超越的述語面の限定
- 2026年5月23日
- 読書会だより
前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第4段落350頁9行目から、同段落末351頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」(351, 10)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「かかる限定」とは、「具体的一般者」の「論理的限定」であり、「肯定的限定、否定的限定」及び「矛盾的統一」からなる。しかし、それらは「矛盾的統一」を含むとはいえ、「尚概念的限定」であり、「変ずるもの」のすべてを捉えているわけではない。従って、「変ずるもの」の「超越論的述語面」を「限定」するためには、「更に深い意味に於て」哲学的な論究が要請されるというのが、前掲文の本意と解するがいかがか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
哲学が思惟(Denken)の事柄だとして、哲学的な思惟が何であるか、という問い自体が哲学的な思惟になると思いますが、今日はそれがテーマになりそうですね。「問い」についてあらかじめお伺いしたいことがあります。「更に深い意味に於て変ずるもの」を限定するために、そもそも「論理的限定」、「概念的限定」を超えた哲学的な論究がここで要請されているのか、それともあくまで哲学とは「論理的限定」「概念的限定」であり、そうした哲学的な論究を深めていくことが要請されているのか、どちらでしょうか?
N
両方です。哲学は論理を超えて、あくまで論理です。非合理な生死を直視しながら、その矛盾を、あくまで論理によって料理して行く、知的な営みです。
Y
西田の場合、矛盾そのものが哲学の中に入って来るのでしょうか?
N
矛盾は論理に収まりませんが、他方で西田は生が論理だと思っていて、それを言葉に翻訳しようとしている。
その場合、生を対象化してそれについて説明するのと、生の只中に入って行ってそこから与えられる概念(言葉)と論理によって語る立場とがあると思いますが、西田はどちらだとお考えですか?
N
後者です。生の只中に入り込む、そうした中から七転八倒しながら言葉を紡ぎ出す。そうしたやり方で、生が論理であることを証明しようとしたのだと思います。
S
生に飛び込んでしまえば、矛盾はなくなると思います。説明があるから矛盾が出て来るのでは?哲学的な概念による説明ということを西田は西洋哲学から学んだのでは?
N
西田の場合は、言葉にするというより、唸る、喚く。西洋東洋哲学の語彙を使いながら、呻く。格闘です。格闘技で戦っている最中を言葉で書き連ね、分娩している。全集第6巻の序でも西田は、「実在と考えられるものは、その根底に何處までも非合理的と考えられるものがなければならない」と言っている。しかしそれと同時に「非合理的なるものが考えられると云うには、我々の論理的思惟の構造そのものに、その可能なる所以のものがなければならぬ」と言っている。今読んでいるテキストで言えば、「かかる限定の外に逸し去るのである」としながらも「限定の外に出ない」とも言っていることになる。矛盾していますね。Oさん、ドゥルーズの場合はどうですか?
W
ドゥルーズの場合、こういうスタンスはとりませんが、哲学とは新しい概念の創造に関わっているとされます。つまり哲学するとは、見えなかったものを見えるようにする、言い換えれば論理的限定の仕方を変えていくことに関わっている、というのです。ただ生そのものには矛盾はない、として生の構造しか問題にせず、むしろ矛盾の話を嫌います。西田の思惟の次元はどこにあるのか?
Wさんの「饗宴」でのご発表の中に、「水泳」の例が出て来ました。生の只中に飛び込むとは、まさに水泳で言えば、海の中に飛び込むことだと思います。概念的限定というのは「概念」(何であるか)をつかむことですが、海の中で問題になるのはそうした「本質」ではなく、「いかに」とか「どのように」ということだ、とされていました。そうした言葉によって新しい見え方が開けてくるのだと思いますが、そこにはおそらく矛盾はない。矛盾にとらわれたら溺れてしまうことになりますから。その意味ではSさんが仰ったように、生に飛び込んでしまえば、矛盾は解決しないままになくなってしまう。しかし、生を対象化してこれを概念的に、つまりそれが何であるかを説明しようとすると、生自体は無分別なのに、言葉はつねに分別的に働きますから、どうしても矛盾を生じます。この立場は「反省」と呼ばれるものですが、西田は「直観」と同時に、この「反省」の立場をどこまでも捨てていない、そのように思います。しかしこの直観と反省の関係、あるいは生と哲学の関係、この矛盾が西田を悩ませると同時に、西田哲学の源泉になってきたと思うのです。哲学が思惟の事柄だとすれば、思惟は対象がなければ考えることができません。しかし対象化している間は、思惟は思惟にならない。しかしそうかといって思惟の働きと一枚になってしまえば、それ(自分がやっていること)が何であるかは見えません。この矛盾そのものが哲学的な思惟なのだろうと思います。
Y
この矛盾は何のため、というか、それが希求するもの、目的というか、それが気になります。
矛盾はそれを解決することを要求してきますが、解決すればしたで、また新たな矛盾に巻き込まれることになりますね。
Y
ええ。ですが、一つものに近づいていく感じはあると思うんです。でも矛盾は解決しない。
ええ。ますます深いものに触れている感じになりますね。人間が矛盾を抱えているということは、どうもこうしたどこまでも解決のできないもの、人間の生そのものに触れるということと関係があるのかもしれませんね。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(351頁11行目~352頁2行目)
前段落の終わりから3行目に「超越的述語面が限定せられる」とあるのを受けて、「私は是に於て超越的述語面の限定ということについて考えて見よう」ということになります。一般に或る出来事をどう考えるかは、状況によって決まり、我々はその立場(一般概念)に立って考えざるをえませんが、ここでは個物がそこに於てあるところの超越的述語面からいかにしてそうした抽象的な一般概念への限定が起るかが問題とされます。そうしてまたしても「包摂判断」から出発してその根源を探ります。「包摂判断」、例えば「犬は動物である」、の「述語として考えられる一般概念即ち抽象的一般者」、この場合は「動物」ですね。これを「特殊化の方向に進める」。つまり「犬」、「ポメラニアン」というように特殊化して行く。そうして「その尖端に於て最後の種を破って」、つまり「ポメラニアン」という「最後の種」を破る。そうすると「更に主語となって述語とならない個物的なものが考えられる」。「主語となって述語とならない」、これは「個物」ですね。「佐野之人」は個物(個人)ですが、これは「佐野之人は男である」などと、無限に述語づけが可能ですが、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「これは佐野之人です」とは言えますが、これは包摂判断ではありません。というわけで「主語となって述語とならないもの」は「個物」ということになります。こういうものが特殊化の尖端に考えられる。しかしそれとともに、「一方に述語となって主語とならないものが考えられなければならぬ」とされます。西田の「場所論」の根拠となる考え方ですね。「かかるもの」、「述語となって主語とならないもの」ですね。それは「亦抽象的一般者であってはならぬ」、と言われます。「抽象的一般者」とは限定された「一般者」のことです。限定は他のものを捨象して成立するからです。「然らざれば」、そうでなければ、「主語となって述語とならないものが之に於てあるとは云われない」とされます。「之」とは何ですか。
A
「述語なって主語とならないもの」だと思いますが、どういうことですか?
W
以前やった「山は山ならず」ということではないですか?
ああ、そうですね。富士山は山である、と言ってしまうと、当たり前の一般的な山になってしまって、富士山が富士山として、つまり個物として立ち上がらない、ということですね。富士山が富士山として立ち上がるためには、富士山がそれに於てあるところの述語(述語的一般者)が抽象的一般者であってはならず、無限大の述語的一般者でなければならない、そういうことですね。しかし次を読んで見ると「併し苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり、それは抽象的でなければならぬ」とあります。
A
矛盾していませんか。先程は「抽象的一般者であってはならぬ」と言われていました。
そうですね。ここは考えないといけません。「苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり」とありますから、その「かぎりに於て」「述語となって主語とならないもの」も「抽象的でなければならぬ」、つまり抽象的となりえなければならない、後の表現を用いえれば「潜在的に」抽象的でなければならない、そう読むほかありませんね。次をBさん、お願いします。
B
読む(352頁2行目~7行目)
「超越論的述語面」、これはいわば無限大に広がった述語面ですね。無の場所と言ってもよい。それが(抽象的な)「一般概念」によって限定せられるというのは如何なることを意味するか」と、最初の問いが改めて掲げられます。まず「我々が何を考えるにしても限定せられた概念から出立せねばならぬ、而も限定せられた概念は抽象的でなければならない、超限定的なる述語面から出立すると云うことはできない」と、経験的な事実から出立します。「犬は動物である」という言明の場合には、我々は「動物」という一般概念(抽象的一般)に立っています。どんな言明の場合でも一般概念の上に立つから言明ができるのです。逆に言えば、個物の場合には言葉を失います。あるいは「富士山は富士山だ」という同語反復(無意味な言明)をするほかなくなります。では「個物を考える」場合はどうなるのか。その場合は「同時に述語面が(無限大にまで)広がる」ことになります。そうして「之(無限大に広がった述語面)によって述語面が限定せられるのである」と言われます。ここまででとりあえず意味の通らないところはありますか?
B
大丈夫です。
次に「抽象的一般から具体的一般に移って行く」とありますが、これは「個物を考える」場合ですね。それは「全く異なれるものに移って行くのではなく、一般の一般に移って行くのである」と、また難解な表現がなされていますね。ここではとりあえず「一般の一般に移る」というのを「〔抽象的〕一般が〔具体的〕一般に移る」、だから「異なれるものに移って行くのではない」と読んで置きます。次にその説明がありますね。「特殊と一般との関係に主語と述語との関係が含まれて居るとすれば」、つまり「抽象的一般」に「具体的一般」が含まれているとすれば、ということです。「この関係」、「特殊と一般」・「主語と述語」の関係ですね。これを「どこまでも広げていくということが抽象的一般から具体的一般に移り行くことである」ことになります。括弧が付いていますね。ただし書きです。「無論その間に立場の超越がなければならぬと考えられるかも知らぬ」とあります。言葉で言い表せる次元から、個物という言葉で言い表せない次元へと超越するわけですから、当然そう考えられます。しかし「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば、斯く云い得るのである」とされます。われわれの言葉によって表現された如何なる判断も潜在的に「個物」を含んでいる、ということです。例えば目の前の犬(ベラ)が動物らしい行動をとったとして、「犬も動物だなあ」という判断をしたときに、そこにすでに個物(ベラ)が潜在的に含まれている、というのでしょう。今日はここまでとしておきます。
(第116回)

