肯定、否定、否定の否定(矛盾的統一)
- 2026年6月13日
- 読書会だより
前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落352頁11行目「例えば色の抽象的概念であっても、そこまで広げて行けば」から、同段落354頁1行目「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば、その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ、之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」(352, 12-15)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「個色が「この色」として立ち上がる時、単独で無構造に現れるのではなく、他の色との対立・移行や場面との関係を含んだ何らかの構造があるのではないか。それを判断の対象とするなら述語面に移るが、「この色」と出会うその体験の中で構成的・能動的に働いている限りは超越的主語面に属するのではないだろうか。「色自身の体系」とはそのような構造を指しているのではないか」(173字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
テキストを読む場合でも、何を考える場合でも、人間は各々の前提を携えて、そのうえで読み、考える外はありません。この場はお互いにどのような前提で考えているのかに気づいていく、とりわけ自分自身の前提に気づいていく場にしたいと思います。というわけでTさんがどのような前提でお考えになっているかを、対話しながらともに考えていきたいと思います。まずはTさん、補足をお願いします。
T
「超越的主語面」において「色自身の体系」が見られる、というのに違和感がありました。「色」で考えると表現しにくいので、「味」で考えたいと思います。というのも最近「おいしいお酒」を飲んだのですが、そこに「味自身の体系」のようなものがあるように感じたのです。ワインなら、ブドウの品種、土壌、醸造法、樽の種類を見分けられるのみならず、それを「チェリー等の黒系果実と菫、コーヒー、白コショウを伴う複雑な・・・」と言った言葉で形容できる、そうした体系です。一方に「超越的主語面」というものがあるのですが、これは何とも限定しようのないものです。他方に「超越的述語面というものがあって、これは「抽象的概念の体系」ですから、限定可能です。でも「味自身の体系」というのは「限定しようがない」ということではありません。だとすれば、これは両者の中間に位置するものではないかと思うのです。ソムリエとか酒の杜氏といった熟練の人たちのみが、何とも限定のできないもののうちに潜在的に含まれている体系に、トレーニングの果てに到達し、それに表現を与えたものが「味自身の体系」だと思うのです。こうしたトレーニングがないと、「深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者」(『善の研究』39頁)である「個物」(超越的主語面)には出会えないと思いますし、こうした画家にとっては、個物は体系として立ち現れていると思います。
『善の研究』の「純粋経験」が解釈のベースになっているようです。「構成的で能動的」というのも『善の研究』(38頁)の「純粋経験」についての言葉ですね。少し整理してみます。「超越的主語面」は、何とも限定できないものであるけれども、潜在的に「構成的で能動的」な構造ないし体系をもっていて、そうした構造ないし体系を、修行を経た人、ないしトレーニングを積んだ人のみ知りえ、それに適切な言葉を与えうる、と。こんな感じですか?
T
大体そんな感じです。
それではこうした考えの前提を考えていきましょう。
L
そのようにして得られた知識でも、それが雑念となるとか、知識が邪魔をしてそのものでなくなってしまうということはありませんか?
T
もちろんそういうことはありえますので、知識を踏まえたうえでまっさらにする、というのが大事なのですが、それは知識がなければできないことだと思います。
Y
熟練の人でなければそうした境地に行き着けない、ということですか?
T
知識のない子供が何かに衝撃を受けるということはあると思いますが、そうした経験と、熟練の人の経験、「深き意味に充ちたる画家の直覚」では、やはり優劣がないとは言えないと思います。少なくとも、子供はそうした経験に適切な言葉は与えられない。
H
二歳の子供はみな天才だが、勉強することによって、もともと持っていたものを失くして行く、というのを聞いたことがあります。
子供の経験と熟練の人の経験の比較ということですが、経験そのものについては、これはもう、分からない、としか言いようがないのではないでしょうか。動物でも言葉の内容となるものはほとんど人間と同じように知っている。例えば動物は「自己」という言葉も一般化された概念としての「自己」も多分知らないけれども、「自己」という言葉の内容はしっかり知っている。
T
しかしそれを知識として捉えることはできません。そのためには袋のようなものをたくさん持っていることが必要になると思います。
それに対してはLさんやHさんは、その袋に入らないものを捨てているので、すでにありのままではないし、その袋がありのままに見ることを邪魔している、とお考えになると思います。そもそも実在が潜在的に能動的構成的な構造ないし体系をもっていて、それを我々の修練によって体得・会得することができる、という考えは、きわめて「純粋経験」の思想に親和的ですが、すでに多くの前提を含んでいるように思われます。つまり、こうした前提が一つの袋になっている、ということです。
A
どういうことですか?
そこにはちょっと考えただけでも、①「実在」が存在し、それが能動的構成的な構造ないし体系をもっていること、②我々の経験がじつは(潜在的に)こうした実在そのものに触れているということ、③我々は修練によってこうした実在を体得・会得できるということ、といった前提を含んでいます。『善の研究』は、西田が、こうした実在を会得・体得したところから、それを振り返るような仕方で、この三つの前提を証明するような体裁をとっています。まず、目の前の意識現象とそれを意識する(知る)こと直に一つである、というきわめて常識的な事実を根拠に、これを「考究の出立点」とします。これを反省的に考察することによって(第2編)、唯一の実在が存在すること、それが意識現象として存在すること(主客合一)、意識現象が能動的構成的であることから実在がそうした形式ないし方式(統一と矛盾、分化発展)をもっていること、こうした方式によって、自然(客観的方面)、精神(主観的方面)、神(両者の合一)が成立することが説明されます。しかし以上は実在を外から反省的に説明したまでで、実在、したがってその統一力を体得・会得したことになりません。こうして行為が問題になることになります(第3編)。そこでは真の善が真の自己(=真の実在)を知ることであるとされ、その可能性が純粋経験説に基づいて示されながらも、それは命令に終わっています。こうした挫折を通して逆に、宗教(第4編)さらには哲学(第1編)において、真の実在にして真の自己が体得・会得されることになります。これを見ると、『善の研究』の全体が「考究の出立点」を前提にしていることが分かります。それは目の前の意識現象とそれを意識する(知る)ということが同一であるという、極めて常識的な事実でありながら、その奥義「経験するというのは事実其儘に知るの意である」の体得・会得には宗教的・哲学的な知的直観が不可欠とされるものです。西田にはそうした直観を得た、あるいは少なくともそうしたものが「なければならぬ」という直観を得たとの確信があったと思いますが、私がここで申し上げたいのは、こうした「極めて常識的な事実」にしても、知的直観を得た、という確信にしても「前提」、つまり「袋」ですね、そうしたものになりえないか、ということです。そんなことを私に強く思わせるのは、ニーチェの影響もあると思いますが、目の前のものが実在であるとか、その奥義を修行によって体得・会得できるという考えは、我々の人生をたいそう生きやすいものにしてくれる考えだからです。つまり、我々にとって都合のよい考え方だからです。あるいはこう言ってもいい。実在やその体得・会得が問題になっているのは真理が問題になっているからですが、真理が問題である以上、「真理がある」ということ自体が疑われなければならない。そうなると、目の前のものが実在であるというのも、その奥義を体得・会得した境地があるというのも、疑わしいということになります。
A
ですが「経験するというのは事実其儘に知る」というのは、「真理」がどこかにあるという考えも否定されたさらに一歩先、というかむしろ手前に開ける境地ないし境涯とも考えられますが。
それはその通りだと思います。しかし他面、そのように言ってしまうと、それがまたしても新たな「知」、「前提」になってしまうということがある。何かを立ててしまうということをどうしてもやめられない。問題はこの「やめられない」、あるいはこうだ、といって「片付けられない」というところに十分に自覚的であることではないか、と思うのです。「無知の知」というか、「汝自身を知れ」というか、そういうソクラテス的なところにつねに帰って哲学してはどうかと思うのです。プロトコルはこの位にしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(354頁1行目~8行目)
「数学的知帰」と「経験的知識」が対比されていますね。「数学的知識」の場合には、「述語面」、これは代数の場合は「数」、幾何学の場合は「図形」ということになりますが、どちらも「一般概念」つまり「抽象的一般」です。そうした「述語面」が直ちに「主語面」になる。例えば「3」という数も概念で、数の体系の中でのみ意味をもつ概念ですから、「3は数である」、つまり「特殊は一般である」という命題はその「一般概念」の中で成立します。「三角形は図形である」も同様です。その場合は経験を俟たずに「両面が合致するが故に」、「先験的」知識となる、つまり例えば三角形なら、実際に計ってみることなく証明によって内角の和は二直覚になる、ということです。ところが「経験的知識」の場合はそうはいかない。「両面は何處までも合致することはできない」。主語面に来るものが個物だからですね。個物は完全に言い表すことができない。ですから「限定せられた述語面として現れるものはいつでも部分的なるもの」、ということになります。次に参ります。「一般と特殊との概念的関係から出立して、特殊化の方向を何處までも進めて行っても、その尖端が直に背後の限定せられた一般者に於てあると考えられるものは」とありますが、何の話をしていますか?「数学的知識」ですか?それとも「経験的知識」ですか?
A
「数学的知識」です。
そうですね。「その尖端」、たとえば「3」とか「三角形」ですね。それが「直に」「数」とか「平面図形」に於てある、ということです。その場合には「主語面と述語面が合致」している。それによって「数学的知識」が先験的に成立することになります。これに対し「その尖端が限定せられた背後の一般者の外に出ると考えられる時」とありますね。この場合の「尖端」とは?
A
「個物」です。
そうですね。その場合、「之」、「尖端」つまり「個物」ですね。それを「包む一般者は限定すべからざるものとならねばならぬ」とあります。「抽象的一般者」ではない、「超越的述語面」ということです。こうなると個物について何も語れないことになりますが、そうではない、と西田は言います。すなわち「併し之に於て判断が成立するかぎり、それは如何なる意味に於ても限定することのできないものとなるのではない」、つまり自己限定して「抽象的一般者」になりうる、ということです。「個物」について語りうる、哲学できる、ということです。明らかに矛盾のようですが、西田は個物を語りうる論理が存在することを念頭に置きながらこのように言っていると考えられます。それでは次をBさん、お願いします。
B
読む(354頁8行目~14行目)
「判断的関係を含んだ具体的一般者の自己限定に三つの段階を区別することができる」とありますが、これは以前(350,15)に出て来た「論理的限定」ですね。①肯定的、②否定的、③否定の否定即ち矛盾的統一の3つがそれだとされます。次に「単に特殊と一般との関係を含む一般概念は特殊の否定を含むと考えられても、自己自身の否定を含むと云うことはできない」とありますが、何の話ですか?
B
「数学的知識」だと思います。
そうでしょうね。「自分自身の否定を含む」とは「一般概念」の外に出るということです。「数学的知識」の場合はそれがない。「3」と言っても「三角形」と言っても「一般概念」内です。「併し」と来て、「具体的一般者」、「個物」を含む一般者のことですね。それ「に於ては自己自身の中に矛盾を含むと云うことができる」と述べられます。まず①「具体的一般者が肯定的に自己自身を限定すると考えられる時」が考えられます。ここでは「これは赤い」という「感覚」の場合と、「このリンゴは赤い」という「物」についての判断である「知覚」の場合を含めて考えているようです。そうした時、「単に主語となって述語とならない特殊化の尖端」、「個物」ですね、それを「包むと考えられる」、言い換えて「即ち超越的主語面という如きものが考えられる」とされます。そうして「我々が本体と考えるものは此の如き主語面を意味するのである」と続きます。
B
「本体」とは「物自体」と考えてよいですか?
そうですね。色について言えば、以前、「色自体」の体系、「色自身」と呼ばれていたもののことです。「之に反し述語面は之と対立して単なる意識面即ち対立的無の場所と考えられる」と続きます。西田は、とにかく「具体的一般者」がなければならない、つまり我々が経験しているのは個物であり、それは言語に言い表すことのできるものである、というきわめて常識的な立場に立って考察を開始しているので、それが主客に分れた場合にこういう形をとることになります。カントでしたら反省の立場に立ちますので、そもそも「個物」(物自体)の知的直観はありえませんから、「具体的一般者」はどこまでも統制的な理念となって、超越論的主語面には経験的に感性的な直観が、超越論的述語面には感性の形式(時空)と悟性の形式(カテゴリー)、および超越論的統覚が来ることになります。さて、「而して具体的一般者が単に肯定的に限定せられたものと考えられるかぎり」、感覚(これは赤い)及び知覚(このリンゴは赤い)の場合ですね、その場合に、「その述語面に於て現れるものも単に肯定的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり単に「赤い」ということです。「併し具体的一般者として判断がその内に成立すると考えられる以上、述語面は主語面を自己自身の限定として内に包むものでなければならならぬ、即ち超越論的述語面でなければならぬ、斯くして始めて具体的一般者と云い得るのである」と続きます。「これ」とか「このリンゴ」を包むものは「一般概念」(「抽象的一般者」)であってはならない、ということです。「然るに単に肯定的に限定せられた述語面」、つまり上の例で言えば「赤い」は「真に超越的述語面を包むと云うことはできぬ」とあります。しかしここは「赤い」が、「これ」や「このリンゴ」を包むことはできない、という意味でなければなりません。おそらく「真に超越的述語面を包む」は「真に超越的主語面を包む」の誤植であると考えられます。直前に「述語面は主語面を…包むものでなければならぬ」(355,2-3)という表現がありますし、少し後(355,6)にも、「超越論的述語面が超越論的主語面を包む」という表現も見えます。「誤植」というような判断は滅多にしてはならないのですが…。
B
いえ。ここはそう読んだ方がいいと思います。
続けます。「単に抽象的一般者と考えられる所以である」、「赤」が「抽象的一般者」だということですね。それでは「これ」、「このリンゴ」といった個物を包むことはできない。続いて、②「次に具体的一般者が自己自身に否定を含むもの」、とありますね。以前、「自己自身の否定を含む」(354,10-11)という表現があり、それは「個物が一般者の外に出る」という意味でしたが、ここでの「自己自身に否定を含む」はそういう意味ではありません。「具体的一般者が」とありますが、「具体的一般者」はすでに自己否定的に「個物」を含んでいるからです。ここでは「具体的一般者」が①の「肯定的」に対して、「自己自身に否定を含む」と言っています。そのような仕方で「自己自身を限定した時」、これは、例えば「肯定的」が単に「赤い」であるのに対して、「否定を含む」とは「赤にして赤でない」ということです。こうした「超越的述語面が超越論的主語面を包むものとして変ずるものが考えられる」とされます。そうして「即ち述語的なるものが主語的となると考えられる」と来ます。逆転が起っていますね。「赤にして赤でない」が主語となり、「赤い」が述語になる、ということです。しかしそんなに簡単にはいかないようです。先を読んで見ましょう。「併し」と来て、「一般的なるものが否定を含む」、「赤が赤でない」ということ、あるいは「変ずるもの」ですね。これに「二種の区別を考えることができる」というのです。「否定が即肯定を有する」、「赤が赤でない」が「即」「赤である」ということです。「即非の論理」を思わせますね。そのような仕方で「矛盾的統一を含む」、これが③です。これに対し、「否定を含む」(「赤が赤でない」)といっても、「尚肯定的主語面の性質を有するもの」、これが②「狭義に於ける変ずるもの」です。後で出て来ますが、主語面に質料的なものが残る場合です。例えばリトマス紙が赤から赤ならざるものに変ずる刹那は「赤にして赤でない」ということになりますが、こうした「変ずるもの」を「リトマス紙」という主語(実体ないし基体)において、しかも「時の一般者」においてあるとした時に、「狭義に於ける変ずるもの」となります。この場合には「現在」が「赤」であるとした時にはすでに「過去」となって、「現在」は「赤ならざるもの」になっています。否定が即肯定となって、「即」「赤である」のように、「赤」に還ってくることはありません。ここまでで質問はありますか?
B
何とかついていけています。
さて、この②の場合には「尚真に述語面が主語面となると云うことはできない」とされます。それはすでに述べた通り、主語面に個物(実体)的なもの、質料的なものが残っているからですが、これについて「前に超越的述語面の肯定的限定というのはかかるものを意味するのである」と述べられます。「前に」とはどこですか?
B
355頁4行目に「単に肯定的に限定せられた述語面」とありましたから、そこではないでしょうか。
そうですね。①の感覚、ないし知覚の場合です。その場合には主語面に個物(「これ」、「このリンゴ」)が残っていましたね。「之に反し前者」、③の場合ですね、その場合には「真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考えることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云うことができるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」とされます。
B
質料的なものがなくなって、すべてが形相となる、と考えてよいですか?
そうだと思います。キーネーシス的な見方からエネルゲイア的な見方への転換と言えるかもしれません。今日はここまでとしておきます。
(第118回)

