いかにして一般は個になるか

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落287頁7行目から288頁5行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものものであろう」(287,15-288,3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「働くもの・変ずるものを判断するには、主語面において「個体」、述語面において「個体」について述語となる「最後の種」を考える必要がある。西田はその両面をも「述語として限定することのできない何物」即ち「一般概念」が「自己自身を限定する」ことと考えている。また、働くものを判断するには「述語面が主語面を包むものでなければならない」とされる。「一般概念」の述語面の自己限定が如何にその主語面の自己限定を包むか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

O

「働くもの・変ずるもの」を理解や判断のレベルで考えるのではなく、何かが生まれる時に興味があります。

K

テキストでは「変ずるものを意識するには」(287,7-8)とありますね。意識するためには、主語面(対象面)が述語面(意識面)に附着して、しかも両者が単に一つになるというのではなく、述語面が主語面を包むものでなければならない、そのように書かれています。つねに「意識」や「判断」から考えられています。

O

その「単に一つになってしまえば、働くものもなく、判断するものもない」というところ、否定的に読むのではなく、そこに直観が残る、というようには読めないですか?

M

そこはやはり「単に」という言葉があるから否定的に〈判断が成り立たない〉というように読むべきじゃないかと思います。この「単に一つ」というのは、意識を失ったような状態とか赤ちゃんのような状態ではないでしょうか?

R

だから「述語面が主語面を包むものでなければならない」と言われるのだと思います。両者が同じ範囲で重なる(同値)ではなく、述語面が主語面より広いということです。そうでなければ変ずるものを見たり、判断したりできない、そういうことだと思います。ただ主語面での自己限定と述語面が主語面を包むということがどう関わるかが分かりません。
佐野
その場合、主語面と述語面を分けて考えていますね。「変ずるもの」を考える場合には「述語として限定できない何物か」がなければならないと言われる場合、この「何物か」は主語面と述語面を分けて考えることのできないものだと思います。「変ずるもの」ですから、一方に「変ぜざるもの」があって、他方でそれが「変ずるもの」として変ずる、そうでないと「変ずるもの」を考えられない、ということです。しかも両面は分けて考えられないということです。

A

まだよく分からないのですが。
佐野
個(個物)ということもそうですが、変化・動ということに西洋哲学は苦しんできたと思います。人間は言葉で考えます。言葉はつねに一般です。「個」、例えば「これ」と言っても言葉にすると、どれも「これ」になってしまう。これに対して「そうじゃない、一般としての個ではなく、個としての個だ」と言い張っても、どれもそうした個です。それで例えば「質料」というようなものをもって来る。「質料」を「個体化の原理」として考える。三角形自体にこの三角形もあの三角形もない。しかしそれをペンで書くと、紙とインクという質料によってこの三角形やあの三角形になる。とても分かりやすいですが、じゃあなぜ「質料」によって一般が個になるのか、と言えばやはりよく分からない。こうして我々は一方に一般の領域を置き、他方に個の領域を置いて、それを形相と質料で説明した気になっていますが、結局はすべてを言葉によって一般的に説明しているにすぎない。

A

なるほど。
佐野
同じことは変化にも言えて、言葉によって変化を説明することは難しい。例えば「ある」と「ない」。言葉の意味からすれば「ある」は「ある」、「ない」は「ない」で、両者は対立します。しかし「ある」が「ない」に行くことが「消える」、「ない」が「ある」に行くことが「生ずる」で、両者合わせて「変化」です。我々はこの「ある」と「ない」の間に時間差を設けて変化を説明した気になっていますが、変化の瞬間を問題にすればそんなに簡単に説明はできないことになります。また「変ずるもの」を考える場合は、その根底に「変ぜざるもの」がなければ考えることができない。形相と質料は先程の場合は「一般」と「個(特殊)」を説明するものでしたが、それを「現実態」と「可能態」に重ねることで、現実態が変化や動の原因と考えられ、質料がそれがそこにおいてある「基体」と考えられ、こうして運動や変化が考えられることになる。こうしたこともすべて「変ぜざる」言葉による説明です。そこを西田は問題にしようとした、一般と特殊(個)、「変ぜざるもの」と「変ずるもの」を「矛盾」ということで考えようとしたのではないか、そう思われるのです。そのように矛盾した「述語として限定することのできない何物か」が一方で主語として「変ずるもの」として、〈この緑〉や〈この赤〉という「個物」になり、他方で述語として〈この木の葉の色〉という「最後の種」になる、そのように考えるべきだと思うのです。

T

その「変化せざるもの」ですが、一方では変化を考えるには「変化せざるもの」のような物差しがなければならない、ということと、他方では同一の基体が存続している、ということの両方の意味があると思います。そうして変化は言葉で捉えられないということでしたが、言葉もそんなにカチッとしているわけではなく、巾があるのではないでしょうか?例えば赤の中にも朱色もあるというように。

S

そのように一般を限定していって〈この緑〉だとか〈この赤〉に到達するでしょうか?〈この緑〉は今ここにしかない色で、同じものが二つとないもののことです。我々の言葉や意識はそうした個には到達できないと思います。ですが我々はそのように判断している、そこから出発しているのだと思います。
佐野
「最後の種」から「個」に至るには一種の超越が必要ということですね。

M

「最後の種」は個ではないのですか?
佐野
いえ。類を限定して種になりますが、それが最後の種になっても、種は種で、一般です。そこと個の間には断絶があります。

O

それならなおさら、個やそうした個の変化というものは意識や判断には捉えられないものになるのではないですか?
佐野
西田は変ずるものの意識や判断から出発していますが、それが可能となるためには何がなければならないかを問題にします。こうしてようやく「述語面の自己限定はいかにして可能か、述語面はいかにして主語面を包むか」Rさんの問いに到達することになります。これはいかにして一般は個になるか、という問いでもありますね。西田はどう考えているでしょうか(これは次回考えましょう)。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、最後の3行の考察がまだでしたね。Bさん、お願いします。

B

読む(288頁1行目~3行目)
佐野
ここは少しおかしな文章になっていますね。その前の文章では「主語的に云えば」と「述語的に云えば」と対になっていたのに、ここでは「述語面から云えば」はあっても「主語面から云えば」という句がない。「述語が主語を包むという考から云えば」という句はありますが、これは「主語面から云えば」とは言えない。そこでこの句は両面にかかるものと考えてみたらどうかと思うのです。つまり「述語が主語を包むという考から云えば、〔一方で主語面から云えば〕主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、〔他方で〕述語面から云えば、述語面が自己自身を限定することであり、即ち判断することである」というように読んでみては、と思うのです。そうすると、「述語が主語を包むという考から云えば」、包摂的判断で考える、ということですね。その場合、「主語が無限に述語に近づく」とは、主語面と述語面が区別されていて、それが近づいていくということではなくて、主語面と述語面が附着している一つの面を考えて、その上で主語、つまり〈この木の葉の色〉が〈この緑〉になったり、〈この赤〉になったり、無限に動くんです。もちろん、〈この木の葉の色〉の範囲内ですから、ピンクにはなりませんが。そのように〈個〉が無限に働いて〈この木の葉の色〉という「最後の種」に近づくことになります。「述語面から云えば」どうなるでしょうか。それは「述語面」の自己限定であり、それが「判断する」ことだ、ということになります。今日は先に進めませんでしたが、有意義な議論が行われたと思います。ここまでとしましょう。
(第74回)
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述語として限定することのできない何物か

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」「五」の第4段落286頁14行目「此の如き直ちに直観の場所」から同段落287頁7行目「その間に随意的意志が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に、その間に随意的意志が成立するのである。」(287, 6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「直観の述語面に於てあるもの」は「直観面」から見れば「状態としての意志」であり、「知識面」から見れば「作用としての意志」であるといわれる。そして、「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に」、すなわち、「状態としての意志」は「作用としての意志」を越えて無限に廣がる故に、その間に「随意的意志」が成立するといわれる。しかし、どこから見れば「随意的意志」が成立するといえるのだろうか。この「随意的意志」の成立をどのように考えればよいか」(215字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
質問は明確ですね。三種の意志について、「状態としての意志」は「真の無の場所」から、「作用としての意志」は「対立的無の場所」から見たものだとすれば、その中間の「随意的意志」はどこから見たものか、ということです。何かご意見はありますか?

M

「随意的意志」も「真の無の場所」から見たものではないでしょうか?「随意的意志」は「もっとお金が欲しい」といったような、前を向いて、「こうありたい」という在り方です。その中にいる間は「善い」と思っているが、後になって考えると何故そうしたのか、そのことに気付くからです。

W

後から、可能性に開かれていることに気付くというのは分かります。バッティングセンターでボールを打つ時、そのつどこれしかないと思って打とうとするんですが、空振りをする。そうするとその可能性に気づきます。そうして次にまた今度はこれしかない、と思うんです。

M

それはどこまでも悩んでいる状態ですね。それは「真の無の場所」から見た在り方とは違いますね。そうするとこの悩んでいる状態はその一歩手前ということになると思います。
佐野
西田はこの箇所では、「知覚面」「思惟面」「自覚的意識面(対立的無の場所)」と、「直観面(真の無の場所)」の4つに分けて考えていますが、「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間に、もう一つ「随意的意志」が成り立つ場所が必要だということになりますね。西田はこの論文の最後に「特に尚直観の問題には入ることができなかった」(289,4)と言っています。後の第5巻所収の「叡智的世界」では、この「知的直観の場所」が「真の無の場所」の前に置かれています。それが「知的直観の一般者」すなわち「叡智的一般者」です。西田は、それに於てある「叡智的自己」に知情意の三種を考え、「知的な叡智的自己」「芸術的直観」「叡智的意志」を挙げています。最後の「叡智的意志」は「良心」(自分自身を見るもの)の立場で、ここで知的直観の内容である「善のイデア」とそのつどの「随意的意志」が対立し、「悩める自己」が成立するとされています。ですから「場所」の論文では「随意的意志」が成り立つ場所というのは書かれていないけれども、後にそれは「直観」というものをさらに考えることによって「叡智的一般者」になって行く、そのように言えるかもしれません。

W

それは分かるんですけれども、その場合、「善のイデア」とか「至善」というものを前提していいのかなあ、と思います。

R

善を為せというのは良心の声です。これは事実です。猫が車に轢かれそうだとか、池に子どもが落ちそうだとか言う時に直ちに聞こえてきます。それを反省すると、いろいろ「自分」都合のものが出て来てしまいますが。

M

池に子どもが落ちる例は(もとは『孟子』にあるものですが)『善の研究』の最後の「知と愛」にも出て来ますね。

W

それも分かるんですけれど、そういう声も随意的意志ではないかと。逆に言えば行為(意志)の根拠を「善のイデア」に回収していいのかな、それを前提していいのかな、と思うのです。禅の五祖法演の「夜盗」の話にもありますが、そのつどの状況の中に投げ込まれ、これしかないとやって行く中で変わって行く、それしかないんじゃないかと。
佐野
実際には、我々はぐちゃぐちゃ考える以前に、というよりそれも含めて、すでに状況の中に投げ込まれていますし、生き方としてもそうした考え方はさっぱりしていて魅力的ですが、他面で我々は言葉で(ぐちゃぐちゃ)考える意識的存在であることを一歩も出ることはできないのではないでしょうか?言葉を用いる以上、その言葉の何であるかは漠然と理解されながらも、それが何であるかはどこまでも分からない。そこにイデア論が出て来ることになるのですが、これをどう考えるかが問題なのでしょう。またそのつどの状況の中での随意的意志しかない、ということになると、根無し草のように流されているだけだというような虚しさしかありませんね。しかし先程の「夜盗」の話でも、本人はそのつどの状況の中で「これしかない」と決断して苦境をおのれの才覚で切り抜けたわけですが、実は本人が気づかないところで、夜盗の奥義を伝授されていた、ということに気付くことがあり得るわけです。逆に言えばすべてを「随意的意志」に回収できる訳でもないとも言えそうです。プロトコルはこのくらいにして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(287頁7行目~15行目)
佐野
まず、「判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変ずるものは相反するものに移り行く」と一般的に述べられます。ここからは「働くもの(変ずるもの)」を見る、それについて判断するとはどういうことかが論じられます。そうしてまず「変ずるものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない」とされます。この「一般概念」とは、〈この木の葉の赤〉の場合、何になりますか?

A

〈この木の葉の色〉です。
佐野
そうですね。次を見ます。「かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とあります。これはどういうことですか?

A

両面に間隙がある場合です。
佐野
なるほど。たしかに〈この木の葉の色〉が「意識面」に於てあり、〈この緑〉ないし〈この赤(この緑ならざるもの)〉が「対象面」に於てあると考えるならば、両者の間には間隙がありますね。この間隙は物と性質の区別でもありますが、我々は普通こうした両面を区別します。しかも〈この緑〉と〈この赤〉とが「時間」によって隔てられていれば、変化は矛盾なく説明できるし、普通我々はそうしています。しかし西田はそれでは「働くものを意識することはできない」と言います。ではどういう場合に「働くもの」が意識されるのか。次を読んで見ます。「唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊的なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」。〈一般=特殊〉ですね。〈この緑〉(特殊)がそのまま〈この木の葉の色〉(一般)と隔てなく一つになっている在り方です。「矛盾」ですね。こうした矛盾において「働くもの」が見られ得ると。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次を見ます。「対象面が意識面に附着するということは対象が判断するものとなり、意識が変ずるものとなることである」とあります。普通は「対象」が変じ、「意識」が判断するのですが、逆になっています。しかし次を見ると「併し対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば」とありますから、「対象面が意識面に附着する」とは、所謂主客合一で、その場合「対象」が判断し、「意識」が働くものになる、というのです。しかしそれが単に主客合一にすぎないとすれば、そこには「働くものもなく、判断するものもない」ことになってしまいます。ではどうしたらよいか。「かかるものが見られ得るかぎり」とありますね。「かかるもの」とは?

B

「働くもの」、「判断するもの」だと思います。
佐野
そうですね。そういうものが見られ得る限り、「述語面が主語面を包むものでなければならぬ」。どういうことですか?

B

重なるということではないですか?
佐野
そうですね。さらに「包む」とは「包んで餘ある」ということで、述語面が主語面を越えて広がるということです。

C

どうしてそうなるのですか?

D

次に「而して判断意識の性質よりして何處までも斯く考うべきである」とあるように、包摂判断とはそういうものだからではないですか?
佐野
そうだと思います。次へ参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(287頁15行目~289頁5行目)
佐野
「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する」とありますね。文中「之」と「その物」は何を指しますか?

E

どちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。ところでこれは何を言っているのでしょうか。難しいですね。「相反するものに移り行く」とは例えば〈この木の葉の色〉の〈この緑〉が〈この緑ならざるもの=この赤〉に変ずることでした。この場合「述語として限定することのできない何物か」は何になりますか?

E

〈この木の葉の色〉ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。確かにそれは〈この緑〉だとか〈この赤〉というように述語として限定できない。しかしそれによって「述語となるもの」、つまり緑だとか赤だとかが「限定せられる」。矛盾ですが、「変ずるもの」の場合はこうならざるを得ない。また「述語として限定することのできない何物か」は「すべて」、つまり〈この緑〉だとか〈この赤〉だとかについて「述語となる」。ただしこの場合も包摂判断で考えます。

E

よく分かりません。別の例はありませんか?
佐野
そうですね。「佐野之人の生業」が述語として限定できない何物か、と考えましょう。それが自己限定して、山大の職員となり、年金生活者になる。どうですか?

E

すごくよく分かります。
佐野
そうして「佐野之人の生業」は包摂判断で言えば、「山大の職員は佐野之人の生業である」というように述語になりますし、「年金生活者は佐野之人の生業である」とも言えます。次へ参りましょう。「主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」とあります。文中二度出て来る「それ」は何を指しますか?

E

やはりどちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。その場合「主語的に云えばそれは個体というべきものである」とは、例えば〈この木の葉の色〉という主語が自己限定して〈この緑〉(個体)になるということです。「述語となる」という意味で「述語的に云えば」、「述語として限定することのできない何物か」が「最後の種というべきもの」になって〈この緑〉や〈この赤〉の述語となります。この場合も〈この緑はこの木の葉の色である〉、というように包摂判断で考えます。ここでの西田の主張は「働くもの」(変ずるもの)を見たり、判断したりするにはこの両面が必要だということです。

G

「最後の種」って何ですか?
佐野
まず種とは、類、種、個と言われる場合の種です。例えば「佐野之人は日本人で人間だ」という場合、「佐野之人」が個、「日本人」が種、「人間」が類になります。類を限定したものが種で、それにどんどん種差を加えて行って限定していく。日本人で、山口県人で、下関在住で、と限定していきます。でもどこまで行っても「佐野之人」という個にはたどり着きませんね。ですが例えば〈この緑〉や〈この赤〉を個と考えたら、〈この木の葉の色〉が「最後の種」になり得ますね。それに限定を加えれば個に至る。(じつは「最後の種」はここではきわめておおざっぱにしか論じられていません。〈この木の葉の色〉が「主語的に、云えば」「個体と云うべきもの」であり、「述語的に云えば」「最後の種と云うべきもの」というのも、目下の文脈の中で解釈したものです。「変ずるもの」ないし「最後の種」については『働くものから見るものへ』の最終論文「知るもの」(330,14-338,9)において改めて論じられることになります。その議論はそれまで待つことにしましょう。)ここまでで何か質問はありませんか?

G

それは変ずるものの基体を認めるということですか?
佐野
(ここからの発言は後から考えたのものです)今の例で言うと、〈この木の葉の色〉が基体になっていますね。変ずるものの基には変ぜざるものがなければならない、ということがまずあります。しかし述語面は主語面に附着してこれを包んでいますから、これは変ぜざるものでありながら、すでに〈特殊=一般〉という矛盾です。したがってこれは所謂質料のような基体ではありません。また現段階では〈この木の葉の色〉の変化ということで、〈この木の葉の色〉という一般概念に於て働くものが見られ、また判断もなされています。しかしこの「一般概念」はさらに拡大深化が可能です。そうしてそれが芸術的対象になれば、木の葉の変化は「真の無の場所に於てある」ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第73回)
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三種の意志について

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落、285頁6行目から286頁14行目「意味に充ちたものとなる」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂感覚的なるものも直観的なるものとして、その根抵は所謂意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならない。」(286 ,11-13)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「感覚的なるもの」はその於てある場所が「一般概念」から「真の無の場所」に転ずるとき、「真に直観的なるもの」となる。即ちそれが「芸術的対象」である。その場合、「場所が無となる」。つまり、意識面が自ら無となり、対象が無限の意味をもった対象として自身を見る直観である。この場合で、意識と対象とは一体になるが、なお意識面と対象面との対立はなくなることはなく、意識はなお自由に働くものになっていないのではないか」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
目下のテキストからは出て来ない疑問ですね。他の著作を参照されましたか?

R

はい。「叡智的世界」(旧全集第5巻『一般者の自覚的体系』所収)です。そこでは芸術的直観は真に自分自身の内容を見るものだが、完全に自由にはなっていない、とあります。
佐野
その場合の自由とは?

R

奥底から湧き上がる良心の声に従うことです。
佐野
なるほど。しかしここでは「叡智的世界」のテキストがありませんから、その内容を皆さんと共に検討することはできませんね。(後で「叡智的世界」を調べてみました。まず「芸術的直観は真に自分自身の内容を見る」については、「真に自己自身の内容を見るには、情的ノエシスに至らねばならない、我々は芸術的直観に於てイデヤ其者を直観するのである」(5,167,10-11)という表現が見られます。「完全に自由になっていない」および「良心」については、「芸術的直観に於てはノエシスがノエマに没し、叡智的自己がノエマ的に限定せられた自己自身を見るが故に、自己自身の矛盾を脱して宗教的解脱に類するものが感じられる。併し芸術的直観に於ては、限定せられた自己が見られるのであって、自由なる自己其者が見られるのではない。自由なる自己其者を見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じないなどと云うものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見るものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省其者が消磨すると共に、真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光を見ることができる」(5,176,4-11)という表現が見られます。ただしここで言われている「自由」は脈絡からしてノエシスの方向に見られる「随意的意志」と考えられます。次のように述べられているからです。「併しかかる直観(イデヤを見る知的直観:引用者)には、そのノエシス的方向に於て、何處までも随意的なるものが残されねばならない」(5,174,4-5)、「自己自身を越えて、何處までもノエシス的方向へ深く自己自身を見て行く自己が、真に自由なる自己であり、それはイデヤを見る自己の根柢を見るものである」(5,175,4-6)。そうしてこの「随意的意志」については「悪なる意志とは何であるか。それは随意的意志である、イデヤを否定し、無に向うの意志である」(5,174,11-12)と述べられています。本日の講読箇所に出て来る「随意的意志」にも深くかかわりますので、少し詳しく紹介しました。)ここでは一般的な哲学的問いとして一緒に考えて見ましょう。芸術的直観が自由でないとはどういうことですか?

R

自転車を運転していた時、突然道端の花にハッとする。この驚きにおいて自由はないと思います。

T

良心に従うことが自由だとおっしゃいましたが、花に驚くことも良心も自分のコントロールできない点では同じだと思います。しかしそこに「気づく」という仕方で自由があり得るのだと思います。そこに至るには何らかの準備(レディネス)が必要で、花との出会いも実はサイクリングの中に予め組み込まれていたとも考えることができます。
佐野
何故良心に従うことが自由で、花に驚くことが自由でないのですか?

R

花に驚くことの場合は、まだ直観する自分と花との対立が残っているからです。
佐野
「驚き」の瞬間にそうした自分が残っているのですか?

R

「考える自分」はなくなりますが、「直観する自分」と花の対立は残ります。

H

物(花のような対象)があると真に自由ではないということですか?

R

やりたいことがあれば、それに従うのが自由です。(この辺り、「随意的意志の自由(悪なる意志)」と「自律としての自由(良心の声に従う)」の区別がうまく表現できていないように感じられました。:佐野)

H

それでは「真の無の場所」においてあるものは何ですか?

R

宗教的な罪悪において赦されているということ、そうしてそれが真の自由だと思います。
佐野
なかなか難しい問題ですが、今日の講読箇所にも関わることですので、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(286頁14行目~287頁7行目)
佐野
難しいですね。少しずつ見て行きましょう。「此の如き」、「芸術的対象」のように、ということですね。そうした「直に直観の場所即ち真の無の場所に於てあるもの」が「所謂意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、それが無限に働くものとなる」とあります。この「無限に働くもの」は後を見ると「意志作用」(287,4)のようです。つまり「作用としての意志」ですね。そうなると「直に真の無の場所に於てあるもの」とは「状態としての意志」であることにもなりそうです。「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別は以前出て来ましたね。どこでしたでしょうか?

A

229頁です。
佐野
そうですね。ありがとうございます。そこをもう一度見て置きましょう。「意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と撰ぶ所はない。意志の背後に於ける暗黒は単なる暗黒ではなくして、ディオニシュースの所謂dazzling obscurity〔眩い暗黒〕でなければならぬ。かかる立場に於ける内容が対立的無の立場に映されたる時、作用としての自由意志を見るのである。意志も意識の様相と考えられるのは此の如き考に基かねばならぬ、作用としての自由の前に状態としての自由があるのである」(228,15-229,5)。テキストに戻りましょう。ここまで何か質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「而して直観の場所」、「真の無の場所」ですね、それは「所謂意識の場所」、これは「対立的無の場所」ですね。「直観の場所」はそうした「所謂意識の場所よりも一層深く広い意識の場所であり、意識の極致である」とあります。「極致」という言葉には注意する必要があります。つねにそこに挫折と転換があるからです。「無限に働くもの」はこれで終わりということはありません。それが「極致」に至るということは、これまでの場所である「対立的無の場所」が挫折を通して破れ、「真の無の場所」への飛躍的な超入が起るということです。そうなるとどうなるか?「真の無の場所」が「意識の極致であるから、内に超越的なるものを見ると考えられるのである」とありますね。この「超越的なるもの」って何ですか?

B

「内に」とは「意識」の内に、ということではないですか?
佐野
そうでしょうね。「外に」ではないということです。私の解釈ですが、この「超越的なるもの」は、先の言葉で言えば、「状態としての自由」ではないかと思うのです。「対立的無の場所」において「作用としての意志」(「無限に働くもの」)であった、その同じものが「真の無の場所」において「状態としての意志」として見られるということです。「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間には先程申したように超越がありますから、そのように解釈できるように思われるのです。いかがでしょうか?

B

とりあえず、そういうことにして先を読んで見ましょう。
佐野
はい。「併し逆に直観の場所から之を見れば、之に於てあるものが対立的無の場所へ投げた自己の影像に過ぎない」とありますね。最初の「之」は何を指しますか?

C

「内に超越的なるもの」です。
佐野
そうですね。私の解釈では「状態としての意志」です。それでは次の「之」は何を指しますか?

C

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。そのように「直観の場所」に於てあるもの(「状態としての意志」)が「対立的無の場所」の場所へと自分を投げる、そうするとそこに「影像」ができる、というわけです。この「影像」が「作用としての意志」です。ここまで、いかがですか?

D

大丈夫です。2行目の「併し」から反対の見方がなされているということですか?それまでは「対立的無の場所」から「真の無の場所」への方向だったのが、「併し」以降は逆に「真の無の場所」から「対立的無の場所」への方向になるというような。
佐野
そうですね。最初は表から、次に裏から、といった感じです。例の円錐形で言えば、最初は上から、次に下から、ということになると思います。そこで「此の如く直観の場所から見た時」、裏から見た時ということですね、その時「〔無限に〕働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」。「之」とは?

D

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。「真の無の場所に於てあるもの」(「状態としての意志」)が〔「対立的無の場所」において〕自己限定したものが「〔無限に〕働くもの」「意志作用」、つまり「作用としての意志」だということです。ここまではいかがですか?

D

大丈夫です。
佐野
「而して直観的なるものの於てある場所、直観の述語面」、これは置き換えですね。そうした場所ないし「直観の述語面に於てあるもの」(「状態としての意志」)を「知識面から見れば」とあります。この「知識面」とは後を読むと、どうやら「所謂意識の場所」つまり「対立的無の場所」のことのようです。その面から見ると「無より有を生ずる無限の作用と見られ」、とありますね。これは「作用としての意志」のことですね。その面では無限の作用が「有」であり、それが「対立的無の場所」に「於てある」と考えられています。その意味ではそれ自身が無である「対立的無の場所」には「無」はそこに「於て」ないと言えます。ところが有無を絶した「絶対の無」である「真の無の場所」に於てはそうした無もそこに於てある、そのように考えることができそうです。そうした「真の無の場所」である「直観面」から見れば、「それが意志である」とあります。「それ」とは何ですか?

E

同じものを「知識面」(「対立的無の場所」)と「直観面」(「真の無の場所」)の両面において見ているのですから、「それ」は「直観の述語面に於てあるもの」ではないでしょうか?
佐野
そうだと思います。私の解釈では「状態としての意志」ですね。同じものが「直観面」では「意志」つまり「状態としての意志」であり、「知識面」では「作用としての意志」だということです。さて次に「直観面は知識面を越えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのである」とありますね。これはどういうことでしょうか。「知識面」つまり「対立的無の場所」では「作用としての意志」、「直観面」つまり「真の無の場所」では「状態としての意志」、この両面の間に「随意的意志」が見られるというのです。意志に「作用としての意志」、「状態としての意志」、「随意的意志」の三種あるということになります。ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を描く」の例で言えば、描かれた地図を見ている限りはどこまでも描き続けなければなりません。これが「知識面」で、そこに於てあるのは「作用としての意志」。それに対して描く以前の足元のところ、そこが「直観面」です。これは「述語面に於て見られる自己同一」と呼ばれたものですが、「一般概念」のそれではなく、「真の無の場所」としてのそれで、そこに於てあるのは「状態としての意志」です。この「状態としての意志」は先に「ディオニシュースの所謂dazzling obscurity(眩い暗黒)」という表現があったように、単なる暗黒ではなく、直視することができないほどの「眩さ」ゆえの「暗黒」です。これは意志や衝動の根源的な暗さを言っているように思われます。それは『善の研究』では実在の形式(方式)として最初に出て来る「含蓄的(implicit)」な全体と言われていたものと同じもののように思われます。そこから意志が直観に基づいて自己限定するのですが、そこには機械的作用や本能的動作でない以上、「自知」の契機があります。これを取ったということはこれを取らなかったということが自知されています。そこに「可能性」が開けてきます。つまり英国の地図は別様にも描かれたかもしれない、ということです。ここに「随意的意志」が顕わになってきます。そうして無限に善を求めるということの裏面に、求めれば求めるほど顕わになるものとして「悪なる意志」つまり「随意的意志」が意識されることになります。今日はここまでにします。
(第72回)
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知覚的なものと思惟的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、284頁8行目「此故に意志はいつも自己の中に」から285頁5行目「此の如き述語面でなければならない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してその極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」(284,10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスには主語がありませんが、直前に「意志が」とありますので「而してその〔述語方向の彼方の〕極、主語と述語との対立をも超越して真の無の場所〔=極〕に〔意志が〕到る時、それが〔意志が真の無の場所において〕自己自身を見る直観となる」と〔〕部分を補い、文中の「それ」=真の無の場所における意志=自己自身を見る直観、と考えました。この「自己」とは何でしょうか。「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛けがある気がします」(212字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
厳密に読まれましたね。少し前から読んで見ましょうか。「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」(285,8-9)とあります。主語は「意志」ですね。意志は例えば、〈このペン〉を見る(知る)とか、それでこの文章を書くといった〈個々の目的(善)〉を抱いていますね。この場合〈このペン〉とか〈個々の目的(善)〉が「知的自己同一」で、これが「主語」になっています。そうしてこの「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる如く」(同9)とあります。この本体が〈このペン〉自体とか〈ペン〉のイデア、あるいは〈善〉のイデアだと考えられます。「意志」がはるかかなたに自分の目的を見ている場合ですね。これに対し反対方向の「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られるのである」(同9-10)とあります。これは「意志」が自らの根柢を見ている場合ですね。その根柢はどこまでも達することができない、どこまでも分からない、と。こうして意志は主語と述語の方向において無限に引き裂かれることになります。そうしてキーセンテンスの「而してその極」と来るのですが、Tさんは「その極」とは、述語方向の彼方の極の方だとお考えになる。

T

そうです。「その極、主語と述語との対立をも超越して」(同10)とありますが、次の行で「斯く述語をも超越する」(同11)とありますから、そう判断しました。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、「述語「をも」」とありますから、「その極」はやはり主述の無限の対立の「極」と考えた方がよいかもしれません。)テキストでは「その極」で「主語と述語との対立をも(ここも「をも」となっていますね。主語をも超越し、述語をも超越し、さらに主述の対立をも超越する、と読めると思います。)超越して真の無の場所に到る時」(同10-11)とありますが、この「到る」のは「意志」だと。

T

そうです。
佐野
なるほど。文の流れからすると、至極妥当だと思います。そうなると「それが自己自身を見る直観となる」(同11)の「それ」は「意志」だということになりますが。

T

「意志」ですが「真の無の場所における」という限定付きです。今までの意志のままではありません。
佐野
なるほど。ここまではよく分かるのですが、そうした「意志」が「自己自身を見る直観」となる時に、「この「自己」とは何でしょうか」ということが問題になるのがまずよく分かりません。意志が自己自身を見るわけですから、自己は意志自身でいいのでは?

T

そうなんですが、真の無の場所における意志は、これまでの意志と違っていて、「自己自身を見る直観」になっているんだと思います。
佐野
なるほど。それはよく分かります。そうだとして「「自己」=「自己自身を見る直観」という無限仕掛け」というのはどういうことですか?

T

それまでの意志は、主語の方向でも、述語の方向でも無限に到達できないものを持っていたと思います。ところが真の無の場所における意志は「自己自身を見る直観」になっています。しかしこの二つのことは別のことを言っているのではないと思います。これまでの意志の側から言えば、主語の方向でも述語の方向でも、無限に自己自身を見るということが続いていると思います。ちょうど英国にいて完全なる英国の地図を描く時と同じような無限進行です。
佐野
それが「無限仕掛け」だと。

T

そうです。ですがそれはこれまでの意志のレベルでの在り方です。そうした立場が真の無の場所における意志に高まることによって、「自己自身を見る直観」になる、見る自分と見られる自分が同一であるような直観が成り立っている。
佐野
なるほど。よく分かりました。ここには意志から直観への飛躍的な超入がありますね。これは私の解釈では『善の研究』における第3編から第4編への移行、つまり「宗教的覚悟」と同じ事態を言っているのだと思います。他に何かご質問はありませんか?

R

「自己自身を見る直観」では主語と述語の区別はなくなってしまうのでしょうか?

T

そうなると思います。見る自分が同時に見られる自分です。

K

テキストではその後、ヘーゲル批判があってヘーゲルの弁証法的な転化の「背後」に「肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面」がなければならないとされ、「無限なる弁証法的発展を照らすもの」が「述語面」だとされています。主語面と述語面の区別はやはりあるのでないでしょうか?
佐野
難しいですね。ちょっと先になるのですが、これに関連した叙述がありますので見て置きしょう。「併し述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となることであり、意志が意志自身を滅することであり、すべて之に於てあるものが直観となることである。述語面が無限大となると共に場所自身が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観するものとなる」(258,12-15)。

M

たしかに重要な箇所ですね。
佐野
ええ。まず注意すべき点は直観において「意志が意志自身を滅する」ということが起っている、ということです。この点は、先程のTさんも、意志を「真の無の場所における意志」とそれ以前の意志を明確に区別していましたね。滅せられる意志は「それ以前の意志」だということになります。以前の区別では「作用としての意志」と「状態としての意志」というのがありましたが、滅せられる意志は「作用としての意志」で、「真の無の場所における意志」は「状態としての意志」だということになるでしょう。ここは大丈夫でしょうか?

K

はい。よく分かります。
佐野
もう一つ注意すべき点は、述語面が真の無になることで、この真の無の場所に於てあるものが、「単に自己自身を直観するもの」となるとされていることです。自己を無にして見ることで、見る自己と見られる自己が同一になる、ということです。こういう在り方において、主述の区別はあるといえるのか、それともないというべきか、難しいところですね。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(285頁6行目~11行目)
佐野
「包摂的関係を何處までも述語の方向に押し進めて、その極限に於て意識面に到達する、主語面を越えて之を包むものが意識面である」とありますが、この「意識面」が「真の無の場所」であると即断しない方がよいでしょう。「一般概念」の可能性があります。ここでは両方を含意した意味で理解しておきましょう。

A

ここはまず主語の方から考え、意識面(述語面)に到達し、次にそれを意識面(述語面)の方から、主語面を包む、というように述べられていると考えてよいでしょうか?
佐野
たしかにそうなっていますね。続く叙述もそうした対比を念頭に置いていますね。まず「感覚的なもの」からその「背後」に「一般的なるもの」「述語的なるもの」がなければならないとされ、次いで「かかる述語的なるものが主語となる時、広い意味において働くものが考えられる」と、述語の方から考えられていますね。ところでこの「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」とはなんでしょう?例えば〈この木の葉は赤い〉の〈赤い〉は感覚的なるものですね。その背後にある「一般的なるもの」とは?

M

色一般です。
佐野
そうですね。しかし西田はこれまでもこうした「一般的なるもの」として〈色一般〉とともに〈物〉を考えていたと思います。この場合でしたら〈この木の葉〉がそれです。それが一般として、その内に〈この木の葉の赤〉を包むと考えるのです。少し先になりますが、「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」(287,15-288,3)という表現があります。この木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変わる場合、そうした変化のもとには「個体」としては〈この木の葉〉があり、それは「最後の種」としては〈この木の葉の色〉だというように考えることができます。目下の講読箇所に戻ると、「感覚的なるもの」の「背後」の「一般的なるもの」は、今の例で言うと〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉ということになります。ここまでで分からないところはありますか。

A

大丈夫です。
佐野
次いで「かかる述語的なるものが主語になる時」とあります。例の三角錐で言えば、中ほどの一般概念の断面がみずからを無にしながら、つまり主語面の内に吸収されながら、頂点の主語面まで上がっていく時、その時「広い意味において働くものが考えられる」と言われます。主語面において〈この木の葉の赤〉を見ているだけでは「働くもの」は考えられませんね。しかしそこのところに〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉が吸収されると、緑から赤へと働くものが考えられる、ということです。ここまではどうでしょうか?

A

まだよく分からないところがあります。
佐野
少し先にある叙述を見て置きましょう。「変化するものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない。かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ。唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」(287,7-11)とあります。

A

これで分かるようになりました。
佐野
では次を見て見ましょう。「而してかかる意味に於て働くものは我々の意識に最も直接なるものと云い得るのである」とありますね。これは「働くもの」が、「意識面」(「述語面」)が主語面になることによって成立しているからです。「此故に一般概念の限定なくして働くものを考えることはできない」とされます。〈この木の葉が赤くなった〉というのは〈この木の葉〉ないし〈この木の葉の色〉という一般概念が自らを限定したということです。そうして「我々は判断の方向を逆にすることによって働くものを考え得るのである」と言われます。この「判断の方向」とは?

A

主語から述語の方向です。
佐野
〈この赤〉から〈この木の葉の色〉へと行くことですね。〈物の判断〉では〈この木の葉の色〉が主語になりますが、包摂的判断としては〈この赤〉が主語になります。ですから「判断の方向を逆にする」とは、〈この木の葉の色〉から〈この赤〉へと行くことです。これによって「働くもの」を考えることができるのだと。次に行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(285頁11行目~286頁2行目)
佐野
「我々の経験内容が種々に分類せられ、概念的に統一せられるに従って、種々なる作用が区別せられる」とあります。私たちは無限に多くの変化を経験します。そうした内容が様々に分類されます。この分類は「概念的な統一」によってなされます。〈この木の葉の色〉の変化は〈木の葉一般の色〉へと概念的に統一されると共に、他の変化から区別されます。「而して種々なる一般概念が更にその上にも一般概念的に統一せられるに従って、作用の統一というものが考えられる」、例えば〈木の葉の色〉が〈落葉〉と結びつけられて、〈落葉樹〉の生命の作用というもののもとで統一的に考えられます。「かかる一般概念的統一の方向を何處までも推し進めて行けば、遂にすべての経験内容の統一的一般概念に到達するであろう」、例えば生命の作用が、化学的な作用、さらには物理学的な作用に還元される、というようなことが考えられます。そこで「此の如きものが物理的性質でなければならぬ」と言われます。

T

この「物理的性質」に還元されることによって、赤は波長になるということですか?
佐野
そうはならないと思います。西田が考えている「物理的性質」はあくまで「感覚的なもの」です。『善の研究』にも、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」(岩波文庫改版10頁)とありました。ここでも同じ見方が取られていると思います。ですからここでも「物理的性質」は「共通感覚の内容とも云うべきものであろう」と言われているのだと思います。

B

共通感覚って何ですか?
佐野
以前にも出て来ましたが、アリストテレスの『魂について(デ・アニマ)』に出て来るものです。視覚や聴覚などの個別の感覚を超えた感覚です。私たちは赤という時、それは青から区別して感じていますが、同時に辛いからも区別していますね。ということは個別感覚を超えた感覚の領域というものがそこになければならない。これが「共通感覚」です。進化論的にいえば、視覚や聴覚などの個別感覚に分れる以前の感覚です。

T

それはゾウリムシの感覚やな。
佐野
そうかもしれませんね。テキストではついで「フッサールの知覚的直覚というのは此の如き意味に於て一般概念によって限定せられたる直観に過ぎない」とあります。志向対象を充実するとされる直観も「知覚」という「一般概念」によって限定されたものにすぎない、ということです。それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(286頁2行目~5行目)
佐野
これまでは「感覚的なもの」ないし「知覚」という「一般概念」の範囲での話でしたが、今度は「思惟の場所」に入ることになります。「更にかかる限定を越えて述語的方向を押し進めれば、知覚的なるものを越えて思惟の場所に入る」とあります。「思惟」の対象は感覚されるものではありません。数学的なものや論理的なもの、時空、カテゴリーなどが考えられます。三角形が感覚を超えた概念でありながら、感覚的なものを離れないのと同様に、西田はここで「此場合に於ても意識は知覚的なるものを離れるのではない、知覚的なるものは直観的なるものとして之に於てあるのである」という注意を与えています。そうして「唯その剰余面に於て単なる思惟の対象という如きものが見られるのである」としています。具体的な経験においては知覚的なもののうちに思惟的なものが吸収され、それが対象(主語)となるのですが、この剰余面に注目することで、思惟の対象というものが考えられるというのです。ですがその場合でも、三角形を純粋に考える場合でも具体的な三角形を思い浮かべなければ考えることができないというように、その対象はやはり知覚的なものから離れないだろう、というのが西田の考えだと思われます。次をDさん、お願いします。

D

読む(286頁5行目~7行目)
佐野
我々の経験は感覚ないし知覚的なものと思惟的なものによって構成され、判断もそれによって成立しますが、こうした判断がまさに私の判断であることが自覚されると、「自覚的意識」となります。テキストでは「所謂自覚的意識とは、此の如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接に之に於てある場所である」と述べられています。「自覚的意識」とは〈私は考える(ich denke)〉 ということです。経験ないし判断内容が図であるとすれば、この「自覚的意識」は地に当たります。両者は対立した関係にあります。テキストでは「自覚的意識面とは恰も対立的無の場所に当たるであろう、我々が普通に意識面と考えて居るものは是である」と述べられています。客観(対象)と主観(所謂意識)ないし有と無が対立している在り方です。それ故この所謂意識は「対立的無の場所」と言われていました。ここまでで円錐形に、知覚面を頂点とすれば、二つの断面(思惟面、自覚的意識面)ができていますね。次をEさん、お願いします。

E

読む(286頁7行目~11行目)
佐野
「併し我々は尚一層深く広く、有も無も之に於てある真の無の場所というものを考えることができる」と、最後の場所が登場しました。「有」とは図、「無」とは地のことですね。続いて「真の直観」が出て来ましたね。これは先程の「自己自身を見る直観」と同じものでしょう。その「真の直観は所謂意識の場所(対立的無の場所)を破って直にかかる場所に於てあるのである」とされています。この「破って」のところに転換、ないし飛躍がありますが、この転換は最後の「真の無の場所」が開けるものとして、先程の意志から直観への飛躍的転入、つまり『善の研究』で「宗教的覚悟」と言われたものを必要とするでしょう。ここまではいかがですか?

E

大丈夫です。
佐野
そうして次に「対立的無の場所は限定せられた場所として、尚主語的意味を脱することができないから、すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越えたものでなければならぬ」とあります。

E

「対立的無の場所」が「限定せられた場所」だというのはどうしてですか?
佐野
有つまり客観(対象)と対立しているからだと思います。有でない、という限定を伴っているということです。

E

分かりました。
佐野
「主語的意味を脱することができない」とは、外に主語を必要とする、ということでしょう。そのように外に有るものは「超越的なるもの」ということになります。こうしたものを内に包摂して、そこに「真の直観」が成り立つためには、「対立的無の場所」を越えて「真の無の場所」に至らなければならない、ということです。次をFさん、お願いします。

F

読む(286頁11行目~14行目)
佐野
ここで「感覚的なるもの」に話が戻りますが、今度はそれが於てある場所は「一般概念」ではなく「真の無の場所」です。「所謂意識面を破って」つまり主客の対立を破って「真の無の場所」に於てあるものは、「真に直観的なるもの」(自己自身を見る直観)であり、「芸術的対象」であるとされます。同じ「感覚的なもの」でも於てある場所が異なると、別の意味合いをもって来ることになります。感覚的なるものを〈理解する〉ためには「一般概念」によらなければなりませんが、芸術はそうした〈理解〉を破って立ち現れてくるもので、無限の深みをもったものが直接に立ち現れる、という形を取ります。「芸術的対象」は「無対立的対象」つまり判断以前の主語ですが、そこには「場所が無になる」ことに伴って、無限なる分別的内容、「対立的対象」がすべて吸収されており、こうした対象は無限の意味を以て充たされている、ということになります。しかもこの「芸術的対象」とは述語面(意識面)が自己を無にすることによって成立する、言い換えれば自己を無にして対象そのものに成り切ることによって成立するものであり、そのうちで対象が無限の意味を持った対象自身を直観するというような事態です。芸術に触れるというのはこうしたことだということでしょうね。今日はここまでにしましょう。
(第71回)
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成(Werden)への批判

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、282頁14行目「判断的意識面に於ては」から284頁2行目「すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一といふものがなければならぬ。前者は単なる同一であって、真の自己同一は却って後者にあるのである」(283,8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「主語面に於て見られる自己同一ではなく、述語面に於て見られる自己同一を真であると西田はいう。これは円錐の頂点にある主語面(個物)が述語面に深く落ち込んで行くこと(283,12)であり、述語面自身が主語になること(同13)である。述語面が自己自身を無にすること。単なる場所となる(283,14)、その時述語面に於て自己同一が成立していると考えられる。それはどのような事態なのだろう。また、主語面に見られる自己同一と述語面に於て見られる自己同一はどう違うのだろうか」(217字、下線はM)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
ホワイトボードに図がありますね。これをもとに説明してください。(図とは円錐形のことで、頂点が「主語面=無対立的対象=個物」で、赤で記されています。底面の円が「真の無の場所」です。円錐形中程に断面があり、この円が「一般概念」です。この円錐形を上から見るのが「判断」、下から見るのが「意志」だということで、円錐形の上と下に目の形が描かれています。これは西田自身が別の所で描いたものだそうです。頂点の赤がまっすぐ下に降りて、「一般概念」の面の上と、「真の無の場所」の上に乗っています。もう一つ図があってこれはこの円錐形を上(あるいは下)から見たもので、真ん中に赤い点があり、それを囲む二重の円があります。内側の円が「一般概念」、外側の円が「真の無の場所」です)。まず、キーセンテンスの「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって」とあるのはこの図で言うと?

M

円錐形を上からみた「判断」の場合です。「主語面」の赤が例えば「一般概念」の「述語面」と重なること、これが「自己同一」です。これが「主語面」つまり赤の所で見られるんです。
佐野
なるほど。そうすると「述語面に於て見られる自己同一」とは?

M

例えば「一般概念」の所で見られる「自己同一」のことです。西田はこちらの「自己同一」の方が「真の自己同一」だと考えています。
佐野
テキストにはたしかにそう書いてありますね。これは282頁11行目からすると「我々の意志我の自己同一」ということになりますね。

M

そうです。
佐野
そうしてそれは「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいくこと」だと。この図で言うと?

M

知識的な直観の場合は、「主語面」つまり赤の所で「自己同一」が成り立っていますが、それが、ぐっと落ち込んできて、まずは「一般概念」の「述語面」のところまで来ます。このことを言っています。
佐野
その場合、「一般概念」の「述語面」のところでは「述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有すること」になりますね。なるほど、よく分かります。それから「述語面自身が主語面となること」とあるのは?

M

述語面がもう一度、上まで上がって行って主語面となることですが、最初は判断と同じように、主語面と述語面が分れます。
佐野
たしかに282頁1~2行目には「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とありますね。判断を含む意志とは目的概念を伴った意志ですね。例えば「このミカンが食べたい」というような「個物」つまり赤を意志するというような。

M

そうです。判断がなければ意志できません。ただ意志の場合は判断のように主語面から見るのではなく、述語面から見ます。「このミカンが食べたい」というのはまさに下から見ていますよね。
佐野
でもそこに止まらないんでしょう?

M

ええ。「述語面自身が主語面になる」ということは、最初は判断ですが、それは「述語面が自己自身を無にすることである、単なる場所となることである」だと言われます。
佐野
もう一度、述語面自身が上へ、主語面のところまで上がって行くのだけれども、その際に述語面が自分自身を無にする、単なる場所になるんだと。これは以前出て来た、「意味」が「述語面における自己同一」の中に吸収される、というのと同じことですね。その時は「述語面」たとえば「一般概念」の所で言われていましたが、ここでは「述語面における自己同一」つまり「一般概念」の上にある赤のところに意味がグッと吸収されながら、述語面自身は無、ないし単なる場所となり、同時に上の赤のところが豊かになって行く、そんなイメージでしょうか?

M

そうです。そのことをテキストでは「特殊が特殊になる」と言っています。
佐野
テキストを見て見ましょうか。「包摂的関係に於て、特殊が何處までも特殊になって行くということは一般が何處までも一般になって行くということでなければならぬ、一般の極致は一般が特殊化すべからざるものになるのである、すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」とありますね。一般つまり述語面が無になればなるほど、特殊つまり主語面、赤が特殊になって行く、そういうことですね。

M

そうです。そうしてその「極致」が、「無限に働くもの」、「純なる作用」です。
佐野
これもテキストで確認しておきましょう。「その極致に於て、述語面が無になると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられるのである」。「対立的対象」は例えば「一般概念」の領域にある分別的な「意味」ですね。そうした「意味」をたっぷりと吸収して、例えばペンが自ずと動く、と言った感じですね。しかしそれはその時点での「ペン」の理解(「一般概念」)にすぎません。この理解が深まれば、もっと豊かな仕方でペンが自ずと動くことになる。これはどこまでも深まりそうですね。その先に雪舟の筆みたいな境地がある。

M

でも先生のピアノもピアニストのピアノも、結局は同じことになるような気がするんです。
佐野
たしかに私のピアノは下手ですが、なんか失礼な気もします。それはともかくどういうことですか?

M

次に出て来ますが「真の無の場所」になると、あらゆるものが状態としての自由になり、それを意志というならば、雪舟が名画を描くことも、我々がこのペンで字を書くことも深浅こそあれ同じなのではないか、もしそうならば我々の意志は既に自由なのではないのか、そう思うんです。
佐野
なるほど。それは「真の無の場所」に至ったところで直観されるものですね。そのことは今日読むところに関わりますから、プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。(ただそのような所謂「自由の境地」を外に立てたら、そこにまた「意志作用」が出て来ますから、そんなことはどうでもよい、下手は下手でよいから、それを通じて何かにそのつど目覚めて行けばそれでよい、そんな風に思います。)それではAさん、お願いします。

A

読む(284頁8行目~12行目)
佐野
いきなり「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」とありますが、「此」とは何を指しますか?

A

「述語面が無となると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる」ことだと思います。
佐野
そうですね。「意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱く」とは、意志がいつも判断、したがってまたその主語を含んでいるということです。そうしてそれを意志の対象ないし目的にしているということです。例えばそれは〈このペン〉であったり〈このミカン〉であったりするわけです。意志の目的という点で言えば、〈個々の目的・善〉ということになるでしょう。ここまでで質問はありませんか?

A

大丈夫です。
佐野
しかし「知的自己同一」つまり「主語」ですね、その「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる」、つまり〈このペン〉ならその「本体」が見られる、ということです。〈このペン〉の「本体」とは何ですか?

A

どこまでも分からない〈このペン自体〉だと思います。
佐野
そうですね。ただし西田は「意志に於ては特殊の中に一般を含む」(282,12)と考えていますので、意志の目的である〈個々の善〉は〈善のイデア〉を含むことになりますね。私たちはそのつどの意志において個々の善を目的にしていますが、その先には〈善そのもの〉があるということです。そうしてそれはどこまでも到達できない。これが「主語の方向に於て無限に達することのできない本体」ですね。これに対し「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られることになるのである」とあります。我々は個々の目的の場合、例えば〈このミカンを食べる〉でしたら、それに対応した意志・欲求〈ミカンが食べたい〉が明確だ、そう考えます。しかし実はそれは、もともと分からない衝動が何らかの動機によって立ち現れたものに言葉を与えて分かっている気になっているにすぎません。そうした衝動の根源、例えばそもそも何で食べるのか、何で生きているのか、本当は一体何をしたいのか、ということになると、分かりません。『善の研究』でも「我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である」(岩波文庫改版158頁)と言われていました。『善の研究』ではその後この要求は「人格の要求」(同201頁)というように明確化されます。ここ(「場所」論文)でもこうしたものを念頭に置いているのでしょう。ここまでで何か質問はありますか?

A

いえ。大丈夫です。
佐野
次に「而してその極」とありますから、ここで「無限に達することができない」という挫折と同時に転換が起ることが分かります。あるいは「無限に達することのできない本体」や「無限に達することのできない意志」が「見られ」たが故に「極」に達して転換が起ったとも言えます。ここはおそらく啐啄同時でしょう。「その極」はつねに予期できない瞬間の出来事です。そこにおいて「主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」とあります。意志と目的の対立が越えられるということです。「真の無の場所」とありますね。これまでは単に「無の場所」でした。いよいよ最終的な局面に入ったことが分かります。『善の研究』でしたら「宗教的覚悟」ということになり、私の解釈では第3編から第4編への転入ということになります。それがここでは「自己自身を見る直観」と言われているのだと思います。

A

「それが自己自身を見る直観となる」とありますが、「それが」とは何を指しますか?

B

「真の無の場所に到る時」ということでよいのでは?
佐野
そうでしょうね。「時」が「直観」となると。ところでここには注目すべき記述があります。それはこの直観について「斯く述語をも超越する」と書かれてある点です。西田は一方でどこまでも「述語面」がなければならないと考えている(例えば285,4-5)ようですから、ここをどう考えるべきか。これは主述の対立を越えるということと同義ですから、超越される「述語」とはなお主語に対立する述語で、どこまでもなければならない「述語」とは主語と対立しない述語、まさに「真の無の場所」としての述語ということになるでしょう。これで分かった気になるわけにはいきませんが。では次をお願いします。

B

読む(284頁12行目~15行目)
佐野
「併し述語が主語を超越するということが意識するということであり、此方向に進むことが意識の深底に達することであるとすれば、知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるものが、意志の立場に於ては最も近いものとなる」とありますが、「知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるもの」とは何ですか?

B

主語の方向にあるものではないですか?
佐野
すぐ次に「対立的対象と無対立的対象との関係は逆となると考えることができる」とありますが、それで言うとどれになりますか?

B

無対立的対象です。
佐野
そうですね。「無対立的対象」は「知識の立場に於ては最も遠い」が「意志の立場に於ては最も近い」ということです。それと反対に「対立的対象」、つまり知覚や思惟の対象である分別的なものですね、それは「知識の立場に於て我々に最も近い」が「意志の立場に於ては最も遠い」ということになります。知識は分別的な立場に立ち、分別を求め、意志は無分別的な立場に立ち、無分別ないし分別の解消を求めるということかもしれません。次をCさん、お願いします。

C

読む(284頁15行目~285頁5行目)
佐野
ここはヘーゲル哲学を念頭に置いて書いていますね。「「或者がある」「或者がない」という二つの対立的判断に於て、その主語となるものが」とありますが、「その主語となるもの」とは何ですか?

C

「或者」です。
佐野
そうですね。そうした「主語」としての「或者」は「有る」のでなければならない。ところが「その主語となるもの」が単に「有る」ということだけであったら、「全然無限定」、つまり全然限定できない。そうであれば「無」に等しいものになってしまう。そうして有と無の「総合」として「転化」つまり成(Werden)を見る、もう少し詳しく言えば、有と言えば無になってしまい、無と言えばただちに有になってしまう、こうした相互転化が成だ、というのです。これはヘーゲルの『論理学』の最初の部分を念頭に置いたものです。これに対して以下に続く文章はヘーゲル批判です。「かかる場合」、ヘーゲルの論理学の場合ですね、その場合には「我々は知的対象として主語的なるものを求むれば唯転化するものを見るのみであるが」、ここは、ヘーゲルの『論理学』で言えば、有が無になり、両者が成になり、さらに定有になり、さらにカテゴリーが続いて、最後には元に戻ってきて「論理学」が完結するのだけれども、今度は「論理学」が「自然哲学」へと移行し、さらに「精神哲学」に移行し、こうした学の体系が完結しつつ、それが生とのかかわりの中で、絶えず新たに更新されるという形で、体系が永遠に運動することを言っていると思います。そうだけれども「その背後には肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面という如きものがなければならぬ」そのように言います。ヘーゲルも学がそこに於て成り立つ「場(エレメント)」というものを考えていて、『精神現象学』の場合は、主客の対立を本質とする「意識」が、学の体系の場合は、主客の同一を本質とする「絶対知」がそのエレメントです。ヘーゲルの場合この「エレメント」そのものをテーマにして扱うことはありませんでしたが、西田はそれを「場所」として主題的に扱っています。そうして「無限なる弁証法的発展を照らすものは此の如き述語面でなければならない」と述べます。この「述語面」は弁証法的に発展する学という「主語」に対立する「述語」ではなく、「真の無の場所」でしょう。今日はここまでにします。
(第70回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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