共に哲学する

私は私である

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落307頁12行目「所与の原理は異なるも」から第5段落309頁終わりまでを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られるのであるが、之を越ゆれば、全然所謂知識の領域を脱して、直観の世界に入る、而してそこに真の自覚が現れるのである」(309, 8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、自覚とは「無限の深底」であり、「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」という。西田によれば、「真の自覚」は、「対象界」(所謂知識の領域)を越えた所の、「直観の世界」に現れる。こうして「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか。西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか」(210字)でした。読書会時にはほとんど質問内容の質疑に終わってしまったので、改めてWさんに問いたかったこと、考えたことを述べていただきました。読みやすいように、対話形式に編集してあります。:ヂ

―もうすこし説明していただけませんか?

W:まず、プロトコルの一つ目の問い(「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか)によって、問題にしたかったのは、「真の自覚が現れる」というときに、真の自覚に現れているのは何か、ということです。

―「真の自覚に現れているもの」そのもののことですね。続けてください。

W:この問題において、たとえば、「花を見る」というときに「真の自覚が現れる」と言い得るのはどういうときだろう、と問いを立てることができるならば、我々の自覚は「無限な深底」であるといわれているにも関わらず、「真の自覚」について考えようとするときには、意識の次元で理想化された経験内容を出発点としてしまうように思います。

―「真の自覚に現れているもの」について「言う」とか「考える」という次元のお話ですね。そこに「意識の次元」での「理想化」があると。どうぞ、続けてください。

W:このように、ある経験内容を理想化しているようにみえてしまうことから、二つ目の問い(西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか)を立てました。

―なるほど。ようやく少し見えてきました。それで?

W:「真の自覚が現れる」というときには、「真の自覚」として現れるに相応しい(それ以上見え方の変わらない)経験内容が前提とされているようにみえます。

―よくわかりました。哲学や宗教、あるいは芸術にとって重大な問いのようですね。これらのものにあっては感動、驚き、出会いといったものが決定的な始まりになります。これなしには成り立たないと言ってよいと思います。しかしそうした根本経験を「ある!」と言ってしまえば、そこにすでに、「意識の次元」での「理想化」が起っている、そういうご発言ですね。しかし哲学や宗教、あるいは芸術の立場からは、たしかに自分の体験を確かなものとして掴むことはできない、しかしそれだからこそそうした「理想化」(自分が掴んだと思っている体験)をも破る働きがますます「ある!」、と言えるのではないか、そのように言うでしょう。この点どうお考えですか?

W:体験の中には「理想化」をも破る働きがどこまでも「ある!」ということは言えるように思います。

―なるほど。「ある」とは言える。それで?

W:問題にしたいのは、そうした働きが生じるときに、「真の自覚に現れているもの」は、異なる様に移り変わっているのか、それとも、それ自体として同じ様に留まっているのか、ということです。

―難しいですね。「働きが生じるとき」が「真の自覚が現れるとき」ですよね。そのときに「〔すでに〕異なる様に移り変わっている」のか「それ自体として同じ様にとどまっているのか」ということですね。「ある」とは言えるけれど、その「ある」ものが変化・変質しているということですか?もう少し説明してください。

W:はい。こう問うてみます。その応答が前者であれ後者であれ、これまでの経験からつくられた前提を破るような体験が起こるということは、「真の自覚」から考えるとどのように説明できるのでしょうか。

―「真の自覚」から体験を考えるということですか?

W:はい。「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」と言うことができるならば、「意識の次元」と対立させることなく「真の自覚が現れる」ということを考えなければならないように感じますが、そのことをどのように説明することができるのか疑問に思っています。

―「意識」の立場に立つことなく、「真の自覚」の立場から体験を語ることは可能か、という問題ですね。まさしく宗教、哲学、芸術の根本の問いだと思います。しかし「語る」というところを「説明」とすると、不可能な気がします。何故なら「説明」はつねに「何かについての説明」だからです。ここにはすでに「真の自覚」とそれを語る者が区別されています。そうして「説明」はつねに説き明かすこととして、分別的で無矛盾でなければなりせん。これがまさしく「意識の次元」でしょう。しかし不思議なことに、「決して説明できない」、「意識の次元」を出ることができない、という言明自体が、その「外」、つまり「真の自覚」の領域を認めなければ成り立ちません。意味を成し得ないのです。つまり「説明できない」ということを通じての「説明」がなされている、ということです。さらに考えたいところですが、プロトコルはこれ位にして、本日の講読箇所に移りましょう。ここも私の頭の状態がよろしくなかったので、大変申し訳ありませんが、架空対話の形で書かせてください。それでは始めます。Aさん、読んでください。

A:読む(309頁最終行~310頁8頁)

―「以上の考」とあるのは?

A:「自覚」の考えだと思います。

―そうですね。知的自覚(カントの純粋統覚「ich denke」)から意志的自覚(フィヒテの事行)、そこから「真の自覚」(直覚)に至る流れのことですね。そのことがもう一度繰り返されて説明されます。ここでも「カントの純粋統覚」を「形式」と「内容」の統一として捉え、そこに知識の「客観性」(繰り返しになりますがこれは西田独自の解釈になります。カントによる「客観性」はあくまで「普遍性」と「必然性」を徴表とするものです)が成り立つ、と考えます。あらゆる認識に伴わなければならない、「自己意識(Selbstbewußtsein)」、としかカントが言わなかった「私は考える」、これをどう捉えるか?これを自己が自己を知る、というような意味での「自覚」とはせずに、単に「論理的」になければならないもの(「論理的主観」)と考えるのが、リッケルトです。これに対し単に知的直観によって捉えられると主張して「直覚的主観」としてしまえば、自我を形而上学的に実体化することになります。ではどうするのか。「自覚」しかない、そのように西田は考えます。そうしてカントの「自己意識」を「自覚」(訳語の問題で、原語は同じですが)にまで深めた(リッケルトの立場からすれば理論理性の越権行為を敢えてなした)のがフィヒテの「事行」だ、そのように西田は考えます。そうして「自覚に於ては、考えるものと考えられるものとが無条件に一である」と言われます。

A:「考えるもの」と「考えられるもの」とはどこまでも異なるのではないでしょうか?

―一面においてはそうですが、他面においてそうでない、というのが自覚だ、というのがフィヒテの立場です。まず「自我」があって、それが「考える」ということで、「私は考える」という自覚が成立するということになれば、これは「もし自我があれば」という条件によって制約されたものとなります。「無条件に一」というのは、考える働きと考えられるもの(働きの産物)とが、そうした条件なしに一つだということです。次に「フィヒテが『全知識学の基礎』(原文ドイツ語、1794年)の始に於て「第一の、端的に無条件の根本命題(原則)」(原文ドイツ語)として「事行」を考えたのは、カント哲学の深い見方と云わざるをえない」とありますね。

A:はい。

―『全知識学の基礎』における「第一の根本命題」とは「自我は根源的に端的に自我自身を定立する」ということで、「自我」とは「事実」ではなく、「意志」による自己定立の働きによってはじめて存在するものであり、そうした定立ができるためには自我自身の「知的直観」がなければならない、とするものです。ちょうど英国の完全なる地図のように。ですから一面ではAさんが仰る通り、働きとその産物はどこまでも区別されながら、その働きが自己定立の働きであることによって、根源的には同一だということになります。だから働きと産物の区別は「同一」であるべしと無限に同一を求めていくことになります。フィヒテについては次回、これも旧全集の14巻によって少し見て置きましょう。

A:お願いします。

―カントの「純粋統覚」、つまり「私は考える(自己意識)」をフィヒテ的な意味での「自覚」つまり「事行」と考えたのは「カント哲学の深い見方と云わざるを得ない」と西田は言いますが、左右田やリッケルトからすれば、それはカントの理論理性の限界を越える、許されない越権と映るはずです。しかしフィヒテや西田にとっては、こうした「事行」としての「自我」は意識されたものとしての「意識には現れない、又現れることもできない」が、(ただし知的には直観できることによって、)「すべての意識の基礎」となる、「認識も之によって基礎付けられねばならない」ということになります。それでは次をBさん、お願いします。

B:読む(310頁9行目~311頁2行目)

―冒頭「知的自覚」とありますね。これは「判断的自覚」とも呼ばれていたものですが、カントの純粋統覚、「私は考える」(自己意識)のことです。カントの場合、それは思惟(悟性)と直覚(感性的直観)とを総合するもの、「所謂知識の形式と内容」とを統一するものでした。こうした統一の「純なる形式的言表」がフィヒテによれば「私は私である(Ich bin Ich)」だと言うのです。この「Ich bin Ich」が先に申し上げた「知識学」の「第一根本命題」、すなわち自我の根本的自己定立にほかなりません。「ペンがある」という知識も私の表象(考えられたもの)として、その形式だけ取り出せば、「私=私」となります。ここまではどうですか?

B:大丈夫です。

―次に「それ」つまり「私は私である」という「知的自覚」は「心理学的でもなければ、形而上学的でもない、認識論が之によって基礎付けられる」とあります。自己の内面を心理学的に観察したのでもなければ、独断的に自我の同一性を述べたものでもない、認識論の基礎づけになるものだ、そのように述べます。「心理学的自覚」についてさらに説明が続きますね。「所謂心理学的自覚というのは、かかる意味に於ける自覚」、これは「Ich denke」としての「知的自覚」のことですね、そうした「自覚の内容的に限定せられたもの」であると。「内容的」とはこの場合、自己の内面を対象として観察した内容、ということです。我々は自分のことをああだこうだ、というように自覚する経験を持ちますが、そうした自覚経験がこの場合の「内容」ということです。それは「恰も思惟は単に心理的ではないが、限定せられた判断作用として心理的と考えられるのと同様」だ、と言います。どういうことでしょうか?

B:実際にいろいろな判断をしている、ということを反省して知る、ということではないでしょうか。

―そういうことだと思います。次に「或意識の範囲内に於て思惟と内容との統一が見られるかぎり」とありますね。私は〈このように判断している〉、という内容と、そのように考えている働き(思惟)とが統一されている時に「心理的なる知的自覚」が見られることになります。しかし認識論の基礎となる「知的自覚」はそのような心理学的な自覚ではない、というのがここでの西田の主張です。ここまでで質問はありますか?

B:「私は私である」が心理学的でない、とはどういうことになるのでしょうか?

―先程も申し上げましたが、一つは「論理的」になければならない、とするものです。次に「リッケルト派の認識論者は先験心理学的反省によって抽象的思惟の主観を許し」ている、とありますね。「先験心理学」とは「超越論的心理学」とも訳されますが、カントが『純粋理性批判』で批判したものです。それは「Ich denke」つまり純粋統覚を、誤謬推理(パラロギスム)によって形而上学的な実体にしてしまうものです。ですからここは西田のリッケルト批判と考えることができます。リッケルトは「Ich denke」を「論理的主観」と言っているが、本当はパラロギスムによって、それを実体化し、それを「抽象的思惟の主観」としているではないか、という批判です。そんなことをしておきながら、「何故に具体的思惟の主観たる自覚的主観」、つまり知的(判断的)自覚も意志的自覚をも含むような「自覚」としての主観を「真の認識主観」として認めないのか、このように批判しているのです。そうして「知識があるということは、知的自覚によって可能になるのである」と述べます。この「知的自覚」は、たんに「論理的」なものでもなく、また形而上学的なものでもない、「真の認識主観」としての「自覚的主観」のことです。つまり「自我」の「知的直観」を根本に据えた「自覚」としての主観です。これが「心理学的」でない「知的自覚」のもう一つの在り方であり、西田はフィヒテと共にこの立場に立とうとします。今日はここまでとしましょう。

ヂ:(第89回):ヂ

意志の自覚

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落冒頭から第5段落307頁12行目「認識主観を自由にしたいと思うのである」までを読了しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンス(KS)は二つあって、「理性的KS: 作用の意識としては、意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」(305頁9-10行目)と「感情的KS: 意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない、却っていつも之を破るものである」(307頁4-5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見えたとき、それはリッケルトと西田のそれぞれの立場においていかに説明されるか。認識における対象化は、それ自体がとても複雑なことのように思える。意識によってパッケージされた形式と内容はもともと不完全なもので無限にあるものの一部(記憶された体験の平均値あるいは代表値)でしかないとしたら、意志の優位は自ずから説明がつくのではないか。あるいは「あるもの」のカテゴリーが幾つもあって、私(たち)はその都度に異なる対象界を見ているのだろうか」(236字)でした。また「おなじものを知覚しながら知覚していなかった事例として同時期に製作された次の2作品をあげる」として「映画「RUMBLE」(2017年カナダ)と映画「グリーンブック」(2018年アメリカ)が参考として紹介されました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。:ヂ
―議論が深まりやすいように少し整理しましょう。「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見える」ことをどう説明するか、ということですが、「理性的KS」では「意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」と言われているけれども、知覚の意識によって認識されたものは、「無限にあるものの一部」でしかない以上、「感情的KS」で「意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない」とあるように、根本に意志的体験があって、それを(知覚として)「見る」時に限定される、だから「以前とちがって見える」ということが起こりうる、というように説明できる。だから「意志の優位」は明らかだ、そのようにおっしゃっていると思われます。この理解で大丈夫でしょうか?
O:はい。
―そうすると、この問題は知情意の問題になりそうです。西田は『善の研究』以来、知情意の同一性と、知に対する情意の優位を同時に説きます。まず何故知より情意を深いと西田が考えたのか、それを問題にしたいと思います。
T:生まれる順番だと思います。先に起こったから深い。生まれた子供に知はありませんが、情意には圧倒されます。これは生きんとする意志だと思います。大人でも朝目覚めたときにまず働くのは情意です。知はそれからです。
―なるほど。目覚めたときに我々はまずここはどこ、私は誰というように状況確認をしますね。ここが教室で受講生だということが分かれば、次に何をすればよいかが分かりますが、これが分からないと何をしてよいか分かりません。これは知を求めているのですが、それはそれより以前に生きんとする意志があるからだと。

W:でも最初の意志も与えられた状況がなければ働かないと思います。生まれてしまった、目覚めてしまった、というのがその与えられた状況に当たると思います。
T:たしかに赤ちゃんにしてもへその緒を切られた瞬間泣き始めますね。息をしようとして。これが生きんとする意志だと思いますが、へその緒を切られるまでにはそれがない。目覚めたときにも同じようなことが言えるかもしれません。それ以前は非意志的です。
―なるほど。ですが、こうした考察をどこで行っているか、を考える必要があると思います。そうするとこれはもう、明らかに知の立場ですね。知より情意の方が先だとか深いとか言うのも知の立場です。だとしたら、知が先です。それにもかかわらず、何故西田は知より情意の方が深いと言うのか、そこを考える必要があると思います。
T:知によって捉えられない、知の限界があって、そこに近づけるのが情意ということではないでしょうか?
O:情意によってよって捉えられるものは、限定できないものだと思います。参考に挙げさせてもらった「グリーンブック」でクラシック音楽のピアニストが「ジャズってズレなんだな」と語るシーンがあります。分からないものが「ズレ」ですが、これを情意と考えてみたいのです。「Rumble」の方は、ブルースは黒人奴隷の歴史から生まれたもの、ロックは白人のもの、という通説がありますが、ネイティブ・アメリカン(黄色人種)の音楽がその底流にあったというドキュメンタリーです。これも通説を破るものとして情意的なものの顕現の体験だと思います。
―西田は情意ということで美術家などの例を出すことが多いですが、たしかに芸術作品は言葉で説明できるものではありませんね。その意味では知は浅い。しかし外から見て、それについて論ずる以上、その浅いところから入るほかはないですね。でも情意というので押し切ると、これもおかしなことになる。村上春樹の小説を読んで、すばらしい、感動的だ、言葉では説明できない、以上、ということでは何も分からない。知に深浅があるのと同様に、情意にも深浅があります(そうした深浅は知においてしか顕わになりませんが)。情意体験の深さは言葉にしないと分からない。他方で、体験が深まらないと言葉も薄っぺらです。西田は知覚(知識表象)と意志(運動表象)とは我々において元来分かれていなかったが、発達の段階で分かれて行ったと『善の研究』で述べています(岩波文庫改版『善の研究』43頁)が、おそらく我々の現今目下の認識や意志の場合でも、その根源は知も意もまったく意識されないところでしょう。それが何かの機縁でそれらが分れてそれぞれに意識され、そのつどそれぞれに言葉が与えられ、見ることも、意志することも可能になるのだと思います。その際そのつどの認識(思惟)や意志の根底に知的直観があり、これがどこまでも深まっていきます。この知的直観が深ければ見る(考える)こと、行うことも深いものとなります。しかしその最後の所に宗教的覚悟という知的直観があって、それが「生命の捕捉」つまり生きること(死ぬこと)をありのままに捉える(生死を明らめる)知、だとされます(『善の研究』第1編第4章「知的直観」)。そこでは最初と同様、知も意も特別に意識されない、平常ということが成立するのでしょう。こういうことが目下の認識や意志の場合でも起こっている、ということでしょう。プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(307頁12行目~15行目)
―「共に客観的知識」とありますが、「共に」とは?
A:「自然科学」と「文化科学」です。
―そうですね。たとえば「ここにペンがある」というような「知覚がある」という「知覚的所与」と、「字を書きたい」というような「意志がある」という「意志的所与」が「私は考える」という思惟と結びついて判断(命題)になるわけですが、この両者が「客観的知識」とされています。こうした知識を学問まで高めたものが「自然科学」と「文化科学」だというわけです。もちろんこうした「客観的知識」といえども新しい事実(実験、資料)によって変更されることになりますが、そういうことも踏まえた上で思惟が「内容」と結合していることをもって、西田は「客観的」と呼んだのでしょう。この思惟との結合が「自覚」です。リッケルトの場合は、すべて(知覚的所与、意志的所与)が一律に判断意識の対象です。見た、あるいは意志した、ことについての判断であって、見ている、意志しているという自覚ではありません。「真の認識主観を(リッケルトがそうした如く)単なる判断主観でなく、カント自身の考えた如く形式と内容との統一の主観(構成的主観)とするならば、所与の原理と共に認識主観の意味が変って来なければならぬ」(括弧内引用者)とありますが、「所与の原理」が知覚的所与の場合には、「知的自覚」、意志的所与の場合は、「意志の自覚」ということになります。次をBさん、お願いします。
B:読む(308頁1行目~4行目)
―「知的自覚」によって「自然界」が成立し、「意志的自覚」によって「文化科学」が成立すると書いてありますね。「文化科学の根本概念たる個性の概念」とありますが、人間の意志が問題になる歴史学などが念頭に置かれていると思います。人間の意志を問題にしない限り、歴史学における「個性」を論ずることはできないだろう、というわけです。リッケルトはすべてを判断意識の対象として知的一般的にのみ扱うからです。ついで「意志の自覚は知的自覚と同じく直接である」とありますが、この「直接」はさしあたりの意味でしょう。「ここにペンがある」というのと「字を書きたい」というのと、同じく直接的だ、という程度の意味です。根源にまで遡った議論ではない。ところが西田は「同じく直接である」と言った直後に「否却って一層深い自覚である」と言い直します。そうして「知覚の対象界」より「意志の対象界」は一層深く、我々が自覚を深めることによってそうした対象界を見ることができる、とされます。何故そうなるのか、その理由はまだはっきりしません。次をCさん、お願いします。
C:読む(308頁4行目~10行目)
―「単に判断主観の立場のみに立って」、リッケルトの立場ですね。すべてが対象化されている。「ここにペンがある」、「字を書きたい」というところから一律に出発する。そうなるとそれはどこから来たのか、の問いには外から「与えられたもの」と言うよりほかなく、それ以上にその起源を問うなら「神の所為」とでも言うほかはない。それ以外に知覚的所与の起源としては「物自体」が考えられる。しかし「物自体」が触発して「知覚」が成立する、というのは知覚の原因を経験の外に求める錯誤として論外であるが、この「物自体」を「超越論的対象」として、「知覚の根底」に統制的な理念として用いるのは構わないし、認識構成に必要だ、と言うのでしょうね。しかし「意志の優位」を西田が説くと言っても「情意に基づく信念」、例えば「意志」のようなものを設定して、それを知覚の形而上学的な原因とすることも、あるいはそれを統制的な理念として用いることすら、「一度も考えたことはない」と言っていると思われます。ではどう考えるのか。次をDさん、お願いします。
D:(308頁10行目~309頁2行目)
―まず「意志的体験は知覚のそれの如く直接の所与である、而もそれは知覚より一層具体的なる所与であって、知覚的所与の範疇の内に入って来ない」、と以前と同じ内容が繰り返されます。知覚は意志的体験より抽象的だということになります。その意味で意志的体験は知覚的所与の範疇(分類)の内に入って来ないし、それより根本的で深い、ということになります。何故そう言えるのか。「知覚と意志との意識的構造について詳論する暇はない」と断りつつ、「知覚の内に意志を包むと云い得ないが、意志の内には知覚を包むということができる」とその理由を述べます。これはどういう意味ですか?
D:「字を書きたい」という意志のうちには「これがペンである」という知覚が包まれているということだと思います。
―なるほど、そう考えましたか。とりあえず次を読んで見ましょう。「意志の対象界」を構成する認識主観は「所謂自然界」を構成する認識主観より深い、とありますね。「知覚の自覚」より「意志の自覚」の方が深い、ということです。今日のプロトコルのテーマでしたね。何故深いと言えるのでしょうか。一つには先程あったように、意志の自覚の方が具体的で、知覚の自覚の方がそこから抽象されたものだ、ということがあるでしょう。自覚されたものをさらに外から眺めることによって成立するからだ、と考えることができます。もう少し読んで見ましょう。ここまでで何か分からないところはありますか?
D:大丈夫です。
―まず「無論意志の体験其者を思惟の形式と内容との結合たる認識主観の立場に於て対象化することはできぬ」とあります。意志の体験を対象化してこれを認識(判断)対象としても、それは意志の体験「其者」ではない、ということです。「意志其者を此立場(判断意識の立場)に於て認識するとは云い得ない」(括弧内引用者)とも言われます。意志した(例「水を飲みたいと思った」)ことを認識しても、意志「其者」の認識にはならないということです。「意志の体験」(「意志の自覚」)とは意志しているその刹那に意志していることを自覚することです。その意味では「意志は全然知識を超越すると云うことができ」ます。この場合の「知識」とは判断的・概念的知識のことです。さていよいよ核心に入って来ます。それではEさん、お願いします。
E:読む(309頁2行目~12行目)
―「経験内容」(知覚)と「思惟の形式」(カテゴリー)の統一が「自覚的統一」とか、「自覚の意識」と呼ばれていますね。「ここにペンがある」(知覚)を考えることによって「ここにペンがある」と「私は考える」、となりますが、このことによって知覚とカテゴリーが統一されると同時に、自覚が成り立つことになります。「私は考える」が地となり、「ここにペンがある」が図となります。ここまではどうですか?
E:大丈夫です。
―ところが西田はそれに続けて「かかる自覚的統一の根柢には却って意志の意識がなければならぬ」と言います。「根柢」という言葉が出て来ましたね。何故「より深いのか」の問いに対する正式な答えがこれです。「知的自覚」の「根柢」が「意志の自覚」だからです。しかしそれはどういうことか?「意志の意識なくして知的自覚は成立しない」とも言い換えます。それを考えるヒントが次に示されます。「カントの純粋統覚がフィヒテの事行(タートハンドルング:引用者)に到らねばならなかったのも此故である」がそれです。参考までに西田のフィヒテについての講義を覗いてみましょう。旧西田全集第14巻37頁をごらんください。その7行目から13行目まで、Fさん、お願いします。
F:読む「フィヒテはカントの物自体を除き去り、凡ての実在は「我」の創造的作用によって存立するものと考えた。凡ての知識は自覚によって成立する。自覚は凡ゆる実在の中心となった。自覚というのは我が我を反省することである。我が我を反省するのは我が我に対して働くことである。我が我に働くのは即ち我の存在であると考えられるに至った(我の存在がまずあって、それが働くのではなく、我が働くことによって、つまり自我定立の働きによって、我は存在するということ:引用者)。知るというのは単に知覚することではない、知るというのは働くことである。働くことは同時に存在することである。即ちタートハンドルング(働き即実在)が世界の中心となったのである。フィヒテの我は云うまでもなく単なる個人的自我ではない、超個人的大我である。而してそれは意志である」。
―これを読むと「ここにペンがある」と「私は考える」という「知的自覚」の「根柢」に、「私は考える」を成立せしめている意志があることが分かります。これは例の英国における地図の話です。「ここにペンがある」と「私は考える」ということを地図に描くことで「知的自覚」が成り立つということです。だからカントからフィヒテへの移行は「単にそれが形而上学に堕したとのみ考えることはできない」と言われます。形而上学に堕したとされるのは、自我を客体的に実体化した側面を無視できないと西田が考えるからです。次にまた重要なことが書かれてありますね。
F:「知的自覚は意志的自覚に於てあるが故に、意志的所与が知覚的所与より深きものと考えられる」とあります。
―一応の結論ですね。「於てある」という言葉が用いられていますが、次元の違いがあるようです。ですから「より深きもの」と言われます。そうして「我々の自覚的立場を深めて行くことに従って、所謂自然界以上の対象界を見ることができる」と言われます。
F:「自然界以上の対象界」とは何ですか?
―次に「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られる」とありますね。「所謂自然界」というのは知的・判断的対象で、外から眺めることによって成立ものです。そこに「私」自身は生きていません。これに対し「意志の対象界」においては、目の前のコップはただちに自分ののどの渇きをいやすための対象となるものです。この対象界はそこにおいて私が生き、死んでいくところの世界です。

F:しかしそうした対象界を「越える」とありますね。

―ええ。「自覚の意識が存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し」とありますね。「何かをしたい」という意志を自覚(意識)することは、意志の対象を客体として立てることになります。そこに認識主観が成立し、対象も認識対象となる、ということでしょう。意志が自覚されると共に、意志と認識が分かれるということです。こうした在り方を我々は脱することはできませんが、意志的自覚はどこまでも深まっていきます。それにつれて知的自覚も深まることになります。この深まりは無限ですので、西田は一方で「我々の自覚は無限の深底」であると言います。しかし他方で「自覚の意識其者をも失う所」を認め、それを「真の自覚」と呼びます。「真の自覚があるのである」。確信に満ちた強い言葉ですね。それは「全然知識の領域を脱して」とありますが、それは「意志」の「対象」も意識されないということです。これは以前出てきた「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別にも関わりますね。なるがままに行う、といったイメージです。『善の研究』では雪舟の筆などの例が挙がっていましたね。そうして「直観の世界に入る」とされます。「而してそこに真の自覚が現れるのである」とありますが、ここは『善の研究』で、思惟(知識)と意志の根柢の「知的直観」、つまり「宗教的直覚」と呼ばれたものです。
F:悟り、のようなものでしょうか?
―そうですね。しかしそれが同時に我々の日常のありのままの姿だ、ということでもあると思います。そうして「此の如き意味の直観を知識の極限として、概念的知識ではないが、真の知識と考えると共に、知識成立の根本条件とも考えるのである」と締めくくります。我々の日常の知識や意志的経験がこうした直覚によって実は成り立っている、ということです。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第88回):ヂ

知覚と意志

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落302頁5行目「厳密に対象自体という如きものから出立すれば」から304頁の11行目「die blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「理論理性の自省である認識論は単に判断意識の自省ではなく、知識自身の自省でなければならない、之を単に形式的なる判断意識に限ろうとするのはdie blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか。」(304, 8-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、リッケルトに対して、「リッケルトの認識論は唯、知識の構成原理としての判断意識を明にするに止まる」と批判する。しかし、西田によれば、認識論は「知識自身の自省」(知ることを知る)でなければならない。ここでいわれる「知ることを知る」の「知る」は、「単に形式的なる判断意識」とどのように異なるのか。また、「知識自身の自省」と言うときには、「知識自身の自省」を知る立場に身をおいているように思われるが、いかにしてこの立場は成立するのか。」(217字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。:ヂ

―二つ問いがありますね。最初の問いはリッケルトの考える「知る」と、西田の考える「知る」の違いに関する問いですね。大雑把に言えば、リッケルトは対象化されたものしか知り得ない、たとえ「分からないもの」という仕方でもすでに言葉になったものについてしか分かり得ないとする立場だと思います。その意味では何らかの仕方ですでに「知られたもの」しか知り得ない、と言えると思います。最初に「知られたもの」については「与えられた」としか言いようがない。言葉になったところからしか出発のしようがない、というように言えると思います。以上はリッケルトですが、コーエンは「与えられる」ことができるのは、すでにこちらからの思惟の要求があるからだとし、「与えられた」ものは解決すべく「課せられたもの」だとします。これに対し西田は判断や意志も含めて、現在遂行中の「知る」ということを「知る」ことができる、と考えます。後の方の「知る」は「自覚」です。図と地で言えば、リッケルトは図しか知り得ないとするのに対し、西田は地も知りうるとします。どちらも問題を抱えているような気がしますが、それは後で皆さんと一緒に考えましょう。ところでWさん。二番目の問いはどういうことですか?

W:「知識自身の自省」(知ることを知る)と「言う」(知る)のは判断意識、つまりリッケルトの言う「知る」になっていると思うのです。

―なるほど。「言う」が漢字になっているところが重要ですね。これは西田の「知る」(自覚)が抱える問題点ですね。自覚は自覚している、と「言う」ことによって初めて自覚される。しかしその時すでに対象化されてしまっている、対象化されなければ自覚も自覚されない、ということですね。

R:私たちは、対象化していることすらも意識しない仕方で日常を過ごしています。そういう対象化しているという在り方が照らされて、転換が起り、本当の日常に帰る、ということがあると思います。

W:そのように「照らされている」と「言う」時に、すでに対象化が起っているのでは?

R:そのように対象化することも含めて日常へ帰る、ということだと思います。

―反省も程度の差ということで、すべてが「純粋経験」となる、「純粋経験」の外に出ることはできない、というような感じですね。「平常心」といいますが、そのように言ったり、意識したりしたらもはや「平常」ではありませんね。しかしそれも含めて「平常」だと。ですがここにも転換はありますね。修行される方の中では絶えずこうしたことが行われていると思いますが。

W:でも「知る」ということをそのように捉えると、それが前提、底となってしまって、それ以上何も見えなくなってしまうと思います。私としては、「自省」と「言った」瞬間に、もう対象化が起っていて、そこにズレが生じているということの方に興味を感じます。

K:西田のリッケルト批判が、認識論の独断的な制限ということで、今日の説明では、リッケルトは「知」を対象化されたものの知に制限したということでしたが、そうなると西田は対象化されない知というものもある、ということを主張したことになります。Wさんの問いは、そうした西田の主張する「知」は現実的にあるのか、という問いと同じことでしょうか?

W:ええ。そうした「知」はあるような気がしますが、それを言葉にしてしまうと、そこにズレが生じてくると思います。

R:真の平常の立場は、そのズレをも同時に見る、ということだと思います。

W:そんな立場があるんでしょうか?

R:対象化している立場からは見えないと思います。

―「対象化している立場からは見えない」ということをどこで言っているか、ということをWさんは言おうとしている。しかしそうした立場をも含んで平常というものが成立している、とRさんはおっしゃる。これはきりがなさそうですね。(「そうした立場をも含んで平常というものが成立している」ということが開ける時、平常に帰るわけですが、それを「平常」と名付ける以前に、そうした瞬間にどこまでも分からないものが立ち現れている、と考えてはどうか、とあとで感じました。そうだとしても、この「自省」の立場はそれだけで自立しているような立場ではなく、つねにそれを「語る(言う)」ということとの関係の中でしか成立しない、ということは言えそうです。直接に立とうと思って立てる立場ではない。)これまでは西田の「知る」について、その問題点を議論しましたが、Wさん、リッケルトのような「知」の見方には問題点を感じませんか?

W:感じます。所与、あるいは触発されたというところから出発し、そこに判断だけ取り出すのはきわめて歪(いびつ)だと思います。対象化ということは人間に免れないことだと思いますが、対象化がどこから起っているのかが問えない。「分からない」という仕方で対象が与えられたとしても、どうして「分からない」として与えられたかが「分からない」。

―そこはもう「問わない」というのがリッケルトの立場だと思いますが、Jさんはリッケルトの立場に賛成ということでしたが、いかがですか?

J:浮かび上がる前は対象化されない、浮かび上がったら対象化されている、ということでまずはいいと思います。〈想像もできない恐ろしさ〉ということも、「それ」を考えたら「それ」でなくなってしまう。その時に「それ」は対象化されています。でも対象化されないものがどこかにある、と考えるともう対象化されいてる、人間は対象化されたところからしか始められないのではないでしょうか。

W:意識の次元で考えると、Jさんに納得してしまいますが、「分からない」というように何故対象化されたか、それが「分からない」。「対象化」ということですべてを閉ざしてしまう。「分からない」を成立させるメカニズムに到達しない。「対象化」してしまうことを説明することもできない。

J:それは問えません。「分からない」は与えられた言葉です。

O:西田の言う「知る」。そこにすべてがあり、それを言葉にすることで、ズレが生じる、というのは面白いと思います。このズレがあるから「同じものが違って見える」ということも成り立つと思います。知識構成が変わっているんですね。

K:同じものを見ても見た人にとって見え方は異なる。その人にとっては同じもののその人にとっての「表」しか見えないんですね。「裏」があることは分かるんですが、何かは分からない。対象化できる部分とできない部分がある、ということです。

―でも「裏」とか「対象化できない部分がある」と言ったら、それも対象化だ、と言われそうですが。

K:そういうことになると思ますが、西田の「知る」には動きが認められているのに対して、リッケルトの「知る」はこれを認めていないような気がします。

―対象化されたもの、与えられたものから出発することへの疑問ですね。例えば「分からない」という言葉が立ち上がるにしても、それはこちら側から勝手に名付けたものではないと思います。言ってみればあちら側から促されて、あるいは呼び掛けられて、それに応答・呼応する形でぴったりとした言葉を与えようとしつつ、同時にそこにズレが常に意識されている。こうした体験を例えば「分からない」という言葉は含意しています。「分からない」という言葉から出発する、ということは「分からない」という言葉自体を「分かりきったもの」として出発することになりそうです。プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(304頁12行目~305頁8行目)

―「カントは所与の原理として唯知覚作用というものを考えた、所謂自然界の知識構成としてはそれでよいのである」とありますね。「唯」とか「それでよいのである」というところ、なんか物足りなさそうですね。西田は知覚作用のみならず、意志作用も考えるべきだと言おうとしているのです。そうすると、「自然界」のみならず「文化の世界」の知識構成も論じられる、というわけです。次の「思惟の範疇」というのは「カテゴリー」のことです。「直観の形式」は「空間・時間」。それらの結合によってできる「経験界構成の先験的原理」ですが、まず「経験界」は「自然界」と同じ意味です。そして「先験的原理」というのは「超越論的(先験的)原則」のことです。そうして「経験の所与」つまり「知覚」に与えられたものなしに、魂や世界、神といったものに「徒に推理を進め」ても、「誤謬推理」になるか「アンチノミー」に陥ってしまう、というわけです。「併し此場合」と来て、「形式と内容」つまり「原則」と「経験の所与」とを統一して「知識の客観性を樹立する認識主観は何であったか」、そのように西田は問いを立てます。「客観性」というのを西田は「内容と形式の統一」のうちに求めますが、これは独特なカント解釈だということは頭に置いておきましょう。ここまでいかがですか?

A:大丈夫です。

―先の問いに対して、西田は、それは「意識一般」であるが、それはリッケルトの言うような「単なる判断主観」ではない、そのように言います。「内容と形式」を統一するものは「構成的主観」でなければならないと考えるからです。そうして西田はそうした主観を、カントは「知的自覚」に求めた、そのように言います。「カント哲学の真髄は此にあると思う」とまで言います。そうして「我々の自覚というのは作用と作用との直接結合の意識である」と言います。「知る(知覚)ことを知る(判断)」ということです。これによって「判断と知覚」が「私は考える」という自覚によって直接に結合している、このように考えます。それでは次をBさん、お願いします。

B:読む(305頁8行目~306頁7行目)

―ここで「所与の原理」として、「知覚作用」のほかに「意志作用」が加わってきます。そうして意志が知覚とは異なる「直接の意識内容」を持っていることが強調されます。後で出て来ますが、「知覚」の場合、対象は「前から与えられ」、「意志」の場合、対象は「背後から与えられ」ます。「見る」と「する」の違い、「ある」と「あるべし」の違いと言ってもいいかと思います。

B:意志も知覚されませんか?

―内的感覚として知覚される、と言ってもいいと思いますが、与えられ方が違うと思います。西田は意志の例として、その初期の形態である「衝動」について述べていますね。例えば「水が飲みたい」という言葉が出てくるもととなる感覚です。これについて西田は「衝動という如きものであっても既に知覚ではない」と述べています。

B:衝動のような原始的なものは知覚と区別できないように思います。お金が欲しい、というような欲求は明らかに区別できますけれど。

―そうですね。(西田が『善の研究』でそれについて述べている箇所がありますので、岩波文庫改版136頁11行目から137頁10行目をご参照ください。)次いで「リップスの所謂感情移入の対象界」というのが出て来ます。これについては298頁13行目に「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」という形で出ていましたね。その際にまず自我があってその感情を他我に移入するのではないことが注意されました。ここまでいかがですか。

B:とりあえず理解できました。

―次いで「知覚」や「意志」がそのまま「概念的知識」になるのではなく、そうした「所与の内容」と「判断形式」(カテゴリー)との結合によって「知識の客観性」が成立する、ということであれば、「知覚的所与」との結合によって「自然界」が構成されるだけでなく、「意志的所与」との結合によって「文化の世界」が構成される、したがって「自然科学」に対立する「文化科学」が成立する、そのように西田は述べます。次の文章が少し難しいかもしれません。「カントの意識一般は思惟と知覚との結合であった」。これによって成立するのは「自然界」だけです。「之を知覚の結合から自由にするのは、私の同意する所である」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B:カントの意識一般ではないでしょうか。

―そうですね。それではカントの意識一般を知覚の結合から自由にしたのは、誰ですか?西田はこれに同意すると言っていますけれど。

B:新カント学派、ですか?

―だと思います。ここでとくに念頭に置いているのはリッケルトでしょう。

B:自由にするとありますが、意識一般が所与の内容から解放される、ということですか?

―そうではなくて、知覚という所与だけに縛られずに、意志的所与とも結合できる、選択肢が増えるということでしょう。しかしリッケルトに対する同意はそこまでで、「併し之を」とありますが、「之」とは?

B:これも「意識一般」だとおもいます。

―そうですね。意識一般を「単なる判断主観とするならば」、とありますが、そのようにしたのは?

B:リッケルトです。

―そうでしょうね。そうなると意識一般が持つ「客観的知識の主観たる意味」が失われてしまう、とあります。西田によれば、カントの「客観的」とは内容と形式の統一によるものです。内容を構成しない、単に主観的な判断に留まる「判断主観」は意識一般たりえない、そう言いたいのです。それでは次をCさん、お願いします。

C:読む(306頁8行目~307頁12行目)

―「右の如く意志的体験も知覚と同列的に所与の意識として、判断主観に対して質料を与えると云うのみならば」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?

C:リッケルトではないでしょうか?

―そうだと思います。カントは第一批判で「真」、第二批判で「善」、第三批判で「美」を扱いましたが、そのうち第二批判の実践理性に優位を認めていました(「意志の優位」)。しかしリッケルトは真善美を価値、当為とし、これを一列に判断意識の対象として扱っていますから、その点を西田は批判しているのです。これに対して西田の「真の認識主観の立場」、つまり「私の所謂自覚的立場」ではどうなるか、それをこれから考える、というのです。ここまでで何か分からないところはありますか?

C:大丈夫です。

―まずリッケルトは判断主観が知覚に結合する場合と、意志に結合する場合を同列に扱っている点を、リッケルト自身の立場(「判断主観其者の立場」)に即しながら批判します。カントは「限定的判断作用」と「反省的判断作用」を区別しましたが、これはどうなっているんだ、というわけです。「限定(規定)的判断」とは、「普遍(一般)」が与えられていて、そこから「特殊」を規定する判断の在り方です。カントの場合自然界において、「原則」がこの「普遍」にあたります。これによって知覚内容が構成されます。「原則」は内容の「構成原理」となります。それに対し、「反省的判断」とは逆に特殊から普遍(一般)を求める判断の在り方です。この場合、普遍は与えられていませんから、それによって知覚内容は構成されずに、あたかも何々であるかのように、という仕方で普遍は統制的に用いられることになります。つまり「普遍」は「構成原理」ではなく、「統制原理」ということになります。例えば「有機体(生物)」の概念はこうした「統制原理」になります。その場合生命現象について語る場合には、あたかも生命があるかのように語ることになり、そうした語りは厳密な「知識」にはなりません。西田は「意志的体験の内容」も同様に厳密な厳密な「知識」にはならない、と考えます(「論理によって限定せられるものではない」=「一般概念的に限定」されない=知識でない)。こうしたカントの「限定的判断」と「反省的判断」の区別によるならば、「自然科学」は知識だけれども、「文化科学」は知識でない、ということになり、「自然科学」と「文化科学」を同列に扱うのはおかしい、ということになります。ただしリッケルトは意識一般を構成主観とせずに、「判断主観」に限定し、それが「真善美」といった価値・当為を求めるという立場に立ちますから、両科学は同列だということになります(「単に判断意識の内に閉じ籠って内容との関係を顧慮せなければ、二種の科学が同様に見られるかも知らぬ」)。ここまで、少し難しいですが、大筋はいかがでしょうか?

C:多分、何とかついて行けたと思います。

―そうして今度は西田自身の立場が表明されます。「私はカントの認識主観の意義を判断主観に狭めることによって、知覚との結合から自由にする」、これをやったのがリッケルトですね、そういう仕方で「自由にするのではなく、寧ろ之を広めることによって文化科学を客観的知識と考えたいのである」。「之を広める」の「之」は?

C:カントの認識主観の意義、だと思います。

―そうですね。リッケルトはカントの認識主観(意識一般)を「判断主観」に狭めることで、カントにおける知覚との結合から自由になり、自然科学と文化科学を同列に扱い得た。これに対し、西田はカントの認識主観の意義を「自覚」にまで広め、自然科学のみならず、「文化科学をも客観的知識と考えたい」と述べます。どうして客観的と言えるのか、気になりますが、今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第87回):ヂ

知識の客観性

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「四」301頁9行目「然るにリッケルトの如く考えるならば」から302頁4行目「カントのコペルニクス的回転の意義は失われてしまうではないか」までを読了しました。今回のプロトコルはZさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「(リッケルトのように、意識一般を単に判断意識に狭めてしまった場合)如何にして超越的なるものが我々の思惟に対して当為となるのであるか、対象自体といふ如きものが何故に我々に真理として承認せられなければならないのであるか。真理などいへば云ふまでもなく、価値といふも既に主観的意味を有って居るのではないか。」(301頁10〜13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「①「思惟と(純粋)経験の区別」について:純粋経験は、言語化されるのをどこまでも拒むものであるとご説明頂きましたが、そうして言語化できない次元を想定すること自体が(思惟には言語以前的な領域がなければならないと考えること自体が)まさに論理的要求であり、思惟の創造の産物なのではないか?(その意味で思惟の方が本質的なのではないか?)(これに対し西田は何と答えてくれるのか?)」(184字)および「②「キーセンテンスの西田の反問」について:ここで西田が真理や価値と関係づけている「主観的意味」の「主観的」とはどういう意味か?」(63字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。:ヂ

―②の方が答えやすいので、②から行きましょう。何かありますか?

W:リッケルトの場合、真理などの価値が「客観的」なものとして立てられていたと思います。そういうものを考えるのが「主観的」という意味ではないでしょうか?

―そうですね。一つ前の文章を読むと、「対象自体という如きものが何故に我々に真理として承認せられなければならないのであるか」とあります。この「承認」というところに「主観的な」働きがあります。「主観的」と言っても「個人的」という意味ではありません。この「主観」は「意識一般」ですから。リッケルトは「意識一般」を「判断意識」に制限しているわけですが、その場合それが対象とするのは「対象自体」で、これは客観的なものとして承認されているんです。その上でそれが「判断意識」に対して、「真たれ!」という「当為」となっているのですが、それを「承認」するのは何か、そこに「主観的なもの」があるではないか?というわけです。

Z:なるほど。

―それでは①に移りましょう。問いの意味は分かりやすいと思いますが。

H:Zさんは私と異なる発想をする方だと思いました。言語化できないということがあるということはお認めになりますか?

Z:ええ。ですが「言語化できない」というところにすでに論理的要求があると思います。

H:思惟が誤るということはお認めになりますか?

Z:ええ。

H:だとすれば、思惟が絶対ではない。思惟以外のものとの関係のうちに立っていることになります。

Z:ですが、考えられないものはそもそも認識できないと思います。

―Zさんは常に事後的に思惟されたものの方から、可能性として見ていますね。人間にはそれしかできないという面がありますが、事後的でなく、出来事そのものに即した思索というもの、そう言うとすでに事後的ですが、そうした思索というのはありえませんか?

T:純粋経験とそれについての思考とは、どっちが先ということはなく、表裏一体だと思います。

W:思惟の方から要求するのではなくて、言葉にならないものの方が言葉にするように要求してくる、ということがあると思います。言葉そのものが言葉にならないものによって求められている、ということです。でもZさんの考え方は、とても「人間的」だと思いました。

O:出来上がった言葉の方から考えると、同じものを指しているかどうか、そのあたりは人それぞれということになりますね。

―面白い議論になってきましたが、プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(302頁5行目~8行目)

―「厳密に対象自体という如きものから出立すれば」とありますが、これはリッケルトの立場ですね。「対象自体」とは空間・時間・因果によって構成された客観的な実在です。立場を「判断主観」(科学や歴史学などの立場)に限定すれば、その対象は「対象自体」ですから、そこから出立するほかはない。そうなると構成的な「意識一般」との結合が困難になる。「対象自体」はすでに構成されてしまっているからです。「何處までもカントの立場を徹底して行けば、構成的主観を認めねばならない」、これはリッケルトに対する批判ですね。「対象自体」も「構成的主観」によって構成されたものと考えなければならない、でないとコペルニクス的転回はどうした、ということになる。ここまで、大丈夫ですか?

A:はい。

―そうなると、「構成的主観」と「判断主観」が出てくる。「判断主観」とは特殊から一般を求める「反省的判断力」のことです。両主観は「直ちに同一なるものではない」。カントでも直接法で語られる「構成的主観」と、接続法(as if)で語られる「判断主観」は異なる。そうして両主観の形式がそれぞれ、「構成的範疇」と「反省的範疇」です。だとすると二つの主観はどう関係するのか?Bさん。次をお願いします。

B:読む(302頁8行目~303頁1行目)

―二つの主観の関係は「自覚」によって知るしかない、というわけです。「判断的意識(判断主観)」は「自覚的意識」の一面にすぎない。「自覚は所謂主観の主観、所謂意識の意識でなければならぬ」。この「主観」も「意識」も全体です。そうして「主観の主観」という場合の、前の方の主観が後の方の主観の客観になります。主観が全体であれば、客観も全体です。これが「全主観によって構成せられた」「客観的対象界」です。この中には自然界も、生物界も、歴史も含まれています。客観的世界の中の区別に応じて、「限定せられた主観」が成立します。カントの場合はどうか。カントの「経験界」は「構成的主観」の対象で、その主観は「知覚と思惟との総合的主観」だ、というわけです。これに対し或る「判断主観」(例えば歴史学)の対象は「全主観の対象界」の一部です。

O:「判断主観は自己を含む全主観の対象界に知識の客観性を求めねばならぬ」とありますが、「客観性」とはどういうことでしょうか?

―これは西田独特のカント解釈だと思います。カントにおける「客観性」とは「普遍性」と「必然性」です。形式に関することです。ところが、西田は301頁1行目~2行目にあるように、「知識の客観性」を「内容と形式の統一」のうちに見ています。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C:読む(303頁2行目~12行目)

―リッケルトの「対象自体」は「物自体」ではなく、「意味」、しかも「真でなければならない」という当為を伴った意味で、これを「判断意識」が対象(目的)にします。すべてが言葉である、という立場ですから、言葉以前の「感覚(感性)の制約」(301,3)を問題にしません。西田はこれに対して言葉以前の「純粋経験」の「自覚」という仕方での内容と形式の統一によって知識の客観性が可能になると言いたいのです。こうしたスタンスでずっとリッケルト批判が行われています。本日のプロトコルの議論の本質にかかわることだと思います。テキストではまず、カントが「両者」つまり、「形式」と「所与の原理」(内容、知覚)の「統一」として「客観的知識」を構成するものを「純粋統覚」すなわち「知的自覚」に求めた、とあります。これに対しリッケルトは「単に判断意識の形式」のみを問題にして、「所与の原理」を問題にしていない、と批判します。それでは「知識」は「客観的」にならない、と言いたいわけです。それでリッケルトのやり方は「唯、知識の構成原理としての判断意識を明にするに止まる」と西田は言うのでしょう。単に「知識」となっていて、「客観的知識」となっていませんね。ここまでで、何か分からないところはありますか。

C:「知的自覚」とありますが、これは個人的なものですか?

―いえ。それだと「心理学的」になります。この「自覚」は誰でもあって誰でもない「意識一般」の自覚、「私は考える」という場合の自覚です。それは「これはペンである」(と私は考える)というように、図に対する地として言明に伴っています。

C:分かりました。

―西田のカント解釈では、知識の「客観性」は内容と形式の統一によりますから、「所与の原理の根拠」、これは「所与の原理」が、形式と同様に(客観的知識の)根拠である、という意味だと思いますが、そうした「所与の原理の根拠」が明らかにされねばならず、それは「知覚作用」だ、とされています。ずっと同じことが言われていますね。それでは次をDさん、お願いします。

D:読む(303頁12行目~304頁11行目)

―ここでも同じことが言われています。「所与の範疇」たる「知覚の構造」を反省しなければ、そもそも「所与の範疇」ということが出て来ない、「判断意識の内から対象に打附(ぶつ)かる」というだけでは出て来ない、そのように述べます。まあ、リッケルトにとってはすべてが「判断意識」内ですから、「ぶつかる」としか言いようがない(「ぶつかる」というのも厳密に言えば「判断意識」内です)のでしょうが。ここまではどうですか?

D:大丈夫です。

―リッケルトは「判断意識其者を自省して知識の構成を論ずる」わけですが、それは「知識が知識を解する」ことではなくて、対象となった知識を解すること、その意味であくまで「対象的認識の立場」だと考えます。「知識が知識を解する」となれば、「知識」は「知識」を超えなければなりませんが、これは「理論理性の僭越をあえてしている」ことになります。これに対して、西田は「知ることを知る」のは可能だ、と考えます。知的直観を認めているからです。左右田(リッケルト)にしてみれば、「知る」とは「対象的認識」でしかありえず、どんな場合でも「判断の形式」に当て嵌まることだと考え、これを越えて認識を拡大することは「die blosse metaphysische Übertragung der Erkenntnislehre(認識論の単なる形而上学的な転用)だということになります。その場合「知ることを知るのも、知ることである」と主張することになりますが、西田はそれに対し、その場合でも「前の知るということと、後の知るということとは、知ることの意味が異なって居るではないか」と反論します。リッケルトは「作用的意識の反省の立場を、判断意識の反省(自省)にのみ限り」、しかもそれを「対象的認識の立場」で行いつつ、その「形式」を明らかにしようとしているが、それは「知識自身の自省」(知ることを知る)ということを認めないで、知るということを独断的に制限しているのではないか、その意味で「die blosse dogmatische Beschränkung der Eekenntnistheorie(認識論の単なる独断的な制限)」ではないか、と逆に批判します。これは上の左右田の批判に対する揶揄ということになりますね。意外に毒舌家ですね。西田は。今日はこれ位にしておきましょう。
ヂ:(第86回):ヂ

リッケルトの如くに考える

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」55頁4行目「マールブルグ学派はコーエンを頭目として」から最後までを読了しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「思惟するというのは働くことである。働くことはそれ自らに自己の内容を創造することである。生産する働きが同時に生産せられた成果である」(58頁11行目)、および「思惟は単なる論理的要求でなくして、その中に内容をも包含した純粋経験のごときものでなければなるまい」(59頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「生まれてからずっと目の前の石ころを見ている人がいるとしたら、その人は生まれた甲斐がないのだろうか」(48字)で、「補足説明」がついていて「そうさせるのは論理的要求か、その本質たる純粋なものか。純粋思惟(純粋経験)に生きることに意味や価値はあるか。ないとすれば何があるのか。カントが見い出した知識の先天的要素を、リッケルトが方法論的範疇として明確にした、という流れと理解しました」となっています。例によって記憶の断片から「構成」してあります。:ヂ

―趣旨がよく分かりません。どういうことかもう少し説明してください。

O:禅僧の「無心」の境地が新カント学派の「論理的要求」の究極にあるという流れで読みました。

W:「石ころだけ見ている」「無心」が「何も創造していない」ことが問題なのでしょうか?

O:曹洞宗の只管打坐は、すべてを排除した世界で、むしろそこにこそ実在の世界がある、としてそれを求めていると思うのです。コーエンの考える「思惟」の純粋な部分(「純粋思惟」)に近づくこと、思惟を実用的に用いるというのではなくて、純粋に働かせることが、むしろ修行僧のやっていたことではないか、と思うのです。

W:58頁2行目に「感覚は思惟に対して解決を迫る問題」とあります。「石」をただ見る、とかただ座る、ということが思惟に解決を迫る問いだ、ということでしょうか?

―なるほど。公案のようなものですね。

W:ええ。先日、(フランスの留学先で)モンゴル人に「おまえは考えすぎだ。ただ生きればいい」と言われたのですが、「ただ生きる」とはどういうことだろうか、と。

―公案は論理的な解決を迫るものではないですね。ただ見る、といっても、そのように見る者がいる限り、自分にとっての見方でしかない。どうしても主客の二元が残ってしまう。これを論理的に解決しようとするのではなく、矛盾そのものに成り切る。そうすることで、問題は解決しないけれども、問題はなくなる、そういう解決の仕方ですね。

O:只管打坐、ただ座る、というようなものをコーエンは想定していなかったとは思います。

―(後で感じたことですが)Oさんは、初めから思惟が感覚の中に働いているというのであれば、コーエンの創造的な生産的思惟の究極的な在り方は、言語的=論理的な思惟ではなく、むしろ言語にならない感覚のうちに働いている思惟ないし論理だ、ということが言いたかったのかな、と思いました。

S:ここでは知(知識)の在り方として、①新カント学派の論理的思惟、②西田の純粋経験、③仏教の悟りが区別されるべきだと思うのですが、Oさんは②と③を同じものとお考えですか?

O:そうですね。

S:私はコーエンの考え方に共感するのですが、西田はコーエンの考えを批判するに際して、思惟と経験を無理に分けようとしていると思います。

―テキストに戻って、少し整理しておきましょう。「思惟が純粋思惟として経験とは異なったものであるとすれば、如何にして経験的内容を創造し得るのであるか」(59,2-3)とありますね。ここで西田は、コーエンが経験と思惟(純粋思惟)を分けたことを批判しています。リッケルトからの流れで言えば、リッケルトは経験を「与えられたもの」と考え、そのうちに思惟の働きを認めなかった。思惟以前ということで、これを論ずることはなかった。逆に言えば、「与えられたもの」とか「思惟以前」といってもすでに思惟されたものになっている、ということです。すべては言語化されたものである、とする立場だと思います。これに対しコーエンは経験を問題にします。コーエンは経験を思惟に対して課せられたもの、解決を迫る問いとして、そこに思惟の働きを認めます。「経験」と言った時にはすでに思惟の要求、問いの中にからめとられている、逆に言えば、そうした働きがあるから、経験が経験として顕わになる、ということです。西田はコーエンが経験を問題にし、経験と思惟の統一(総合)を問題にしたことを高く評価しつつも、なお両者を区別したことを批判するのです。そうして「思惟は単なる論理的要求でなくしてその中に内容をも包含した(経験と一つになった)純粋経験のごときものでなければならない」(59,4)と自説を述べます。これに対し、Sさんは・・・

S:純粋経験や悟りもすでに認識の内容、認識のスタートになっている、と思います。

―ですが、純粋経験は一方でどこまでも言語に言い表すことを拒否するものでもあると思います。この点はリッケルトが経験をどこまでも与えられたものとして、語り得ないものとしたことにも通じると思います。問いのうちに絡めとられる以前の経験、(こう言ったらすでに思惟の方から事後的分別的に見られてしまっていますが)、例えば一切の思惟や言葉を打ち砕く、絶句するしかない、そういう経験のレベルというものがあるような気がします。ここのところはどうしても事後的分別的でしかありえない言語の抱える矛盾のような気がします。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。久しぶりに「左右田博士に答う」に戻ります。Aさん、お願いします。

A:読む(301頁8行目~302頁4行目)

―「リッケルトの如くに考える」とは、純粋統覚(意識一般)を「単に論理的主観」と考えて、内容(感覚)との結合(総合)を考えない、ということです。リッケルトは言葉が成立しているところから考えますので、言葉にならないような経験を論じることはありません。そうなると、内容を構成する、という意味での「構成的主観」としての「意識一般」の意義は失われる、というわけです。次に「之に代えるに」とありますが、「之」とは?

A:「構成的主観としての意識一般」です。

―そうですね。それに代えて「ボルツァーノの真理自体の如きもの」をもってしたと。ボルツァーノが出て来ましたので、西田のボルツァーノの解釈を見て置きましょう。旧西田全集第14巻の22頁~24頁をご覧ください。Bさん、お願いします。

B:読む。

―模写説が出て来ますね。真理とは認識が実在に合致することだという、従来の真理についての考え方は、そもそもその合致を確かめるには、実在そのものを知らなければなりませんが、この知るということがすでに認識ですから、不合理を含みます。カントは経験(内容)と同時に言葉(形式)、つまり両者の総合としての認識(知識)から出発しますがから、こうした認識を超えた実在そのもの(物自体)は知り得ないものとして、それは単なる思想にすぎない、とします。そうして真理とは知識の客観性、つまり普遍性と必然性であるとします。誰が考えてもそうなるということです。したがってこの「誰」とは「意識一般」、つまり誰でもあって誰でもない意識です。そうなると、真理とは実在の問題ではなく、言葉の意味の問題になります。真理とはまさに言葉にほかなりませんから。同様に「実在」も言葉、それも思想としての言葉、ということになります。こうしてすべてが言葉だということになります。言葉には直接法と命令法と接続法(仮定法)がありますが、直接法によって「認識(知識)」が成立します。その知識において理念(善)が命ずる(かくあるべし、当為)ところ、つまり命令法によって道徳法則と実践が成立します。また同じ経験(特殊)が理念(普遍)を求める形、つまり「あたかも~であるごとくに(as if)」となると、反省的判断力(特殊が普遍を求める判断力)による美的判断と有機体に関する判断が成立します。三つの法がそれぞれ、『純粋理性批判』(第一批判)、『実践理性批判』(第二批判)、『判断力批判』(第三批判)に対応します。ここまで、いかがですか。

B:大丈夫です。

―三つの批判書は真善美という理念、つまり言葉の意味を扱ったもの、ということになります。すべてが言葉だということになると、言葉の指し示す意味こそが客観的なものだということになります。プラトンのイデアみたいなものですが、ただしそれを実体(真に存在する存在者)としないで、あくまで理念(普遍的・必然的に妥当するもの、認められるもの)である限りのイデアです。このようにプラトンのイデアを考えようとしたのが、ロッツェで彼に学んだのが、新カント学派のうちの西南学派のヴィンデルバントです。真善美聖という四つの理念を掲げたのも彼です。新カント学派が問題(対象)にするのは言葉であり、こうした意味、価値としての理念です。ところですべてが言葉だということになれば、真理に関して言えば、すべての言葉はそれが真理であるべきだ、という当為を含みます(嘘が成立するのもこのことを前提しているからです)。この真理の理念がここ(「左右田博士に答う」)で出て来た「真理自体」です。それは個人的なものではない。誰が考えようと、考えまいとに関わらず成り立つものです。ですから「客観主義」ということになります。客観といってもいわゆる実在そのものではなく、意味としての客観です。ここまでいかがですか?

B:はい。大丈夫です。

―テキストではリッケルトが、「構成的主観としての意識一般」の代わりに「真理自体」の如きものをもってきて、「意識一般は単に判断意識という如きものに狭められた」とあります。ここは大変難しく、何とか私なりの解釈に辿り着いたのですが、あくまで現時点での私の解釈にすぎませんので、そのおつもりでお聞きください。まず、リッケルトは知識の成立過程を三段階に分けて考えました。覚えていらっしゃいますか?

B:はい。

―純粋経験、ないし体験が直接に与えられたもので、これを①「所与性の範疇」、つまり個物の形式によって「此の」という形に措定する。次いで②「実在の範疇」ないし「構成的範疇」、つまり空間時間、因果の三形式によって加工された経験が「客観的実在」で、最後に③それを一定の方法によって組み立てることによって、自然科学や歴史学のような諸学問が成立するが、その際の形式が、「方法論的範疇」でした。さてここからが私の解釈ということになりますが、まず後(302,6-7)に「構成的範疇と反省的範疇」が「構成的主観」と「判断主観」との対比で出て来ます。これに基づいて、「反省的範疇」を「判断的主観」の形式と考えます。これは無理がなかろうと思います。この「判断」は特殊から一般を求める「反省的判断力」ということになります。カントでは厳密な意味での「知識」からは除外されたものです。ここからですが、この「反省的範疇」を先程の「方法論的範疇」に重ねる。「方法的範疇」は「客観的実在を或る立場から組み立てたものにすぎない」(14巻,52,14-15)からです。そうなるとこの「客観的実在」はすぐ後で(301,13)出てくる「対象自体」に重なるのではないか。そうしてそれをリッケルトは「真理自体」と重ねた、そう読むのです。そこでもう一度、テキストを読んで見ましょう。いいですか?

B:はい。

―「意識一般は単に判断意識というものに狭められた」(301,11-12)とは意識一般が三段階の一番最後にまで狭められてしまったということです。ここからがリッケルトないし左右田博士に対する反論です。何と書いてありますか?

B:「如何にして超越的価値なるものが我々の思惟に対して当為となるのであるか、対象自体という如きものが何故に我々に真理として承認せられなければならないのであるか」とあります。

―「超越的価値」とは真善美などの理念です。認識の場合には「真理自体」です。我々がある認識を言葉で語る場合、その言葉は真理でなければならない、という当為を含んでいますが、どうしてそうなるのか、という反論です。そこには主観(といっても誰かの主観ではなく意識一般)の承認が、さらにその承認のためにはその認識(知識)に自覚がともなっていなければならないではないか、そう西田は考えます。そこで次に西田は何と言っていますか?

B:「真理などいえば云うまでもなく、価値というも既に主観的意味を有って居るのではないか」と言っています。

―そうですね。この「主観的意味」が意識一般による「自覚」を伴っている、ということです。次に「単なる判断の形式に対しては、内容は無関係でなければならぬ」とありますね。「判断」が出て来ました。第三段階です。「判断の形式」とは具体的には「方法論的範疇」ないし「反省的範疇」です。とすればその「内容」とは具体的には「客観的実在」ないし「対象自体」ということになります。そうして両者(形式と内容)が無関係だというのです。次に何と書いてありますか?

B:「何故に全然主観を超越したものが判断作用の目的として主観を制約するのであるか」とあります。

―そうですね。「全然主観を超越したもの」とは「客観的実在」ないし「対象自体」のことです。それが「判断作用の目的」となって、「主観(判断作用)」を、当為(真でなければならぬ)という仕方で「制約」するのか、内容と形式が無関係ならば不可能ではないか、そのように反論しているのです。両者を結びつける意識一般ないし自覚が不可欠だと言いたいわけです。もう一つ反論がありますね。読んでください。

B:「若し範疇的に構成せられたものが判断の対象となると云うならば、範疇的に構成するものは何であるか」。

―「判断の対象」とは「内容」、つまり「対象自体」です。それは「構成的範疇」によって構成されたものでした。意識一般が判断意識にまで縮減されてしまったら、「対象自体」を構成するものがないではないか、という反論です。そうして「それ(範疇的に構成するもの)がカントの意識一般の如く構成的、少くも総合統一的主観の意義を有するものでなかったならば、カントのコペルニクス的回転の意義は失われてしまうではないか」と言われます。「対象自体」が何か出来上がったものとなってしまう、ということです。

C:「コペルニクス的回転」って何ですか?

―スマホで調べてみてください。「カント、コペルニクス的転回」で出てくると思います。

C:我々の認識が対象に従うのではなく、対象が我々の認識に従うということで、コペルニクスが天動説に対して地動説を唱えたのに擬えたものらしいです。

―そうですね。『純粋理性批判』第2版の序文(Vorrede)に出て来ます。発想の転換ということで日常的にも時々使うようです。今日はこの位にしておきましょう。
ヂ:(第85回):ヂ