※著者肩書きは発表時のものです

ハイデガーにおける「歴史性」の問題の再検討

廣田智子山口県立大学

ハイデガーは主著『存在と時間』(1927年)から一貫して、「自らに固有なもの」や「歴史性」を重視している。本発表では、1936年から38年の『哲学への寄与論稿』を対象として、ハイデガーの「存在の歴史」の構想における「別の原初への移行」について考察することで、ハイデガーにおける「歴史性」の問題を再検討する。 歴史的に規定された人間存在が共に生きるあり方をめぐっては、一般に、次の二つの立場が考えられる。一つは歴史性を重視する立場であり、もう一つは、それを超越しようとする立場である。前者は、所与の歴史的共同体の外部の声を排除して、自己を絶対化してしまう危険を有すると見られがちである。この問題を検討するために、発表では、まず、「別の原初への移行」の基本構造を確認し、次に、その背景にあるハイデガーの「存在の歴史」構想について考察する。これらの作業を通して、ハイデガー哲学における「歴史的なもの」の重視の積極的意義を明らかにすることを試みる。
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教育における「わかる」についての一考察

大藤渉山口大学教育学部小学校総合選修4年

本研究は、教育における「わかる」ことを中心とする授業とその構成を成り立たせる諸概念を批判的に考察することによって、所与の枠組みを保持したまま「わかる」あるいは「わからない」と二分法的に捉えることの問題を明らかにする(第1章)。こうした問題意識をもとに、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『差異と反復』を手がかりに、経験を超えた次元における「わからなさ」と経験的な次元で「わかる」、「わからない」と判断することを対比して考察する。そこで、〈私〉を確固たる前提として対象を「わかる」、「わからない」と判断する見方ではなく、所与の枠組みには判断することも還元することも不可能であり、判断する位相自体を壊すような新しいもの、つまり「わからなさ」との関係を結ぶことでひび割れる《私》という見方を示したい(第2章)。最後に、教育において「わからなさ」を射程に入れることの意義を明らかにするために「問題」概念について考察する。あらゆる局面につねに妥当するものごとを解答とみなすことが、「わからなさ」の捨象につながることを明らかにした後、「潜在的なもの(問題)」と「現働的なもの(解)」の関係を論じる(第3章)。
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「疑い得ないもの」とは何か―西田幾多郎とデカルト―

吹中駿介山口大学教育学部社会科教育選修4年

私は大学に入学するまで、この世界に存在するものを何一つとして疑わずに過ごしてきた。私が何気なく過ごしているこの世界、そしてこの世界内に存在するものはすべて疑いもなく存在するのだと信じていた。だがしかし、大学に入学し「哲学」に触れていくうちに私にある変化が訪れた。それは、改めてこの「世界」とは疑いもなくあるのか、目の前にあるペンや机は疑いもなくあると言えるのだろうか。今までは「疑う」ことをしていなかっただけであり、深く反省してみればこの「世界」というものや世界にある「もの」は疑わしいものばかりだったのだ。 それでは私たちにとって「疑い得ないもの」とはいったい何なのか。この問いを考えるため様々な文献を読み進めていくうちに私は二人の哲学者に出会うことができた。それは、デカルトと西田幾多郎だった。両者はそれぞれ「疑い得ないもの」とは何かを見出したのだが、私が着目したのはデカルトと西田幾多郎がそれぞれ見出した「疑い得ないもの」とは全く異なる事態なのか、それとも同一の事態なのかである。この点を上田閑照と斎藤慶典の解釈をもとに明らかにしていく。 また、本研究においては両者の「疑い得ないもの」の異同について明らかにしていくのだが、その「疑い得ないもの」が本当にあるのかについての検討は次回の課題とする。
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『レ・ミゼラブル』における好奇心の役割

山田紗矢佳山口大学人文学部4年

ヴィクトル・ユゴーによって書かれた長編小説『レ・ミゼラブル』では、物語が何度も劇的な展開を迎える。そしてその展開のきっかけには好奇心が関わっており、多くの場合登場人物たちの人生を悪い方向へと向かわせてしまう。そのような重要な役割を好奇心に与えた理由は、作者は他人のためにではなく自分のために抱く好奇心は悪いものであると読者に伝えたかったからである。作者にとって人を不幸にする好奇心を抱く人物は教育を欠き、道徳的に発展していない。つまり好奇心を抱く人物は精神的進歩をしていない人物である。作者は主人公のジャンヴァルジャンが物語のなかで精神的進歩を成し遂げる様子を描くことで、読者の精神を啓蒙しようとしていた。そのような目的があったため『レ・ミゼラブル』において好奇心は重要なモチーフとなっているのである。
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心臓(ハート)で読み直す漱石

桑原理恵西南学院大学(文学)

テクスト論時代の代表的論文、小森陽一「『こころ』を生成するハート心臓」(1985)は「先生」の死後に学生の「私」と「奥さん」が結ばれるとの解釈のみ注目され、この論が示した「心臓」「血」をめぐる新たな読解の可能性は置き去られた感がある。本論はエゴ頭主体の生き様をハート心臓から揺さぶられ、変わらざるを得ない漱石テクストの受難の物語類型を「ハート心臓」を手掛かりに読み直す試みである。『それから』は代助が毎朝心臓をチェックする癖から始まり、『こころ』原題は『心』=ハート心臓、「頭脳に訴える代わりに、私のハート心臓を動かし始めた」(上十九)と漱石自身がルビを振る。巻き込まれるのは内臓、特にハート心臓が発した感情・感覚のボルテックス渦である。ジェームズ「感情の末梢起源説」やデカルト『情念論』に加え、漱石の優れた身体感覚の地平を明らかにし、漱石が傾倒したプレラファエライト・ブラザーフッドラファエル前派との関連性などのキリスト教文脈でエゾ秘テリック教的な深層に切り込むことにより、東洋と西洋、身体性と感情が繋がる宇宙的視野へと開きたい。
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