饗宴
花本直美山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年
真理とは一体何だろうか。真理は、たとえば神のような絶対的なものとの一致なのだろうか。そのように考えることは思考を止めてしまわないか。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)は「真理」について、単なる事実の表面的な一致ではなく「存在」との深い関わりがあると考えている。「絶対的なもの」ではなく、それが「存在する」という事実を追求するハイデガーの真理論に興味を持ち、彼の思索を明らかにしたいと考えた。主要文献は『真理の本質について』という講演である。ハイデガーは真理の本質を、それぞれの「真理」を一般に真理として特徴づける唯一のものに注目して考察する。そしてその思索は存在論へと移ってゆくのだが、彼は「形而上学」に対し、「存在」へのアプローチの問題点を指摘し、別の哲学的アプローチを示すことで「存在」の把握を目指す。本論文は「形而上学の克服」を考察し、存在や真理に対する深い理解が得ることが目的である。ハイデガーがこの講演で何を示しているのかを考察し、正しさを可能にする根拠と、「形而上学」ではない「存在」への向き合い方を示したい。
福田理奈山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年
私たちの生きる社会は、人間の理解によって作られる虚構である。なぜなら、その下には本来の世界の姿として、一切が不確実であり人為の及ばぬ世界——魔境が広がっているからだ。この二重の世界で虚構に埋没することなく、そして何ものも確実ではない魔境からも目を背けることなく、嘘をつかないという誠実な生き方を目指すにはどうすればよいだろうか。
本稿は「この世界は何ものも確実ではない」を出発点として考察された「不条理の哲学」を主題とするアルベール・カミュの著作『シーシュポスの神話』『異邦人』を参考にしながら、筆者自身にとっての誠実な生き方を問い、考えていく道程を記したものである。私たちの日常における意義や価値および神や人間を超越するようなものに頼ることなく、私の人生を私自身のものとして生きるための哲学的姿勢を実践するべく、カミュの問いかけと共に論考を進めていく。
西村壮太山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年
「分別を超える」とは一体どういう事か。それはある意味で理性のある人間にとっては人間を超える、とも言えるものだろう。人間は理性によって他の生物と比較できないほどの進化を遂げたが、それ故に避けることのできない苦悩に対しての自覚を背負ってしまった。言葉もそうだ。理性の所産である言葉や言語は非常に便利なものであるが、人間はそれに依存し、離れることもできず何かを分かった気になってしまう。生老病死といった人間不可避の苦悩から目を背けることを可能にしてしまう反面それでは駄目だ、物足りないという欲求も人間は同時に感じている。それらは全て人間の分別性によって生まれる問題である。「分別を超える」ことでそれらの問題は解消されるのか。さらに言えば「分別を超える」で人間不可避の苦悩は解消されるのか。それ以前に「分別を超える」ということは可能なのか。本発表はそれらの問題に対しての私自身の解答を示したものである。
鹿安冉山口大学 大学院 東アジア研究科 博士課程 終了生
林京子は一九三〇年長崎県長崎市出身、翌年上海に移住し、一九四五年帰国し被爆した。林京子文学といえば、被爆体験そのものだけではなく、原爆が三十年後の被爆者に及ぼす影響もテーマに据えている。またそれ以降、上海での少女時代や家庭における問題などを題材とした作品が展開していく。本論では、林京子の初期作品を中心に、作家の創作意図と創作方法に注目し、それらの特質と相互関係を明らかにする。
唐露山口大学 大学院 東アジア研究科
私たちは日ごろ読書をしています。しかし「読むとはどういうことか」を考えることはめったにありません。今日は『読者はどこにいるのか』(石原千秋著)を手がかりにして、テクスト論(読者論)の立場から、皆さんとご一緒に「読むとはどういうことか」、「小説を読むということと哲学書を読むということはどう違うのか」といった問いを考えていきたいと思います。それが「人間」について思索するヒントになれば幸いに存じます。