物理的空間と幾何学的空間

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「物理的空間」で、キーセンテンスは「物理的空間はどこまでも感覚的でなければならぬ、感覚性を離るれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる、而して力は亦数学的範式となるの他はない」でした。また疑問ないし考えたことは「物理的空間と幾何学的空間の違いがわかりません。幾何学的空間や数学的範式も、ある人々(数学者とか)にとってはリアルな感覚によって捉えられたものかもしれません。人は手持ちの限られた感覚器官を用いて、仮に色とか音とかいうふうに知覚しているだけで物理的空間と幾何学的空間に本質的な差異はなく、その両者はいずれも感覚性があり、感覚性のないものは考えることすらできない、と言うことも可能ではないかと思うのですが」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
まずこの問いそのものを仕上げて見ましょう。何かありませんか?…なければ私の方から。「幾何学的空間」が感覚的だとはどういう意味ですか?「幾何学的空間」そのものは感覚的ではありませんね。例えば完全な線すら我々は見ることもできない。何故ならそれには幅がないから。しかしそれを考えることはできる。でもそれについて考えるときは実際に線を引くなどして、感覚的なものを手掛かりにしないと考えることすらできない。とまあ大体こんな意味ですか?

T

ええ、大体そういうことです。
佐野
物理的空間が感覚的であるとはどういう意味でおっしゃっていますか?

T

音や色は人間だけに通用する、主観的なものだと思いますが、その原因となるものがそのもの自身にあるということです。例えば音は波動が原因だという意味です。

A

ジョン・ロックに第一次性質と第二次性質というのがあって、延長、個体性、数などが第一次性質で、これらは物自体に備わる性質です。これに対し第二次性質は色、音、香、味などで、これらは物自体には関りのない主観的な性質です。
佐野
Tさんは物理的空間というのをロックの言うような意味で、物自体の世界とお考えですか?

T

世界には二つあって、一つは主観的な世界で、もう一つは客観的な世界です。客観的な世界は物自体の世界です。
佐野
これは西田哲学成立の根幹にかかわる問題ですね。『善の研究』の「版を新にするに当って」に「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というフェヒネルの言葉を引きながら、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有って居た。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う」(文庫改版10頁)と述べています。つまり『善の研究』の基となる根本経験が実は西田の高校時代にあって、それが今回の問いに関係しているのです。この問題は何を実在と考えるかの問題です。西田によれば、客観的な物自体の世界と、主観的な世界を分けるというのが、すでに「考えられたもの」に過ぎないのです。思惟の要求によって仮定されたものに過ぎない、西田はそのように考えます。そうして真にあるといえるもの(実在)は純粋経験でなければならない、そのように考えるわけです。大切な問題ですが、プロトコルについては今日はここまでとしましょう。今日は253頁2行目から253頁12行目まで読むことにします。

B

前回の最後の部分がよく分かりません。「無なる意識の場所と、之に於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる」とありますが、「無の意識の場所」をどう考えたらよいでしょうか。
佐野
難しいですね。まず「有の場所」とは、ここでは物(物体)ですね。後に出てくるように「物質」も含めてもいいでしょう。その立場では説明がつかない、「不合理」だ、これが「不合一」ということでしょう。物(個物)を空間によって量的に合理化しようとするのですが、どうしても合理化できない。この「空間」は単に量的な空間で、これを西田は「幾何学的空間」と呼んでいます。これじゃだめだということで、空間がすべての性質を含む空間と考える。これが西田の「物理的空間」です。これはプロトコルでも問題になりましたが、所謂物理学者の言う物理的空間ではありません。そこには色も音も匂いも味もあります。これらの性質がどのように存在しているかといえば、そこに「力」というものを考えざるを得ない、というわけです。それは「物の底に意志を入れて見る」ことだとされています。それによって「力の場所を生ずる」ことになるのです。「不合一」を感じるのは「意志の立場」以前の意識ということになるはずです。そうだとすれば「無なる意識の立場」は判断の立場としての「意識一般」と考えることができます。以前も判断の立場から意志の立場への「門口」が意識一般とされていました。以前は〈有の場所〉から〈相対的無の場所〉(空間、力ないし潜在によって満たされた場所)がどのように推移するかが述べられてはいませんでしたが、その推移に実は意識(意識一般)が関わっていたことがここで分かります。

C

「物(物体)」の基礎が「触覚筋覚」だというのはどういうことでしょうか。
佐野
これも『善の研究』にある思想(同68頁)です。遠くに有るものは小さく見えますね。Dさんの机はずいぶん小さく見えるし、ここから見ると台形のように見えます。これが視覚です。しかし実際に手を動かして触って見ると、そんなことはない。風呂桶の水に手を突っ込むと折れて見える。これが視覚ですが触って見ればそんなことはない。そこで触覚筋覚を基礎とするということです。それを基礎として、それに赤いとか甘いとか言った性質を「盛る」。こうして例えば「りんご」という「もの」の概念ができる、ということだと思います。

E

「物質の概念の成立」がよく分かりません。
佐野
確かに難しいですね。触覚筋覚を「何處までも推し進めて行く」と「最も一般的なる感覚的性質」になるとされ、これが「物質の概念」だとされていますね。この物質はどうも、水素だとか酸素だとかいう元素ではなさそうです。色や音は特殊な感覚的性質ですね。触覚によって感じられる性質も特殊です。こうした特殊を超えた「一般的なる感覚的性質」とは何でしょう。「特殊なる知覚対象」でもない、と言われている。おそらくとしか言えないのですが、西田がここで念頭に置いているのはアリストテレスの「共通感覚」のような気がします。実際それについては後に(257,7)出てきます。例えば私たちは赤と青を感覚的に区別していますが、同時に赤と甘いも区別していますね。そのためには視覚と味覚に共通した感覚がなければなりませんね。また音を聞く場合でもこれは「バイオリンの音」というように聴いているはずです。その場合にはすでに視覚的なもの(演奏の様子)も触覚的なもの(弓と弦の接触)も同時に感覚しています。また音が動いている(運動)とか止まっている(静止)とか、どれだけの音が鳴っているか(数)や長さだとか、メロディー(形)、音量(大きさ)なども同時に聴いていますね。またその音は「明るい音」だとか「乾いた音」だとか「重い音だ」などというような表現もする。つまり我々が感覚を捉える場合には、すでに触覚、視覚などのすべての感覚を一体未分として捉えていて、さらにそこには思惟も加わっているということになります。感覚と思惟も未分ということです。その中で識別が行われていることになります。西田は「判断作用の如く感覚を離れたものでない、感覚に附着して之を識別するのである」(257,9-10)というように表現しています。これらを分けるのは事後的な反省(判断作用)ということになります。この考え方は知情意の未分を説く純粋経験説によくなじみそうですね。因みにアリストテレスの分類ではこれらの議論は「受動的理性」に属するものとなります。今日はこの辺りにしておきましょう。
(第42回)
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「自由意志」の消滅

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「叡智的実在(状態としての自由)、自由意志」でした。それについての問いは「西田は、一方で「我々は、(中略)真の無の場所に入る時、自由意志の如きものも消滅せねばならない」(250,9-10)と論じながら、他方で「真の無の場所に於てのみ、自由(状態としての自由:T記)を見ることができる。(中略)絶対的無の場所に於て真の自由を見ることができる」(232,3-5)と論じる。ここでの、状態としての自由と自由意志、真の無の場所と絶対的無の場所との関係性とその意義を問いたい」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
「真の無の場所」と「絶対的無の場所」の関係はいつも一致するとは限りませんが、232頁では同義に用いられていると見てよさそうです。また「状態としての自由」と「自由意志」との関係ですが、「状態としての自由」が「真の無の場所」ないし「絶対的無の場所」に於てあるもの、それが対立的無の場所に映されたものが「作用」としての「自由意志」ということは押さえておきましょう。その上で一方(250頁)では「自由意志」は消滅する、と書かれ、他方(232頁)では見ることができる、と反対のことが書かれてあるように見える、ここが問題だということですね。これはどう考えましょう?

A

「真の無の場所」に入った時に消滅するのは作用としての自由意志で、そうして「真の無の場所」に於てあるのが状態としての自由意志だと思います。
佐野
そう読めますね。それではそれはどんな「意義」を持っているのでしょう?

A

前回、剣道の例が上がっていましたが、「自由でなければ」というように自由を意識したらそれはもう作用としての自由意志です。
佐野
なるほど、それでは「状態としての自由」とは?

B

240頁に「フィヒテの事行」も「真の無の場所に於ける自由意志」ではない、何故ならそれは方向が定まっているから、とあります。それに対し「真に」は「すべての作用の潜在的方向を超越して、而も之を内に包む」ものだとされています。
佐野
一定の方向が定まっていないと。そこから「意志の自由」は「行為の自由」(250,7)となるわけですが、もしそんなことができれば、剣道の場合、相手はさぞ困るでしょうね。一定の方向に狙いを定めて打ってくれば、定めた(意識した)段階で、相手はそれを察知して打ちを防ぐことができますが、そうでなければ大変苦しいことになる。古来それは「無心」の技と言われて来ました。そのあたりぜひお伺いしたい。

C

いくつか思いつくことがあります。一つは坂本龍馬と桂小五郎の立ち合い。桂は剣の達人ですが、それに対して竜馬は無防備に向かって行って勝ってしまった。薩長を一つにするには、こういう目的だの方向だのを捨てた人物が必要だった。今のロシアとウクライナの問題でもそういう人物が必要なのではないか。もう一つは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉や小林秀雄の言葉なんかも浮かんできますね。いずれも「ねばならない」を捨てた所ですでに達成されているんです。
佐野
なるほど。迷いが晴れた所で気が付いた時にはすでに行為に出ている、ということですね。プロトコルはこの辺りまでとしておきましょう。今日は「四」の第2段落冒頭、251頁7行目から253頁2行目まで講読します。ここでは「有の場所」である「物体」からどのようにして「力の場」が成立するかが述べられていますね。物的実体(基体)は感覚的な性質(色や音など)に対しては超越的ですが、それをどこまでも空間に内在的として合理化しようとするところに力の場が成立します。

D

「空間そのものが性質的なものとならねばならない」(252,6)というのがよく分かりません。
佐野
もともと「空間」というのが「物の一般的性質」とされていました。そうすると色や音などは物の特殊な性質ということになります。もしこの一般的性質としての空間が「空虚なる空間」として、単に量的にのみ扱われるならば、感覚的なもの(色や音など:特殊な性質)は非合理的なものになる、西田はそのように考えます。確かに赤を波長で量化して定義することはできますが、そのように量的に表現されたものが何故感覚的に赤として我々に現れるのかは説明が付きません。その意味では空虚な空間(幾何学的空間)にとっては感覚的な(特殊な)性質は非合理的なものとなります。「空間そのものが性質的なものとなる」とは「色もなき音もなき空間がすべてを含む一般者」となる、ということです。これは物理学者の考える「物理的空間」とは異なっています(以前にも西田は「力の於てある場所」は「物理学者の所謂力の場」ではなく、「超越的意識の野」でなければならない、と言っていました(241,8-10))。そうして「色や音は空間の変化より生ずると考えられる」のです。この変化を引き起こすもの、それが「力」です。空間はすべてを潜在的に、implicitに含んでいます。それを現実化(発現)させるのが力です。その意味で「空間は力を以て満たされ」ているのです。力とはこの場所に於てあるものを「内面的に包摂しようとする過程に於て現れ来る一形相」ということになります。Implicitであったものを発現しつつ、これを包摂して、統一にもたらすのが力だということです。ここでは力を運動に即してその可能的潜在的な在り方と発現とに分けて考えています。

E

それが「判断や意志と同一の意義を有って居る」というのが分かりません。
佐野
判断は主語述語によって表現されますが、そうした表現以前には力同様にimplicitな状態にあります。我々は必ずしも言いたいことをはじめからはっきりと意識しているわけではないのです。それが主語から述語に至ってが表現し尽くされて、初めて自分が何が言いたかったかが分かるのです。意志の場合もそうですね。初めはなんだかよく分からない衝動しかない。それを言葉にして行動に移すわけです。水が飲みたければそれを目的にして目的手段の系列が成立し、それが実現して、目的が達成されれば、初めて自分がしたかったことの何かが分かる、というわけです。判断と意志の構造は力と同じですね。そういうわけで西田は「力の概念は意志の対象化によって生ずる」と言います。例えば、自然現象の原因を神の意志に求めれば、現代の自然科学はそれを一笑に付すでしょうが、そもそも力の概念とは我々の意志の投影だというのです。これは『善の研究』以来の考え方です。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第41回)
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直観が直観自身を限定する

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「真の無の立場の極限」(249,14)」でした。それについての問いは「西田は、より深いところに向かっているように思える。それでは、その反対の方向に進む道はあるのだろうか」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。佐野がずいぶん偉そうにしゃべっていますが、ご容赦ください。)
佐野
問いを仕上げましょう。西田は「直覚が直覚自身を充実し行く」とか「場所が場所自身を限定し行く」などと言い、それによって「自然界」や「意志の世界」が構成されると考えています。構成と言っても主観的な構成ではなく、今日読むところに出てきますが「色が色自身を見ることが色自身の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展」であるというように見ることが。直観が直観自身を限定するということです。「反対の方向に進む」というのはそういうことですか?

O

有の場所から対立的無の場所へ、それから真の無の場所へ、というように西田の立場は深まっていきます。まずそれが究極のところに至るというのがイメージできませんし、ましてそこから対立的無の場所や有の場所に戻るということもイメージできません。

A

そもそもそんな究極の立場に人間が至るというのが分かりません。

B

でもどんな時でもそういう究極のところに私たちは触れていると思います。

C

というより、どんな時でも私たちは純粋経験の中にあるんじゃないですか?
佐野
西田も純粋経験の範囲以外に出ることはできないと言っていますね。

D

だから究極のところに行きついたら戻る必要はないと思います。
佐野
すべてが直観の立場での場所の自己限定ということになれば、そこから反省や判断の立場がどのように生ずるかは難しいですね。直観の立場に立つということ自体がすでに反省であり、判断であるような気もしますが、今日はこのくらいにしておきましょう。今日は「三」の終わりに書かれているコメントを含め251頁6行目まで読みたいと思います。

E

ちょっと待ってください。前回やったところの「前者は判断の矛盾の超越であり、後者は意志の矛盾の超越である」というところがどうもよく分かりません。
佐野
前者とは判断から意志への超越、後者とは意志から直観への超越ですね。その超越のところに矛盾の超越があるということです。

E

判断の矛盾というのは「円い四角形」のようなものですよね?
佐野
ええ。もう少し一般化すると、判断(知識)は矛盾律に従って無矛盾でなければなりません。しかしそうであれば我々は矛盾ということをどこかで知っているわけです。これが意志の世界ということになる。円い四角形もそうですが、有がそのまま無であり、無がそのまま有であるとか、特殊がそのまま一般であり、一般がそのまま特殊であるとか言うのも矛盾ですね。そういうことが成り立つのが意志の世界です。

E

そうして意志から直観に到るところにも意志の矛盾があって、これが道徳的な矛盾であると。
佐野
ええ。道徳は善を目的にしますが、そのように目的にすることでかえって善をどこまで行っても実現不可能なものにしてしまいます。これが道徳が抱える矛盾だと考えられます。

E

結局どうも「超越」ということがピンと来ないようです。
佐野
反省とか判断は世界でもなんでも対象に回して、これを矛盾なく説明しようとします。西田は円い四角形のような矛盾で反省が躓くように書いていますが、反省の本当の問題はすべてを対象化して説明していても、そうしている自分自身が問われていないということです。しかし反省の立場に立っている以上、そのことには気づくことはできません。そのことに気づくためには何らかの、それこそ「気づき」が必要で、ここに超越があります。『善の研究』のもととなる講義が行われた前年度に『倫理学草案第二』というのがあります。ここで「見者の立場」と「作者の立場」というのが出てきます。「見者の立場」とはまさに反省の立場です。それに対し、世界は対象化してみるのではなく、世界とはその中で自分が生まれ、生き、死んでいくところのものである、そのような立場に立つのが「作者の立場」です。さらにその前年度の『倫理学草案第一』では「見者の立場」がとられていましたから、おそらく何らかの気づき(超越)を西田は経験したに違いありません。その結果「倫理学」の捉え方も随分変わってきている。しかし「作者の立場」に立てばすべて解決かというと、そうではなくて、善を実現しようとするから、どうしても道徳的な矛盾を最後まで抱えることになる。自分の力で何とかしようと頑張る。しかしどこまで行っても実現できない自分を見出すだけだ。どうにもならない。そこに自分が有限であることを受け入れることで無限の生の内にあることに目覚める。これが宗教ですが、ここにも超越がある。「超越」とは要するに、こちらからの道がないところで飛躍が起こるということです。こうした宗教的な直覚を含みうる哲学的な根本経験があったから、次の年度の講義、つまり『善の研究』のもととなる講義が可能になったと私は考えています。「超越」はとても難しく、簡単にわかった気になってはいけないものですから、これからも考えていきたいと思います。それでは今日のところに進みましょう。

D

コメントには純粋性質と呼んだ理由のようなものが言い訳みたいに書かれていますが、この純粋性質は純粋経験というように理解していいですか?
佐野
いいと思いますが、それをどう理解するかですね。反省(思い)が破れて何かに出会う、あるいは驚く。まさに色を見、音を聞く刹那です。思いが破られているからそこに真の無の場所が開けている。そこに「於てあるもの」は「意識現象」ですが、それがここでは「純粋性質」と呼ばれている。そうした純粋性質の「純なる作用」に成り切っているのだけれども、そこに見るということが成立している。その場合見ると言っても成り切っているのだから、見るものと言えば「自己自身」しかない。このように「見ることが働くことでもあるもの」、それを「純粋性質」と呼んだ、ということです。それがここではさらに「最も直接なる存在」とも名付けられています。純粋性質にしても純粋経験にしても、そういう体験の出来事を何とかして言葉にしようとする試みと言えると思います。「四」に入りましょう。冒頭「上に述べた所に於て、叡智的実在と自由意志の差別及び関係の問題に触れた」とありますが、それはどこですか?

E

229頁の終わりから230頁初めにかけての部分です。「状態としての自由」と「作用としての自由意志」を分けています。そうしてそれは「対立的無の立場に映された」ものだとされています。
佐野
なるほど。今読んでいる250頁には続いて「自由を状態とする叡智的実在」とありますから、「叡智的実在と自由意志との差別と関係」はそういうことでしょうね。私たちは自由意志を意識するといつでも対立的無の立場に落ちてしまう。状態としての自由は意識しようとして意識できないということですね。私も剣道をやるのですが、自由でなければならん、などと意識したら、これほど不自由なことはない。

B

このあたり「真の無の空間に描かれた一点一画も生きた実在」とか「感覚の奥に閃く」とか「感ずる理性」とか、感覚的な表現が多いですね。
佐野
そうですね。叡智的実在と言えばすぐにカントの人格を思い浮かべるわけですが、これは全然感覚的じゃない。西田はこうしたカントの叡智的実在の在り方に反対しているのでしょうね。魅力的な表現になっていると思います。今日はここまでとします。
(第40回)
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意識する意識

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「真に意識する意識、即ち真の直覚」でした。それについての問いは「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。
佐野
前回の講読箇所は西田の初期フッサールに対する批判でしたね。初期フッサールでは知覚的直覚がすでに反省(「意識された意識」)であり、それが志向作用を基礎づけ、それによって知識が充実する形になっている。西田はそうじゃないと考える。「真の直覚」は「意識する意識」でなければならず、それが作用を基礎づけることで、知識が充実していくと考える。

A

純粋経験から始める、ということですか?
佐野
『善の研究』第2編の「純粋経験」つまり「直接経験」と、第1編冒頭の「純粋経験」をまずは区別する必要があると思います。「直接経験」は主客合一ですが、それは想起するなど、反省によらなければ顕わになることはありません。この反省が破られる、といういわば〈驚き〉のようなものが「純粋経験」には不可欠です。そうした境位から初めて「純粋経験は直接経験と同一である」ということが言いうるわけです。第4巻『働くものから見るものへ』では「内部知覚」が直接経験と呼ばれ、それは「確信」を生じるとされていますが、「明白(明証性)」には至らないと考えてられています。そのためには「自己自身を失う」ことが必要だと(旧全集版64-65頁)。私はこの「明白」に至った純粋経験が第1編冒頭の「純粋経験」だと考えています。そういう限定付きで「真の直覚」から始めるということは「純粋経験」から始めると言ってもよいと思います。西田は反省以前の「真の直覚」から始めて一般に作用を基礎づけ、「自然界」と「意志の世界」を構成しようとします。さて、それではYさんの問いに戻りましょう。「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。「真の直覚」に基礎づけられた知識に誤謬の余地はないではないか、ということです。

A

「真の直覚」を出た所で誤謬が出て来るんじゃないでしょうか。
佐野
反省・判断の領域ですね。

B

私もそうだと思います。反省・判断の領域で初めて真偽が問題になると思います。
佐野
誤謬や真偽は一定の領域・場所においてのみ成立するのだと。

C

確かに判断のないところで真偽も誤謬もあり得ないと思います。
佐野
そうすると、「真の無の場所」では真も偽もない。以前この場所についてアウグスティヌスの善悪を超えた絶対的な善について語られたように、この場所は真偽を超えた絶対的な真の世界と呼べることになりそうですね。プロトコルについてはこれくらいにしておきましょう。本日は249頁2行目から14行目まで講読したいと思います(以上は、実際の対話の記憶に基づいてアレンジしたもの、以下は架空対話です)。

D

転回点が二つあり、そのつど矛盾の超越があるように見えますが、具体的にはどういうことでしょうか。最初の「矛盾の意識」というのは以前出てきた丸い四角みたいなことですか?
佐野
そうだと思います。意識一般の世界ではすべてが矛盾律に従って合理的に構成されます。しかしそれができるのは、我々が「矛盾」ということをどこかで知っているからです。それが意志の世界です。そこでは有がそのまま無であり、無がそのまま有です。丸い四角を考えることはできませんが、考えようとすることはできます。西田はそこに意志を認めます。こうした思考・判断における矛盾の意識によって、判断ないし知識の世界から意志の世界へと転回する、というわけです。(もっとも反省や判断の立場を超えさせるような矛盾とは、それを行っていながら、それを行うもの自身が問題になっていない、ということにあるように思います。そうした矛盾の意識は当然、人生の矛盾の意識となるはずです。)

D

次の「意志の矛盾の超越」は?
佐野
これも切り詰められた表現ですから、はっきりとは言えませんが、おそらく道徳的な意志の矛盾だと思います。

E

欲望に負けるというようなことですか?
佐野
西田はパンやお菓子が好きだったようで、猛烈に反省していますね。そのことが日記に書いてある。そこまで自分に打ち克とうとしていたことが驚きですね。道徳的な意志の矛盾はそういうことも含むと思います。善を対象として、それを意志するけれども、そのことによってかえって実現不可能になってしまう。善があくまで向う側に置かれることになるからです。こうしてこうした意志の立場は悪や罪に躓くことになる。

D

『善の研究』を構想する以前の西田と同じじゃないですか?
佐野
そうだと思います。少なくとも私の解釈では。『倫理学草案第二』での躓きのことですね。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第39回)
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(この)赤は赤である

今回はプロトコルを巡っての議論を紹介しましょう。(記憶をもとにかなりアレンジしてあります。)今回のプロトコルの担当者はMさんでした。「(この)赤は赤である。赤は赤に於てある。一つ目の赤は質料を含む形相であり、二つ目の赤は意識せられた赤、純粋形相であろう。実在の根柢にある非合理的なものは具体的一般者であり、主語となって述語とならないものではなかったか。ここでは西田は「見る眼」を「述語的なるもの」としている。これはどういうことか」がその内容です。
佐野
純粋形相が「意識せられた赤」になっていますが、ここで意識するものと意識されたものとが対立するということですか?

M

ここは迷ったんですけれども、対立はしません。この「赤」は直観されるものです。曇りのない鏡にそのまま映されるんです。

A

それではそこからどうやって判断が生まれるんですか?
佐野
「見る」ことは「無から有を作る」とか「無から質料を作る」という表現もありますね。その場合どうやって、質料や有が映されるんだろう。

B

映されるものが予めあって、それが映されるんじゃないと思います。合わせ鏡のように互いに映し合うことで映されるんだと思います。
佐野
それでも理解しがたいですね。西田は「真の無の場所」とそこに「於てある」「純粋性質」から自然界や意志の世界を構成しようとしていますが、ここでそれが成功しているか疑問が残ります。ところでもう一度、Mさんの問いに戻りましょう。主語的な面で述べられてきた「具体的一般者」がどうして「述語的なもの」になったのか。「具体的一般者」はもともとヘーゲルの言葉ですが、西田はこの語を様々な意味に用いてきました。『働くものと見るもの』の前編では色や空間について用いられていました。後編の「働くもの」になると具体的一般者ははじめ主語述語以前の主語面において問題となっていましたが、次第にその述語的な面が問題になり始めます。これが何を意味しているのか、そういう問いでもあると思います。

A

主語的な具体的一般者は「がある」存在、つまり「存在」としての有で、述語的な一般者は「繋辞」としての有だと思います。
佐野
なるほど。主語述語以前の具体的一般者と言っても、なお対象化される側面が残っていたと。以前「確信」と「明白」の区別が出てきましたね。確信は「直接経験(内部知覚)」だけれども、「現在」には届かない、その意味で対象化されたものであり、こうした対象化を破ったものが「明白」だというように。私はこれを『善の研究』における第2編の直接経験と第1編の純粋経験の違いのようにも感じました。第2編の直接経験はあくまで想起・反省の対象です。これに対してそうした反省が破れた所に成立するのが、第1編の純粋経験です。今日はこれくらいにしておきましょう。
今回は旧全集第4巻248頁13行目から249頁2行目までを読み、そこに出てくる「現象学者」の理解を深めるために『哲学のエポック』(辻村公一他編、1994年、ミネルヴァ書房)所収の「フッサール」(丸山徳次執筆)の278頁初め~281頁8行目を講読しました。

A

「「本源的に与える」体験と本源的なありようを指示している体験とのこの緊張関係が、あらゆる意識を貫いている」が分かりません。
佐野
「本源的に与える体験」とは例えば「知覚的直観」(現に見ている)のことです。〈靴箱の上のカギ〉は記憶の中では単に「思惑」に過ぎず、それは「本源的なありよう」つまり〈現に見ている〉ありようを指示しています。それだから、「確信」するために見に行く。ない場合がしばしばありますね。私の場合。

A

次の「事象それ自身がそのままに与えられているという意識を「充実」もしくは「明証性」と呼ぶならば、何ものかについての体験はすべて充実されることに、明証性に、差し向けられている」は?
佐野
「靴箱の上にカギがある」が事象です。それを現に見る、これが「明証性」でそれによって我々は「確信」を抱くわけです。そうして「明証性」が得られている状態が「充実」です。ふつうはそれでよいのですが、現に見ているにしても「本当に靴箱の上にカギはある」のだろうか?これは「疑い得ない」と言っていいのだろうか?「本当に」が付くと、途端に怪しくなります。「このペンは本当に有るのか」について考えて見ましょう。それは「これは本当にペンなのか」という問いを含みますね。ですが例えば私が専制君主だったとすれは、このペンはもしかすると、書くと毒ガスが出る可能性だってある。そうなればこれはペンではない。疑う立場に立てばいくらでも疑えるわけです。まして「このスープはおいしいですからお飲みください」などというのをそのまま信じるわけにはいかない。専制君主でなくても、この肉は「国産」です、などというのを消費者はうのみにはできないし、ましていかがわしい骨董屋に「これは運慶作の仏像です。お安くしておきます」などと言われても、我々はきっと用心するでしょう。我々の抱いているのは「確信」であって、真なるものそのものの認識ではない。

B

でも現に見ていて、しかも書いても毒ガスも出ないし、現に書ける。これは「本当に有る」と言ってもいいのでは?

C

いえ。本当に有るとは言えないと思います。私は朝出かける夢を見ます。すべて準備しているんですが、夢なんです。だからいくらちゃんとかけていても本当にそれがペンだとは言えないと思います。

D

そうだとすれば現象学を「一切の学問の絶対的基礎としての普遍学」というのは言い過ぎだと思います。
佐野
なるほど。

A

その次の「あらゆる体験は何ものかについての体験」というのは?
佐野
その次に「意識は何ものかについての意識」とありますね。これが意識の「志向性」と呼ばれるものです。目の前にさいころがあるとします。我々はそのさいころの全体を一挙に見ることはできません。今は正面しか見えていないとすると、側面や裏面の知覚は想像でしかありません(インチキさいころだってこともありうる)。そこで「意識は対象そのものを持つ直観的充実を目指す仕方で対象に向かう」わけです。とりあえず今日のところはここまでとしましょう。次回は西田の現象学批判を見ていくことにします。
(第38回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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