西田幾多郎と山口

 西田幾多郎が山口にいたのは明治30年9月から明治32年の6月までの2年に満たない僅かの期間に過ぎない。しかし、この山口時代は彼の生涯にとって重要な転機の意味をもっていたと言えると思う。当時の西田は公私共に不遇の時期にあった。それまで勤めていた金沢の第四高等学校は内紛問題に関わって追われ、そしてまた家庭においても父の得登やすのりとの折り合いが悪く妻の寿美ことみとは離縁状態にあった。そういう彼を山口へと誘ったのは当時山口高等学校の校長の職にあった北條時敬ときゆきであった。北條は西田にとって四高時代からの恩師であり、彼が終生、師と呼んだ唯一の人であった。西田はこの北條の招きに応じて単身山口へと移り住み、そこで彼の境涯を大いに省みる機会を与えられた。ただし、赴任当初の山口は、まだ若くもあり、また不遇であった彼にとって余り好印象を与えたとは言えない。最初の寄留先からの手紙には彼は次のように書いている。

・・・
山口と申す所は誠に小さき処にて丁度國の大聖寺程に候
山の中にて随分つまらぬ所に御座候
(『西田幾多郎全集』岩波書店 昭和41年;第18巻45頁)

 しかし、また西田は後に昭和12年に同じ山口高等学校に赴任した滝沢克己には次のように書き送っている。

letter承りますれば山口に定まりました由
周囲に刺激のないのは
遺憾に思いますが
又静に読書静思大いに自ら養うには
適するならんと存じます
山口は四十年来旧知の地
今いかなり居るか懐旧の念に堪えず。
(同上;第18巻590頁)

 この滝沢宛の手紙に書かれている「懐旧の念に堪えず」という言葉には、何年も隔てて西田の心底に沈んでいた山口に対する彼の心情の吐露があり、ある意味で西田自身のその時代の意味づけであると言える。つまり、一人山口の地にあって「静に読書静思大いに自らを養」ったのは彼自身であったと考えられる。当時の彼の日記にはその辺りの彼の心境を伝えて余りあるものがある。彼の日記は、ちょうど彼が金沢を去り山口へ行く時期(明治30年)から始められており、そこには当時の西田を知る多くの手掛かり、すなわち彼を取り巻く外的事情や彼自身の内的葛藤の記録がある。ここでは字数の制限もあり、そのすべてを伝える訳にはいかないが、特に彼の終生の師であった【1】北條時敬についてと、日記に頻繁に出てくる【2】参禅の記録について触れたい。

【1】北條時敬

 北條時敬は西田が四高の学生時代より世話になった恩師であり、彼の生涯にとって決定的意味をもった人である。先述したように、そもそも山口への赴任も彼の当時の苦境を知っていた北條の誘いによるものであり、またさらに山口から金沢の四高への転任も彼の推挙によるものであって、外的記録に残るもの以上に両者の関わりは公私共に深いものであったと考えられる。

 さて、山口時代の西田の日記に確認できる北條の名前は都合13回である。そのほとんどが「北條ヲ訪フ」あるいは「北條ヨリ帰ル」というような単純な記録に過ぎないが、明治30年10月4日にはドイツ語で「今宵北條先生を訪ね、宗教について語る」という趣旨の記述がある(同上;第17巻18頁)。ここにある「宗教について語る」ということの意味は、山口時代の日記に特に明治31年以降頻繁に見られる「打坐」の記録と考え合わせても重要である。というのは、そもそも西田が禅への関心を深めていった機縁の一つに北條の感化があったと考えられるからである。西田自身が『北條先生に始めて教を受けた頃』という文章で、北條が禅について「脇腹に刃を差し込む勇気あったらやれといふ様なことを云われた」と書き残している(同上;第12巻260頁)。

 北條は特に若い頃の西田にとって人生の教導師として極めて重い存在であったと考えられる。例えば、明治31年1月11日付けの日記には「・・・午後北條ヲ訪フ。余始業式マデニ来タラザルヲ以テ大イニ先生ノ叱ス〔ル〕所トナル。・・・」(同上;第17巻25頁)という記録がある。この時、西田は冬季休業中も郷里の金沢までは帰らず、学校が始まる直前まで京都の妙心寺で参禅をしていた。おそらく北條は当時西田が抱えていた苦衷を見透かした上でもなお、このように厳しく彼に対していたと考えられる。このような北條の姿は西田にとって学生時代以来一貫したものであった。ただ、西田は北條について後年「先生は測り知られない様な深い大きなものがあり、非常に厳格な様で、その奥に何処かまた非常に暖かいもののある人であった。」(同上;第12巻257頁)と述べている。

【2】参禅記録

 さて次に山口時代の日記に頻繁に出てくる「打坐」について述べたい。この時期に特に西田が坐禅に打ち込んでいった背景には当時の彼自身の不遇があったと考えられる。彼の当時の姿を見た同僚のイギリス人から「アー・ユー・ハッピィ」と聞かれ、その後それが西田の綽名となったというエピソードもある(『祖父西田幾多郎』上田久 南窓社 昭和56年 102頁)。ただ、不遇は一つの切っ掛けに過ぎず、参禅を通じてそれは人生そのものに対する疑義となり、さらにはいわゆる「大疑」にまで徹底されていったと言える。西田は山口へ来る前の明治30年の7月、8月にも妙心寺の接心へ参加しており、北條から山口への誘いを受けたのもその接心の最中であった。その「打坐」の記録が日記に現れるのは明治31年の1月からであり、この年の妙心寺の接心に参加して、西田は先に述べたように始業式に間に合わず、北條に厳しく叱責されたのである。そして、これ以降の日記には連日のように「打坐」の記録が見える。また、この年の日記の巻末には「・・・光陰一過再来せず、須く念々刻々大憤志を起し妄念を去り大道に徹せんことを務むべし・・・人ハ時々刻々白刃頭上ニカヽル心持ニテ居ルベシ」(同上『西田幾多郎全集』;第17巻32頁)と記され、参禅に対する当時の西田の勇猛心を垣間見ることができる。

 続く明治32年には、父の得登の死によって妻の寿美との復縁がかなうことになり、一つの心の障りが除かれたことになるが、西田の参禅への没入はむしろより厳しいものとなっているように思われる。その点は「打坐」に付随する記述が益々詳しくなっていることから推察される。復縁が成立する二日前の記録には「放下諸縁、純一無雑」(同上;34頁)とあり、それに続く日記のなかでも「坐中」に「憤懣」や「雑念」に妨げられつつも「生死ヲ脱スル大事」を成し遂げんとする西田の決意が記されている(同上;34頁から36頁)。また、これ以降の日記にも「精神萎縮、斬愧ニ堪ヘズ」(同上;36頁)等、心身の疲れを押して「打坐」に邁進しようとする西田の姿が窺える。そこでは「慢心」や「悪念」が浮き彫りになるのみならず(同上;37頁)、「学問ヲセネバナラヌト云フ念ニ妨ゲラル」(同上;36頁)ともあり、またさらには訪問癖や「食欲」に対する戒めもある。例えば「土、日ノ外ハ人ヲ訪ハズ 三食ノ外物ヲ食ハズ」(同上;38頁)とある。この日記にはまさに西田の「坐ること」を中心に据えた生に対する真摯な対峙を見てとることができる。このような精進努力は必ず結実せざるをえず、また山口を離れた後も西田のこの真摯な姿勢はいささかも揺るいではいない。

 さて、先述したように明治31年10月9日に父の得登が亡くなり、翌32年2月には妻の寿美との復縁もなって、西田は明治32年の7月に山口を離れる。その後、四高におおよそ10年在任し、学習院勤務を経て京都大学へ赴任する。それ以降の西田の活躍はここで述べるまでもない。