※著者肩書きは発表時のものです

関連項目:西田幾多郎

「疑い得ないもの」とは何か―西田幾多郎とデカルト―

吹中駿介山口大学教育学部社会科教育選修4年

私は大学に入学するまで、この世界に存在するものを何一つとして疑わずに過ごしてきた。私が何気なく過ごしているこの世界、そしてこの世界内に存在するものはすべて疑いもなく存在するのだと信じていた。だがしかし、大学に入学し「哲学」に触れていくうちに私にある変化が訪れた。それは、改めてこの「世界」とは疑いもなくあるのか、目の前にあるペンや机は疑いもなくあると言えるのだろうか。今までは「疑う」ことをしていなかっただけであり、深く反省してみればこの「世界」というものや世界にある「もの」は疑わしいものばかりだったのだ。 それでは私たちにとって「疑い得ないもの」とはいったい何なのか。この問いを考えるため様々な文献を読み進めていくうちに私は二人の哲学者に出会うことができた。それは、デカルトと西田幾多郎だった。両者はそれぞれ「疑い得ないもの」とは何かを見出したのだが、私が着目したのはデカルトと西田幾多郎がそれぞれ見出した「疑い得ないもの」とは全く異なる事態なのか、それとも同一の事態なのかである。この点を上田閑照と斎藤慶典の解釈をもとに明らかにしていく。 また、本研究においては両者の「疑い得ないもの」の異同について明らかにしていくのだが、その「疑い得ないもの」が本当にあるのかについての検討は次回の課題とする。
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2021年 学士論文

認識の源泉は何か
―純粋経験、直覚、事実の関係からの考察―

横田 京祐山口大学 教育学部 学校教育教員養成課程 教科教育コース 社会科教育選修 4年

本稿では、西田幾多郎の『善の研究』を主な考察対象としながら、認識の源泉は何かを論じる。我々が一般的に言う世界は反省作用たる認識によって成り立っていると言うことができる。本稿ではこの世界を成り立たせている認識はどこからやってくるのか、その源泉を探っていく。西田は『善の研究』において、反省作用の一つである判断について「判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある」と述べている。このことから私は、認識の源泉は純粋経験の事実であるという仮説を立て、純粋経験、直覚、事実を西田の叙述を頼りに整理していくとともに、我々人間は反省作用を超越することはできるのかを考察しながら、純粋経験の事実は認識の源泉たり得るかを検証していく。

第一章では、純粋経験、直覚、事実というものは一体どのようなものであるかを、西田の叙述を頼りに私なりに整理をした。本章において、純粋経験、直覚、事実はどれも現在意識と同義であることを示した。

第二章では、純粋経験、直覚、事実という三者の関係を明らかにし、純粋経験の事実が如何なるものであるかを考察した。本章において純粋経験、直覚、事実はどれも同義であることを示すとともに、純粋経験の事実は純粋経験と同義であることを示した。

第三章では、反省作用と反省作用以前の関係についての矛盾について取り上げ、この矛盾を考察するために経験と言葉の関係について考察した。ここでは言葉を用いて「限る」ことで無限を感じるという上田閑照の考えを取り上げた。この上田の考えに私なりの具体例を提示することで上田の考えを補強しながらも、そもそもとして言葉で「限る」とき、すでにその対象となるものと出会っていることを指摘し、上田の考えでは反省作用と反省作用以前の関係についての矛盾を克服することができないことを示した。

第四章では、我々はどこまでいっても人間を超えることができず、反省作用を超えることができない無力な存在であるが、だからこそ絶対の他力に帰依する考えが起こり、このとき我々に転換がもたらされ、神人合一を成し、反省作用を超越することができるということを確認した。

本研究におけるすべての考察より、我々人間は人間であることをやめることはできず、反省作用を超越することはできないために、認識の源泉に純粋経験の事実を見ることはできないが、また我々はそれ故に、絶対の他力に帰依する考えが起こり、このとき我々に転換がもたらされて反省作用を超越し、認識の源泉に純粋経験の事実を見ることができるようになる。つまりは純粋経験の事実は認識の源泉たり得ないが、また同時に純粋経験の事実は認識の源泉たり得るのである。

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