※著者肩書きは発表時のものです

『レ・ミゼラブル』における好奇心の役割

山田紗矢佳山口大学人文学部4年

ヴィクトル・ユゴーによって書かれた長編小説『レ・ミゼラブル』では、物語が何度も劇的な展開を迎える。そしてその展開のきっかけには好奇心が関わっており、多くの場合登場人物たちの人生を悪い方向へと向かわせてしまう。そのような重要な役割を好奇心に与えた理由は、作者は他人のためにではなく自分のために抱く好奇心は悪いものであると読者に伝えたかったからである。作者にとって人を不幸にする好奇心を抱く人物は教育を欠き、道徳的に発展していない。つまり好奇心を抱く人物は精神的進歩をしていない人物である。作者は主人公のジャンヴァルジャンが物語のなかで精神的進歩を成し遂げる様子を描くことで、読者の精神を啓蒙しようとしていた。そのような目的があったため『レ・ミゼラブル』において好奇心は重要なモチーフとなっているのである。
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心臓(ハート)で読み直す漱石

桑原理恵西南学院大学(文学)

テクスト論時代の代表的論文、小森陽一「『こころ』を生成するハート心臓」(1985)は「先生」の死後に学生の「私」と「奥さん」が結ばれるとの解釈のみ注目され、この論が示した「心臓」「血」をめぐる新たな読解の可能性は置き去られた感がある。本論はエゴ頭主体の生き様をハート心臓から揺さぶられ、変わらざるを得ない漱石テクストの受難の物語類型を「ハート心臓」を手掛かりに読み直す試みである。『それから』は代助が毎朝心臓をチェックする癖から始まり、『こころ』原題は『心』=ハート心臓、「頭脳に訴える代わりに、私のハート心臓を動かし始めた」(上十九)と漱石自身がルビを振る。巻き込まれるのは内臓、特にハート心臓が発した感情・感覚のボルテックス渦である。ジェームズ「感情の末梢起源説」やデカルト『情念論』に加え、漱石の優れた身体感覚の地平を明らかにし、漱石が傾倒したプレラファエライト・ブラザーフッドラファエル前派との関連性などのキリスト教文脈でエゾ秘テリック教的な深層に切り込むことにより、東洋と西洋、身体性と感情が繋がる宇宙的視野へと開きたい。
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2021年 修士論文

福沢諭吉の文明論における「人民の気風」の形成過程
―「智徳の進歩」と「情」の連関を手掛かりに―

井町 菜月山口大学大学院 人文科学研究科(修士課程) 人文科学専攻 思想研究コース 2年

本稿は、福沢諭吉の『文明論之概略』を主な考察対象としながら、「人民の気風」の形成過程を論じる。「人民の気風」は福沢の文明論の基層にあり、重要なはたらきをする。しかし、福沢は「人民の気風」に明確的な定義を与えず、多義的に用いているため、その理解は容易ではない。本稿では、明治十年代以降の福沢の著作において強調される「情」への視座を、『概略』にさかのぼって考察し、「人民の気風」の理解を試みる。

第一章では、「人民の気風」を論じる上で「情」に注目することに一定の意義があることを示す。先行研究において、「情」は基本的に明治十年代以降の著作に基づいて、注目される。『概略』の「情」に言及した研究も、「情」の道徳的側面である「情愛」への注目が中心となっている。しかし、『概略』には「情愛」とは別の「情」のはたらきを見出すことができる。本稿では、「智徳」に集約できない、この「情」を「感情」と名づけた。

第二章では、「人民の気風」における「智徳」のはたらきを示す。「人民の気風」は、「一国の人民に有する智徳の現象」と規定されることからも、気風を論じる上で「智徳」の考察は書かせない。福沢は、「智徳」の中でも特に、「聡明叡智の働」と呼ばれる智恵を重視する。なぜなら、「聡明叡智の働」は、智恵=「理」の拡大を推し進めるだけでなく、「情愛」(徳義)の拡大も可能にするからである。また、「智徳」進歩は、学問によって可能となる。学問は智恵の進歩だけでなく、徳義の進歩も促すことが明らかとなった。

第三章では、「智徳」に集約されない「感情」の要素も「人民の気風」に関わっていることを示した。このことは、「智徳」の高い人々が唱えた説に、「何心なく雷同」した一般人がいることに目を向けることで、見出される。また、習慣によって「人民の気風」に「智徳」の有様が純粋に反映されない場合がある。日本では、「感情」に基づく習慣が生じ、「惑溺」の状況が生まれたことで、「権力の偏重」の気風が起こったことを明らかにした。しかし習慣の変容は困難で、その具体的手立てを『概略』に見出すことはできない。

本稿は以上のように、「情愛」や「感情」といった「情」の要素に注目しつつ、「人民の気風」の形成過程を論じる。これによって、明治十年代以降、福沢が強調する「情」の要素が、部分的にではあるが、『概略』においても見られることが明らかとなる。

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2021年 学士論文

認識の源泉は何か
―純粋経験、直覚、事実の関係からの考察―

横田 京祐山口大学 教育学部 学校教育教員養成課程 教科教育コース 社会科教育選修 4年

本稿では、西田幾多郎の『善の研究』を主な考察対象としながら、認識の源泉は何かを論じる。我々が一般的に言う世界は反省作用たる認識によって成り立っていると言うことができる。本稿ではこの世界を成り立たせている認識はどこからやってくるのか、その源泉を探っていく。西田は『善の研究』において、反省作用の一つである判断について「判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある」と述べている。このことから私は、認識の源泉は純粋経験の事実であるという仮説を立て、純粋経験、直覚、事実を西田の叙述を頼りに整理していくとともに、我々人間は反省作用を超越することはできるのかを考察しながら、純粋経験の事実は認識の源泉たり得るかを検証していく。

第一章では、純粋経験、直覚、事実というものは一体どのようなものであるかを、西田の叙述を頼りに私なりに整理をした。本章において、純粋経験、直覚、事実はどれも現在意識と同義であることを示した。

第二章では、純粋経験、直覚、事実という三者の関係を明らかにし、純粋経験の事実が如何なるものであるかを考察した。本章において純粋経験、直覚、事実はどれも同義であることを示すとともに、純粋経験の事実は純粋経験と同義であることを示した。

第三章では、反省作用と反省作用以前の関係についての矛盾について取り上げ、この矛盾を考察するために経験と言葉の関係について考察した。ここでは言葉を用いて「限る」ことで無限を感じるという上田閑照の考えを取り上げた。この上田の考えに私なりの具体例を提示することで上田の考えを補強しながらも、そもそもとして言葉で「限る」とき、すでにその対象となるものと出会っていることを指摘し、上田の考えでは反省作用と反省作用以前の関係についての矛盾を克服することができないことを示した。

第四章では、我々はどこまでいっても人間を超えることができず、反省作用を超えることができない無力な存在であるが、だからこそ絶対の他力に帰依する考えが起こり、このとき我々に転換がもたらされ、神人合一を成し、反省作用を超越することができるということを確認した。

本研究におけるすべての考察より、我々人間は人間であることをやめることはできず、反省作用を超越することはできないために、認識の源泉に純粋経験の事実を見ることはできないが、また我々はそれ故に、絶対の他力に帰依する考えが起こり、このとき我々に転換がもたらされて反省作用を超越し、認識の源泉に純粋経験の事実を見ることができるようになる。つまりは純粋経験の事実は認識の源泉たり得ないが、また同時に純粋経験の事実は認識の源泉たり得るのである。

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