意識する意識

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「真に意識する意識、即ち真の直覚」でした。それについての問いは「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。
佐野
前回の講読箇所は西田の初期フッサールに対する批判でしたね。初期フッサールでは知覚的直覚がすでに反省(「意識された意識」)であり、それが志向作用を基礎づけ、それによって知識が充実する形になっている。西田はそうじゃないと考える。「真の直覚」は「意識する意識」でなければならず、それが作用を基礎づけることで、知識が充実していくと考える。

A

純粋経験から始める、ということですか?
佐野
『善の研究』第2編の「純粋経験」つまり「直接経験」と、第1編冒頭の「純粋経験」をまずは区別する必要があると思います。「直接経験」は主客合一ですが、それは想起するなど、反省によらなければ顕わになることはありません。この反省が破られる、といういわば〈驚き〉のようなものが「純粋経験」には不可欠です。そうした境位から初めて「純粋経験は直接経験と同一である」ということが言いうるわけです。第4巻『働くものから見るものへ』では「内部知覚」が直接経験と呼ばれ、それは「確信」を生じるとされていますが、「明白(明証性)」には至らないと考えてられています。そのためには「自己自身を失う」ことが必要だと(旧全集版64-65頁)。私はこの「明白」に至った純粋経験が第1編冒頭の「純粋経験」だと考えています。そういう限定付きで「真の直覚」から始めるということは「純粋経験」から始めると言ってもよいと思います。西田は反省以前の「真の直覚」から始めて一般に作用を基礎づけ、「自然界」と「意志の世界」を構成しようとします。さて、それではYさんの問いに戻りましょう。「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。「真の直覚」に基礎づけられた知識に誤謬の余地はないではないか、ということです。

A

「真の直覚」を出た所で誤謬が出て来るんじゃないでしょうか。
佐野
反省・判断の領域ですね。

B

私もそうだと思います。反省・判断の領域で初めて真偽が問題になると思います。
佐野
誤謬や真偽は一定の領域・場所においてのみ成立するのだと。

C

確かに判断のないところで真偽も誤謬もあり得ないと思います。
佐野
そうすると、「真の無の場所」では真も偽もない。以前この場所についてアウグスティヌスの善悪を超えた絶対的な善について語られたように、この場所は真偽を超えた絶対的な真の世界と呼べることになりそうですね。プロトコルについてはこれくらいにしておきましょう。本日は249頁2行目から14行目まで講読したいと思います(以上は、実際の対話の記憶に基づいてアレンジしたもの、以下は架空対話です)。

D

転回点が二つあり、そのつど矛盾の超越があるように見えますが、具体的にはどういうことでしょうか。最初の「矛盾の意識」というのは以前出てきた丸い四角みたいなことですか?
佐野
そうだと思います。意識一般の世界ではすべてが矛盾律に従って合理的に構成されます。しかしそれができるのは、我々が「矛盾」ということをどこかで知っているからです。それが意志の世界です。そこでは有がそのまま無であり、無がそのまま有です。丸い四角を考えることはできませんが、考えようとすることはできます。西田はそこに意志を認めます。こうした思考・判断における矛盾の意識によって、判断ないし知識の世界から意志の世界へと転回する、というわけです。(もっとも反省や判断の立場を超えさせるような矛盾とは、それを行っていながら、それを行うもの自身が問題になっていない、ということにあるように思います。そうした矛盾の意識は当然、人生の矛盾の意識となるはずです。)

D

次の「意志の矛盾の超越」は?
佐野
これも切り詰められた表現ですから、はっきりとは言えませんが、おそらく道徳的な意志の矛盾だと思います。

E

欲望に負けるというようなことですか?
佐野
西田はパンやお菓子が好きだったようで、猛烈に反省していますね。そのことが日記に書いてある。そこまで自分に打ち克とうとしていたことが驚きですね。道徳的な意志の矛盾はそういうことも含むと思います。善を対象として、それを意志するけれども、そのことによってかえって実現不可能になってしまう。善があくまで向う側に置かれることになるからです。こうしてこうした意志の立場は悪や罪に躓くことになる。

D

『善の研究』を構想する以前の西田と同じじゃないですか?
佐野
そうだと思います。少なくとも私の解釈では。『倫理学草案第二』での躓きのことですね。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第39回)
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(この)赤は赤である

今回はプロトコルを巡っての議論を紹介しましょう。(記憶をもとにかなりアレンジしてあります。)今回のプロトコルの担当者はMさんでした。「(この)赤は赤である。赤は赤に於てある。一つ目の赤は質料を含む形相であり、二つ目の赤は意識せられた赤、純粋形相であろう。実在の根柢にある非合理的なものは具体的一般者であり、主語となって述語とならないものではなかったか。ここでは西田は「見る眼」を「述語的なるもの」としている。これはどういうことか」がその内容です。
佐野
純粋形相が「意識せられた赤」になっていますが、ここで意識するものと意識されたものとが対立するということですか?

M

ここは迷ったんですけれども、対立はしません。この「赤」は直観されるものです。曇りのない鏡にそのまま映されるんです。

A

それではそこからどうやって判断が生まれるんですか?
佐野
「見る」ことは「無から有を作る」とか「無から質料を作る」という表現もありますね。その場合どうやって、質料や有が映されるんだろう。

B

映されるものが予めあって、それが映されるんじゃないと思います。合わせ鏡のように互いに映し合うことで映されるんだと思います。
佐野
それでも理解しがたいですね。西田は「真の無の場所」とそこに「於てある」「純粋性質」から自然界や意志の世界を構成しようとしていますが、ここでそれが成功しているか疑問が残ります。ところでもう一度、Mさんの問いに戻りましょう。主語的な面で述べられてきた「具体的一般者」がどうして「述語的なもの」になったのか。「具体的一般者」はもともとヘーゲルの言葉ですが、西田はこの語を様々な意味に用いてきました。『働くものと見るもの』の前編では色や空間について用いられていました。後編の「働くもの」になると具体的一般者ははじめ主語述語以前の主語面において問題となっていましたが、次第にその述語的な面が問題になり始めます。これが何を意味しているのか、そういう問いでもあると思います。

A

主語的な具体的一般者は「がある」存在、つまり「存在」としての有で、述語的な一般者は「繋辞」としての有だと思います。
佐野
なるほど。主語述語以前の具体的一般者と言っても、なお対象化される側面が残っていたと。以前「確信」と「明白」の区別が出てきましたね。確信は「直接経験(内部知覚)」だけれども、「現在」には届かない、その意味で対象化されたものであり、こうした対象化を破ったものが「明白」だというように。私はこれを『善の研究』における第2編の直接経験と第1編の純粋経験の違いのようにも感じました。第2編の直接経験はあくまで想起・反省の対象です。これに対してそうした反省が破れた所に成立するのが、第1編の純粋経験です。今日はこれくらいにしておきましょう。
今回は旧全集第4巻248頁13行目から249頁2行目までを読み、そこに出てくる「現象学者」の理解を深めるために『哲学のエポック』(辻村公一他編、1994年、ミネルヴァ書房)所収の「フッサール」(丸山徳次執筆)の278頁初め~281頁8行目を講読しました。

A

「「本源的に与える」体験と本源的なありようを指示している体験とのこの緊張関係が、あらゆる意識を貫いている」が分かりません。
佐野
「本源的に与える体験」とは例えば「知覚的直観」(現に見ている)のことです。〈靴箱の上のカギ〉は記憶の中では単に「思惑」に過ぎず、それは「本源的なありよう」つまり〈現に見ている〉ありようを指示しています。それだから、「確信」するために見に行く。ない場合がしばしばありますね。私の場合。

A

次の「事象それ自身がそのままに与えられているという意識を「充実」もしくは「明証性」と呼ぶならば、何ものかについての体験はすべて充実されることに、明証性に、差し向けられている」は?
佐野
「靴箱の上にカギがある」が事象です。それを現に見る、これが「明証性」でそれによって我々は「確信」を抱くわけです。そうして「明証性」が得られている状態が「充実」です。ふつうはそれでよいのですが、現に見ているにしても「本当に靴箱の上にカギはある」のだろうか?これは「疑い得ない」と言っていいのだろうか?「本当に」が付くと、途端に怪しくなります。「このペンは本当に有るのか」について考えて見ましょう。それは「これは本当にペンなのか」という問いを含みますね。ですが例えば私が専制君主だったとすれは、このペンはもしかすると、書くと毒ガスが出る可能性だってある。そうなればこれはペンではない。疑う立場に立てばいくらでも疑えるわけです。まして「このスープはおいしいですからお飲みください」などというのをそのまま信じるわけにはいかない。専制君主でなくても、この肉は「国産」です、などというのを消費者はうのみにはできないし、ましていかがわしい骨董屋に「これは運慶作の仏像です。お安くしておきます」などと言われても、我々はきっと用心するでしょう。我々の抱いているのは「確信」であって、真なるものそのものの認識ではない。

B

でも現に見ていて、しかも書いても毒ガスも出ないし、現に書ける。これは「本当に有る」と言ってもいいのでは?

C

いえ。本当に有るとは言えないと思います。私は朝出かける夢を見ます。すべて準備しているんですが、夢なんです。だからいくらちゃんとかけていても本当にそれがペンだとは言えないと思います。

D

そうだとすれば現象学を「一切の学問の絶対的基礎としての普遍学」というのは言い過ぎだと思います。
佐野
なるほど。

A

その次の「あらゆる体験は何ものかについての体験」というのは?
佐野
その次に「意識は何ものかについての意識」とありますね。これが意識の「志向性」と呼ばれるものです。目の前にさいころがあるとします。我々はそのさいころの全体を一挙に見ることはできません。今は正面しか見えていないとすると、側面や裏面の知覚は想像でしかありません(インチキさいころだってこともありうる)。そこで「意識は対象そのものを持つ直観的充実を目指す仕方で対象に向かう」わけです。とりあえず今日のところはここまでとしましょう。次回は西田の現象学批判を見ていくことにします。
(第38回)
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無から有を作る

お久しぶりです。「読書会だより」を再開しました。架空対談の形で今後の読書会の在り方を考えて見たいと思います。
佐野
読書会では毎回前回の講座を思い出すために「プロトコル」をメンバーが当番で作成していましたが、いろいろ問題が生じてきました。

A

どういう問題ですか?
佐野
まずテキストが超難解で作成が困難だということ、したがって当番の成り手が少なくなってしまったこと、が挙げられます。

B

まったく成り手がいないというわけではないのでしょう?
佐野
ええ。しかし 勇気をもって引き受けていただいた場合でも、内容が難しいために、プロトコルの紹介で読書会の時間の多くをとられ、必然的に本来の読書会の時間が少なくなってしまうんです。そこで仕方なく佐野がプロトコルを作成するケースが増えてきたわけです。

C

それだと参加者が自ら時間をかけてテキストを読み込む機会を奪うことになりませんか?
佐野
そうです。結局佐野の講義みたいになってしまう。それはこの読書会の理念とする在り方とは違います。読書会はあくまで「共に読み、共に考える」ことを理念としています。参加者が主体です。

C

困りましたね。どうするんですか?
佐野
今回「共に読み、共に考える」時間を確保し、しかもプロトコルをできるだけ輪番に近い形にするために、工夫をすることにしました。まず「プロトコル」は「キーワード」ないし「キーセンテンス」を挙げ、それについて「考えたこと」あるいは「分からないこと」を200字程度で報告していただき、次回はそれをもとに紹介を含め、30分以内で議論する、という方式をとろうと思います。

A

それだと輪番でもできそうですね。
佐野
そう言っていただけるとありがたいです。

B

でも、これまでのプロトコルのような記録はやめにしてしまうということですか?
佐野
たしかにそれはもったいない気がしますが、一番大切なことは、どんなに難しくても、まずは自分で解釈してみることだと思います。初めての楽譜を音にするみたいにね。初めての楽譜を音にする時って、曲にもよるけれど、何をやっているか分からないことが少なくない。しかし繰り返し、もちろん考えながらですが、音にしていると、いろいろな発見がある。音楽になって来る。この過程がとても大切だと思うのです。

B

そうですが、専門家でもない人が、西田の難しい文章を一人で読むことはやはり難しいと思います。
佐野
ええ。だから「共に読み、共に考える」。

B

そうはおっしゃっても、読書会の時間内では結局分からないまま、次に進む形になっていますよ。少なくとも私はそうです。
佐野
分かっても分からなくて続けることが一番大切なのですが、西田の「場所」論文のようなものの場合、極端に難しいですから、かなりの苦痛になるだろうと思います。そうかといって私が、分かったような顔をして教えを垂れ、参加者が私に教わるという形にはしたくない。私が読書会のために準備してきた解釈は一つの解釈でしかありません。皆さんと共に考えることで、それは変わっていくものです。

B

結局、どうするんですか?
佐野
やはり、「共に読み、共に考える」時間を確保したいと思います。私も準備はしてきますが、そのことは一応横に置いておいて、皆さんと一緒に考えます。

B

それだと結局、分からないまま次へ進むことになりませんか?
佐野
そうなりますね。ですがそれを持ち帰って考えることはできますね。それは私も同じです。そこで読書会を終えた後、ポイントとなるところ、面白そうなところ、あるいは難しいところなど、思いついたことをこの「読書会だより」のスペースを利用してアップし、それを皆さんと共有したいと思います。皆さんはそれをヒントにして、自らこの難曲を音にしていくわけです。

A

やって見ないとわかりませんが、とにかくやって見ましょう。

D

今回の講読箇所について何かコメントはありませんか? 今回は旧全集版247頁1行目から248頁13行目まででしたね。
佐野
まず「我々に真に直接なるもの」を「純粋性質」と呼んでいますね。これは「真の無の場所」に「於てあるもの」です。そこでは「物」も「作用」も消え失せる、とされています。「物」(本体)も「作用」(働き)も消え失せるから「性質」と呼ばれていると考えられます。

D

『善の研究』の純粋経験を思わせますね。
佐野
そうですね。「物心の独立的存在」を否定しているところ、「色を見、音を聞く刹那」に「外物の作用」や「我がこれを感じて居る」といった作用を否定しているところなどにそれを感じさせますね。このように物や作用が否定された、だからそこに見えるのは「すべてが影像」ということになります。しかしそれは「判断の立場から云えば」ということです。

D

続いて「真に無の立場に於ては所謂無其者もなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならぬ」とありますね。
佐野
ここには立場の転換がありますね。

D

しかしさらに続けて「有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であると云うことである、即ちすべて影像である」とありますよ。また「判断の立場」に転換するということですか?
佐野
「判断の立場」そのものは「すべては影像」とは考えないでしょう。「すべては実在」と考えています。ですから「すべては影像」と言い得た「判断の立場」は立場としてはすでに破れています。そうした破れた「判断の立場」においてはじめて「すべては影像」ということが受け入れられるのです。そのことと「有るものがそのままに有るものである」と言い得る「真の無の立場」が同時だということです。「AはAでない、それ故にAである」という即非の論理を思わせますね。

D

続いて「有るものを斯く見るということが、物を内在的に見ることである」とありますね。これは?
佐野
「斯く」とは「有るものが有るがままに無である」ことが直ちに「有るものがそのままに有るものである」と見ることですね。それは同時に自らが無になって物となって見ることです。西田はこれを「無から有を作る」と言おうとしていると思います。だから「作るというのは…見ることである」と言われます。ただそのためには「判断の立場」が破られる、という契機が決定的に重要であり、さらに言えば絶対的な他者との出会いが不可欠ですが、その点はここではあまり述べられていないように思われます。今回はここまでにしましょう。
(第37回)
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読書会だより

美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている

本日の「哲学的問い」は「『美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている』(マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』)とは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが好んで使った言葉である。この言葉を踏まえる時、哲学書のテキスト解釈とは、どのように考えるべきであろうか」でした。
佐野
どういう質問ですか?

A

(出題者)
人間は自分の知識で書物を読みます。この知識が枠になっているのです。テキストに「ニュートンの絶対時」が出て来ましたが、これがどういうものか知らないと、繰り返しの利かない「唯一時」というものが理解できません。このように人によって知識が異なるわけですから、解釈も人によって違うことになります。それなら唯一の正しい解釈はないのか、そういうことです。

B

「外国語で書かれている」というのは、文学のテキストにおける異化作用の問題ですね。文学を読む場合は日常言語の理解では間に合わない、ということです。哲学の書を読む場合にも哲学の常識を踏まえた読み方をしなければ読めません。伝統を踏まえた読み方のトレーニングが必要です。その意味で哲学の書は真実に向かって積み上げていく営みですから、哲学のテキストは誤読を許しません。

C

それなら私は哲学の書が読めません。

D

私は誤読しかないと思います。哲学は誤読と誤読のコミュニケーションであり、読者は独善的だと思います。ただ宇宙の真理を目指しているという点ではBさんと同じだと思います。
佐野
誤読と誤読でどうやってコミュニケーションをとるのですか。

D

ディスコミュニケーションです。(会場笑)けんかという愛し方というか。小林秀雄が言うように、西田の文章は言語体系を壊している。ですがそれが快感で、離れられない。

C

私は感じるだけでいいと思います。自分の人生を重ねて読むというか。それは文学的なテキストでも哲学的なテキストでも同じです。

E

問題となっているのは「美しい書物」がそれ自身として存在しているかどうかということだと思います。読み手がゼロでも。

B

美しい書物は「つんどく」だけでも美しいのです。

D

確かに分からないけれど美しいということはあると思います。

F

しかし誤読だったというのは違うパラダイムにおいて初めてわかることだし、そういうプロセス自体が真理の探究ということを前提していると思います。

D

しかし正解はない。

G

正解がない、って言ってしまうとそれが正解になってしまいます。

E

それでもそこに歴史の中で伝えられてきた哲学書がそこに在るから、求めようとするんじゃないですか。お経は分からないけれどあるだけでありがたいというような。

C

それでも結局「本当の本当」にはたどり着けないと思います。

D

公文書というのがあって、これは誤読のないように書かれてあるんですね。ところが最終的には役人の解釈や、裁判所、学者の解釈に委ねられてしまう。

E

この読書会では「テキストに忠実に」ということがモットーになっていますが、これはどういうことですか。
佐野
テキストに忠実に、とかテキストに向き合って、よく言いますが、難しいですね。ほしいままの意志(恣意)を持ち込まないように、テキストを文脈において読む。分からないところはそのままにして、何度も読む。その内テキストの中にいろんなつながりが見えてきます。最初に出題者が人間が携えている枠についてお話してくださいましたが、確かに我々はいくら注意したところで、そうした前提を携えて読むしかない。しかしそれでは読めない、ということになる。その意味でそれは外国語ですが、その中で我々の前提が破れてテキストの方から聞こえてくるものがある。歴史的に読み継がれてきたテキストにはこうした我々の呼びかけに応えてくれるものがあります。それではテキストに入りましょう。
(第36回)
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意識現象の知

本日の「哲学的問い」は「「三」の最後に、「判断意識が精神現象を対象とする時、判断意識は自己自身の中に省みるのである」と言われているように、ここで成立した立場は「意識現象の知」であり、しかもそれは「意志」を根本としている。この立場は『善の研究』の立場と同じと考えてよいか、それとも異なるか」でした。今回(令和2年6月6日)より対面式での講座の再開です。予定していた範囲を終えるには時間が足りなかったようです。急いでも仕方がないので、今回は頁行目まで読了し、次回はその続きを皆さんと一緒に読み進めようと思います。なお予期していたことではありませんが、依然オン・ラインでの対話も続いており、こちらも貴重なので、この読書会だよりで紹介したいと思います。それでは最初の方とのやり取りです。

A

プロトコルありがとうございました。自分なりにノートを作ってみたのですが、プロトコルでかなり頭の中が整理できました。
佐野
それはうれしい限りで。

A

その中いくつかで質問させてください。
佐野
はい。

A

第4段落144頁8行目、「原因と結果は一つのものの両面である」、の件で、「前にも云った如く」という文言の意味ですが、これは、136頁最終行から137頁1行目「原因は結果から独立するものではない、…相関的でなければならぬ」を指すという理解でいいのでしょうか?
佐野
そうですね。

A

これとの関連で、というより、ここから、始と終の結合、無始無終にして繰り返すことのできない時の系列の成立(145頁9行目)につながり、高次的なる直観の立場を時の成立の起源であり、終極とせしめている(145頁9~10行目)、と考えていいのでしょうか?
佐野
そうだと思います。

A

哲学的問について、問いの趣旨を整理させてください。
佐野
はい。

A

「すべて意識現象とは、純粋統覚が自己自身の中に省みることによって、見られ得る対象界」、とあります。「純粋統覚が自己自身を省みるということは、純粋統覚自身が働くものとなること、意志に形をとること」(以上147頁終わりから1行目~148頁2行目)とも書かれています。
佐野
ええ。

A

他方で、「純粋統覚の対象界には、如何なる形に於ても意志をみることはできぬ」(同2~3行目)とも書かれています。
佐野
はい。

A

すなわち、純粋統覚は意志その者ということか?その「意志」は、善の研究第3章「意志の自由」における「意志」と同じものなのか?いろいろまとまらないままに書いてしまいました。
佐野
いえいえ。ここは注意して読まなければならないと思います。後の方の引用では「対象界」という言葉に注意すべきでしょう。これは前のページでは「自然界」と呼ばれていたものです。そこで統覚が「対象」とするものが「機械的因果」と「合目的的因果」です。これを統覚は外から見るのです。こうした「対象界」ないし「自然界」に対するのが「意識現象界」です。これは内に省みる他はないものです。ただプロトコルでも申し上げましたが、この「省みる」は自分を残したまま反省的に省みるのではなく、自分を没して有ないし客観に成り切って、そこから省みるということです。

A

失礼しました。西田の使う言葉に重点を置いて整理ノートを作っているのですが、先生のプロトコルで、いくつかの点に線を引いていける感じで面白く思っています。
佐野
ありがとうございます。

A

今日は失礼しました。終日、田の畔草刈りでした。哲学的問いとの関係ですが、「精神現象」という言葉について、改めてこれまでの西田の著述から振り返ってみました。その中で、71頁に「意志が能動的自己に還ったとき、内的知覚の立場から内容ある時を見る。それが所謂精神現象である」とあります。
佐野
ええ。「物理現象の背後にあるもの」という論文ですね。今読んでいるところと同一のテーマを扱っている箇所です。

A

そして、142頁で「すでに、統一が内在的と考えられる精神現象においては、合目的的というのは、統一が統一自身に還ることでなければならぬ」とある。
佐野
これは今読んでいるテキスト(「表現作用」)ですね。

A

ここでの「統一が統一自身に還る」というのは、意志が能動的自己に還るということと同じでではないか。
佐野
ええ。その通りだと思います。

A

142頁では「(合目的的とは)統一が自己自身を客観化すること」と言っています。これは、判断意識が、精神現象を対象としたとき、統一が自己自身を客観化し、すなわち、統一が統一自身に還り、判断意識は、自己自身の中に省みて、自己の精神現象を合目的的とする。
佐野
ええ。そういうことになると思います。

A

善の研究との関係ですが、純粋経験における統一と基調は同じ気がするのですが、「合目的的」という観点が、そこにあったか、という点がよくわかりません。
佐野
『善の研究』で「目的」が論じられるのは第3編第4章の「価値的研究」で、その後、善を目的としてその実現が第3編の最後まで目指されます。第12章は「善行為の目的」となっています。善の実現を目指すとは「真の自己を知る」ことだと第3編の最後で言われていますが、どこまでも「ねばならぬ」と命令形で書かれています。私はここに「挫折」を読み取ります。そうして第4編の宗教が始まり、ここで「自己の変換」「生命の革新」が起り、いわば逆説的な仕方で「目的」が実現します。ここで「神を見る」といわれるものは同時に「真の自己を見る」ということで、まさしく統一自身に還ることだと思われます。それでは次の方とのやり取りです。この方は6日の読書会を終えた後のメールから始まります。

B

今日はありがとうございました。色々失礼で生意気ですみませんでした。実は久しぶりに西田を読んだのです。ずっと旧全集3巻を読んでいて少し疲れてしまっていたのです。西田幾多郎という人の文章は非常に難解で、しかも「逃げ」がないのです。なんだか逃れられない何かそのもののような気がして真剣に取り組む程辛かったのです。でも、久しぶりに西田に触れ、もう逃れることができないんだなあ。と思いました。あきらめてまたこつこつ勉強しようと思います。
今日びっくりしたのは『善の研究』の第三章を私はほとんど理解していないということです。もう一度『善の研究』第三章を読み直したいと思います。
佐野
それはよい「あきらめ」です。今読んでいるところもそうですが、西田は一つのことをしつこくずっと見つめて考えていくところがありますね。徹底性、それが「逃げ」のなさを感じさせるのでしょう。
しかしそうかといって、禅のように突き抜けていかないのは「悲しみ(悲哀)」といった人間の有限性を深く自覚し、おそらくは愛してさえいたからだと思います。この辺り、不徹底とも思われるかもしれませんが、魅力でもあるわけです。
西田が気にしている一つの極が禅だとすれば、もう一つの極がカントだと思います。カントは認識に関する人間の有限性にあくまでとどまった。それに対し西田はどこまでも真理の把握が可能であるという立場に立とうとします。この辺り、カント主義者からは自覚が足りない、と非難されるかもしれません。
禅のように突き抜けもしない、カントのように有限性に徹底することもない、そこのところ、矛盾を矛盾のままに徹底したと言えるでしょうか。
それにしても今読んでいるところなど特にそういう印象が強いのですが、『善の研究』で到達したところを、繰り返し確認しているような気がしてなりません。ある意味で西田は一生をかけてその作業をしている、そんな気さえします。どう思われます?

B

(「私には無理なように思われます」のタイトルの下で)佐野先生に どう思われます。と、問われて「私にはわかりません。」と正直に告白したいです。つまり、『善の研究』で考えたことを生涯反芻し続けたのではないか。ということですよね。
例えば「意志の自由」についてもう一度『善の研究』「意志の自由」を読み返してみました。西田は、意志の自由についてつまり
「動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でたとき、最も自由と感ずるのである」(151頁)、
「己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである」(151頁)意志の自由」について「自己の自然に従うがゆえに自由」である。
としています。おそらく「自己の自然に従う」とは真の自己に従うということ真の自己になるということでしょう。しかし、ここで重要なのは「生じたことを自知している。」(152頁)「我々はこれを知るが故にこの行為のなかに窘束せられて居らぬ。」(153頁)ということではないか。と思います。
岡村先生の先日の論文に「完全な脱落」をたんなる「忘我状態」ではなく、「きわめて明瞭な意識をもった」経験として記述していることは注目に値する。(4頁)とありました。「きわめて明瞭な意識をもった」経験とは忘我状態にある自己自身をもう一人の自分が透徹した眼でみているような感覚です。これを『善の研究』における「生じたことを自知している」や『内部知覚について』における「全然我を没し尽くして、主客合一となるところに有を見る」と重ねて考えることはできないでしょうか。
西田はやはり『善の研究』を生涯をかけて何度も繰り返しているのかもしれません。すみません。何が何だかわかりませんね。
佐野
そうなんです。重なるよう思われるのです。自己を没して自己に還る、ということです。「脱落」に通じます。
「忘我」と訳さずに「脱落」と訳されたのは何かに夢中になって我を忘れるというようなものではなく、また単なる茫然自失というのでもない、自我意識が抜け落ちる体験を言ったもので、おそらく岡村先生自身、そうした体験がおありなのでしょう。
ところでタイトルの「私には無理なように思われます」って何が無理なの?

B

先生のメールを読んだ時、今日の夕飯のおかずの事を考えていたので、『善の研究』の難題にお答えするのが無理なように思われます。という意味です。
私はずっと人間はある一定の方向に発展していくつまり「真の自己」なるものに神のような存在に近くなっていくのだと信じていました。きっと西田の作品もそのように発展していくのだとそう思いたかったしそうかも知れません。
でも、もし、『善の研究』を何度も繰り返しているのなら既に最初の『善の研究』を完成する段階でニーチェにあった「きわめて明瞭な意識を持った完全な脱落」のようなものを西田が意識していてそれを何度も反芻していたのならばそこに何の意味があるのか。
しかし、すぐ何らかの意味を見出そうとするのもどうなのかと、またくどくど考えてしまいます。考えるのが好きなので。とりあえず、もう少し『善の研究』を読みたいです。
あと、とても及ばないですが私にもそのような体験があります。ますます変わった人になりたくないので、またコロナが収束したらいつかお酒でも飲みながら聞いてください。今日の夕飯はから揚げになりました。
佐野
から揚げですか。ご家族は幸せ者です。
根本経験のはなしですね。実は我々がいつも迷っているので、おそらく何かがいつも呼びかけてはいるんですね。だけれど我々は自分のことに忙しくて、一向に聞こえない。それが、ふと、聞こえることがある。これが根本経験ですが、これがまた「あった!」とは言わせてはくれないもので、それが何だったのか、本当にあったのか、繰返し問わざるを得ないもの、それが根本経験だと思います。
私は今のところ、西田にこうした根本経験があった(?)、それが 『善の研究』の原形となる「実在論」を執筆する以前、つまり明治39年の初夏ではないかと思うのです。そうして彼の天才によって、『善の研究』が奇跡的に現在あるような形で出来上がった。
自分の経験もそうですが、自分が書いたものを自分が分かっているかどうか、それは分かりません。作者はいわば忘我(脱落?)状態で書いている場合があり、そのことの反省的な意味が分かっているわけではない、ということはよくあると思います。
どうでしょうか。(「私には無理です」などと仰らないでください)

B

こんにちは。今日は本当に暑いですね。メールありがとうございました。
西田の根本経験が明治39年の夏だったというのはその通りだと思います。
明治39年は次女の幽子が病にかかり、西田はその看病の合間に「実在」を書いています。日記には3月25日「今日宗教問題を考ふ、解決を得ず」とあり、4月4日を最後に40年の1月まで長い空白があります。西田のような性格の人が日記を中断するようなことなまれな事だと思います。なんらかの精神上の強い緊張があったのではないでしょうか。
注目すべきはこの頃、網島梁川の「病間録」などに深く感銘をうけていることです。ちょうど病の子を看護しながらおそらく眠れぬ夜も何度もあったでしょう。なんの罪もなくそれなのに苦しむ我が子の細い背中を抱くなかで、小自我をなくすような宗教的な体験がおそらくあったのでしょう。
この体験はある時はっきりとやってくるもので、強い「多幸感」のなか、まるで光に包まれているような安心感と自身を失うような感覚を伴い、しかしそれは忘我ではなく極めて明瞭な意識をもっているのです。西田が忘我の中で完成させたのではなく極めて明瞭で透徹した眼でそれをみつめていたのではないでしょうか。自身を失いながら失えば失うほど自らを見つめる目はより明瞭になっていく感覚です。
佐野
これはこれは。力強いメールをいただきました。ご自身の体験が背景にあるのではないかと推察しております。言葉にして、論理化しましょう(笑)
(第35回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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