知識を批評する知識の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落288頁7行目「単に限定せられた述語面は」から289頁の最後までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。」(288, 15-289, 2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「一般的述語がその極限に達すること」は、限定せられた場所の外に出続け、場所そのものが真の無となることであろう。西田によれば、これは同時に「特殊的主語がその極限に達すること」であり、「主語が主語自身となること」である。一見するとこれら三つのことは同時に成立しないように思える。これら三つのことはいかにして同時に成立するのだろうか。また、「主語が主語自身となること」は「単に自己自身を直観するものとなる」ことなのか」(205字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります(今回はさらに左右田喜一郎の論文内容を加味して構成してあります)。
佐野
「三つのこと」とは?

W

「一般的述語がその極限に達すること」と「特殊的主語がその極限に達すること」と「主語が主語自身になること」です。
佐野
だとすれば「一般が一般自身になること」というのも隠れていそうですね(283,15-284,2参照)。ところで、これら三つが「同時に成立しない」とは、時間差があるということですか?啐啄同時と言いますが、実はそこには、真の無がまず現成して、そこから主語(個物、働くもの)が立ち上がるのか、主語が立ち現れることで、真の無が現成するのか、といった時間の差があるのではないか、という・・・

W

いえ。三つのことは別のことを言っているように思えるのに、それが同時に成り立つのはどういうことなのかなあ、ということです。西田を読んでいるとここで書いてあることもそんな気になるけれど、本当にそうかなあ、ということです。
佐野
我々は通常「一般概念(有の場所)」の中で当たり前のように分かった気になって生きているけれども、それが破れる刹那、無限に深い真の無の場所が開けると同時に、そこに一切の述語づけを拒むような主語が立ちあがる(「主語が主語自身となる」)、そこにおいて物(主語)となって見る(「単に自己自身を直観するものとなる」)というような境位が開ける、こういう体験の事柄としてこの箇所を読みたくなりますね。そうして何となく分かった気になってしまう。そこに違和感があると。

S

見え方が違ってくるということでは?対象物を見ているのではなく、もっと深いもの、実在を見ている、ということではないでしょうか?

W

そこなんですが、実在が見えていると言うと、それ以上の見方ができなくなってしまうように思うのです。

N

西田はそうした実在、物自体というか、そういうものを体験によって把握したのだと思います。やったーという感じではないでしょうか。

R

たしかに一般概念が破れ、言葉にならないものに出会えば、余裕はなくなりますが、西田はそれを論理化し得たという意味では、やったーという感じかもしれません。

W

一般概念が破れるうちは、見え方はどこまでも変わるのでは?有るがままの世界の景色は「それ」としか言えないと思いますが、「それ」ってどういうことでしょうか?
佐野
たしかに「それ」を把握して、これこそ実在だ、と言ってしまうともう違っていますね。私も音楽や剣道で、体験を通じて今度こそこれが音楽だ、これが剣道だという原点に到達した気にしょっちゅうになりますが、すぐに全部覆されますね。そんなことの繰り返しです。掴んだと思ったものは全部嘘だというのはよくわかる気がします。

K

主語が主語自身になる前の主語と、主語自身になった時の主語との関係はどうなるのでしょうか?主語が主語自身になる前の主語は「一般概念」に包まれているけれども、主語が主語自身になるとそうしたものがない、「真の無の場所」に包まれているということですよね。

S

最近、「今が大事」とか「今でいい」という言い方がよくなされますが、そういう感じで理解されていますか?僕は違和感がありますけど。
佐野
だいぶ時間が押してきたので、プロトコルはこの位にしたいと思います。感想ですが、言葉にならないような何かに出会った刹那、我々はそれでもそれを言葉にしなければまったく理解できません。その意味ではすべてが言葉であり、理解なのですが、それを破るような体験があるということも、言葉の領域においてであるにせよ、厳然とあります。それはあらゆる理解や分別を超えています。ですからそれを我々の「理解」と対立する「実在」とするのも、過去や未来と区別された「今」と理解することも、すでに分別が入っていると考えなければならないだろうということです。

R

主語自身としての主語とか、真の無という根底を何故「ある」と言えるのですか?
佐野
一つには、我々が日常的になしている判断、その可能性の根拠を求めていくと、矛盾的統一はそこまで徹底しなければならない、その意味でそうしたものがなければならない、ということがあると思います。もう一つは体験が基になっているということがあると思います。ですが、こうした体験は「ある」とも「ない」とも言えないものです。「ある」と聞けば安心するのはすでに有無の中で考えているからです。それでは今日の講読箇所に移りましょう。今日から「左右田博士に答う」ですね。左右田は経済学(経済哲学)者で、実業家でもありました。リッケルトのもとで新カント学派の哲学を学んでいます。ネットでご確認ください。また「左右田喜一郎 西田哲学の方法について」で検索すれば、目下の西田の論文のもととなった、左右田の論文を読むことができます。新カント学派の立場からの西田哲学の方法を批判したものになっています。30頁の論文ですので、関心ある方は各自でお読みください。西田の「働くもの」と「場所」から、そこに表出した「西田哲学(この呼称は左右田が初めて用いたものです)」の核心を要約し、更にその根本的な問題点を五つに分けて述べたもので、実に充実したものとなっています。この読書会では時間の都合上、残念ですが扱いません。それではAさん、お願いします。

A

読む(290頁1行目~7行目)
佐野
左右田博士の論文は批判哲学の立場からの手厳しい批判になっていますが、それを「近頃初めて理解あり、権威ある批評を得たかに思う」と西田が思うほどに、西田哲学を本質的に理解し、その上で内在的に批判したことが西田には余程嬉しかったのでしょう。「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に達し得たかと思う」とありますが、この「終」を具体的にどこと取るかは議論のあるところでしょう。もちろん一番最後の部分(第4段落末)を挙げることもできますが、ここはペンディングにしておきましょう。次をBさんお願いします。

B

読む(290頁8行目~291頁1行目)
佐野
知識とそれについての知識の二種を区別できるということですが、これについて「眼は眼を見ることはできない」という立場(反論)が考えられます。じつはこうした批評を左右田は西田哲学に対してしています。「知識が知識自らを解せんとする場合には知識を超えんことを要求するは、知識の範囲内に於て妥当する知識にとって必要且つ当然の歩みに過ぎない」(左右田24頁)が、その要求を西田は「理論理性の僭越を敢えてして居る」(同26頁)というのが左右田の西田批判の根本にあります。左右田にとっては、西田は眼を見ることができると主張していることになります。これに対し、西田はここで「知識」に「少なくとも種々の種類があり、種々の次位を区別し得る」と考えます。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(291頁1行目~5行目)
佐野
まず西田は「客観的対象を認識する」ことと、「主観的作用を反省する」ことを区別します。後者には「反省的知識の対象として之を知る」という立場が考えられます。前者には所謂自然科学、後者には内観法による心理学が念頭に置かれていると思われます。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(291頁5行目~11行目)
佐野
ここでは後者の中でもさらに高い立場に立つものとして「批評哲学」(批判哲学)が挙げられています。ここには心理主義への批判が念頭に置かれていると考えられます。心理主義は哲学的な認識の基礎に経験的な心理学を置こうとするものとして、新カント学派などによって厳しく批判されたものです。そうした心理主義を超える立場が「批評哲学」で、カントや新カント学派の立場です。しかし西田はこの立場をさらに「知識が知識自身を越えて何處までも深い立場に立つ」ことでなければならない、と考えます。こうして西田は意志や直観の立場に深まっていきますが、こうしたやり方に左右田は「「哲学の方法」としては余は力一杯反対したい」(左右田27頁)というのです。こうした批判は左右田が学んだ新カント学派の「批評主義」の立場からのものですが、西田からすれば自分こそが「徹底的批評主義」(旧全集第5巻184頁13行目)であると考えています。こうして西田は「知識」に「種々の次位」を認めます。その場合「知識自身を反省し批判する知識」はいかなる意味で「知識」と言えるのか、一層深いとか高いと言われる「批評哲学」の高さや深さがどこから来るかを問題にしようとします。それでは次をEさん、お願いします。

E

読む(291頁12行目~292頁7行目)
佐野
13行目に「避くべからざる循環」とありますが、どういう循環でしょうか?

E

一般的に言っているように思いますが。
佐野
さしあたりはそうだと思いますが、前文との関係ではどうなるでしょうか。前文は「理論理性によって知るということと、理論理性が自己自身を反省するということとは同一でない」となっていますね。それに続いて「避くべからざる循環と云っても、避くべからざる循環と知った時、それは単に同じ所に還ったということではない」と言われていますから、「避くべからざる循環」とは、「理論理性によって〔理論理性を〕知る」(眼が眼を見る)ということではないでしょうか。そうして「理論理性が自己自身を反省するということ」が「避くべからざる循環と知った時」に対応するのでしょう。

F

「批評哲学といえども、それ自身の内容を有って居なければならない。知識の形式を批評するという時、既に形式が内容となって居る」というのがよく分かりません。
佐野
通常知識は、形式と内容によって成り立つ、と考えられます。この場合の形式とは、空間・時間という感性の形式と、カテゴリーという悟性の形式で、内容とは感性的な質料(素材)です。批評哲学(批判哲学)はこうした知識の枠組み自体(知識の形式)を問題にします。そうなると批評哲学は「知識の形式」自体を内容として、これを批判吟味することになります。

F

何故そのような吟味が必要ですか?
佐野
我々は一定の枠組みに基づいて認識しています。しかしそれがたんなる先入見(偏見)であれば我々は物事を正しく認識することはできません。そこでそうした枠組みの批判吟味が必要になります。その上で我々はそうした枠組みを正しく用いなければならない、ということになるからです。

F

でも我々の用いる形式は「論理の形式」しかないのでは?批判吟味もそうした形式によって行うほかないのでは?
佐野
そこなんです。西田が今問題にしようとしていることは。「無論、論理の形式以上の形式があると云うのではない。併し形式によって考えるということと、形式自身の自省ということとは同一でない」と西田は考えます。そこに「新しい知識の意味」が加わると考えます。そうしてこれがおそらく、意志とか直観ということになるのですが、これに左右田が反発するのです。左右田からすればすべては知識であり、我々は知識を越えることはできない。それを越えて意志や直観を論ずることは理性の僭越・越権だというわけです。西田にしてみれば、すべてが知識だということは認めるにしても、そこに「次位」(判断、意志、直観)があるはずだ、というわけです。ここをどう考えるかはとても重要だと思いますが、先に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(292頁7行目~11行目)
佐野
ここで「自覚」という言葉が出て来ます。批評哲学」の「知識を批評する知識の立場」は「自覚的立場」であり、それは「積極的立場」をもっていなければならない、西田はそう考えます。そうして「その立場は単に形式によって対象を構成するという知識の立場ではない」、そのように言います。自我自体の認識を認めない(眼は眼を見ない)批判哲学の立場からすれば、「自覚的立場」の「積極的」な意義をこのように主張することは、やはり理性の越権だということになるだろうと思います。そこのところは措いておいて、次をGさん、お願いします。

G

読む(292頁11行目~293頁2行目)
佐野
ここで「真の自覚」が出て来ますね。西田が本当に言いたいことです。「自覚は自覚自身の内に深く反省して見なければならぬ」と西田は言います。後には「認識以前」の「体験」の語も出て来ます(293頁6行目)。そうしてこうした「体験」としての「理論理性の自省そのもの」の上に「批評哲学」の知識が立てられなければならない、西田はそのように考えます。その際、こうした「自省」ないし「自覚」を論ずるには、さらなる「自覚」(「自覚の自覚」)がなければならない、と考えられるかもしれないが、それはすでに「自覚」を対象化している、「自覚を対象的知識と同一と考え」ており、それは「空虚なる言辞に過ぎない」と断じます。左右田からすれば、対象化しないでどのように知るのだ、ということになると思います。今日はここまでとします。
(第76回)
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矛盾的統一の述語面

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落288頁の3行目「述語が主語を包むといふ考から云えば」から288頁の7行目「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」までを再読しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」(288,6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」の「独立」とはどのようなものか。働くものが考えられ、判断の矛盾を意識するとき、その述語面が「個」になると考えてよいか」(89字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
述語面は一般ですが、述語面において判断の矛盾を意識すると、その述語面が個になると考えてよいか、つまり矛盾の意識によって、一般が個になると考えてよいか、という問いですか?前回、Sさんは、赤をどれだけ限定しても、〈この赤〉には到達しない、一般から個には到達しない、とおっしゃっていましたから。

S

いえ、矛盾的統一がどういうものか、という問いです。
佐野
「矛盾的統一」の矛盾は「判断の矛盾」ですね。「判断の矛盾」では何と何が矛盾するのでしょう?

Z

主語と述語、具体的には個と一般、変ずるものと変ぜざるものの矛盾ではないでしょうか?
佐野
私もそう思います。一般からいかにして個に至るか、変ずるものをどのように考えるか、そういうことに西洋哲学は苦しんできたと思います。そこで「質料」を「個別化の原理」と考えたり、運動変化のもとに「基体」を考えたりして説明しようとしてきた。しかし西田はそれでは説明になっていない、さらにつきつめて考えて、個と一般の矛盾、変ずるものと変ぜざるものとの矛盾にまで至らなければならない、そう考えたのだと思います。もっともこうした「矛盾を意識」すれば「個」が出て来る、と簡単には考えられないと思います。「矛盾の意識」も論理の言葉であり、論理化(一般概念化)、意識化されているからです。個はそうした一般概念や意識が破れたところ、図も地もない仕方で個が立ち現れるものだと思います。西田が考えようとしたこともそういうことではないでしょうか。Sさん、これでいかがですか?

S

というより、述語面が独立するのはそれが矛盾的統一だからだからか?という問いです。
佐野
なるほど。普通に考えたら述語面の独立と言えば、主語面からの独立ですね。しかしここはそうではなく、述語面が主語面を包むような矛盾的統一であることによって述語面が独立するのだ、と。

S

そうです。
佐野
だとすると、さらに問いが出て来そうですね。主語面が述語面を包んで独立する、ということも考えられるからです。そこには何か深い意味があるのか、あるいは何か問題があるのか。

S

西田哲学の特質だと思います。
佐野
主語面ということでは「神」が考えられますが、そう言わずに述語面において「真の無」を考えたのは西田哲学の特質だと。

T

神の体験でも同じようなことが言えるのかもしれませんが、西田はそう言わなかった。
佐野
何故でしょうか?西田には「禅の体験」のようなものがあったからだとお考えですか?

T

ええ。書いている人(西田)にとっても求道であったと思いますが、悟った人が悟ってない人に分かるように書いてくれている、そんな感じがします。日常経験を超えた特別な経験がなければ書けない文章だと思います。
佐野
そうした体験が「神の体験」でなかったのは、やはり文化的な背景の違い、つまり東洋だからということになるとお考えですか?

T

ええ。そのことについて他にご意見はありませんか?

Z

述語面に重きが置かれるのは、西洋の主語=実体という思想から脱したいというところがあったのではないかと思いますが、この述語面が意識面とされているところが気になります。そのようにすると独我論にならないでしょうか?
佐野
難しい問題ですが、さしあたり言えることは、「意識」というものを「誰かの意識」と考えると独我論になりますが、そうではない、ということです。この「意識」は図に対する地のように、誰の意識でもないような意識です。デカルトの考える我やカントの意識一般もそうしたところがあると思います。ただ、こうした述語面(意識面)を真の無として独立させた場合、そこからすべてを例えば「意志」によって説明しようとすれば、別の意味で独我論が問題になるかもしれません。というのもそうなればそうした述語面が実体化されるし、またそこには他者が存在しないからです。

Z

もう一つ問題だと思うのは、「意識」を意識一般のように考えるにしても、そうした「意識」では「個物」を包み切れないのではないか、という点です。
佐野
個物を包む「真の無の場所」を風呂敷のように考えて、それが物を包むように考えるというわけにはいきません。そのように考えられた場所はすでに有です。この有の場所が一般概念として、我々が物を図として理解する場合の地になっているのです。我々は地がなければ図を理解することはできませんね。しかしその地をどこまでも一般化する、その先に真の無を考えるのです。そうなるともはや地はない。そこに個物が一切の理解を超えて立ち上がる、そのように考えるのです。我々は常に一般概念を地としてその中で初めて対象を図として理解できるのですが、そうした一般概念が破れたところでこういうことが起こり得るのだと思います。それは時に言語を絶した惨事であることもあるでしょうし、偉大なものとの出会いである場合もあるでしょう。

Z

その地に当たるものが「場所」なのだと思いますが、それがよく分からないのです。今日初めて参加したばかりなので。
佐野
今日多分、「場所」論文を読了しますが、最低限のことだけ確認しておきましょう。この論文の冒頭208頁に「有るものは何かに於てなければならぬ」とありますね。この「何か」が「場所」です。これは「場所」の「有論的テーゼ」と言っていいと思います。これに対し210頁5行目には「我々が物事を考える時、之を映す場所という如きものがなければならぬ」とありますね。この「場所」が「認識論的テーゼ」としての「場所」です。この二つのテーゼにおける「場所」に「有の場所」(初出は232頁4行目)、「対立的無の場所」(「対立的無」の初出は220頁1-2行目)、「真の無の場所」(初出は同12行目)が区別されるようになります。「有の場所」は「一般概念」とも言い換えられます。我々はこうした「一般概念」によって対象を理解することができます。「対立的無」とは主客対立の立場です。有=対象が意識を離れて存在するという立場における意識のことです。それに対し「真の無の場所」はこうした有無の対立を超えてこれらを内に包むものです。大雑把な説明にすぎませんので、実際に「場所」論文をお読みになるとよいと思います。

Z

少なくとも普通に考えられている「場所」が「有の場所」だということは分かりました。

R

「場所」の「有論的テーゼ」と「認識論的テーゼ」はどのように関係するのですか?
佐野
二つのテーゼを対立すると考えるのが「対立的無」の立場です。「真の無の場所」においては同じ一つの事柄の二つの側面でしかありません。

R

分かりました。
佐野
それではプロトコルはこれくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(288頁7行目~10行目)
佐野
「単に限定せられた述語面」とありますね。これは何との対ですか?

A

前文の「矛盾的統一の述語面」ではないでしょうか?
佐野
そうですね。「矛盾的統一」の述語面とは、主語即述語、個別即一般、変ずるもの即変ぜざるもののことでした。だとすれば「単に限定せられた述語面」とは、主語面から区別され、主語面と対立する「述語面」ということになりますね。287頁9~10行目に「一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とありました。この場合「意識面」が「述語面」、「対象面」が「主語面」です。「単に限定せられた述語面は判断の根柢とはなるが、働くものとなることはできない」とは、例えばこの木の葉は赤い、は主述を別にして、述語をもとにして考えることもできるが、それだけでは「働く」ということが出て来ない、ということです。ここまで、よろしいでしょうか?

A

はい。
佐野
続いて「働くというのは主語面が述語面に近づくと考えられる如く、又述語面が主語面に近づくことである」とありますが、これも主語面と述語面を別々に考えて、両者が近づくというように考えてはいけないと思います。主語面と述語面が一つに重なっているところで考えます。

B

働くというのは主語面が述語面に近づく」というのが分かりません。
佐野
3行目にも「主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えること」とありました。ここでは〈犬は動物である〉のような包摂判断を考えていますから、主語が特殊で述語が一般となります。例えば〈この木の葉の色〉は一般で、〈この緑〉は特殊です。〈この緑〉が「働いて」変化していき〈この赤〉になる。こうして主語(特殊)が「働く」ことで〈この緑〉から〈この赤〉まで、つまり〈この木の葉の色〉がとりうる色の全範囲に近づいていきます。これを述語面から考えると、4行目に「述語面が自己自身を限定すること」とあるように、〈この木の葉の色〉が自らを限定して〈この緑〉や〈この赤〉に近づくことだ、ということだと思います。

B

分かりました。
佐野
そう読むと、次の「働くとは主語面を包んで餘ある述語面が自己の中に主語面を限定すすることである、包摂的関係を述語面から見ることである」も無理なく理解できると思います。次をBさん、お願いします。

B

読む(288頁11~12頁)
佐野
難しいですね。

C

ここでは意志、判断、働くものの順に出て来ていますが、ここにはグレードがあって、意志が一番深いということを言おうとしているのではないですか?

B

同一の事柄の三つの側面ということではないですか?
佐野
まずは、同一の事柄の三つの側面と読めますが、さらに考えて見ると、先程も問題になったように、述語面を本質的と見る西田の思考法からは意志が最も深い、と考えることもできそうですね。とにかくまずは読んで見ましょう。

C

はい。
佐野
「此故に」とはこれまでの叙述を指しています。「一つの包摂的関係はその主語面を包んで餘ある述語面からは意志」だとされています。前頁に「直観の場所から見た時、働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」(3~4行目)とあり、さらにそれは「知識面」つまり「対立的無の場所」から見れば「無限の作用」(意志作用としての無限の作用)と見られるが、「無も之に於てある直観面」つまり「真の無の場所」から見れば「意志」(状態としての意志)である(4~6行目)とされていました。「働くもの」はその最も根源にまで遡れば意志だということです。〈この木の葉の色〉を考える場合に「意志」を持ち出すのは奇妙に思われるかもしれません。

B

たしかに。
佐野
しかしそれは我々がデカルト以後の物心をあくまで対立的に考える近代科学の立場で考えるからです。その立場からは物に心や意志があるとするのは、「太古人間の説明法」であり、「純白無邪気なる小児の説明法」(岩波文庫改版『善の研究』84頁)であり、「いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去る」(同)ということになります。しかし「エルザレムなどのいう様に、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなる力があるという考は、自分の意志より類推したものである」(同83頁)というのは「実在の真実なる説明法である」というのが、『善の研究』以来の西田の考え方です。

B

すると〈この木の葉の色〉の場合、どうなりますか?
佐野
「一つの包摂的関係」とは〈この緑〉ないし〈この赤〉と〈この木の葉の色〉との関係です。後者(述語面)が前者(主語面)を包摂する関係です。この場合、「その主語面を包んで餘ある述語面」から見ると、それは述語面が主語面に向けて意志することだということです。この緑になろう、この赤になろう、ということです。

B

なるほど。
佐野
次いで「その主語面に合する範囲に於ては判断であり」とあります。この判断は「意志」としての判断です。以前にも「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」(282頁1~2行目)とありました。〈この木の葉の色〉が〈この緑〉を目的にして判断し、それになろうと意志することです。さらに「述語面の中に含まれた主語面に於ては働くものとなる」とありますが、これは〈この木の葉の色〉が〈この緑〉や〈この赤〉となって働くことです。このように理解して見てはどうか、と思うのです。

D

主客合一ということですか?
佐野
ある意味ではそうですが、「対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば、働くものもなく、判断するものもない、かかるものが見られ得るかぎり、述語面が主語面を包むものでなければならぬ」(287頁12~14行目)とあったように、単なる主客合一ではなく、述語の方が主語よりその外延が広いのです。「餘ある」とはそういう意味だと思います。

E

餘ある述語が包むというのがよく分かりません。
佐野
それはEさんが「真の無の場所」のことを考えているからで、たしかにそのように考えると、風呂敷が何かを包むようになってしまいます。しかしここはまず有の場所で考えて見て、それを無限大に徹底する、そのようにしてはどうでしょうか。そのことが次に書かれてありますので、次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(288頁12行目289頁2行目)
佐野
「併し」とあって、「真の無の場所」の話へと飛躍します。そうして「述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となること」だと。「自己」とは「述語面」自身のことですね。述語面自身が真の無の場所になってしまえば、見えるものは真の無しか見えないとも考えられますが、どうもそれだけではなさそうです。まずそれは「意志が意志自身を滅すること」だとされます。これは作用としての意志がなくなること、状態としての意志になることだと考えられます。こうしよう、というような意志が感じられなくなることです。そうすると、「すべて之に於てあるものが直観となる」と言うのです。自らが真の無となり、真の無としての自分を見ることが、同時に「之」すなわち「真の無の場所」に於てあるもの、個、働くものがそうした場所から立ち上がり、自分自身を見る直観となるというのです。それを受けて次に「述語面が無限大となると共に場所其者が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観となることである」と述べられます。この「単に」には否定的な意味はないでしょう。純粋に、というような意味だと考えられます。どうですか?この辺り、やはり何らかの体験を踏まえていると思いますか?

F

そうですね。そうとしか思えません。
佐野
ですが、私はこれを禅の体験に限定しなくてもよいと思います。こういうことは芸術でも哲学でも起こり得る、あるいはそうした体験が芸術や哲学の表現のもとになっていると思います。ところで「述語面」、すなわち一般が真に一般になるということは、それがあらゆる特殊性、限定性を拭い去るということで、真の無になることです。そのように「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである」とされます。述語が「述語となって主語とならないもの」となり、真に述語となることが同時に、主語が「主語となって述語とならない、真の主語となることであり、こうして真の述語が真の主語を包むという関係が成立することになりますが、これが西田をして、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に到達し得た」(290,3-4)と言わしめたものと考えられます。いよいよ最後となりました。Dさん、お願いします。

D

読む(289頁3~6行目)

F

これで終わりですか?まとめる気もなさそうですね。たしかに同じことをらせんのように繰り返していますね。

G

しかも直観の問題には言っていないと言っている。
佐野
そうですね。前にも申し上げましたが、第5巻所収の「叡智的世界」に比べると直観(叡智)の扱いが十分ではなさそうです。まだまだ書かねばならないものを西田は見ているようですね。それではこれで「場所」論文を読了したことにしましょう。乾杯はオンラインということで、各自しておいてください。次回より「左右田博士に答う」に入ります。
(第75回)
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いかにして一般は個になるか

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落287頁7行目から288頁5行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものものであろう」(287,15-288,3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「働くもの・変ずるものを判断するには、主語面において「個体」、述語面において「個体」について述語となる「最後の種」を考える必要がある。西田はその両面をも「述語として限定することのできない何物」即ち「一般概念」が「自己自身を限定する」ことと考えている。また、働くものを判断するには「述語面が主語面を包むものでなければならない」とされる。「一般概念」の述語面の自己限定が如何にその主語面の自己限定を包むか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

O

「働くもの・変ずるもの」を理解や判断のレベルで考えるのではなく、何かが生まれる時に興味があります。

K

テキストでは「変ずるものを意識するには」(287,7-8)とありますね。意識するためには、主語面(対象面)が述語面(意識面)に附着して、しかも両者が単に一つになるというのではなく、述語面が主語面を包むものでなければならない、そのように書かれています。つねに「意識」や「判断」から考えられています。

O

その「単に一つになってしまえば、働くものもなく、判断するものもない」というところ、否定的に読むのではなく、そこに直観が残る、というようには読めないですか?

M

そこはやはり「単に」という言葉があるから否定的に〈判断が成り立たない〉というように読むべきじゃないかと思います。この「単に一つ」というのは、意識を失ったような状態とか赤ちゃんのような状態ではないでしょうか?

R

だから「述語面が主語面を包むものでなければならない」と言われるのだと思います。両者が同じ範囲で重なる(同値)ではなく、述語面が主語面より広いということです。そうでなければ変ずるものを見たり、判断したりできない、そういうことだと思います。ただ主語面での自己限定と述語面が主語面を包むということがどう関わるかが分かりません。
佐野
その場合、主語面と述語面を分けて考えていますね。「変ずるもの」を考える場合には「述語として限定できない何物か」がなければならないと言われる場合、この「何物か」は主語面と述語面を分けて考えることのできないものだと思います。「変ずるもの」ですから、一方に「変ぜざるもの」があって、他方でそれが「変ずるもの」として変ずる、そうでないと「変ずるもの」を考えられない、ということです。しかも両面は分けて考えられないということです。

A

まだよく分からないのですが。
佐野
個(個物)ということもそうですが、変化・動ということに西洋哲学は苦しんできたと思います。人間は言葉で考えます。言葉はつねに一般です。「個」、例えば「これ」と言っても言葉にすると、どれも「これ」になってしまう。これに対して「そうじゃない、一般としての個ではなく、個としての個だ」と言い張っても、どれもそうした個です。それで例えば「質料」というようなものをもって来る。「質料」を「個体化の原理」として考える。三角形自体にこの三角形もあの三角形もない。しかしそれをペンで書くと、紙とインクという質料によってこの三角形やあの三角形になる。とても分かりやすいですが、じゃあなぜ「質料」によって一般が個になるのか、と言えばやはりよく分からない。こうして我々は一方に一般の領域を置き、他方に個の領域を置いて、それを形相と質料で説明した気になっていますが、結局はすべてを言葉によって一般的に説明しているにすぎない。

A

なるほど。
佐野
同じことは変化にも言えて、言葉によって変化を説明することは難しい。例えば「ある」と「ない」。言葉の意味からすれば「ある」は「ある」、「ない」は「ない」で、両者は対立します。しかし「ある」が「ない」に行くことが「消える」、「ない」が「ある」に行くことが「生ずる」で、両者合わせて「変化」です。我々はこの「ある」と「ない」の間に時間差を設けて変化を説明した気になっていますが、変化の瞬間を問題にすればそんなに簡単に説明はできないことになります。また「変ずるもの」を考える場合は、その根底に「変ぜざるもの」がなければ考えることができない。形相と質料は先程の場合は「一般」と「個(特殊)」を説明するものでしたが、それを「現実態」と「可能態」に重ねることで、現実態が変化や動の原因と考えられ、質料がそれがそこにおいてある「基体」と考えられ、こうして運動や変化が考えられることになる。こうしたこともすべて「変ぜざる」言葉による説明です。そこを西田は問題にしようとした、一般と特殊(個)、「変ぜざるもの」と「変ずるもの」を「矛盾」ということで考えようとしたのではないか、そう思われるのです。そのように矛盾した「述語として限定することのできない何物か」が一方で主語として「変ずるもの」として、〈この緑〉や〈この赤〉という「個物」になり、他方で述語として〈この木の葉の色〉という「最後の種」になる、そのように考えるべきだと思うのです。

T

その「変化せざるもの」ですが、一方では変化を考えるには「変化せざるもの」のような物差しがなければならない、ということと、他方では同一の基体が存続している、ということの両方の意味があると思います。そうして変化は言葉で捉えられないということでしたが、言葉もそんなにカチッとしているわけではなく、巾があるのではないでしょうか?例えば赤の中にも朱色もあるというように。

S

そのように一般を限定していって〈この緑〉だとか〈この赤〉に到達するでしょうか?〈この緑〉は今ここにしかない色で、同じものが二つとないもののことです。我々の言葉や意識はそうした個には到達できないと思います。ですが我々はそのように判断している、そこから出発しているのだと思います。
佐野
「最後の種」から「個」に至るには一種の超越が必要ということですね。

M

「最後の種」は個ではないのですか?
佐野
いえ。類を限定して種になりますが、それが最後の種になっても、種は種で、一般です。そこと個の間には断絶があります。

O

それならなおさら、個やそうした個の変化というものは意識や判断には捉えられないものになるのではないですか?
佐野
西田は変ずるものの意識や判断から出発していますが、それが可能となるためには何がなければならないかを問題にします。こうしてようやく「述語面の自己限定はいかにして可能か、述語面はいかにして主語面を包むか」Rさんの問いに到達することになります。これはいかにして一般は個になるか、という問いでもありますね。西田はどう考えているでしょうか(これは次回考えましょう)。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、最後の3行の考察がまだでしたね。Bさん、お願いします。

B

読む(288頁1行目~3行目)
佐野
ここは少しおかしな文章になっていますね。その前の文章では「主語的に云えば」と「述語的に云えば」と対になっていたのに、ここでは「述語面から云えば」はあっても「主語面から云えば」という句がない。「述語が主語を包むという考から云えば」という句はありますが、これは「主語面から云えば」とは言えない。そこでこの句は両面にかかるものと考えてみたらどうかと思うのです。つまり「述語が主語を包むという考から云えば、〔一方で主語面から云えば〕主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、〔他方で〕述語面から云えば、述語面が自己自身を限定することであり、即ち判断することである」というように読んでみては、と思うのです。そうすると、「述語が主語を包むという考から云えば」、包摂的判断で考える、ということですね。その場合、「主語が無限に述語に近づく」とは、主語面と述語面が区別されていて、それが近づいていくということではなくて、主語面と述語面が附着している一つの面を考えて、その上で主語、つまり〈この木の葉の色〉が〈この緑〉になったり、〈この赤〉になったり、無限に動くんです。もちろん、〈この木の葉の色〉の範囲内ですから、ピンクにはなりませんが。そのように〈個〉が無限に働いて〈この木の葉の色〉という「最後の種」に近づくことになります。「述語面から云えば」どうなるでしょうか。それは「述語面」の自己限定であり、それが「判断する」ことだ、ということになります。今日は先に進めませんでしたが、有意義な議論が行われたと思います。ここまでとしましょう。
(第74回)
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述語として限定することのできない何物か

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」「五」の第4段落286頁14行目「此の如き直ちに直観の場所」から同段落287頁7行目「その間に随意的意志が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に、その間に随意的意志が成立するのである。」(287, 6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「直観の述語面に於てあるもの」は「直観面」から見れば「状態としての意志」であり、「知識面」から見れば「作用としての意志」であるといわれる。そして、「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に」、すなわち、「状態としての意志」は「作用としての意志」を越えて無限に廣がる故に、その間に「随意的意志」が成立するといわれる。しかし、どこから見れば「随意的意志」が成立するといえるのだろうか。この「随意的意志」の成立をどのように考えればよいか」(215字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
質問は明確ですね。三種の意志について、「状態としての意志」は「真の無の場所」から、「作用としての意志」は「対立的無の場所」から見たものだとすれば、その中間の「随意的意志」はどこから見たものか、ということです。何かご意見はありますか?

M

「随意的意志」も「真の無の場所」から見たものではないでしょうか?「随意的意志」は「もっとお金が欲しい」といったような、前を向いて、「こうありたい」という在り方です。その中にいる間は「善い」と思っているが、後になって考えると何故そうしたのか、そのことに気付くからです。

W

後から、可能性に開かれていることに気付くというのは分かります。バッティングセンターでボールを打つ時、そのつどこれしかないと思って打とうとするんですが、空振りをする。そうするとその可能性に気づきます。そうして次にまた今度はこれしかない、と思うんです。

M

それはどこまでも悩んでいる状態ですね。それは「真の無の場所」から見た在り方とは違いますね。そうするとこの悩んでいる状態はその一歩手前ということになると思います。
佐野
西田はこの箇所では、「知覚面」「思惟面」「自覚的意識面(対立的無の場所)」と、「直観面(真の無の場所)」の4つに分けて考えていますが、「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間に、もう一つ「随意的意志」が成り立つ場所が必要だということになりますね。西田はこの論文の最後に「特に尚直観の問題には入ることができなかった」(289,4)と言っています。後の第5巻所収の「叡智的世界」では、この「知的直観の場所」が「真の無の場所」の前に置かれています。それが「知的直観の一般者」すなわち「叡智的一般者」です。西田は、それに於てある「叡智的自己」に知情意の三種を考え、「知的な叡智的自己」「芸術的直観」「叡智的意志」を挙げています。最後の「叡智的意志」は「良心」(自分自身を見るもの)の立場で、ここで知的直観の内容である「善のイデア」とそのつどの「随意的意志」が対立し、「悩める自己」が成立するとされています。ですから「場所」の論文では「随意的意志」が成り立つ場所というのは書かれていないけれども、後にそれは「直観」というものをさらに考えることによって「叡智的一般者」になって行く、そのように言えるかもしれません。

W

それは分かるんですけれども、その場合、「善のイデア」とか「至善」というものを前提していいのかなあ、と思います。

R

善を為せというのは良心の声です。これは事実です。猫が車に轢かれそうだとか、池に子どもが落ちそうだとか言う時に直ちに聞こえてきます。それを反省すると、いろいろ「自分」都合のものが出て来てしまいますが。

M

池に子どもが落ちる例は(もとは『孟子』にあるものですが)『善の研究』の最後の「知と愛」にも出て来ますね。

W

それも分かるんですけれど、そういう声も随意的意志ではないかと。逆に言えば行為(意志)の根拠を「善のイデア」に回収していいのかな、それを前提していいのかな、と思うのです。禅の五祖法演の「夜盗」の話にもありますが、そのつどの状況の中に投げ込まれ、これしかないとやって行く中で変わって行く、それしかないんじゃないかと。
佐野
実際には、我々はぐちゃぐちゃ考える以前に、というよりそれも含めて、すでに状況の中に投げ込まれていますし、生き方としてもそうした考え方はさっぱりしていて魅力的ですが、他面で我々は言葉で(ぐちゃぐちゃ)考える意識的存在であることを一歩も出ることはできないのではないでしょうか?言葉を用いる以上、その言葉の何であるかは漠然と理解されながらも、それが何であるかはどこまでも分からない。そこにイデア論が出て来ることになるのですが、これをどう考えるかが問題なのでしょう。またそのつどの状況の中での随意的意志しかない、ということになると、根無し草のように流されているだけだというような虚しさしかありませんね。しかし先程の「夜盗」の話でも、本人はそのつどの状況の中で「これしかない」と決断して苦境をおのれの才覚で切り抜けたわけですが、実は本人が気づかないところで、夜盗の奥義を伝授されていた、ということに気付くことがあり得るわけです。逆に言えばすべてを「随意的意志」に回収できる訳でもないとも言えそうです。プロトコルはこのくらいにして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(287頁7行目~15行目)
佐野
まず、「判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変ずるものは相反するものに移り行く」と一般的に述べられます。ここからは「働くもの(変ずるもの)」を見る、それについて判断するとはどういうことかが論じられます。そうしてまず「変ずるものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない」とされます。この「一般概念」とは、〈この木の葉の赤〉の場合、何になりますか?

A

〈この木の葉の色〉です。
佐野
そうですね。次を見ます。「かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とあります。これはどういうことですか?

A

両面に間隙がある場合です。
佐野
なるほど。たしかに〈この木の葉の色〉が「意識面」に於てあり、〈この緑〉ないし〈この赤(この緑ならざるもの)〉が「対象面」に於てあると考えるならば、両者の間には間隙がありますね。この間隙は物と性質の区別でもありますが、我々は普通こうした両面を区別します。しかも〈この緑〉と〈この赤〉とが「時間」によって隔てられていれば、変化は矛盾なく説明できるし、普通我々はそうしています。しかし西田はそれでは「働くものを意識することはできない」と言います。ではどういう場合に「働くもの」が意識されるのか。次を読んで見ます。「唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊的なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」。〈一般=特殊〉ですね。〈この緑〉(特殊)がそのまま〈この木の葉の色〉(一般)と隔てなく一つになっている在り方です。「矛盾」ですね。こうした矛盾において「働くもの」が見られ得ると。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次を見ます。「対象面が意識面に附着するということは対象が判断するものとなり、意識が変ずるものとなることである」とあります。普通は「対象」が変じ、「意識」が判断するのですが、逆になっています。しかし次を見ると「併し対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば」とありますから、「対象面が意識面に附着する」とは、所謂主客合一で、その場合「対象」が判断し、「意識」が働くものになる、というのです。しかしそれが単に主客合一にすぎないとすれば、そこには「働くものもなく、判断するものもない」ことになってしまいます。ではどうしたらよいか。「かかるものが見られ得るかぎり」とありますね。「かかるもの」とは?

B

「働くもの」、「判断するもの」だと思います。
佐野
そうですね。そういうものが見られ得る限り、「述語面が主語面を包むものでなければならぬ」。どういうことですか?

B

重なるということではないですか?
佐野
そうですね。さらに「包む」とは「包んで餘ある」ということで、述語面が主語面を越えて広がるということです。

C

どうしてそうなるのですか?

D

次に「而して判断意識の性質よりして何處までも斯く考うべきである」とあるように、包摂判断とはそういうものだからではないですか?
佐野
そうだと思います。次へ参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(287頁15行目~289頁5行目)
佐野
「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する」とありますね。文中「之」と「その物」は何を指しますか?

E

どちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。ところでこれは何を言っているのでしょうか。難しいですね。「相反するものに移り行く」とは例えば〈この木の葉の色〉の〈この緑〉が〈この緑ならざるもの=この赤〉に変ずることでした。この場合「述語として限定することのできない何物か」は何になりますか?

E

〈この木の葉の色〉ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。確かにそれは〈この緑〉だとか〈この赤〉というように述語として限定できない。しかしそれによって「述語となるもの」、つまり緑だとか赤だとかが「限定せられる」。矛盾ですが、「変ずるもの」の場合はこうならざるを得ない。また「述語として限定することのできない何物か」は「すべて」、つまり〈この緑〉だとか〈この赤〉だとかについて「述語となる」。ただしこの場合も包摂判断で考えます。

E

よく分かりません。別の例はありませんか?
佐野
そうですね。「佐野之人の生業」が述語として限定できない何物か、と考えましょう。それが自己限定して、山大の職員となり、年金生活者になる。どうですか?

E

すごくよく分かります。
佐野
そうして「佐野之人の生業」は包摂判断で言えば、「山大の職員は佐野之人の生業である」というように述語になりますし、「年金生活者は佐野之人の生業である」とも言えます。次へ参りましょう。「主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」とあります。文中二度出て来る「それ」は何を指しますか?

E

やはりどちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。その場合「主語的に云えばそれは個体というべきものである」とは、例えば〈この木の葉の色〉という主語が自己限定して〈この緑〉(個体)になるということです。「述語となる」という意味で「述語的に云えば」、「述語として限定することのできない何物か」が「最後の種というべきもの」になって〈この緑〉や〈この赤〉の述語となります。この場合も〈この緑はこの木の葉の色である〉、というように包摂判断で考えます。ここでの西田の主張は「働くもの」(変ずるもの)を見たり、判断したりするにはこの両面が必要だということです。

G

「最後の種」って何ですか?
佐野
まず種とは、類、種、個と言われる場合の種です。例えば「佐野之人は日本人で人間だ」という場合、「佐野之人」が個、「日本人」が種、「人間」が類になります。類を限定したものが種で、それにどんどん種差を加えて行って限定していく。日本人で、山口県人で、下関在住で、と限定していきます。でもどこまで行っても「佐野之人」という個にはたどり着きませんね。ですが例えば〈この緑〉や〈この赤〉を個と考えたら、〈この木の葉の色〉が「最後の種」になり得ますね。それに限定を加えれば個に至る。(じつは「最後の種」はここではきわめておおざっぱにしか論じられていません。〈この木の葉の色〉が「主語的に、云えば」「個体と云うべきもの」であり、「述語的に云えば」「最後の種と云うべきもの」というのも、目下の文脈の中で解釈したものです。「変ずるもの」ないし「最後の種」については『働くものから見るものへ』の最終論文「知るもの」(330,14-338,9)において改めて論じられることになります。その議論はそれまで待つことにしましょう。)ここまでで何か質問はありませんか?

G

それは変ずるものの基体を認めるということですか?
佐野
(ここからの発言は後から考えたのものです)今の例で言うと、〈この木の葉の色〉が基体になっていますね。変ずるものの基には変ぜざるものがなければならない、ということがまずあります。しかし述語面は主語面に附着してこれを包んでいますから、これは変ぜざるものでありながら、すでに〈特殊=一般〉という矛盾です。したがってこれは所謂質料のような基体ではありません。また現段階では〈この木の葉の色〉の変化ということで、〈この木の葉の色〉という一般概念に於て働くものが見られ、また判断もなされています。しかしこの「一般概念」はさらに拡大深化が可能です。そうしてそれが芸術的対象になれば、木の葉の変化は「真の無の場所に於てある」ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第73回)
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三種の意志について

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落、285頁6行目から286頁14行目「意味に充ちたものとなる」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂感覚的なるものも直観的なるものとして、その根抵は所謂意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならない。」(286 ,11-13)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「感覚的なるもの」はその於てある場所が「一般概念」から「真の無の場所」に転ずるとき、「真に直観的なるもの」となる。即ちそれが「芸術的対象」である。その場合、「場所が無となる」。つまり、意識面が自ら無となり、対象が無限の意味をもった対象として自身を見る直観である。この場合で、意識と対象とは一体になるが、なお意識面と対象面との対立はなくなることはなく、意識はなお自由に働くものになっていないのではないか」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
目下のテキストからは出て来ない疑問ですね。他の著作を参照されましたか?

R

はい。「叡智的世界」(旧全集第5巻『一般者の自覚的体系』所収)です。そこでは芸術的直観は真に自分自身の内容を見るものだが、完全に自由にはなっていない、とあります。
佐野
その場合の自由とは?

R

奥底から湧き上がる良心の声に従うことです。
佐野
なるほど。しかしここでは「叡智的世界」のテキストがありませんから、その内容を皆さんと共に検討することはできませんね。(後で「叡智的世界」を調べてみました。まず「芸術的直観は真に自分自身の内容を見る」については、「真に自己自身の内容を見るには、情的ノエシスに至らねばならない、我々は芸術的直観に於てイデヤ其者を直観するのである」(5,167,10-11)という表現が見られます。「完全に自由になっていない」および「良心」については、「芸術的直観に於てはノエシスがノエマに没し、叡智的自己がノエマ的に限定せられた自己自身を見るが故に、自己自身の矛盾を脱して宗教的解脱に類するものが感じられる。併し芸術的直観に於ては、限定せられた自己が見られるのであって、自由なる自己其者が見られるのではない。自由なる自己其者を見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じないなどと云うものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見るものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省其者が消磨すると共に、真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光を見ることができる」(5,176,4-11)という表現が見られます。ただしここで言われている「自由」は脈絡からしてノエシスの方向に見られる「随意的意志」と考えられます。次のように述べられているからです。「併しかかる直観(イデヤを見る知的直観:引用者)には、そのノエシス的方向に於て、何處までも随意的なるものが残されねばならない」(5,174,4-5)、「自己自身を越えて、何處までもノエシス的方向へ深く自己自身を見て行く自己が、真に自由なる自己であり、それはイデヤを見る自己の根柢を見るものである」(5,175,4-6)。そうしてこの「随意的意志」については「悪なる意志とは何であるか。それは随意的意志である、イデヤを否定し、無に向うの意志である」(5,174,11-12)と述べられています。本日の講読箇所に出て来る「随意的意志」にも深くかかわりますので、少し詳しく紹介しました。)ここでは一般的な哲学的問いとして一緒に考えて見ましょう。芸術的直観が自由でないとはどういうことですか?

R

自転車を運転していた時、突然道端の花にハッとする。この驚きにおいて自由はないと思います。

T

良心に従うことが自由だとおっしゃいましたが、花に驚くことも良心も自分のコントロールできない点では同じだと思います。しかしそこに「気づく」という仕方で自由があり得るのだと思います。そこに至るには何らかの準備(レディネス)が必要で、花との出会いも実はサイクリングの中に予め組み込まれていたとも考えることができます。
佐野
何故良心に従うことが自由で、花に驚くことが自由でないのですか?

R

花に驚くことの場合は、まだ直観する自分と花との対立が残っているからです。
佐野
「驚き」の瞬間にそうした自分が残っているのですか?

R

「考える自分」はなくなりますが、「直観する自分」と花の対立は残ります。

H

物(花のような対象)があると真に自由ではないということですか?

R

やりたいことがあれば、それに従うのが自由です。(この辺り、「随意的意志の自由(悪なる意志)」と「自律としての自由(良心の声に従う)」の区別がうまく表現できていないように感じられました。:佐野)

H

それでは「真の無の場所」においてあるものは何ですか?

R

宗教的な罪悪において赦されているということ、そうしてそれが真の自由だと思います。
佐野
なかなか難しい問題ですが、今日の講読箇所にも関わることですので、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(286頁14行目~287頁7行目)
佐野
難しいですね。少しずつ見て行きましょう。「此の如き」、「芸術的対象」のように、ということですね。そうした「直に直観の場所即ち真の無の場所に於てあるもの」が「所謂意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、それが無限に働くものとなる」とあります。この「無限に働くもの」は後を見ると「意志作用」(287,4)のようです。つまり「作用としての意志」ですね。そうなると「直に真の無の場所に於てあるもの」とは「状態としての意志」であることにもなりそうです。「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別は以前出て来ましたね。どこでしたでしょうか?

A

229頁です。
佐野
そうですね。ありがとうございます。そこをもう一度見て置きましょう。「意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と撰ぶ所はない。意志の背後に於ける暗黒は単なる暗黒ではなくして、ディオニシュースの所謂dazzling obscurity〔眩い暗黒〕でなければならぬ。かかる立場に於ける内容が対立的無の立場に映されたる時、作用としての自由意志を見るのである。意志も意識の様相と考えられるのは此の如き考に基かねばならぬ、作用としての自由の前に状態としての自由があるのである」(228,15-229,5)。テキストに戻りましょう。ここまで何か質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「而して直観の場所」、「真の無の場所」ですね、それは「所謂意識の場所」、これは「対立的無の場所」ですね。「直観の場所」はそうした「所謂意識の場所よりも一層深く広い意識の場所であり、意識の極致である」とあります。「極致」という言葉には注意する必要があります。つねにそこに挫折と転換があるからです。「無限に働くもの」はこれで終わりということはありません。それが「極致」に至るということは、これまでの場所である「対立的無の場所」が挫折を通して破れ、「真の無の場所」への飛躍的な超入が起るということです。そうなるとどうなるか?「真の無の場所」が「意識の極致であるから、内に超越的なるものを見ると考えられるのである」とありますね。この「超越的なるもの」って何ですか?

B

「内に」とは「意識」の内に、ということではないですか?
佐野
そうでしょうね。「外に」ではないということです。私の解釈ですが、この「超越的なるもの」は、先の言葉で言えば、「状態としての自由」ではないかと思うのです。「対立的無の場所」において「作用としての意志」(「無限に働くもの」)であった、その同じものが「真の無の場所」において「状態としての意志」として見られるということです。「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間には先程申したように超越がありますから、そのように解釈できるように思われるのです。いかがでしょうか?

B

とりあえず、そういうことにして先を読んで見ましょう。
佐野
はい。「併し逆に直観の場所から之を見れば、之に於てあるものが対立的無の場所へ投げた自己の影像に過ぎない」とありますね。最初の「之」は何を指しますか?

C

「内に超越的なるもの」です。
佐野
そうですね。私の解釈では「状態としての意志」です。それでは次の「之」は何を指しますか?

C

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。そのように「直観の場所」に於てあるもの(「状態としての意志」)が「対立的無の場所」の場所へと自分を投げる、そうするとそこに「影像」ができる、というわけです。この「影像」が「作用としての意志」です。ここまで、いかがですか?

D

大丈夫です。2行目の「併し」から反対の見方がなされているということですか?それまでは「対立的無の場所」から「真の無の場所」への方向だったのが、「併し」以降は逆に「真の無の場所」から「対立的無の場所」への方向になるというような。
佐野
そうですね。最初は表から、次に裏から、といった感じです。例の円錐形で言えば、最初は上から、次に下から、ということになると思います。そこで「此の如く直観の場所から見た時」、裏から見た時ということですね、その時「〔無限に〕働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」。「之」とは?

D

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。「真の無の場所に於てあるもの」(「状態としての意志」)が〔「対立的無の場所」において〕自己限定したものが「〔無限に〕働くもの」「意志作用」、つまり「作用としての意志」だということです。ここまではいかがですか?

D

大丈夫です。
佐野
「而して直観的なるものの於てある場所、直観の述語面」、これは置き換えですね。そうした場所ないし「直観の述語面に於てあるもの」(「状態としての意志」)を「知識面から見れば」とあります。この「知識面」とは後を読むと、どうやら「所謂意識の場所」つまり「対立的無の場所」のことのようです。その面から見ると「無より有を生ずる無限の作用と見られ」、とありますね。これは「作用としての意志」のことですね。その面では無限の作用が「有」であり、それが「対立的無の場所」に「於てある」と考えられています。その意味ではそれ自身が無である「対立的無の場所」には「無」はそこに「於て」ないと言えます。ところが有無を絶した「絶対の無」である「真の無の場所」に於てはそうした無もそこに於てある、そのように考えることができそうです。そうした「真の無の場所」である「直観面」から見れば、「それが意志である」とあります。「それ」とは何ですか?

E

同じものを「知識面」(「対立的無の場所」)と「直観面」(「真の無の場所」)の両面において見ているのですから、「それ」は「直観の述語面に於てあるもの」ではないでしょうか?
佐野
そうだと思います。私の解釈では「状態としての意志」ですね。同じものが「直観面」では「意志」つまり「状態としての意志」であり、「知識面」では「作用としての意志」だということです。さて次に「直観面は知識面を越えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのである」とありますね。これはどういうことでしょうか。「知識面」つまり「対立的無の場所」では「作用としての意志」、「直観面」つまり「真の無の場所」では「状態としての意志」、この両面の間に「随意的意志」が見られるというのです。意志に「作用としての意志」、「状態としての意志」、「随意的意志」の三種あるということになります。ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を描く」の例で言えば、描かれた地図を見ている限りはどこまでも描き続けなければなりません。これが「知識面」で、そこに於てあるのは「作用としての意志」。それに対して描く以前の足元のところ、そこが「直観面」です。これは「述語面に於て見られる自己同一」と呼ばれたものですが、「一般概念」のそれではなく、「真の無の場所」としてのそれで、そこに於てあるのは「状態としての意志」です。この「状態としての意志」は先に「ディオニシュースの所謂dazzling obscurity(眩い暗黒)」という表現があったように、単なる暗黒ではなく、直視することができないほどの「眩さ」ゆえの「暗黒」です。これは意志や衝動の根源的な暗さを言っているように思われます。それは『善の研究』では実在の形式(方式)として最初に出て来る「含蓄的(implicit)」な全体と言われていたものと同じもののように思われます。そこから意志が直観に基づいて自己限定するのですが、そこには機械的作用や本能的動作でない以上、「自知」の契機があります。これを取ったということはこれを取らなかったということが自知されています。そこに「可能性」が開けてきます。つまり英国の地図は別様にも描かれたかもしれない、ということです。ここに「随意的意志」が顕わになってきます。そうして無限に善を求めるということの裏面に、求めれば求めるほど顕わになるものとして「悪なる意志」つまり「随意的意志」が意識されることになります。今日はここまでにします。
(第72回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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