中間のもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落333頁3行目「判断的関係を内に含むと考えられる」から335頁1行目「ければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルもYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云ふことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」といふは主語的方向に於て考へられるのである」(334頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「個物は質料と形相によって現成され、「若し主語となって述語とならないといふ主語的方向に於て全然述語を超越したものならば、それが変ずるとは云われない。」(331,3-4)― 個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです。ところで、「中間のもの」を形相と対立する質料とするならば、可能態から現実態への移行(運動)が考えられます。ならば、なぜ「中間のもの」は「変ずる」ものとはならないのでしょうか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです」とありますが、「述語性の否定」とは個物が「主語方向に於て全然述語を超越すること」という意味で、こうした個物は「変ずる」とは言われないので、それを否定することで、個物は変ずるものとなる、という意味でよいですか?

Y

はい。
佐野
「質料」とは素材のことで、例えばヘルメス像が大理石からできていれば、大理石が質料です。大理石はヘルメス像にもなれば、アテナ像にもなる。そうした意味で「中間のもの」です。これが「変ずる」とはどういうことですか?

Y

可能態から現実態に移行することです。
佐野
それは質料と形相とからなる実体としての個物が「変ずる」のであって、質料が変じているのではないのでは?先程の例で言えば、ヘルメス像は可能態から現実態に移行しても、大理石からできていることに変わりはありません。

Y

分かりました。
佐野
さらに考えるといろいろ難しいと思いますが、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(335頁1~8行目)
佐野
少しずつ行きましょう。「一つの系列に従って類を特殊化していく時、最後の種に至るまで、すべて相反する種差を含んだものである」とあります。例えば〈感覚的性質〉という類は〈色〉と〈色でないもの〉という「相反する種差」を含んでいますが、このうち〈色〉を取ればそこに特殊化が成立します。ついで〈色〉という種は〈赤〉と〈赤ならざる色〉という「相反する種差」を含み、このうち〈赤〉を取ればそこに特殊化が成立する。そうしてこの〈赤〉が「最後の種」になります。この〈赤〉は〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉という「相反する種差」を含みますが、そのうち〈この赤〉を取れば、それが「唯一のもの」(個色)となります。それは「それ以前のものが種に於てあると云う意味に於てあるのではない」とされます。〈赤〉という最後の種において〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉とが含まれていましたが、「唯一のもの」はこの「最後の種」における可能性としての〈この赤〉ではない、ということです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「相反するものはひとつの種を成すことを拒むものである」とありますが、〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は「最後の種」である〈赤〉を成していますから、この文は「種」の領域の話をしているのではないことになります。「個」の領域の話だということになります。〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉が同時に成り立つことを拒む、という意味でしょう。そこに〈時〉の考えを入れて変化を考えなければ成り立たないことでしょう。さらに続けて「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はないと考えられる」とあります。

A

「相反する」と「相矛盾する」とは同じことですか?
佐野
文脈で考えなければなりませんが、これまで西田は「相異」、「相反」、「矛盾」を分けて論じています(「働くもの」191,9-193,9)。「相異」とは、例えば音と色。これについては「一つの物」が両方持つことができるし、両者は「感覚的性質」という「一つの類概念」に属する、とされます。「相反」とは、例えば赤と赤でない色。これについては「時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない」が、「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とされます。赤い物は変化によって赤でなくなりますし、赤と赤でない色はともに色という類概念に統一されます。これに対し「相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とされます。そうして「矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ」(以上、191,10-192,5)とされます。これを読むと、「矛盾」とは、生即死、否定即肯定、無即有、といった「概念の生滅」のことであり、それを統一するのは「類概念」でも「物」でもなく、「場所」だ、ということになりそうです。

A

よく分かりました。
佐野
もう少し続きがあります。西田は特殊と一般の矛盾を考え、この矛盾の統一が「数理」の対象界、「経験」界、「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」でどうなっているかを論じます。数の対象界には「矛盾律」が成立しているけれども、その根柢に類概念があり、そこに矛盾の統一が見られる、とします。特殊と特殊の間には矛盾律が成り立つ(5≠~5(5でないもの))けれども、特殊と一般の間に矛盾の統一が見られる(5は数である。特殊=一般)ということだと思います。「経験的一般概念」の場合は、「一般と特殊との間に間隙がある」とされ、この間隙を充填するために「基体」が考えられる、とされます。〈赤〉が〈この赤〉になるためには「基体」が必要だ、ということです。「経験」界の場合は、特殊と一般の矛盾を統一するのは「基体」だということになります。最後に「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」の場合は、一般即特殊で、「その間に基体の如きものを容れる余地はない」、とされます。「一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所」で、この「矛盾的統一の対象界に於て始めて全体と部分との関係を見、更に進んで個物的なるものを見ることができる。モナドの世界に於ての如く、各自唯一の個体となることによって、全体の統一が成り立つ、たんに一般的なるものは予定調和の役目を演ずるに過ぎない」とされます。これを読むと、「矛盾的統一の対象界」とは直観の世界であり、個物の世界であることが分かります。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。よく整理ができました。「数理」の対象界の場合は、類概念自体が〈特殊=一般〉という矛盾の統一が成立する場所で、「経験」界の場合は、基体が矛盾統一の場所、直観ないし個物の世界の場合には個物を成立させる一般者が矛盾統一の場所になる、という理解でいいでしょうか?この一般者は述語面に成立すると考えてよいですか?
佐野
ええ。そういうことになるとも思います。それでは講読箇所に戻りましょう。どこまで行きましたっけ?

A

「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はない」までです。
佐野
ありがとうございます。「二つの相矛盾するもの」の例として、さきほどは生死、肯定と否定、それから有と無が挙がっていましたが、それを個物の世界で考えなければならない、ということになりそうです。この世界では一般即特殊(個)という形で一般と特殊の間に矛盾が成立するのみならず、それを通じて〈このA〉と〈このAならざるもの〉とが、つまり特殊と特殊とが、矛盾的に統一されていると考えられますが、ここでも「二つの相矛盾するもの」ということで念頭に置かれているのは、特殊と特殊の矛盾です。それを「統一する類概念がない」とは、それらを一般(類)概念によって統一することはできない、そんなことをすれば矛盾概念が矛盾概念でなくなってしまうということです。例えば〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は〈赤〉一般という類概念によって統一できるように考えられますが、そういう類ないし種の領域における統一が問題になっているのではない、ということです。あくまで個の領域における統一が問題だ、ということでしょう。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「併し」と来て、「我々が最も厳密に類概念を分けるには矛盾するものに分けて行くのである」と、今度は類、つまり一般の領域の話になります。そこでも実は矛盾するものに分けているのだ、というのです。例えば〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざる色〉とに分ける場合、じつは〈色〉そのものが一般と特殊、特殊と特殊の間にすでに矛盾を含んでおり、この矛盾に即して「分ける」ということ、つまり特殊化が行われる、ということだと考えられます。そうして「最後の種」に至る。「最後の種に於て尚之を相矛盾する種差によって唯一のものが限定せられる時、最後の種は相矛盾するものに分たれると考えねばならぬ」とされます。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
ここでまた「中間のもの」、つまり「質料」が出て来ます。「中間のものはなくならねばならぬ。中間のものがなくなると云うことは質料がなくなると云うことを意味する、即ち質料としての類概念の意味はなくなるのである」と、こう言われます。

A

質料は類概念ですか?
佐野
普通そうは言いませんが、相矛盾(相反、相異も根本的には相矛盾を含むというのが西田の考えです)する特殊と特殊を統一的に考えるために、いわゆる一般概念の他に物ないし質料が考えられるからだと思います。

A

質料としての類概念がなくなる、ということは〈個物の世界〉と言っても、その個物は質料を含まない、ということですか?
佐野
そうなりますね。物的な実体の解消です。次へ参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(335頁8~11行目)
佐野
「こういう意味に於て」とはどういう意味ですか?

B

「質料としての類概念の意味はなくなる」という意味だと思います。
佐野
そうでしょうね。そういう意味において「個物は特殊と一般との関係の外に出て而も判断的関係によって限定せられると云うことができる、質料なき純粋形相概念に於て限定せられ得る特殊でなければならぬ」とされます。個物は質料なき純粋形相概念になってしまいました。まさに物的実体の解消ですね。

B

はい。
佐野
次いで「矛盾概念を包む類概念はないと考えられるかも知らぬが、両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。「矛盾概念を包む類概念はないと考えられる」については先程考察しました。矛盾概念を上位概念によって統一してしまうと矛盾概念ではなくなってしまう、ということでした。ここではその主張を否定するのではなく、矛盾概念を矛盾概念のまま統一することが問題になっています。「両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。我々が〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざるもの〉とに分けることができるのは、〈色〉においてすでに矛盾が統一されているからだ、ということになります。さらに言えば、我々が矛盾を意識できるのは、すでに矛盾的統一を知っているからだ、ということになると思います。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(335頁11行目~336頁2行目)
佐野
「両者の背後に限定せられた類概念が考え得らるれば得らるる程、矛盾的統一は明になるのである」とありますね。この「背後」とは上位概念という意味ではありませんね。「数学」が「好適例」だとされています。どなたか説明してください。

Y

リーマン空間とユークリッド空間の背後の「空間」そのものはどうですか?
佐野
なるほど。三角形と円の背後の平面、5と~5(5ならざるもの)の背後の数、も行けそうですね。これらの例における空間、平面、数が「類概念」になります。そこにおける「矛盾的統一」とはまずは、特殊と一般の統一です。5がそのまま数とされている。これは一即一切、一切即一と言ってもいいと思いますが、そのうえで、5と~5とが矛盾的に統一されているということですね。通常は5と~5は矛盾律によって分かたれていると考えますが、そのように分かたれるのは、そもそも矛盾的に統一されているからだ、そのように西田は考えます。文章が切り詰められているので分かりづらいですが、「働くもの」における叙述などを参考にすればそういうことになると思います。ここまでは?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「之に反し個色という如きものは実際に於ては限定することはできない」とありますね。これは先程の話で言えば「経験」界の話です。どこまでも個に到達できない、ということです。しかしこれを超えて直観の世界・個の世界に入る。そうなると「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」とありますが、どう変わるのですか。

C

具体的一般者になる、ということではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。抽象的に一般と特殊を分けて考えて来た者にとってはそうした意味の転換が起りますね。しかし個の世界だけでなく、じつは一般の世界もこうした矛盾の統一によって貫かれているというのが西田の考えのようです。次いで「唯一なるものは自己自身に同一なるものでなければならぬ」、〈この赤はこの赤である〉、ということですね。しかし「自己自身に同一なるものは主語と述語と転換し得るものでなければならぬ」とされます。これはたんに〈この赤はこの赤である〉の主語と述語を転換できるという意味ではなさそうです。次に「一般なるものを特殊化して行って、その尖端に於て一般と特殊とが転換し得ると考えることができる」とあります。〈赤〉を〈この赤〉にまで特殊化する時、同時に〈〈この赤ならざる赤〉でない〉として、〈この赤〉は〈この赤ならざる赤〉を含みます。そういう仕方で、主語的なもの(〈この赤〉)は述語的なるもの〈赤〉一般を、個の領域で包むことになります。まさに一即一切、一切即一ということですね。今日はここまでとしましょう。
(第104回)
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変ずるもの―特殊化の原理

前回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しました。プロトコルはありません。それではさっそく今回の講読箇所に入りましょう。
佐野
それではAさんお願いします。

A

読む(333頁3行目~12行目)

A

「判断的関係を内に含むと考えられる一般的なるもの」とは「具体的一般者」のことですか?
佐野
そうだと思います。特殊化の原理を含む一般者ですから。そうした「一般者が最後の種を越える」とありますね。たとえば〈赤は色である〉という判断において、〈色〉に〈赤〉と〈赤ならざるもの〉という種差がありえますが、このうち〈赤〉を取れば〈色〉は〈赤〉となり、〈赤は色である〉が成り立ちます。ここでもう一歩進むと、「最後の種」として〈赤〉を考えることになります。この先は「種」ではなく「個」の世界だからです。それを超えて見ましょう。〈この赤は赤である〉という判断において、〈赤〉に〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉という種差が含まれていますが、このうち〈この赤〉を取れば、〈赤〉は〈この赤〉となり、〈この赤は赤である〉という判断が成り立ちます。この判断はすでに「個」の領域で成り立っています。その場合、〈この赤〉が主語で、〈赤〉が述語です。この〈赤〉は先程の「最後の種」とは異なります。「最後の種」はなお一般の領域だからです。〈個〉の領域における述語としての〈赤〉が今問題になっています。テキストでは「最後の種を越えて尚述語的一般性を維持する」と表現されています。この「述語的一般性」は〈個〉の領域で成り立つものです。そうしたものは「反対を内に包んだもの」だとされます。「反対」とは、先の例で言えばどういうことになりますか?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。この〈個〉の領域における「述語的一般性」は〈この赤にしてこの赤でない〉という矛盾を含んだものです。続いて「最後の種に於て既に反対(唯一の個物的種差を有つものと然らざるものと)を内に包むと考え得るが」とありますが、これは繰り返しですね。「種」の領域の話です。〈赤〉という種が可能性として〈この赤〉と〈この赤ならざる〉という反対を含むということです。ここから「更に特殊化の方向を進めて」行きます。〈個〉の領域に入ります。「主語となって述語とならないと云う意味に於て限定せられたもの」、つまり〈個物〉ですね。「所謂一般概念を越えたもの」と言い換えられています。こうした〈個物〉を包む「述語的なるもの」、出ましたね。〈個〉の領域における「述語的一般性」です。それは「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」とされます。「述語」ですから「主語」ではない。その意味で「主語的なるものの否定を含むものでなければならない」と言われていると思われますが、この「主語的なるものの否定」には、後で出て来る「質料」がなくなる、ということに関わっているようです。端的に言えば主語として立てられた〈物的実体〉の解消です。すべてを形相として見ると言ってもいいです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「最後の種に於て相反する種差が含まれると考えられるが、之を超越したものに於ては(それが超越的述語に於てあると考えられるかぎり)」と、また同じことが繰り返し述べられています。「超越的述語」とは〈個〉の領域における「述語」ですね。そうした「述語」には「相反する判断的対象が含まれる」とされます。この「相反する判断的対象」とは?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(333頁9行目~12行目)
佐野
ギリシャ哲学が出て来ましたね。アリストテレスが念頭に置かれています。すべてのものが形相と質料から成る。「質料」は素材です。ヘルメス像で言えば、その形が「形相」で、その素材となる、例えば大理石が質料です。「中間的なるものは質料に属する」とありますね。大理石はヘルメス像にもなれば、別の像(たとえばアテナ像)にもなり得る、どちらでもありえる「中間的なもの」です。これに対し「形相」の方は、ヘルメス像であるか、ヘルメス像でないかのどちらかですから、「常に対立をなす」ものです。「単なる質料」は「これこれ」と言えないものですから、その意味で「無」です。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「形相は質料に先立ち之を内に含むと考えるならば」とありますね。これはすべてを「形相」から見る場合のことです。物の見方に二種類あって、質料から見て行く場合と、形相から見て行く場合があります。質料から見て行く場合には、すべては可能態(質料)から現実態(形相)への「運動(キーネーシス)」となりますが、形相から見て行く場合はつねに「現実活動態」(エネルゲイア)となります。後の方の見方が「観想的生」につながります。ここでは後の方の見方がとられています。こうした「形相」における「最後の種」となるものは〈このヘルメス像〉か〈このヘルメス像でない〉かのいずれかですから、「反対を含むもの」です。次をCさん、お願いします。

C

読む(333頁12行目~334頁1行目)
佐野
「主語となって述語とならないと考えられるもの」、「個物」ですね。「それが判断的知識に属するかぎり、述語的なるものに於てあると考えなければならぬ」、同じことの繰り返しですね。この「述語的なるもの」は〈個〉の領域におけるものです。こうした「述語的一般者に於てあるもの」は、もちろん個物ですが、それが「肯定的であると共に否定的でなければならぬ」とされ、それが「変ずるもの」だとされるところは少しわかりにくいですね。

C

たしかに。どうして個物が「変ずるもの」になるのですか?
佐野
個物は捉えられず、常に変じている、ということでしょうね。

C

描かれた絵の色は変わらないと思いますが。
佐野
光の具合によって変わるでしょうし、こちらの状態によっても変わるでしょう。どうやら西田は、ヘーゲルが『精神の現象学』でやったように、個物は捉えられない、と考えているようです。ただヘーゲルが捉えられるのは普遍だけだ、とするのに対し、西田は「変ずるもの」のみ捉えられる、と考えているようです。そうして「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」と言います。「此の如き」とは〈個〉の領域で「相反する種差を含む」ような「述語的一般者」ということでしょう。次をⅮさん、お願いします。

D

読む(334頁1行目~6行目)
佐野
色の例で説明していますね。「個色」というのが出て来ますが、西田は後で「個色という如きものは実際に於ては限定することができない」(335,13)と述べているように、実際には「変ずるもの」としてしかとらえることはできない、と考えているようです。さて「色の性質を分けて行って限定せられた唯一の色というものが種々なる色の系列に於て定まるには、最後の種差というものが加わると考えねばならぬ」とありますね。「最後の種差」とは〈赤〉の場合何ですか?

D

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。次にはこう書いてありますね。「種々なる系列によって分けられた後、最後の系列に於て或一つの性質を有つか有たないかと云うことによって個色が限定せられるのである」。「或一つの性質」が〈この赤〉です。そうしてその後大事なことが書かれてありますね。「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云うことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」というは主語的方向に於て考えられるのである」。「中間のもの」とは以前出て来た「中間的なるもの」つまり「質料」のことです。つまり〈物的実体〉としての「個物」のことです。西田はこういう意味での個物を解消しようとしているようです。次をEさん、お願いします。

E

読む(334頁6行目~335頁1頁)
佐野
「個色」とは何かが述べられていますね。①「他の何の色とも異なったもの」(したがって他の色との関係が含まれて居る)、②「種々なる系列の関係に於て秩序的に限定せられた最終のもの」、③「その色を有つ或物と考えることもできない」、すなわち「色の一種でなければならない」、④「述語的一般性を超越したものでなければならぬ」、以上の四点が述べられています。最後の「述語的一般者」は、難しいですが、〈個〉の領域における「述語的一般者」と考えておきます(後に「甲は甲であるという同一判断によって同一なるものが限定せられる時、その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」(336,11-13)とあります。この「異なった」というところがここでは「超越」と語られていると考えられます)。そうしてこの「個色」について「唯自己自身の述語となる」とされています。これは<この赤>ではどのようなことですか?

E

<この赤〉は<この赤〉である、ということです。
佐野
そうですね。それに続く文の中に出て来る「自己自身に同一なるもの」も同じ意味ですね。

E

この「同一」は「絶対矛盾的自己同一」の「同一」ですか?
佐野
さしあたり、ここを読むだけならそこまで考えなくても、同語反復のことを言っているということで十分ですが、「自己自身に同一なるもの」(この赤はこの赤である)は、そうしたものがそこに於てある「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤ならざるもの〉)を必要とし、じつはこうした述語との同一が言われているのだと思われます。先程引用した後の文では、「〔(主語と述語が)異なったものでなければならぬ、〕而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語を転換することができる」(336,13-14)と言われています。そうなると「絶対矛盾的自己同一」ということになりそうです。〈山は山である〉は〈山は山でない〉をくぐって言われている。絶対的矛盾をくぐって〈山は是山〉と言われています。しかしそのことは同時に最初に常識的に〈山は是山〉と言ったのとは別の意味が出て来ています。つまり〈山は是山〉において直ちに〈山は山ならず〉ということが現成している。それがここでは、個色が直ちに「変ずるもの」という仕方で主張されていると考えられるのです。先程、「個色」の①の所で、「個色」が「他の何の色とも異なったもの」であるとされた時に、同時に「他の色との関係が含まれて居る」とありましたが、「この赤はこの赤である」が同語反復(つまり無意味)以上の意味を持つとすれば、〈個〉の領域における「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤でない〉、「他の色との関係」)をくぐっていなければならないのです。今日はここまでとしましょう。
(第103回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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