「変ずるもの」の概念的限定と時の役割

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第6段落冒頭358頁2行目「できないと考えられる所以である。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものにおいては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができないと考えられる所以である。」(358,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「赤いリンゴに一方向から光を当てると、光が当たる部分は赤く、影になる部分は黒く見える。これは「否定を含む肯定面」に当たるのではないか。それなら「このリンゴは赤い」という判断が生じる「知覚の世界」においても、「見え方が異なっても同じこのリンゴ」という媒語面と、媒語が小語を完全には包めない推論式的構造があると考えられないか。具体的一般者の根底が概念的に限定できないことは、変ずるものに固有なのだろうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「このリンゴは赤い」というのは「否定を含む肯定面」としての「知覚の世界」における判断ですね。しかし「このリンゴは赤くもあり、黒くもある」、というのは「矛盾的統一面」を表していますから、「物理現象界」に属するはずなのに、やはり「知覚の世界」の判断ではないか、という疑問ですね。まったくその通りで、じつは西田もそのことは気づいています。331頁12行目からの文章をご覧ください。Aさん、読んでください。

A

「既に述語的一般を超越したと考えられる個物は或一種の性質的述語となると共に、矛盾なく他の異なれる性質的述語の主語となることもできる、例えば物は色と共に味や香りを有つこともできる。併し同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。われわれが一つの物を赤であることもでき青であることもできると考えるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を容れて考えるからである。」
佐野
ということで、Tさんは、ご自身でこうした指摘をしたことになります。例えば同じ酒を飲んだとして、私は「旨い」と言い、Tさんは「不味い」と言う場合なども、同じ酒が旨くもあれば不味くもある、という矛盾的統一を示すことになります。しかしこれは「知覚の世界」における判断ですね。

W

「酒が旨い」というのは出会いによるものなので、そこでは「矛盾的統一」ということはないのでは?そこにあるのは〔酒の旨さの〕景色だけでは?
佐野
たしかに、そうした出会いにおいては、「私は旨いと思うが、あなたは不味いと思う、人それぞれだ」、という経験はされていませんね。

R

西田は「物理現象界」の先に「生滅する世界」、つまり「即非」の世界を見ていたと思いますが、それと「酒が旨い」という経験とを一緒にすることはできないように思います。
佐野
それは宗教的な体験を何か特別なものと考えているからで、救いを求める気持ちが強いからでしょう。言葉が出て来る以前の出来事は日常の足もとの出来事です。どこにでも出会いのきっかけ、機縁というものがあると思います。おそらく西田が考えようとして、ずっと見つめていたものはそうしたもので、我々はそこからすぐに目を背けて、それを分かりやすいものにしてしまう。そうでないとどう行動していいか分かりませんから、そんな世界には住めないからです。赤であると同時に赤でない、旨いと同時に旨くない、言葉にするとそうなってしまいますが、これでは何のことか分かりませんから、「時」の形式をもってきたり、観点の相違を設けたりしてこれを分かるものにして、そこに住もうとするわけです。しかし西田が見ようとしているものはそうした分別以前の出来事だと思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(358頁2行目~7行目)
佐野
いきなり「併し」から始まってしまいましたが、これは、「変ずるもの」は小語面が〈赤にして赤でない〉ということですから、これでは「具体的一般者の根柢」は小語面を包むことができず、「概念的に限定できない」ことになり、推論式的一般者が成立しないように見えるが、そうではなくて、ということです。「媒語」は「元来具体的一般者其者を表すもの」だから、「推論式一般者の自己同一面」だというのです。因みにこの「自己同一面」とは「個物」のことではなくて大小両面が媒語によって同一になることを意味していると思われます。「時」というのはそういう意味での「媒語面」だ、というのです。ここでは「元来」という語が効いていますね。小語を完全には包めないが、じつはもともと包んでいる、そういう言い方です。もともと包んでいるから、〈赤にして赤でない〉も概念的に限定できる、ということです。この辺りに西田の哲学に対する信頼が感じられます。どこまでも哲学できる、ということです。どうするか、というと「時」を持ってくる、というのです。カントでもそうでしたが、「時」は「意識」(大語面)の形式ですね。そうした「時」を持ってくることで〈赤にして赤でない〉という「変ずるもの」も考えることができる、というわけです。だからここでも「推論式的一般者」が成立している、というのです。

A

ですが、それは「帰納的推論」と言われていますね。どういうことですか?
佐野
帰納的にしか包めない、ということでしょうね。元来包んでいるのだけれども、どこまでも概念的には完全には包めない、ということだと思います。ややこしいですが。そもそも「経験的知識」全般について言えることは、元来、あらゆる経験が「具体的一般者」として「概念的に限定」可能だけれども、可能というにとどまり、知識は帰納的、したがってどこまでも蓋然的・近似的なものにとどまらざるを得ない、ということだと思います。それが感覚的知識(これは赤である)でも、知覚的知識(このリンゴは赤い)でも、物理的知識(このリンゴの青が赤に変わる)でも言える、と。

A

物理的知識が「帰納的」と言われるのはなぜですか?
佐野
やはり「現在」はどこまでも包めない、ということだと思います。次を見て見ましょう。何と書いてありますか?

A

「推論式的一般者によって時を考えれば、小語面はいつも現在を表し、未限定なる大語面は未来を表し、限定せる大語面は過去を表し、媒語面は移り行く時其者を表すと考えることができる」とあります。
佐野
この小語面の「現在」がどこまでもつかめない。限定された過去から未限定の未来を帰納的に推論しつつ限定するほかない、そういうことだと思います。

A

「現在」がつかめない、というのはどこかに書いてありましたか?
佐野
これまで読んだところでは345頁14行目から15行目にありました。「時の連続的要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」という表現がそれですね。現在を外から概念的に把握しようとするとそうなる。徳山の点心(現在心不可得)ですね。これから読むところでも、363頁5行目から6行目には、「小語面たる現在は常に達すべからざる一点と考えられねばならぬ」とあります。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(358頁7行目~段落末まで)
佐野
「一般者其者が概念的に限定すべからざるものと考えられる時」、「変ずるもの」の場合ですね、その場合は、「その媒語面は無限に移り行くものとなる」。これは「移り行く時其者」のことですね。次いで「之に反し媒語と大語とが合一する場合には時は消え去るのである」とありますが、これは何を念頭に置いていると思いますか?

B

数学のような先験的知識の場合だと思います。
佐野
そうですね。西田の場合もそうですが、考え方の癖みたいなものがあって、数学のような先験的知識から、経験的な知識へと進む、という順序がよく見られます。ここでもそうでしょうね。「媒語」は「推論式的一般者の自己同一面」ですから、これと大語、意識の形式ですね、これが一つになってしまえば、空間の形式は空間の一般概念となってそこに幾何学が成立することになるでしょうし、時間の形式も時間の一般概念となってそこに代数というようなものが成立することになりますが、その場合には「時」は「数学的連続」となって、「時」は消え去っています。今度は「此の如き意味に於て」、つまり「〔媒語面と〕合一した大語面が、単に感覚的性質一般という如きものであった場合は、つまり感覚的性質一般という「一般概念」である場合は、ということですね、「単に」とありますから、「肯定的に」ということです。その場合には「これは赤い」のような判断が成立し、そこには「感覚の世界」が成立します。そうして「小語面の方向に於て色自体という如きものが見られ」る、とされます。この「色自体」は「これ」のことですね。判断以前の色のことです。次いで「否定を含んだものであった場合」、「このリンゴは赤い」のような判断が成立する場合ですね、この場合には「知覚の世界」が成立し、その小語面の方向には「物自体」の世界が見られることになります。さらに媒語面と合一した大語面が矛盾を含んだ一般概念であった場合には、「時」が復活して「出来事の世界」が見られ、その小語面の方向には差し当たり「変ずるもの」が見られることになる、こういうことだと思います。

B

「物理現象界」と言わずに「出来事の世界」と言ったのはなぜでしょうか?
佐野
多分としか言えませんが、例えば325頁1行目に「時に於て生滅する出来事」という表現があります。この「出来事」は「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」です。だとすると、目下のテキストの場合、さしあたり「物理現象界」を念頭に置きつつ、その先の「生滅する出来事の世界」をも視野に入れている、と考えることができると思います。でもその場合は「概念的に把握する」と言っても「即非の論理」のようなものによる外はないと思いますが。次をCさん、お願いします。

C

読む(第7段落冒頭~359頁1行目)
佐野
ここはこれまでの要約ですね。「非合理的なるもの」、これは前段落末の「矛盾」のことですね。それを含んだ「一般者」、この場合は「感覚的性質一般」ということですね。「この赤にしてこの赤ならざるもの」ということです。こうした「一般者というべき現ずるもの」が、「推論式的一般者」として見られ、つまり概念的に限定できるものとして見られ、「その媒語面が大語面的に限定」せられ、とあります。

C

どういうことですか?先に「媒語面」とは「移り行く時其者」とあり、「限定せる大語面は過去を表し」とありましたから、過去から時其者を限定する、ということでしょうか?
佐野
なるほど。そうも読めるかもしれませんが、やはり違和感があります。ここはやはり「矛盾」を含んだ「感覚的性質」という「一般概念」を考えることができるようにするために、一旦消え去った「時」(大語面の形式)を復活させて考える、ということと取りたいと思います。これが「媒語面が大語面限定せられ」ということです。その上で「小語面」、「現在」ですね、それと「接触して」「矛盾的統一面が成立する」、そうすると「時の世界」、前段落末で「出来事の世界」と呼ばれたものですね、そういうものが成立する、そのように読んでみてはどうでしょうか。それを証しするかのように、つぎに「而してかかる〔時による大語面的〕限定が成立するかぎり、変ずるものというものを考えることができる」と書かれてあります。次をDさん、お願いします。

D

読む(359頁1行目~5行目)
佐野
ここからは「大語面」は内容を欠いた「形式」であり、内容は「小語面」から来ることが述べられます。まず「変ずるものの内容が無限に豊富なるかぎり、種々なる時の内容が考えられる」とあります。これに対し、「之」、つまりこの「種々なる内容」を「大語面から見れば、最も抽象的なる一般者」、「一般概念」ですね、それ「によって限定せられる媒語面」、この「媒語面」は「矛盾」を含む「感覚的性質一般」という「一般概念」です。大語面、つまり意識の形式である「時」、これを一般概念とすると、これが「最も抽象的なる一般者」である「時」になります。それが「矛盾」を含む「感覚的性質一般」という「媒語面」を限定する、ということは、「所謂時というものがすべての変ずるものを包む」ということになります。テキストでは「即ち」とありますが、これを「最も抽象的なる一般者によって限定せられる媒語面即ち所謂時」と読んではいけなくて、そのように限定された「媒語面」が、「即ち所謂時というものがすべての変ずるものを包む」ことだ、というように読まなくてはいけないと思います。

D

具体的にはどういうことですか?
佐野
判断におけるすべての主語が「時」の項(現在、過去、未来)とか時間の前後、長短ということになってしまう、ということだと思います。そのように「単に大語面的に限定せられたものは抽象的一般概念」にすぎない、とありますが、この抽象的一般概念が、例えば、時の項とか時間の前後、長短ということだと思います。それはもう「変ずるもの」ではない、と。たしかに「これは赤である」の「これ」の質的な内容は小語面から来ていますが、その質的な内容すらなくしてしまって、すべてを量に還元してしまえば、主語がまったくの無内容となっていくのは、すべてを量的に還元する昨今の在り方(例えば業績)などを見れば理解できると思います。次をEさん、お願いします。

E

読む(359頁5行目~段落末まで)
佐野
まず「媒語面が小語面的に限定せられるに従って真に変ずるものが考えられ、種々の内容ある時が見られる」とあります。ここから次第に話が「小語面」に移って行きます。「真に変ずるもの」が「内容ある時」と言い換えられ、それがさらに「所謂時によって限定することのできないもの」、「所謂時の外にあるもの」と言い換えられます。矛盾した言い方ですが、「所謂時」というのは、さきの言葉で言えば「最も抽象的なる一般者」です。これに「内容」を与えるのが、「真に変ずるもの」で、これはすでに「所謂時の外にあるもの」だというのです。これが、西田がもっとも根底において見続けているもの(直覚されるもの)です。とはいえ、これが概念的に限定できる、しかも大語面から科学的に限定できるのは、こうした「所謂時の外にあるもの」といえども「推論式的一般者の特殊として考え得られるかぎり、何處までも〔帰納法的ではあるけれども〕大語面的限定の意義を有し、時に於て変ずるものと考えられる」からだ、ということになります。ここからは「所謂時に於てあるもの」の話です。時の項とか、時間の前後・長短のことですね。それが「意味を有つという如きことは考え得られない」どころか、それが「性質を有つ」ということすら言い得ない、とされます。こうした時の項に「何等か性質」とか、さらには「意味」というものが述語されるとすれば、それは「小語面」に属しているもの、「〔所謂〕時の外にあるもの」だ、ということになります。そうして最後に「〔所謂〕時に於てあるものとしては、唯大語面に於て述語的統一を見る」とされ、「厳密に時に於てあるもの」、まったく「所謂時」においてしかないもの、の意味ですね、そういうものについては、「唯大語面的に限定せられた推論式的一般者の形式的限定」として、「前後とか長短とかいう所謂時間的性質を述語しうるのみ」と言われます。「大語面的限定」というのは基本的に「意識」が有する形式(時空、カテゴリー)によって限定することですが、こうした限定はあくまで形式的限定であり、その内容はどこまでも小語面的に与えられなければならない、というのは頷けることだと思います。今日はここまでとします。
(第121回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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