無限の対立――超越的主語と超越的述語
- 2026年6月6日
- 読書会だより
ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落351頁10行目冒頭から、同段落352頁11行目「斯く云い得るのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯我々が主語となって述語とならない個物を考へるといふことが同時に述語面が広がるといふことであって、之によって述語面が限定せられるのである」(352, 5-6)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「『善の研究』では差別的な知識による判断の領域と主客未分の領域とを区別し、その間に何等かの超越を認めつつ、両者の関係を認める考えが述べられていたが、「知るもの」にある「一般概念」「個物」「具体的一般者」「限定」との関係はこの時点でどのように整理されるか」(125字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―『善の研究』をお持ちですか?第1編第2章第7段落(岩波文庫改版37頁~)をご覧ください。そこには「具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは…具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといって居る。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は連想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いて居る。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前に云った様にその統一自身は無意識である。…純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことは、かえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。…個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である。個体の中にありてこれを発展せしむる力である、例えば趣旨の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、…それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なって居るのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。…真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、…深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的と云いうるであろう」とあります。これを参照しながら、もう一度プロトコルの「問い」を読んでみて下さい。
Y:Sさんは、抽象的一般者(判断)の領域と具体的一般者の領域を異なるものとお考えですか?
S:押し詰めて考えると繋がるけれども、そこには超越があると思います。
T:どこまでも矛盾と統一を繰り返す根本にある統一力が具体的一般者だとすれば、超越という言葉がしっくりきます。
―ですが、純粋経験の場合は、その統一力が最後に個体となって姿を現わしますね。種子が苗になった時に、初めて苗(形相)がその植物の成長を促していたことが分かるように。もう一つ言えることは、一方で統一と矛盾を繰り返しながら実在がどこまでも無限に活動することを説きながら、他方で最大最深の統一、つまり極致というものを考えていて、その直覚が宗教的覚悟(直観)であるとしている点です。その意味ではここでも最大最深の統一力が姿を現わしています。どこまでも「超越」というわけでもなさそうです。
W:存在と認識を分けて考えると、『善の研究』の方では存在が、「知るもの」の方では認識の側面が勝っているように感じられます。「知るもの」では絶えず「包摂判断」から始めているのに対し、『善の研究』のこの箇所ではつねに「純粋経験」から語られています。
―たしかに。ですが『善の研究』でも、まず「疑うにも疑いようのないもの」というのが考えられて、それが「純粋経験」とされています。認識論を出発点としていることは共通していますが、出発点となっているのが、「純粋経験」と「包摂判断」という違いがあります。それが存在から語る『善の研究』、認識から語る「知るもの」という印象の違いに結び付くのでしょう。とは言え、「知るもの」でも、目下読んでいる箇所で、「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば」とあるように、「潜在的」という言葉を使って「具体的一般者」の方から考えようとしているのが垣間見られますね。『善の研究』で西田がヘーゲルの「具体的一般」を念頭に置いていたことは明らかですが、「知るもの」におけるそれとはずいぶんと趣が異なります。純粋経験は弁証法的に体系的な発展をしますが、「知るもの」における「具体的一般者」にはそうした面があまり見られません。
R:『善の研究』の頃の西田は実在の根柢を「統一作用」とか「統一力」で押さえていますが、「知るもの」では矛盾ということが出て来ていると思います。
―たしかに「知るもの」では「作用」はすでに「知られたもの」であって「知るもの」ではない、というのが基本的立場ですが、『善の研究』で「統一作用」と言われていたものがたんに「知られたもの」を意味するとは言えないと思います。また、『善の研究』でも「統一」とともに「相互の対立むしろ矛盾ということが必要である」(第2巻第5章第3段落)とも述べられていました。これらをどう考えたらよいでしょうか。『善の研究』との比較はとても難しい。『善の研究』はそれ以後の西田のすべての思想を、本人の自覚とは別に、すべて胚胎しているところがあります。初めからすべて自覚していたとはとても言えませんが、単純に未熟で済ますこともできない。そこが難しい。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(352頁11行目~353頁2行目)
―「例えば色の抽象的概念」、例えば「赤一般」ですね、それを「そこまで広げて行けば」とありますが、「そこまで」とはどこまでですか?
A:「抽象的一般から具体的一般に移り行く」までだと思います。
―そうですね。そうすると、「赤一般」も「具体的一般者になると考えることができる」、つまり「この赤」、個色になるということですね。次に行きます。「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば」、つまり「特殊」が「個物」(この赤)に達する場合ですね。そうすると、「その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ」、「この赤」を含む「色自体」の体系が見られる、ということですね。
A:「色自身の体系」とはどういうことですか?
―客観的な実在が有する体系のことだと思います。
N:あとで「色自体」とも言い換えられていますが、カントの物自体を念頭に置いていると考えてもよいですか?
―西田はたぶん、物自体を念頭に置きながら述べていると思います。それが「色」について言われているので「色自体」というように述べたと思います。もちろん「この赤」が顕わになっているときには、それが「赤」である、「色」である、というような括り方はしていないと思いますので、仮にそう(「色自体」と)言ったまでだと思います。次に参りましょう。「之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」とありますね。「超越的述語面」においてそれが限定されたものとして、「抽象的概念」、この場合は「赤一般」を始めとする様々な概念の体系のことですね。先の「色自身の体系」が所謂客観的な体系であるのに対し、こちらは所謂主観的な体系です。ここまで、何か分からないところはありますか?
A:大丈夫です。
―次に参りましょう。「それで具体的一般者に於ては、その主語的方向と述語的方向とが相対立する両方面に於て、一方にそれ自身に同一なるもの」・・・。
A:ちょっと待ってください。「それ自身に同一なるもの」とは何のことですか?
―AはAである、としか言えないもの、例えば「富士山は富士山である」、という叫びしかないもののことです。これを「富士山は山である」というように捉えるとあたりまえの山に成り下がってしまう、そういう捉え方のことです。
A:分かりました。
―続けます。「一方にそれ自身に同一なるもの、いわゆる直覚的なものが見られ、一方に抽象的一般なる者が見られるのである」とありますね。これも同じことで、一方に「この赤」などから成る実在の体系があり、他方に「赤一般」などから成る主観的な抽象的一般〔概念〕の体系がある、ということです。次をBさん、お願いします。
B:読む(353頁2行目~354頁1行目)
―「抽象的一般概念とは此の如き意味に於て限定せられた超越的述語面と考えることができる」。「抽象的」とは他を捨象した、その意味で「限定された」ということですが、ここは?
B:大丈夫です。
―次へ参ります。「具体的一般者は判断的関係を含むものとして一方に超越的主語というものが考えられ一方に超越的述語というものが考えられ、両方向は無限の対立をなすと共に一つの統一体でなければならぬから、両方向の何れの方面に統一を求めるかによって、一つは主語面の方に於て一つは述語面の方に於て相対立する二つの統一面が考えられる」とあります。
B:二つの統一面があるというだけならば、両者は統一されていませんよね。
―そうですね。まずは主語面において「直覚」という形で「統一面」が見られ、これを述語面から包んで概念的知識にしようとする。つまり、主語面を基礎に述語面から包もうとしますが、数学的知識の場合(数学的知識は「一般概念(=抽象的一般者)」において成立します)ならいざ知らず、経験的知識の場合はどこまでも主語面を包むことができない。しかし三つの段階を経て、最後に逆転が起って主述が転換し、両面の統一が現れることになります。この事態を言い表すものとして、「推論式的一般者」が登場してきます。それはこれから読んでいくことになります。次に括弧がありますね。何と書いてありますか?
B:「(具体的一般者を推論式的一般者と考えれば大小両語面の対立となる)」とありますが、「大小両語面」とは何ですか?
―「推論式」で念頭に置かれているのは三段論法です。「人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論)という三つの命題のうち、結論の述語となるものが「大概念」ないし「大語」、小前提の主語となるものが「小概念」ないし「小語」、両者を媒介するものが「媒概念」ないし「媒語」です。今の例で言うとどうなりますか?
B:「大語」が「死ぬ」で、「小語」が「ソクラテス」で、「媒語」が「人間」です。
―そうですね。「大語」が最も広い概念となります。ここでは「大語」=「一般者」、「小語」=「個物」と考えてよいと思います。「主語面」を基礎にしてこれを述語面から包む、というのが、「媒語が大語と合し小語を包む」ということになり、これが「大語面的限定」と呼ばれることになります。これもこれから読んでいきます。とりあえず、目下のところは「二つの統一面」が「相対立」している、そうした状況です。次へ行きます。例が出て来ますね。「例えば「これは赤である」という如き判断は具体的一般者に於て成立する判断でなければならぬ」とされます。両面が統一されなければならない、ということです。その場合、「これは」は「限定することのできないもの」として「抽象的概念の外にある」とされます。「これ」つまり「この赤」(赤とも本当は言えないのでしょうが)はどこまでも限定できない。「これ」と叫ぶ以外ない。しかし「具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体」、「個物」ですね、そうしたものとして、「〔これが〕含まれねばならない」とされます。どうしても「概念的知識にならなければならない」ということですね。そうすると主語的方向に「色自体」という如きものが見られなければならない、ということになる。「色自体」とは先程は「色自身の体系」と呼ばれていたものですね。「この赤」を含む客観的な実在の体系のことです。これに対して、「之と共に述語的方向に於てその述語的なる者の統一としての色の一般概念という如き述語面が限定せられねばならぬ」とあります。超越的述語面(意識)が「色の一般概念」にまで限定されなければならない、そういうことです。次に「前に具体的一般者は内に自己同一なるもの即ち直覚的なる者を含むと云ったのは」とありますが、「前に」とはどこですか?
B:352頁15行目~353頁2行目だと思います。
―そうですね。その具体的一般者内の「自己同一なるもの」「直覚的なるもの」が「主語的方向に於ける統一面」を意味する、とされます。ここですでに直覚、自己同一という仕方で、「統一面」が成立している、ということです。しかしこれを「概念的知識」にもたらすためには、「之に対して述語面に於て一般概念が見られなければならない」ということになります。つまり「超越的述語面」が「抽象的概念」にまで限定されなければならないということです。そうして「我々の知識はいつも主語面に於てあるもの、即ち客観的なるものを基礎とする」が、「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである」とされます。たしかに「これは赤である」というのもすでに概念的知識ですが、もちろんこれでは十分な知識ではありません。今日はここまでとします。
ヂ:(第117回):ヂ