柔能く剛を制す、のような有とは別の原理です。これは西洋から言えば不可能という外ない。
佐野
それがなければならない、ということと、それが直観されているということとは別のように思われますが、Eさんはどうお考えですか?

E

私は西田が、述語の結果として主語が出てくる、と言おうとしているように感じられます。
佐野
たしかに、我々の常識の世界は有の場所の上に成り立っていて、その世界に出会われるものは有の場所の結果、つまり我々が前提としている世界のうちですでに理解されているとも言えますね。その場合、我々は対象的に理解することはできないにしても我々の常識がそのうちに成り立っている「有の場所」をすでに直観しつつ、それを前提して生活しているとも言えますね。ただそのことはその場所(ないし一般概念)の外に出て見ないと理解することはできません。ところで同様のことは「真の無の場所」についてはどうでしょうか?我々はどんな場合でも、ということはつまり日常的な生活の一々において、実は気がつかないだけですでに「真の無の場所」を直観している、と言えるのですか?

E

「真の無の場所」が直観の場であることは認めますが、場所自体は直観するものではない気がします。

F

「真の無の場所」は「矛盾の場所」だったと思います。これは我々が矛盾を感じる時に顕わになるものでしょうか?それとも我々が矛盾を感じていない、合理的だと思っているところに隠れている矛盾だということでしょうか?

G

後者だと思います。この花は赤い、ということの中にも実は言い尽くせない、という仕方で矛盾を含んでいると思います
佐野
そうした矛盾が、したがって「真の無の場所」が、我々はそうしたものを日常生活の一々において、取り立てて意識はしないけれど、実は根柢において開かれている、とお考えですか?それともそうしたものは我々に隠れているとお考えですか?

G

開かれていると思います。だから我々は日常的にも生活できますし、判断もできるのだと思います。
佐野
しかし、他面ではどこまでも隠れている、とも考えられますね。そうした立場からすると、「真の無の場所」が何故「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として真実在となり得るのかが問題になりそうですね。そうした「場所」がなければならない、そのことは理解できるとしても、それが真実に「ある」、とは言えないと思うからです。プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。それではBさん、お願いします。

B

読む(269頁12行目~270頁8行目)
佐野
「判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるの外はない」とありますね。この意識は「意識する」意識です。これが「包摂的一般者の方向」つまり「述語の極致」に求められなければならない、というのです。これはちょうど図に対する地のように決して対象化されないもので、これまでも意識現象に対する「意識の野」と呼ばれてきたものです。「我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ」、こうした「単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ」と言われます。西田はこうした立場に相当自信を持っていたようで、「従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない」と言い切ります。次の論文「左右田博士に答う」の初めに、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった高考に到達し得たかと思う」(290,3-4)と述べていますが、この「場所」の「終」とはこの辺りからを念頭に置いているのかもしれません。(因みに、「論理的意義」について言えば、西田は『善の研究』「版を新にするに当って」で「「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う」と述べ、また『働くものから見るものへ』の「序」でも「「場所」に於ては超越的述語という如きものを意識面と考えることによって、多少ともかかる論理的基礎附の端緒を開き得たかと思う」、とも述べています。この「論理化」「論理的基礎附」がどういう意味なのか、それらは今講読している箇所の「論理的意義」と関わっているのか、は大変興味深いところです。さらにこうした「論理化」ははたして十分になされているのか、はもっと興味深いと思います。仮にこの「論理化」が今講読している箇所の「論理的意義」に関わっているとするならば、少なくとも私には「私の所謂真の無の場所」が主語述語に分けた上で述語の方向へ徹底した方向に求められたというのは、「論理的に」大変気になるところです。主述の区別は「意識せられたもの」と「意識するもの」、つまり客観主観の区別、対象と自己の区別に重なりますから、そうした各区別の後者を根本としてとるということは、きわめて自己(真の自己)に強いアクセントが置かれることになります。必然的に、主語、客観、他者の契機が抜け落ちていくことになります。場所の論理の成立に関わるこうした根本問題については、さらに皆さんと考えていきたいと思います。)

F

アリストテレスに関する叙述の所で、「純粋作用」「純粋なる形相」というのが出てきますが、それがよく分かりません。
佐野
見て見ましょう。「アリストテレスは変ずるものはその根柢に一般的なるものがなければならぬと云ったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ」とあります。「変ずるもの」の「根柢」にあるものは「質料」だと考えられます。それが「限定せられた有限の場所」だと。この「変ずるもの」の変化(運動)は「キーネーシス」ですね。ついで「それが極微である限り純粋作用というものが見られる」とありますね。「それ」とは「限定せられた有限の場所」つまり「質料」のことだと考えられます。それが「極微」になる。そうするとそこに「純粋作用」が見られるとありますから、この「純粋作用」は「純粋活動態(エネルゲイア)」のことであると解釈できます。アリストテレスの『自然学』が対象とする月下の世界では、すべての実体が形相と質料とから成り、すべての実体は質料から形相へ、可能態から現実態へと向かう運動(キーネーシス)の内にあります。しかし完全なる純粋な現実態に至ることはありません。それ故純粋な現実態は『自然学(physica)』を超えた『形而上学(metaphysica)』で扱われます。それが「不動の動者」としての「神」です。それは純粋な現実活動態であり、形相の形相として純粋形相です。それは美しい人が恋する人を惹きつけるように、それ自身は不動でありながら、すべてのものを動かす(不動の動者)。またそれは純粋な知の対象として、知性の活動とその対象とが一致しています(思惟の思惟)。しかし西田はこうした「純粋作用」においてすら「極微」に質料を残していると考えていることになります。したがってそれはさらに徹底して「唯全然無となった時、単に映す意識の鏡というものが、見られねばならぬ」とされます。この「鏡」は「単に映す意識の鏡」とありますが、それは「単に(外を)映す鏡」(231,8)ではなく、「自ら照らす鏡」(260,1)のことです。こうした「一層深き無の鏡」からすれば、「純なる作用」(エネルゲイア)の根柢をなす、「希臘人」(アリストテレス)の「所謂純粋なる形相」(神)も「遊離されたる抽象的一般概念」に過ぎない、ということになる、そのように解釈されるでしょう。今日はここまでとします。
(第59回)
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真の無の場所と充実した有(erfülltes Sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 267頁5行目「有が無に於てある」から268頁3行目「実は之によるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーセンテンスは「眞の無の場所は有と無が重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」(267.10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「この文は、「有と無の矛盾が根本にあるから」「作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」と解釈された(読書だより(23.4.25))。しかし、「矛盾」が単純に「對立的で」、しかもこれを包むべき「眞の無の場所」で「何處までも對立的でなければならぬ」という意味が理解できない。「すべての物は対立によって成立するというならば、その根底には統一的或者が潜んでいる」(『善の研究』二編五章)はず。従ってここで「對立」が強調されるのは、「判断作用」を「感覚」との差異を際立たせる一種の修辞と解する」(234字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
趣旨の確認なんですが、「真の無の場所」が「何處までも対立的でなければならぬ」ことが理解できないということでよいですか?

N

はい。対立と統一と両方あって、それらを統一するという意味でむしろ「統一」こそが「真の無の場所」だと思います。「真の無の場所は有と無が重なり合った場所」ともあります。
佐野
これまでも「真の無の場所」は矛盾の場所といわれていましたが。

A

私はむしろ「対立」の場所だと思います。

B

私は対立も統一もない、すべてが映される場所だと思います。
佐野
テキストでは「何處までも対立的でなければならない」の主語は「作用の対象」ですね。この「作用」って何ですか?テキストに即して考えてください。

C

判断作用です。
佐野
そうですね。さしあたり知覚作用と判断作用の両方を含ませて「作用」と言っていますね。しかしすぐ後で「知覚」は「厳密なる意味で作用でない」と除外されますから、判断作用でいいと思います。「(判断)作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」ということはわかりやすいですね。判断はつねに対立的です。そうである(有)か、そうでない(無)が常に対立している。

N

でも、「真の無の場所は有と無とが重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」とあります。「重なり合った場所」から判断の対象がどこまでも「対立的」でなければならないが出てくるとすれば、一方通行的だと思います。
佐野
たしかに「真の無の場所」からいかにして「判断」が出てくるか、ここにはギャップがありますね。〈あるとないとが重なったところ〉、こうした矛盾の場所からどのようにして〈あるとないが対立する〉場所が生ずるか、という問題です。プロトコルはこのくらいにして講読に移りましょう。Dさんお願いします。

D

読む(268頁3行目~9行目)
佐野
冒頭「有の場所が直に真の無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る」とありますが、この表現は267頁2~3行目の「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ」とよく似ていますね。これを同じものと見てよいか、という問題があります。その場合は先の文章は「有の場所が直に真の無の場所に於てある(と考えられる)時」と補って読まなければならないことになります。西田は267頁14~15行目でも「判断意識は有が直に(真の)無(の場所)に於てある(と考えられる)ことによって現れる」というように省略した述べ方をしていました。ここもそのように「と考えられる」を補って読んでよいか、ということです。それでよいということになれば「純なる作用」とは「知覚作用」のことになります。

A

私は違うことを言っていると思います。「純なる作用」とは意志作用のことだと思います。
佐野
しかしすぐ後に、「純なる作用の世界」は「普通に意識の世界」だとされていますから、それを「意志の世界」と呼ぶのは少し無理がありませんか?

A

そうですね。
佐野
もし、今の文章を前の文章と同じ意味だとすれば、この「純なる作用」とは「知覚作用」のことを指すことになります。その直前にテキストでは知覚の話をしていましたから、続き具合からいってもそう読むことに無理はないと思います。そうなると「純なる」とはとりあえず〈対立を含まない〉(実は知覚が「意識」である以上対立を含むように対立を含んでいるのですが)という意味になります。そうしてそれが「普通に意識の世界と考えられるもの」とあります。知覚の世界が「意識の世界」だというのは普通に理解できますね。ただしこうした理解は「普通」じゃありません。我々は普通、この世界が意識の世界だとは思っていません。目の前のボトルが知覚だとか意識だとかいうのは普通じゃあありませんね。我々はこれを「ある」と思っています。それはともかく「純なる作用の世界」とは「知覚の世界」のことで、それが「意識の世界」だということになる。ついでそれが「内在的対象界」とされていますから、この「内在的対象界」というのは以前出てきた「内部知覚」(75頁)につながっていきますね。そこではそれは「直接経験」(同)とも呼ばれていました。

B

内部知覚は「明白」には至らない「確実」にすぎない(76頁)とされていましたね。
佐野
そうです。微小に対象化されているのです。今読んでいる箇所でも「内在的対象界」というように「対象」化されていますね。「内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない」と言われています。

C

この一文はの前のページの「内在的対象とは真の無の場所に於て固定せられた一般概念である」(267,8)の言い換えじゃないですか?
佐野
そう読みたくなりますね。

C

「無を以て縁附けられた有の場所」も言い換えですね。
佐野
ええ。そう思います。そうしてそれが「対立的無によって限定せられた真の無の場所」だとされています。「真の無の場所」そのものではなく、「対立的無によって限定せられ」ている、それ自体は「対立的無」の場所だということです。つまり実は「純なる作用の世界」としての「知覚の世界」も対立を含んでいたことになるのです。そうして「真の無の場所は尚之より深きものでなければならぬ」となります。「真の無の場所」は「意志の世界」だとされています。(因みに、私は「知覚の世界」は『善の研究』第2編の純粋経験、「意志の世界」(「真の無の場所」)は第1編の純粋経験に相当する、というように理解しています。)この「意志の世界」が矛盾の世界ですね。有と無が重なり合う場所です。こうした矛盾を我々は通常考えることができません。その意味ではどこまでも分からないものですが、他面で我々はこういうものを知ってもいるんです。例えば〈山は山でない、それ故に山である〉という所謂(鈴木大拙の)〈即非の論理〉がありますね。これがまさにこうした矛盾の表現です。次に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(268頁9行目~13行目)
佐野
この箇所は後でヘーゲルの名前が出てくように、ヘーゲルのことを念頭に置いているのかもしれません。「知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語の合一に至って知識はその極限に到達する」とありますね。「知識対象」としての「有と無との合一」とは、ヘーゲル哲学における〈絶対者〉のことを念頭に置いていると思います。判断は有と無の対立を含みますが、それが対象的(客観的)には合一に至って〈絶対者〉に到達し、知識的(主観的)には主語と述語の合一に至って「知識の極限」つまり〈絶対知〉に到達する、ということでしょう。こうした合一(絶対者)を意識する時、「かかる合一が於てある意識の場所がなければならぬ」というのは西田のヘーゲル批判です。ヘーゲルはそうした場所を考えなかったということです。「合一」が「同一なるもの」と言い換えられていて、さらに「同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含む」と言い換えられていますが、これもヘーゲルの〈絶対者〉を念頭に置いたものだと思われます。ヘーゲルの絶対者は単なる「同一」ではなく、「同一と非同一の同一」でした。まさに同一と相異(区別)の同一、ということです。そうしたものの「於てある場所」がなければならない、ということです。次に進みましょう。Gさんお願いします。

G

読む(268頁13行目~269頁8行目)
佐野
ここもヘーゲル批判ですね。最初に「有と無と合一して転化となる」とありますが、ヘーゲル哲学ではAという規定性を徹底するとAの反対に移行する、とされます。これが弁証法というものです。その意味で弁証法は全般的にA(有)が非A(無)に転化すると言えますが、文字通り有が無に転化し、無が有に転化して、両者が合一すると、ヘーゲルの『論理学』では〈成〉が出てきます。これも転化ですね。〈ある〉という規定性を徹底すると、〈ない〉も意味がある以上〈ある〉、ということになってすべてが〈ある〉になってしまう。そうなると〈ある〉はその規定性を失ってしまう。そこでそれを今度は〈ない〉と言うと、それが〈ある〉と同じものになってしまう。こうした有と無の相互移行(転化)のうちに〈成〉が定立されることになります。有から無へと移行することが消滅、その反対が生成で、両方向合わせて〈成(なる)〉ということになります。西田はこうした転化が成立するためには、「転化を見るもの」「転化が於てある場所」なければならぬ、そうヘーゲルを批判します。しかし私が見る限り、そう簡単には言えないと思います。「転化を見るもの」について言えば、ヘーゲルはそれを問題にしており、それを「我々」と呼んでいます。「我々」とはいわば万能の語り手のようなもので、全体をすでに見渡しつつ、思惟(視点人物)の運動に手を加えずにじっと「見る」だけ、その様子を基本的にただ語るだけの存在(哲学者)のことです(時々、理解を助けるために登場して全体を見渡すことのできるようなヒントを与えてくれますが)。また「転化が於てある場所」についてもヘーゲルは〈エレメント(境位・場面)〉ということを問題にします。『論理学』のエレメント(場所)は純粋知(主客同一の境位)で、『精神現象学』のエレメントは意識(主客対立の境位)です。『論理学』がそこから始まる所、あるいは『精神現象学』がそこから始まる所、そこは実は同じところで、それが〈絶対理念〉とか〈絶対精神〉とか〈絶対知〉と呼ばれるものです。そこから『論理学』や『精神現象学』の円環が始まり、そこへと還って行きます。そこは主客あるいは実体と主体(主観)が同一でも対立でもない、同一でもあれば対立でもある、そうした場所です。ヘーゲル哲学体系の全体がそこに於て成り立つエレメントです。西田はこうしたヘーゲル哲学の側面を見ていません。さらに西田はこうしたヘーゲルの〈絶対者〉が無限に矛盾を含むものであっても、それは「尚判断の主語を外に見」ている、と批判します。「知識的対象」になっている、実体化しているということです。この批判も私が見る限り当たらない。ヘーゲルの〈絶対者〉は実体(神)でもなく主体(自己)でもなく、実体でもあれば主体でもある、換言すれば主客の同一と非同一の同一です。単に〈実体化している〉とも〈実体化していない〉とも言えないものです。それはともかく、西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるものが主語となることではない」と言います。

H

「真に述語的なるものが主語となる」とは西田の「意志の立場」と考えてもよいでしょうか?
佐野
そうですね。そのことについては271頁で出てきますのでお楽しみに。次いで「ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むもの(絶対者:引用者)ではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならぬ」と西田は初めてヘーゲルの名を挙げて批判しています。これまでと同じ批判です。

A

こういう批判はあまりよくないですね。
佐野
えらい哲学者は皆こういうことをするものです。自分の土俵の中に引っ張り込んで批評するんです。次に出てくる「最初の単なる有」とは『論理学』の最初に出てくる、先程述べた「有」のことです。その「有」が「すべてを含む場所」「その底には何物もない、無限に広がる平面」「形なくして形あるものを映す空間の如きもの」でなければならない、そう述べます。ヘーゲルの「有」がヘーゲル哲学のすべてがそこに於てあるヘーゲル哲学にとっての「真の無の場所」であるべきだと言おうとしています。しかしそれを言うなら「有」ではなく、先程述べた〈絶対者〉〈絶対知〉〈絶対理念〉〈絶対精神〉を挙げるべきでしょう。ヘーゲルはそこにおける有を最初の「有」とは区別して「充実した有(erfülltes Sein)」と呼んでいます。最初の「有」は最も貧しい規定です。我々は言葉に言い表すことのできないものに出会った時、「ある!」としか言えません。もっとも具体的なものを言い表す言葉を持たないからです。しかしそのように言葉にすると最も貧しいものになってしまう。思惑(ヘーゲルはこれを「私念」とも呼びます)は最も豊かなものを思惑しているのに、言い表している言葉は最も貧しい。このギャップ故に最初の「有」は「無」に転ずるのです。最後に「自己同一なるもの」「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」、どちらもヘーゲルの〈絶対者〉のことを念頭に置いています、そうしたものすら「之に於てある場所が私の所謂真の無の場所である」とされています。「之」とは後に出てくる「私の所謂真の場所」のことを指していると思います。今日はここまでとしましょう。
(第58回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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