意味とは如何なるものか
- 2026年9月5日
- 読書会だより
前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第6段落冒頭358頁2行目「併し媒語は」から359頁末までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「それで非合理的なるものを含む一般者といふべき変ずるものが推論式的一般者として見られ、その媒語面が大語面的に限定せられ、而も小語面と接触して矛盾的統一面が成立するかぎり、時の世界が見られるのである」(第7段落冒頭=358頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「具体的一般者を推論的一般者として捉えなおすとき、大語、小語、媒語の関係を持つ矛盾的統一面の成立に時の世界を見ることができ、時の内容は小語に属するとある。小語はともかく大語と媒語はあらかじめ在るものなのだろうか。仮に大語、媒語に先立って小語があるとしたら、わたしたちの意識には大語、媒語が成立する以前にこれらに代わるものがあるのではないか。」(169字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
初めに「小語」だけの世界があると。
S
ええ。それが大語、媒語となるようなものを含んでいて、しかしそれがそのまま展開するというのではなしに、飛躍をともなって大語、媒語に展開するということです。
Sさんは登山をされますが、「小語」だけの世界というものをそれで説明してみて下さい。
S
ただ登っている、という感じです。標高が高くなると思考力も鈍くなってきて、身体がただ何かに反応している、って感じです。
生物、動物の境涯ですね。そこから何らかの飛躍があって判断的な言語の世界が立ち現れると。
S
そうです。そうした境涯が元初の在り方ではないかと思うのです。
T
それは個人の心境ではないですか?そうした心境も覚めて見ればそこに山が厳然として存在していることが顕わになるわけですから、元初はむしろそうした実在ではないかと。
それはきわめて常識的な見方で、我々は通常そのように考えていますし、科学もそうした立場に基本的に立っていると思います。安定した世界観が示されれば、人間はそこに住みやすくなるからです。これ所謂実在論的な見方で、そういう立場に立つ哲学ももちろんあります。ただ西田はそうした立場には立たない、と思います。そこには多くの前提が持ち込まれているからです。まず認識を離れて物や自然などが客観として存在していて、さらに人間(主観)もそうした客観として存在している、そうしてそれを見ている観察者の存在が前提されています。これに対して西田は直接的なものから出発しようとします。ありのままをありのままに見ているというあり方、直観です(これがおそらくSさんの、小語だけの世界です)。しかし「直観」というのも、すでにそれを外から見て(反省して)言えることですので、直観と反省(判断)の統一が問題になります。それがないと哲学が成り立ちません(媒語と大語が必要になる)。今盛んに問題になっている「具体的一般者」「推論式的一般者」もすべてこうした関心から出て来るものです。
Y
だとすると、推論式的一般者のどれもが、それだけで成り立つということはない、したがって小語だけの世界というのはありえない、ということになりますね。
人間の場合、そういうことになると思います。そこで西田は具体的一般者を元初として、そこから出発して、様々な判断がどのように成立するか、それを論じようとしているのだと思います。そうした様々な判断によって、我々の常識的な世界観が成立している、そんなことを示そうとしている、そのように見えます。目下のところ、感覚的判断、知覚的判断、物理現象、と来て、これから価値判断に進もうとしているのでしょう。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(360頁冒頭~4行目まで)
まず「以上は厳密なる意味に於て、時に於て生ずる出来事が意味を有つという如きことの不可能なることを論じた」とありますが、これは前段落最後の内容を確認したものです。「出来事」と一般的に言えば、生滅するものをも含みますが、「時に於て生ずる出来事」と言えば「変ずるもの」のことです。これが小語面に来ます。大語面は意識一般と考えていいと思います。両者を媒介する媒語は差し当たり「感覚的性質一般」で、「これは赤い」などの感覚的判断や、「このリンゴは赤い」などの知覚的判断の場合にはまだ「時」は出て来ません。主語について「赤であると同時に赤でない」と言われる時、小語は「変ずるもの」となり、媒語の「感覚的性質一般」が同時に「時其者」でもあることになります。これは感覚的性質一般が大語面の意識一般の形式である「時」によって限定されたものと考えることができます。「厳密なる意味に於て」をどのように読むかは難しいのですが、例えば因果関係などのカテゴリーを適用しない、などが考えられます。そうすると、判断の述語としては「前後、長短」しか言えないことになります。これがあって、それからこれがあって、これとこれの間の時間は長くて、といった具合です。
A
パラパラ漫画みたいなものですか?
そうですね。それだけでは何の意味ももちえない、そう西田は考えます。意味をもちうるのはその背後に何かを考えるからですね。こうなるとそれは単なる時間的な物理現象ではなくなって、その背後に「対象」を「志向」する「意識現象」となります。この「対象」との関係において「意味=価値」が生じます。そんなことを念頭に置いて西田は「我々の意識現象が時間的なると共に志向的であるとか、意味を荷うとか考えられるならば、如何なる意味に於て斯く考え得るであろうか、意味とは如何なるものであるか」と「五」のテーマを提示します。次をBさん、お願いします。
B
読む(360頁5行目~9行目)
「意味とは何か」を明らかにするには「判断作用」から出立しなければならない、とされます。意味は判断作用によって生じるからです。この「判断作用」は「作用」一般として「物理現象」同様に、「時間的出来事」です。ここでは「因果関係によって生起する」となっていて、「厳密なる意味」での時間的出来事より、一歩進んだものとなっています。科学は「厳密なる意味」での時間的出来事のうちに「因果関係」を探究するものです。それはともかく、判断作用は他方で、真偽が問題になりますから、「客観的対象」に関係(これが意識の志向作用です)することになります。この「真偽」が「価値」とか「意味」と呼ばれるものです。この「客観的対象」はたとえそれが時間的な出来事であったとしても、真偽が問題になる場合には「超時間的」となります。昨日の晩御飯で食べたものが何であるかは時間的な出来事ですが、それがカレーであったとすれば、昨日の晩御飯でカレーを食べたことは超時間的に真です。また「真」という「意味」も「超時間的」です。「我々は何時でも同一の意味を考え得る」、時間を超えて「昨日の晩御飯でカレーを食べた」ことを真として考えることができるのです。次をCさん、お願いします。
C
読む(360頁9行目~14行目)
判断はこの意味において「時間を超越」するものですが、それはどういう意味かを問題にしようとしています。物理現象を問題にする際にも「客観的対象」である「変ずるもの」は超時間的な「存在」ですが、真偽が問題になる場合にはその「存在」が「価値(意味)」に変ずるのだ、ということを言おうとしています。同じ「超時間的」ということでも、その意味が異なるということです。この辺り、「存在の前に意味がある」としたリッケルトが念頭に置かれているかもしれませんね。「存在」というのはすでに真偽が問題になる意味だと。それはともかく、次にこのことが詳しく述べられます。次をDさん、お願いします。
D
読む(360頁14行目~361頁6行目)
意味が判断作用を超越するというのはどういう意味か、が問題になっていますね。
D
次に出て来る「本体」とは何ですか?
次に「主語となって述語とならない」とありますから、アリストテレスの「ウーシア」のことです。それを「本体」と訳したのです。これは「実体」とも訳されます。この「実体」は「我々の判断作用を超越してそれ自身に永遠なるものと考えることはできる」とありますね。「実体」を物理現象として自然科学的に「存在」と見た場合です。しかしこういう見方では「意味」は出て来ません。そこで「判断の主語的方向に於て超越すると考えられるものは超越的存在に外ならない」と言われることになります。さきほどでてきた「存在」です。この「存在」を真偽の基準とすることによって、この「存在」は「価値(意味)」となります。この「存在」は主語的方向への超越に置いて見られるものですが、この「存在」を「価値(意味)」の対象とするものは、述語の方向にある、つまり「意味の超越性」は「述語的方向」に置いて見られる、と西田は考えます。そうして「判断に客観性」、「真」ですね、それを「与えるものは存在でなくして価値であると考えられる時、判断の真の主語となるものは特殊なるものではなくして総合的全体でなければならない」とされます。
D
「総合的全体」とは何ですか?
何と何の総合だと思いますか?
D
主語と述語、あるいは特殊と一般ではないでしょうか?
別の言葉で言い換えたら?
D
「具体的一般者」ですか?そう書いてくれればいいのに。
以前にもこういう言い方がされていました(332頁12行目)。それはともかく、つぎにこうした「総合的全体」において、「判断はその述語的方向に於て超越的なるもの」、つまり「価値」ですね、それ「に接触するのである」とされます。物理現象の場合には述語方向に見られていたのは意識一般であり、その形式としての空間・時間、カテゴリーでしたが、判断において述語的方向に見られているのは、真善美といった価値、「理念」であることになります。次をEさん、お願いします。
E
読む(361頁6行目~11行目)
判断が超越的なるもの(価値)に接触するとはどういうことか、言い換えれば、判断が真となるというのはどういうことか、が問題となっています。それは「述語的なものが完全に主語的なるものを包む」ということ、つまり「特殊なるものが一般なるものの自己限定として考えられる」ことだ、そのように西田は言います。これは西田独自の真理の定義と言えます。西田はそのことをまず「数学的知識」を例にとって説明しています。「主語面(特殊)と述語面(一般)と合一する一般者が見られ得る」、例えば「三角形は平面図形である」の場合、平面図形(一般)は三角形(特殊)を包む「具体的一般者」ですから、こうしたものが見られる場合に「先験的知識」、つまり経験的でない知識が成立する、ということです。次をFさん、お願いします。
F
読む(361頁11行目~362頁1行目)
数学的知識の場合には、図形とか数といった「一般概念」が基礎になっていますが、西田はこの「一般概念」を限定のできない「超越論的述語面」にまで拡大して考えようとします。「自己自身は考えられたものとして限定できないもの」がそれです。しかもそれが「内に自己同一なるものを包む」というのですから、まさに本来的な意味での「具体的一般者」です。そうして「判断作用を超越する客観的根拠を(主語方向の)存在ではなく、(述語方向の)価値に求めるならば、私が前から云った具体的一般者の超越的述語面という如きものに求めるの外はない」とされます。真理というものを最根源(絶対無)から問題にする、ということです。最後に「此方面に於て如何にして作用を超越した意味とか価値とかいうものが考えられるのであろうか」(乞うご期待!)と締めくくっています。今日はここまでとしましょう。
(第122回)

