言葉が黙する――具体的一般者と一般概念
- 2026年5月2日
- 読書会だより
岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第3段落349頁13行目から、同段落350頁8行目まで(級下げ部分)を読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してかゝる大語的限定面が単なる肯定面であった場合は、尚真に推論式的一般者の述語面といふことができない、それが矛盾的統一面であった時、推論式的一般者の述語面としてその時間的なる内容を完全に映すことができる」(350, 6-8)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「判断的一般者の立場を推論式的一般者の立場で説明するとき、その眼目は単に超越的述語面が概念で限定されるのではなく、肯定面と矛盾的統一面を分けた上で、矛盾的統一面における限定が強調される点にあるという理解でよいか」(104字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
今講読している箇所は、「判断的一般者」から「推論式一般者」への移行の現場です。この「級下げ部分」は後からの加筆と考えられますが、正式に本文で「推論式的一般者」が登場するのは、次々段落、第5段落末(356,3)です。同段落の中程(353,6)にもすでに出ていますが、これは括弧内ですので正式な登場とは言えません。この括弧も後から挿入したものと推測されます。Sさんのご質問の趣旨は「判断的一般者」と「推論式的一般者」の違いの「眼目」ということになると思いますが、これを明らかにすること、それだけで一本の論文になると思いますが、ご質問の趣旨はこういうことでよいでしょうか?
S
ええ。西田が「判断的一般者」の限界をどこに見ていたか、そこに関心があります。
それを明らかにするためには、これから講読する移行の現場の中で何が起こっているか、何が達成されて「推論式的一般者」が登場しているのか、を見て行かなければなりません。これから一緒に読んでいけばよいのですが、少し先回りして確認しておこうと思います。
S
お願いします。
「判断的一般者」も「推論式的一般者」もどちらも「具体的一般者」ですが、「推論式的一般者」がその「完全形」(349,13)と呼ばれるように、「判断的一般者」はなお不完全だということになります。何が不完全かと言うと、主語と述語の統一です。「具体的一般者」は特殊を含む一般ということですが、西田は特殊を主語、一般を述語に重ねますから、「具体的一般者」は主語を包む述語だと言えます。「判断的一般者」の場合は主語と述語が繋辞(である)によって統一されていますが、なお主語と述語との対立が前面に出ています。これに対し「推論式的一般者」の場合は、主語(小語)と述語(大語)が媒辞(媒語)によって媒介されていますので、統一がはっきりと表現されています。ここまでで何か質問はありますか?
A
大丈夫です。
西田は「具体的一般者」はどこまでも概念的に限定できると考えます。どこまでも哲学できるということですね。そうした「具体的一般者」の「論理的限定」(350,16)ないし「自己限定」(354,9)に①肯定的、②否定的、③否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)の「三つの段階」(同)を区別します。「AはAであると同時にAでない」あるいは「AはAでないことによってAである」という文のうち、「AはAである」という側面が「肯定的」、「AはAでない」という側面が「否定的」、「AがAでないことによってAである」というのが、「否定の否定としての否定的肯定」(矛盾的統一)と考えられます。ここまでで何かありますか?
A
何とかついていけています。
以上は「論理的」な限定ですが、今度は「具体的一般者」を「部分的」に限定することを考えます。「数学的知識」の場合には「数」や「図形」といった一「般概念」へと限定します。その場合は主語と述語が一致し、先の「論理的限定」が完全な仕方で成立し、そこに「先験的知識」が成立しますが、「経験的知識」の場合には主語と述語がどこまでも一致しません。「経験的知識」の場合には「具体的一般者」における「超越的述語面」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定されますが、この限定に先の「論理的限定」の「三つの段階」を当てはめると、①の肯定的限定として、「感覚的対象界」が、②の否定的限定として、「知覚の世界」が、③の否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)として、「物理現象界」が成立することになります(356,11-13)。
A
前々回読んだ箇所では、「単なる肯定的述語面」である場合に「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」である場合に「物理現象界」が見える、となっていましたが。
そうですね。叙述が揺れていますね。解釈する外ありませんが、「知覚の対象界」をさらに、「感覚的対象界」と「知覚の対象界」に分けた、と考えられます。その場合、「感覚的対象界」には、「これは赤だ」というような判断、「知覚の世界」には、「このリンゴは赤い」というような判断が属することになると思います。「これは赤だ」という判断では、否定が十分に言い表されていないのに対し、「このリンゴは赤い」という判断では、「赤い」という述語が「このリンゴ」を否定的に限定していることになります。スピノザのあらゆる「限定は否定である」が念頭に置かれていたのかもしれません。以上は一つの解釈にすぎませんが。
A
一応納得できました。
さて、その三つの世界ですが、どの世界においても、述語が主語を完全に包む(言い表す)ことはできません。「これは赤だ」の「赤」は「一般概念」ですが、「これ」はどこまでも個だからです。「このリンゴは赤い」においても、述語をいくら重ねても主語の「このリンゴ」を言い表すことはできません。では「物理現象界」の場合はどうか。物理現象の場合、この赤はただちにこの赤ならざるものです。主語においても述語においてもそのことが成り立っているように見えます。しかしその場合でも主語と述語が異なっている、そのように西田は述べます。「尚肯定的主語面の性質を有する」(355,9)というのです。例えばリトマス紙が変化する場合、主語の方に「リトマス紙」という「物」(個物としての実体)ないし、さらにつきつめて考えれば「質料」が残っている、そのように考えるのです。そこでさらに③を突き詰めて、この「物」ないし「質料」を取り払う。そこに出て来るのが「所謂変ずるもの」ではない、「真に変ずるもの」すなわち「生滅するもの」です。これは生即死、有即無の場合の「即」ないし「即非」です。この「即」をふたたび実体化してはいけません。さて「知覚の世界」から「物理現象界」を経て「生滅する出来事」へと移行するこの三つの段階は、それぞれ「相異」、「相反」、「矛盾」に対応していることが分かります。この最後の「矛盾」に至って、真に主語面と述語面とが合一することになります。そこに「矛盾的統一を包む一般者が見られる」(356,3)ことになって、ここに「推論式的一般者」が成立することになります。主語面と述語面の統一が媒語として言い表されているからです。「判断的一般者」の立場では、「具体的一般者」の述語面である「超越的述語面」が「感覚的性質一般の概念によって限定せられる」(350,2)という言い方をしなければならなかったのが、「媒語が大語と合し小語を包む」(356,5)ないし「大語面的」「自己限定」(350,5)と言えば済むことになります。まあ、このくらいにしてテキストに移りましょう。Bさん、お願いします。
B
読む(350頁9行目~13行目)
「具体的一般者というのは所謂主語となって述語とならないもの」、「個物」ですね、それ「を内に包んだものである」、つまり「個物的なるものを自己自身の限定と考えるものである」ということになります。何度も聞いていると分かった気になりますが、不思議な概念です。西田も「矛盾の言の様ではあるが」と断った上で、「それは主語となって述語とならない一般者である」、つまり個物にして一般者、これをひっくり返して、「一般的なる基体である」、そのように述べます。この場合の「基体」はそれについて述語されるところのもの、つまり「個物」です。さて、その「具体的一般者」について、それは「こういう意味に於ては固より抽象的一般概念と同様の意味に於て限定せられると云うことはできない」と述べられます。存在、生物、動物、人間、というような論理的な仕方で限定できない、ということでしょうね。「唯部分的に一般概念として限定し得るまでである」。例えば「数」、「図形」、「感覚的性質」という仕方で、それぞれ部分的な仕方で限定できるだけだ、そういうことだと思います。「併し苟も之」、「部分的限定」ですね、それによって「判断的知識が成立する以上、それ」、これも「具体的一般者」でしょうね、「それは一般概念という意義を有さねばならない」、そのように述べられます。「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども、「一般概念」でなければならない、そこから判断が成立するものでなければならない、と。
B
「抽象的一般概念」と「一般概念」はどう違うのですか?
次に書いてあります。次をCさん、お願いします。
C
読む(350頁13行目~351頁4行目)
「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども「一般概念」という意義を持っていなければならない、ということがこれまで述べられていました。「具体的一般者」は、それによって「一般」が「特殊」を含む真の「一般」となり、「特殊(個)」も真に「特殊(個)」としての「特殊(個)」となるものです。「一般」が「特殊(個))と対立するならば、それはすでに「特殊」であって、「一般」ではなく、「特殊(個)」も「一般」と対立するならば、それ自体「一般」であって、「特殊(個)」ではありません。「このもの」と言ってもどれもみな「このもの」だからです。「一般」と「特殊(個)」というのはともに「概念(言葉)」ですが、これらを徹底すると、一方において「概念(言葉)」であることをやめてしまう。「一般」は有無を絶した「絶対無」となり、「特殊(個)」がそこから「特殊(個)」として立ち上がってくることになります。これは「概念(言葉)」の徹底として、「概念(言葉)」が黙する(「維摩の一黙」を想い起させます)ところで知的に直観する外はありませんが、この知的直観が、無限の概念(言葉)がそこから湧き出てくる水源となります。この言葉が黙する、というところをテキストでは「具体的一般者」は「抽象的概念」ではない、と言い、無限の言葉の水源となる、というところを「一般概念」という意義を有せねばならない、と言っていると思われます。ここまでで何か質問はありますか?
C
大丈夫です。
そう言ったところで西田は「私は却って真の知識の根柢としては具体的概念を真の概念と考え」と述べます。
C
「具体的一般者」と「具体的概念」は同じものですか?
同じと見ていいと思います。前者は「概念」の絶対の無の所で端的に知的に直観されるものという側面、また後者は、それが無限の概念(言葉)の水源となるという側面を言い表したものと考えられます。そうして「抽象的概念というのは超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定と考えたいのである」と述べられます。「超限定的述語面」とは「限定」できない「述語面」ということで、「具体的一般者」の述語面、即ち「超越的述語面」と同じものです。具体的には「意識一般」のことです。「抽象的概念」とはこうした「超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定」だというのです。例えば「数」や「図形」、「感覚的性質一般」などがそれです。その他すべての言葉がこうした「抽象的概念」になります。ただしここで言われているように、それは通常の「抽象的概念」ではなく、あくまで「具体的概念」です。言葉には言葉としての形式と内容があります。「リンゴ」という言葉は「リンゴ」という音、ないし文字の側面と、それが言い表わす意味の側面があります。「リンゴ」という音ないし文字に習慣的に結びついた理解は形式的な理解ですが、こうした形式的な理解を破って立ち現れるのが意味であり、これを具体的概念の部分的限定としての抽象的概念と呼んでいると考えられます。
C
言葉だけれども同時にそうした言葉が黙するところ、その意味では言葉以前であるようなもの、言葉にして言葉以前、そうしたものと考えていいですか?
そういうことになりますね。そうしてそれが我々の日常用いている言葉だ、ということです。次を見て見ます。「而して既に概念的と云い得るかぎり、それについて種々なる意味の論理的限定が考えられねばならぬ」とあります。「具体的概念」には「部分的限定」しかありえませんが、「具体的概念」が同時に「一般概念」であることによって、そこに「論理的限定」があることになります。それが①肯定的限定、②否定的限定、③否定の否定としての否定的肯定、ということで、「それが私の所謂矛盾的統一なるものである」と言われます。「それ」とは何を指しますか?
C
最後の③だと思います。
そうですね。文脈からすると①②③の全体を指すとも読めますが、後の叙述などからすればそう読むべきだと思います。続いて「矛盾の背後には所謂限定せられた一般概念という如きものは考えられない」とあります。そうした一般概念があると矛盾が矛盾でなくなってしまう、ということです。例えば白くて同時に辛いとだけ言えば矛盾ですが、この背後に「塩」という「物」(一般概念)を持って来れば矛盾なく考えることができるように思われます。同様に赤くて赤くない、と言えば矛盾ですが、「リトマス紙」という「物」を持ってきて、しかもこれに「時」という形式を当てはめれば、「変化」ということで矛盾なく考えることができるように思われます。我々の思考はつねに根本的には矛盾した出来事を無矛盾なしかたで理解しようとしますが、この根本的な矛盾そのものはもはやその背後に「一般概念」がありませんので、矛盾が露堂々として現前することになります。ここはもはや概念的な理解の及ばない、概念的理解を破ったところです。しかしそれでも西田はこの矛盾的統一こそが無限なる概念の水源になると考えます。そこで「個物的なるものが之に於てある一般者」、「具体的一般者」の「超越的述語面」、絶対無ですね。そういうものとして「私はどこまでも概念的限定と考えたい」とあります。何をそのように考えたいというのでしょうか?
C
難しいですね。「矛盾的統一」でしょうか。
たしかに難しいですが、「矛盾的統一」からの「概念的限定」が可能である、そのように読んでみたいと思います。「具体的一般者」は知的直観の事柄ですが、それでも「どこまでも」哲学できる、そのように「考えたい」、そのように読めます。ところが次に「之を越ゆるものは全く概念的限定の外に逸し去るのである」とありますが、「之」とは?
C
「概念的限定」です。
そうですね。一方で「どこまでも」哲学できる、と言いながら、他方でそれを「越える」ものを認めている、そのように読めます。哲学を超える立場、宗教を示唆しているようにも読めます。しかしそれだと「どこまでも」という言葉が意味をなさないことになります。ここはそのように読むべきではなく、哲学そのものが、どこまでも概念的限定が可能でありながら、同時に絶えずそれを超えた概念的限定の外、概念化できないということを抱えている、そう読んでみては、と思うのです。宗教は概念の事柄ではありませんが、言葉(教)や行い(行)の事柄であり、その点では哲学(思索)とは異なる仕方(信)で言葉以前につねに開かれている、そのように考えることができます。次に参りましょう。Dさん、お願いします。
D
読む(351頁4行目~10行目)
「それで感覚的なるものを包む具体的一般者の超越的述語面という如きもの」、感性的直観を対象とする意識一般ですね。それが「感覚的性質一般」という「抽象的概念」に部分的に限定される際に、①肯定的でも、②否定的でもなく、③「矛盾的統一の〔抽象的〕一般者として限定せられた時、即ち変ずるもの」、「個物」ですね、これが③の「矛盾的統一によって限定せられた時、物理的世界という如きものが考えられる」ということになります。これが①であれば、「感覚的対象界」、②であれば「知覚の世界」ということになります。ここまで、どうですか?
D
大丈夫です。
次いで「而してかかる矛盾的統一の形式が時と考えられる」とあります。「此故に物理現象は時の一般者に於ける特殊ではなく、却って時の関係の基礎となるのである」、そのように言われます。物理現象が「時の一般者」に於てあるのではなく、「時の一般者」は「物理現象」の形式だ、「物理現象」の方が根本的だ、そのように言うのです。「時の一般者に於ける特殊」も「時の関係」も、ともに前後、同時、長短などのことです。次いで「かかる場合」、「物理現象」の場合ですね、「具体的一般者の超越的述語面が限定せられると云う所以は、矛盾的統一といえどもそれが論理的限定であるかぎり、変ずるものの根柢となるものは、尚一般概念的なるもの」、この場合は「感覚的性質一般」ですね、そういうもの「でなければならない」からだとされます。「具体的一般者」が同時に「一般概念」であるが故に、①から③までの「論理的限定」が可能になるというのです。そうして「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」と言われます。「かかる限定」とは?
D
「一般概念的なるもの」です。
そうですね。「矛盾的統一」という「一般概念」、「感覚的性質一般」の第三段階です。これを超えた所に、「さらに深い意味」での「変ずるもの」が立ち現れることになります。これが何であるかは解釈となりますが、「生滅するもの」だということになります。今日はここまでとしましょう。
(第115回)

