共に哲学する

大語面的限定の極限と直覚

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「五」の第3段落冒頭(362頁2行目)から「と考えられるのである」(362頁15行目)までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「非合理的なるもの即ち直覚的なるものを含むと考へられる推論式的一般者に於て、その媒語面に於て現れるものが時に於てあるものと考へられるのである」(362, 13-15)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田によれば、「推論式的一般者」は「直覚的なるもの」を含むものである。例えば、目の前にある物を食べて、「やっぱりカレーは美味しい」と判断したとする。この判断は、「カレーは美味しい。この食べ物はカレーである。ゆえに、このカレーは美味しい」という推論として捉えることができるだろう。しかし、「やっぱり」という場合には、「カレーは美味しい」という判断が前提されている。この前提は、いかにして前提になったのだろうか。それは、ある何かを食べるという経験と、どのような関係にあるのだろうか。また、「このカレーは不味い」と判断するとき、「カレーは美味しい」という前提は揺らぐだろうか」(284字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

A:推論式一般者というのはあくまで論理の問題であって、「美味しい」かどうかという問題ではないのでは?

―「このカレーは赤い」ということになれば、「このカレー」は「真(真理)」か否かの対象となりますが、このカレーが食べてよいものかどうか、となると「善」の対象となります。それと同様に、「このカレーが美味しい」かどうかは、「美」の対象と考えることができるように思います。西田は「知るもの」ということで「情意的意識」も含めて考えていますから(324頁)、ここはWさんの意図を汲み取って、自由に哲学してみたいと思います。私もこのカレーに関する三段論法を見た時、最初は違和感があったのですが、よく考えて見ると、例えば今晩の食事をカレーにしたときの場合のように、我々は日常的にこうした三段論法を駆使しているなあ、と思い直した次第です。その場合「カレーは美味しい」が前提となっている、ということで、この前提がいかにして前提になったのか、ということが第一の問いになっていますね。

B:これまでカレーを食べた経験からではないですか?

―たしかに西田は「帰納法的」な「推論式一般者」と言っていますね。

W:それが「カレーは美味しい」という「一般概念」になる所が気になるのです。

―二番目の問いに関連しそうですね。「或る何か」を食べた、「美味しかった!これ何?」、「カレーというものだよ」、「そうか、カレーって美味しいね」。これではダメですか?

W:もしその「美味しかった!」が直観に基づいているとすれば、そこで勝負はついているような気がするんです。

―直観に基づいているとしても、それを判断して言葉(概念)にもたらさないと、「美味しい」かどうかも分からない。でも言葉にもたらすことは分別することですから、それによってすでに直観は隠されてしまう。つまり言葉(概念)は直観を顕わにすると同時に隠すのだと思います。そのようにして「美味しい」ものとしての「カレー」という一般概念が形成される。

W:ええ。ですがその時でも、「或るカレー」は「不味い」ということはあると思います。

―三つ目の問いに関わりますね。「このカレーは不味い」と判断するとき、「カレーは美味しい」という前提は揺らぐだろうか、ということでした。普通に考えれば、いきなり揺らぐということはないですね。「この」カレーは不味い、ということで「美味しいカレー」からは排除されるだけです。

W:でも、今まで食べたこともないカレーに出会って、「何だこれは?!」ということになって、「カレー」の一般概念が揺らぐということはあると思います。

―そうですね。たしかに両方ある。揺らぐことによって、また新たな「カレー」の一般概念が形成されることになりますね。

W:ええ。「カレー」の一般概念が形成されては、崩れる。この往還があるのですが、西田の場合、この往還が調和的に考えられていると思うのです。

―西田の場合、直観したところから考察を始めますので、そうなると思います。直観で勝負がついている、というのはそのことを言うのでしょうか?

W:ええ。ですがそこのところはどうなっているのだろうか、と。

B:その場合でも、Wさんは西田と同じように、直観から始めようとしているように思われます。でも赤ちゃんならいざ知らず、言葉でしかものを考えることができない大人は直観から出発することはできないと思います。

―たしかに判断や反省から区別された判断以前や直観というのもすでに概念であり、分別ですね。我々はそれしかできない。そもそも判断以前の直観から始めるということが原理的にできない、そのように思われますね。そこで判断以前から始めることをやめる、つまり判断以前については沈黙するか(例えばヘーゲル)、直喩(かのように)を用いて語るか(例えばカント)、隠喩(メタファー)を用いて語るか、分別と無分別の領域の全体を見据えて、それを別の論理(例えば「即非の論理」)を用いて語るか、あるいはこれらのように直観の立場にじかに立つのではなく、この立場の矛盾そのものをどこまでも人間の抱える矛盾として、それを言葉にして行くか、哲学の在り方が根本的に問われているようですね。プロトコルはここまでにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(362頁15行目~363頁9行目)

―「意味とか価値」と「時間的なるもの」とが如何に結びつくか、ということが問題になっていました。そこで「時に於てあるもの」を「前に」つまり「四」で論じた如くに考えて見ることにして、「一般概念的なる大語面を基礎として推論式的一般者を限定して行く」わけです。これは空間・時間の形式やカテゴリーによる限定のことで、物理学的・自然科学的な手法です。その場合「超越的なる小語面」、つまり個物ですね、それに結び付かない間は、「大語面」が「媒語面」と結びついていても、「一般的法則の体系」という如きものに過ぎない、とされます。

A:「一般的法則の体系」とは具体的に何ですか?

―多分、カント哲学における「原則の体系」などを念頭に置いていると思います。「原則の体系」は、「意識一般」によって直観的なもの(感性の形式=空間・時間)と概念的なもの(悟性の形式=カテゴリー)が結合されることによって成立するものです。この体系が「小語面」に結び付くことによって、個物が「時の系列に於てあるもの」と考えられるとされます。

A:具体的にどういうことですか?

―基本的に物理学的・自然科学的アプローチだと思います。木の葉が緑から赤に変わる場合のみならず、美味しいお酒や美しい仏像ができるプロセスを科学的に解明する手法もこれに当てはまると思います。昔は職人さんが直観に基づいて制作していたものを、科学的なアプローチで再現するやり方です。昔の酒造りの杜氏さんの技術はなかなか伝わりにくいものだったそうですよ。今では有名な「獺祭」の昔の杜氏さんは「霞がたなびくように」とか、その真髄を語っていたとのことですが、これでは分からないということで、その酒造会社の社長さんは科学的な分析によって酒造りを行うようにしたと聞いたことがあります。こうした「大語面」的な限定はたぶんAIが得意だと思います。こういうやり方で曲だろうが何だろうが作ってしまうでしょうね。それはともかく次を読んで見ましょう。「元来非合理的なものを含む推論式的一般者というべきものは、一般概念的なる大語面によって限定し尽すことのできぬものでなければならぬ、此故に時に於ては小語面たる現在は常に達すべからざる一点と考えられねばならぬ」とあります。

A:どういうことですか?

―作用を外から見るやり方を念頭に置いていると思います。その場合、「現在」はどうしても掴めない。「現在」と言った時にはすでに過去になっているからです。以前、徳山の点心のお話をしました。現在心不可得ということで点心が頂けないというお話でした。これは時間を外から見ているからですね。

A:酒造りや仏像のように出来上がったものの場合はどうなりますか?

―個物が「非合理的なもの」である以上、再現はどこまでもできない、ということになるのではないでしょうか。単純な再現でない場合でも、それらしいものはできると思いますし、素人目には区別ができないにしても、やはり本物ではない、というところは残ると思います。科学的な手法を駆使する場合でも、最後のところでそれを導くものはやはり直覚的なものでなければならないだろうと思います。これをなしで済ませて売り上げなどの結果だけを求めようとすれば、おそらく文化としてすたれていくだろうと思いますが、どうでしょうか。それはともかくここで言われている「現在」とは、こうした直覚的なものが「そこ」においてあるところのものと考えられます。次に行きましょう。「斯く大語面を基礎として推論式的一般者の内容が限定せられた時」、科学的なアプローチによる探究ですね、「その極限に於てすべてが単に時に於てあるものとなる」、そうした探究によってすべてが解明されることになるけれども、それは「極限」においてのことである、つまり科学的なアプローチによる探究は限りがない、ということです。そうした極限において、これらすべての「時に於てあるもの」よりも「更に深い直覚的なるものと接触すると考えられる」とあります。「極限」ですから実際に接することはないので、そのような「小語面に於てあるものは、時の外に超越する直覚的対象と考えられる」というように述べられています。この直覚がAIにはできないことにして、科学的なアプローチが見失ってはならないものだと考えられます。次をBさん、お願いします。

B:読む(363頁9行目~14行目)

―「元来」とありますね。西田はここで「具体的一般者」である「推論式的一般者」の方から話を始めます。直覚から考えるということですね。そうすると「時」そのものが「推論式的一般者」の自己限定の一形式にすぎないので、「時に於てあるもの」は「小語面に於てあるもの」、つまり「直覚的対象」との関係を離れることはできない、ということになります。そうして「時の一般者を一つの推論式的一般者として見る」、つまり直覚なしで済ます場合ですね。その場合には「時に於てあるもの」つまり「時間的なる出来事」が直覚的な「対象を志向する」ということになります。直覚を前提とせずに、どこまでも科学的なアプローチによってそれらしきものを再現ないし実現することはできますが、直覚に基づかずに売り上げなどの結果だけを出そうとすれば、文化としてはすたれていくだろうということは先程申し上げました。それはともかく、今言ったことを西田は、ラスクの「対立なき対象」つまり「超対立的対象」に重ねます。ラスクの「超対立的対象」は判断以前の対象のことでした。それが「大語面的に限定せられた時の一般者」、つまり直覚なしの推論式的一般者ですね、その場合「内容」はどこまでも「志向」されるもの、「無限に達することのできない対象」ということになります。次をCさん、お願いします。

C:読む(363頁14行目~364頁3行目)

―いきなり読みにくい文章ですね。「意味とか価値とかいうのは推論式的一般者が大語面的に限定せられた時、小語面的内容がその小語面的独立性を失うたものである」とありますが、この最後の部分を「失うた〔ところに出て来る〕ものである」と読んで見たいと思います。というのも後で出て来ますが、「小語面的内容は大語面的に分解せられ、意味とか価値とかとして、時間的なるものの外にあるを免れない」(367,4-5)とあるからです。ラスクは「超対立的対象」の直覚は認めませんから、西田はラスクの「超対立的対象」を、判断ないし主観(「大語面的限定」)による「破壊」のあとに、「意味や価値」として「時間の外に」「志向」されるものと解釈している、と見ることができます(このことは後の段下げの部分で明らかになると思います)。同じように次の文章も、「即ち小語面的対象が大語面的時によって破壊せられた〔ところに出て来る〕ものである」と読むことにします。そうして西田は「ラスクの破壊者としての主観は此の如き時の統一を意味せなければならぬ」と述べます。この場合のラスクの主観(判断)が「大語面的限定」であることを言っていると思われます。それ〔による破壊〕によって「意味や価値」が出て来る、志向される、ということです。そうして最後に「非合理的なるものを包んだ推論式的一般者即ち帰納法的一般者は大語面的に限定することもできるが、無論大語面的に限定し尽くすことのできるものではない」と述べられます。そこで出て来るのが、ラスクの場合は「意味や価値」の「志向」であり、西田の場合は直覚ということになります。次をDさん、お願いします。

D:読む(364頁4行目~12行目)

―最初に「無限大の軸を有する楕円」のイメージが与えられます。まず円をイメージして、その上部の頂点が「小語面」、下部の頂点が「大語面」で、横軸の直径が「媒語面」です。この「媒語面」の軸を無限大にして行くと、楕円形はどんどんぺしゃんこになって行き、その極限において一つの直線になってしまいます。この直線は、「時は過去無限、未来無限の直線」です。さきほどは「極限においてすべてが単に時に於てあるものとなると共に、推論式的一般者の主語面として更に深い直覚的なるものと接触する」と言われていましたが、この時もこの楕円形がイメージされていたのかもしれませんね。先程は大語面を基礎として小語面に接触する場合でしたが、そうであれば、「小語面を基礎として〔推論式的一般者は〕自己を限定する」と考えることもできるはずです。「現在」の「直覚」の立場に立つということです。そうなるとこの「現在」は「過去未来を包んだもの」となります。アウグスティヌスの言うように、過去は記憶として、現在は直観として、未来は期待としてすべてが「現在」のうちに包まれることになります。

D:「時」を外から見るのでなく、現在という瞬間に立つ、ということですね。

―そういうことだと思います。次を読んで見ましょう。「而して前に推論式的一般者を何處までも大語面的に限定することから、時の外にあるものと考えられた意味とか価値とかいうもの」とありますね。「前に」とはそのままの形では出て来ませんが、第3段落終わりの部分を指すと思われます。そうした「意味や価値」が「あるもの」として、「時の発展を含み意味都とか価値とかいうものを荷うた意識作用」と考えることができる、そのように西田は言います。作用を外から見ると時の系列のうちに現れてきますが、そうではなく、作用そのものに成り切るということです。アリストテレスの〔物の〕運動(キーネーシス)と〔魂の〕活動(エネルゲイア)の区別にも通じるところがありますね。

D:ここで突然「意識作用」が出て来たのはなぜですか?

―「知るもの」の最初をご覧ください。324頁から325頁にかけてです。第1段落で、知情意の全体を含んで、「知ること」は「意識作用」である、ということが確認されたのち、第2段落で、「意識作用」が一面で、「作用」である限り、物理現象同様、「時に於て生滅する出来事」とされ、他面で内に「意味」を含むけれども、「意味」は「時を超越している」とされます。そこで「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」が問題になったわけです。その解答がここでとりあえず得られたことになります。大語面を基礎とする立場から、小語面を基礎とする立場への転換によってそれが成し遂げられたことになります。今日はここまでとしましょう。

ヂ:(第124回):ヂ

 

「時に於いてあるもの」と意味・価値の結合(旧全集4「知るもの」五§3)

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「五」の第1段落冒頭から第2段落末362頁1行目までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々は何時でも同一の意味を考え得るのである」(360頁7~8行目)」でした。そうして「考えたことないし問い」は、「ある人の日記に「晩御飯でカレーを食べた」とあり、その記述自体は真であるとする。しかし、その日記が異なる国や時代のものであれば、その「カレー」は私達が考えるカレーとは別物かもしれない。それでも、どうして「その人がその晩カレーを食べた」ということについて、時間を超えて同一の意味として真と考え得るのだろうか。揺らぐ言葉が指し示す意味とは、文脈の中でその都度推定・再構成されるものではないだろうか。」(196字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―判断によって意味の世界が開かれますが、判断作用自体が「時間的出来事」であることに従って、その世界はつねにそのつどのものとなりますから、意味もつねにそのつど構成されることになるのはそのとおりです。しかし他方でそのつどの判断内容自体はそうした時間的なファクターを含みません。たとえ時間的な出来事(「昨晩カレーを食べた」)でもそのこと自体は時間を超えた真理として主張されている、そういうことだと思います。その命題の真偽を判定する場合でも、かりにカレーの意味が変遷しているとして、そうした意味の変遷を踏まえて、やはり超時間的な意味を探究しなければならない、そういうことになると思います。

T:でもそれは不可能だと思います。どこまでも推測の域を脱しないと。基本的に真理というのはつじつまが合っている(整合性)だと思います。

―現実的にはそういうことにならざるを得ませんが、「真理とは整合性である」、というのは一つの主張だと思います。別の考え方も当然あり得ます。人間は何かを主張する場合に、「真」ということを前提せずに主張することはできません。たとえ嘘をつく場合でも、不確かなことを主張する場合でも、「真」ということは前提として意識されています。ただ「真(真理)」が何であるか、はよく分かってはいない。「真理とは整合性である」という主張に対しては、「真理とは物と知性との一致である」という主張を考えることができます。この場合には真理の根拠は認識に関わらない「物(存在)」の方にあることになります。先程のカレーの例で言えば、その晩にカレーを食べたか、食べなかったか、という事実そのものです。これに対して「整合性」説における真理の根拠は主観的なもののうちにあることになります。この二つの説は真理の根拠を主観客観のどちらかに置いていることになりますが、主客分裂以前、つまり判断以前に求める考え方もあります。

A:詳しく説明してください。

―推論式的一般者の大語面的限定の方向において、数学や物理学などの自然科学が事実として成立することが明らかになったと思います。この事実として成立しているものがはたして真であるかどうかは別の考察を必要とします。そこで事実として成立している数学や自然科学が如何にして可能か、という仕方でそれを基礎付けるのが批判哲学です。「カントに帰れ!」をスローガンとして成立した新カント学派もこうした基礎づけを行うことから始まりました。こうしてバーデン学派(西南学派)のヴィンデルバント、リッカート(リッケルト)によって、自然科学が「真」、道徳が「善」、芸術が「美」、宗教が「聖」という「価値」によって基礎付けられることになります。おそらく西田はこの哲学史的な流れを念頭に置いて、「五」で大語面的限定から小語面的限定に話を移していきます。ここまで、分からないところはありますか?

A:大丈夫です。

―ここでは「真(真理)」という「価値」を取り上げましょう。リッカートの場合、カテゴリーは認識主観の形式であり、対象は認識主観によって構成されます。この場合真偽の基準は認識主観の整合性に求められます。これに対し、ラスクの場合では、構成的カテゴリーは、判断以前において対象(超対立的対象)を構成し、真偽の基準はこの超対立的対象に属することになります。この超対立的対象が属する領域は、判断以前なので、判断における客観(その晩にカレーを食べたという事実、存在)や主観(整合性)とは異なる領域です。これが価値とか意味と呼ばれる妥当性の領域です。リッカートが真理の根拠を主観のうちに求めたのに対し、ラスクは判断以前に求めたことになります。ただ判断以前とは言え、あくまで「対象」の領域です。これに対し、「意味」をラスクと同様に判断以前に求めながら、それを「対象(存在者)の意味」ではなく、「存在の意味(Sinn von Sein)」とし、それによって判断以前の「生きられる世界(Lebenswelt)」が開示される、としたのが初期のハイデッガーです。この「存在の意味」がのちに「存在の真理」として捉えられて行くことになります。この場合の「真理」とは「アレーティア」、つまり覆われていない、という意味です。ハイデッガーの場合、判断(命題)の真理は判断以前の「存在の真理」に基づくことになります。ここには存在者と存在の区別(存在論的差異)、あるいは判断と判断以前の区別が明確ですが、これを具体的一般者の自己限定として、直観から反省(判断)を説明しようとしたのが、現在講読中の「知るもの」における西田です。西田は判断の真を明確に「一般者の自己限定」であると述べます。ハイデッガーが判断(命題)の真理の根拠を判断以前の存在(Sein)の非覆蔵性(アレーティア)に求めたのに対し、西田は判断以前(直観)と判断(反省)の両者を含んだ全体(具体的一般者)のうちに求めたことになります。この判断の成立を説明するのに、事実的な判断と価値的な判断を分け、前者を大語面的限定、後者を小語面的限定とすることで、両者を推論式的一般者から説明できるのではないか、そのように西田は考えたと思われます。ただこの時期の西田は直接に具体的一般者の直観の立場に立ちうると考えており、そこから具体的一般者の自己限定を考えるわけですが、そのことによって逆に直観と反省の区別(差異)が見えにくくなくなっています。直観は反省の破れとしてのみ成立する、こうした側面が背後に回ってしまっている感じがするわけです。ここまで真理の所在として、判断における客観的存在、主観(整合性)、判断以前の対象(超対立的対象)、判断以前の対象化できないもの(存在)、判断と判断以前を含んだ全体(具体的一般者)があることを見てきました。きわめて雑な整理ですが、ここまでで何か質問はありますか?

A:未消化ですので、あとでまたいろいろ調べながら考えて見たいと思います。

―是非そうしてください。こうした整理は私などより生成AIの方がはるかに正確で、上手です。生成AIができないことは、享受する(味わう)こと、言葉にならない体験をすること、それに基づいて評価すること、それこそ意味付け・価値づけすることだと思いますが、こうしたものを苦労をせずに手っ取り早く手に入れようとすれば、AIに使われることになると思いますし、「評価する」という結果だけを出そうとすれば、これもAIの方が得意だと思います。結果を求める(先へ行く)のではなく、現在目の前にあるものの根底、さらにはそれを目にしている各自の足元に隠れているものに触れながら、これと対話すること、つまり、今の場合でしたら「読むこと」、これを大いに楽しんでいこうと思います。AIはあくまで辞書を引く、というような意味で補助的な場面での効率化に役立つというように考えたらよいのではないかと思います。それでは引き続き、Aさん、お願いします。

A:読む(362頁2~4行目)

―大語面的な限定では、時間的な出来事の無意味な経過しか記述できませんが(こうした経過のうちに因果関係を持ち込んで法則として説明するのが自然科学です)、こうした経過のうちにさらに、何らかの「対象を志向」して、それについて例えば「真偽」を問題とすれば、そこに意味が生じることになります。これが「価値を荷うものとして」の「判断作用」です。この「判断作用」を理解するには、「判断の根柢」、判断以前ですね、ここに「具体的一般者という如きものを認めねばならぬ」とされます。判断は基本的に主語と述語への分割と両者の関係づけですから、判断を理解するには、判断以前に主述への分割以前がなければならない、ということです。これを逆から考えると「判断は具体的一般者の自己限定」ということになります。またそのかぎりにおいて判断は「真」となります。次をBさん、お願いします。

B:読む(362頁4~8行目)

―上で考察した「具体的一般者」は「価値」判断としての判断作用を成立させるものですから、こうした判断が時間を超えて真偽を問題にするものである以上、「具体的一般者」も「超時間的なる一般者」であることになります。他方で判断作用は時間的なるもので「変ずるもの」です。しかし価値とか意味とかは超時間的なものですから、こうした時間的なものに結び付きようがない、そこには「越えることのできない間隙がある」ことになる。これを「避くべからざる矛盾」とか「知識以前」の出来事だといって、「問題を打ち切ってしまえばそれまでであるが」、考える術はある、そのように西田は考えます。ヒントは「価値と結びつくことのできない時間的なもの」、無意味の「変ずるもの」ですね、これも「考えられたもの」だというところにあります。次をCさん、お願いします。

C:読む(362頁8~15行目)

―「私は「時に於てあるもの」を前に論じた如く」、「前」とは「四」のことでしょうね。そのように「考えることによって、意味とか価値とかいうものとの結合を見出し得ると思う」、とあります。何と何の結合ですか?

C:「時に於てあるもの」と「意味とか価値とかいうもの」です。

―そうですね。時間的なものと超時間的なものです。「四」では、推論式的一般者の大語面的限定が考察されていましたね。どうやら推論式一般者で考えると時間的なものと超時間的なもの(意味・価値)との結合が見いだされる、ということになりそうです。さて「時に於てあるもの」を考える場合でも「具体的一般者」から出立しなければならない、と述べられます。確かにそうでしたね。そうして「具体的一般者の根柢が抽象的一般概念によって限定することができないと考えられるかぎり、時に於てあるものが考えられる」と述べられます。「赤にして赤でない」といった矛盾を包む一般概念はないので、「時」をもってきて、赤から赤ならざるものへと「変ずる」と「考える」、ということです。この「変ずるもの」が「時に於てあるもの」と「考えられたもの」です。ここまでは今後の一般的な方針を述べたにすぎないようです。そこでここから改めて「具体的一般者の最も完全なる形は推論式的一般者であるということができる」と筆を起します。そうして「推論式に於ては小語面と大語面とが対立し、媒語面が具体的一般者自身の限定面として両者を結合する」と基本的な事柄が確認されたのち、大語面的限定の側面の考察に移ります。その場合、小語面は「非合理的なるもの」「直覚的なるもの」となり、それが媒語面に於て「時に於てあるもの」と考えられるのだ、とされます。話の途中ですが、時間になったので、続きは次回ということにして、今日はここまでとします。

ヂ:(第123回):ヂ

 

意味とは如何なるものか

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第6段落冒頭358頁2行目「併し媒語は」から359頁末までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「それで非合理的なるものを含む一般者といふべき変ずるものが推論式的一般者として見られ、その媒語面が大語面的に限定せられ、而も小語面と接触して矛盾的統一面が成立するかぎり、時の世界が見られるのである」(第7段落冒頭=358頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「具体的一般者を推論的一般者として捉えなおすとき、大語、小語、媒語の関係を持つ矛盾的統一面の成立に時の世界を見ることができ、時の内容は小語に属するとある。小語はともかく大語と媒語はあらかじめ在るものなのだろうか。仮に大語、媒語に先立って小語があるとしたら、わたしたちの意識には大語、媒語が成立する以前にこれらに代わるものがあるのではないか。」(169字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―初めに「小語」だけの世界があると。

S:ええ。それが大語、媒語となるようなものを含んでいて、しかしそれがそのまま展開するというのではなしに、飛躍をともなって大語、媒語に展開するということです。

―Sさんは登山をされますが、「小語」だけの世界というものをそれで説明してみて下さい。

S:ただ登っている、という感じです。標高が高くなると思考力も鈍くなってきて、身体がただ何かに反応している、って感じです。

―生物、動物の境涯ですね。そこから何らかの飛躍があって判断的な言語の世界が立ち現れると。

S:そうです。そうした境涯が元初の在り方ではないかと思うのです。

T:それは個人の心境ではないですか?そうした心境も覚めて見ればそこに山が厳然として存在していることが顕わになるわけですから、元初はむしろそうした実在ではないかと。

―それはきわめて常識的な見方で、我々は通常そのように考えていますし、科学もそうした立場に基本的に立っていると思います。安定した世界観が示されれば、人間はそこに住みやすくなるからです。これ所謂実在論的な見方で、そういう立場に立つ哲学ももちろんあります。ただ西田はそうした立場には立たない、と思います。そこには多くの前提が持ち込まれているからです。まず認識を離れて物や自然などが客観として存在していて、さらに人間(主観)もそうした客観として存在している、そうしてそれを見ている観察者の存在が前提されています。これに対して西田は直接的なものから出発しようとします。ありのままをありのままに見ているというあり方、直観です(これがおそらくSさんの、小語だけの世界です)。しかし「直観」というのも、すでにそれを外から見て(反省して)言えることですので、直観と反省(判断)の統一が問題になります。それがないと哲学が成り立ちません(媒語と大語が必要になる)。今盛んに問題になっている「具体的一般者」「推論式的一般者」もすべてこうした関心から出て来るものです。

Y:だとすると、推論式的一般者のどれもが、それだけで成り立つということはない、したがって小語だけの世界というのはありえない、ということになりますね。

―人間の場合、そういうことになると思います。そこで西田は具体的一般者を元初として、そこから出発して、様々な判断がどのように成立するか、それを論じようとしているのだと思います。そうした様々な判断によって、我々の常識的な世界観が成立している、そんなことを示そうとしている、そのように見えます。目下のところ、感覚的判断、知覚的判断、物理現象、と来て、これから価値判断に進もうとしているのでしょう。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(360頁冒頭~4行目まで)

―まず「以上は厳密なる意味に於て、時に於て生ずる出来事が意味を有つという如きことの不可能なることを論じた」とありますが、これは前段落最後の内容を確認したものです。「出来事」と一般的に言えば、生滅するものをも含みますが、「時に於て生ずる出来事」と言えば「変ずるもの」のことです。これが小語面に来ます。大語面は意識一般と考えていいと思います。両者を媒介する媒語は差し当たり「感覚的性質一般」で、「これは赤い」などの感覚的判断や、「このリンゴは赤い」などの知覚的判断の場合にはまだ「時」は出て来ません。主語について「赤であると同時に赤でない」と言われる時、小語は「変ずるもの」となり、媒語の「感覚的性質一般」が同時に「時其者」でもあることになります。これは感覚的性質一般が大語面の意識一般の形式である「時」によって限定されたものと考えることができます。「厳密なる意味に於て」をどのように読むかは難しいのですが、例えば因果関係などのカテゴリーを適用しない、などが考えられます。そうすると、判断の述語としては「前後、長短」しか言えないことになります。これがあって、それからこれがあって、これとこれの間の時間は長くて、といった具合です。

A:パラパラ漫画みたいなものですか?

―そうですね。それだけでは何の意味ももちえない、そう西田は考えます。意味をもちうるのはその背後に何かを考えるからですね。こうなるとそれは単なる時間的な物理現象ではなくなって、その背後に「対象」を「志向」する「意識現象」となります。この「対象」との関係において「意味=価値」が生じます。そんなことを念頭に置いて西田は「我々の意識現象が時間的なると共に志向的であるとか、意味を荷うとか考えられるならば、如何なる意味に於て斯く考え得るであろうか、意味とは如何なるものであるか」と「五」のテーマを提示します。次をBさん、お願いします。

B:読む(360頁5行目~9行目)

―「意味とは何か」を明らかにするには「判断作用」から出立しなければならない、とされます。意味は判断作用によって生じるからです。この「判断作用」は「作用」一般として「物理現象」同様に、「時間的出来事」です。ここでは「因果関係によって生起する」となっていて、「厳密なる意味」での時間的出来事より、一歩進んだものとなっています。科学は「厳密なる意味」での時間的出来事のうちに「因果関係」を探究するものです。それはともかく、判断作用は他方で、真偽が問題になりますから、「客観的対象」に関係(これが意識の志向作用です)することになります。この「真偽」が「価値」とか「意味」と呼ばれるものです。この「客観的対象」はたとえそれが時間的な出来事であったとしても、真偽が問題になる場合には「超時間的」となります。昨日の晩御飯で食べたものが何であるかは時間的な出来事ですが、それがカレーであったとすれば、昨日の晩御飯でカレーを食べたことは超時間的に真です。また「真」という「意味」も「超時間的」です。「我々は何時でも同一の意味を考え得る」、時間を超えて「昨日の晩御飯でカレーを食べた」ことを真として考えることができるのです。次をCさん、お願いします。

C:読む(360頁9行目~14行目)

―判断はこの意味において「時間を超越」するものですが、それはどういう意味かを問題にしようとしています。物理現象を問題にする際にも「客観的対象」である「変ずるもの」は超時間的な「存在」ですが、真偽が問題になる場合にはその「存在」が「価値(意味)」に変ずるのだ、ということを言おうとしています。同じ「超時間的」ということでも、その意味が異なるということです。この辺り、「存在の前に意味がある」としたリッケルトが念頭に置かれているかもしれませんね。「存在」というのはすでに真偽が問題になる意味だと。それはともかく、次にこのことが詳しく述べられます。次をDさん、お願いします。

D:読む(360頁14行目~361頁6行目)

―意味が判断作用を超越するというのはどういう意味か、が問題になっていますね。

D:次に出て来る「本体」とは何ですか?

―次に「主語となって述語とならない」とありますから、アリストテレスの「ウーシア」のことです。それを「本体」と訳したのです。これは「実体」とも訳されます。この「実体」は「我々の判断作用を超越してそれ自身に永遠なるものと考えることはできる」とありますね。「実体」を物理現象として自然科学的に「存在」と見た場合です。しかしこういう見方では「意味」は出て来ません。そこで「判断の主語的方向に於て超越すると考えられるものは超越的存在に外ならない」と言われることになります。さきほどでてきた「存在」です。この「存在」を真偽の基準とすることによって、この「存在」は「価値(意味)」となります。この「存在」は主語的方向への超越に置いて見られるものですが、この「存在」を「価値(意味)」の対象とするものは、述語の方向にある、つまり「意味の超越性」は「述語的方向」に置いて見られる、と西田は考えます。そうして「判断に客観性」、「真」ですね、それを「与えるものは存在でなくして価値であると考えられる時、判断の真の主語となるものは特殊なるものではなくして総合的全体でなければならない」とされます。

D:「総合的全体」とは何ですか?

―何と何の総合だと思いますか?

D:主語と述語、あるいは特殊と一般ではないでしょうか?

―別の言葉で言い換えたら?

D:「具体的一般者」ですか?そう書いてくれればいいのに。

―以前にもこういう言い方がされていました(332頁12行目)。それはともかく、つぎにこうした「総合的全体」において、「判断はその述語的方向に於て超越的なるもの」、つまり「価値」ですね、それ「に接触するのである」とされます。物理現象の場合には述語方向に見られていたのは意識一般であり、その形式としての空間・時間、カテゴリーでしたが、判断において述語的方向に見られているのは、真善美といった価値、「理念」であることになります。次をEさん、お願いします。

E:読む(361頁6行目~11行目)

―判断が超越的なるもの(価値)に接触するとはどういうことか、言い換えれば、判断が真となるというのはどういうことか、が問題となっています。それは「述語的なものが完全に主語的なるものを包む」ということ、つまり「特殊なるものが一般なるものの自己限定として考えられる」ことだ、そのように西田は言います。これは西田独自の真理の定義と言えます。西田はそのことをまず「数学的知識」を例にとって説明しています。「主語面(特殊)と述語面(一般)と合一する一般者が見られ得る」、例えば「三角形は平面図形である」の場合、平面図形(一般)は三角形(特殊)を包む「具体的一般者」ですから、こうしたものが見られる場合に「先験的知識」、つまり経験的でない知識が成立する、ということです。次をFさん、お願いします。

F:読む(361頁11行目~362頁1行目)

―数学的知識の場合には、図形とか数といった「一般概念」が基礎になっていますが、西田はこの「一般概念」を限定のできない「超越論的述語面」にまで拡大して考えようとします。「自己自身は考えられたものとして限定できないもの」がそれです。しかもそれが「内に自己同一なるものを包む」というのですから、まさに本来的な意味での「具体的一般者」です。そうして「判断作用を超越する客観的根拠を(主語方向の)存在ではなく、(述語方向の)価値に求めるならば、私が前から云った具体的一般者の超越的述語面という如きものに求めるの外はない」とされます。真理というものを最根源(絶対無)から問題にする、ということです。最後に「此方面に於て如何にして作用を超越した意味とか価値とかいうものが考えられるのであろうか」(乞うご期待!)と締めくくっています。今日はここまでとしましょう。

ヂ:(第122回):ヂ

「変ずるもの」の概念的限定と時の役割

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第6段落冒頭358頁2行目「できないと考えられる所以である。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものにおいては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができないと考えられる所以である。」(358,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「赤いリンゴに一方向から光を当てると、光が当たる部分は赤く、影になる部分は黒く見える。これは「否定を含む肯定面」に当たるのではないか。それなら「このリンゴは赤い」という判断が生じる「知覚の世界」においても、「見え方が異なっても同じこのリンゴ」という媒語面と、媒語が小語を完全には包めない推論式的構造があると考えられないか。具体的一般者の根底が概念的に限定できないことは、変ずるものに固有なのだろうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―「このリンゴは赤い」というのは「否定を含む肯定面」としての「知覚の世界」における判断ですね。しかし「このリンゴは赤くもあり、黒くもある」、というのは「矛盾的統一面」を表していますから、「物理現象界」に属するはずなのに、やはり「知覚の世界」の判断ではないか、という疑問ですね。まったくその通りで、じつは西田もそのことは気づいています。331頁12行目からの文章をご覧ください。Aさん、読んでください。

A:「既に述語的一般を超越したと考えられる個物は或一種の性質的述語となると共に、矛盾なく他の異なれる性質的述語の主語となることもできる、例えば物は色と共に味や香りを有つこともできる。併し同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。われわれが一つの物を赤であることもでき青であることもできると考えるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を容れて考えるからである。」

―ということで、Tさんは、ご自身でこうした指摘をしたことになります。例えば同じ酒を飲んだとして、私は「旨い」と言い、Tさんは「不味い」と言う場合なども、同じ酒が旨くもあれば不味くもある、という矛盾的統一を示すことになります。しかしこれは「知覚の世界」における判断ですね。

W:「酒が旨い」というのは出会いによるものなので、そこでは「矛盾的統一」ということはないのでは?そこにあるのは〔酒の旨さの〕景色だけでは?

―たしかに、そうした出会いにおいては、「私は旨いと思うが、あなたは不味いと思う、人それぞれだ」、という経験はされていませんね。

R:西田は「物理現象界」の先に「生滅する世界」、つまり「即非」の世界を見ていたと思いますが、それと「酒が旨い」という経験とを一緒にすることはできないように思います。

―それは宗教的な体験を何か特別なものと考えているからで、救いを求める気持ちが強いからでしょう。言葉が出て来る以前の出来事は日常の足もとの出来事です。どこにでも出会いのきっかけ、機縁というものがあると思います。おそらく西田が考えようとして、ずっと見つめていたものはそうしたもので、我々はそこからすぐに目を背けて、それを分かりやすいものにしてしまう。そうでないとどう行動していいか分かりませんから、そんな世界には住めないからです。赤であると同時に赤でない、旨いと同時に旨くない、言葉にするとそうなってしまいますが、これでは何のことか分かりませんから、「時」の形式をもってきたり、観点の相違を設けたりしてこれを分かるものにして、そこに住もうとするわけです。しかし西田が見ようとしているものはそうした分別以前の出来事だと思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(358頁2行目~7行目)

―いきなり「併し」から始まってしまいましたが、これは、「変ずるもの」は小語面が〈赤にして赤でない〉ということですから、これでは「具体的一般者の根柢」は小語面を包むことができず、「概念的に限定できない」ことになり、推論式的一般者が成立しないように見えるが、そうではなくて、ということです。「媒語」は「元来具体的一般者其者を表すもの」だから、「推論式一般者の自己同一面」だというのです。因みにこの「自己同一面」とは「個物」のことではなくて大小両面が媒語によって同一になることを意味していると思われます。「時」というのはそういう意味での「媒語面」だ、というのです。ここでは「元来」という語が効いていますね。小語を完全には包めないが、じつはもともと包んでいる、そういう言い方です。もともと包んでいるから、〈赤にして赤でない〉も概念的に限定できる、ということです。この辺りに西田の哲学に対する信頼が感じられます。どこまでも哲学できる、ということです。どうするか、というと「時」を持ってくる、というのです。カントでもそうでしたが、「時」は「意識」(大語面)の形式ですね。そうした「時」を持ってくることで〈赤にして赤でない〉という「変ずるもの」も考えることができる、というわけです。だからここでも「推論式的一般者」が成立している、というのです。

A:ですが、それは「帰納的推論」と言われていますね。どういうことですか?

―帰納的にしか包めない、ということでしょうね。元来包んでいるのだけれども、どこまでも概念的には完全には包めない、ということだと思います。ややこしいですが。そもそも「経験的知識」全般について言えることは、元来、あらゆる経験が「具体的一般者」として「概念的に限定」可能だけれども、可能というにとどまり、知識は帰納的、したがってどこまでも蓋然的・近似的なものにとどまらざるを得ない、ということだと思います。それが感覚的知識(これは赤である)でも、知覚的知識(このリンゴは赤い)でも、物理的知識(このリンゴの青が赤に変わる)でも言える、と。

A:物理的知識が「帰納的」と言われるのはなぜですか?

―やはり「現在」はどこまでも包めない、ということだと思います。次を見て見ましょう。何と書いてありますか?

A:「推論式的一般者によって時を考えれば、小語面はいつも現在を表し、未限定なる大語面は未来を表し、限定せる大語面は過去を表し、媒語面は移り行く時其者を表すと考えることができる」とあります。

―この小語面の「現在」がどこまでもつかめない。限定された過去から未限定の未来を帰納的に推論しつつ限定するほかない、そういうことだと思います。

A:「現在」がつかめない、というのはどこかに書いてありましたか?

―これまで読んだところでは345頁14行目から15行目にありました。「時の連続的要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」という表現がそれですね。現在を外から概念的に把握しようとするとそうなる。徳山の点心(現在心不可得)ですね。これから読むところでも、363頁5行目から6行目には、「小語面たる現在は常に達すべからざる一点と考えられねばならぬ」とあります。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(358頁7行目~段落末まで)

―「一般者其者が概念的に限定すべからざるものと考えられる時」、「変ずるもの」の場合ですね、その場合は、「その媒語面は無限に移り行くものとなる」。これは「移り行く時其者」のことですね。次いで「之に反し媒語と大語とが合一する場合には時は消え去るのである」とありますが、これは何を念頭に置いていると思いますか?

B:数学のような先験的知識の場合だと思います。

―そうですね。西田の場合もそうですが、考え方の癖みたいなものがあって、数学のような先験的知識から、経験的な知識へと進む、という順序がよく見られます。ここでもそうでしょうね。「媒語」は「推論式的一般者の自己同一面」ですから、これと大語、意識の形式ですね、これが一つになってしまえば、空間の形式は空間の一般概念となってそこに幾何学が成立することになるでしょうし、時間の形式も時間の一般概念となってそこに代数というようなものが成立することになりますが、その場合には「時」は「数学的連続」となって、「時」は消え去っています。今度は「此の如き意味に於て」、つまり〔媒語面と〕合一した大語面が、単に感覚的性質一般という如きものであった場合は、つまり感覚的性質一般という「一般概念」である場合は、ということですね、「単に」とありますから、「肯定的に」ということです。その場合には「これは赤い」のような判断が成立し、そこには「感覚の世界」が成立します。そうして「小語面の方向に於て色自体という如きものが見られ」る、とされます。この「色自体」は「これ」のことですね。判断以前の色のことです。次いで「否定を含んだものであった場合」、「このリンゴは赤い」のような判断が成立する場合ですね、この場合には「知覚の世界」が成立し、その小語面の方向には「物自体」の世界が見られることになります。さらに媒語面と合一した大語面が矛盾を含んだ一般概念であった場合には、「時」が復活して「出来事の世界」が見られ、その小語面の方向には差し当たり「変ずるもの」が見られることになる、こういうことだと思います。

B:「物理現象界」と言わずに「出来事の世界」と言ったのはなぜでしょうか?

―多分としか言えませんが、例えば325頁1行目に「時に於て生滅する出来事」という表現があります。この「出来事」は「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」です。だとすると、目下のテキストの場合、さしあたり「物理現象界」を念頭に置きつつ、その先の「生滅する出来事の世界」をも視野に入れている、と考えることができると思います。でもその場合は「概念的に把握する」と言っても「即非の論理」のようなものによる外はないと思いますが。次をCさん、お願いします。

C:読む(第7段落冒頭~359頁1行目)

―ここはこれまでの要約ですね。「非合理的なるもの」、これは前段落末の「矛盾」のことですね。それを含んだ「一般者」、この場合は「感覚的性質一般」ということですね。「この赤にしてこの赤ならざるもの」ということです。こうした「一般者というべき変ずるもの」が、「推論式的一般者」として見られ、つまり概念的に限定できるものとして見られ、「その媒語面が大語面的に限定」せられ、とあります。

C:どういうことですか?先に「媒語面」とは「移り行く時其者」とあり、「限定せる大語面は過去を表し」とありましたから、過去から時其者を限定する、ということでしょうか?

―なるほど。そうも読めるかもしれませんが、やはり違和感があります。ここはやはり「矛盾」を含んだ「感覚的性質」という「一般概念」を考えることができるようにするために、一旦消え去った「時」(大語面の形式)を復活させて考える、ということと取りたいと思います。これが「媒語面が大語面限定せられ」ということです。その上で「小語面」、「現在」ですね、それと「接触して」「矛盾的統一面が成立する」、そうすると「時の世界」、前段落末で「出来事の世界」と呼ばれたものですね、そういうものが成立する、そのように読んでみてはどうでしょうか。それを証しするかのように、つぎに「而してかかる〔時による大語面的〕限定が成立するかぎり、変ずるものというものを考えることができる」と書かれてあります。次をDさん、お願いします。

D:読む(359頁1行目~5行目)

―ここからは「大語面」は内容を欠いた「形式」であり、内容は「小語面」から来ることが述べられます。まず「変ずるものの内容が無限に豊富なるかぎり、種々なる時の内容が考えられる」とあります。これに対し、「之」、つまりこの「種々なる内容」を「大語面から見れば、最も抽象的なる一般者」、「一般概念」ですね、それ「によって限定せられる媒語面」、それが「即ち所謂時」、前段落の「移り行く時其者」で、この媒語面(所謂時)がすべての変ずるものを包む、と考えられる、と。

D:具体的にはどういうことですか?

―判断におけるすべての主語が「時」の項となり、それについて述語できるのは、現在、過去、未来とか時間の前後、長短のみ、ということになってしまう、ということだと思います。そのように「単に大語面的に限定せられたものは抽象的一般概念」にすぎない、とありますが、この抽象的一般概念が、例えば、時間の前後、長短ということだと思います。それはもう「変ずるもの」ではない、と。たしかに「これは赤である」の「これ」の質的な内容は小語面から来ていますが、その質的な内容すらなくしてしまって、すべてを量に還元してしまえば、主語がまったくの無内容となっていくのは、すべてを量的に還元する昨今の在り方(例えば業績)などを見れば理解できると思います。次をEさん、お願いします。

E:読む(359頁5行目~段落末まで)

―まず「媒語面が小語面的に限定せられるに従って真に変ずるものが考えられ、種々の内容ある時が見られる」とあります。ここから次第に話が「小語面」に移って行きます。「真に変ずるもの」が「内容ある時」と言い換えられ、それがさらに「所謂時によって限定することのできないもの」、「所謂時の外にあるもの」と言い換えられます。矛盾した言い方ですが、「所謂時」というのは、さきの言葉で言えば「最も抽象的なる一般者」です。これに「内容」を与えるのが、「真に変ずるもの」で、これはすでに「所謂時の外にあるもの」だというのです。これが、西田がもっとも根底において見続けているもの(直覚されるもの)です。とはいえ、これが概念的に限定できる、しかも大語面から科学的に限定できるのは、こうした「所謂時の外にあるもの」といえども「推論式的一般者の特殊として考え得られるかぎり、何處までも〔帰納法的ではあるけれども〕大語面的限定の意義を有し、時に於て変ずるものと考えられる」からだ、ということになります。ここからは「所謂時に於てあるもの」の話です。時間の前後・長短のことですね。それが「意味を有つという如きことは考え得られない」どころか、それが「性質を有つ」ということすら言い得ない、とされます。こうした時の項に「何等か性質」とか、さらには「意味」というものが述語されるとすれば、それは「小語面」に属しているもの、「〔所謂〕時の外にあるもの」だ、ということになります。そうして最後に「〔所謂〕時に於てあるものとしては、唯大語面に於て述語的統一を見る」とされ、「厳密に時に於てあるもの」、まったく「所謂時」においてしかないもの、の意味ですね、そういうものについては、「唯大語面的に限定せられた推論式的一般者の形式的限定」として、「前後とか長短とかいう所謂時間的性質を述語しうるのみ」と言われます。「大語面的限定」というのは基本的に「意識」が有する形式(時空、カテゴリー)によって限定することですが、こうした限定はあくまで形式的限定であり、その内容はどこまでも小語面的に与えられなければならない、というのは頷けることだと思います。今日はここまでとします。

ヂ:(第121回):ヂ

具体的一般者と個物の自己同一

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落355頁14行目「一般的なるものを特殊化していけば」から第5段落末までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」(356,1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「よく似た個体の集まりでそれ以上には分けられない「最後の種」だが、わたしたちが「そのもの」を意識する時(タイミング)は必ずしも学問上の「最後」に一致しない。ある景観を特別なものに感じることはその分かりやすい例だといえる。ここに述べられている「最後の種」とは学問上の分類を例にひいたにすぎず、「最後」とそのさらなる特殊化はわたしたちに任意に生じるとは考えられないか。すなわち包摂的関係の逆転が成立し、自己同一なるものが見られるときが「最後の種」であるとは言えないか。」(231字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―包摂的関係における「最後の種」から「個」へと超越する、という考え方は「学問上の分類」での話であり、「わたしたちが「そのもの」を意識する時」は、つまり、私たちに主観的(「任意」に起こりうる)体験の事柄としては、「最後の種」と「個」が一つになっている、そういう理解でいいですか?

S:はい。「具体的一般者」の経験です。こういう経験が動因となってわたしたちの「探求」があると思います。しかしどこまで行ってもその体験に届かない。例えば「ある景観を特別なものに感じた」としてそれを写真に収めても、どこか違う。そうやって写真を撮り続けるというような。

T:でもおいしいラーメンは、何度食べてもおいしいですよ。

W:どちらの例でも「個との出会い(体験)がある」ということが自明視されているように思われますが。

S:そうした体験がなければ、何を動因として「最後の種=個」に行き着こうとするのか?

―未熟なわたしでも、「これこそが剣道である」という体験はありますよ。そうして剣道というものを掴んだ気になる。そうして次の稽古で自信満々で立ち会う。でももう違うんですね。その繰り返ししかない。今ではそのように必ず教え導いてくれる剣道というものを信じざるを得ないし、変な話、感謝さえしています。私などのレベルとは比べものにならないと思いますが、そのラーメンの職人さん(達人)も、これだ、と思うような体験をしながらも、絶えずこれではない、という繰り返しをしているんだと思います。「具体的一般者」でも「純粋経験」でも、体験の事柄ですが、我々はそれを「ある」、「実在」というように掴まざるを得ない。そうしなければ体験が体験としてあらわにならない。しかしそれは掴んでしまえばもう別物になっている。西田も最初「純粋経験」を掴んだと思った。それを「唯一の実在」としてすべてを説明しようとした。しかしそれを西田の「哲学」が許さなかった。こうして西田は「自覚」や「場所」などの立場を死ぬまで遍歴することになるのだと思います。プロトコルはこのくらいにしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(356頁8行目~357頁3行目)

―「変ずるものといえども、それが変ずるものとして考えうる限り」とあるのは、「変ずるもの」は「個」として、元来考えることのできないものだからです。しかし我々がそれを考える、つまり哲学することができるのは、「個」が我々には「具体的一般者」として立ち現れるからだ、ということになります。それで「それが変ずるものとして考え得る限り、具体的一般者でなければならぬ」と言われます。言い換えて「自己自身の中に感覚的なるもの、所謂非合理的なるものを包む具体的一般者が変ずるものと考えられるのである」と述べられます。「かかる一般者」、「具体的一般者」ですね、その「述語面」、「超越的述語面」(意識面)のことですね、それが何らかの意味に於て限定し得る限り、連続が成立するのである」。「感覚的なるもの」は「個」ですが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」において「限定」することによって、そこに「感覚的なるもの」を包む「連続」つまり、「具体的一般者」としての「一般概念」が成立することになります。ここまででわからないところはありますか?

A:大丈夫です。

―次いで「感覚的直覚面を包む具体的一般者」、具体的一般者としての「感覚的性質一般」ですね、その「述語面が単に肯定的に限定せられた時、単なる感覚的対象界という如きものが見られ、否定を含む肯定面として限定せられた時、知覚の世界という如きものが見られ、更に矛盾的統一面として限定せられた時、物理現象界という如きものが見られるのであろう」とありますね。

A:これらの言葉の定義はどうなっているのですか?

―哲学は基本的に定義を定めて議論を進めていく学問ではないため、言葉の意味も前後関係から推して解釈するほかありません。ですがこの分類は以前と異なっていますね。349頁では、「肯定的述語面」が「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」が「物理現象界」とされていました。用語の意味が揺れていますね。目下のテキストでもこれ以上の説明はありませんから、あとは解釈するしかないのですが、例えば「単に肯定的に限定せられた時」が「これは赤い」のような判断、「否定を含む肯定面として限定せられた時」が「このリンゴは赤い」のような判断になる、と考えることができます。後者では「リンゴ」と「赤い」の間には否定が含まれていると考えられます。「リンゴ」は「赤い」という性質以外も持っていますから。こう考えると、以前の「知覚の対象界」が、さらに詳しく肯定面(「感覚的対象界」)と否定面(「知覚の対象界」)とに分けて考えられていることが分かります。そうして第三に、「更に矛盾的統一面として限定せられた時」が、例えば「このリトマス紙が赤から赤でないものに変ずる」のような判断になります。〈赤でありかつ赤でない〉というのが「矛盾的統一」ということで、こうした判断が成立するのが「物理現象界」です。どうでしょうか?

A:はい。理解できます。

―こうした分類についてなお物足りないものを感じていたのでしょうね。こんなことを括弧付きで書き足しています。「(知覚の世界と物理現象界とを斯くの如く区別するについては尚詳論すべきものがあるであろうが)」。しかしそれについてはこれ以上何とも言えません。次に行きます。「之を越えれば」、「之」とは何ですか?

A:「物理現象界」です。

―そうでしょうね。「物理現象界」を「越えれば、もはや変ずるものを論理的に限定することはできぬ」、通常の論理では限定できない、ということです。「変ずるもの」が「生滅するもの」になってしまうからです。「生滅するもの」とは、生成即消滅、生即死、有即無というようなものですが、これは通常の論理ではとらえられない。「即非の論理」というような論理によって初めて捉えられるものです。続いて「時は矛盾的統一面を表すものであって、時に於てあるものはかかる境界線においてあるのである」とありますが、「かかる境界線」とは何と何の境界線ですか?

A:「論理的に限定できるもの」と「できないもの」の境界だと思います。

―そうでしょうね。「物理現象界」ないし「変ずるもの」、と「生滅するもの」との境界線と言ってもいい。「此故に時に於てあるものは一々が唯一的なるものとして、一度的と考えられるのである」とあります。しかしこれは例の「徳山」の「現在心不可得」ですね。現在は捉えられない。「変ずるもの」の心では「点心」は頂けない。「変ずるもの」を外から眺めているからですね。それでは「赤が赤でない、それゆえに赤である」というように、否定が否定されて肯定に返ってくるということがない。肯定に返ってくれば、赤は赤でないままに赤である、となるわけです。この時には「外から眺める」という態度はなくなっています。主語に残された「質料的なもの」も、述語面である自分に残された主観的なものもなくなっている。これが「生滅するもの」ということだと思います。どうでしょうか?

A:以前出てきた例でいえば「富士山」との出会いですね。今回のプロトコルでいえば「個」との出会い、です。

―ええ。我々は常識的に自分のことを個だとおもい、他者を個人と思い、物を個物だと思っていますが、よく考えてみるとそんなことはなく、常に自分や他者を役割などの一般で捉えていますし、物も何か自分にとって役に立つもの、「道具」としてとらえています。そうでないと理解できないし、理解できなければ行為することもできない。しかしそうした見方が破られる時に「個物」との出会い起こります。そうして実は常に自分はこうしたものに出会っていたのだ、と目覚める。ですから常識(日常性)というのは、最も浅薄であると同時に最も深淵なものだと言えると思います。ただ、これをこのように掴んでしまえばもう違うものになっている、というのは先ほどの議論で確認した通りです。

A:たしかに「俺は出会った」というような主張、あるいは「これこそ実在だ」という主張は危険でもありますね。

―そうですね。でもそうした把握をやめることができない。そのことに自覚的であるべきだと思います。その意味で「私はそれをやめることができた」というのもやはりおかしい。そのように力みかえるのではなく、おそらくは自然と力が抜けていく、そうしたものだと思います。こんな風に言うのも何か違和感がありますが、仕方ありませんね。次をBさん、お願いします。

B:読む(357頁3行目~358頁2行目)

―「元来」と、西田はもともとのところから議論を説き起こします。「具体的一般者の具体的一般者たる所以は内に主語面」、「個」ですね、これを「包むと云うにあるのである」。「具体的一般者」の基本的な意味ですね。これをどのようにとらえることができるかというと、西田はこれを三段階に分けて考えているようです。①「特殊と一般との関係」、所謂「包摂的関係」ですね。これはまだ厳密には「具体的一般者」ではない。「個物」を含んでいないからです。次いで、②この「特殊と一般との関係」に「主語と述語との関係」を含ませる段階、つまり「個物が於てある超越的主語面を包む」段階が来ます。これが「判断」的関係です。こうなるとこれはすでに「具体的一般者」、ここでは「判断的一般者」です。さらに③「推論式に於ける小語と大語との関係を含ませることによって、かかる一般者」、「小語と大語との関係」つまり「判断的一般者」、の「一般者」、「推論式的一般者」としての「具体的一般者」ですね、そうしたものに進むことができる、そのように述べられます。ここまではいかがですか?

B:大丈夫です。

―ここから西田は、今述べたことをさらに詳しく繰り返します。「具体的一般者が内に主語面を含むと云うことは、前にも云った如く自己同一なるものを含むことによって可能となる」。この一文は「元来」から始まる先ほどの一文をさらに先に進めたものですね。「主語面を包む(含む)」ことが「自己同一なるものを含む」ことだ、と言われています。「自己同一的なるもの」とは「これはこれだ」としか言えないもの、「個物」のことです。「前に」とは、例えば353頁9行目のような記述(「「これは」は…具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体として含まれねばならない」)でしょう。ここから先の三段階が詳述されます。

B:「自己同一なるもの」は、矛盾を含むものですよね。

―そうだと思います。「AはAでない、それゆえにAである」という意味での「自己同一なるもの」です。337頁3行目にも「自己自身のうちに矛盾を含む同一なるもの」という表現が見られます。次に行きます。まず①「包摂的関係」の場合。「単に特殊を含む一般と考えられた時、それは主語的方向に考えられた個物に過ぎない」とあります。「それ」とは何を指しますか?

B:「自己同一なるもの」、個物です。

―そうでしょうね。それはまだ「考えられた」「個物」に過ぎない、と。包摂的関係から、「ソクラテス(特殊=個)は人間(一般)である」と言っても、「ソクラテス」はなおそうした包摂的関係から「考えられた」個にすぎないという意味でしょう。ですからこの「一般」はまだ厳密には「具体的一般者」ではない。次に②「判断的一般者」の場合。「具体的一般者が自己自身を限定する超越的述語面として判断を内に含むと考えられた時、それは主語と相等しき主客合一の場所となる」、とありますが、「それ」とは?

B:やはり「自己同一なるもの」です。

―そうですね。それでもよいと思いますが、「主語と等しき」とありますから、「超越的述語面」でもよさそうですね。「具体的一般者」の自己限定であり、「判断を内に含む」ものとしての。つまり「具体的一般者」の体験でありつつ、判断(思惟・哲学)の源泉となるそうした「超越的述語面」、つまり「意識」です。それが「主語と等しき主客合一の場所」と言われています。まさに体験の場所ですね。「之」、つまり「場所」、「に於てあるものの一々が個物的なる矛盾的統一面である」、「一々」の個物が、「矛盾的」でありながら「同一」である、ということです。即非です。さらに③、「推論式的一般者」の場合。「小語と大語と両方向に於て統一面が相対立し、媒語が両面を結合する自己同一面となる」とあります。ここにも対立と同一、矛盾的自己同一が見られますが、この「自己同一」は特に「個物」と限定しなくてもよさそうです。そうして「媒語面が成立し得る限り推論式としての具体的一般者が成り立つ」と言われます。ここまでで先の三段階が詳述されたことになります。ここまでで質問はありますか?

B:大丈夫です。

―ここからは、これまでの「知識」を「推論式的一般者」の立場から捉えなおしていきます。まず㋐「媒語が大語と合し小語を包む場合には」、とあります。この「媒語」、この媒語はまだ厳密には「具体的一般者」とは言えませんが、それでも「特殊を含む一般」としての「一般概念」のことです。そうした媒語が「大語」、つまり「超越的述語面」(意識)と合し、「小語」、この場合も単に「考えられた個物」にすぎませんが、そうした「小語」を包む場合、ということです。そういう場合には「具体的一般者は概念的に限定せられたものとして、先験的知識という如きものが成り立つ」とあります。何のことを言っていますか?

B:数や図形などの、数学的な知識の場合だと思います。

―そうですね。「3は数である」とか「三角形は図形である」は、「特殊は一般である」という形式になっていて、一応一般が特殊を含んでいますが、この「特殊」は「個物」ではありません。「3」とか「三角形」は紙にでも描かない限り、個物ではなく、概念です。かりに「個物」と呼ぶにしても、それは「考えられた個物」です。次に行きます。㋑「併し経験的知識に於ては媒語は完全に小語を包むことはできない、大小両語面は相反する両方向に対立し、媒語面は具体的一般者の限定面として両語を結合するまでである」とありますね。何のことを言っていると思いますか?

B:感覚的世界、知覚の世界、物理現象界のことだと思います。でも物理学はほとんど数学だと思うのですが、違うのですか?

―物理学はあくまで経験科学です。数学を用いた理論的な仮説は実験や観察によって検証される必要があります。話をもとに戻すと、「感覚的世界」、例えば「これは赤い」という判断では、「赤」が「具体的一般者の限定面」としての「一般概念」ですが、この「赤」は完全には「これ」を包めない。「結合する」だけ、だというのです。同じことは「知覚の世界」における判断、「このリンゴは赤い」についても言えます。述語をいくら重ねても「このリンゴ」を言い尽くすことはできません。最後に「物理現象界」における判断の主語である「変ずるもの」が出てきますね。何と書いてありますか?

B:「変ずるものに於ては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができない、と考えられる所以である」とあります。

―「具体的一般者」の根柢とは通常は、「超越的述語面」(意識)のことですね。個物も変ずるものも、ここに「於てある」。ですから「変ずるもの」に限らず、「感覚的世界」における「これ」も、「知覚の世界」における「個物」も、「概念的に限定すること」は完全にはできません。ただ、「これ」や「個物」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって、部分的に限定(結合)ができますが、「変ずるもの」の場合は、赤と赤でない、ということが同時に成立しますから、矛盾を含みます。その場合、こうした矛盾を「概念的に限定すること」は不可能となります。そこで登場するのが「時」という形式です。だとすると、冒頭の「具体的一般者」は「超越的述語面」そのものではなく、媒語面としての、つまり「感覚的性質一般」によって限定された「超越的述語面」と考えた方がよさそうです。今日はここまでとします。
ヂ:(第120回):ヂ