大語面的限定の極限と直覚
- 2026年10月3日
- 読書会だより
ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「五」の第3段落冒頭(362頁2行目)から「と考えられるのである」(362頁15行目)までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「非合理的なるもの即ち直覚的なるものを含むと考へられる推論式的一般者に於て、その媒語面に於て現れるものが時に於てあるものと考へられるのである」(362, 13-15)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田によれば、「推論式的一般者」は「直覚的なるもの」を含むものである。例えば、目の前にある物を食べて、「やっぱりカレーは美味しい」と判断したとする。この判断は、「カレーは美味しい。この食べ物はカレーである。ゆえに、このカレーは美味しい」という推論として捉えることができるだろう。しかし、「やっぱり」という場合には、「カレーは美味しい」という判断が前提されている。この前提は、いかにして前提になったのだろうか。それは、ある何かを食べるという経験と、どのような関係にあるのだろうか。また、「このカレーは不味い」と判断するとき、「カレーは美味しい」という前提は揺らぐだろうか」(284字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
A:推論式一般者というのはあくまで論理の問題であって、「美味しい」かどうかという問題ではないのでは?
―「このカレーは赤い」ということになれば、「このカレー」は「真(真理)」か否かの対象となりますが、このカレーが食べてよいものかどうか、となると「善」の対象となります。それと同様に、「このカレーが美味しい」かどうかは、「美」の対象と考えることができるように思います。西田は「知るもの」ということで「情意的意識」も含めて考えていますから(324頁)、ここはWさんの意図を汲み取って、自由に哲学してみたいと思います。私もこのカレーに関する三段論法を見た時、最初は違和感があったのですが、よく考えて見ると、例えば今晩の食事をカレーにしたときの場合のように、我々は日常的にこうした三段論法を駆使しているなあ、と思い直した次第です。その場合「カレーは美味しい」が前提となっている、ということで、この前提がいかにして前提になったのか、ということが第一の問いになっていますね。
B:これまでカレーを食べた経験からではないですか?
―たしかに西田は「帰納法的」な「推論式一般者」と言っていますね。
W:それが「カレーは美味しい」という「一般概念」になる所が気になるのです。
―二番目の問いに関連しそうですね。「或る何か」を食べた、「美味しかった!これ何?」、「カレーというものだよ」、「そうか、カレーって美味しいね」。これではダメですか?
W:もしその「美味しかった!」が直観に基づいているとすれば、そこで勝負はついているような気がするんです。
―直観に基づいているとしても、それを判断して言葉(概念)にもたらさないと、「美味しい」かどうかも分からない。でも言葉にもたらすことは分別することですから、それによってすでに直観は隠されてしまう。つまり言葉(概念)は直観を顕わにすると同時に隠すのだと思います。そのようにして「美味しい」ものとしての「カレー」という一般概念が形成される。
W:ええ。ですがその時でも、「或るカレー」は「不味い」ということはあると思います。
―三つ目の問いに関わりますね。「このカレーは不味い」と判断するとき、「カレーは美味しい」という前提は揺らぐだろうか、ということでした。普通に考えれば、いきなり揺らぐということはないですね。「この」カレーは不味い、ということで「美味しいカレー」からは排除されるだけです。
W:でも、今まで食べたこともないカレーに出会って、「何だこれは?!」ということになって、「カレー」の一般概念が揺らぐということはあると思います。
―そうですね。たしかに両方ある。揺らぐことによって、また新たな「カレー」の一般概念が形成されることになりますね。
W:ええ。「カレー」の一般概念が形成されては、崩れる。この往還があるのですが、西田の場合、この往還が調和的に考えられていると思うのです。
―西田の場合、直観したところから考察を始めますので、そうなると思います。直観で勝負がついている、というのはそのことを言うのでしょうか?
W:ええ。ですがそこのところはどうなっているのだろうか、と。
B:その場合でも、Wさんは西田と同じように、直観から始めようとしているように思われます。でも赤ちゃんならいざ知らず、言葉でしかものを考えることができない大人は直観から出発することはできないと思います。
―たしかに判断や反省から区別された判断以前や直観というのもすでに概念であり、分別ですね。我々はそれしかできない。そもそも判断以前の直観から始めるということが原理的にできない、そのように思われますね。そこで判断以前から始めることをやめる、つまり判断以前については沈黙するか(例えばヘーゲル)、直喩(かのように)を用いて語るか(例えばカント)、隠喩(メタファー)を用いて語るか、分別と無分別の領域の全体を見据えて、それを別の論理(例えば「即非の論理」)を用いて語るか、あるいはこれらのように直観の立場にじかに立つのではなく、この立場の矛盾そのものをどこまでも人間の抱える矛盾として、それを言葉にして行くか、哲学の在り方が根本的に問われているようですね。プロトコルはここまでにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(362頁15行目~363頁9行目)
―「意味とか価値」と「時間的なるもの」とが如何に結びつくか、ということが問題になっていました。そこで「時に於てあるもの」を「前に」つまり「四」で論じた如くに考えて見ることにして、「一般概念的なる大語面を基礎として推論式的一般者を限定して行く」わけです。これは空間・時間の形式やカテゴリーによる限定のことで、物理学的・自然科学的な手法です。その場合「超越的なる小語面」、つまり個物ですね、それに結び付かない間は、「大語面」が「媒語面」と結びついていても、「一般的法則の体系」という如きものに過ぎない、とされます。
A:「一般的法則の体系」とは具体的に何ですか?
―多分、カント哲学における「原則の体系」などを念頭に置いていると思います。「原則の体系」は、「意識一般」によって直観的なもの(感性の形式=空間・時間)と概念的なもの(悟性の形式=カテゴリー)が結合されることによって成立するものです。この体系が「小語面」に結び付くことによって、個物が「時の系列に於てあるもの」と考えられるとされます。
A:具体的にどういうことですか?
―基本的に物理学的・自然科学的アプローチだと思います。木の葉が緑から赤に変わる場合のみならず、美味しいお酒や美しい仏像ができるプロセスを科学的に解明する手法もこれに当てはまると思います。昔は職人さんが直観に基づいて制作していたものを、科学的なアプローチで再現するやり方です。昔の酒造りの杜氏さんの技術はなかなか伝わりにくいものだったそうですよ。今では有名な「獺祭」の昔の杜氏さんは「霞がたなびくように」とか、その真髄を語っていたとのことですが、これでは分からないということで、その酒造会社の社長さんは科学的な分析によって酒造りを行うようにしたと聞いたことがあります。こうした「大語面」的な限定はたぶんAIが得意だと思います。こういうやり方で曲だろうが何だろうが作ってしまうでしょうね。それはともかく次を読んで見ましょう。「元来非合理的なものを含む推論式的一般者というべきものは、一般概念的なる大語面によって限定し尽すことのできぬものでなければならぬ、此故に時に於ては小語面たる現在は常に達すべからざる一点と考えられねばならぬ」とあります。
A:どういうことですか?
―作用を外から見るやり方を念頭に置いていると思います。その場合、「現在」はどうしても掴めない。「現在」と言った時にはすでに過去になっているからです。以前、徳山の点心のお話をしました。現在心不可得ということで点心が頂けないというお話でした。これは時間を外から見ているからですね。
A:酒造りや仏像のように出来上がったものの場合はどうなりますか?
―個物が「非合理的なもの」である以上、再現はどこまでもできない、ということになるのではないでしょうか。単純な再現でない場合でも、それらしいものはできると思いますし、素人目には区別ができないにしても、やはり本物ではない、というところは残ると思います。科学的な手法を駆使する場合でも、最後のところでそれを導くものはやはり直覚的なものでなければならないだろうと思います。これをなしで済ませて売り上げなどの結果だけを求めようとすれば、おそらく文化としてすたれていくだろうと思いますが、どうでしょうか。それはともかくここで言われている「現在」とは、こうした直覚的なものが「そこ」においてあるところのものと考えられます。次に行きましょう。「斯く大語面を基礎として推論式的一般者の内容が限定せられた時」、科学的なアプローチによる探究ですね、「その極限に於てすべてが単に時に於てあるものとなる」、そうした探究によってすべてが解明されることになるけれども、それは「極限」においてのことである、つまり科学的なアプローチによる探究は限りがない、ということです。そうした極限において、これらすべての「時に於てあるもの」よりも「更に深い直覚的なるものと接触すると考えられる」とあります。「極限」ですから実際に接することはないので、そのような「小語面に於てあるものは、時の外に超越する直覚的対象と考えられる」というように述べられています。この直覚がAIにはできないことにして、科学的なアプローチが見失ってはならないものだと考えられます。次をBさん、お願いします。
B:読む(363頁9行目~14行目)
―「元来」とありますね。西田はここで「具体的一般者」である「推論式的一般者」の方から話を始めます。直覚から考えるということですね。そうすると「時」そのものが「推論式的一般者」の自己限定の一形式にすぎないので、「時に於てあるもの」は「小語面に於てあるもの」、つまり「直覚的対象」との関係を離れることはできない、ということになります。そうして「時の一般者を一つの推論式的一般者として見る」、つまり直覚なしで済ます場合ですね。その場合には「時に於てあるもの」つまり「時間的なる出来事」が直覚的な「対象を志向する」ということになります。直覚を前提とせずに、どこまでも科学的なアプローチによってそれらしきものを再現ないし実現することはできますが、直覚に基づかずに売り上げなどの結果だけを出そうとすれば、文化としてはすたれていくだろうということは先程申し上げました。それはともかく、今言ったことを西田は、ラスクの「対立なき対象」つまり「超対立的対象」に重ねます。ラスクの「超対立的対象」は判断以前の対象のことでした。それが「大語面的に限定せられた時の一般者」、つまり直覚なしの推論式的一般者ですね、その場合「内容」はどこまでも「志向」されるもの、「無限に達することのできない対象」ということになります。次をCさん、お願いします。
C:読む(363頁14行目~364頁3行目)
―いきなり読みにくい文章ですね。「意味とか価値とかいうのは推論式的一般者が大語面的に限定せられた時、小語面的内容がその小語面的独立性を失うたものである」とありますが、この最後の部分を「失うた〔ところに出て来る〕ものである」と読んで見たいと思います。というのも後で出て来ますが、「小語面的内容は大語面的に分解せられ、意味とか価値とかとして、時間的なるものの外にあるを免れない」(367,4-5)とあるからです。ラスクは「超対立的対象」の直覚は認めませんから、西田はラスクの「超対立的対象」を、判断ないし主観(「大語面的限定」)による「破壊」のあとに、「意味や価値」として「時間の外に」「志向」されるものと解釈している、と見ることができます(このことは後の段下げの部分で明らかになると思います)。同じように次の文章も、「即ち小語面的対象が大語面的時によって破壊せられた〔ところに出て来る〕ものである」と読むことにします。そうして西田は「ラスクの破壊者としての主観は此の如き時の統一を意味せなければならぬ」と述べます。この場合のラスクの主観(判断)が「大語面的限定」であることを言っていると思われます。それ〔による破壊〕によって「意味や価値」が出て来る、志向される、ということです。そうして最後に「非合理的なるものを包んだ推論式的一般者即ち帰納法的一般者は大語面的に限定することもできるが、無論大語面的に限定し尽くすことのできるものではない」と述べられます。そこで出て来るのが、ラスクの場合は「意味や価値」の「志向」であり、西田の場合は直覚ということになります。次をDさん、お願いします。
D:読む(364頁4行目~12行目)
―最初に「無限大の軸を有する楕円」のイメージが与えられます。まず円をイメージして、その上部の頂点が「小語面」、下部の頂点が「大語面」で、横軸の直径が「媒語面」です。この「媒語面」の軸を無限大にして行くと、楕円形はどんどんぺしゃんこになって行き、その極限において一つの直線になってしまいます。この直線は、「時は過去無限、未来無限の直線」です。さきほどは「極限においてすべてが単に時に於てあるものとなると共に、推論式的一般者の主語面として更に深い直覚的なるものと接触する」と言われていましたが、この時もこの楕円形がイメージされていたのかもしれませんね。先程は大語面を基礎として小語面に接触する場合でしたが、そうであれば、「小語面を基礎として〔推論式的一般者は〕自己を限定する」と考えることもできるはずです。「現在」の「直覚」の立場に立つということです。そうなるとこの「現在」は「過去未来を包んだもの」となります。アウグスティヌスの言うように、過去は記憶として、現在は直観として、未来は期待としてすべてが「現在」のうちに包まれることになります。
D:「時」を外から見るのでなく、現在という瞬間に立つ、ということですね。
―そういうことだと思います。次を読んで見ましょう。「而して前に推論式的一般者を何處までも大語面的に限定することから、時の外にあるものと考えられた意味とか価値とかいうもの」とありますね。「前に」とはそのままの形では出て来ませんが、第3段落終わりの部分を指すと思われます。そうした「意味や価値」が「あるもの」として、「時の発展を含み意味都とか価値とかいうものを荷うた意識作用」と考えることができる、そのように西田は言います。作用を外から見ると時の系列のうちに現れてきますが、そうではなく、作用そのものに成り切るということです。アリストテレスの〔物の〕運動(キーネーシス)と〔魂の〕活動(エネルゲイア)の区別にも通じるところがありますね。
D:ここで突然「意識作用」が出て来たのはなぜですか?
―「知るもの」の最初をご覧ください。324頁から325頁にかけてです。第1段落で、知情意の全体を含んで、「知ること」は「意識作用」である、ということが確認されたのち、第2段落で、「意識作用」が一面で、「作用」である限り、物理現象同様、「時に於て生滅する出来事」とされ、他面で内に「意味」を含むけれども、「意味」は「時を超越している」とされます。そこで「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」が問題になったわけです。その解答がここでとりあえず得られたことになります。大語面を基礎とする立場から、小語面を基礎とする立場への転換によってそれが成し遂げられたことになります。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第124回):ヂ