論文
※著者肩書きは発表時のものです

カント『純粋理性批判』における理性の認識の限界

松本紗知山口県立大学 社会福祉学部 4年

 カント『純粋理性批判』は、人間の理性がどの範囲でどのように認識できるかを問う哲学書であり、対立していた経験論と合理論を批判的に統合し、自然科学の客観性を基礎づけることを目的とする。カントは認識の働きを「感性・悟性・理性」に区別し、まず感性は外界からの刺激を受け取り、それを空間と時間という先天的な形式のもとで直観として与えるとした。次に悟性は、その直観に対してカテゴリーと呼ばれる思考の枠組みを適用し、因果関係や実体といった形で対象を統一的に把握する働きを担う。この感性と悟性の協働によって成立するのが「現象」としての世界であり、私たちが経験しうるのはあくまでこの現象に限られる。一方で、対象がそれ自体としてどのように存在するかという「物自体」は、人間の認識能力の枠を超えているため、理論的には認識不可能であるとされる。さらに理性は、与えられた経験を超えて、無条件的で究極的な根拠を求める性質をもつため、神の存在や魂の不死、世界の始まりといった形而上学的問題に向かう。本論文は、このような究極真理について考えてしまう人間の本性について詳しく述べている。
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武士道とスポーツ道徳

田中大翔山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

 なぜ私たち日本人は、スポーツ選手を「武士」と喩えるような価値観を有しているのだろうか。スポーツ道徳に「武士道」という考えが持ち込まれたのは、明治30年代の旧制第一高等学校野球部の「武士的野球」論の登場まで遡る。彼らは、当時高まっていた野球否定の状況下から、野球を守るために「武士道」の仮面を被ることでその存続を図った。しかし、そうした近代武士道は戦時期には死をも厭わない国家への奉仕を目的として主張され、戦後も「根性」という言葉として、武士道精神がスポーツ道徳として定着した。その一方で、こうした考えはスポーツ本来の「愉しさ」を喪失させる弊害も生み出した。それでは、現代の私たちが武士道をスポーツ道徳として価値づけることは、本当によいことなのだろうか。武士道とスポーツ道徳の関係性を、歴史を基に、その現代的意義を考察する。そして、その思想的背景である日本人の「武国意識」を探ることで、これからの私たちのスポーツ道徳への向き合い方を示したい。
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アーレントにおける「悪の凡庸さ」について
―『全体主義の起源』をもとに考える―

森山竜純山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

 2016年7月に「やまゆり事件」の植松を全否定できなかった自分と出会い、そこから数年後、ユダヤ人問題の最終的解決において数百万の死に関与したアイヒマンを全否定できない自分と出会う。これらの多くの死に関与している人間に自分が全否定できないという不思議さの正体に迫っていく。ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』と『エルサレムのアイヒマン』をテキストとし、ホロコーストを黙認した大衆の心理とアイヒマンの服従の心理を考察していく中で、アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは何なのか、考察していく。果たして、私たちは「凡庸な悪」に反抗できるのか、全体主義は克服できるのか。
 アーレントはアイヒマンについて「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと—これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」と述べたが、「悪の凡庸さ」と「まったく思考していないこと」にはどのような関係があるのだろうか。
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私とは何か ―池田晶子から考える―

伊田名央人山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

「私とは何か」という問いに対して池田晶子の思考過程を追う形で考察をしました。「私」とは脳或いは意識でしょうか?池田は論考を通して「私」を「魂」という語で捉えていきます。我々は「魂」と聞くと、自然と霊魂を想像したり、“在るか無いか”が気になると思います。しかし、池田は霊魂と想像することは不要だとし、また〈在るか無いかではない。“それ”だ〉と答えるなど、池田の言う「魂」とは世間一般の捉え方とは全く異なっていました。
 本論文には「魂の視点」というものが出てきます。池田はこの視点に立つと多くのことが理解できるとしました。例えば、「なぜあの人の性格がそうであるのか」が理解可能ですし、「私とは何か」や「人間とは何か」という問いも理解可能です。また、その視点は我々を柔軟的且つ自由にさせるとも述べています。
「魂の視点」とは一体何か、その視点に我々は立つことが可能なのか、これらについて思考を重ねたものが本論文となっています。
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ハイデガーに於ける真理の本質
―正しさを可能にする根拠と形而上学の克服―

花本直美山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

真理とは一体何だろうか。真理は、たとえば神のような絶対的なものとの一致なのだろうか。そのように考えることは思考を止めてしまわないか。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)は「真理」について、単なる事実の表面的な一致ではなく「存在」との深い関わりがあると考えている。「絶対的なもの」ではなく、それが「存在する」という事実を追求するハイデガーの真理論に興味を持ち、彼の思索を明らかにしたいと考えた。主要文献は『真理の本質について』という講演である。ハイデガーは真理の本質を、それぞれの「真理」を一般に真理として特徴づける唯一のものに注目して考察する。そしてその思索は存在論へと移ってゆくのだが、彼は「形而上学」に対し、「存在」へのアプローチの問題点を指摘し、別の哲学的アプローチを示すことで「存在」の把握を目指す。本論文は「形而上学の克服」を考察し、存在や真理に対する深い理解が得ることが目的である。ハイデガーがこの講演で何を示しているのかを考察し、正しさを可能にする根拠と、「形而上学」ではない「存在」への向き合い方を示したい。
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