共に哲学する

具体的一般者、反省的一般者(抽象的一般)

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第7段落319頁15行目「以上述べた如く」から320頁13行目「含まれて居なければならない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自己の中に自己を映す鏡」(320頁 12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「その場合、絶対無(場所)も個物(認識対象)も認識主観も同一で自己そのものであるが、絶対無・一般が自己否定して個物・有となるには、自己だけではなく、他者がそこに入るのではないか」(87字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―認識主観を絶対無と見て、すべてが認識主観内の出来事とお考えのようですね。そこには他者が出て来ないと。

R:そうです。

―限定された一般者(認識主観)が絶対無へと超越する場合に、限定された一般者の破れがあるわけですが、そこには限定された認識主観にとっての他者が必要だということですね。

R:はい。

―そうだとすると、認識主観に限定された一般者と絶対無を区別しなければなりませんね。

S:この他者は弥陀の本願みたいですね。限定せられた認識主観が衆生で。

―そうですね。これは絶対者と絶対無の問題になりそうですね。『善の研究』ではその第4編で絶対者と我々の自己との関係が問題になり、両者の逆対応的な関係から両者の合一がなされています。そうした宗教的覚悟を受けて、と私は解釈していますが、第1編冒頭の純粋経験が事実ありのままの知として立ち上がってきます。ここには逆対応を受けての平常底のようなものが見られます。このように『善の研究』と晩年の『宗教論』には、我々の自己と、それに対する他者との関係が出て来ますが、『善の研究』以後の、自覚、場所といった西田の思想的展開の中に他者は出て来ずに、西田は直接に純粋経験、自覚、場所の立場に立ってそこから哲学しようとしている傾向はあると思います。その意味でRさんのご質問は何となく理解できますが、大きな問題になりますね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(320頁14行目~321頁8行目)

―カントの認識主観では純粋統覚(統一作用)と意識一般(図に対する地)が一つになっていましたが、リッケルトは明確に認識主観を作用に限定した、そう西田は批判します。そこで「むしろカント自身の考を維持したい」と言いつつ、「唯カントも主客の対立を基とし、知ることを作用と考えることから出立した」と批判します。「尚一層深く広い立場から出立したいと考える」とあるのは、「意識一般」から出立したい、ということでしょう。またリッケルトが「所与の原理」を認めなかったのに対し、カントが『純粋理性批判』において感性的な所与(知覚の所与)を認めたことを一方で評価しつつ、「カントの如く所与の原理を単に知覚に限りたくない」とカントを批判しますが、カントの立場から言えば、『実践理性批判』を考慮に入れていない、ということになると思います。その場合感性的なもの以外の所与とは道徳律、つまり「善を為せ」という命令です。所与といっても実践理性が感性的な存在でもある人間に課すものです。これを人間はつねに自分にとっての善にしてしまいますが、これが通常の我々の意志です。ですからカントは所与を知覚に限ったというのは正確ではないと思います。ここまではいかがですか?

A:大丈夫です。

―次にフィヒテ以降の「独逸唯心論」つまり「ドイツ観念論」の傾向について述べられていますね。新カント派はこれを「形而上学的」だと言って排斥した、と書かれています。この「形而上学的」の意味を西田は、「客観的思惟の方面を基として、主観的思惟をその一面とのみ考えた所」に認めています。西田からすればカントの統覚も作用として、すでに対象化されたものです。それを受けてフィヒテはこれを「自我」というように実体化し、さらにシェリング、ヘーゲルは「絶対者」とした、これが「客観的思惟」の意味だと思いいます。客観的と言ってももちろん「思惟」ですから、「主観的思惟をその一面」と考えることになります。「自我」ないし「絶対者」が思惟をもつ、ということです。

A:神が考える、というようなことですね。

―そうです。これに対し西田はこうした客観化・対象化をしないで、どこまでも「判断意識」つまり「意識一般」の立場を離れないで、具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う」とします。自分は「形而上学」をやっていない、ということです。

A:「具体的一般」とは何ですか?

―「具体的一般者」ないし「具体的一般」の概念は西田の中で変遷がありますので、そのつどのコンテクストから読み取らなければなりません。以前(316頁11行目)にも出て来ましたが、ここでは意識作用と意志作用です。対象的・主語的なものです。「背後」とは「述語」つまり対象化されないものことです。前者を図、後者を地といってもよいと思います。具体的一般とは特殊を含む一般のことです。自己限定して特殊になる一般のことです。これに対して、特殊に対してあくまで一般であるのが「抽象的一般」です。先に「一般が特殊を自己自身の限定として、之を自己の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、単に特殊が之に於てある無なる場所となる」(320頁10~11行目)とありました。ですから「抽象的一般」とは「無の場所」のことです。

A:分かりました。

―西田は自分は「形而上学」をやっていないが、左右田博士は「die blosse metaphysische Übertragung der Erkenntnislehre(認識論の単なる形而上学的転移)」と言って自分を批判するけれども、リッケルトの立場以外を形而上学と呼ぶんだったら、そう呼んでもかまわない、そう言っていますね。それでは「六」に入りましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(321頁10行目~322頁終わり)

―まとめですね。西田は自分の「場所」が対象化されないものであることを主張します。左右田博士が「場所」は「有とは考えられないか」とか「有でも無でも正しいとは思われない」と言っているのは、私のいう所の「場所」を対象化(=形而上学化)しているからだろう、というわけです。しかし左右田博士からすれば、「無の場所」と言った時点で対象化されてしまっている、と言いたいわけで、これはこれでもっともな言い分だと思います。人間は対象化されない領域(生の領域)に生き(存在し)ながら、「知」としては対象化しかできないし、そこを一歩も出ることもできない。こうした矛盾を抱えているが故に、そうした知の領域が破られる、ということが起こりうる、そうした存在だと思います。それはともかく、テキストで何か分からないところはありますか?

B:大丈夫です。

―「私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって」とありますが、「判断的知識」は図ですね。それの背後にある一般者とは「意識一般(私は考える)」つまり地です。そうした地としての「意識一般」が「具体的一般者」と考えられる、とは意識を「意識作用」と考えることです。そうした場合にそれは「主語的であり、対象的」であることになります。そうして「具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない」ことになります。この「反省的一般者」は前には「抽象的一般」と呼ばれていましたね。

B:なぜ「反省的一般者」と呼んだのでしょうか?

―ここだけでは分かりませんね。後に「判断としては、述語面は何處までも主語面を包むものであり、客観的思惟の背後にも反省的主観がなければならない」とあり、「客観的思惟」が、先に出てきたように、対象化された意識作用(統覚)と考えれば、「反省的主観」とは「意識一般」つまり、「私は考える」という「自己意識(自覚)」だということになります。そうすると、「自己意識」のことを「反省」と呼んだと考えることができますね。実際西田はそのあとで、「どこまでも判断的知識の背後に見られねばならない述語面という如きものが、私の所謂場所であって、それはカント学者の認識主観に相当するものと云ってよい」と述べ、この「認識主観」とは「意識一般(自己意識)」のことだと考えられますから、そういうことかもしれません。ただしこの「認識主観」は新カント派のいうような作用の「統一点」ではなく、於てある場所として「包容面」だ、という注意も西田は忘れません。ここまで、いかがですか?

B:大丈夫です。

―「之」つまり「場所」「について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのは、〔対象化できない〕認識主観について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのと同様である」、とあるのは先にも述べましたが、左右田博士がそうした批判をしているからです。そうして「私が無の場所というのは、〔対象化できないので〕一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と述べます。対象化された無の場所を前提として「真の無の又無がないか」という質問には答えることができない、とします。そうして「述語面」を「意識面」と考え、その「最終の述語面」が「直覚的意識面」だとします。これが「真の無の場所」ですね。「無の場所」において「直覚」が成り立つということです。対象化できないものを知る仕方が「〔知的〕直観・直覚」です。もちろん左右田博士や、あるいはカントですらこんなものは認めません。それはもはや哲学ではない、と考えるからです。ですが西田は「自己自身を見るもの」「主客合一なるもの」を認めます。桜の花(客)が自分(主)であり、そうした桜の花の内に自分自身を見る、こうしたことのうちに絶対無が自己限定して特殊となりつつ、絶対無そのものとしてそれを自らのうちに映す、という事態を見て取っているのです。最後に残ったところ、Cさん、お願いします。

C:読む(323頁)

―「千金死馬を買う」については、各自ネットで調べてください。「日暮れて途遠きもの」(老齢になったにもかかわらず、哲学はまだまだだ)である自分を「死馬」に喩えたものでしょう。哲学や芸術、宗教は、天才ならいざ知らず、一般の人間にとっては、50,60ははなたれ小僧、でいいと思います。80を過ぎてから本物の哲学をする、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。それでないと生涯続けることができない。最近は哲学も「役に立つ」ということが要求され、したがって哲学する者も専門家であることが要求されます。当然のことながら、速成が期されますから、若い人は哲学の或る狭い範囲の専門家になろうとします。年輩になると広範囲の知識の所有者になろうとします。これが昨今の哲学研究です。これが哲学の本来あるべき姿でないのは明らかですが、どうにもならない。「日暮れて途遠し」、哲学とは生涯続くものであり、本来そうしたものだと思います。次回より第4巻の最後の論文、「知るもの」に入ります。

ヂ:(第97回):ヂ

特殊を包む一般

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第6段落319頁1行目「此故に直覚的なるものが」から319頁14行目「見られるまでである」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云ふのではない、場所が限定せられるかぎり、之(限定せられた場所)に映ずるのである」(319頁2~3行目)と「此の場所に於いてあるものは、全く知識の意味を失って、意識一般の対象界に於いては、唯表現として見られるまでである」(319頁 13~14行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「319頁3行目の「映ずる」は13-14行目の「表現として見られる」ことと同じか。直覚的なるものが「映ずる」のと、於いてあるものが意識一般の対象界に於いて唯表現として見られることとは、同じことを反対の側から述べていると読むのは誤りか。超越とはある境界となるところから劇的に変わるのか、それとも混ざり合うように変化していくものか」(156字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―三つ問いがありますね。第一の問いについては基本的に同じだと思います。直覚的なるものは本来「真の無の場所に於てあるもの」ですが、それが限定せられた場所に映じて「判断的知識」になることと、「意識一般の対象界に於て」「表現」となることとは本質的に同じことだと考えられるからです。ただ前者は「判断的知識」ですから「一般概念」(有の場所)に於てあると考えられるのに対し、後者の「表現」は「意識一般の対象界」つまり「対立的無の場所」に於てある、という違いはありそうです。第二の問いですが、これも本質的にはその通りで、判断的知識は限定された場所に映じたものを限定された分だけ抽象的にしか見ないのに対して、意識一般の対象界に於てあるものを「表現」と見る場合には、それを「直覚的なるもの」の「表現」として見ているわけですから、両者は同じことをお互いに反対の側から述べていることになります。第三の問いですが、超越とは、こちら側からの道がないということですから、超越が起るのはつねに突然(劇的)です。しかし超越したところから見るならばそこには道がある、ということになります。ですから「混ざり合うように変化」していくのではないと思います。ところで「表現」という語ですが、西田はこの語で何をイメージしているのでしょうか?

S:難しいですね。

―たしかに「表現」、と一語出ているだけですから、何とも言えませんが、この第四巻に「表現作用」という論文がありました。そこで「直観の立場からしては、此世界は表現の世界となる」(168,5-6)とあって、まず「言語は不完全なる表現」だとされます。意味とそれを表現する質料(シニフィエとシニフィアン)の結びつきが外的だということです。これに対し「芸術」の場合は、両者が合一してはいるが、その内容は現実とは異なる「仮相(フィクション)」だという制限があります。さらに「道徳的行為」となると、それは「我々の身体を表現化することによって、全実在を表現化する過程でなければならぬ」(169,4-5)とされます。今度は「全実在」となっていますね。しかしこの過程は無限の過程になります。どこまでも実現できない、という制限があります。したがってこの立場は挫折を伴う。そうして最後に出てくるのが「宗教的立場」です。そこにおいては「全実在も亦ただ一種の表現と見られる」(同5-6)とされます。西田は宗教をそのように見ているのです。因みにヘーゲルは、宗教はどこまでも「表象(イメージ、例えば神、神の子、天国など)」を拭い去ることができない、したがって現実と和解できないと考えて、これを和解にもたらすものが哲学だと考えていました。それはともかく、西田は「表現作用」という論文では、「表現」ということで「言語」「芸術」「道徳」「宗教」を考えていることがわかります。目下の論文でももしかするとこれらを念頭に置いているかもしれませんね。

S:分かりました。それにしても西田は「直覚的なるもの」やそれが於てある「真の無の場所」を根源にしていて、そうした向こう側からの働きがなければ超越が起らないように考えているようですが、こうした根源も根源としてしまえば我々にとっての意味になってしまうように思うのですが。もっと言えば、そうした根源を据えたい、そういう根源があって欲しいという願いのようなものになっている気がするのですが。

W:そこでは、〈見る側の論理〉と〈表現する側の論理〉を区別すべきだと思います。〈見る側〉からすれば、根源は勝手な意味付けだ、というように判断され、裁かれるほかはないのですが、〈表現する側〉からすれば、何もないところから何かを生み出す行為となります。

S:そういうものかな、とは思いますが、すべての芸術家がそこを意識して狙っているとは思えませんが。

―意識しているかいないかは別として、〈表現する側の論理〉でないと、芸術にはならないとは言えそうです。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(319頁15行目~320頁3行目)

―まず「出立」点が「判断意識」であることが明言されます。動物がすることのない判断をどうして人間がするのか、これ自体とても不思議なのですが、こうした言明もすべて判断になってしまいますから、ここから出発する、ということなのでしょうね。カントや新カント派と同じやり方です。でも西田はこの「判断意識」はリッケルトのとは違う、と言います。どう違うのか。「リッケルトの判断意識というのは、先ず主客の対立を考え、知るということを作用と考える心理学的見方を基としたものである。而してその認識主観というのは、カントの認識主観から所与の原理を除去して、単に形式的に考えられたものである」と述べられます。分かりにくいですね。

A:ええ。「心理学的見方」とあるのは心理学に基づいている、ということですか?

―いえ。心理学が扱うのは個人の経験的統覚です。意識された認識主観ですね。思惟、意志、想像といった統覚、つまり統一作用は意識できるんですね。ですがここではあくまで心理学「的」であって、心理学そのものではありません。経験的統覚ではない、超越論的統覚が問題になります。意識された意識ではなく、意識する意識。カントの「私は考える」です。これは図に対する地ですから、決して認識できません。カントも単に「自己意識」というのみで、これを知的に直観することはできない、とします。カントの場合、この統覚(統一作用)と地としての「意識一般」とが明確に区別されてはいませんが、リッケルトは統覚(統一作用)の方を、西田は意識一般の方を認識主観と考えるのです。ここまでいかがですか?

A:大丈夫です。

―西田のリッケルト批判はもう一つあって、カントの認識主観から「所与の原理」を除去した、というものです。第一批判(『純粋理性批判』)での「所与の原理」とは経験的なもの、感性的な質料です。これを統覚が時空といった感性の形式とカテゴリーといった悟性の形式で統一していくわけです。リッケルトも所与として「純粋経験」を一応認め、これを「所与性の範疇」によって「これ」と呼べるものにし、「実在の範疇」つまり「構成的範疇」(時空、因果)によって客観的実在(存在するもの)にする、と考えます。そうしてこれがさらに方法的範疇によって科学的な対象、さらには歴史学などの対象となります。しかしリッケルトは判断(言葉)になったところからしか問題にしませんから、「純粋経験」といってもすでに様々な範疇によって構成されてしまっている、と考えます。プロトコルの話に関連付ければ、リッケルトは〈見る側の論理〉にしか立ちません。ですから言語以前の「所与」というものを問題にしません。西田にとっては、純粋経験にしてもそうですが、言語以前の存在こそが真実在ですから、リッケルトはカントの認識主観から「所与の原理」を除去した、と批判するわけです。西田の「真の無の場所」において論じることはまさに〈表現する側の論理〉となりそうですね。

W:そうです。「真の無の場所」ということで見えてくる風景があるということだと思います。

―しかし他方で「真の無の場所」という言葉によって見えなくなってしまうということもあるのでは?言葉にならないところを論じたいのだけれど、言葉になったところからしか論じられない、そんな矛盾がありそうな気がします。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(320頁3行目~8行目)

―読みにくい文章ですが、西田は「知る」ということを作用とは考えずに、「場所に於てある」と考えますから、まず「作用という如き考を除去する」ということになります。「作用という如きもの」は「既に対象化せられたものと考え」られるからです。カントで言えば認識主観を「純粋統覚」とするのではなく「意識一般」とする、ということです。カントの『純粋理性批判』では、「意識一般」は「判断意識(「私は考える」という自己意識)に関わることですが、西田はこれをさらに「意志の意識(「私は意志する」という自覚)」や「直観(真の無の場所に於てあるもの)」にまで拡大しようとします。ここまでいかがですか?

B:大丈夫です。

―次に「普通に知的作用と考えられるものは、上に云った如く、意識一般の対象界と意志、直覚の世界との間に見られる心理学的対象界に於ける一つの特殊なる場合に過ぎない」とありますが、読みにくいですね。「との間」とありますが、何と何のあいだですか?

B:「意識一般の対象界」と「意志、直覚の世界」との間です。

―そうですね。もう一つ質問があります。「上に云った如く」とありますが、以前に「心理学的対象界」という語が出てきたのはどこですか?

B:319頁10~11行目です。

―そうですね。「合目的的世界」「心理学的対象界」「歴史的世界」「自由意志の世界」「直覚の世界」と順に出てきた、その二番目ですね。ここでは「知的作用」を心理学的に対象とするということですが、先程も申しました通り、リッケルトの認識主観は個人的な所謂心理学的な対象ではなく、超越論的(純粋)統覚です。ですからテキストでも「心理学的対象界に於ける一つの特殊な場合」となっています。それでは次をCさん、お願いします。

C:読む(320頁8~13行目)

―「私の場所というのは、単に所謂一般概念という如きものではなくして」とありますね。「所謂一般概念」とは抽象的な一般概念のことで、特殊と対立するものです。例えば犬一般とか。そうではなくて西田の「場所」とは「特殊が於てある場所」、「対象を映して居る鏡の如きもの」だとします。前者が「場所」の存在論的テーゼ、後者が認識論的テーゼと呼べるものです。しかし「対象を映して居る鏡」だというと、鏡(一般)と対象(特殊)が「別のもの」と思われるけれども、そうではないと言います。そうして「一般が特殊を自己(一般)自身の限定として、之(特殊)を自己(一般)の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、〔一般が、〕単に特殊が之(次に出てくる無なる場所)に於てある「無の場所」考えられた時、〔一般は〕自己の中に自己を映す鏡となるのである」と述べます。

C:どういうことかイメージできませんが。

―たしかに難しいですね。特殊を包む一般のことを西田は「具体的一般」と呼びます。抽象的一般は特殊と対立していますから、それ自身が特殊と対立する特殊になってしまいます。だから真の一般はこの特殊を含まなければならない。そのことによって一般も真に一般になる、そういうことがまずあります。ではそれはどのようにしてなされるか。一般が自己否定して特殊となりながら、同時に真の一般になる、これを西田は一般が自己限定して特殊となりながら、特殊がそこに於てある無の場所となることだ、と考えます。そうなった時に真の一般(具体的一般)として、一般は「自己の中に自己を映す鏡」となる、と言うのです。

C:相変わらず全然イメージできませんが。

―何らかの仕方で限定された一般は真の特殊(個物)を包むことはできませんね。個物は限定しつくせないものだからです。しかしそうした一般の限定が破れる、無になる。その時に個物がそのありのままの姿を現わす。現すのは「無なる場所」に於て、ということになります。気を失っているのでもない限りそうでなければならない、そういうことだと思います。無心の境地にもこうしたことはいえると思いますし、プロトコルで問題になった〈表現する側の論理〉もこうした立場に成立するはずです。言語(判断、〈見る側の論理〉)を一歩も出ることができない人間だからこそ、そうした言語を破る経験が、驚きとか悲哀とか、あるいは身の頷きといった仕方で起こりうる。もちろんそうしたものもそうしたものとして言語化しなければ何もわからない、ということがありますが。最後に「我々が普通に用いる映すと云う語の根柢にもかかる考えが含まれて居なければならない」とあります。鏡が物を映す、ということもその「映す」ということの根柢にまで遡って考えるならば、「自己の中に自己を映す鏡」という考えが含まれている、というのです。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第96回):ヂ

意識一般と真の無の場所との間

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落317頁3行目「判断的知識の成立」から319頁1行目「限定せられたものである」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の概念的知識が特殊化せられて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んでいく、最後に如何なる意味に於ても苟も概念的に限定し得られる一般的なるものが全然内に包まれても、尚判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考へられる、即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである、かかる場所に於てあるものが真に直覚的なるものである、自己自身を見るものである」(318頁 8~13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、特殊がその特殊的方向の最後に一般的なるものを内に包んでなお、「判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考えられる」といわれる。「判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てある」(315, 8)といわれることから、西田は特殊ではなく、最後には「判断」の立場をとっているといえる。従来の認識論の「先ず心と物とが相対立し、知るといふのは心の働き」(314, 1)という考えを「極めて素朴的」といいつつも、西田はなぜ「真に直接なる心というものが残る」と考え、判断の立場にたったのか。そして、「真に思慮分別を絶した」ところにおいて成り立つ判断とはどのようなものか」(281字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―「心」という語が二回出て来ていますが、314頁1行目の「心」と318頁12行目の「心」は異なります。前者は「心の働き」とあるように、働きとしての心、です。カントの自我で言えば、素材を形式によって統一する「超越論的統覚」です。これに対し後者は「意識一般」で、図に対する地です。ここには「知る」ということをどう考えるかの根本的な違いがあります。「知る」とは素材を形式によって統一する働きのことを言うのか、場所においてあることを言うのか、という違いです。西田は「知る」の根本義を「場所に於てある」ということのうちに認めます。「一般概念」としての「場所に於てある」のは通常の「知る」ですが、そこにはすでに限定という作用が働いていますから、西田は「真の無の場所に於てある」ということを「知る」ということのもっとも根本的な意義を認めることになります。作用としての心の「知る」は、理解する・判断する、といった意味での「知る」で、「場所に於てある」の「知る」は、そうした理解が破れて、開ける、とか気づくといった意味の「知る」と言ってよいと思います。哲学の始まりとされる「驚き」も、こうした意味での「知る」です。

W:腑に落ちた感じですが、「知る」ということの根本義が「驚き」とか「開け」ということであれば、もともとあるものが通常は見えていない、ということですね。それが開けるという見方は、すでに見えているものを新しい一般概念を作って別の視点から見るという見方ではないですね。

―でも、何らかの一般概念による整理をしなければ、「知る」ということにはならないのでは?真に思慮分別を絶した直接的なる心という場所において真に直覚的なるものがある、というのも、すでに十分に一般概念によって整理されていると思いますが。

Z:神とか真理についてはそういう知り方は確かになあ、と思うのですが、例えば目の前の机を机と見る、その客観性はどうなるのだろうかと。

―その場合の客観性とは、一般概念の普遍性・必然性(誰にとっても通用する)という意味になりますね。西田にとっての客観性とはどこまでも「ありのまま」ということになりますが。

S:普通は一般概念に還元することを「知る」と言いますが、Zさんは常磐津で精進されていますし、Wさんはフランスで自分の一般概念では通用しないよその言語に直面されていますね。

W:出来上がった一般概念が破れることで見えてくるものがあるというのはよく分かります。

―ですが、それを言葉にしなければ何も分からない、ということはあるのでは。

J:西田は思慮分別を絶する、ということが言いたかったのでは?それこそが大切だということで。西洋の二元対立的な考え方に対して、もとの姿をありのままに見るという。それを「知」と呼べるかどうかは分かりませんが。対立の前を見ましょう、ということで。

S:そんなものが、本当に大切なのでしょうか。役にも立たないものだと思います。知らなくてもよいのでは?

Z:しかし、そういう見方というのは芸道、稽古論にはたしかにあって、世阿弥の「離見の見」にはそういう所があります。「離見」は「我見」に対するもので、「我見」とは自分から見える姿、「離見」とは客席から見える姿というのが基本的な意味ですが、「我見」にはさらに、うまく見せようといった執着の心の意味も含まれると思います。ですから「離見」とはそうした「我見」を離れたあり方です。そういうありようをそのまま見る、無心に舞う姿をありのままに見る、それが「離見の見」という在り方だと思います。世阿弥はこうした「離見の見」を「見得」せよ、と言いますが、この「見得」もそうした直覚だと思います。

―そうした「見得」を「得た」と言ってしまえば、またしても「我見」になりますね。

Z:それは私のことです。

―(笑)。それはともかく、Zさんのご発言は、先程の、「客観性」をもった「知る」とは正反対の「知る」ということになりそうですね。プロトコルはこれ位にして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(319頁1~14行目)

―「此故に」とあるのは「判断的知識」の於いてある場所が、「真の無の場所」の限定せられた場所であるが故に、という意味ですね。「直覚的なるものが判断的知識に入り来ると云うことができる」とあります。「これは机である」という判断もそれだけではない、もっと奥の深いものを含んでいて、それを実は或る意味で我々はすでに見ている、ということです。しかし「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云うのではない、〔直覚的なるものは〕場所が限定せられる限り、之〔限定せられた場所〕に映ずるのである」と言われます。そうして「故に」と来ます。これは場所が限定せられているが故に、という意味でしょう。そうして「判断的知識はいつでも抽象的なるを免れない、真に具体的なるものは直覚的として、真の無の場所に於てあるのである」とあります。我々の通常の判断は物事をありのまま見ているのではなく、その一面を抽象的に見ているにすぎない、ということです。ですからそれを「ありのまま(具体的)」に見るためにはそうした限定が破られるという経験がなければなりません。ここまではいかがですか?

A:大丈夫です。

―「真の認識主観というのは、かかる意識の場所という如きものでなければならない」とありますね。「真の無の場所」が「意識の場所」に言い換えられています。そうして「私は前に」と来ます。この「前に」が正確にどこかは分かりません。西田自身も記憶に基づいて書いているだけのような気がします。現在の論文の書き方からすれば不親切でしょうね。それはともかく「認識主観に種々の階段があると云ったのは、之によって明にすることができる」とありますが、「之」とは「真の無の場所」が「意識の場所」であることを指していると考えられます。ではどのような階段があるのでしょうか?次を読んで見ましょう。

A:はい。

―まず①「カントの認識主観」が来ます。それが「尚限定せられた場所に過ぎない」とされます。これは「単に限定せられた場所」ということで、「対立的無の場所」、「意識一般」のことです。それが「真の無の場所に入るに従って、②意志の世界、③直覚の世界が見られるのである」とされます。③は「真の無の場所」において見られます。それで「意志の世界と直覚の世界との区別については、我々が直覚的と考えるものは、最終の無の場所たる真の無の場所に於てあるのである」と言われます。ここまでは?

A:ついていけてます。

―次いで「意志は尚全然カントの意識一般の立場との関係を脱却しない」とあります。「意志」の立場で念頭に置かれているのはフィヒテの事行です。もちろんカントの意識一般は認識主観について言われるものです。その「私は考える」という地に当たるものを知的に直観することによって、それを意志によって実現(自己定立)するわけですから、ここには超越があるのですが、どちらも認識主観と対象、意志と目的といった主客の対立が支配する「対立的無の場所」であることに変わりはありません。フィヒテの意志の立場がカントの「意識一般の立場との関係を脱却しない」と言われているのはそういう意味だと思います。そうして「意識一般の立場と真の無の場所との間には、種々の階段を考えることができる、種々なる無の場所があるのである」とされます。この「間」とは?

A:意志の立場だと思います。

―ですが、意志も意識一般の立場を脱却しない、ということですから、認識主観の立場と意志の立場の両方から考えた方がいいと思います。まずa「合目的的世界」が来ます。生物の世界ですね。ここにはすでに目的あるいは意志の如きものが観察されます。これをあたかもそのようなものがある「かのように」認識するのが認識主観の立場です。b「心理学的対象界」、人間の心ですね。これもあくまで科学的・認識対象的には「心・意志があるかの如くに」認識する、ということになります。さらにc「歴史的世界」が来ます。bでは主観的な心・意志が対象となりましたが、今度は客観的に現われた人間の心・意志が対象となります。こうした「認識主観」の深まりを西田は「漸次に所謂意識一般の立場を包んで」と表現しています。何が包むかと云えば「無の場所」です。一面でどこまでも「意識一般」(私は考える)という認識主観を離れませんが、それが他面からすると、意識がその中に自らの意志を直覚して行く過程と見られているのです。すなわち意志が次第に、生物的意志、主観的意志、客観的意志というように見られ、最後に「自由意志の世界に至る」とされます。道徳の世界ですね。しかしこうした「意志」も作用として見られている限り、「対立的無の場所」を脱しません。どこまでも目的は実現できない、ということになります。そこで「遂に自由意志の世界をも超越した時、全然意識一般の立場を脱却して真に直覚の世界に入る」とされます。この「脱却」には「宗教的覚悟」が不可欠となるでしょう。そうして最後に「此の場所に於てあるものは、全く知識の意味を失って」とあります。この「知識」とは「判断的知識」の意味ですが、これには意志の世界も含まれるでしょう。作用としての意志にも目的がある以上意志的な「判断」(282,1)があるからです。そこで「この場所」つまり「真の無の場所」に於てあるものは、「全く知識の意味を失って」しまいますが、しかしそれが「意識一般の対象界」、つまり「認識主観」の対象、意志の対象ですね。そこに於ては「唯〔真に直覚の世界の〕表現として見られるまでである」とされます。つまり我々が目前の机を見る場合、これを認識対象として見る場合(「これは机だ」、など)でも、意志の対象として見る場合(「机で勉強しよう」、など)でも実は「真に直覚の世界」(「真の無の場所」)に於てあるものが、「対立的無の場所」に映されてその「表現」となっている、ということです。この場所はどこまでも対立を含みますから、この表現もどこまでいっても汲み尽くされるということはありません。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第95回):ヂ

真に直接なる心

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落316頁2行目「右の如く」から317頁2行目「考えられるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはZさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある」(316頁15行目?317頁1行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「超越について」というタイトルで、「「個物」や「無の場所」は、それぞれ主語面と述語面の一般性を超越したものであると言われている。また、「知的自覚」「意志的自覚」「自己自身を見るもの(直観)」の間にも超越が起こっているとご説明頂いた。ところで我々は普段、判断的な知識の領域、知的自覚の領域にどこまでもとどまっているように思われる。西田の言うように真の無の場所において個物(真の自己)を直観する場に立つためには、判断の次元を破って超越的なものを志向する意識が生じる必要があるのでは思われるが、そうだとすればそれはどのようにして可能なのか」(248字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―超越はいかにして可能か、ということですね。
Z:そうです。
―出発点は「包摂判断」ですね。例えば「犬は動物である」というような判断です。ここから始める。一面において我々はここから出ることはできません。包摂判断は「有るもの」が「有の場所」に於てある、という在り方をしています。しかしこの判断にはつねに「私は考える」ということが伴います。「私は『犬は動物である』と考える」というようにです。「犬な動物である」が図であるのに対し、「私は考える」は地です。この地は決して認識対象になりません。認識対象にしたら図になってしまい、そこにさらに「私は『私は…と考える』と考える」というように、地ができてしまうからです。ですからこの「私は考える」そのもの(自我自体)はどこまで行っても認識できません。ゆえに我々は判断の立場を決して出ることはできない、と言えます。しかしこの「できない」ということを通じて立場の転換(超越)が起こります。「私は『犬は動物である』と考えている」というのは、実は私(自我)が私自身(自我自体)を直観していて、それを意志によって定立したものだと考えるのです(完全なる英国の地図を描くことを思い浮かべてください)。これは一種の自己実現ですが、その場合にも、「私は『私は…と考える』と意志する」という仕方で、意志的な自覚が地として背後に回り、この意志そのもの(自己自身)はどこまで行っても実現されません。意志(自己定立)作用が意識されている間は実現できないということで、意志しなければよいのですが、「意志しないぞ!」としても、この「意志しない」ということも意志になってしまい、どこまで行っても意志の立場を出ることができません。しかしこの「できない」ということを通じてまたしても立場の転換(超越)が起ることになります。これが「自己そのもの(自我自体)」の直観です。「状態としての意志」の直観と言ってもいい。場所としては、判断における「有の場所」が、知的自覚および意志的自覚における「対立的無の場所」(そこではどこまでも対立が残りますので、その立場からの超越は不可能です)を経て、「真の無の場所」にまで深まり、そこに於てあるものが「自己自身を見るもの」です。つまり如何に可能か、という問いに対しては、超越というのはそもそもこちら側からは不可能だ、と答えられます。それは常に目覚めによって気づかされるという形を取ります。ただ、人間は自力で目覚めることができないように、そこには、後から振り返るならば絶対的な他者のようなものによって目覚めさせられた、という外ないような経験が不可欠ですが、この時期の西田にはこの他者性の契機が欠落しているように思われるのです。少し長くなりましたが、以上が「超越」に関する前置きです。ところでZさんのプロトコルで気になった点があります。「我々は普段、判断的な知識の領域、知的自覚の領域にどこまでもとどまっている」とありますが、むしろ私は大抵習慣の中に埋没していて、ぼーっと生きているものですから、鍵をどこに置いたか、よく分からなくなります。我々はむしろ普段判断的な知識以前の所を生きているのではないでしょうか?
S:私も「私は考える」ということの方が異常だと思います。動物はそんなことをせずに知覚に直結しているように見えますから。「私は考える」ということが動物にとっては超越になりますが、人間にとっての超越の方向性は、動物のように考えないところに戻ることを言うのか、それとは違う所への超越なのかが気になります。
―完全なボケ状態になるのか、悟りのように覚が残るのか、ということですね。中島敦の『名人伝』を思い出します。完全なボケ状態になれば、人間的な苦悩はなくなると思いますが。
M:完全になれば、周りは大変ですが苦悩はなくなると思います。ですがそれまでが大変なようです。ときどき我に返って自分が人間でなくなっていくような感じがして。
―虎になる、ですか?今度は『山月記』ですね。
Z:それでも人間は判断的な知識の領域で生きているように思います。人間が生きているのは言語的に分節された世界で、それを踏まえることで初めて人間と言えるからです。我々は絶えず、例えば目の前のものを机と見なしながら生きているわけですが、そのように社会的に形成された思考方法に従って生きていると思うのですが。
S:最初は意識して判断したものでも、習慣化すれば意識しなくなるのでは?
―自宅に帰る時でも、最初はここで右に曲がって、などとそのつど意識して判断しますが、習慣化すれば、酔っぱらって意識がなくなっても、気がついたら家についていますね。習慣に埋没している状態は、判断がないという点では動物と変わりがない。しかしそこから何故か人間には動物にはない判断ということが起る。人間も赤子の時には判断ということがない。そこから自我に目覚め、判断が起る。朝起きた時にも、ぼーっとしたり集中したりした在り方からはっと気がつく時にも、目覚めが起る。この目覚め自体が超越ですが、逆にこうして生じた判断(世界を外から見る在り方)という状態から、意志(世界の中で行為する)場合にも超越が考えられますし、さらに意志から直観に到るにも超越がなければなりません。
M:超越は分からない。言葉以前はあると思っていましたし、それを求めて同じところをグルグル回っている感じです。「それよ、それ」と言われて、「それ」が何かわかった気になっても、分かった気になっているだけです。
W:直観のところは「自己自身を見るもの」とありますから、知的自覚にしても、意志的自覚にしても自己自身を見ることができていない、ということになります。
K:如何にして超越は可能かという問いに、私はまず「座禅」ということを思いついたのですが、私自身はそれは無理だと諦めました。
―たしかに、超越を求めたり、自己自身を見ることを目的にしたりしていたら、超越は起りそうもありませんね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(317頁3行目~5行目)
―「判断的知識の成立するには、いつでも、その根柢に何等かの意味に於ける一般者がなければならぬ」と、まず一般的に述べられます。最初は「或限定せられた一般者」〈有の場所〉としての「一般者」について述べられます。それが「純粋に思惟による知識」、つまり数や図形に関する知識です。例えば幾何学の場合は、「空間」が「限定せられたる一般者」だとされます。そこから公理や定義、定理といった「知識」が導き出されます。それゆえ「空間」は「幾何学」という「学問のアプリオリ」とされます。次をBさん、お願いします。
B:読む(317頁5行目~318頁2行目)
―今度は「所謂経験界の知識」が問題とされます。それは「意識一般の立場によって成立する」とされます。「意識一般の立場」とは「単に限定せられた場所」、つまり〈対立的無の場所〉のことです。経験的知識を構成する一つとして「時」が考えられますが、この「時」は(経験界を構成する場合の空間もそうですが)幾何学における「空間」のように「限定せられたる一般者」ではありません。「時は単に直線的なものではない」とありますが、こうした「単に直線的な」時が形式的な時間(幾何学の「空間」に対応するもの)です。しかし西田は「アウグスチヌスが過去も未来も現在に於てあると云った如く、〔こうした〕時の背後にも一般者がなければならぬ」と続けます。ところでアウグスティヌスのいう所の現在における過去とは記憶、未来とは期待のことです。そうすると、「〔こうした単に直線的な〕時の背後」の「一般者」とはアウグスティヌスのいう所の「現在」のことだと解釈されます。ここまでよろしいでしょうか?
B:大丈夫です。
―こうしたアウグスティヌスのいう所の「現在」は、幾何学における「空間」のようにそ「積極的に考えられるもの」、つまり〈有の場所〉ではなく、そこから過去と現在と未来とが分れるところの、それ自身は過去とも現在とも未来とも言えない「現在」、その意味で、これと言って積極的に考えられない、「消極的に考え得る一般者」だとされます。こちらは先の形式的な時間に対して、〈内容ある時〉と言えるかもしれません。そうして「我々の知識はいつでも現在より出立する外はない」とされます。ここまでで何か質問はありますか?
B:特にありません。
―続けて「かかる場合、特殊が一般を含むと云ってよい」とあります。この「一般」は過去現在未来というように直線的に考えられた時間ですね。そうした一般に対しては「現在」は特殊ですが、そうした特殊としての「現在」がアウグスティヌスのいう所の「現在」(一般者)として、「一般」(直線的な時間)を含む。「一般者」のすぐあとに「一般」と出て来てややこしいですが、そう解釈する外ないでしょう。そうしてこの「現在」が「コーヘンの生産点」に擬えられます。コーエンは、思惟を生産的と考え、思惟の内容も与えられたものではなく、解決されるべく思惟によって要求されたものと考えます。「生産点」とはそうした思惟の生産活動の出発点となるもののことを言うのだと考えられます。こうした「現在」はこれと言う仕方で限定できない「消極的」なものですが、「限定せられ得る一般者」として、そこから限定がなされ、そこに於てあるものが「判断的知識」と考えられるようになります。ここまでは?
B:何とかついていけています。
―「併し」と来て、「かかる否定的一般者」とありますが、この「否定的」は「消極的」と同義で、ともに「negativ」の訳語です。つまり〈対立的無の場所〉のことです。それ「をも超越した時、真に判断的知識を超越したと云うことができる、之以上は〔状態としての〕意志とか直観とかいう所謂超概念的知識の世界に入るのである」とありますが、〈真の無の場所〉における話です。それでは次をCさん、お願いします。
C:読む(318頁2行目~8行目)
―「一般と特殊との関係から云えば、特殊的方向を何處までも推し進めて行き、時の如きものに於ても、既に特殊が一般を含むと云い得るが」とありますが、これはアウグスティヌスのいう所の「現在」が過去現在未来といった「一般」を含むということですね。そうして「その一般者は尚否定的に限定し得るものであるから」とあるのは、そうした「現在」(一般者)が〈対立的無の場所〉だということです。対立が残っているから、そこではどこまでも限定が可能ということになります。そうして「更に之をも越えた時」、つまり〈真の無の場所〉の話ですね。そうなると「真に特殊が一般を内に包むと言うことができる」ことになります。「真に一般を内に包んだ特殊」ということで西田が何を言おうとしているのか、はっきりしませんが、〈絶対現在〉、とか〈永遠の今〉を考えることができると思います。そうして「即ち如何なる意味に於てでも、苟も概念的に限定し得る一般者ならば、之を内に包むと云うことができる、意志は自己の中に自己の否定を包むものである」とありますが、主語は「真に一般を内に包んだ特殊」ですから、それが「意志」に引き継がれていることが分かります。〈絶対現在〉とか〈永遠の今〉という「現在」としての「意志」が〈対立的無の場所〉を包み、そうした一般者を限定することで、自分自身を〈有の場所〉へと、否定的に自己限定するさまが言われていると思われます。「木の葉が赤くなる」といった時間を含む経験的な判断も、こうした意志が、意識一般を含み、そうした意識一般(私は考える)を限定することを通じて、そうした判断にまで自己限定している、ということでしょう。ここまで、いかがですか?
C:難しいですが、何とかついていけています。
―「併し」と来ます。「かくの如き限定的一般者を越えて之を内に包むと云うべきものであっても」とあります。「かくの如き限定的一般者」とは「概念的に限定し得る一般者」つまり〈対立的無の場所〉のことです。それをも内に包むものは、先に「真に一般を包む特殊」とか「意志」とか言われたものです。そうしたものであっても、「尚我々は之を意識に於てあると云うことができる」とあります。この「意識」は〈真の無の場所〉ですね。そうして「何となれば、我々の意識というのは、上に云った如く述語となって主語とならない超越的述語面という如きものを意味するからである」と来ます。まさに「意識」が〈真の無の場所〉だから、というわけです。次をDさん、お願いします。
D:読む(318頁8行目~319頁1行目)
―「我々の概念的知識が特殊化せられて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んで行く」。動物が犬になる(特殊化される)ことで、逆に犬が動物を包む、ということです。「最後に如何なる意味に於ても苟も概念的に限定し得られる一般的なるものが全然内に包まれても」とあるのは、〈対立的無の場所〉をみずからのうちに包む者、つまり「真に一般を包む現在」(絶対現在)とか、「意志」とか言われたものです。
D:犬からどうしてそういうことになるのですか?
―ちょっと考えて見ましょう。犬はさらに「秋田犬」、さらには「この犬」にまで特殊化されますね。そうしてさらに「今のこの犬」の在り方にまで特殊化されます。そうした知識(判断)には常に「私は考える」ということが伴います。そうしてその根底には「私は意志する」といった意志が控えています。そうすると「今のこの犬」に関する判断は究極の所、絶対現在における意志の自己限定と考えることができると思います。いかがでしょうか?
D:理解できました。
―さて、こうして真の特殊である「意志」についても、「尚判断の主語述語の関係から真に無の場所というものが考えられる、即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである」とされます。
D:「心」というの言葉は西田には珍しいですね。
―そうですね。「真の無の場所」のことを「心」と呼んでいるのは確かに珍しい。「対立的無の場所」としてのアウグスティヌス的「現在」を越えて、さらにこうした一般者(「対立的無の場所」)を真に包む特殊として、絶対現在とか、意志というものを考えているのですが、こうした「意志」に「真の無の場所」としての「真に思慮分別を絶した、真に直接なる心」が残る、というのです。そうしてそこから主語述語の関係としての判断が成立すると考えられています。しかしもう一歩進んで、「真の無の場所」をも包んだ「特殊」というものも考えられますね。そうなると、映すということない、したがってもはやそこから判断は出て来ない。もう「心」も残っていない、ということになりそうです。
D:完全なボケ状態ですね。
―そういうことになりますが、ここではそこまで言われていません。そうして「真に無の場所」とか「心」といった「かかる場所に於てあるものが真に直覚的なるものである、自己自身を見るものである」とされます。そこから今度は判断的知識の成立を説きます。「かかる無の場所というものが、何らかの意味にて一般概念的に限定せられる限り、一種の意識面が限定せられ、之に於て概念的知識の世界が成り立つのである。判断的知識と直覚とは、此の如く場所の関係に於て連結して居る、後者は真の無の場所、即ち場所其者であって、前者はその限定せられたものである」とされます。真の無の場所の自己限定が意志の自己限定になります。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第94回):ヂ

知的自覚、意志的自覚、自分自身を見るもの

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落313頁15行目「是に於て私は」から314頁1行目「ものでなければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「右の如き考から、判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てあると云うこととなる、而して述語となって主語とならない超越的場所の立場からして、それは知るといふこととなる、之が知るといふことの根本義である」(315頁8行目〜10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、判断とは「特殊なるものが一般なる場所に於てある」とし、「超越的場所の立場」からみれば、それは「知る」ということだという。さらに西田によれば、「真の認識主観」は、「超越的場所」あるいは「すべてを包むもの」というようなものでなければならない。しかし、超越的場所の立場から「知る」ということを考えるとき、知っている気になっているだけではないか、という問いにはどのように応答しうるのか。「知る」ということにおいて、超越的場所と個物はどのように接しているのか」(228字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回は特に身体を通して出てきた言葉が中心となっており、その一つ一つが味わい深いものでしたので、いつもに増して十分にお伝えすることができていないことをお断りしておきたいと思います。:ヂ

―何か補足はありますか?

W:問いは二つあって、一つ目は個物という捉えられないものを、捉えられないままに捉えるとはどういうことか、ということ、二つ目は超越的場所と個物がどのように接しているのかということで、以前出てきた「単に映す鏡」ということを念頭に置きながら質問しました。

―二番目の問いは「超越的場所と個物の接し方」という意味では「単に映す鏡」という仕方ですでに答えが出ていますが、この「単に」というところが問題ですね。それがどういう意味なのか、そんなことが可能なのか。最初の問いも「知る」とは「捉えられないものを捉えられないままに捉えること」ということで、同じことを問おうとしていると思いますが、これもそんなことが可能か、ということも含めての問いだと思います。皆さん、どうですか?

S:どこまでも「知っている気になっているだけ」だと思います。

A:私は6歳からバレエをやっていて、ピルレットは「体得」したって感じで、やり方を知っているけれど、知っている気になっているだけで教えられないのです。

―そういうものは一面において人間にはたくさんありますね。生きるとか、知るとか。すでにしているけれど、それが何であるか、それをどうやっているのか分からない(言葉で説明できない)。今のはダンスを専門にされている方のご発言でしたが、常磐津の名取をされているKさん、何かありますか?

K:「捉えられないものを、捉えられないままに捉える」ということで言えば、弟子入りというのがそうした体験だと思います。弟子は師匠という絶対的なものに直面して、無限の広がりの中に突き落とされる。そこはもはや言語化や理解が不可能な境地です。

S:それでも日々の精進の中で、どこかで「できた」という瞬間はありますか?

K:それはあります。レヴェルが上がったといった感じですね。しかしそれがまた慢心につながる。その意味では日々、ダメです。積み重ねというものができない。理解をたえず壊されてしまう。

―その場合「知る」とはどういうことになりますか?

K:言語にするということではなさそうです。

―そうした「言語化できないもの」が「在る」と言ってよいですか?あるいはこれが「知る」ということの根本義だと言ってよいですか?

K:例えばそれを「純粋経験」と呼んでもいいですが、それですべてが言い表わされているとは言えないと思います。ただ言語化できたら、その段階はクリアできたとは言えると思います。

R:その言語化ですが、それは自分の語りが止まった時に、根本から語るということがある、と思います。こちらからは「捉えられない」ということだけが語りうる、それが「場所において知る」ということだと思います。

K:例えば師匠が「力を抜きなさい」と言っても、格が違うから、弟子はその言葉の意味を真に捉えることができない。ただその言葉にならないところを「見て学ぶ」ということがあり、とても大事なことだとされています。

S:根本的な知と、通常の分かっている気になっているだけの知との、中間があるというのが不思議です。ここまではできた、というような。そこには方向のようなものがある気がします。

W:その場合でも、その「梯子」を外す、ということ、認識を崩すということが必要だと思います。ただ「方向」ということでそれを「真の認識」に結び付けると、そうした観念が邪魔になると思います。例えばそのつど体得した(ダンスの)「回り方」は西田の言う「一般概念」だと思います。そうした一般概念の「梯子」は外さなければなりません。

A:ただ踊る、にはこうやると、というのがない。このことは子どもの頃については特に言えると思います。ただ大学生に教えるときには言葉で教える方がうまくいくことが多いです。ただその場合、回ってはいるけれど綺麗でない。その側面から考えると、「知る」とは修行の側面を言い表していると思います。

―私が昔習った剣道の先生はよく「意識したものしか無意識にできるようにならない」とおっしゃっていましたが、いまの「知」はそうした側面だと思います。習慣化(修練)の方向です。

J:無になるレヴェルは人によっても、同一人物の段階によっても違うと思います。私は泳げなかったのですが、ある時浮かぶことができて、そうすると、溺れるかもしれないという怖さがなくなって(無)、泳ぐということのコツをつかんだ気がします。

―こうした「知」は西田が『善の研究』で「知的直観」と呼んだものですが、その究極的なところ、今回のプロトコルでは「個物」といったどこまでも「捉えられないもの」、これは最終的な知的直観によって、捉えることができるのでしょうか?

R:こちら側からは捉えられない、というところで、個物がただ立ち上がってくるということがあると思います。

―そうした言説がすでに、こちら側から捉える、という捉え方に対する捉え方として、すでにこちら側から一般概念化してしまっているように思われます。もちろん、それをも破るということがおっしゃりたいのでしょうけれども。プロトコルはこの位にして、今日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(316頁2行目~8行目)

―まず「右の如く包摂判断の述語面が述語となって主語とならないと考えられた時、それが私の所謂場所として意識面であり、之に於てあることが知るということである云うのが、私が「場所」の論文に於て到達した最後の考である」と簡潔に述べられています。初めての方がいらっしゃいますので、少し説明しておきます。包摂判断とは、例えば「犬は動物である」というものです。この場合「犬」が「主語」、「動物」が「述語」です。「主語」は「特殊」で、「述語」は「一般」です。そうして述語(一般)が主語(特殊)を包むので、包摂判断です。ここまではいいですか?

A:大丈夫です。

―ところが主語の方向はさらに、「秋田犬」というように限定できます。とはいえそれはあくまで「一般概念」です。しかしそれをどこまでも限定していくと、最後にどこまでも限定できない、という仕方で「個物」が立ち現れます。ここには「一般概念」としての「特殊」を越えるといった、超越があります。そうしてこの「個物」が「主語となって述語とならないもの」と言われます。例えば佐野之人はつねに主語になります。しかし決して述語の側には来ません。「これは佐野之人です」というのは包摂判断ではありません。ここまでで質問はありますか?

A:特にありません。

―逆に、述語の「動物」というのをさらに一般化して行きます。そうすると例えば「生物」になります。しかしこれもすでに限定された特殊な「一般」です。こうした限定を一切なくしてしまえば、もはや何とも言えないものになってしまいますが、これが「(無の)場所」であり、「意識(面)」だと西田は言います。ここにも超越があります。そうしてこの「無の場所」に「個物」が於てあることになります。ここまで大丈夫ですか?

A:はい。

―これまで、西田は「場所」に「有の場所」、「対立的無の場所」、「真の無の場所」の三つを区別しています。「有の場所」とは先程の、超越以前の包摂判断における述語です。「犬は動物である」の「動物」がそれにあたります。これに対して「対立的無の場所」とは、「個物」に対立する、と考えられた限りでの「無の場所」です。これに対して、こうした「個物」を包み、そうした「個物」がおいてある「場所」が「真の無の場所」です。ここまでは?

A:大丈夫です。

―通常、特殊と一般は対立概念と考えられますが、このように特殊と対立する一般は真の一般ではない、真の一般は特殊を含む一般でなければならない、と考え、特殊に対立する抽象的な一般に対して、特殊を含む一般を西田は「具体的一般者」と呼びました。先の例で言えば「犬」をみずからのうちに包む「動物」が「具体的一般者」です。この関係がさらに超越的述語である「真の無の場所」にも言えて、こうした超越的述語は超越的主語である「個物」を包むと考えられます。そうしてこちらの方が根源的だと西田は考え、「場所に於てある」とか「知る」ということの根本義をここに認めます。これまでのところで何か質問はありますか?

A:何とか分かりました。

―次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(316頁4行~8行目)

―「種々なる知るということの意義及びそれぞれの対象界は、此の場所の意義によって定まって来るのである」と一般的に述べられます。そうしてまず二側面に分けて述べられます。「場所が何等かの意味に於て判断の述語として限定せられ得るかぎり、即ち一般的なるものが限定せられるかぎり」とは、先程の分類でいえば「有の場所」のことです。通常の包摂判断が成り立つ場合です。その場合には「我々の意識面に於て判断的知識即ち所謂知識が成り立つことができる」ということになります。そうして「之を越えれば直観の世界に入る、私の真の無の場所というのはかかるものを意味するに外ならない」と述べられます。ここでは「知る」ということの意義が、「有の場所」と「真の無の場所」という二つの場所の意義に従って、「所謂知識」と「直観」とに分けて説明されています。ここまでで何か質問はありますか?

B:大丈夫です。

―それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C:読む(316頁8行目~317頁2行目)

―強烈に難しいですね。西田の良くないところは読者のことを考えないことだと思います。『善の研究』ではそうではありませんでしたが。とにかく頑張って解釈して見ましょう。西田はここで先程二つにまずは分けて考えたものを三つに分けようとしています。通常の判断、例えば「犬は動物である」という判断の場合でも、そこには「私は『犬は動物である』と考える」というように、「私は考える」という自覚が伴います。もちろんそうした「知的自覚」は判断をしている時には意識されません。「犬は動物である」という判断内容は「図」に当たり、「私は考える」は「地」に当たります。しかしこの「私は考える」という「知的自覚」が対象化され、「判断の主語として考えられる場合」、つまり地が図になって、「或限定せられた述語的一般者」つまり「有の場所」に於てあると考えられることによって、「知的自覚」は(知的ないし判断)「作用」になるというのです。もちろん「『働くもの』において論じ」られた「作用という考」は力の作用をも含んでおり、判断作用に限りませんが、ここで念頭に置かれているのは知的作用ないし判断作用です。ここまで大丈夫ですか?

C:はい。

―「更に」と来て、「それが」とあります。この「それ」とは「主語」となった「或限定せられた述語的一般者」、つまり「(知的ないし判断)作用」のことですね。これが「述語となって主語とならない」、つまり決して対象化できないと「考えられた時、即ち単に限定せられた場所と考えられた時、それが意識面となる」とあります。この「単に限定せられた場所」は先程の「或限定せられた場所」との対ですね。後者は「有の場所」で、前者が「対立的無の場所」です。「単に」とあるのは、「何か」によって限定されてはいないけれども、「個物」と対立している、という意味で限定されている、という意味だと考えられます。先程「作用」として対象的に考えられたものが決して対象化できないものとして考えられた場合に「意識面」となる、ということです。(まあ、すでに「考えられた」ものになってしまっているということはありますが、西田はそのことはあまり問題にしないようです)。つまり、「意識面」とは「対立的無の場所」のことです。ここまではいかがですか?

C:大丈夫です。

―次いで「故に意識面は、常に作用を包んだものである、具体的一般者を包む反省的一般者が意識面である」とあります。「作用」が「具体的一般者」に換言されていると考えられますね。意識(知的・判断)作用が内容としての主語的なものを形式によって統一するものとして、主語的なものを含むために、「具体的一般者」と呼ばれていると考えらます。ところでこうした「作用」としての「具体的一般者」を「意識面」が完全に包んでしまえば、「意識面」はすでに「対立的無の場所」ではなく、「具体的一般者」だということになりますが、ここでは単に「対立的無の場所」に過ぎない「意識面」が、どこまでも作用を包んで行くべきもの、本来の「真の無の場所」に進み行くべきものであることが言われていると考えられます。明らかに言葉足らずなのですが、ここで西田は「知的自覚」から「意志的自覚」への移行を考えているようです。知的自覚を対象化して、知的作用とし、そうした作用をも包む知的自覚を、意志的自覚と考えているようです(例の英国にいて、その地図を描いている自分をも描くような完全なる地図を描く、ということを思い出してください)。つまりカントの「意識一般」(知的自覚)からフィヒテの「事行」(意志的自覚)までの奥行きを有するものをここで「意識面」と呼んでいるようです。そうして次に「意志『作用』」が問題となります。ここまでいかがですか?

C:何とかついていけています。

―今度はそうした「知的自覚」の根柢にある「意志的自覚」が対象化されて、「意志作用」となります。それは「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所に於て、かかる場所をも越えた真の無の場所に於てあるものを見たものである」とあります。難しいですね。まず「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所」とは「対立的無の場所」のことだと考えられます。それも「最後の」とあることに注意しなければなりません。これを越えたら知識ではなくなる、そうした「対立的無の場所」だということです。意志的自覚の立場は無限に自らを対象化して意識作用とし、その根底にさらに意志的自覚を見るものです。この過程は無限進行となります。それを(どのようにしてかは書かれてありませんが)超越したところに「真の無の場所」があり、そこに「主客合一者、即ち自己自身を見るもの」があると言うのです。これはまさに「直覚(直観)」ですね。見られた「意志作用」でなく、意志そのもの、以前の言葉で言えば「状態としての意志」です。そうしたものが「カントの意識一般の対象界という如きものに映されたものが意志である」とありますが、「カントの意識一般の対象界という如きもの」とは「対立的無の場所」のことです。そうしてそこに映されたものとしての「意志」とあるのも、「意志作用」のことです。ここまでで質問はありますか?

C:何とかついていけています。

―そうして「故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある」と来ます。西田はこれが言いたかったのです。「底」とか「奥」とか言われていますが、そのつどそこには超越(転換)があります。まず対象を客観的にどこまでも見、判断・限定しようとする知的な立場あります。しかしこうしたやり方ではどこまで行っても対象を限定することはできない。ここで超越が起って、こうした無限進行のうちに、この対象を価値的な対象(真・善・美)と考え、これを実現するという意志的な立場が出て来ます。ですがこうした実現も無限進行になります。こうしてここでも超越(転換)が起り、「真の無の場所」に於て「個物」(真の自己=状態としての意志をも含めて)を見る「直観」が成立することになります。ここまではどうですか?

C:続けてください。後で考えてみます。

―はい。テキストでは最後に「論理的に云えば、全然意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そうした立場を「越えたもの」、「即ち自己自身を見るもの」(「直観」のことです)、それが、「意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そこに於て「述語を有つ時」、「意志というものが考えられるのである」とされます。この「意志」も「意志作用」のことです。今日はここまでとしましょう。お疲れさまでした。

ヂ:(第93回):ヂ