※著者肩書きは発表時のものです

「疑い得ないもの」とは何か―西田幾多郎とデカルト―

吹中駿介山口大学教育学部社会科教育選修4年

私は大学に入学するまで、この世界に存在するものを何一つとして疑わずに過ごしてきた。私が何気なく過ごしているこの世界、そしてこの世界内に存在するものはすべて疑いもなく存在するのだと信じていた。だがしかし、大学に入学し「哲学」に触れていくうちに私にある変化が訪れた。それは、改めてこの「世界」とは疑いもなくあるのか、目の前にあるペンや机は疑いもなくあると言えるのだろうか。今までは「疑う」ことをしていなかっただけであり、深く反省してみればこの「世界」というものや世界にある「もの」は疑わしいものばかりだったのだ。 それでは私たちにとって「疑い得ないもの」とはいったい何なのか。この問いを考えるため様々な文献を読み進めていくうちに私は二人の哲学者に出会うことができた。それは、デカルトと西田幾多郎だった。両者はそれぞれ「疑い得ないもの」とは何かを見出したのだが、私が着目したのはデカルトと西田幾多郎がそれぞれ見出した「疑い得ないもの」とは全く異なる事態なのか、それとも同一の事態なのかである。この点を上田閑照と斎藤慶典の解釈をもとに明らかにしていく。 また、本研究においては両者の「疑い得ないもの」の異同について明らかにしていくのだが、その「疑い得ないもの」が本当にあるのかについての検討は次回の課題とする。
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