「時に於いてあるもの」と意味・価値の結合(旧全集4「知るもの」五§3)

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「五」の第1段落冒頭から第2段落末362頁1行目までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々は何時でも同一の意味を考え得るのである」(360頁7~8行目)」でした。そうして「考えたことないし問い」は、「ある人の日記に「晩御飯でカレーを食べた」とあり、その記述自体は真であるとする。しかし、その日記が異なる国や時代のものであれば、その「カレー」は私達が考えるカレーとは別物かもしれない。それでも、どうして「その人がその晩カレーを食べた」ということについて、時間を超えて同一の意味として真と考え得るのだろうか。揺らぐ言葉が指し示す意味とは、文脈の中でその都度推定・再構成されるものではないだろうか。」(196字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
判断によって意味の世界が開かれますが、判断作用自体が「時間的出来事」であることに従って、その世界はつねにそのつどのものとなりますから、意味もつねにそのつど構成されることになるのはそのとおりです。しかし他方でそのつどの判断内容自体はそうした時間的なファクターを含みません。たとえ時間的な出来事(「昨晩カレーを食べた」)でもそのこと自体は時間を超えた真理として主張されている、そういうことだと思います。その命題の真偽を判定する場合でも、かりにカレーの意味が変遷しているとして、そうした意味の変遷を踏まえて、やはり超時間的な意味を探究しなければならない、そういうことになると思います。

T

でもそれは不可能だと思います。どこまでも推測の域を脱しないと。基本的に真理というのはつじつまが合っている(整合性)だと思います。
佐野
現実的にはそういうことにならざるを得ませんが、「真理とは整合性である」、というのは一つの主張だと思います。別の考え方も当然あり得ます。人間は何かを主張する場合に、「真」ということを前提せずに主張することはできません。たとえ嘘をつく場合でも、不確かなことを主張する場合でも、「真」ということは前提として意識されています。ただ「真(真理)」が何であるか、はよく分かってはいない。「真理とは整合性である」という主張に対しては、「真理とは物と知性との一致である」という主張を考えることができます。この場合には真理の根拠は認識に関わらない「物(存在)」の方にあることになります。先程のカレーの例で言えば、その晩にカレーを食べたか、食べなかったか、という事実そのものです。これに対して「整合性」説における真理の根拠は主観的なもののうちにあることになります。この二つの説は真理の根拠を主観客観のどちらかに置いていることになりますが、主客分裂以前、つまり判断以前に求める考え方もあります。

A

詳しく説明してください。
佐野
推論式的一般者の大語面的限定の方向において、数学や物理学などの自然科学が事実として成立することが明らかになったと思います。この事実として成立しているものがはたして真であるかどうかは別の考察を必要とします。そこで事実として成立している数学や自然科学が如何にして可能か、という仕方でそれを基礎付けるのが批判哲学です。「カントに帰れ!」をスローガンとして成立した新カント学派もこうした基礎づけを行うことから始まりました。こうしてバーデン学派(西南学派)のヴィンデルバント、リッカート(リッケルト)によって、自然科学が「真」、道徳が「善」、芸術が「美」、宗教が「聖」という「価値」によって基礎付けられることになります。おそらく西田はこの哲学史的な流れを念頭に置いて、「五」で大語面的限定から小語面的限定に話を移していきます。ここまで、分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
ここでは「真(真理)」という「価値」を取り上げましょう。リッカートの場合、カテゴリーは認識主観の形式であり、対象は認識主観によって構成されます。この場合真偽の基準は認識主観の整合性に求められます。これに対し、ラスクの場合では、構成的カテゴリーは、判断以前において対象(超対立的対象)を構成し、真偽の基準はこの超対立的対象に属することになります。この超対立的対象が属する領域は、判断以前なので、判断における客観(その晩にカレーを食べたという事実、存在)や主観(整合性)とは異なる領域です。これが価値とか意味と呼ばれる妥当性の領域です。リッカートが真理の根拠を主観のうちに求めたのに対し、ラスクは判断以前に求めたことになります。ただ判断以前とは言え、あくまで「対象」の領域です。これに対し、「意味」をラスクと同様に判断以前に求めながら、それを「対象(存在者)の意味」ではなく、「存在の意味(Sinn von Sein)」とし、それによって判断以前の「生きられる世界(Lebenswelt)」が開示される、としたのが初期のハイデッガーです。この「存在の意味」がのちに「存在の真理」として捉えられて行くことになります。この場合の「真理」とは「アレーティア」、つまり覆われていない、という意味です。ハイデッガーの場合、判断(命題)の真理は判断以前の「存在の真理」に基づくことになります。ここには存在者と存在の区別(存在論的差異)、あるいは判断と判断以前の区別が明確ですが、これを具体的一般者の自己限定として、直観から反省(判断)を説明しようとしたのが、現在講読中の「知るもの」における西田です。西田は判断の真を明確に「一般者の自己限定」であると述べます。ハイデッガーが判断(命題)の真理の根拠を判断以前の存在(Sein)の非覆蔵性(アレーティア)に求めたのに対し、西田は判断以前(直観)と判断(反省)の両者を含んだ全体(具体的一般者)のうちに求めたことになります。この判断の成立を説明するのに、事実的な判断と価値的な判断を分け、前者を大語面的限定、後者を小語面的限定とすることで、両者を推論式的一般者から説明できるのではないか、そのように西田は考えたと思われます。ただこの時期の西田は直接に具体的一般者の直観の立場に立ちうると考えており、そこから具体的一般者の自己限定を考えるわけですが、そのことによって逆に直観と反省の区別(差異)が見えにくくなくなっています。直観は反省の破れとしてのみ成立する、こうした側面が背後に回ってしまっている感じがするわけです。ここまで真理の所在として、判断における客観的存在、主観(整合性)、判断以前の対象(超対立的対象)、判断以前の対象化できないもの(存在)、判断と判断以前を含んだ全体(具体的一般者)があることを見てきました。きわめて雑な整理ですが、ここまでで何か質問はありますか?

A

未消化ですので、あとでまたいろいろ調べながら考えて見たいと思います。
佐野
是非そうしてください。こうした整理は私などより生成AIの方がはるかに正確で、上手です。生成AIができないことは、享受する(味わう)こと、言葉にならない体験をすること、それに基づいて評価すること、それこそ意味付け・価値づけすることだと思いますが、こうしたものを苦労をせずに手っ取り早く手に入れようとすれば、AIに使われることになると思いますし、「評価する」という結果だけを出そうとすれば、これもAIの方が得意だと思います。結果を求める(先へ行く)のではなく、現在目の前にあるものの根底、さらにはそれを目にしている各自の足元に隠れているものに触れながら、これと対話すること、つまり、今の場合でしたら「読むこと」、これを大いに楽しんでいこうと思います。AIはあくまで辞書を引く、というような意味で補助的な場面での効率化に役立つというように考えたらよいのではないかと思います。それでは引き続き、Aさん、お願いします。

A

読む(362頁2~4行目)
佐野
大語面的な限定では、時間的な出来事の無意味な経過しか記述できませんが(こうした経過のうちに因果関係を持ち込んで法則として説明するのが自然科学です)、こうした経過のうちにさらに、何らかの「対象を志向」して、それについて例えば「真偽」を問題とすれば、そこに意味が生じることになります。これが「価値を荷うものとして」の「判断作用」です。この「判断作用」を理解するには、「判断の根柢」、判断以前ですね、ここに「具体的一般者という如きものを認めねばならぬ」とされます。判断は基本的に主語と述語への分割と両者の関係づけですから、判断を理解するには、判断以前に主述への分割以前がなければならない、ということです。これを逆から考えると「判断は具体的一般者の自己限定」ということになります。またそのかぎりにおいて判断は「真」となります。次をBさん、お願いします。

B

読む(362頁4~8行目)
佐野
上で考察した「具体的一般者」は「価値」判断としての判断作用を成立させるものですから、こうした判断が時間を超えて真偽を問題にするものである以上、「具体的一般者」も「超時間的なる一般者」であることになります。他方で判断作用は時間的なるもので「変ずるもの」です。しかし価値とか意味とかは超時間的なものですから、こうした時間的なものに結び付きようがない、そこには「越えることのできない間隙がある」ことになる。これを「避くべからざる矛盾」とか「知識以前」の出来事だといって、「問題を打ち切ってしまえばそれまでであるが」、考える術はある、そのように西田は考えます。ヒントは「価値と結びつくことのできない時間的なもの」、無意味の「変ずるもの」ですね、これも「考えられたもの」だというところにあります。次をCさん、お願いします。

C

読む(362頁8~15行目)
佐野
「私は「時に於てあるもの」を前に論じた如く」、「前」とは「四」のことでしょうね。そのように「考えることによって、意味とか価値とかいうものとの結合を見出し得ると思う」、とあります。何と何の結合ですか?

C

「時に於てあるもの」と「意味とか価値とかいうもの」です。
佐野
そうですね。時間的なものと超時間的なものです。「四」では、推論式的一般者の大語面的限定が考察されていましたね。どうやら推論式一般者で考えると時間的なものと超時間的なもの(意味・価値)との結合が見いだされる、ということになりそうです。さて「時に於てあるもの」を考える場合でも「具体的一般者」から出立しなければならない、と述べられます。確かにそうでしたね。そうして「具体的一般者の根柢が抽象的一般概念によって限定することができないと考えられるかぎり、時に於てあるものが考えられる」と述べられます。「赤にして赤でない」といった矛盾を包む一般概念はないので、「時」をもってきて、赤から赤ならざるものへと「変ずる」と「考える」、ということです。この「変ずるもの」が「時に於てあるもの」と「考えられたもの」です。ここまでは今後の一般的な方針を述べたにすぎないようです。そこでここから改めて「具体的一般者の最も完全なる形は推論式的一般者であるということができる」と筆を起します。そうして「推論式に於ては小語面と大語面とが対立し、媒語面が具体的一般者自身の限定面として両者を結合する」と基本的な事柄が確認されたのち、大語面的限定の側面の考察に移ります。その場合、小語面は「非合理的なるもの」「直覚的なるもの」となり、それが媒語面に於て「時に於てあるもの」と考えられるのだ、とされます。話の途中ですが、時間になったので、続きは次回ということにして、今日はここまでとします。
(第123回)
 
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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