具体的一般者と個物の自己同一

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落355頁14行目「一般的なるものを特殊化していけば」から第5段落末までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」(356,1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「よく似た個体の集まりでそれ以上には分けられない「最後の種」だが、わたしたちが「そのもの」を意識する時(タイミング)は必ずしも学問上の「最後」に一致しない。ある景観を特別なものに感じることはその分かりやすい例だといえる。ここに述べられている「最後の種」とは学問上の分類を例にひいたにすぎず、「最後」とそのさらなる特殊化はわたしたちに任意に生じるとは考えられないか。すなわち包摂的関係の逆転が成立し、自己同一なるものが見られるときが「最後の種」であるとは言えないか。」(231字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
包摂的関係における「最後の種」から「個」へと超越する、という考え方は「学問上の分類」での話であり、「わたしたちが「そのもの」を意識する時」は、つまり、私たちに主観的(「任意」に起こりうる)体験の事柄としては、「最後の種」と「個」が一つになっている、そういう理解でいいですか?

S

はい。「具体的一般者」の経験です。こういう経験が動因となってわたしたちの「探求」があると思います。しかしどこまで行ってもその体験に届かない。例えば「ある景観を特別なものに感じた」としてそれを写真に収めても、どこか違う。そうやって写真を撮り続けるというような。

T

でもおいしいラーメンは、何度食べてもおいしいですよ。

W

どちらの例でも「個との出会い(体験)がある」ということが自明視されているように思われますが。

S

そうした体験がなければ、何を動因として「最後の種=個」に行き着こうとするのか?
佐野
未熟なわたしでも、「これこそが剣道である」という体験はありますよ。そうして剣道というものを掴んだ気になる。そうして次の稽古で自信満々で立ち会う。でももう違うんですね。その繰り返ししかない。今ではそのように必ず教え導いてくれる剣道というものを信じざるを得ないし、変な話、感謝さえしています。私などのレベルとは比べものにならないと思いますが、そのラーメンの職人さん(達人)も、これだ、と思うような体験をしながらも、絶えずこれではない、という繰り返しをしているんだと思います。「具体的一般者」でも「純粋経験」でも、体験の事柄ですが、我々はそれを「ある」、「実在」というように掴まざるを得ない。そうしなければ体験が体験としてあらわにならない。しかしそれは掴んでしまえばもう別物になっている。西田も最初「純粋経験」を掴んだと思った。それを「唯一の実在」としてすべてを説明しようとした。しかしそれを西田の「哲学」が許さなかった。こうして西田は「自覚」や「場所」などの立場を死ぬまで遍歴することになるのだと思います。プロトコルはこのくらいにしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(356頁8行目~357頁3行目)
佐野
「変ずるものといえども、それが変ずるものとして考えうる限り」とあるのは、「変ずるもの」は「個」として、元来考えることのできないものだからです。しかし我々がそれを考える、つまり哲学することができるのは、「個」が我々には「具体的一般者」として立ち現れるからだ、ということになります。それで「それが変ずるものとして考え得る限り、具体的一般者でなければならぬ」と言われます。言い換えて「自己自身の中に感覚的なるもの、所謂非合理的なるものを包む具体的一般者が変ずるものと考えられるのである」と述べられます。「かかる一般者」、「具体的一般者」ですね、その「述語面」、「超越的述語面」(意識面)のことですね、それが何らかの意味に於て限定し得る限り、連続が成立するのである」。「感覚的なるもの」は「個」ですが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」において「限定」することによって、そこに「感覚的なるもの」を包む「連続」つまり、「具体的一般者」としての「一般概念」が成立することになります。ここまででわからないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「感覚的直覚面を包む具体的一般者」、具体的一般者としての「感覚的性質一般」ですね、その「述語面が単に肯定的に限定せられた時、単なる感覚的対象界という如きものが見られ、否定を含む肯定面として限定せられた時、知覚の世界という如きものが見られ、更に矛盾的統一面として限定せられた時、物理現象界という如きものが見られるのであろう」とありますね。

A

これらの言葉の定義はどうなっているのですか?
佐野
哲学は基本的に定義を定めて議論を進めていく学問ではないため、言葉の意味も前後関係から推して解釈するほかありません。ですがこの分類は以前と異なっていますね。349頁では、「肯定的述語面」が「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」が「物理現象界」とされていました。用語の意味が揺れていますね。目下のテキストでもこれ以上の説明はありませんから、あとは解釈するしかないのですが、例えば「単に肯定的に限定せられた時」が「これは赤い」のような判断、「否定を含む肯定面として限定せられた時」が「このリンゴは赤い」のような判断になる、と考えることができます。後者では「リンゴ」と「赤い」の間には否定が含まれていると考えられます。「リンゴ」は「赤い」という性質以外も持っていますから。こう考えると、以前の「知覚の対象界」が、さらに詳しく肯定面(「感覚的対象界」)と否定面(「知覚の対象界」)とに分けて考えられていることが分かります。そうして第三に、「更に矛盾的統一面として限定せられた時」が、例えば「このリトマス紙が赤から赤でないものに変ずる」のような判断になります。〈赤でありかつ赤でない〉というのが「矛盾的統一」ということで、こうした判断が成立するのが「物理現象界」です。どうでしょうか?

A

はい。理解できます。
佐野
こうした分類についてなお物足りないものを感じていたのでしょうね。こんなことを括弧付きで書き足しています。「(知覚の世界と物理現象界とを斯くの如く区別するについては尚詳論すべきものがあるであろうが)」。しかしそれについてはこれ以上何とも言えません。次に行きます。「之を越えれば」、「之」とは何ですか?

A

「物理現象界」です。
佐野
そうでしょうね。「物理現象界」を「越えれば、もはや変ずるものを論理的に限定することはできぬ」、通常の論理では限定できない、ということです。「変ずるもの」が「生滅するもの」になってしまうからです。「生滅するもの」とは、生成即消滅、生即死、有即無というようなものですが、これは通常の論理ではとらえられない。「即非の論理」というような論理によって初めて捉えられるものです。続いて「時は矛盾的統一面を表すものであって、時に於てあるものはかかる境界線においてあるのである」とありますが、「かかる境界線」とは何と何の境界線ですか?

A

「論理的に限定できるもの」と「できないもの」の境界だと思います。
佐野
そうでしょうね。「物理現象界」ないし「変ずるもの」、と「生滅するもの」との境界線と言ってもいい。「此故に時に於てあるものは一々が唯一的なるものとして、一度的と考えられるのである」とあります。しかしこれは例の「徳山」の「現在心不可得」ですね。現在は捉えられない。「変ずるもの」の心では「点心」は頂けない。「変ずるもの」を外から眺めているからですね。それでは「赤が赤でない、それゆえに赤である」というように、否定が否定されて肯定に返ってくるということがない。肯定に返ってくれば、赤は赤でないままに赤である、となるわけです。この時には「外から眺める」という態度はなくなっています。主語に残された「質料的なもの」も、述語面である自分に残された主観的なものもなくなっている。これが「生滅するもの」ということだと思います。どうでしょうか?

A

以前出てきた例でいえば「富士山」との出会いですね。今回のプロトコルでいえば「個」との出会い、です。
佐野
ええ。我々は常識的に自分のことを個だとおもい、他者を個人と思い、物を個物だと思っていますが、よく考えてみるとそんなことはなく、常に自分や他者を役割などの一般で捉えていますし、物も何か自分にとって役に立つもの、「道具」としてとらえています。そうでないと理解できないし、理解できなければ行為することもできない。しかしそうした見方が破られる時に「個物」との出会い起こります。そうして実は常に自分はこうしたものに出会っていたのだ、と目覚める。ですから常識(日常性)というのは、最も浅薄であると同時に最も深淵なものだと言えると思います。ただ、これをこのように掴んでしまえばもう違うものになっている、というのは先ほどの議論で確認した通りです。

A

たしかに「俺は出会った」というような主張、あるいは「これこそ実在だ」という主張は危険でもありますね。
佐野
そうですね。でもそうした把握をやめることができない。そのことに自覚的であるべきだと思います。その意味で「私はそれをやめることができた」というのもやはりおかしい。そのように力みかえるのではなく、おそらくは自然と力が抜けていく、そうしたものだと思います。こんな風に言うのも何か違和感がありますが、仕方ありませんね。次をBさん、お願いします。

B

読む(357頁3行目~358頁2行目)
佐野
「元来」と、西田はもともとのところから議論を説き起こします。「具体的一般者の具体的一般者たる所以は内に主語面」、「個」ですね、これを「包むと云うにあるのである」。「具体的一般者」の基本的な意味ですね。これをどのようにとらえることができるかというと、西田はこれを三段階に分けて考えているようです。①「特殊と一般との関係」、所謂「包摂的関係」ですね。これはまだ厳密には「具体的一般者」ではない。「個物」を含んでいないからです。次いで、②この「特殊と一般との関係」に「主語と述語との関係」を含ませる段階、つまり「個物が於てある超越的主語面を包む」段階が来ます。これが「判断」的関係です。こうなるとこれはすでに「具体的一般者」、ここでは「判断的一般者」です。さらに③「推論式に於ける小語と大語との関係を含ませることによって、かかる一般者」、「小語と大語との関係」つまり「判断的一般者」、の「一般者」、「推論式的一般者」としての「具体的一般者」ですね、そうしたものに進むことができる、そのように述べられます。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
ここから西田は、今述べたことをさらに詳しく繰り返します。「具体的一般者が内に主語面を含むと云うことは、前にも云った如く自己同一なるものを含むことによって可能となる」。この一文は「元来」から始まる先ほどの一文をさらに先に進めたものですね。「主語面を包む(含む)」ことが「自己同一なるものを含む」ことだ、と言われています。「自己同一的なるもの」とは「これはこれだ」としか言えないもの、「個物」のことです。「前に」とは、例えば353頁9行目のような記述(「「これは」は…具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体として含まれねばならない」)でしょう。ここから先の三段階が詳述されます。

B

「自己同一なるもの」は、矛盾を含むものですよね。
佐野
そうだと思います。「AはAでない、それゆえにAである」という意味での「自己同一なるもの」です。337頁3行目にも「自己自身のうちに矛盾を含む同一なるもの」という表現が見られます。次に行きます。まず①「包摂的関係」の場合。「単に特殊を含む一般と考えられた時、それは主語的方向に考えられた個物に過ぎない」とあります。「それ」とは何を指しますか?

B

「自己同一なるもの」、個物です。
佐野
そうでしょうね。それはまだ「考えられた」「個物」に過ぎない、と。包摂的関係から、「ソクラテス(特殊=個)は人間(一般)である」と言っても、「ソクラテス」はなおそうした包摂的関係から「考えられた」個にすぎないという意味でしょう。ですからこの「一般」はまだ厳密には「具体的一般者」ではない。次に②「判断的一般者」の場合。「具体的一般者が自己自身を限定する超越的述語面として判断を内に含むと考えられた時、それは主語と相等しき主客合一の場所となる」、とありますが、「それ」とは?

B

やはり「自己同一なるもの」です。
佐野
そうですね。それでもよいと思いますが、「主語と等しき」とありますから、「超越的述語面」でもよさそうですね。「具体的一般者」の自己限定であり、「判断を内に含む」ものとしての。つまり「具体的一般者」の体験でありつつ、判断(思惟・哲学)の源泉となるそうした「超越的述語面」、つまり「意識」です。それが「主語と等しき主客合一の場所」と言われています。まさに体験の場所ですね。「之」、つまり「場所」、「に於てあるものの一々が個物的なる矛盾的統一面である」、「一々」の個物が、「矛盾的」でありながら「同一」である、ということです。即非です。さらに③、「推論式的一般者」の場合。「小語と大語と両方向に於て統一面が相対立し、媒語が両面を結合する自己同一面となる」とあります。ここにも対立と同一、矛盾的自己同一が見られますが、この「自己同一」は特に「個物」と限定しなくてもよさそうです。そうして「媒語面が成立し得る限り推論式としての具体的一般者が成り立つ」と言われます。ここまでで先の三段階が詳述されたことになります。ここまでで質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
ここからは、これまでの「知識」を「推論式的一般者」の立場から捉えなおしていきます。まず㋐「媒語が大語と合し小語を包む場合には」、とあります。この「媒語」、この媒語はまだ厳密には「具体的一般者」とは言えませんが、それでも「特殊を含む一般」としての「一般概念」のことです。そうした媒語が「大語」、つまり「超越的述語面」(意識)と合し、「小語」、この場合も単に「考えられた個物」にすぎませんが、そうした「小語」を包む場合、ということです。そういう場合には「具体的一般者は概念的に限定せられたものとして、先験的知識という如きものが成り立つ」とあります。何のことを言っていますか?

B

数や図形などの、数学的な知識の場合だと思います。
佐野
そうですね。「3は数である」とか「三角形は図形である」は、「特殊は一般である」という形式になっていて、一応一般が特殊を含んでいますが、この「特殊」は「個物」ではありません。「3」とか「三角形」は紙にでも描かない限り、個物ではなく、概念です。かりに「個物」と呼ぶにしても、それは「考えられた個物」です。次に行きます。㋑「併し経験的知識に於ては媒語は完全に小語を包むことはできない、大小両語面は相反する両方向に対立し、媒語面は具体的一般者の限定面として両語を結合するまでである」とありますね。何のことを言っていると思いますか?

B

感覚的世界、知覚の世界、物理現象界のことだと思います。でも物理学はほとんど数学だと思うのですが、違うのですか?
佐野
物理学はあくまで経験科学です。数学を用いた理論的な仮説は実験や観察によって検証される必要があります。話をもとに戻すと、「感覚的世界」、例えば「これは赤い」という判断では、「赤」が「具体的一般者の限定面」としての「一般概念」ですが、この「赤」は完全には「これ」を包めない。「結合する」だけ、だというのです。同じことは「知覚の世界」における判断、「このリンゴは赤い」についても言えます。述語をいくら重ねても「このリンゴ」を言い尽くすことはできません。最後に「物理現象界」における判断の主語である「変ずるもの」が出てきますね。何と書いてありますか?

B

「変ずるものに於ては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができない、と考えられる所以である」とあります。
佐野
「具体的一般者」の根柢とは通常は、「超越的述語面」(意識)のことですね。個物も変ずるものも、ここに「於てある」。ですから「変ずるもの」に限らず、「感覚的世界」における「これ」も、「知覚の世界」における「個物」も、「概念的に限定すること」は完全にはできません。ただ、「これ」や「個物」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって、部分的に限定(結合)ができますが、「変ずるもの」の場合は、赤と赤でない、ということが同時に成立しますから、矛盾を含みます。その場合、こうした矛盾を「概念的に限定すること」は不可能となります。そこで登場するのが「時」という形式です。だとすると、冒頭の「具体的一般者」は「超越的述語面」そのものではなく、媒語面としての、つまり「感覚的性質一般」によって限定された「超越的述語面」と考えた方がよさそうです。今日はここまでとします。
(第120回)
 
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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