※著者肩書きは発表時のものです

2022

初期林京子文学研究

鹿安冉山口大学 大学院 東アジア研究科 博士課程 終了生

林京子は一九三〇年長崎県長崎市出身、翌年上海に移住し、一九四五年帰国し被爆した。林京子文学といえば、被爆体験そのものだけではなく、原爆が三十年後の被爆者に及ぼす影響もテーマに据えている。またそれ以降、上海での少女時代や家庭における問題などを題材とした作品が展開していく。本論では、林京子の初期作品を中心に、作家の創作意図と創作方法に注目し、それらの特質と相互関係を明らかにする。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

読むとはどういうことか
—石原千秋『読者はどこにいるのか』を読む—

唐露山口大学 大学院 東アジア研究科

私たちは日ごろ読書をしています。しかし「読むとはどういうことか」を考えることはめったにありません。今日は『読者はどこにいるのか』(石原千秋著)を手がかりにして、テクスト論(読者論)の立場から、皆さんとご一緒に「読むとはどういうことか」、「小説を読むということと哲学書を読むということはどう違うのか」といった問いを考えていきたいと思います。それが「人間」について思索するヒントになれば幸いに存じます。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

ハイデガーにおける「歴史性」の問題の再検討

廣田智子山口県立大学

ハイデガーは主著『存在と時間』(1927年)から一貫して、「自らに固有なもの」や「歴史性」を重視している。本発表では、1936年から38年の『哲学への寄与論稿』を対象として、ハイデガーの「存在の歴史」の構想における「別の原初への移行」について考察することで、ハイデガーにおける「歴史性」の問題を再検討する。 歴史的に規定された人間存在が共に生きるあり方をめぐっては、一般に、次の二つの立場が考えられる。一つは歴史性を重視する立場であり、もう一つは、それを超越しようとする立場である。前者は、所与の歴史的共同体の外部の声を排除して、自己を絶対化してしまう危険を有すると見られがちである。この問題を検討するために、発表では、まず、「別の原初への移行」の基本構造を確認し、次に、その背景にあるハイデガーの「存在の歴史」構想について考察する。これらの作業を通して、ハイデガー哲学における「歴史的なもの」の重視の積極的意義を明らかにすることを試みる。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

教育における「わかる」についての一考察

大藤渉山口大学教育学部小学校総合選修4年

本研究は、教育における「わかる」ことを中心とする授業とその構成を成り立たせる諸概念を批判的に考察することによって、所与の枠組みを保持したまま「わかる」あるいは「わからない」と二分法的に捉えることの問題を明らかにする(第1章)。こうした問題意識をもとに、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『差異と反復』を手がかりに、経験を超えた次元における「わからなさ」と経験的な次元で「わかる」、「わからない」と判断することを対比して考察する。そこで、〈私〉を確固たる前提として対象を「わかる」、「わからない」と判断する見方ではなく、所与の枠組みには判断することも還元することも不可能であり、判断する位相自体を壊すような新しいもの、つまり「わからなさ」との関係を結ぶことでひび割れる《私》という見方を示したい(第2章)。最後に、教育において「わからなさ」を射程に入れることの意義を明らかにするために「問題」概念について考察する。あらゆる局面につねに妥当するものごとを解答とみなすことが、「わからなさ」の捨象につながることを明らかにした後、「潜在的なもの(問題)」と「現働的なもの(解)」の関係を論じる(第3章)。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

「疑い得ないもの」とは何か―西田幾多郎とデカルト―

吹中駿介山口大学教育学部社会科教育選修4年

私は大学に入学するまで、この世界に存在するものを何一つとして疑わずに過ごしてきた。私が何気なく過ごしているこの世界、そしてこの世界内に存在するものはすべて疑いもなく存在するのだと信じていた。だがしかし、大学に入学し「哲学」に触れていくうちに私にある変化が訪れた。それは、改めてこの「世界」とは疑いもなくあるのか、目の前にあるペンや机は疑いもなくあると言えるのだろうか。今までは「疑う」ことをしていなかっただけであり、深く反省してみればこの「世界」というものや世界にある「もの」は疑わしいものばかりだったのだ。 それでは私たちにとって「疑い得ないもの」とはいったい何なのか。この問いを考えるため様々な文献を読み進めていくうちに私は二人の哲学者に出会うことができた。それは、デカルトと西田幾多郎だった。両者はそれぞれ「疑い得ないもの」とは何かを見出したのだが、私が着目したのはデカルトと西田幾多郎がそれぞれ見出した「疑い得ないもの」とは全く異なる事態なのか、それとも同一の事態なのかである。この点を上田閑照と斎藤慶典の解釈をもとに明らかにしていく。 また、本研究においては両者の「疑い得ないもの」の異同について明らかにしていくのだが、その「疑い得ないもの」が本当にあるのかについての検討は次回の課題とする。
Tweet about this on TwitterShare on Facebook