※著者肩書きは発表時のものです

アーレントにおける「悪の凡庸さ」について
―『全体主義の起源』をもとに考える―

森山竜純山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

 2016年7月に「やまゆり事件」の植松を全否定できなかった自分と出会い、そこから数年後、ユダヤ人問題の最終的解決において数百万の死に関与したアイヒマンを全否定できない自分と出会う。これらの多くの死に関与している人間に自分が全否定できないという不思議さの正体に迫っていく。ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』と『エルサレムのアイヒマン』をテキストとし、ホロコーストを黙認した大衆の心理とアイヒマンの服従の心理を考察していく中で、アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは何なのか、考察していく。果たして、私たちは「凡庸な悪」に反抗できるのか、全体主義は克服できるのか。
 アーレントはアイヒマンについて「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと—これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」と述べたが、「悪の凡庸さ」と「まったく思考していないこと」にはどのような関係があるのだろうか。
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私とは何か ―池田晶子から考える―

伊田名央人山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

「私とは何か」という問いに対して池田晶子の思考過程を追う形で考察をしました。「私」とは脳或いは意識でしょうか?池田は論考を通して「私」を「魂」という語で捉えていきます。我々は「魂」と聞くと、自然と霊魂を想像したり、“在るか無いか”が気になると思います。しかし、池田は霊魂と想像することは不要だとし、また〈在るか無いかではない。“それ”だ〉と答えるなど、池田の言う「魂」とは世間一般の捉え方とは全く異なっていました。
 本論文には「魂の視点」というものが出てきます。池田はこの視点に立つと多くのことが理解できるとしました。例えば、「なぜあの人の性格がそうであるのか」が理解可能ですし、「私とは何か」や「人間とは何か」という問いも理解可能です。また、その視点は我々を柔軟的且つ自由にさせるとも述べています。
「魂の視点」とは一体何か、その視点に我々は立つことが可能なのか、これらについて思考を重ねたものが本論文となっています。
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ハイデガーに於ける真理の本質
―正しさを可能にする根拠と形而上学の克服―

花本直美山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

真理とは一体何だろうか。真理は、たとえば神のような絶対的なものとの一致なのだろうか。そのように考えることは思考を止めてしまわないか。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)は「真理」について、単なる事実の表面的な一致ではなく「存在」との深い関わりがあると考えている。「絶対的なもの」ではなく、それが「存在する」という事実を追求するハイデガーの真理論に興味を持ち、彼の思索を明らかにしたいと考えた。主要文献は『真理の本質について』という講演である。ハイデガーは真理の本質を、それぞれの「真理」を一般に真理として特徴づける唯一のものに注目して考察する。そしてその思索は存在論へと移ってゆくのだが、彼は「形而上学」に対し、「存在」へのアプローチの問題点を指摘し、別の哲学的アプローチを示すことで「存在」の把握を目指す。本論文は「形而上学の克服」を考察し、存在や真理に対する深い理解が得ることが目的である。ハイデガーがこの講演で何を示しているのかを考察し、正しさを可能にする根拠と、「形而上学」ではない「存在」への向き合い方を示したい。
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魔境踏査の術を知る
―カミュの「不条理」に学ぶ―

福田理奈山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

 私たちの生きる社会は、人間の理解によって作られる虚構である。なぜなら、その下には本来の世界の姿として、一切が不確実であり人為の及ばぬ世界——魔境が広がっているからだ。この二重の世界で虚構に埋没することなく、そして何ものも確実ではない魔境からも目を背けることなく、嘘をつかないという誠実な生き方を目指すにはどうすればよいだろうか。
 本稿は「この世界は何ものも確実ではない」を出発点として考察された「不条理の哲学」を主題とするアルベール・カミュの著作『シーシュポスの神話』『異邦人』を参考にしながら、筆者自身にとっての誠実な生き方を問い、考えていく道程を記したものである。私たちの日常における意義や価値および神や人間を超越するようなものに頼ることなく、私の人生を私自身のものとして生きるための哲学的姿勢を実践するべく、カミュの問いかけと共に論考を進めていく。
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分別を超えた生き方は可能か
―鈴木大拙の霊性的世界と四種法界に学ぶ―

西村壮太山口大学 教育学部 社会科教育選修 4年

「分別を超える」とは一体どういう事か。それはある意味で理性のある人間にとっては人間を超える、とも言えるものだろう。人間は理性によって他の生物と比較できないほどの進化を遂げたが、それ故に避けることのできない苦悩に対しての自覚を背負ってしまった。言葉もそうだ。理性の所産である言葉や言語は非常に便利なものであるが、人間はそれに依存し、離れることもできず何かを分かった気になってしまう。生老病死といった人間不可避の苦悩から目を背けることを可能にしてしまう反面それでは駄目だ、物足りないという欲求も人間は同時に感じている。それらは全て人間の分別性によって生まれる問題である。「分別を超える」ことでそれらの問題は解消されるのか。さらに言えば「分別を超える」で人間不可避の苦悩は解消されるのか。それ以前に「分別を超える」ということは可能なのか。本発表はそれらの問題に対しての私自身の解答を示したものである。
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