アーレントにおける「悪の凡庸さ」について
―『全体主義の起源』をもとに考える―
森山竜純山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年
2016年7月に「やまゆり事件」の植松を全否定できなかった自分と出会い、そこから数年後、ユダヤ人問題の最終的解決において数百万の死に関与したアイヒマンを全否定できない自分と出会う。これらの多くの死に関与している人間に自分が全否定できないという不思議さの正体に迫っていく。ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』と『エルサレムのアイヒマン』をテキストとし、ホロコーストを黙認した大衆の心理とアイヒマンの服従の心理を考察していく中で、アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは何なのか、考察していく。果たして、私たちは「凡庸な悪」に反抗できるのか、全体主義は克服できるのか。
アーレントはアイヒマンについて「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと—これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」と述べたが、「悪の凡庸さ」と「まったく思考していないこと」にはどのような関係があるのだろうか。
アーレントはアイヒマンについて「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと—これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」と述べたが、「悪の凡庸さ」と「まったく思考していないこと」にはどのような関係があるのだろうか。