最後の種

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落354頁1行目「数学的知識の如きものに於ては述語面が直に主語面となり」から355頁14行目「即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「之に反し前者に於ては真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考へることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云ふことがで きるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」(355頁12-14)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「リトマス紙では、変化の刹那に「赤にして赤でない」と言えても、やはり「紙」という基体があり、赤と赤でないものは時の前後に分けて考えられる。炎の赤(生滅するもの)の場合は、燃えて消えていくその現れとしてしか「この赤」はないように思う。では、メロディーのように、前の音が消え、次の音へ移ることで一つの全体として聞 こえる場合はどうだろうか。その場合、固定した基体はないが、時間的な前後なしには 成り立たない。これは「狭義に於ける変ずるもの」(リトマス紙)に近いのか、それとも「主語面が述語面に没入する」「矛盾的統一」(炎の赤)に近いのか」(263字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

Y

リトマス紙と炎とメロディーの例が挙がっていますが、リトマス紙または炎と、メロディーは性質が異なるようです。メロディーには美の要素が含まれるからです。ただリトマス紙でも炎でも美を感じることは可能です。どんなものでも物理現象と見ることもできれば、価値の対象として見ることもできると思います。メロディーも音の変化と見れば物理現象です。その場合三つのどれをとっても基体があるように思われるのですが。
佐野
具体的に言説明してください。

Y

リトマス紙における色の変化は、リトマス紙が基体ですが、炎の場合には燃焼物、音の場合は空気が基体です。
佐野
そうですね。もともと「基体」とは「基におかれたもの」という意味です。炎における色の変化は、「炎」が基体、音における変化(高低、強弱、音色など)の場合には「音」が基体になっていますね。そのように考えると、これらはすべて「狭義に於ける変ずるもの」と考えることができそうですが、Rさんは、「炎」ということで、生成と消滅が直ちに一つであるようなものの象徴、喩(メタファー)をお考えなのかもしれませんね。行く川の流れもこうしたものの喩となりえます。メロディーはたんなる物理現象ではありませんが、この点で想い起されるのが、ブレンターノの「直視様相」と「斜視様相」の区別です(旧全集第4巻62,2)。両者の区別が成り立つのは「内部知覚」という意味での意識現象で、これはたんなる物理現象の話ではありません。「内部知覚」としての「意識現象」の話はこのあと出て来ますので、その時に考えることにして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(355頁14行目~356頁3行目)
佐野
「一般的なるものを特殊化して行けば、最後の種に至るまでは中間的質料を含むと考えられる、かかるものの存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とありますね。ここだけ読むならば、「最後の種」は「類-種-個」のうちの「種」の最後のもので、「個」に至る一歩手前、そのように考えられます。実際、「判断的関係を含む特殊と一般の関係を何處までも推し進め、最後の種に於て相反する種差の一方を限定することによって個色というものが考えられる」(334,13-15)という表現があります。この場合は「最後の種」が「最後の種差」を取って「個」に至る、という図式ですね。「種」はどこまで行っても「一般」です。これが「最後の種差」、例えば「この赤か、この赤でないか」のいずれかを取ることによって、「この赤」という「個(色)」になるということになります。

A

「中間的質料」とは何ですか?
佐野
「最後の種」で言えば、「この赤」と「この赤ならざるもの」の「中間(どちらでもあり、どちらでもないもの)」で、さきほどの例で言えば、「リトマス紙」や「炎」などの「基体」がそれにあたります。「質料」とはアリストテレスの用語「ヒューレー」の訳語で、「素材」という意味です。例えば大理石はヘルメス像にもアテナ像にもなりえますね。この場合ヘルメス像は「形相」と「質料(=大理石)」から成る、そのように考えます。大理石はヘルメス像ともなり、アテナ像ともなりうる、中間的なものです。

A

ありがとうございます。「かかるもの」とは「中間的質料」のことだと思いますが、そういうものが「存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とはどういうことですか?
佐野
とりあえず特殊・一般の「包摂関係」に従って「最後の種」を考えると、「リトマス紙」が「最後の種」と考えられます。この「最後の種」が「この赤」か「この赤ならざるもの」という「最後の種差」を取ることによって、「個色」が成立しますが、「個色」という「自己同一」なるものは「変ずるもの」なので、「この赤」は同時に「この赤ならざるもの」です。そうすると「リトマス紙はこの赤にしてこの赤ならざるものである」という判断が成立することになりますが、この判断ではなお、述語が主語を包んでいません。「リトマス紙」という「質料」が残っているからです。

A

ありがとうございます。話をもとに戻してください。
佐野
ここまでは「最後の種」を「個」の一歩手前、と考えることで何とか読めるのですが、次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?

A

「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」とあります。
佐野
そうですね。ここにも「最後の種に至る」という表現が見られます。しかしこの場合「最後の種」を「リトマス紙」のような「中間的質料」と考えることはできませんね。この「最後の種」は「リトマス紙」が含んでいる「相対立するもの」(「この赤」か、「この赤ならざるもの」か)を破った、「自己同一なるもの」と一つになった「相矛盾するもの」としての「個」です。つまりこの「最後の種」は「一般」でありながら、同時に「個」である、つまり「具体的一般」です。そうしてそれは「自己同一」でありながら「相矛盾」している。「この赤であると同時にこの赤でない、それゆえにこの赤である」と言われるものです。これが「生滅するもの」ということです。こうした「最後の種」については、「二」で詳しく論じられていました。例えば337頁3~6行目をご覧ください。何と書いてありますか?

A

「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである。包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とあります。
佐野
「種差」とは、例えば「この赤」と「この赤ならざるもの」のことです。もともと根本にこの「最後の種」=「個物」(自己同一=相矛盾)があって、我々はこれを分別的に主語と述語、特殊と一般、自己同一と矛盾(対立、相異)というように分け、矛盾なく理解しているつもりになっている、そういうことでしょう。こうした「最後の種に至る」と「相反するもの」が「相矛盾するもの」となり、ここに「自己同一なるもの」が見られ、「包摂的関係の逆転」、つまり「主語」と「述語」の包摂的関係が逆転する、というのです。「逆転」と言っても、主語が述語を包摂すると同時に、述語が主語を包摂するといった関係です。次に参ります。もう一度読んでみて下さい。

A

「一々の中間的なものが最後の種となる時、主語面と述語面は合一して矛盾的統一を含む一般者が見られるのである」。
佐野
「一々の中間的なもの」、質料的、基体的なものですね。これがなくなって「最後の種」となる。そうなると「主語面と述語面」が合一する。そうすると「矛盾的統一を含む一般者」、これは「具体的一般者」ですね。これが「見られる」。この「見」は直覚でしょうね。

A

主語的なものをなくして見るということですね。そんなことができるんでしょうか。また、そこからどうやって判断や思惟が成立するのでしょうか?

W

反省の方から反省を徹底させている感じですね。
佐野
あるいは、直観の立場に立ちながら、その立場を正当化するためにあえて反省から論じている(徹底的批評主義)感じですね。西田は『善の研究』以降、直接に直観の立場に立って、そこから反省と直観を区別しつつ、(具体的一般者の自己限定というような形で)反省を直観に回収しようとしているように思われるのですが、私は、直観と反省も即非(矛盾的自己同一)の関係にあって、直接に直観の立場に立つことはできないように思うのです。直観されたものは反省しなければ顕わにはなりませんが、反省されたものはすでに直観されたものではない。反省にとって直観はすでに隠れている、あるいはむしろ反省にとって直観はつねに隠れている、直観は反省が破れることによってのみ顕わになるという側面、この反省が破れるというところに他者の存在が不可欠ですが、こうした側面がこの時期の西田には見られないように思われます。反省を破って初めて成立する「具体的一般者」を、「そこからそこへ」と言われるような直接性として立てて、そこに直接立ってしまう、そこにこの時期の西田の問題があるように感じられます。さて、これまでのところは「具体的一般者」を、後に「判断的一般者(この言葉は350頁2行目の「段下げ」部分に見られますが)」と呼ばれる立場に立って、主語と述語の側面から論じていましたが、「生滅するもの」において両者の統一が成立することによって、「推論式的一般者」の立場が成立し、またここに本文としては初めて「推論式的一般者」の語が登場することになります(いわゆる「段下げ」の部分では、349~350頁。本文の中でも括弧の中では353頁で登場しています。また「推論式」については『場所』論文の260~262頁で論じられています)。

A

どうしてここで「推論式的一般者」が登場したのでしょうか?
佐野
その問いに答えることが、おそらく論文一本になるでしょう。ただきわめて簡略に言えば、主語と述語との合一が「生滅するもの」において達成されたからだ、とは言えるでしょう。その登場の現場を見て見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(356頁3~7行目)。「推論式」って何ですか?

C

「人間は死ぬ―ソクラテスは人間である―ゆえに、ソクラテスは死ぬ」のうち、「死ぬ」が「大語」、「人間」が「媒語」、「ソクラテス」が「小語」だったと思います。

B

ありがとうございます。続けてください。
佐野
「媒語的形式に於て大小両語を包むと考え得るであろう」とありますが、「何が」だと思いますか?

B

「一々の中間的なものが最後の種となること」だと思います。
佐野
そうですね。つまり「主語面と述語面とは合一して矛盾的統一を含む一般者が見られる」というのを「推論式的一般者」に即して述べたもの、ということになりますね。続いて「小語と大語とが相対立する両方向に於ける〔二つの〕統一面となり、媒語が大語と合し小語を包むと考えられる時、大小の両語は媒語の両端と考えられ、超越的述語面が矛盾的統一を包むと考えることができる」とあります。これだけ読んでも何のことか分かりませんね。しかしそれは西田も承知で、これから述べることの結論を予め示したのだと思います。ここでは物理現象というものが、大語面の方から論じられている、そこだけ押さえておきましょう。そうして最後に「推論式に於て最も能く具体的一般者の全構造を見ることができるのである」とあります。どのように見ることになるのか、これももう少し待つことにしましょう。今日はここまでとします。
(第119回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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