共に哲学する

無限の対立――超越的主語と超越的述語

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落351頁10行目冒頭から、同段落352頁11行目「斯く云い得るのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯我々が主語となって述語とならない個物を考へるといふことが同時に述語面が広がるといふことであって、之によって述語面が限定せられるのである」(352, 5-6)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「『善の研究』では差別的な知識による判断の領域と主客未分の領域とを区別し、その間に何等かの超越を認めつつ、両者の関係を認める考えが述べられていたが、「知るもの」にある「一般概念」「個物」「具体的一般者」「限定」との関係はこの時点でどのように整理されるか」(125字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―『善の研究』をお持ちですか?第1編第2章第7段落(岩波文庫改版37頁~)をご覧ください。そこには「具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは…具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといって居る。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は連想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いて居る。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前に云った様にその統一自身は無意識である。…純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことは、かえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。…個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である。個体の中にありてこれを発展せしむる力である、例えば趣旨の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、…それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なって居るのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。…真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、…深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的と云いうるであろう」とあります。これを参照しながら、もう一度プロトコルの「問い」を読んでみて下さい。

Y:Sさんは、抽象的一般者(判断)の領域と具体的一般者の領域を異なるものとお考えですか?

S:押し詰めて考えると繋がるけれども、そこには超越があると思います。

T:どこまでも矛盾と統一を繰り返す根本にある統一力が具体的一般者だとすれば、超越という言葉がしっくりきます。

―ですが、純粋経験の場合は、その統一力が最後に個体となって姿を現わしますね。種子が苗になった時に、初めて苗(形相)がその植物の成長を促していたことが分かるように。もう一つ言えることは、一方で統一と矛盾を繰り返しながら実在がどこまでも無限に活動することを説きながら、他方で最大最深の統一、つまり極致というものを考えていて、その直覚が宗教的覚悟(直観)であるとしている点です。その意味ではここでも最大最深の統一力が姿を現わしています。どこまでも「超越」というわけでもなさそうです。

W:存在と認識を分けて考えると、『善の研究』の方では存在が、「知るもの」の方では認識の側面が勝っているように感じられます。「知るもの」では絶えず「包摂判断」から始めているのに対し、『善の研究』のこの箇所ではつねに「純粋経験」から語られています。

―たしかに。ですが『善の研究』でも、まず「疑うにも疑いようのないもの」というのが考えられて、それが「純粋経験」とされています。認識論を出発点としていることは共通していますが、出発点となっているのが、「純粋経験」と「包摂判断」という違いがあります。それが存在から語る『善の研究』、認識から語る「知るもの」という印象の違いに結び付くのでしょう。とは言え、「知るもの」でも、目下読んでいる箇所で、「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば」とあるように、「潜在的」という言葉を使って「具体的一般者」の方から考えようとしているのが垣間見られますね。『善の研究』で西田がヘーゲルの「具体的一般」を念頭に置いていたことは明らかですが、「知るもの」におけるそれとはずいぶんと趣が異なります。純粋経験は弁証法的に体系的な発展をしますが、「知るもの」における「具体的一般者」にはそうした面があまり見られません。

R:『善の研究』の頃の西田は実在の根柢を「統一作用」とか「統一力」で押さえていますが、「知るもの」では矛盾ということが出て来ていると思います。

―たしかに「知るもの」では「作用」はすでに「知られたもの」であって「知るもの」ではない、というのが基本的立場ですが、『善の研究』で「統一作用」と言われていたものがたんに「知られたもの」を意味するとは言えないと思います。また、『善の研究』でも「統一」とともに「相互の対立むしろ矛盾ということが必要である」(第2巻第5章第3段落)とも述べられていました。これらをどう考えたらよいでしょうか。『善の研究』との比較はとても難しい。『善の研究』はそれ以後の西田のすべての思想を、本人の自覚とは別に、すべて胚胎しているところがあります。初めからすべて自覚していたとはとても言えませんが、単純に未熟で済ますこともできない。そこが難しい。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(352頁11行目~353頁2行目)

―「例えば色の抽象的概念」、例えば「赤一般」ですね、それを「そこまで広げて行けば」とありますが、「そこまで」とはどこまでですか?

A:「抽象的一般から具体的一般に移り行く」までだと思います。

―そうですね。そうすると、「赤一般」も「具体的一般者になると考えることができる」、つまり「この赤」、個色になるということですね。次に行きます。「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば」、つまり「特殊」が「個物」(この赤)に達する場合ですね。そうすると、「その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ」、「この赤」を含む「色自体」の体系が見られる、ということですね。

A:「色自身の体系」とはどういうことですか?

―客観的な実在が有する体系のことだと思います。

N:あとで「色自体」とも言い換えられていますが、カントの物自体を念頭に置いていると考えてもよいですか?

―西田はたぶん、物自体を念頭に置きながら述べていると思います。それが「色」について言われているので「色自体」というように述べたと思います。もちろん「この赤」が顕わになっているときには、それが「赤」である、「色」である、というような括り方はしていないと思いますので、仮にそう(「色自体」と)言ったまでだと思います。次に参りましょう。「之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」とありますね。「超越的述語面」においてそれが限定されたものとして、「抽象的概念」、この場合は「赤一般」を始めとする様々な概念の体系のことですね。先の「色自身の体系」が所謂客観的な体系であるのに対し、こちらは所謂主観的な体系です。ここまで、何か分からないところはありますか?

A:大丈夫です。

―次に参りましょう。「それで具体的一般者に於ては、その主語的方向と述語的方向とが相対立する両方面に於て、一方にそれ自身に同一なるもの」・・・。

A:ちょっと待ってください。「それ自身に同一なるもの」とは何のことですか?

―AはAである、としか言えないもの、例えば「富士山は富士山である」、という叫びしかないもののことです。これを「富士山は山である」というように捉えるとあたりまえの山に成り下がってしまう、そういう捉え方のことです。

A:分かりました。

―続けます。「一方にそれ自身に同一なるもの、いわゆる直覚的なものが見られ、一方に抽象的一般なる者が見られるのである」とありますね。これも同じことで、一方に「この赤」などから成る実在の体系があり、他方に「赤一般」などから成る主観的な抽象的一般〔概念〕の体系がある、ということです。次をBさん、お願いします。

B:読む(353頁2行目~354頁1行目)

―「抽象的一般概念とは此の如き意味に於て限定せられた超越的述語面と考えることができる」。「抽象的」とは他を捨象した、その意味で「限定された」ということですが、ここは?

B:大丈夫です。

―次へ参ります。「具体的一般者は判断的関係を含むものとして一方に超越的主語というものが考えられ一方に超越的述語というものが考えられ、両方向は無限の対立をなすと共に一つの統一体でなければならぬから、両方向の何れの方面に統一を求めるかによって、一つは主語面の方に於て一つは述語面の方に於て相対立する二つの統一面が考えられる」とあります。

B:二つの統一面があるというだけならば、両者は統一されていませんよね。

―そうですね。まずは主語面において「直覚」という形で「統一面」が見られ、これを述語面から包んで概念的知識にしようとする。つまり、主語面を基礎に述語面から包もうとしますが、数学的知識の場合(数学的知識は「一般概念(=抽象的一般者)」において成立します)ならいざ知らず、経験的知識の場合はどこまでも主語面を包むことができない。しかし三つの段階を経て、最後に逆転が起って主述が転換し、両面の統一が現れることになります。この事態を言い表すものとして、「推論式的一般者」が登場してきます。それはこれから読んでいくことになります。次に括弧がありますね。何と書いてありますか?

B:「(具体的一般者を推論式的一般者と考えれば大小両語面の対立となる)」とありますが、「大小両語面」とは何ですか?

―「推論式」で念頭に置かれているのは三段論法です。「人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論)という三つの命題のうち、結論の述語となるものが「大概念」ないし「大語」、小前提の主語となるものが「小概念」ないし「小語」、両者を媒介するものが「媒概念」ないし「媒語」です。今の例で言うとどうなりますか?

B:「大語」が「死ぬ」で、「小語」が「ソクラテス」で、「媒語」が「人間」です。

―そうですね。「大語」が最も広い概念となります。ここでは「大語」=「一般者」、「小語」=「個物」と考えてよいと思います。「主語面」を基礎にしてこれを述語面から包む、というのが、「媒語が大語と合し小語を包む」ということになり、これが「大語面的限定」と呼ばれることになります。これもこれから読んでいきます。とりあえず、目下のところは「二つの統一面」が「相対立」している、そうした状況です。次へ行きます。例が出て来ますね。「例えば「これは赤である」という如き判断は具体的一般者に於て成立する判断でなければならぬ」とされます。両面が統一されなければならない、ということです。その場合、「これは」は「限定することのできないもの」として「抽象的概念の外にある」とされます。「これ」つまり「この赤」(赤とも本当は言えないのでしょうが)はどこまでも限定できない。「これ」と叫ぶ以外ない。しかし「具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体」、「個物」ですね、そうしたものとして、「〔これが〕含まれねばならない」とされます。どうしても「概念的知識にならなければならない」ということですね。そうすると主語的方向に「色自体」という如きものが見られなければならない、ということになる。「色自体」とは先程は「色自身の体系」と呼ばれていたものですね。「この赤」を含む客観的な実在の体系のことです。これに対して、「之と共に述語的方向に於てその述語的なる者の統一としての色の一般概念という如き述語面が限定せられねばならぬ」とあります。超越的述語面(意識)が「色の一般概念」にまで限定されなければならない、そういうことです。次に「前に具体的一般者は内に自己同一なるもの即ち直覚的なる者を含むと云ったのは」とありますが、「前に」とはどこですか?

B:352頁15行目~353頁2行目だと思います。

―そうですね。その具体的一般者内の「自己同一なるもの」「直覚的なるもの」が「主語的方向に於ける統一面」を意味する、とされます。ここですでに直覚、自己同一という仕方で、「統一面」が成立している、ということです。しかしこれを「概念的知識」にもたらすためには、「之に対して述語面に於て一般概念が見られなければならない」ということになります。つまり「超越的述語面」が「抽象的概念」にまで限定されなければならないということです。そうして「我々の知識はいつも主語面に於てあるもの、即ち客観的なるものを基礎とする」が、「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである」とされます。たしかに「これは赤である」というのもすでに概念的知識ですが、もちろんこれでは十分な知識ではありません。今日はここまでとします。
ヂ:(第117回):ヂ

超越的述語面の限定

ヂ:前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第4段落350頁9行目から、同段落末351頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」(351, 10)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「かかる限定」とは、「具体的一般者」の「論理的限定」であり、「肯定的限定、否定的限定」及び「矛盾的統一」からなる。しかし、それらは「矛盾的統一」を含むとはいえ、「尚概念的限定」であり、「変ずるもの」のすべてを捉えているわけではない。従って、「変ずるもの」の「超越論的述語面」を「限定」するためには、「更に深い意味に於て」哲学的な論究が要請されるというのが、前掲文の本意と解するがいかがか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―哲学が思惟(Denken)の事柄だとして、哲学的な思惟が何であるか、という問い自体が哲学的な思惟になると思いますが、今日はそれがテーマになりそうですね。「問い」についてあらかじめお伺いしたいことがあります。「更に深い意味に於て変ずるもの」を限定するために、そもそも「論理的限定」、「概念的限定」を超えた哲学的な論究がここで要請されているのか、それともあくまで哲学とは「論理的限定」「概念的限定」であり、そうした哲学的な論究を深めていくことが要請されているのか、どちらでしょうか?

N:両方です。哲学は論理を超えて、あくまで論理です。非合理な生死を直視しながら、その矛盾を、あくまで論理によって料理して行く、知的な営みです。

Y:西田の場合、矛盾そのものが哲学の中に入って来るのでしょうか?

N:矛盾は論理に収まりませんが、他方で西田は生が論理だと思っていて、それを言葉に翻訳しようとしている。

―その場合、生を対象化してそれについて説明するのと、生の只中に入って行ってそこから与えられる概念(言葉)と論理によって語る立場とがあると思いますが、西田はどちらだとお考えですか?

N:後者です。生の只中に入り込む、そうした中から七転八倒しながら言葉を紡ぎ出す。そうしたやり方で、生が論理であることを証明しようとしたのだと思います。

S:生に飛び込んでしまえば、矛盾はなくなると思います。説明があるから矛盾が出て来るのでは?哲学的な概念による説明ということを西田は西洋哲学から学んだのでは?

N:西田の場合は、言葉にするというより、唸る、喚く。西洋東洋哲学の語彙を使いながら、呻く。格闘です。格闘技で戦っている最中を言葉で書き連ね、分娩している。全集第6巻の序でも西田は、「実在と考えられるものは、その根底に何處までも非合理的と考えられるものがなければならない」と言っている。しかしそれと同時に「非合理的なるものが考えられると云うには、我々の論理的思惟の構造そのものに、その可能なる所以のものがなければならぬ」と言っている。今読んでいるテキストで言えば、「かかる限定の外に逸し去るのである」としながらも「限定の外に出ない」とも言っていることになる。矛盾していますね。Oさん、ドゥルーズの場合はどうですか?

W:ドゥルーズの場合、こういうスタンスはとりませんが、哲学とは新しい概念の創造に関わっているとされます。つまり哲学するとは、見えなかったものを見えるようにする、言い換えれば論理的限定の仕方を変えていくことに関わっている、というのです。ただ生そのものには矛盾はない、として生の構造しか問題にせず、むしろ矛盾の話を嫌います。西田の思惟の次元はどこにあるのか?

―Wさんの「饗宴」でのご発表の中に、「水泳」の例が出て来ました。生の只中に飛び込むとは、まさに水泳で言えば、海の中に飛び込むことだと思います。概念的限定というのは「概念」(何であるか)をつかむことですが、海の中で問題になるのはそうした「本質」ではなく、「いかに」とか「どのように」ということだ、とされていました。そうした言葉によって新しい見え方が開けてくるのだと思いますが、そこにはおそらく矛盾はない。矛盾にとらわれたら溺れてしまうことになりますから。その意味ではSさんが仰ったように、生に飛び込んでしまえば、矛盾は解決しないままになくなってしまう。しかし、生を対象化してこれを概念的に、つまりそれが何であるかを説明しようとすると、生自体は無分別なのに、言葉はつねに分別的に働きますから、どうしても矛盾を生じます。この立場は「反省」と呼ばれるものですが、西田は「直観」と同時に、この「反省」の立場をどこまでも捨てていない、そのように思います。しかしこの直観と反省の関係、あるいは生と哲学の関係、この矛盾が西田を悩ませると同時に、西田哲学の源泉になってきたと思うのです。哲学が思惟の事柄だとすれば、思惟は対象がなければ考えることができません。しかし対象化している間は、思惟は思惟にならない。しかしそうかといって思惟の働きと一枚になってしまえば、それ(自分がやっていること)が何であるかは見えません。この矛盾そのものが哲学的な思惟なのだろうと思います。

Y:この矛盾は何のため、というか、それが希求するもの、目的というか、それが気になります。

―矛盾はそれを解決することを要求してきますが、解決すればしたで、また新たな矛盾に巻き込まれることになりますね。

Y:ええ。ですが、一つものに近づいていく感じはあると思うんです。でも矛盾は解決しない。

―ええ。ますます深いものに触れている感じになりますね。人間が矛盾を抱えているということは、どうもこうしたどこまでも解決のできないもの、人間の生そのものに触れるということと関係があるのかもしれませんね。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(351頁11行目~352頁2行目)

―前段落の終わりから3行目に「超越的述語面が限定せられる」とあるのを受けて、「私は是に於て超越的述語面の限定ということについて考えて見よう」ということになります。一般に或る出来事をどう考えるかは、状況によって決まり、我々はその立場(一般概念)に立って考えざるをえませんが、ここでは個物がそこに於てあるところの超越的述語面からいかにしてそうした抽象的な一般概念への限定が起るかが問題とされます。そうしてまたしても「包摂判断」から出発してその根源を探ります。「包摂判断」、例えば「犬は動物である」、の「述語として考えられる一般概念即ち抽象的一般者」、この場合は「動物」ですね。これを「特殊化の方向に進める」。つまり「犬」、「ポメラニアン」というように特殊化して行く。そうして「その尖端に於て最後の種を破って」、つまり「ポメラニアン」という「最後の種」を破る。そうすると「更に主語となって述語とならない個物的なものが考えられる」。「主語となって述語とならない」、これは「個物」ですね。「佐野之人」は個物(個人)ですが、これは「佐野之人は男である」などと、無限に述語づけが可能ですが、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「これは佐野之人です」とは言えますが、これは包摂判断ではありません。というわけで「主語となって述語とならないもの」は「個物」ということになります。こういうものが特殊化の尖端に考えられる。しかしそれとともに、「一方に述語となって主語とならないものが考えられなければならぬ」とされます。西田の「場所論」の根拠となる考え方ですね。「かかるもの」、「述語となって主語とならないもの」ですね。それは「亦抽象的一般者であってはならぬ」、と言われます。「抽象的一般者」とは限定された「一般者」のことです。限定は他のものを捨象して成立するからです。「然らざれば」、そうでなければ、「主語となって述語とならないものが之に於てあるとは云われない」とされます。「之」とは何ですか。

A:「述語なって主語とならないもの」だと思いますが、どういうことですか?

W:以前やった「山は山ならず」ということではないですか?

―ああ、そうですね。富士山は山である、と言ってしまうと、当たり前の一般的な山になってしまって、富士山が富士山として、つまり個物として立ち上がらない、ということですね。富士山が富士山として立ち上がるためには、富士山がそれに於てあるところの述語(述語的一般者)が抽象的一般者であってはならず、無限大の述語的一般者でなければならない、そういうことですね。しかし次を読んで見ると「併し苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり、それは抽象的でなければならぬ」とあります。

A:矛盾していませんか。先程は「抽象的一般者であってはならぬ」と言われていました。

―そうですね。ここは考えないといけません。「苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり」とありますから、その「かぎりに於て」「述語となって主語とならないもの」も「抽象的でなければならぬ」、つまり抽象的となりえなければならない、後の表現を用いえれば「潜在的に」抽象的でなければならない、そう読むほかありませんね。次をBさん、お願いします。

B:読む(352頁2行目~7行目)

―「超越論的述語面」、これはいわば無限大に広がった述語面ですね。無の場所と言ってもよい。それが(抽象的な)「一般概念」によって限定せられるというのは如何なることを意味するか」と、最初の問いが改めて掲げられます。まず「我々が何を考えるにしても限定せられた概念から出立せねばならぬ、而も限定せられた概念は抽象的でなければならない、超限定的なる述語面から出立すると云うことはできない」と、経験的な事実から出立します。「犬は動物である」という言明の場合には、我々は「動物」という一般概念(抽象的一般)に立っています。どんな言明の場合でも一般概念の上に立つから言明ができるのです。逆に言えば、個物の場合には言葉を失います。あるいは「富士山は富士山だ」という同語反復(無意味な言明)をするほかなくなります。では「個物を考える」場合はどうなるのか。その場合は「同時に述語面が(無限大にまで)広がる」ことになります。そうして「之(無限大に広がった述語面)によって述語面が限定せられるのである」と言われます。ここまででとりあえず意味の通らないところはありますか?

B:大丈夫です。

―次に「抽象的一般から具体的一般に移って行く」とありますが、これは「個物を考える」場合ですね。それは「全く異なれるものに移って行くのではなく、一般の一般に移って行くのである」と、また難解な表現がなされていますね。ここではとりあえず「一般の一般に移る」というのを「〔抽象的〕一般が〔具体的〕一般に移る」、だから「異なれるものに移って行くのではない」と読んで置きます。次にその説明がありますね。「特殊と一般との関係に主語と述語との関係が含まれて居るとすれば」、つまり「抽象的一般」に「具体的一般」が含まれているとすれば、ということです。「この関係」、「特殊と一般」・「主語と述語」の関係ですね。これを「どこまでも広げていくということが抽象的一般から具体的一般に移り行くことである」ことになります。括弧が付いていますね。ただし書きです。「無論その間に立場の超越がなければならぬと考えられるかも知らぬ」とあります。言葉で言い表せる次元から、個物という言葉で言い表せない次元へと超越するわけですから、当然そう考えられます。しかし「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば、斯く云い得るのである」とされます。われわれの言葉によって表現された如何なる判断も潜在的に「個物」を含んでいる、ということです。例えば目の前の犬(ベラ)が動物らしい行動をとったとして、「犬も動物だなあ」という判断をしたときに、そこにすでに個物(ベラ)が潜在的に含まれている、というのでしょう。今日はここまでとしておきます。
ヂ:(第116回):ヂ

言葉が黙する――具体的一般者と一般概念

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第3段落349頁13行目から、同段落350頁8行目まで(級下げ部分)を読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してかゝる大語的限定面が単なる肯定面であった場合は、尚真に推論式的一般者の述語面といふことができない、それが矛盾的統一面であった時、推論式的一般者の述語面としてその時間的なる内容を完全に映すことができる」(350, 6-8)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「判断的一般者の立場を推論式的一般者の立場で説明するとき、その眼目は単に超越的述語面が概念で限定されるのではなく、肯定面と矛盾的統一面を分けた上で、矛盾的統一面における限定が強調される点にあるという理解でよいか」(104字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―今講読している箇所は、「判断的一般者」から「推論式一般者」への移行の現場です。この「級下げ部分」は後からの加筆と考えられますが、正式に本文で「推論式的一般者」が登場するのは、次々段落、第5段落末(356,3)です。同段落の中程(353,6)にもすでに出ていますが、これは括弧内ですので正式な登場とは言えません。この括弧も後から挿入したものと推測されます。Sさんのご質問の趣旨は「判断的一般者」と「推論式的一般者」の違いの「眼目」ということになると思いますが、これを明らかにすること、それだけで一本の論文になると思いますが、ご質問の趣旨はこういうことでよいでしょうか?

S:ええ。西田が「判断的一般者」の限界をどこに見ていたか、そこに関心があります。

―それを明らかにするためには、これから講読する移行の現場の中で何が起こっているか、何が達成されて「推論式的一般者」が登場しているのか、を見て行かなければなりません。これから一緒に読んでいけばよいのですが、少し先回りして確認しておこうと思います。

S:お願いします。

―「判断的一般者」も「推論式的一般者」もどちらも「具体的一般者」ですが、「推論式的一般者」がその「完全形」(349,13)と呼ばれるように、「判断的一般者」はなお不完全だということになります。何が不完全かと言うと、主語と述語の統一です。「具体的一般者」は特殊を含む一般ということですが、西田は特殊を主語、一般を述語に重ねますから、「具体的一般者」は主語を包む述語だと言えます。「判断的一般者」の場合は主語と述語が繋辞(である)によって統一されていますが、なお主語と述語との対立が前面に出ています。これに対し「推論式的一般者」の場合は、主語(小語)と述語(大語)が媒辞(媒語)によって媒介されていますので、統一がはっきりと表現されています。ここまでで何か質問はありますか?

A:大丈夫です。

―西田は「具体的一般者」はどこまでも概念的に限定できると考えます。どこまでも哲学できるということですね。そうした「具体的一般者」の「論理的限定」(350,16)ないし「自己限定」(354,9)に①肯定的、②否定的、③否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)の「三つの段階」(同)を区別します。「AはAであると同時にAでない」あるいは「AはAでないことによってAである」という文のうち、「AはAである」という側面が「肯定的」、「AはAでない」という側面が「否定的」、「AがAでないことによってAである」というのが、「否定の否定としての否定的肯定」(矛盾的統一)と考えられます。ここまでで何かありますか?

A:何とかついていけています。

―以上は「論理的」な限定ですが、今度は「具体的一般者」を「部分的」に限定することを考えます。「数学的知識」の場合には「数」や「図形」といった一「般概念」へと限定します。その場合は主語と述語が一致し、先の「論理的限定」が完全な仕方で成立し、そこに「先験的知識」が成立しますが、「経験的知識」の場合には主語と述語がどこまでも一致しません。「経験的知識」の場合には「具体的一般者」における「超越的述語面」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定されますが、この限定に先の「論理的限定」の「三つの段階」を当てはめると、①の肯定的限定として、「感覚的対象界」が、②の否定的限定として、「知覚の世界」が、③の否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)として、「物理現象界」が成立することになります(356,11-13)。

A:前々回読んだ箇所では、「単なる肯定的述語面」である場合に「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」である場合に「物理現象界」が見える、となっていましたが。

―そうですね。叙述が揺れていますね。解釈する外ありませんが、「知覚の対象界」をさらに、「感覚的対象界」と「知覚の対象界」に分けた、と考えられます。その場合、「感覚的対象界」には、「これは赤だ」というような判断、「知覚の世界」には、「このリンゴは赤い」というような判断が属することになると思います。「これは赤だ」という判断では、否定が十分に言い表されていないのに対し、「このリンゴは赤い」という判断では、「赤い」という述語が「このリンゴ」を否定的に限定していることになります。スピノザのあらゆる「限定は否定である」が念頭に置かれていたのかもしれません。以上は一つの解釈にすぎませんが。

A:一応納得できました。

―さて、その三つの世界ですが、どの世界においても、述語が主語を完全に包む(言い表す)ことはできません。「これは赤だ」の「赤」は「一般概念」ですが、「これ」はどこまでも個だからです。「このリンゴは赤い」においても、述語をいくら重ねても主語の「このリンゴ」を言い表すことはできません。では「物理現象界」の場合はどうか。物理現象の場合、この赤はただちにこの赤ならざるものです。主語においても述語においてもそのことが成り立っているように見えます。しかしその場合でも主語と述語が異なっている、そのように西田は述べます。「尚肯定的主語面の性質を有する」(355,9)というのです。例えばリトマス紙が変化する場合、主語の方に「リトマス紙」という「物」(個物としての実体)ないし、さらにつきつめて考えれば「質料」が残っている、そのように考えるのです。そこでさらに③を突き詰めて、この「物」ないし「質料」を取り払う。そこに出て来るのが「所謂変ずるもの」ではない、「真に変ずるもの」すなわち「生滅するもの」です。これは生即死、有即無の場合の「即」ないし「即非」です。この「即」をふたたび実体化してはいけません。さて「知覚の世界」から「物理現象界」を経て「生滅する出来事」へと移行するこの三つの段階は、それぞれ「相異」、「相反」、「矛盾」に対応していることが分かります。この最後の「矛盾」に至って、真に主語面と述語面とが合一することになります。そこに「矛盾的統一を包む一般者が見られる」(356,3)ことになって、ここに「推論式的一般者」が成立することになります。主語面と述語面の統一が媒語として言い表されているからです。「判断的一般者」の立場では、「具体的一般者」の述語面である「超越的述語面」が「感覚的性質一般の概念によって限定せられる」(350,2)という言い方をしなければならなかったのが、「媒語が大語と合し小語を包む」(356,5)ないし「大語面的」「自己限定」(350,5)と言えば済むことになります。まあ、このくらいにしてテキストに移りましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(350頁9行目~13行目)

―「具体的一般者というのは所謂主語となって述語とならないもの」、「個物」ですね、それ「を内に包んだものである」、つまり「個物的なるものを自己自身の限定と考えるものである」ということになります。何度も聞いていると分かった気になりますが、不思議な概念です。西田も「矛盾の言の様ではあるが」と断った上で、「それは主語となって述語とならない一般者である」、つまり個物にして一般者、これをひっくり返して、「一般的なる基体である」、そのように述べます。この場合の「基体」はそれについて述語されるところのもの、つまり「個物」です。さて、その「具体的一般者」について、それは「こういう意味に於ては固より抽象的一般概念と同様の意味に於て限定せられると云うことはできない」と述べられます。存在、生物、動物、人間、というような論理的な仕方で限定できない、ということでしょうね。「唯部分的に一般概念として限定し得るまでである」。例えば「数」、「図形」、「感覚的性質」という仕方で、それぞれ部分的な仕方で限定できるだけだ、そういうことだと思います。「併し苟も之」、「部分的限定」ですね、それによって「判断的知識が成立する以上、それ」、これも「具体的一般者」でしょうね、「それは一般概念という意義を有さねばならない」、そのように述べられます。「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども、「一般概念」でなければならない、そこから判断が成立するものでなければならない、と。

B:「抽象的一般概念」と「一般概念」はどう違うのですか?

―次に書いてあります。次をCさん、お願いします。

C:読む(350頁13行目~351頁4行目)

―「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども「一般概念」という意義を持っていなければならない、ということがこれまで述べられていました。「具体的一般者」は、それによって「一般」が「特殊」を含む真の「一般」となり、「特殊(個)」も真に「特殊(個)」としての「特殊(個)」となるものです。「一般」が「特殊(個))と対立するならば、それはすでに「特殊」であって、「一般」ではなく、「特殊(個)」も「一般」と対立するならば、それ自体「一般」であって、「特殊(個)」ではありません。「このもの」と言ってもどれもみな「このもの」だからです。「一般」と「特殊(個)」というのはともに「概念(言葉)」ですが、これらを徹底すると、一方において「概念(言葉)」であることをやめてしまう。「一般」は有無を絶した「絶対無」となり、「特殊(個)」がそこから「特殊(個)」として立ち上がってくることになります。これは「概念(言葉)」の徹底として、「概念(言葉)」が黙する(「維摩の一黙」を想い起させます)ところで知的に直観する外はありませんが、この知的直観が、無限の概念(言葉)がそこから湧き出てくる水源となります。この言葉が黙する、というところをテキストでは「具体的一般者」は「抽象的概念」ではない、と言い、無限の言葉の水源となる、というところを「一般概念」という意義を有せねばならない、と言っていると思われます。ここまでで何か質問はありますか?

C:大丈夫です。

―そう言ったところで西田は「私は却って真の知識の根柢としては具体的概念を真の概念と考え」と述べます。

C:「具体的一般者」と「具体的概念」は同じものですか?

―同じと見ていいと思います。前者は「概念」の絶対の無の所で端的に知的に直観されるものという側面、また後者は、それが無限の概念(言葉)の水源となるという側面を言い表したものと考えられます。そうして「抽象的概念というのは超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定と考えたいのである」と述べられます。「超限定的述語面」とは「限定」できない「述語面」ということで、「具体的一般者」の述語面、即ち「超越的述語面」と同じものです。具体的には「意識一般」のことです。「抽象的概念」とはこうした「超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定」だというのです。例えば「数」や「図形」、「感覚的性質一般」などがそれです。その他すべての言葉がこうした「抽象的概念」になります。ただしここで言われているように、それは通常の「抽象的概念」ではなく、あくまで「具体的概念」です。言葉には言葉としての形式と内容があります。「リンゴ」という言葉は「リンゴ」という音、ないし文字の側面と、それが言い表わす意味の側面があります。「リンゴ」という音ないし文字に習慣的に結びついた理解は形式的な理解ですが、こうした形式的な理解を破って立ち現れるのが意味であり、これを具体的概念の部分的限定としての抽象的概念と呼んでいると考えられます。

C:言葉だけれども同時にそうした言葉が黙するところ、その意味では言葉以前であるようなもの、言葉にして言葉以前、そうしたものと考えていいですか?

―そういうことになりますね。そうしてそれが我々の日常用いている言葉だ、ということです。次を見て見ます。「而して既に概念的と云い得るかぎり、それについて種々なる意味の論理的限定が考えられねばならぬ」とあります。「具体的概念」には「部分的限定」しかありえませんが、「具体的概念」が同時に「一般概念」であることによって、そこに「論理的限定」があることになります。それが①肯定的限定、②否定的限定、③否定の否定としての否定的肯定、ということで、「それが私の所謂矛盾的統一なるものである」と言われます。「それ」とは何を指しますか?

C:最後の③だと思います。

―そうですね。文脈からすると①②③の全体を指すとも読めますが、後の叙述などからすればそう読むべきだと思います。続いて「矛盾の背後には所謂限定せられた一般概念という如きものは考えられない」とあります。そうした一般概念があると矛盾が矛盾でなくなってしまう、ということです。例えば白くて同時に辛いとだけ言えば矛盾ですが、この背後に「塩」という「物」(一般概念)を持って来れば矛盾なく考えることができるように思われます。同様に赤くて赤くない、と言えば矛盾ですが、「リトマス紙」という「物」を持ってきて、しかもこれに「時」という形式を当てはめれば、「変化」ということで矛盾なく考えることができるように思われます。我々の思考はつねに根本的には矛盾した出来事を無矛盾なしかたで理解しようとしますが、この根本的な矛盾そのものはもはやその背後に「一般概念」がありませんので、矛盾が露堂々として現前することになります。ここはもはや概念的な理解の及ばない、概念的理解を破ったところです。しかしそれでも西田はこの矛盾的統一こそが無限なる概念の水源になると考えます。そこで「個物的なるものが之に於てある一般者」、「具体的一般者」の「超越的述語面」、絶対無ですね。そういうものとして「私はどこまでも概念的限定と考えたい」とあります。何をそのように考えたいというのでしょうか?

C:難しいですね。「矛盾的統一」でしょうか。

―たしかに難しいですが、「矛盾的統一」からの「概念的限定」が可能である、そのように読んでみたいと思います。「具体的一般者」は知的直観の事柄ですが、それでも「どこまでも」哲学できる、そのように「考えたい」、そのように読めます。ところが次に「之を越ゆるものは全く概念的限定の外に逸し去るのである」とありますが、「之」とは?

C:「概念的限定」です。

―そうですね。一方で「どこまでも」哲学できる、と言いながら、他方でそれを「越える」ものを認めている、そのように読めます。哲学を超える立場、宗教を示唆しているようにも読めます。しかしそれだと「どこまでも」という言葉が意味をなさないことになります。ここはそのように読むべきではなく、哲学そのものが、どこまでも概念的限定が可能でありながら、同時に絶えずそれを超えた概念的限定の外、概念化できないということを抱えている、そう読んでみては、と思うのです。宗教は概念の事柄ではありませんが、言葉(教)や行い(行)の事柄であり、その点では哲学(思索)とは異なる仕方(信)で言葉以前につねに開かれている、そのように考えることができます。次に参りましょう。Dさん、お願いします。

D:読む(351頁4行目~10行目)

―「それで感覚的なるものを包む具体的一般者の超越的述語面という如きもの」、感性的直観を対象とする意識一般ですね。それが「感覚的性質一般」という「抽象的概念」に部分的に限定される際に、①肯定的でも、②否定的でもなく、③「矛盾的統一の〔抽象的〕一般者として限定せられた時、即ち変ずるもの」、「個物」ですね、これが③の「矛盾的統一によって限定せられた時、物理的世界という如きものが考えられる」ということになります。これが①であれば、「感覚的対象界」、②であれば「知覚の世界」ということになります。ここまで、どうですか?

D:大丈夫です。

―次いで「而してかかる矛盾的統一の形式が時と考えられる」とあります。「此故に物理現象は時の一般者に於ける特殊ではなく、却って時の関係の基礎となるのである」、そのように言われます。物理現象が「時の一般者」に於てあるのではなく、「時の一般者」は「物理現象」の形式だ、「物理現象」の方が根本的だ、そのように言うのです。「時の一般者に於ける特殊」も「時の関係」も、ともに前後、同時、長短などのことです。次いで「かかる場合」、「物理現象」の場合ですね、「具体的一般者の超越的述語面が限定せられると云う所以は、矛盾的統一といえどもそれが論理的限定であるかぎり、変ずるものの根柢となるものは、尚一般概念的なるもの」、この場合は「感覚的性質一般」ですね、そういうもの「でなければならない」からだとされます。「具体的一般者」が同時に「一般概念」であるが故に、①から③までの「論理的限定」が可能になるというのです。そうして「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」と言われます。「かかる限定」とは?

D:「一般概念的なるもの」です。

―そうですね。「矛盾的統一」という「一般概念」、「感覚的性質一般」の第三段階です。これを超えた所に、「さらに深い意味」での「変ずるもの」が立ち現れることになります。これが何であるかは解釈となりますが、「生滅するもの」だということになります。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第115回):ヂ

判断的一般者の立場/推論式的一般者の立場

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第3段落348頁10行目「併し判断的知識の根柢には」から、同段落349頁12行目「肯定がなければならないのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「物の概念は現象の概念に變ぜられるのである」(348, 13)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「上の文は《不知の物自体》が《知の形式》へ変換可能読める。しかし、それは「限定できないもの」を仮に「限定して見たもの」に過ぎない。限定が「肯定的」であれば静態的な「知覚の対象界」が見られ、「否定を含む矛盾的統一」であれば動態を含む「物理現象界」が見られよう。但し、これらはいずれも仮定の「如きもの」の世界であって、真に「変ずるもの」たる「内容を有つた時」は、「抽象的一般としては限定できない」。然らば、我々はかく「限定せられた概念に出」て、「その(矛盾の)背後に否定を包んだ一般者」を見る「無の場所」において、「否定の肯定」をせざるを得ないと解するが如何」(280字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―「無の場所」は「絶対無の場所」ですか?
N:いいえ、違います。私はここでの「場所」を三層に分けて考えています。第一は「有の場所」。これはフィクションの世界。静態的な「知覚の世界」も動態的な「物理的現象界」も、あらゆる学問のみならず、国家や経済の世界もこれに属します。第二は「無の場所」。今、今、今を「否定の肯定」として生きる場所です。真に「変ずるもの」、「内容を有った時」の世界です。「有の場所」が「抽象的」で、この「無の場所」が「具体的」です。そこにおいて我々はさまざまなフィクションを受け入れながら生きている。第三は「絶対無の場所」。これは言葉で言い表すことのできない世界、悟りの境地とか、「境涯」と呼ばれるものです。生死を超えた世界です。宗教となると、このフィクションを信じ切った状態と考えられます。
―だとすると、我々は常にフィクションの世界を生きていることになりませんか?
N:そうです。すべてフィクションですが、そこにおいてなお「生きる」という現実があります。
K:「有の場所」がフィクションだというのは分かりますが、それと区別された、現実に生きる場所である「無の場所」や、言葉にならない「絶対無の場所」がフィクションだというのはよく分かりません。
―「有の場所」、「無の場所」、「絶対無の場所」というのも言葉ですね。言葉にならないものを整理してそれに付けた名称です。その意味ではフィクションと言える、という意味だと思います。しかし、だとすればむしろ言葉以前の「絶対無の場所」こそが現実の世界とも言えそうですが、Nさんはその間に「無の場所」をお考えになり、そこを現実の世界だとされる。この「無の場所」は西田のこれまでの分類では「対立的無の場所」で、主客対立の立場、主観で言えば「意識」の立場ですね。これまでは「認識」に関して論じられていましたが、Nさんは実践、もっと言えば決断の事柄としてお考えのようです。「認識(判断、思惟)」しているということも、「意志(決断)」しているということも、統覚として意識(自覚)できます。その時に「私は考える」、「私は意志する」という仕方で「私」が出て来る。それ以外では、大抵我々は経験・世界の中に没入しています。この「没入」した在り方では、言葉を用いていてもそれに没入していますから、それに「ついて」意識したり、語ったりすることはできません。私はどうも分からないのです。我々はどこにいるのだろうか、と。気がついたら自覚していますが、しかしただちにそのことに没入しています。そうなると自覚をも含めてすべてが「について」という言葉以前とも思えるし、だとしたらそのように「思っている(考えている)」ことはどうなるんだ、すでに「思っている」ではないか、というように。
W:場所を三層に分ける時に、「境地」というものを設けて、生きることにヒエラルキーを設け、より高みを目指す、といった構図、生き方に差ができるような構図には違和感があります。
―でも世界の見え方が深まるということはあるのでは?
W:見え方は深まりますが、存在(ある)ということに深まりはないと思います。
―そうした「存在」は、おそらく「について」語る以前の事柄だと思いますが、その場合でもそうした「存在」「について」語っている「私」が出て来ているような気もしますし、あるいはそのように「について」語っている「私」も直ちにそのことに没入して、それに「ついて」は語れなくなっている、とも考えられます。「について」の言葉と、そうした言葉以前、これは「知と存在」、あるいは西田的には「反省と直観」と言ってもいいですが、この両者は絶えず循環するように矛盾している、そんな気がします。我々は立場を求めます。それがないとどう語っていいのか、どう行為していいのかも分からないからです。それが分かれば安心できる。ですが人間にそうした安心できるような立場というものはどこにもない、すべての立場が虚構である、そんな気がします。しかし逆に言えば、どこにも立場というものがないというのがもっとも自由だ(「応無所住而生其心」という言葉を思い出します)、そんな気もしますが、それはたしかにWさんのおっしゃるように、「境地」というようなものではない気もしています。またすべてが虚構ということであれば、そのどれもが誤謬で、儚く移ろい行くものでありながら、そのままにこの上なく真実で、もっとも尊い、ということになるような気もします。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん。お願いします。
A:読む(349頁13行目~350頁1行目)
―ここに小さな文字で書かれた部分は後で書き加えたもののようですね。初めて参加された方がいらっしゃるので、少し丁寧に見て行きましょう。「私は後に」とありますが、この「後」はこの「知るもの」という論文のなかで出て来ます。「具体的一般者」とは「抽象的一般」に対して言われています。通常「一般」は「特殊(個別)」とは対立関係にあります。人間一般とソクラテス(個)は区別されます。これに対し、「具体的一般者」とは「特殊」を含む(包む)「一般」のことです。こうした「具体的一般者の完全形を推論式的一般者と考えて論じて居る所と」とあります。「具体的一般者」の完全形は後で出て来る「推論式的一般者」だというのです。「推論式」とは、例えば典型的には、「人間は死ぬ」、「ソクラテスは人間である」、ゆえに「ソクラテスは死ぬ」という三段論法がそれです。この場合「人間」が「大語」、「ソクラテス」が「小語」、「死ぬ」が「媒語」と呼ばれます。「大語」が「一般」、「小語」が特殊で「媒語」が両者を媒介するものです。今の時点ではこの程度の理解で十分です。「推論式的一般者」については後でそれが出て来た時に考えればよいのです。その箇所と「此に論じた所との連絡について多少弁じて置きたいと思う」とあります。ここまでで分からないところはありますか?
A:とりあえず、大丈夫です。
―「感覚的なるもの、非合理的なるもの」、つまり「特殊」ですね。これ「を包む推論的一般者」、「具体的一般者」の「完全形」ですね。これが「即ち帰納法的一般者」とされています。「帰納法」とは通常の、一般から特殊を導き出す「演繹法」と異なり、特殊から一般を導き出すものです。この間、東風が吹いたら雨になった。前回もそうだった。そこから「東風が吹くと雨が降る」という法則を導き出す場合がそれです。西田が「具体的一般者」の「完全形」を何故こうした「帰納法的」な「一般者」と呼んだかは、ここでは分かりません。ここでは分からないままにペンディングにして読み進めていきます。そうした「帰納法的一般者の立場から云えば、物理的現象界はその大語面的限定によって成立するのである」とあります。「大語面」つまり「一般」の側からの限定、ということですね。「之に於て」とありますが、「之」とは?
A:「大語面的限定」です。
―そうですね。「之に於て限定せられるものは、すべて時間的にして変ずるものと考えられるが、その大語面的限定の極限において小語面が時の一点と考えられた時、物理意的世界が見られるのである」とあります。
A:「大語面的限定」「に於て限定せられるもの」が何故「時間的」となるのですか?
―多分、カントを踏まえていると思います。我々が「感覚的なるもの」を感性において受けいれる時の形式が「時間」だということだと思います。
A:分かりました。ありがとうございます。
―「時の一点」において限定しようとしますが、できない。赤は赤ならざるものに変化してしまっている。そこに「物理的現象界」が見られる、というのです。次をBさん、お願いします。
B:読む(350頁1行目~8行目)
―「之を今此にて論じて居る如き単なる判断的一般者の立場から云えば」とあります。今の叙述は後から見ると「判断的一般者」の立場だというのです。その立場からすると、「その超越的述語面が感覚的性質一般の概念によって限定せられると云うの外ないであろう」と述べられます。「超越論的述語面」とはまっさらな「意識面」(意識一般)のことですが、それが「感覚的性質一般」という「概念(一般概念)」によって限定される、というのです。どういうことかというと、「感覚的性質一般という如きものが主語となって述語とならない超越的述語面となると云うこと」だというのです。「主語となって述語とならない」というのはアリストテレスの実体である個物を言い表す定式です。例えばソクラテスは個物(個)です。ソクラテスは主語になって「ソクラテスは白い」、とか「ソクラテスは背が低い」、とか言えますが、ソクラテスを述語の側に持ってくることはできません。「これはソクラテスである」と言うことはできますが、この場合は命名の仕方にすぎず、主語と述語がまったく同じもの(個物)になっていますので、通常の判断からは除外します。そうすると、上の文は「感覚的性質一般」が「主語となって述語とならない」つまり「個物」になるということをまずは意味します。先にも述べたように、「感覚的なるもの」を「時の一点」としての現在(個)として限定することはできません。赤はただちにその赤ではありません。このようにこの赤とこの赤ならざるものを含むものが「感覚的性質一般」です。現在の一点という個物を「感覚的性質一般」という一般概念で包もうとするとこうしたものにならざるを得ない。今は「感覚的性質一般」が「主語となって述語とならない」、というように「主語」の側に来ていますが、この「感覚的性質一般」は「具体的一般者」なので、同時に「述語面」でもあり、「超越的述語面」が「感覚的性質一般の概念」によって限定せられたものでもあることになります。ここまでいかがですか?
B:何とかついていけています。
―ここまでは後に「判断的一般者」と呼ばれる、現在の立場から言えることですが、同じことを「推論式的一般者」の立場から言うと、つまり「感覚的なるもの、非合理的なるものを包む推論式的一般者に於て」、「その内容」、「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の「内容」ですね、それが「抽象的一般概念」、つまり「感覚的性質一般の概念」によって「限定せられることを意味するであろう、即ちそれ(感覚的なるもの、非合理的なるものの内容)が大語面的に自己を限定することとなるであろう」と述べられます。
B:大語面的な限定というのは一般の側からの限定ということですよね。具体的にはどういうことですか?
―例えばソクラテスが牢屋に居るとして、それが何故かというのを説明する際に、足があって牢屋の中に入ったからだというような説明をする場合が考えられます。しかしソクラテスが牢屋に居るのは、ソクラテスがそれを善いと考えたからだとも説明できるわけで、これが小語面的な説明となると思います。あるいは慈悲深い仏像を銅からできていると説明するのが、大語面的な説明、慈悲深さ、あるいは美から説明するのが小語面的説明、そんな風にも言えると思います。次を見て見ましょう。何と書いてありますか?
B:「何となれば、後に云う如くその小語面的内容は、時が一点となると共に、単なる感覚的性質という如きものとなるが故である」とあります。
―「何となれば」とは何故「大語面的」な「自己限定」になるか、ということですね。「小語面的内容」、つまり「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の内容が、時が一点になることによって、この赤が同時にこの赤ならざるものであることになって、「単なる感覚的性質という如きもの」になるけれど、これを反対(述語面)から見れば、「大語面的限定」になる、そういうことだと思います。そうしてこの「大語面的限定」が「単なる肯定面であった場合は、尚真に推論式的一般者の述語面ということができない」とありますが、これは何を念頭に置いていますか?
B:「知覚の対象界」です。
―そうですね。349頁にも「知覚の対象界」について「単なる肯定的述語面」(7行目)とありました。そうして次に「それ」つまり「大語面的限定」ですね、「それが矛盾的統一面であった時、推論式的一般者の述語面としてその時間的なる内容を完全に映すことができる」とあります。これは何を念頭に置いていますか?
B:「物理的現象界」だということになると思いますが、「完全に」というのに少し違和感があります。
―たしかにそうですね。しかし主語が「大語面的限定」で、それはすでに「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の「内容が抽象的一般概念によって限定せられたもの」であると考えるなら、その範囲内で、つまり物理現象であるという範囲内で、と考えられますね。そうして最後に「矛盾を含む一般者は推論式的一般者なるが故である」と締めくくられます。
B:西田はなぜこのような文をここに差し挟んだのでしょうか?
―読者サービスか、あるいは至らない書き方をした以前の自分の叙述に対する言い訳か。
C:西田が読者サービスをするとは思えませんが。
―言い訳なら、そもそもそんな論文を公表せずに、完成したものだけ公表すればよい、とも言いたくなりますが、この時期の西田は書きながら考え、考えながら書く、といった哲学のスタイルをとっていますので、書きながらどんどん言いたいことが変わっていきます。その辺は『善の研究』とは大きく異なります。『善の研究』の場合は言いたいことの全体がボヤっとあって、それを最後まで書いた,という感じがありますが、この時期の西田はそれとは違っています。書くことによって別の人間になっている、そんな感じです。ここでは「判断的一般者」から「推論式的一般者」に立場が変わっていくわけですが、それでこの箇所では両者の間の「連絡について多少弁じておきたいと思う」と言われているのでしょう。一種の振り返りで、これも叙述の一部だと考えたのかもしれません。それにしても難しい文でしたね。今日はここまでとしましょう。
ヂ:(第114回):ヂ

変ずるものと生滅するもの

ヂ: 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」冒頭から第3段落、348頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯、積極的に限定することのできない具体的一般者に於てあるものが部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考へられるのである、物理現象とはかゝる意味に於ての連続に外ならない。」(347, 2-4)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「物理現象」において、「時に於てあるもの」を主語として「性質的述語」が付加されるとき、この主語となるものは、「時の一般者に於てある」のではなく、「時を包む一般者に於てある」とされます。そして、「時を包む一般者に於てある」とは、「変ずるもの」、あるいは「内容を有つた時」と同義です。このとき、「物理現象」を単に「時に於てあるもの」とするならば、「物理現象」において、「変ずるもの」をどのように考えたらいいのでしょうか。」(208字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はYさんの質問内容が議論中にはよく分からなかったので、たぶんこういうことではないかという後からの反省によって構成してあります。:ヂ
―「物理現象」が「単に」「時に於てあるもの」とするならば、それは「変ずるもの」ではない、ならば「物理現象」において「変ずるもの」をどう考えたらよいか、という質問ですか?
Y:そうです。
―たしかに「物理現象」は「時に於てあるもの」で、それはもはや「変ずるもの」ではありません。
Y:そこが分かりません。「物理現象」ももとは「変ずるもの」ではないのですか?
―ええ。そうなんですが、「変ずるもの」そのものは知的直観されるもので、判断の対象とはなりません。これを対象にしてこれについて判断しようとすると違うものとして我々に対して現れることになります。対象はもはや「変ずるもの」ではなく、感性的直観という内容的(=主語的)にいかなる意味においても限定できないものになり、主観ももはや「知的直観」ではなく、形式的(=述語的)にいかなる意味においても限定できない単なる形式としての思惟(意識一般)となると考えられます。そうして時について考える場合、それが「時の一般者」ないし「形式的時」となる、そのように解釈できます。
A:それだと「意識一般」が「時の一般者」へと限定されていることになりませんか?
―難しいところですが、カントに倣って西田は、「意識一般」が感性として働く場合の形式が時空、悟性として働く場合の形式がカテゴリーと考えているようで、しかも判断(認識)の場合、感性と悟性が同時に働いていて、両者を切り離すことはできないと考えていると思います。また時間が「一般概念」ではないことはカントが明確に主張していますし、西田も「時の一般者」は限定できない、限定すればアンチノミーに陥る、と述べています。そう考えるならば「意識一般」が時間に関して働く在り方が「時の一般者」だと解釈した方がよいと思います。
Y:その場合でも対象はまだ「物理現象」ではないですよね。
―ええ。感性的直観が「物理現象」になるためには、それがさらに「部分的に限定」されなければなりません。この「部分的に限定」が具体的に何かは、これも解釈になるのですが、後を読むと「感覚的性質一般」という「一般概念」による限定であると考えられます。「変ずるもの」は今「感性的直観」という姿をとっていますが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定しようとすると、例えば赤はただちに赤ならざるものになっています。これは「時に於て」感性的直観を見ているからですが、それによって「一種の連続」が生じることになります。
Y:そうなるのは「物理現象」がもともと「変ずるもの」だからですよね。
―ええ。そういうことになりますが、「変ずるもの」そのものは、知的に直観されるのみで、それについては何とも言えない、西田はそのように考えているようです。これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定し、かつ、これを「時の一般者」に於てある、と見ることで初めて「物理現象」となる、そのように考えているようです。
Y:その意味では「物理現象」は「単に」「時の一般者」に於てあるわけではないですね。
―ええ。「一般概念」による限定がなければ成立しません。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(348頁10行目~349頁2行目)
―まず「物」は「抽象的一般としては限定することのできないものである」とあります。物自体は知的に直観する外はない、それについては何とも判断できない、ということでしょう。それを受けて「併し」と来ます。「判断的知識の根柢には何等かの意味に於て一般的なるものがなければならぬ」と述べられます。これを言い換えてさらに「我々が抽象的一般を越えたもの」、物(個物)とか「変ずるもの」ですね、「これを主語として判断する以上、かかる判断の基礎となる一般者がなければならぬ」、と述べられます。
A:この「一般者」は判断の「基礎」として、判断以前の所では絶対無と考えてよいですか?
―そうですね。抽象的一般を越えたものを包むものは絶対無ということになると思います。そうしてそれが判断の基礎となる、という読み筋は可能だと思います。次に「是に於て」、抽象的一般を越えたものを主語として判断する場合、ですね。今度は明確に判断の場合です。「抽象的一般と考えられたものが、超越的述語面の限定せられたものとして、具体的一般となる」とあります。
A:「超越的述語面」とは「意識」と考えてよいですか?
―いいと思います。「抽象的一般を越えたもの」つまり「物の概念」(物自体)と、「超越的述語面」(意識一般)の対をまず考え、それが限定された場合が考えられています。こうした限定によって「物の概念」は「(物理)現象」となり、「抽象的一般」は「具体的一般」になる、そのように言われています。
A:どういうことですか?「物の概念」の例として「赤きもの」が挙がっていましたが、この場合の「抽象的一般」とは「性質赤」ですね。この場合「物の概念」が「現象」になるとはどういうことですか?
―「物の概念」とは本来何とも言えないもののことです。「抽象的一般」を「性質赤」とするならば、それが具体的概念になるとは、それが「この赤」となることで、「物」が「赤きもの」になることだと思います。
A:それがどうして「(物理)現象」になるのですか?
―当然の質問だと思います。明らかにここでの西田は言葉足らずです。その点についてはすぐ後で、「知覚の世界」と「物理現象界」とを区別して説明しています。「具体的概念」を「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)の同一性のうちに見るのは「知覚の世界」の見方です。「AがAである」という「肯定的述語面」において「変ずるもの」を見た場合です。しかし「変ずるもの」はそれだけではない。肯定にして否定。この否定面が言い表わされていません。「AがAでない」、「この赤」が「この赤でない」、この側面を言い表すのが「物理現象界」です。というわけで次を見てみましょう。「かかる考え方によって、物理現象界とは感覚的性質一般を主語となって述語とならない基体となす具体的一般者によって成り立つと考えることができる」とあります。
A:どういうことですか?
―「感覚的性質『一般』」とあるのがポイントだと思います。この場合、色について言えば、「赤」だけではなく、「赤ならざる色」も含みます。これを「主語となって述語とならない基体」、つまり「個物」ですが、これはこの赤がこの赤ならざるものへと変化してしまう、そうした個物です。つまり「感覚的性質一般」をこうした「個物」となす「具体的一般者」によって「物理現象界」が成り立つというのです。「換言すれば」とありますね。「(物理現象界とは、)感覚的性質一般という如き一般概念によって限定せられた超越的述語面に於て見られる」とされます。同じことが述語面について述べられています。さらに言い換えが続きます。「即ち(物理現象界とは、)限定することのできない述語面」、「超越的述語面」ですね、そうした「述語面に見られる変ずるものを、感覚的性質一般という一般概念によって限定して見たものである」。これについてはすでに先取りして申し上げておきました。次をBさん、お願いします。
B:読む(349頁2行目~12行目)
―ここから、先程述べた「知覚の世界」と「物理現象界」の区別が述べられます。「感覚的性質一般を基体となす具体的一般者に於て、その主語面と述語面とが合一して居ると見られるかぎり、単なる知覚一般の対象界という如きものに過ぎないであろう」とあります。物と性質が、「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)において合一する場合のことです。現在において「この赤」はただちに「この赤ならざるもの」へと変化していますが、知覚の世界ではそこは問題にしません。これに対し「限定のできない超越的述語面に於てあるもの、即ち変ずるものを、感覚的性質一般の概念によって限定した時、物理現象界が見られるのである」とあります。「限定のできない」は、「超越的述語面」と「に於てあるもの」の両方にかけて読んだ方がよいと思います。「知覚の世界」の場合には、主語面も述語面も「限定できる」という立場に立っています。「この物は赤い」ということですね。しかしこの「限定」が主語面においても述語面においても否定される。この場合それを「感覚的性質一般の概念によって限定した時」どうなるかと言えば、限定できない、この赤はこの赤ならず、AはAでない、ということが出て来ます。そこに「物理現象界が見られる」とされます。ここまでのところ、何か質問はありますか?
B:何とかついていけています。
―次に進みましょう。「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできないが」ということわりを入れた上で、「具体的一般者の超越的述語面を右の如き一般概念を以て限定すると云う時、それ」つまり、限定された超越的述語面ですね、「それが単なる肯定的述語面である場合は、知覚の対象界という如きものに過ぎない」とされます。「肯定的述語面」とは述語面が否定を含まないということです。AがそのままAである、ということです。これに対し、「それが否定を含む矛盾的統一面である場合は、物理現象界の如き働くものの世界が見られねばならぬ」と続きます。「矛盾的統一面を含む」とは、Aが同時にAでない、ということです。Aが同時にAならざるものである、ここに働くものが見られる、というのです。次いで「矛盾的統一」とあるのは、「限定のできない」ということ、つまり「Aが同時にAでない」、という事態を指していると思われます。それは「否定を含む一般者に於て成立する」とされます。「知覚の世界」における「一般概念(感覚的性質一般)」は否定を含まないが、「物理現象界」における「一般概念」は否定を含む、ということですが、これが「一般概念」を「時の一般者」に於てある、と見ることだと考えられます。
B:「知覚の世界」の場合には個々のものを「時に於てある」とは見ていないことになるのですか?そうだとすると、「変ずるもの」を単に「感覚的性質一般」という一般概念によって限定した時に現れるのが「知覚の世界」で、「変ずるもの」を「感覚的性質一般」という「一般概念」と、「時の一般者」という「一般概念」によって限定した時に現れるのが「物理現象界」だということになりますね。そうなるとやはり「時の一般者」というもの自体が限定された「一般概念」ということになりませんか?
―西田がカントの思想を踏まえているとするならば、時間は「一般概念」ではありえないし、繰り返しになりますが、西田も「時の一般者」は限定できない、とはっきり述べています。では何なのか、といえば、やはり純粋直観、ないし感性的直観の形式ということになると思います。少なくとも西田がここで論じている物理現象がそこにおいてある「時」とはそうしたものだと考えられます。また西田が、時空の形式を抜きにした認識は不可能とするカントの思想を踏まえているとするならば、「時の一般者」抜きの認識はありえない。ことに「知覚」が時の形式抜きに成立するとは考えにくい。その意味でも単なる形式としての「意識一般」の一つの在り方(時に関する在り方)が「時の一般者」である、と考えるべきではないかと思います。
B:それでは「知覚の世界」と「物理現象界」の区別はどうなるのですか?
―「変ずるもの」を判断する際に、どちらも「時の一般者」に於てあるのですが、「知覚の世界」の場合には、「AがAであると同時にAでない」のうちの「AがAである」の側面において成立し、「物理現象界」の場合には「AがAでない」の側面において成立する、と考えて見たいのです。とは言え、西田も「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできない」としていますので、推測はこのあたりに止めたいと思います。次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?
B:「矛盾の根柢には一つの類概念を見ることはできないと考えられ、矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられるであろう」とあります。
―これまで論じられてきたのは、「知覚の世界」にせよ、「物理現象界」にせよ、「感覚的性質一般」という限定された「一般概念」内での話です。西田は「物理現象界」においてすでに「矛盾的統一」が成り立っている、と言ってしまったのですが、じつはこれは勇み足で、「矛盾は限定せられた概念の外に出ること」だ、というのが厳密な言い方になります。「考えられるであろう」とありますが、これは西田の主張でもあります。
B:どうしてそのように言うことができるのですか?
―これまでも同じようなことを西田は繰り返し述べているからです。例えば『働くもの』の中に「矛盾は相異の極致である、二つの概念が互に相矛盾すると考える時、亦此両者を包む何等かの客観的統一がなければならぬ、之によって二つの概念が矛盾すると考えられるのである。此の如き客観的統一は単に特殊を包摂する一般概念という如きものではない。或一つの概念に矛盾する概念を考えるには、我々はこの概念を越えて外に出なければならぬ、相矛盾する概念を統一するものは自己自身の否定を含むものでなければならぬ」(190,9-14)という叙述があります。上の「限定せられた概念」がここで言う「一般概念」です。そしてここに出て来た「相矛盾する両者を包む客観的統一」が、絶対無の場所において成立する具体的一般者だと考えられます。
B:「変ずるもの」は矛盾ではないのですか?
―これも厳密に言えば、「真に変ずるもの」はすでに「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」ということになります。これまで西田が「変ずるもの」と呼んできたものは「生滅するもの」と言い換えていいと思います。
B:何故「生滅するもの」と言わなかったのですか?
―これも推測の域を出ませんが、「物理現象」の根柢を論じようとしたからではないかと思われます。
B:「変ずるもの」と「生滅するもの」はどのように異なりますか?
―そこにおいて変化が生起する「一般概念」が残るかどうか、だと思います。例えば或る人が教養のない状態から教養を身に着けたとして、これは変化ですが、この変化の基体としてここには「或る人」という「実体」があります。「或る人」はもちろん死ということを免れません。その場合でも「質料」というものを考えれば、その上で生死も含めた変化を論ずることができます。あるいは赤から赤ならざるものへ変化した、という場合には「色一般」が変化の基体となります。
B:「生滅するもの」はどうなりますか?
―そうした限定せられた「一般概念」がなくなる場合に成立すると考えられます。生即滅(死)、有即無、の「即」に当たると思います。もちろんこの「即」を実体化してはいけません。それではまたしても変化になってしまいますから。西田は、概念相互の関係に「相異」と「相反」と「矛盾」を考えていて、「生滅するもの」はこの最後の「矛盾」の段階で成立します。同じく『働くもの』191頁9行目~192頁5行目を、Cさん、読んでください。
C:はい。「或一つの肯定的なる概念に対しては、之と異なれるもの、之に反するもの、之と矛盾するものとを考えて見ることができる。相異なれるものの統一として、その背後に物という如きものを考えることができる、色と音とは相異なるものであるが、一つの物が色を有ち又音を有つことができる。之と共に主観的には一つの類概念を以て統一することもできる、例えば、色も音も感覚的性質という一つの類概念に属するのである。相反するものは、時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない。併し相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ。相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない、縦、時の考を入れても、一つの物がその矛盾せるものに移り行くと云うのは消滅ということでなければならない。矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ。」
―ありがとうございます。そこまでで結構です。「変ずるもの」は狭義にはこの「相反」の段階に見られるものです。「変ずるもの」と「生滅するもの」の区別については後でも出て来ますので、今回はこの位にして、後一文残っていますね。「併し斯く考え得るかぎり、その背後に否定を含んだ一般者がなければならぬ、否定の肯定がなければならないのである」。「斯く考え得る」とは何を指すのか。おそらく「矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられる」を受けているでしょう。端的に言えば「矛盾」が考えられる、ということです。矛盾が考えられる以上、「その背後に」、つまりそうした「考え」の背後に、「否定を包んだ一般者」がなければならぬ、否定の肯定がなければならない」、ということだろうと思います。
C:この「否定の肯定」は絶対無ということでしょうか?
―そうですね。有無の対立を絶した絶対無。あるいは「即非」ということだと思います。『働くもの』ではこれが「客観的統一」と呼ばれていました。どちらも「なければならぬ」という言い方がなされていて、単なる「要請」とも読めますが、それだけではなく、これは体験(知的直観)の事柄でしょう。今日はここまでとします。
ヂ:(第113回):ヂ