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変ずるものと生滅するもの

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」冒頭から第3段落、348頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯、積極的に限定することのできない具体的一般者に於てあるものが部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考へられるのである、物理現象とはかゝる意味に於ての連続に外ならない。」(347, 2-4)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「物理現象」において、「時に於てあるもの」を主語として「性質的述語」が付加されるとき、この主語となるものは、「時の一般者に於てある」のではなく、「時を包む一般者に於てある」とされます。そして、「時を包む一般者に於てある」とは、「変ずるもの」、あるいは「内容を有つた時」と同義です。このとき、「物理現象」を単に「時に於てあるもの」とするならば、「物理現象」において、「変ずるもの」をどのように考えたらいいのでしょうか。」(208字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はYさんの質問内容が議論中にはよく分からなかったので、たぶんこういうことではないかという後からの反省によって構成してあります。:ヂ
―「物理現象」が「単に」「時に於てあるもの」とするならば、それは「変ずるもの」ではない、ならば「物理現象」において「変ずるもの」をどう考えたらよいか、という質問ですか?
Y:そうです。
―たしかに「物理現象」は「時に於てあるもの」で、それはもはや「変ずるもの」ではありません。
Y:そこが分かりません。「物理現象」ももとは「変ずるもの」ではないのですか?
―ええ。そうなんですが、「変ずるもの」そのものは知的直観されるもので、判断の対象とはなりません。これを対象にしてこれについて判断しようとすると違うものとして我々に対して現れることになります。対象はもはや「変ずるもの」ではなく、感性的直観という内容的(=主語的)にいかなる意味においても限定できないものになり、主観ももはや「知的直観」ではなく、形式的(=述語的)にいかなる意味においても限定できない単なる形式としての思惟(意識一般)となると考えられます。そうして時について考える場合、それが「時の一般者」ないし「形式的時」となる、そのように解釈できます。
A:それだと「意識一般」が「時の一般者」へと限定されていることになりませんか?
―難しいところですが、カントに倣って西田は、「意識一般」が感性として働く場合の形式が時空、悟性として働く場合の形式がカテゴリーと考えているようで、しかも判断(認識)の場合、感性と悟性が同時に働いていて、両者を切り離すことはできないと考えていると思います。また時間が「一般概念」ではないことはカントが明確に主張していますし、西田も「時の一般者」は限定できない、限定すればアンチノミーに陥る、と述べています。そう考えるならば「意識一般」が時間に関して働く在り方が「時の一般者」だと解釈した方がよいと思います。
Y:その場合でも対象はまだ「物理現象」ではないですよね。
―ええ。感性的直観が「物理現象」になるためには、それがさらに「部分的に限定」されなければなりません。この「部分的に限定」が具体的に何かは、これも解釈になるのですが、後を読むと「感覚的性質一般」という「一般概念」による限定であると考えられます。「変ずるもの」は今「感性的直観」という姿をとっていますが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定しようとすると、例えば赤はただちに赤ならざるものになっています。これは「時に於て」感性的直観を見ているからですが、それによって「一種の連続」が生じることになります。
Y:そうなるのは「物理現象」がもともと「変ずるもの」だからですよね。
―ええ。そういうことになりますが、「変ずるもの」そのものは、知的に直観されるのみで、それについては何とも言えない、西田はそのように考えているようです。これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定し、かつ、これを「時の一般者」に於てある、と見ることで初めて「物理現象」となる、そのように考えているようです。
Y:その意味では「物理現象」は「単に」「時の一般者」に於てあるわけではないですね。
―ええ。「一般概念」による限定がなければ成立しません。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(348頁10行目~349頁2行目)
―まず「物」は「抽象的一般としては限定することのできないものである」とあります。物自体は知的に直観する外はない、それについては何とも判断できない、ということでしょう。それを受けて「併し」と来ます。「判断的知識の根柢には何等かの意味に於て一般的なるものがなければならぬ」と述べられます。これを言い換えてさらに「我々が抽象的一般を越えたもの」、物(個物)とか「変ずるもの」ですね、「これを主語として判断する以上、かかる判断の基礎となる一般者がなければならぬ」、と述べられます。
A:この「一般者」は判断の「基礎」として、判断以前の所では絶対無と考えてよいですか?
―そうですね。抽象的一般を越えたものを包むものは絶対無ということになると思います。そうしてそれが判断の基礎となる、という読み筋は可能だと思います。次に「是に於て」、抽象的一般を越えたものを主語として判断する場合、ですね。今度は明確に判断の場合です。「抽象的一般と考えられたものが、超越的述語面の限定せられたものとして、具体的一般となる」とあります。
A:「超越的述語面」とは「意識」と考えてよいですか?
―いいと思います。「抽象的一般を越えたもの」つまり「物の概念」(物自体)と、「超越的述語面」(意識一般)の対をまず考え、それが限定された場合が考えられています。こうした限定によって「物の概念」は「(物理)現象」となり、「抽象的一般」は「具体的一般」になる、そのように言われています。
A:どういうことですか?「物の概念」の例として「赤きもの」が挙がっていましたが、この場合の「抽象的一般」とは「性質赤」ですね。この場合「物の概念」が「現象」になるとはどういうことですか?
―「物の概念」とは本来何とも言えないもののことです。「抽象的一般」を「性質赤」とするならば、それが具体的概念になるとは、それが「この赤」となることで、「物」が「赤きもの」になることだと思います。
A:それがどうして「(物理)現象」になるのですか?
―当然の質問だと思います。明らかにここでの西田は言葉足らずです。その点についてはすぐ後で、「知覚の世界」と「物理現象界」とを区別して説明しています。「具体的概念」を「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)の同一性のうちに見るのは「知覚の世界」の見方です。「AがAである」という「肯定的述語面」において「変ずるもの」を見た場合です。しかし「変ずるもの」はそれだけではない。肯定にして否定。この否定面が言い表わされていません。「AがAでない」、「この赤」が「この赤でない」、この側面を言い表すのが「物理現象界」です。というわけで次を見てみましょう。「かかる考え方によって、物理現象界とは感覚的性質一般を主語となって述語とならない基体となす具体的一般者によって成り立つと考えることができる」とあります。
A:どういうことですか?
―「感覚的性質『一般』」とあるのがポイントだと思います。この場合、色について言えば、「赤」だけではなく、「赤ならざる色」も含みます。これを「主語となって述語とならない基体」、つまり「個物」ですが、これはこの赤がこの赤ならざるものへと変化してしまう、そうした個物です。つまり「感覚的性質一般」をこうした「個物」となす「具体的一般者」によって「物理現象界」が成り立つというのです。「換言すれば」とありますね。「(物理現象界とは、)感覚的性質一般という如き一般概念によって限定せられた超越的述語面に於て見られる」とされます。同じことが述語面について述べられています。さらに言い換えが続きます。「即ち(物理現象界とは、)限定することのできない述語面」、「超越的述語面」ですね、そうした「述語面に見られる変ずるものを、感覚的性質一般という一般概念によって限定して見たものである」。これについてはすでに先取りして申し上げておきました。次をBさん、お願いします。
B:読む(349頁2行目~12行目)
―ここから、先程述べた「知覚の世界」と「物理現象界」の区別が述べられます。「感覚的性質一般を基体となす具体的一般者に於て、その主語面と述語面とが合一して居ると見られるかぎり、単なる知覚一般の対象界という如きものに過ぎないであろう」とあります。物と性質が、「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)において合一する場合のことです。現在において「この赤」はただちに「この赤ならざるもの」へと変化していますが、知覚の世界ではそこは問題にしません。これに対し「限定のできない超越的述語面に於てあるもの、即ち変ずるものを、感覚的性質一般の概念によって限定した時、物理現象界が見られるのである」とあります。「限定のできない」は、「超越的述語面」と「に於てあるもの」の両方にかけて読んだ方がよいと思います。「知覚の世界」の場合には、主語面も述語面も「限定できる」という立場に立っています。「この物は赤い」ということですね。しかしこの「限定」が主語面においても述語面においても否定される。この場合それを「感覚的性質一般の概念によって限定した時」どうなるかと言えば、限定できない、この赤はこの赤ならず、AはAでない、ということが出て来ます。そこに「物理現象界が見られる」とされます。ここまでのところ、何か質問はありますか?
B:何とかついていけています。
―次に進みましょう。「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできないが」ということわりを入れた上で、「具体的一般者の超越的述語面を右の如き一般概念を以て限定すると云う時、それ」つまり、限定された超越的述語面ですね、「それが単なる肯定的述語面である場合は、知覚の対象界という如きものに過ぎない」とされます。「肯定的述語面」とは述語面が否定を含まないということです。AがそのままAである、ということです。これに対し、「それが否定を含む矛盾的統一面である場合は、物理現象界の如き働くものの世界が見られねばならぬ」と続きます。「矛盾的統一面を含む」とは、Aが同時にAでない、ということです。Aが同時にAならざるものである、ここに働くものが見られる、というのです。次いで「矛盾的統一」とあるのは、「限定のできない」ということ、つまり「Aが同時にAでない」、という事態を指していると思われます。それは「否定を含む一般者に於て成立する」とされます。「知覚の世界」における「一般概念(感覚的性質一般)」は否定を含まないが、「物理現象界」における「一般概念」は否定を含む、ということですが、これが「一般概念」を「時の一般者」に於てある、と見ることだと考えられます。
B:「知覚の世界」の場合には個々のものを「時に於てある」とは見ていないことになるのですか?そうだとすると、「変ずるもの」を単に「感覚的性質一般」という一般概念によって限定した時に現れるのが「知覚の世界」で、「変ずるもの」を「感覚的性質一般」という「一般概念」と、「時の一般者」という「一般概念」によって限定した時に現れるのが「物理現象界」だということになりますね。そうなるとやはり「時の一般者」というもの自体が限定された「一般概念」ということになりませんか?
―西田がカントの思想を踏まえているとするならば、時間は「一般概念」ではありえないし、繰り返しになりますが、西田も「時の一般者」は限定できない、とはっきり述べています。では何なのか、といえば、やはり純粋直観、ないし感性的直観の形式ということになると思います。少なくとも西田がここで論じている物理現象がそこにおいてある「時」とはそうしたものだと考えられます。また西田が、時空の形式を抜きにした認識は不可能とするカントの思想を踏まえているとするならば、「時の一般者」抜きの認識はありえない。ことに「知覚」が時の形式抜きに成立するとは考えにくい。その意味でも単なる形式としての「意識一般」の一つの在り方(時に関する在り方)が「時の一般者」である、と考えるべきではないかと思います。
B:それでは「知覚の世界」と「物理現象界」の区別はどうなるのですか?
―「変ずるもの」を判断する際に、どちらも「時の一般者」に於てあるのですが、「知覚の世界」の場合には、「AがAであると同時にAでない」のうちの「AがAである」の側面において成立し、「物理現象界」の場合には「AがAでない」の側面において成立する、と考えて見たいのです。とは言え、西田も「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできない」としていますので、推測はこのあたりに止めたいと思います。次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?
B:「矛盾の根柢には一つの類概念を見ることはできないと考えられ、矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられるであろう」とあります。
―これまで論じられてきたのは、「知覚の世界」にせよ、「物理現象界」にせよ、「感覚的性質一般」という限定された「一般概念」内での話です。西田は「物理現象界」においてすでに「矛盾的統一」が成り立っている、と言ってしまったのですが、じつはこれは勇み足で、「矛盾は限定せられた概念の外に出ること」だ、というのが厳密な言い方になります。「考えられるであろう」とありますが、これは西田の主張でもあります。
B:どうしてそのように言うことができるのですか?
―これまでも同じようなことを西田は繰り返し述べているからです。例えば『働くもの』の中に「矛盾は相異の極致である、二つの概念が互に相矛盾すると考える時、亦此両者を包む何等かの客観的統一がなければならぬ、之によって二つの概念が矛盾すると考えられるのである。此の如き客観的統一は単に特殊を包摂する一般概念という如きものではない。或一つの概念に矛盾する概念を考えるには、我々はこの概念を越えて外に出なければならぬ、相矛盾する概念を統一するものは自己自身の否定を含むものでなければならぬ」(190,9-14)という叙述があります。上の「限定せられた概念」がここで言う「一般概念」です。そしてここに出て来た「相矛盾する両者を包む客観的統一」が、絶対無の場所において成立する具体的一般者だと考えられます。
B:「変ずるもの」は矛盾ではないのですか?
―これも厳密に言えば、「真に変ずるもの」はすでに「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」ということになります。これまで西田が「変ずるもの」と呼んできたものは「生滅するもの」と言い換えていいと思います。
B:何故「生滅するもの」と言わなかったのですか?
―これも推測の域を出ませんが、「物理現象」の根柢を論じようとしたからではないかと思われます。
B:「変ずるもの」と「生滅するもの」はどのように異なりますか?
―そこにおいて変化が生起する「一般概念」が残るかどうか、だと思います。例えば或る人が教養のない状態から教養を身に着けたとして、これは変化ですが、この変化の基体としてここには「或る人」という「実体」があります。「或る人」はもちろん死ということを免れません。その場合でも「質料」というものを考えれば、その上で生死も含めた変化を論ずることができます。あるいは赤から赤ならざるものへ変化した、という場合には「色一般」が変化の基体となります。
B:「生滅するもの」はどうなりますか?
―そうした限定せられた「一般概念」がなくなる場合に成立すると考えられます。生即滅(死)、有即無、の「即」に当たると思います。もちろんこの「即」を実体化してはいけません。それではまたしても変化になってしまいますから。西田は、概念相互の関係に「相異」と「相反」と「矛盾」を考えていて、「生滅するもの」はこの最後の「矛盾」の段階で成立します。同じく『働くもの』191頁9行目~192頁5行目を、Cさん、読んでください。
C:はい。「或一つの肯定的なる概念に対しては、之と異なれるもの、之に反するもの、之と矛盾するものとを考えて見ることができる。相異なれるものの統一として、その背後に物という如きものを考えることができる、色と音とは相異なるものであるが、一つの物が色を有ち又音を有つことができる。之と共に主観的には一つの類概念を以て統一することもできる、例えば、色も音も感覚的性質という一つの類概念に属するのである。相反するものは、時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない。併し相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ。相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない、縦、時の考を入れても、一つの物がその矛盾せるものに移り行くと云うのは消滅ということでなければならない。矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ。」
―ありがとうございます。そこまでで結構です。「変ずるもの」は狭義にはこの「相反」の段階に見られるものです。「変ずるもの」と「生滅するもの」の区別については後でも出て来ますので、今回はこの位にして、後一文残っていますね。「併し斯く考え得るかぎり、その背後に否定を含んだ一般者がなければならぬ、否定の肯定がなければならないのである」。「斯く考え得る」とは何を指すのか。おそらく「矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられる」を受けているでしょう。端的に言えば「矛盾」が考えられる、ということです。矛盾が考えられる以上、「その背後に」、つまりそうした「考え」の背後に、「否定を包んだ一般者」がなければならぬ、否定の肯定がなければならない」、ということだろうと思います。
C:この「否定の肯定」は絶対無ということでしょうか?
―そうですね。有無の対立を絶した絶対無。あるいは「即非」ということだと思います。『働くもの』ではこれが「客観的統一」と呼ばれていました。どちらも「なければならぬ」という言い方がなされていて、単なる「要請」とも読めますが、それだけではなく、これは体験(知的直観)の事柄でしょう。今日はここまでとします。
ヂ:(第113回):ヂ

時と物理現象との関係

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第7段落を読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考へられるのである。」(345, 14-346, 1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田によれば「現在はいつでも否定的である」。現在は、「今」あるいは「これ」と意識されたときには、常に取り逃がされている。私がどれほど「これ」をつかんだと思っても、それは意識された現在であり、既にそれは過去になっている。このことを理由に、西田は「時は流れるものと考えられる」と言う。たしかに、時は流れるものと言えそうである。だが、このように言うとき、西田は、時自体を対象化しているように、すなわち、流れる時の外にいるように思われる。このように言う者は、時においてどのようにしてあるのだろうか」(245字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―「このように言う者」は「流れる時の外」にある、とありますね。答えは出ていませんか?
W:それが同時に「時において」ある、ということを問題にしたいと思います。
―まさに矛盾的存在ですね。
T:時は見えないもので、これを捉えることはできないと思います。「流れる」というのも比喩で、こうした比喩でしか語れないのが時だと思います。記憶をなくした者にはそうした「流れ」は分からないでしょう。記憶と記憶を結びつけて時が流れている、というように譬えるのだと思います。記憶自体は時の外です。超新星爆発が観察されても、それははるか昔の出来事です。この場合は長い時間のスパンがありますが、同じことは目の前のものを見ている場合にも言えると思います。目の前の出来事はすでに一瞬前の過去の記憶です。こう考えると、私たちの記憶だけでなく、あらゆる知識が時の外にある、と言えると思います。
Y:時は「形式的な時」で、その根本に「内容ある時」つまり「変ずるもの」があり、これは直観によって捉えられるというのが、西田の主張だと思います。
―つまり、我々は時の根源を直観において生きていると。
N:「反省の極致」という表現に注意すべきだと思います。そこにおいて我々は真の時間をつかむことができるのだと思います。
―「極致」と言う以上、それはもはやたんに反省とは言えないのでは?
N:それでもあくまで「反省の極致」ですから、反省を捨ててはならない。
Y:Wさんにお伺いしたいのですが、リトマス紙が変わった瞬間は現在ですか、それとも過去ですか?
W:「真に変ずるもの」を考えてはいけない。自分が変ずるものにならないといけない、ということだと思います。反省ではない、ということを明らかにするために西田がやっているような、こうした哲学は有効だと思いますが、その哲学自体が反省になっている。そういう意味で「このように言う者」を問題にしたかったのです。私としては反省とは手を切りたい。反省とは異なる仕方での哲学を考えたい。
N:いや、哲学はたんなる直観ではいけない。かといって答えを出して、それが分からない者を見下すような反省でもいけない。どこまでも反省を徹底する。そこでの極致。
―人間はどこかに自分本来の居場所(立場)を定めたいという思いを決して手放さない存在だと思いますが、それを許さない働きがありそうです。と言ってもすでにこれが立場になっています。しかしこうしたどうしようもなさがあるからこそ、それをすっと抜けるような出来事も起こりうる。こうした事柄のすべてに「言葉」というものが関わっているように思われます。今回のテーマである「時」に即して言えば、我々は「言葉」によって「時」の外に立つことになりますが、こうしたどうしようもない言葉のぶ厚い壁があるからこそ、それをすっと抜けて「時」そのものの内(言葉の内実・意味)に開かれる、という出来事(そのうちでは言語活動を始めとする行為はできるが、それに「ついて」語ることはできない)も起こりうる、私はどうもそのあたりに関心があるようです。今回のプロトコルはこのあたりにして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(346頁5行目~7行目)
―「今「一」に於て問題とした所に還って見よう」とありますが、「一」のどのあたりに還ったのか、次を読んでもすぐにはピンときません。もう少し読み進める外はありませんね。ということで、Bさん、お願いします。
B:読む(346頁8行目~347頁4行目)
―「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るであろうか」とあります。「一」に「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」(325頁6行目~7行目)とありますので、ここを受けたものとも考えられますが、そもそも「一」で問題になったのは「時に於て現れるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」だったはずですので、これで「「一」に於て問題とした所」に還ったとは言えません。せいぜいその下準備といったところです。やはりもう少し先を読んで見ないと分からないようです。さて「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るか」の問いですが、結論を先取りすれば、「変ずるもの(内容ある時)」が部分的に限定せられた時に一種の連続として現れるが、これが物理現象で、こうした物理現象が時に於てある、ということになります。変ずるものは直覚的なるもので、これは時に於てあるとは言えませんが、これを「部分的に」、つまり後に出て来る言葉で言えば「感覚的性質一般」という「一般概念」で限定しようとすると、例えば赤が途端に赤でないものになっている、というように「一種の連続」が現れるけれども、これが「物理現象」だというのです。次いで「時と物理現象との関係は如何なるものであろうか」とありますが、これも先取りして言えば、「物理現象が時に於てある」ということになります。先取りはこの位にして、実際に見て行きましょう。「時に於て現れるもの」、すなわち「時の関係項となるもの」、これは「現在」とかその「前後」、これをさらにt1,t2,…と言ってもいいと思いますが、これを「主語」として「之について赤であるとか青であるとか云うならば、かかる判断を成立せしめる一般者は如何なるものであろうか」と西田は問います。これにたいして「色一般」と答えるなら、その限定としての「この色(例えばこの赤)」が主語となりますが、これだけでは「時」とは何の関係もない、ということになります。そうしてさらに「我々が時に於てあるもの(t1,t2,…)に就いて性質的述語(赤、青…)を加える時、かかる意味に於て主語となるものはもはや時の一般者(主客対立における超越的述語面、意識面)に於てある(t1,t2,…;積極的に限定できない現在)のではなく、却って〔積極的に限定できる、〕時を包む一般者(具体的一般者)に於てあるのである、即ち既に変ずるものであるのである、内容を有ったときであるのである」と述べられます。〈今は赤である〉と言えるには、この「今」が色一般に於てあるのでもなければ、「時の一般者」に於てあるのでもない、具体的一般者に於てあるのでなければならない、「今」とは「変ずるもの」でなければならない、ということです。ここまでわからないところはありませんか?
A:大丈夫です。
―次いで「形式的なる時(時の一般者)に於てあるものに就いては、単に現在とか前後とか云い得るのみである。唯、『積極的に限定することのできない具体的一般者』に於てあるもの(変ずるもの)が部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考えられるのである、物理現象とはかかる意味に於ての連続に外ならない」とこの段落での結論が述べられます。これについてはすでに先取りして申し上げました。次をBさん、お願いします。
B:読む(347頁5行目~13行目)
―「前にも云った如く」とは345頁3~5行目のことですね。「具体的一般者の根柢となる一般的なるもの」とは、この具体的一般者にさらに根柢があるわけではなく、具体的一般者の述語面における根柢であり、こうなった時には主語面と述語面とが分かれる、ということは前にも申し上げました。この「一般的なるもの」は意識面のことですが、これは「積極的に限定することができない」、これ以上の述語づけを許さない、つまり「述語となって主語とならない」、そうした「述語面」です。これに対し主語面は「無限に深い主語となって述語とならない直覚的なるもの」となります。この「直覚的なるもの」は具体的一般者においては知的に直観されるものですが、このように主客(述語面と主語面)が対立する場合(「所謂思惟の立場」)においては、感性的直観となって積極的に限定できないものになります。これに対し述語面は単なる形式(時の場合には時の一般者、形式的時)となります。これはそれ以上の述語づけを許さない、その意味で「何處までも限定すべからざるもの」で、ここではそれが「無の場所」と呼ばれています。
B:これは絶対無と同じものですか?
―いえ。これは主客の対立を前提としていますので、絶対無とか真の無の場所ではなく、対立的無の場所、ということになると思います。次へ参りましょう。「その限定」とは無の場所の限定、ということですね。そういうものとして「之」、つまり無の場所「に於てあるもの」は「所謂抽象的概念」、一般概念にすぎない、これが先の「部分的限定」ということです。次の括弧の部分は後からの加筆部分でしょうね。「限定することのできない超越的述語面(意識面)が如何にして限定し得るか」という問いを立てていますが、これに対しては「推論式的一般者」の「大語面的限定」がそれだと答えています。後に「推論的一般者」が出て来た時に考えればよいのですが、少しだけ触れておくなら、推論式には大語、小語、媒語があり、例えば「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」では、「人間」が大語、「ソクラテス」が小語、「死すべきもの」が媒語です。大語面的限定とは、大語面、つまり一般者から限定するということで、これに対し「小語面的限定」とは小語、つまり特殊から限定するということです。物理現象として限定するのは「大語面的限定で、意志による限定として考えれば「小語的限定」ということになります。これは『善の研究』で「理論的研究」と「実践的研究(価値的研究)」と呼ばれたものの区別を引き継いだものと考えられます。この区別は「例えば一銅像の材料たる銅は機械的必然性の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか」(岩波文庫改版151頁)と言われる時の区別に相当します。以上はこの箇所を読むための暫定的な補足にすぎません。とは言えこの説明で「限定することのできない超越論的述語面が如何にして限定し得るのか」が分かったことにはならないでしょう。限定に二方面がある、と言ったにすぎないからです。「限定できないものが如何にして限定し得るのか」、この問いには答えていないからです。それはともかく、ここまでで何か分からないところはありますか?とりあえず意味が通らないという意味で。
B:根本的なところ、奥深いところで分からないことが起っているような気がしますが、先を進めてください。
―はい。「唯、此の如き『場所の限定せられたもの』」、「一般概念(抽象定概念)」ですね。これが、「超越的述語面(意識面)」の「部分的限定」として、「主語的なるものを含むと考えられるかぎり、「非合理的なるものの連続」を見ることができる、そう述べられます。
B:「非合理的なるもの」とは何ですか?
―直接的には「直覚的なるもの」を受けたと考えられますが、すでに一般概念によって限定されていますので、たんに「非合理的」とは言えないと思います。ただ、例えば変ずるもの(知的に直覚されたもの)を対象とすることによって、どこまでも限定できない感性的直観となりますが、これを色一般によって限定しようとすると、赤が直ちに赤ではなくなってしまう、こうした事態を「非合理的」と言っているのだと思います。
B:ありがとうございます。
―では次をCさん、お願いします。
C:読む(347頁13行目~348頁10行目)
―これまでは主語と述語が分れていましたが、ここからは両者が関係する判断の話になります。まず「主語となって述語とならない」、「個物」ですね。こうした「超越的なるもの」が「述語面に含まれる」、つまり「述語される」「判断になる」ということです。その場合、「一般的なるもの」の意味が「抽象的一般」から「具体的一般」となる、とされます。このことを「抽象的一般」の立場から見れば、「特殊なるものが一般となる」、と述べられます。ちょっと分かりにくいですが、西田は、判断に包摂判断と物の判断を区別します。包摂判断の場合には、「犬は動物である」のように、一般(動物)が特殊(犬)を包摂します。これに対し物の判断の場合には、「この塩は白くて、辛くて、(結晶が)立方体である」のように、特殊(この塩)が一般(白い、辛い、立方体である)を包みます。その意味では「特殊なるものが一般になる」、「前者が後者を含む」ということになります。白くもあり、辛くもあり、立方体でもある、という意味で「一般」だというのです。このことを西田は「性質赤」と「赤きもの」の区別として説明しています。「このリンゴ」は「赤い」と言う場合、この「赤い」は「性質赤」です。これに対し、「このリンゴ」を「赤いもの」と呼ぶならば、この「赤いもの」は個物(「唯一のもの」)です。そうしてこの個物は「物」として色だけでなく、様々な性質をもちます。こうして「物は種々なる性質の統一として、此等の性質に対して一般的と考えることができ、特殊なるものが一般的となると云うことができる、特殊にして抽象的一般を含むと云うことができる」ことになります。
C:次の「無論此の如き物は抽象的一般の外にあるが故に、抽象的一般としては限定することのできないものである」というのがよく分かりません。「赤きもの」がどうして「性質赤」の外にある、ということになるのですか?
―西田は分かりやすさのために「赤きもの」「性質赤」から出発して、様々な性質をもった物というように話しを進めていますが、初めから念頭にあるのは、無限の述語可能性をもった、それゆえに積極的に限定できない「物」です。これはカントの「物自体」に相当しますが、西田はこうした「物自体」を「感性的直観」に重ねて考えるところがあるようです。こうした「物」に主観が「一般概念」を当てはめて、「このリンゴは赤い」のように判断するわけです。
C:その判断は主観的なものになるのですか?
―主客が分かれていますので「主観的」、そうして一面的ですので「抽象的」となります。そのことは342頁14行目~343頁2行目に述べられていました。しかしこの「主観的」というのは所謂「主観的」、つまり「個人的」という意味に限定されるものではありません。カントの「客観的」というのは主観的な構成によるものですが、一般性と必然性をもつもののことです。これをも含めて西田は「主観的」と呼んでいることになります。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第112回):ヂ

変ずるものに於いて時を考える

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第6段落を読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時は数学的連続から変ずるものに至る限界をなすのである、両者の中間に位するものである。」(344頁8行目)および「真に変ずるものに至っては、性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的とならねばならぬ」(344頁4〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田は、「変ずるもの」という個物的・流動的な具体存在を、我々がどう「考え」語りうるかを問う。彼は、これを固定的な「形式的時」(数学的連続)では捉えられないとし、「時」をそれ自体が「数学的連続から変ずるものに至る限界」として再定義する。つまり、「変ずるもの」そのものと思惟とを結ぶ、動的な「時の形式」によってのみ「変ずるもの」を語り得るのだと説く。この「時」という形式において初めて、「変ずるもの」そのもの(例:読書会という個物)が主語となり、「○時に起こった」という「形式的なるもの」が従う述語となる。これが、直観される「変ずるもの」そのものを概念的思考へと媒介する西田独特な仕組みである。『では、存在そのものの意味は、必ずこの「限界」としての「時」、つまり<流れる思惟形式>を通してしか我々に現れないと言えるのか。この形式を離れた存在の直接的顕現は、原理的に不可能なのか』」(385字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―考察がまずあって二重括弧の部分が問いですね。その部分だけ扱いましょう。問いはさらに「存在そのものの意味は、変ずるものとしてしか現れないのか。存在そのものの知的直観は不可能なのか」と言い換えることができると思います。個物の知的直観から出発し、これを判断にもたらす場合に、主客が分れて、主語である個物が「変ずるもの」という感性的直観となり、述語が「意識」(無の場所)となる、というのがここでの西田の立場です。この場合「変ずるもの」は〇〇である、と積極的に限定することはできません。例えば「現在はいつでも否定的」で、「之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」(345頁14~15行目)、ということになります。人間に知的直観を認めない立場からすれば、こうした立場に立つほかありません。
R:私は「存在そのものの意味」の直接的な顕現をどこまでも求めたいと思います。
―はい、頑張ってください。ところで、私はこの問いで、次のような話を思い出しました。唐代の禅僧に徳山という方がいて、若い頃は『金剛経』に通じていたので「周金剛」とまで呼ばれていました。南の方で禅などというけしからんものが流行っているので、これをとっちめてやろうと、出かけてきたのですが、途中の茶屋で点心を注文したところ、そこの婆やに「『金剛経』には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という語があるはずだが、お前さんはどの心でそれを食べるのか」と聞かれ、まったく答えられず、後に開悟して、「徳山の棒、臨済の喝」と言われるような有名な禅僧(今でいえば暴力坊主)になった、という話です。
R:「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とはどういうことですか?
―過去の心は過ぎたものでもう存在しない、未来の心もまだ来ないので存在しない、現在の心はこれだと思った時にはすでにそこにないので存在しない、ということです。ところが我々は現在の心があると思って、その心で食べているつもりになっている。こちらから心を持ち込んで食べに行っている。たとえば点心とはこんな味だ、というような先入見を持ち込んで、それを食べに行っている。これでは他ならぬその点心を食べたことにはならない。Rさんの言葉で言えば、存在そのものの意味に触れたことにはならない。これはどんな場合でも言えますね。話を聞く場合も、こちらから先入見を持ち込んで「聴き」(「聴」という漢字は「耳」を「直」に向ける、「聞きに行く」というつくりになっています)に行っている。そうするとその先入見の網にかかるものしか聞こえません。
T:そう言われると、本当に食べているのかどうか、よく分かりませんね。
N:我々は「変ずるもの」をすでに「生きている」と思います。どうしたら食べられるか、などとへ理屈をこねる前に、とにかく食べている。たしかに我々は思考の補助線に頼らざるを得ないが、それに囚われると、ゼノンのパラドクスや徳山の点心のようになる。それを超えたところに具体的一般者の生き方がある。時間について言えば、時間に縛られるのではなく、むしろ、社会生活を営む上で、これを利用する、というのが大事なのでは?
T:「思考の補助線にすぎない」というのは納得がいきます。過去・現在・未来といった思考の補助線をなくせば、現在しか残りませんが、そうなると現在すらない。
―思考の補助線をなくそうとすること自体、思考ではありませんか?
T:それはそうですが、私は時間だけでなく、知識も人間が自分のために利用するツールになると思います。私はワインのことは詳しくありませんが、ワインを語る言葉に馴染んでいくうちに多彩な味がわかってくるというような。
―以前出て来た、色に関する言葉を三つしか知らないと、色は三色にしか見えないのと同じですね。そうなると結局、そうした知識を先入見として経験している、ということになりませんか?それではやはり、存在そのものの意味に触れているとは言えないのでは?存在そのものの意味に触れる、とはそうした先入観が破れ、例えば何とも形容のできない、言葉にならない味に出会うとか、そういうことになるのでは?しかし、そうした体験はこちらから狙ってできるものではない。とにかく食べる、というような気合いで簡単に突破できるものではないように思えますが。(例えば私は剣道をしていますが、そのつど剣道とはこういうものだ、という投げ入れなしに行為はできません。しかしそれでは剣道における存在そのものの意味に触れてはいない、それは大いに実感するところです。)
T:それでもそこに至るトレーニングのようなものは必要な気がします。
W:こうした問題はすべて食べてしまってから起るものだと思います。食べてしまってから、それがどこまでも言葉にならない経験だということになるのだと思います。ただ同時に我々が日常的に食べているということが、食べるということそのものの意味に届いていない、ということの反省も大切で、そのこともそうした経験には含まれていると思います。
―なかなか面白くなってきましたが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(344頁11行目~345頁1行目まで)
―まず「時によって又時に於て変ずるものを考えるのではなく、変ずるものによって又変ずるものに於て時を考えるのである」と、このあたりでの結論がまず述べられます。個物を知的に直観するのは「具体的一般者」においてですが、これを知識(判断)にもたらすためには、主語方面(客観)と述語方面(主観)の対立が不可欠で、この主語方面に「変ずるもの」が、述語方面に「限定することができない」という意味で「否定的な」一般者が成立することになります。この「否定的一般者」は後で出て来ますが「意識面」のことです。次に行きます。「かかる一般者」、つまり「否定的一般者」ですね、これは「唯我々の反省の極致に於てのみ到達し得る」とありますね。「反省の極致」ですから「反省」(主客の対立)が破れたところ、つまり知的直観ですね、「そこに於てのみ到達し得る」と。どういうことかというと、知的直観において成立する「具体的一般者」の述語面が「否定的一般者」だということです。次に「前にも云った如く」と出て来ますが、「前に」とは342頁11行目から15行目を指していると考えられます。この箇所は、数学(幾何学・代数)における「純粋直観」に基づく「先験的知識」との対比で、「経験的直観」に基づく「経験的知識」について論じた箇所です。そうして「此場合に於ては」と続きます。「此」が何を指すかは難しいところですが、知的直観に到達して、なおこれを判断(知識)にもたらすケースを指していると考えられます。その場合には「判断的知識の主語的方面と述語的方面とが分裂し主観と客観とが相対立する」ことになります。そうして「否定的一般者は意識面として唯、反省的にのみ限定せられるのである」と続きます。また「反省」が出て来ましたね。意識面(否定的一般者)は、知的直観において成立する具体的一般者を反省することによって成立する、ということです。次をBさん、お願いします。
B:読む(345頁1行目~9行目)
―まず「私は主語的基体としての一般者と超越的述語面としての一般者としての一般者とを何處までも区別すべきであると思う」と、判断成立に欠かせない主語と述語の対立について述べますが、「主語的基体としての一般者」という表現に驚かされます。「主語的基体」とは「個物」のことですが、それが「一般者」と呼ばれているからです。これは後(347頁15行目~348頁8行目)にも出て来ますが、個物が様々な性質をもちうる、という意味で「一般者」と呼ばれていると考えられます。さて、こうして主語面に「主語となって述語とならないもの」、述語面に「述語となって主語とならないもの」が考えられることになります。次に「具体的一般者の根柢」と出て来ますね。
B:「具体的一般者」のさらに根柢があるということですか?
―一般的な知識の根柢となる部分的な「具体的一般者」、これは後で「構成的一般者」という名で出て来ますが、それならば「さらに」その根柢がありえますが、知的直観の「具体的一般者」の場合は、それ自体が全体ですから、さらなる根柢はありえません。その場合は、「具体的一般者」内での、述語的方面における根柢、というように考える外はないと思います。そうした「具体的一般者の根柢となる一般者」が「限定することのできないものとなる時」、つまり「否定的一般者」になる時、「かかる超越的述語面に於てあるもの」、つまり「個物」ですね、これが「いかなる意味に於ても主語的に限定することはできぬ」ものになる、つまり「経験的(感性的)直観」になる、積極的にこれ、と言えないものになります。例えば「この塩」が知的に直観されていて、これを判断にもたらす場合に、主述が分れる。主語面にどこまでも限定できない「感性的直観」が、述語面にどこまでも限定できない「意識面」(否定的一般者)が成立する、ということです。さきほどと同じことが繰り返し述べられていますが、ここまでで分からないところはありますか?
B:大丈夫です。
―では、そのような個物はどのようにして知識になるか、が次に述べられて行くことになります。まず「唯その否定的一般者即ち所謂意識面に於て(一般概念によって)部分的(主観的・抽象的)に限定し得るのみである」と述べられます。感性的直観としての「この塩」はどこまでも限定できない(述語づけができない、語り尽くせない)ものですが、「色は?」と聞かれれば「それは白い」というように限定できます。この場合の「色」が「一般概念」に当たります。この土俵の上で、カテゴリーによって我々は知識を「構成する」(作り上げる)ことができます。そうしてそれが意識面に映される、つまり地に対する図となって意識される、ということです。ここまでは?
B:ついていけています。
―次を読みます。「超越的述語面が主語を包むと考えられる時」、「超越的述語面」の「超越」とは「主語」を超越しているという意味ですが、それが「主語を包む」となると、この一般者は否定的ではなくなって、「具体的一般者」となります。その場合の「包囲面」、つまり限定された範囲が先ほどの例で言えば「色」といった「一般概念」になります。この土俵の上で知識が構成されるので、この一般者が「構成的一般者」と呼ばれます。全体としての具体的一般者の内部に、部分的な具体的一般者ができた形ですね。それ(図)が意識面(地)に映される、つまり意識される。「その背後はいつも否定的一般者たる意識面を以て裏付けられて居る」と述べられることになります。そうして「超越的述語面に於てあるもの」、「個物」ですね、これが「構成的一般者」(一般概念)によって範疇的に構成せられて、これが部分的(主観的・抽象的)に意識面に映される、というわけです。ただそれはどこまでも部分的な知識でしかない。「この塩は白い」という知識はもちろん部分的です。「その物自身」つまり「物自体」の知識ではない。「物自体」は知識的に限定することはできない、ということになります。次をCさん、お願いします。
C:読む(345頁9行目~346頁3行目)
―今度は「時」に話が移ります。まず「我々は直に時の一般者というものを限定することはできない」、つまり「時の一般者」が「否定的一般者」(意識面)であることが述べられます。これを直に限定しょうとするとアンチノミーに陥ります。この辺の叙述は343頁8行目~10行目の繰り返しです。そこで「現在」から出発することになりますが、「現在とは時の一般者に於ての個物」だとされます。ただ「個物」と言ってもここではもはや知的に直観できるものではなく、「感性的直観」になっていますから、どこまでも限定できません。そこで「現在は個物的といっても単に自己に同一なるものではない、否単に特殊化の達することのできない尖端と考えるも尚その意義を尽すことはできない。時の基体となる一般者(「時の一般者」のこと)は否定的なるが故に(否定的一般者、意識面であるが故に)、此に於てあるものは自己同一として肯定的たることはできない」と述べられます。要するに「現在」が「感性的直観」で、「時の一般者」が「意識面」で、どちらも限定できない、ということです。「個物的なるものが自己同一と考えられるには、之を包む一般者が積極的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり「具体的一般者」でなければならないが、「現在」の場合はそうなっていない、ということです。ここまでで分からないところはありますか?
C:大丈夫です。
―次を読んで見ましょう。「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である(主語的に積極的に限定できない)、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考えられるのである」。最初に紹介した徳山禅師のことが想起されますね。無心で点心を頂けばよいのですが、それを反省すると、点心を頂けなくなってしまう。現在心というものがどこまでもつかめないからです。「無心で頂けばよい」と思っただけでもう取り逃がしている。我々の行為(意志)は言語による思考(反省)によって成り立っているので、これはもうどうしようもない。気合いでどうにかなるものでもない。むしろ気合いなどは捨ててしまって荘子の「木鶏」のようになった方がよいかもしれない。しかしそれとてすでに頭で考えている。対象化できない、説明的反省的言語以前ものとの、言語による対話をどこまでも深めて行くほかはありませんが、次第にわかってくることは、そもそもどこまでも分からないもの、どうにもならないものを、言葉を通じて自分のものにし、自分の思い通りにしようとする、煩悩というか、思い上がりのようなものが人間の在り方の根本にあるということです。そのことに身が頷くとともに、どこまでも分からないものに対して自然と頭が下がる、こうしたことが起り得る、ということです。だからご飯は餌のように我が物顔にがつがつ食べてはいけない(笑)。もちろんこれもすでに頭で考えていますけれどね。次を読んで見ましょう。どこからでしたか?
C:「形式的時」からです。
―ありがとうございます。さきに「時」が「数学的連続」と「変ずるもの」との中間にあるとされましたが、ここではその「時」がむしろ「形式的時」として述べられています。この「形式的時」とは形式(前後・同時といった数学的連続)が「主」で、性質(内容)が「従」、ないし「述」となっているものでした。これに対し、「真に変ずるもの」が「内容ある時」とされ、そこにおいては性質(内容)が「主」で、形式が「従」ないし「述」になっています。そうして「形式的時」においては空間化された時ですので、「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」のに対し、「内容ある時」は「唯一の方向」つまり、過去から未来へと非連続の連続的に流れるものとなります。こうした「変ずるもの」としての「内容ある時」が、「時の範疇」(時の形式)によって、例えば「感覚的性質」というような「一般概念」(「構成的一般者」)の土俵の上で構成され、部分的に意識面に映される(意識される)ことになります。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第111回):ヂ

「変ずるもの」の形式

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第5段落を読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し判断的知識が成立する限り、特殊化の尖端に於ても一般的なるものが自己自身を失うのではない」(343頁2~3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「キーセンテンスと同じ段落に「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る。」(342頁10行)、「唯その個物的なるものの尖端においてのみ、自己同一として直覚的と考えられる場合、その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」(342頁12行)とあります。特殊化の尖端においても「判断的知識」は成立し得るのでしょうか」(185字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―テキストに出て来る順で、引用文について確認しておきましょう。まず「かかる一般的なるもの」とは「無限大の一般的なるもの」のことです。これが「限定せられるかぎり」「判断的知識」が成立する。「之を越ゆれば」、これを前回「一般的なるものが限定されない場合は」、と読みました。その場合「無限大の一般的なるもの」がそのまま「直観の世界」になっている、と読めます。この「直観」は「知的直観」です。次の文は、「直観(直覚)」を「個物的なるものの尖端」に限定(極限)する場合ですね。そうなると、それ(個物)を「述語的一般者は積極的に限定できない」ことになります。「直観」が主語(個物)に限定されているからです。この直観は「経験的直観」ですね。これを「述語的一般者」が「積極的に限定できない」とはどういうことかというと、後の表現ではそれが「主観的」、「抽象的一面」にすぎない、ということです。これは普通の判断(普通は自分の判断を「主観的」とも「抽象的」だとも思っていませんが)を反省的に見たものです。「これは青い」と言う場合、これを反省して見ると、「青い」は「主観的」で、しかもそれ以外の性質を捨象した「抽象的」なものと考えられるからです。こうした在り方を「一般的なるもの」が「自己自身を失う」とも言っています。「併し」と来て、キーセンテンスですね。その場合でも「一般的なるもの」は「自己自身を失う」のではなく、「自己自身に還る」、つまり「無限大の一般的なるもの」に還る、と言うのです。そうして「客観的なるもの」つまり「個物」を「包む」とあります。この「一般的なるもの」「述語的一般者」が「意識(面)」と呼ばれ、そこにおいて「具体的一般者」が「抽象的概念として限定される」とされます。どういうことかというと、普通の判断を「反省」の立場を超えて「知的直観」の立場で見ると、じつは「具体的一般者の自己限定」(第5段落冒頭)だというのです。われわれの特殊化の尖端における判断(個物的判断)の根柢に知的直観の世界がある、ということです。逆に言えば、我々の個物に関する判断的知識は、知的直観を根柢にして成り立っている、というのです。例えば「これは青い」というのも、そうした言語化以前の直観の世界が我々に開けていて、そこからの限定として「これは青い」という判断が成り立っている、こう考えるのです。Tさんは経験的直観に基づく判断的知識では、主観的抽象的でしかないのだから、積極的肯定的な仕方では個物に関する判断的知識は成立していない、とされているのに、知的直観の立場からすれば、具体的一般者の抽象的な自己限定として判断的知識が成立している、とされている、そこで改めて「特殊化の尖端における判断的知識は成立するか」と問うた形になります。さてどうなんでしょう。「これは青い」という判断は知的直観に基づいているのでしょうか?
A:基づいている、と思います。
B:私もそう思います。
C:私もです。
―西田派が多いようですが、虹が何色に見えるかは言語文化によって異なる、という知見があります。例えば「青」という言葉を知らなければ「青」は見えない、ということです。我々は言葉を感性的直観の中に投げ入れて認識している、ということです。だとすれば認識の源泉は知的直観のうちにあるのではなく、我々による言葉の投げ入れの方にあることになります。我々は常に世界を自分が生きやすいように理解してしまっており、そうした理解を世界のうちに投げ入れて、それで世界を認識しているつもりになっているのです。つまり判断的知識の源泉は我々の理解の方にあることになります。これを先入見とか偏見と呼ぶならば(自分の認識が先入見であるとか偏見である、とは普通誰も思いませんが)、我々の認識はすべて先入見によって成り立っている、と言えます。こうした先入見によって構成された世界観があるから、逆にそれが揺らいだり、あるいは破れたりする。そこに自分の認識が先入見に基づいていたことが顕わになると同時に「何か」が顕わになっている。西田はその「何か」を「知的に直観している」というように捉えてしまうのです。
O:私は、それはカオスだと思います。判断的知識の根柢になるような確固とした知的直観だとは考えません。
―(Oさんの考えをよく理解できていないのに、一方的な言い方になって心苦しいのですが、)たしかにその「何か」は我々が積極的に直観できるようなものではなく、逆に死の不安のように、我々が見たくないもの、我々が自力では決して見ることのできないもの、かもしれませんね。我々はそこから目を背けて自分の生きやすい世界を構成して、そこで生きている、とも言えます。しかしそれを「カオス」として捉えてしまえば、「カオス」を「カオス」としては捉え損なっており、「カオス」として捉えたところから出立する哲学は、別の仕方ではありますが、西田の知的直観と根本的には同じ立場に立つように思います。言葉以前というか、言葉を超えた世界というのは、それなしには哲学も芸術も宗教も成り立たないものですが、逆にそうである(言葉を超えた世界から芸術、宗教、哲学が成立する)のは、我々が言葉を一歩も出ることができない存在だからとも言えます。
S:しかし「人間」には言葉による「知的」な側面と同時に現に言葉以前を生きているという「動物的」側面があると思います。
T:私は動物も人間とは違う仕方ですが、「知的」な側面を持っていて、判断もしていると思います。
―それは言語的にしか理解することのできない人間が、そうした理解を動物に投影しているに過ぎないのでは?動物が判断しているかどうかは分からないのでは?
T:それは相手が人間でも同じことだと思います。他者はどこまでも分かりません。
―それはそうですが、少なくとも、観察するかぎり、動物が言語体系に基づいて行動し、判断しているようには見えませんが。
T:ですからあくまでも人間とは異なる仕方で、ということです。
S:判断しているのではなく、(本能的に)反応している、のでは?
―言語化以前のことをどのように語っても、やはり言語を一歩も出ることができないように思えるのですが。
T:発語能力を失った人ともコミュニケーションが取れますから、発語的言語以前の何かはあると思います。
―それはそうだと思いますが、今問題にしているのは発語能力を失った人の中でどうなっているか、ではなく、その人についてそのように観察し、語っている当人です。視点を客観的なものに移してしまうので議論がかみ合わなくなってしまう。科学でも哲学でも、あるいは芸術やスポーツでも「当人」意識を忘れて語る、無心に事柄と一つになって語る、あるいは行為するということがとても重要ですが、それは「人間」の在り方の一面でしかなく、人間は「それについて」知る、つまりそれを言葉にして知る、ということがあります。それがなければ無心の語りや行為自体も顕わになりません。つねに、そうしてすでにそれで「ある(生きている)」、ということと、それについて「知る」ということ、この矛盾が「人間」の本質を成しているように思われます。どちらか一方に還元することはできない。「これは青い」という判断的知識についても、事実(存在)の方から見れば、たとえ逃避的な仕方であっても、事実の方から成立している、と言えますが、「知」の方から見れば、どこまでも分からないものについての、自分に都合のよい、主観的で抽象的な知識にすぎず、しかもそのことすらどこまでも自覚されない。ついつい客観的な知識だと思ってしまう。それがいつまでたってもやめられない。このように日常的には単純に同一だと思われている「知」と「存在」の間にはじつは、最も近いが故の、最も深い断絶があり、それが故に「気づき」も「目覚め」も「学び」も生じうるのではないか、そのように感じているのですが、どうでしょう。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(343頁7行目~10行目)
―まず「変ずるもの」は「個物的なるもの」だということを押さえておきたいと思います。これは分かりやすいと思います。「すべて具体的概念の如く」とありますが、「具体的概念」とは個物を含む概念のことです。抽象概念ではないもの、例えば「ペン」がそれです。「ペン」の出立点は経験的には「このペン」ですね。ついで「述語的なるものは唯部分的に限定し得るのみである」とありますが、「これ(個物的なるもの)を」を補って読みましょう。個物についての判断はつねに部分的だということ、先に出てきた言葉を用いれば「抽象的」だということです。これも分かりやすい。ついで「時を考えるにも、我々は現在から出立せねばならぬ」とありますね。「時」が「具体的概念」、「現在」が「個物」と対比されていることが分かります。ただ「時の一般者」は「ペン」などの「具体的概念」と異なって、「限定することはできない」とされます。「変ずるもの」は、この「限定することのできない一般者」においてある、ということにも注意しておきたいと思います。そうして「之(時の一般者)を限定しようとすれば所謂アンチノミーに陥る」とあります。ここではカントの『純粋理性批判』における第1アンチノミー「世界に始まりがあるか」を念頭に置いています。そこでは時間と空間の両方に渡ってアンチノミーが展開されていますが、ここでは時間だけを問題にしています。「世界に始まりがない」とするならば、現在の世界に至るまでに無限の時間を経過しなければならず、それは不可能(現在の世界に至ることができない)。ゆえに世界に始まりがある。逆に「世界に始まりがある」とするならば、その始まりの原因が無であることになる。無からは何も生じない。ゆえに世界に始まりはない。こうして「世界」に「始まり」があるともないともいえない、換言すれば、時間は無限であるとも有限であるとも、限定できない、ということになります。テキストでは「こういう意味に於て時も変ずるものである」とありますが、「こういう意味」とは有限とも無限とも限定できない、という意味です。「時の一般者」が「限定できない」が故に「時」が「変ずるもの」だと言われています。この「時」とは、過去から未来へと移り行く「現在」のことを言っています。ただ「現在」とだけ言えば、どこをとっても「現在」ですので、「時」は「変ずるもの」ではないとも考えられますが、これは「変ずるもの」を「数学的連続」のように「形式的」に見ているからだ、と西田は考えます。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。
B:読む(343頁10行目~344頁2行目)
―通常、「変ずるものは時に於て又時によって変ずる」と考えられていますが、西田はこれをはっきりと否定します。「時は変ずるものの一種」、否「時は寧ろ変ずるものの形式にすぎないと考えます。カントの場合も、「時間」は「感性の形式」でした。そうしてその「形式」(「時の概念」)がどこから出て来るかと言うと「数学的連続の概念」だというのです。この概念は「考えられたもの」であり、「限定せられた」「一般者」(一般概念)で、本質的にここには「変ずるもの」はありません。そこで西田はどういう時に「時」が「変ずるもの」になるかを考えます。「数学的連続」の場合、連続の一々の点は点という以上にいかなる性質もありませんが、「変ずるもの」の場合、連続の一々の点は更に「性質的に特殊化」できる、とされます。それは「変ずるもの」が単なる点ではなく、個物だからです。個物の性質はどこまでも特殊化できます。その場合の「一般者」は最早数や空間のような限定された一般者ではなく、「限定することのできない一般者」となっています。このように数学的連続の一々の点が個物となる時、「時は変ずるもの」となります。それでは次をCさん、お願いします。
C:読む(344頁2行目~10行目)
―次いで「変ずるもの」となった「時」と、「真に変ずるもの」との関係が述べられます。結論から言うと、一方に「数学的連続」としての純然たる「形式」があり、他方に「真に変ずるもの」があり、その中間に「変ずるもの」としての「時」がある、ということになります。詳しく見て行きましょう。まず「変ずるもの」としての「時」においては、「形式が主」で、「性質的なるものが従」、言い換えると「数学的連続という如きものが主語的」となり、「性質的なるものが述語的」になっていると言います。
C:どういうことですか?私はカレンダーのようなものを思い浮かべましたけれど…
―ええ、いいんじゃないですか。まず時間軸を考え、秒、分、時間、日、月、年で区切り、それを主語と考え、それに出来事を述語する、というようなことですね。こういうやり方は「全然限定せられた一般者の立場を離れていない」、つまり数や〔時〕空間といった「数学的連続」の立場ですね。これに対し「真に変ずるもの」ではこれが逆になります。つまり「性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的となる」。個物としての出来事が主語となる、ということです。〈〇時〇分に出来事Aがあった〉、ではなく、〈出来事Aは〇時〇分に起こった〉、という言い方になります。後者の言い方だと、まず出来事が「限定することのできない一般者の上に立ち」上がり、ついでそれが「時の形式」という「数学的連続」によって限定されることによって、出来事が時間的に限定され、こうして我々はそれについて「考える」ことができるようになります。「完全なる思惟の性質は限定せられた一般者の上に立つ」とありますね。逆に言えば、我々は空間的にも時間的にも限定されたものについてしか考えることができない。これはカントの『純粋理性批判』の一つの結論でもありましたね。だから我々は「時によって変ずるものを考える」というように思うのであるけれども、実はそうではない。我々は「変ずるもの」つまり「個物」を、「限定することのできない一般者」、つまり「無限大の一般的なるもの」(絶対無の場所)において、知的に直観していて、それについて「考える」際の「形式」が、「数学的連続」の概念を基礎としながら、それ自身「変ずるもの」である「時」だというのです。そうなると「時」とは「数学的連続から変ずるものに至る限界をなす」、言い換えれば「両者の中間に位するもの」ということになります。直観の世界に属する「変ずるもの」から言えば、これについて我々が「考え」ようとする場合に、「何等かの意味に於て」限定して「一般概念」にしなければなりませんが、その際の形式が「時」だというのです。この「時」は単なる「数学的連続」でもなく、「変ずるもの」そのものでもない、その中間のそれ自身「変ずるもの」としての「時」です。
C:その「時」とは、具体的にどういうものですか?
―何とも書いていないので、こちらで考える外はありませんが、まずは過去から未来へと流れていく現在が考えられます。こちらの方は後に「内容ある時」(346頁1~2行目)と呼ばれます。これに対して、「数学的連続」に他ならないような時間軸としての「時」、言わば空間化せられた時、が「形式的時」と呼ばれていて、そこでは「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」、つまり流れの方向がない、とされています。「内容」とはこれまでに出て来た言葉としては「性質」に相当しますので、この「変ずるもの」としての「時」とは、時間軸上の点(秒、分、時間、日などの単位)を主語としつつ、過去から未来へと流れる現在であると考えられます。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第110回):ヂ

具体的一般者の自己限定

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第4段落を読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ。」(342頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「…実在は現実そのままのものでなければならない」(『善の研究』)― この言葉は西田自身の根本的な基底をなしている。そして、我々にとって、「現実」とは〈日常〉そのものであり、とびっきりな日常も、何気ない日常も、すべてがかけがえのない〈日常〉である。我々は、ここにおいて「唯一なるものの判断的知識」を得る。ところで、その知識の基礎たる「自同的判断」は、更に同一律を基礎とすると思料するのだが、如何だろうか」(199字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―何か補足はありますか?
Y:具体的一般者が直覚と概念との統一だ、という場合に、直観に知的直観、純粋直観、経験(感性)的直観の3つがあることから、具体的一般者に3つのレベルがあるということでしたが、この3つがどのように関わるか、を考えた時に、これらがみな「自同的判断」に基づいているので、さらにその基礎として「同一律」があるのではないか、と考えて見ました。
―「同一律」は、「矛盾律」、「排中律」と並ぶ、思考の3原則の一つと考えていいですか?
Y:はい。
―西田の「自同的判断」も〈AはAである〉ということですが、「単なる同語反復」ではない、とありますから、Yさんのご提言は西田の「自同的判断」をさらに「単なる同語反復」としての思考法則に還元する、という趣旨になりますね。
R:西田の主張はその逆だと思います。「単なる同語反復」でない「自同的判断」はどれも〈AがAである〉と同時に〈AがAでない〉という矛盾を含んでいて、「同一律」はそこから抽象されたものだと思います。
―知的直観における「自同的判断」とは、我々の言い方だと「富士山は富士山である」という、絶句から発したものですね。純粋直観における「自同的判断」とは「5は5である」、「三角形は三角形である」ということになりますが、これも「単なる同語反復」ではなく、直ちに「5は数である」、「三角形は図形である」という判断を含んでいます。経験的(感性的)直観における「自同的判断」とは「これは青い」ということですね。こうした「自同的判断」からそれぞれ「哲学的」な判断(知識・説明)、数学的判断、経験的判断が成立することになります。
Y:それらはどう関わるのですか?
―西田はこうした判断の根本に「具体的一般者」を考えますが、本来的なものはやはり「哲学的」な判断の根本となる「具体的一般者」だということになると思います。これが以前の区分で言えば「真の無の場所」において成立するのに対し、数学的判断の場合は「具体的一般者」と言っても、それは数とか図形といった「一般概念」にほかなりません。以前の区分で言えば「有の場所」で、それを前提として成り立つ判断です。経験的判断も最後の所で「これは青い」といった「自同的判断」がなければなりませんが、この「自同的判断」は主客の対立を含んでいます。以前の区分で言えば「対立的無の場所」において成立する判断です。西田は「これは青い」の「述語」が「一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ」と言っていますが、これがもし純然たる個色的青に関する自同的判断だとすれば、知的直観に基づく自同的判断ということになるだろうと思います。経験的判断の場合は、「青い」は「それ自身に於て直覚的」ではないが、「之を包む一般者」、つまり「個色的青」を包む「一般的青」ということになるだろうと思います。この3つの判断のうち、本来的で最も完全な具体的一般者は哲学的な判断のもとになる具体的一般者で、数学的判断と経験的判断のもととなる具体的一般者は前提を持っていますから、不完全な具体的一般者ということになるだろうと思います。
W:そうした3つのレベルの具体的一般者とYさんのいう、現実とか日常とはどう関わりますか?
―(以下は後で考えたものです。)数学的判断の基となる具体的一般者によって数学が、経験的判断の基となる具体的一般者によって自然科学が基礎づけられる、これがカントのやったことであると西田は考えていると思います。その後新カント派のバーデン学派が概念構成に「法則定立的」ないし「普遍化的」と、「性格描写的」ないし「個別化的」を区別することによって、自然科学のみならず、歴史学を含む文化科学一般の基礎づけ、総じて学一般の基礎づけを行いますが、こうした基礎づけは「真」という理念(価値)に基づいています。これに対して「善」によって道徳、「美」によって芸術、「聖」によって宗教が基礎づけられることにより、総じて文化一般が新カント派によって基礎づけられます。しかし学にしても文化にしても、一般概念に基づいており、現実そのものではない、そのように西田は考えているのでしょう。こうした一般概念が破れたところ、そこに「現実そのまま」としての「実在」が立ち現れる、しかもそれが「日常」のありのままの姿である、そういうことなんでしょう。さらに我々の日常とは、人生や世界についての何らかの「一般概念」を先入見としてその上に成り立っていますから、それを破るような出来事があると、それを日常でない、事件・事故だと考えます。そうではなく、我々が何も特別なことはないと安穏と考えている日常は、生きるのに都合のよいように作られたものにすぎません。そうした一般概念としての日常が破れて、どのような事件・事故がおこっても、病になることも死ぬことがあっても、何も特別なことはない、それこそが平常・日常の本当の姿なんだ、というような目覚め、そういうことだと思います。ここにも日常は日常でない、それ故に日常である、という即非の論理、単なる同語反復でない「自同的判断」が成り立っていますね。この「現実そのまま」としての「実在」こそ西田が『善の研究』で「純粋経験」という名で名指そうとしていたものだと思います。要するに、知的直観に基づく具体的一般者こそが「現実そのまま」であって、それ以外のものは何らかの「一般概念」の上に成り立つ具体的一般者として、現実そのものからは区別されることになると思います。しかしそうなると「絶対無の哲学」についてもはっきりとさせておかなければならないことがあると思います。
W:どういうことですか?
―絶対無の場所、ないし真の無の場所における知的直観は一般概念化が可能で、それによって哲学が可能となりますが、その時にはすでに「真」を対象とし、思考・思索という方法(その形式が「論理」ですが)によって語らなければならない、という限定された「場所」ないし「一般概念」において哲学が成立している、したがって哲学の場と現実そのものははっきり区別される、ということです。少なくとも「絶対無の哲学」は「絶対無の場所」そのものにおいて成り立つものではない、と言い換えてもいいです。同じことは宗教についても言えて、宗教も現実そのものからは厳密に区別されるべき「聖なる境域」というものをもっていて、それは信仰によって(その形が教、行ですが)問い披かれて行かなければならない境域・場所です。芸術も哲学や宗教と同じ「現実そのまま」の自己限定という仕方で成立しますが、それが成立する場というものがあって、それは「創られた場(言葉という場、音の場、色・形の場)」というような性格をもち、創る(創作する)ということによって(その形・型が技術です)求めていかなければなりません。もちろん人間は何らかの一般概念なしに具体的に行為することも生きることもできませんし、そうした生が「現実そのまま」の自己限定として成り立ってはいますが、「現実そのまま」はあくまでそうした一般概念が破れたところに立ち現れる者だと思います。以上は私見にすぎませんが。
W:また考えて見ます。
S:結局「同一律」は最も根本的な「自同的判断」から抽象されたものということになって、かわいそうな扱いになっていると思います。西田の言いたいことが「自同的判断」だとすると、それを導き出すために「同一律」から出発しながら、それを否定して行く、というような。
―そうですね。矛盾のない所を認めさせておいて、矛盾へと導くという。しかしそもそも「同一律」が思考の原理・原則だとすると、人間の思考は「同一律」に反するような矛盾、Aが同時にAであってAでない、といった事態を考えることができるんでしょうか?
N:できると思います。「矛盾の統一」、とか「包む」といった事態がまさにそれです。
―しかし矛盾の「統一」と言ってしまった時点で、統一と非統一の分別に落ちているだけでなく、統一への固執が見られます。「包む」も同様で、「包まない」との対立に落ちているのと同時に、「包む」への執着が見られるとも言えます。もし矛盾を本当に考えるとすれば、統一と同時に非統一を言わなければならないはずです。人間にはこれが思考できない。「矛盾」が何であるかは分かるのですが(そうでなければ「思考できない」とすら言えないことになります)、それを思考することができない。ちょうど四角い三角形をイメージできないように。ですから「具体的一般者」という言葉にしても、人間的な思考はこれをどうしても「一定の」一般者というように考えざるを得ない。一般「者」という表現がよくないということで、ハイデッガーの存在者(有るもの)と存在(有)の区別のようなものを念頭に置きながら、これを一般「者」ではなく、「一般」と呼んだところで、どうしても一定の一般を考えてしまう。いや、そうではない、それは一定の一般ではなくて、じつは無なのだよ、などと言われても、「無」ということで「何か」を考えざるを得ない。西田は「単なる同語反復」でない「自同的判断」ということで、「同一律」という人間の思考の原理を超えたものを思考しようとしているけれども、思考できている気になっているだけとも言えなくもない。ここには人間の思考ではどうしようもないものが、それでも、というより、どうしようもないということを通じて思考に対して開かれている、ということが重要ではないか、そう思えるのですが。人間はそのようにして開かれたものを、一般者の自己限定と呼ぶより仕方のない、そうした向こう側からの促しに応じて思索して、これを言葉にもたらすのだけれども、そのことと同時に、これも一般者が自らを隠す、としか言いようもない仕方で、どこまでも思考することができない、言い表すことができない、ということが厳然としてある。しかしそのことがさらに新たな開けを導き、それが思索を促す。きわめてハイデッガー的ですが、そういうことが大事なんじゃないかと。プロトコルはこの位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:「我々の判断的知識の根柢には具体的一般者がなければならぬ、判断は具体的一般者の自己限定として成立するのである。我々の知識の体系はかかる一般者の無限なる層である。主語的方面に於て無限に深い直覚的なるもの(個物)が見られると共に、述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ。かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(括弧内引用者)。
―ありがとうございます。結論のような感じでよくまとまっていますね。ここでも「個物」とか「無限大の一般的なるもの」がなにか実体のようなものとしてイメージされがちですが、ここではそうしたいわゆる形而上学的な存在が問題になっているのではなく、あくまで開けにおける言葉であるというように読みたいと思います。因みにイデアのようなものも、形而上学的な実体というようにしばしばあしざまに言われますけれども、本当はそうではなく、これも開けの言葉だと私は思うのですが。それはともかく、最後にある「之」とは何を指しますか?
A:「判断的知識」ではないでしょうか。
―そうでしょうね。「知識」を越えた所が「直観の世界」ということでしょうから。問題は、「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」をどう読むか、です。直前で「述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ」とありますから、一方で最も根源からの哲学的思索の可能性を述べていると考えられますが、他方で哲学的思索を越えた「直観の世界」を、例えば宗教のような形で考えているようにも読めます。
A:「限定せられるかぎり、判断的知識が成立する」とありますから、限定されない場合は純粋に直観の世界に入る、という意味ではないでしょうか?
―たしかにそう読めますね。限定せられ得、また実際に限定される場合には哲学となるけれども、限定されない場合もあり、その場合は純然たる直観の世界となる、という意味ですね。この場合「全然」を「越ゆれば」にかけて読むのではなく、「純粋に」と読むことになりますね。この箇所の読みとしてはその方がよいかもしれませんね。高い宗教的な境地を体現してはいるけれども、それを概念的に語ることができない、そういう宗教者はもちろんいますし、そういう人がむしろ純然たる宗教者でしょう。問題は宗教者が自覚的に宗教の立場に立って、哲学を見下し、これを拒否する場合です。もちろん宗教における信仰は体験の事柄であって、概念の事柄ではない。むしろ哲学的な思索は宗教的な体験を妨げるものになります。宗教的な体験に不可欠なのは、教えとその宗教に特有の行です。その限りにおいて、宗教が哲学を拒絶するのは分かります。しかし宗教者が自分の体験を我がものとし、それを振りかざして宗教の立場にから哲学を見下すとき、それは思想によってそうしているのであって、すでに哲学の境域に立ち入っていることをその者は自覚していません。しかもそれは、自らのよって立つ思想を批判吟味することを忘れているという点において哲学としても、そうして(信を我がものとするという点においておそらくは)宗教としても未熟な在り方と言わなければならないと思います。西田の立場は純然たる宗教家の立場を否定するものではなく、そうかといって哲学を宗教より低く見る立場でもないと思います。長くなりました。次をBさん、お願いします。
B:読む(342頁11行目~343頁2行目)
―「右の如き述語的一般者」とありますが、「右」には「述語的一般者」が見当たりませんね。「具体的一般者の自己限定」として成立する「一般者」の「述語的方面」と考える外ありませんね。ここでは具体的には数や空間です。そこでは一般概念と直観が直ちに一つです。数は直ちに5であり、5は直ちに数である、という仕方でどの数においても数は自己同一を保っています。それゆえ数や空間においては「所謂先験的知識」、ここではアプリオリな認識という意味だと思いますが、そうしたものが成立します。次に「唯その個物的なるものの尖端」とありますね。「その」とは「述語的一般者」ですね。数や空間の場合、「特殊」はあっても「個物」はありません。5に「この5」というものはありません。しかし「述語的一般者」がそうした特殊を越えて個物に至る、これを「尖端」と呼んでいますね。そこにおいてのみ「自己同一として直覚的と考えられる場合」とありますが、これはどんな場合ですか?
B:経験的直観の場合だと思います。
―そうですね。「これは青い」という「自同的判断」を念頭に置いています。その場合「その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」、つまり「これこれ」と言ってすますことができない、無限に限定可能なもの、という意味です。「是に於て主観と客観とが相対立し、主語となって述語とならない直覚的方面が客観的と考えられ、述語的なるものが主観的と考えられる」。以前の場所の分類では「対立的な無の場所」ですね。そこでは「主観と客観、知るものと知られるものとを包む類概念はないと考えられ、述語的一般として考えられるものはすべて客観的なるものの抽象的一面にすぎないと考えられる」、つまり主観にとってのものでしかない、ということです。次をCさん、お願いします。
C:読む(343頁2行目~6行目)
―「併し判断的知識が成立するかぎり」とありますね。この「併し」は何を念頭に置いたものでしょうか?
C:まずは経験的知識。その尖端が「これは青い」という自同的判断。しかし経験的知識の場合は、主語と述語が分れて、「青い」が結局抽象的な一般概念としての「青」になってしまう。これをさらに一歩進めて知的直観における判断的知識。ここまでを念頭に置いて、「併し判断的知識が成立するかぎり」、つまり「全然直観の世界」に入らない限り、と言っていると思います。
―なるほど。ずいぶん射程距離の長い「併し」ですが、とても分かりやすいですね。「特殊化の尖端」、「個物」ですね。そこにおいても「一般的なるものが自己自身を失うのではない」。「判断的知識が成立するかぎり」はそうでなければなりませんね。「却って自己自身に還る」。「一般」が真に「一般」になる、真の無となって個物を包むということですね。そこで次に「自己自身が主語となって述語とならない基体となる」とあります。「自己自身」とは「一般的なるもの」のことです。それが自らを無にして「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」になるということです。「基体」とは「基に置かれたもの(ヒュポケイメノン)」の訳で、それについて語られるところのもの、それの基に置かれるところのもの、の意味ですが、ここでは個物としての実体を意味しています。「主観的なもの」、つまり「一般的なるもの」が、かえって「客観的なるもの」、つまり「個物」を「包む」ということになります。そうして「此の如き述語的一般の方向に於て我々は意識の概念に到達する」とあります。
C:「意識の概念」とは何ですか?
―「意識」の何であるか、意識の本質、というくらいの意味ではないでしょうか。この「意識の概念」は以前の分類でいえば、「対立的無の場所」としての意識、つまり客観に対立する主観としての意識ではなく、「真の無の場所」としての意識だと思われます。
C:その場合、「意識の概念」は純粋経験としての「意識現象」ということになりますか?
―そうですね。いずれにせよ「後に云う如く」とありますから、そこまで待つことにしましょう。最後に「意識面に於て具体的一般者が抽象的概念として限定せられるのである」とありますが、これも「意識面」=「具体的一般者」の「述語的一般者」、と考えた方がよいと思います。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第109回):ヂ