私は私である
- 2024年12月7日
- 読書会だより
ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落307頁12行目「所与の原理は異なるも」から第5段落309頁終わりまでを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られるのであるが、之を越ゆれば、全然所謂知識の領域を脱して、直観の世界に入る、而してそこに真の自覚が現れるのである」(309, 8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、自覚とは「無限の深底」であり、「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」という。西田によれば、「真の自覚」は、「対象界」(所謂知識の領域)を越えた所の、「直観の世界」に現れる。こうして「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか。西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか」(210字)でした。読書会時にはほとんど質問内容の質疑に終わってしまったので、改めてWさんに問いたかったこと、考えたことを述べていただきました。読みやすいように、対話形式に編集してあります。:ヂ
―もうすこし説明していただけませんか?
W:まず、プロトコルの一つ目の問い(「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか)によって、問題にしたかったのは、「真の自覚が現れる」というときに、真の自覚に現れているのは何か、ということです。
―「真の自覚に現れているもの」そのもののことですね。続けてください。
W:この問題において、たとえば、「花を見る」というときに「真の自覚が現れる」と言い得るのはどういうときだろう、と問いを立てることができるならば、我々の自覚は「無限な深底」であるといわれているにも関わらず、「真の自覚」について考えようとするときには、意識の次元で理想化された経験内容を出発点としてしまうように思います。
―「真の自覚に現れているもの」について「言う」とか「考える」という次元のお話ですね。そこに「意識の次元」での「理想化」があると。どうぞ、続けてください。
W:このように、ある経験内容を理想化しているようにみえてしまうことから、二つ目の問い(西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか)を立てました。
―なるほど。ようやく少し見えてきました。それで?
W:「真の自覚が現れる」というときには、「真の自覚」として現れるに相応しい(それ以上見え方の変わらない)経験内容が前提とされているようにみえます。
―よくわかりました。哲学や宗教、あるいは芸術にとって重大な問いのようですね。これらのものにあっては感動、驚き、出会いといったものが決定的な始まりになります。これなしには成り立たないと言ってよいと思います。しかしそうした根本経験を「ある!」と言ってしまえば、そこにすでに、「意識の次元」での「理想化」が起っている、そういうご発言ですね。しかし哲学や宗教、あるいは芸術の立場からは、たしかに自分の体験を確かなものとして掴むことはできない、しかしそれだからこそそうした「理想化」(自分が掴んだと思っている体験)をも破る働きがますます「ある!」、と言えるのではないか、そのように言うでしょう。この点どうお考えですか?
W:体験の中には「理想化」をも破る働きがどこまでも「ある!」ということは言えるように思います。
―なるほど。「ある」とは言える。それで?
W:問題にしたいのは、そうした働きが生じるときに、「真の自覚に現れているもの」は、異なる様に移り変わっているのか、それとも、それ自体として同じ様に留まっているのか、ということです。
―難しいですね。「働きが生じるとき」が「真の自覚が現れるとき」ですよね。そのときに「〔すでに〕異なる様に移り変わっている」のか「それ自体として同じ様にとどまっているのか」ということですね。「ある」とは言えるけれど、その「ある」ものが変化・変質しているということですか?もう少し説明してください。
W:はい。こう問うてみます。その応答が前者であれ後者であれ、これまでの経験からつくられた前提を破るような体験が起こるということは、「真の自覚」から考えるとどのように説明できるのでしょうか。
―「真の自覚」から体験を考えるということですか?
W:はい。「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」と言うことができるならば、「意識の次元」と対立させることなく「真の自覚が現れる」ということを考えなければならないように感じますが、そのことをどのように説明することができるのか疑問に思っています。
―「意識」の立場に立つことなく、「真の自覚」の立場から体験を語ることは可能か、という問題ですね。まさしく宗教、哲学、芸術の根本の問いだと思います。しかし「語る」というところを「説明」とすると、不可能な気がします。何故なら「説明」はつねに「何かについての説明」だからです。ここにはすでに「真の自覚」とそれを語る者が区別されています。そうして「説明」はつねに説き明かすこととして、分別的で無矛盾でなければなりせん。これがまさしく「意識の次元」でしょう。しかし不思議なことに、「決して説明できない」、「意識の次元」を出ることができない、という言明自体が、その「外」、つまり「真の自覚」の領域を認めなければ成り立ちません。意味を成し得ないのです。つまり「説明できない」ということを通じての「説明」がなされている、ということです。さらに考えたいところですが、プロトコルはこれ位にして、本日の講読箇所に移りましょう。ここも私の頭の状態がよろしくなかったので、大変申し訳ありませんが、架空対話の形で書かせてください。それでは始めます。Aさん、読んでください。
A:読む(309頁最終行~310頁8頁)
―「以上の考」とあるのは?
A:「自覚」の考えだと思います。
―そうですね。知的自覚(カントの純粋統覚「ich denke」)から意志的自覚(フィヒテの事行)、そこから「真の自覚」(直覚)に至る流れのことですね。そのことがもう一度繰り返されて説明されます。ここでも「カントの純粋統覚」を「形式」と「内容」の統一として捉え、そこに知識の「客観性」(繰り返しになりますがこれは西田独自の解釈になります。カントによる「客観性」はあくまで「普遍性」と「必然性」を徴表とするものです)が成り立つ、と考えます。あらゆる認識に伴わなければならない、「自己意識(Selbstbewußtsein)」、としかカントが言わなかった「私は考える」、これをどう捉えるか?これを自己が自己を知る、というような意味での「自覚」とはせずに、単に「論理的」になければならないもの(「論理的主観」)と考えるのが、リッケルトです。これに対し単に知的直観によって捉えられると主張して「直覚的主観」としてしまえば、自我を形而上学的に実体化することになります。ではどうするのか。「自覚」しかない、そのように西田は考えます。そうしてカントの「自己意識」を「自覚」(訳語の問題で、原語は同じですが)にまで深めた(リッケルトの立場からすれば理論理性の越権行為を敢えてなした)のがフィヒテの「事行」だ、そのように西田は考えます。そうして「自覚に於ては、考えるものと考えられるものとが無条件に一である」と言われます。
A:「考えるもの」と「考えられるもの」とはどこまでも異なるのではないでしょうか?
―一面においてはそうですが、他面においてそうでない、というのが自覚だ、というのがフィヒテの立場です。まず「自我」があって、それが「考える」ということで、「私は考える」という自覚が成立するということになれば、これは「もし自我があれば」という条件によって制約されたものとなります。「無条件に一」というのは、考える働きと考えられるもの(働きの産物)とが、そうした条件なしに一つだということです。次に「フィヒテが『全知識学の基礎』(原文ドイツ語、1794年)の始に於て「第一の、端的に無条件の根本命題(原則)」(原文ドイツ語)として「事行」を考えたのは、カント哲学の深い見方と云わざるをえない」とありますね。
A:はい。
―『全知識学の基礎』における「第一の根本命題」とは「自我は根源的に端的に自我自身を定立する」ということで、「自我」とは「事実」ではなく、「意志」による自己定立の働きによってはじめて存在するものであり、そうした定立ができるためには自我自身の「知的直観」がなければならない、とするものです。ちょうど英国の完全なる地図のように。ですから一面ではAさんが仰る通り、働きとその産物はどこまでも区別されながら、その働きが自己定立の働きであることによって、根源的には同一だということになります。だから働きと産物の区別は「同一」であるべしと無限に同一を求めていくことになります。フィヒテについては次回、これも旧全集の14巻によって少し見て置きましょう。
A:お願いします。
―カントの「純粋統覚」、つまり「私は考える(自己意識)」をフィヒテ的な意味での「自覚」つまり「事行」と考えたのは「カント哲学の深い見方と云わざるを得ない」と西田は言いますが、左右田やリッケルトからすれば、それはカントの理論理性の限界を越える、許されない越権と映るはずです。しかしフィヒテや西田にとっては、こうした「事行」としての「自我」は意識されたものとしての「意識には現れない、又現れることもできない」が、(ただし知的には直観できることによって、)「すべての意識の基礎」となる、「認識も之によって基礎付けられねばならない」ということになります。それでは次をBさん、お願いします。
B:読む(310頁9行目~311頁2行目)
―冒頭「知的自覚」とありますね。これは「判断的自覚」とも呼ばれていたものですが、カントの純粋統覚、「私は考える」(自己意識)のことです。カントの場合、それは思惟(悟性)と直覚(感性的直観)とを総合するもの、「所謂知識の形式と内容」とを統一するものでした。こうした統一の「純なる形式的言表」がフィヒテによれば「私は私である(Ich bin Ich)」だと言うのです。この「Ich bin Ich」が先に申し上げた「知識学」の「第一根本命題」、すなわち自我の根本的自己定立にほかなりません。「ペンがある」という知識も私の表象(考えられたもの)として、その形式だけ取り出せば、「私=私」となります。ここまではどうですか?
B:大丈夫です。
―次に「それ」つまり「私は私である」という「知的自覚」は「心理学的でもなければ、形而上学的でもない、認識論が之によって基礎付けられる」とあります。自己の内面を心理学的に観察したのでもなければ、独断的に自我の同一性を述べたものでもない、認識論の基礎づけになるものだ、そのように述べます。「心理学的自覚」についてさらに説明が続きますね。「所謂心理学的自覚というのは、かかる意味に於ける自覚」、これは「Ich denke」としての「知的自覚」のことですね、そうした「自覚の内容的に限定せられたもの」であると。「内容的」とはこの場合、自己の内面を対象として観察した内容、ということです。我々は自分のことをああだこうだ、というように自覚する経験を持ちますが、そうした自覚経験がこの場合の「内容」ということです。それは「恰も思惟は単に心理的ではないが、限定せられた判断作用として心理的と考えられるのと同様」だ、と言います。どういうことでしょうか?
B:実際にいろいろな判断をしている、ということを反省して知る、ということではないでしょうか。
―そういうことだと思います。次に「或意識の範囲内に於て思惟と内容との統一が見られるかぎり」とありますね。私は〈このように判断している〉、という内容と、そのように考えている働き(思惟)とが統一されている時に「心理的なる知的自覚」が見られることになります。しかし認識論の基礎となる「知的自覚」はそのような心理学的な自覚ではない、というのがここでの西田の主張です。ここまでで質問はありますか?
B:「私は私である」が心理学的でない、とはどういうことになるのでしょうか?
―先程も申し上げましたが、一つは「論理的」になければならない、とするものです。次に「リッケルト派の認識論者は先験心理学的反省によって抽象的思惟の主観を許し」ている、とありますね。「先験心理学」とは「超越論的心理学」とも訳されますが、カントが『純粋理性批判』で批判したものです。それは「Ich denke」つまり純粋統覚を、誤謬推理(パラロギスム)によって形而上学的な実体にしてしまうものです。ですからここは西田のリッケルト批判と考えることができます。リッケルトは「Ich denke」を「論理的主観」と言っているが、本当はパラロギスムによって、それを実体化し、それを「抽象的思惟の主観」としているではないか、という批判です。そんなことをしておきながら、「何故に具体的思惟の主観たる自覚的主観」、つまり知的(判断的)自覚も意志的自覚をも含むような「自覚」としての主観を「真の認識主観」として認めないのか、このように批判しているのです。そうして「知識があるということは、知的自覚によって可能になるのである」と述べます。この「知的自覚」は、たんに「論理的」なものでもなく、また形而上学的なものでもない、「真の認識主観」としての「自覚的主観」のことです。つまり「自我」の「知的直観」を根本に据えた「自覚」としての主観です。これが「心理学的」でない「知的自覚」のもう一つの在り方であり、西田はフィヒテと共にこの立場に立とうとします。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第89回):ヂ