判断意識を超越する

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落279頁13行目「直観の形式としての空間の如きものであっても」から同段落末281頁3行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードは「普通には始から主客を対立的に考へ、知るといふことは主観が客観に働くことと考へるが故に、対立なき対象というものが主観の外に考へられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である」(280,9-13;下線R)でした。そうして「考えたことないし問い」は「普通の主客対立を前提とする認識論と異なり、従来主観の外にあるとされる判断以前の「対立なき対象」或は「直覚的なるもの」と、従来主観においてあるとされる「一般概念」或は「意味」は、西田にとって、ことごとく「意識において内在する」のである。さらに、一般概念を「直覚的なるものの意識面の輪郭」とし、意味もそれによって生じると考える。プロトコルの図(下図)で示されているような構造から、「直観とは主語面が述語面の中に没入」し「述語的なるものが主語となる」ことをどう考えるのか、また「直覚的なるものは自己自身に同一的なるものに」とはどのような意味であるのか」(263字、図有り、プロトコル参照)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
この図ですけれども、これだと「一般概念」の範囲だけが「意味の世界」のように見えます。ですがテキストでは「主語面」(「対立なき対象」)の「余地」が「意味の世界」となっていますので、「一般概念」の外も「意味の世界」ということになりますね(描きにくかったのかもしれません)。皆さんその他にこのプロトコルでお気づきの点はありませんか?

K

下線部ですが、前回「之」を「輪郭」を受けるものとして解釈されましたが、「直覚的なるもの」ではないでしょうか。その後に「恰も力の場の如きものである」とありますので、その方が理解しやすいかと。
佐野
たしかに「力の場」に「直接的なるもの」を放り込むと「種々の変化」が起こるというのはイメージしやすいですね。しかしやはり「之」は指示語としては「輪郭」を指すと考えた方が自然ですし、判断以前の主語である「直観的なるもの」に「一般概念」の枠を当てはめることで「力の場」が生じ、それによって「意識面の種々の変化」が「力線」として描かれる、とも考えられますね。同じ花を見てもMさんと私では「一般概念」が異なりますから、まったく違ったように見える、ということです。どうでしょうか?

K

もう少し考えて見ます。
佐野
Rさんのプロトコルは、結局前回の問いをそのまま持ち越した形ですね。テキストでしばしば登場する「直観」はカントの感性的直観で、西田の言う「直観」ないし「直覚」ではないのではないか、と。

R

そうです。
佐野
前回も申し上げましたが、ここで西田が「直観」ないし「直覚」をどのように使っているかはテキストの文脈によって判断するほかありません。西田はもしかすると「直観」にいくつかのレベルを考えていて、例えば「判断意識」における直観と、「意志の意識」における直観、さらに西田が『善の研究』で言っていた「知的直観」のような「真の直観」(この言葉は後に286頁8行目で出てきます)を同じ「直観」という語のもとに統一的に表現しようとしている可能性があります。それが「直観」としてこれまで出てきた「主語面が述語面の中に没入すること」(279,15)や、「述語的なるものが主語となる」(275,9-10)や、「直覚的なるものは自己自身に同一的なるもの」(281,2-3)という表現かもしれません。西田に限らず、テキストを読む場合には〈こうだ!〉と決めつけず、〈こうかもしれないが違うかもしれない〉という気持ちで、つねに判断を停止(エポケー)し括弧に入れる心構えが必要だと思います。これはある意味で早く分かりたいという〈自我〉を削り落とす修行です。私は、哲学は役に立たないとつねに言ってきましたが、意外に役立つかも。

R

私はどうしても決めつけて読む傾向がありますので気を付けたいと思います。それにしても「直覚的なるものが自己自身に同一なるもの」とはどういう意味でしょうか?
佐野
281頁15行目に「自同律に於て表される直覚面」という語があります。「自同律」とは〈A=A〉のことです。これを受けて「自己自身に同一なるもの」と言ったのではないでしょうか。以前(277,12-13)「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」という表現がありましたし、西田はこれを「対立なき対象」と呼んでいるのではないか、前回はそのように解釈しました。

R

主語面と述語面が同一になることではないでしょうか。
佐野
それでもいいのですが、それではその直後に出て来る「(直覚的なるものは)述語面の中に含まれて居なければならない」をどう解釈しますか?「包摂的関係」を推し進めて行くと、最後に判断以前の主語において、主語面と述語面(特殊と一般)が一致します。これはたしかに主語面と述語面が同一になることです。しかし西田はその背後にもこれを越えて、これを含む述語面があると考えています。志向対象に対しても、その「意味の縁暈」があるということです。図には地がある、と言い換えてもいい。そうなるとこの「直覚的なるものは自己自身に同一なるもの」というのはやはりA=Aという「自同律」において表される「対立なき対象」のことではないか、そうした読みの可能性が出てきます。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(281頁4行目~8行目)
佐野
指示語の「之」がいっぱい出てきますね。押さえていきましょうか。「一般と特殊との包摂的関係を何處までも推し進めて行って、自己自身に同一なるものの背後にも、尚之を越えて広がれる述語面が真の意識面である」とありますね。先程申し上げたことが述べられていますが、ここに出て来る「之」とは何を指していますか?

A

「自己自身に同一なるもの」です。
佐野
そうですね。「真の意識面」とありますが、これは「対立的無の場所をのみ意識面」(281,1)と考える「普通」の見方に対するものでしょう。〈真の無の場所〉に限定する必要はないと思います。「一般概念」内の「意識面」も含めておきます。次に「直覚も直に之に於てあり、思惟も直に之に於てある」の「之」は同じものを指すと考えられますが、この「之」は?

A

「述語面」ないし「真の意識面」です。
佐野
そうですね。次に出て来る「対立的対象が之に於てあるのみならず、無対立の対象も之に於てあるのである」の「之」も同じく「述語面」ないし「真の意識面」を指していますね。「無対立の対象」とは「対立なき対象」、〈判断以前の対象〉のことでしょうから、「対立的対象」とは〈判断の対象〉で、280頁2~3行目に出て来る「思惟の対象」「知覚の対象」などが念頭に置かれていると思います。次に「すべての主語面を越えて之を内に包むが故に」の「之」は?

A

「すべての主語面」です。
佐野
そうですね。続いて「すべての対象は之に於て同様に直接でなければならぬ」の「之」は?

A

今度は「述語面」です。
佐野
ありがとうございます。続く「種々なる対象の区別は之に於てあるものの関係から生ずるのである」の「之」も同様ですね。種々なる対象とは直覚の対象(無対立的対象)、知覚の対象や思惟の対象など(対立的対象)のことを言うのでしょう。それではBさん、次を読んでください。

B

読む(281頁8行目~11行目)
佐野
難しいですね。「場所」論文も終わりに近づいていますが、内容が凝縮していて強烈に難しい。「主語面を越えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越すると云わねばならぬ」とありますね。ここには「超越」があります。この超越について皆さんはどのようなイメージをお持ちですか?私はあの「英国にいて完全なる英国の地図を写す」という企図を思い浮かべます。描かれた地図を見ているのが「反省」で、そこから判断が成立しますが、そうした時にはその地図はすでに過去のものとなっています。そこでまた新たに地図を描かなければなりません。こうした運動はどこまでも続きます。完全な地図は完成しません。しかし地図が描けたということは、描く以前に描くべきものを直観しているから描けるわけで、こうした足下に実は完全なる地図が常に直観されていることになります。これは一種の気づきであり、転換ですね。テキストではこの「超越」はすぐ後に出て来るように、「意志」への超越です。判断意識から意志の意識への超越ですね。これはずっと前の『倫理学草案第二』では「見者」(観察者)の立場から「作者」(行為者)の立場への転換、『善の研究』では第二編から第三編への移行に当たります。少し『善の研究』の該当箇所を見ておきましょう。Cさん、岩波文庫改版『善の研究』52頁15行目から読んで見てください。

C

読む
佐野
「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である」とありますね。これが「無対立の対象」です。次いで「これについて種々の連想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる」とありますが、これが、ペンが「知覚の対象」ないし「思惟の対象」になったことを意味しています。ここまではよろしいですか?

C

はい、大丈夫です。
佐野
次いで「これに反し、このペンは文字を書くべきものだという様な連想が起る。この連想がなお前意識の縁暈としてこれに附属して居る時は知識であるが、この連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」、とありますね。これが知識ないし判断から意志への移行です。テキストに戻ると、次に「主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる、主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる」とありますが、これは対象を外に見る見方の消失ということで、判断ないし反省の消失です。そこに、つまり「此の如き述語面に於て意志の意識が成立するのである」ということになります。外から観察するという態度がなくなったところに意志が成立する、ということです。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(281頁11行目~282頁2行目)
佐野
「判断の立場のみ固執する人には、此の如き述語面を認めることはできないであろう」、とまず来て、次に「併し意志は判断の対象となることはできぬが」とあります。そんなことはない、〈私がみかんを食べたい〉という意志は反省できるではないか、そう考えられるかもしれませんね。しかしそのように反省された意志はすでに反省の対象であって、意志そのものではない。意志は自覚するほかない。それで「我々が意識の自覚を有する以上、意志を映す意識がなければならぬ」と言われます。この「意識」は対象化できない意識で、「意識する意識」です。図に対する地です。しかし同じことは判断そのものについても言える、というのが次の文です。「判断自身すら判断の対象となることはできないが、我々は判断を意識する以上、判断以上の意識がなければならぬ」というのがそれです。この「判断以上の意識」は「意識一般」、つまり「意識する意識」であると考えられます。

M

280頁4行目に「知覚する私」「思惟する私」とありますが、その「意識」はこの「私」と同じですか?
佐野
そうだと思います。Mさんという「私」ではありません。誰でもなく誰でもあるような「私」です。前回Mさんはそれを「我」と呼んでいましたが。次へ行きましょう。「而して此の如き意識面は之を述語方向に求めるの外はない」とあります。判断の意識にせよ、意志の意識にせよ、こうした地に相当するものは述語的方向に求める外はない、ということです。次に「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」とありますが、これは注目すべき表現です。つまり述語面に深浅、広狭があるということです。それに応じて意志が自由になるということは、意志ないし自由にも深浅、広狭があるということになります。また述語面に深浅、広狭があるということは、通常の意識における述語面は限定せられた有の場所、つまり一般概念内にあるということです。時間がなくなってきましたので、次に行きます。「併し何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」とあります。

R

この「意志は述語を主語とした判断である」というのが分かりません。直観も同じように規定されていましたが。
佐野
以前「直観というのは述語的なるものが主語となる」と言われていた時には、「すべて作用と考えられるものの根柢」として求められるものでした(275,9-10)。その際にはもっとも深い意味で捉える必要がありますので、〈随処に主と作(な)る〉という意味に解釈しました。「すべて作用」には「判断」も「意志」も含まれます。判断の場合は、例の「英国の地図」の例を想い起せば、直観が根底にあることは理解できますが、意志の場合も「述語が主語になる」という形を取ります。

R

それがよく分からないのです。
佐野
Rさんは論文を書いていますね。それは「院生は論文を書くものだ」という一般的な知識の問題ではないでしょう。「この論文」を書かねばならない。「この論文」は「目的」になります。意志一般(意志が「善」を求めるものだとすれば善一般)をこの目的(この善)にして、それを実現すべく対象とする、ということです。それが述語(一般)を主語(特殊)とした判断であると解釈できます。同じことは〈ミカンが食べたい〉でも言えます。我々はミカン一般を意志しない。現実に食べるのは〈このミカン〉です。〈このミカンが食べたい〉、ここに西田は「勝義」の「判断」を見て取ります。「勝義」ですから通常の判断ではありません。こうした「判断」を含まない意志は「単なる動作に過ぎない」と西田は言います。今日はここまでにしましょう。
(第67回)
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述語面に於いて意識される

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落278頁4行目「始から主客の対立を」から同段落末279頁13行目までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードは「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである」(279,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「言葉にするということは対象を判断の述語面に映すということである。鏡に映すということである。それは対象としては矛盾を含まないものに対し、矛盾を与える事であり、そうした矛盾を生み出す存在として今、私は在る。しかし、西田のいう「我」は「誰の我でもなく、誰の我でもある。そうした我である」(読書会だより10月14日)という。またテキストに「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」(275.8)とある。述語的なるものが主語となるような事態、直観においては、矛盾を生み出す存在である私も「我」として存在し得るのだろうか」(256字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Mさん、何か付け加えることはありますか?

M

「読書会だより」に「意識せられた意識」に対するものとして「意識する意識」というのが取り上げられています。その場合、「意識せられた意識」は『善の研究』で言えば、第二編の直接経験で、それは「限定せられた一般者」になると思います。それに対し、「意識する意識」は第一編冒頭の「純粋経験」で、これは「真の一般者」です。そうした場合、「意識する意識」は「意識するものなくして意識する意識」であるとも思えるのですが、この行為的主体のないように思えるものがどうやって意識するものを私たちの認識にもたらすのでしょうか。「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」がどうやって私に認識をもたらすのかというのを問うてみたかったのです。
佐野
難しいですね。少し問いを整理してみましょう。対象が矛盾を含まないというのは、277頁12行目を受けていますね。

M

はい。
佐野
つまり、対象は生即死、有即無という在り方をしている。それが判断の述語面に映された時に矛盾となる、ということでしたね。

M

はい。
佐野
述語面とは意識面のことです。そこで意識とは「矛盾を生み出す存在」で、それが「私」だと。

M

はい。
佐野
それに対して「我」とは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」であり、これが「意識する意識」だと。

M

はい。『善の研究』にも「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬという意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である」(岩波文庫改版74頁)とありました。
佐野
そうすると、問いは「我」がどうして「私」になるのか、つまり「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を生み出す私」になるのか、「意識する意識」が「意識」ないし「認識」をもたらすのか、ということですね。

M

そうです。「直観というのは述語的なるものが主語となることである」とありますが、これは「意識するものなくして意識する意識」のこと、つまり「意識する意識」のことだと思います。
佐野
以前その箇所を読んだ時は、それを「包むものなくして包む」と解釈しましたね。

M

この直観は「自己が自己に於て自己を見る」ということで、この内「自己に於て」というのが「体験の場所」です。西田は同時に「自己を失う」とも言っています。これは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」だと思うのです。それがどうして認識を生むのか、そういう問いです。
佐野
それでは、皆さん、ご自由に質問してください。

R

「考えたことないし問い」に「矛盾を産み出す存在として今、私は在る」とありますが、どうして「在る」と言えるのですか?
佐野
たしかにその問いは起こりますね。Rさんはこの「私」をどのように考えますか?

R

この「私」はすでに「意識された意識」だと思います。それは認めたくない自分だが認めざるを得ない自分である、そういう自分としてあるのだと思います。
佐野
在る、と言ってよいのですか?

R

言ってはいけないけれど、そうした矛盾として在るということです。

M

たしかに「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」という側面から言えば、「在る」とは言えないですね。しかしこの「知る」は判断で、今問題にしているのは直観です。直観においてどうして「私」があると言えるのか、そういう問題です。
佐野
この「私」は〈Mさん〉というような〈個としての私〉ではないですね?

M

違います。認識がどう成り立つか、です。『善の研究』でもすべてが純粋経験の発展となっていますが、それを「場所」において見るというのが「場所」の論文だと思います。その場合の「見る」というのが「誰の我でもない我」であるのに、どうして認識が生ずるか、ということです。
佐野
西田は『善の研究』では純粋経験から出発していますね。

M

はい。「場所」論文では「有るものは何かに於てなければならぬ」から出発しています。
佐野
ええ。おそらく認識は、そうした場所の自己限定ということになるでしょうが、これは純粋経験の自己発展と同じことですね。しかし「純粋経験」にしても「有るものが有る」という経験にしても、或る種の〈驚き〉であり、そこには出会いがあり、したがって〈他者の契機〉が必要だと思うのです。それがないとそもそも「体験」という出来事もありえないし、「認識」ということも、まして〈個としての私〉も出て来ないように思います。(後で考えたことですが、「意識する意識」とは〈意識するものなくして意識する〉ということであり、この〈意識するものなくして〉というところが「真の無の場所」になるのでしょう。それは「自己が自己に於て自己を見る」において、最初の「自己」が無になることで「自己に於て」という「真の無の場所」になるということだと思います。したがってこの「真の無の場所」は「意識するものなくして意識する」(「自己なくして自己を見る」)が成立する場所として、すでに有即無といった矛盾を含んでいます。このうち有が主語、無が述語ですが、この有を無が包むという仕方で有と無が同一の述語面に於てある、と考えられます。主語は有即無として「対立なき対象」ですが、それ自体が有とされることで、述語と対立・矛盾し、こうして述語面において矛盾が顕わになる、「矛盾するとは述語のことである」と言えるのではないでしょうか。Mさんの問いに即して言えば、「誰の我でもなく、誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を産み出す存在」としての「私」になるということです。どうでしょうか?)プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(279頁13行目~280頁1行目)
佐野
「直観というのは主語面が述語面の中に没入することに外ならない」とありますが、こうした直観の規定と、先の「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」という規定と整合的に理解できますか?

B

主語面が述語面に没入して、そうした述語面が主語となるということで、大丈夫です。
佐野
ほかにありませんか?

C

「対立なき対象」というのが分かりません。
佐野
「対立なき対象」ということでまず思い浮かぶのはラスクです。ラスクの「対立なき対象」は判断以前のものでしたね。あるいはこれを277頁に出てきた、矛盾を含まない「対象其者」と考えることもできますね。ここでは数学において空間が三角形を「含む」あるいは「包む」とか、三角形が空間に「含まれる」「包まれる」とかいう、いわば第二次的な関係より先に「すべてが空間である」ということがなければならないのと同様、「経験科学的判断」においてもまずはすべてが「意識界」だと言おうとしていますね。

D

279頁には「数学的判断」の場合には特殊の面と一般の面とが「単に合同する」のに対し、「経験科学判断」の場合には「特殊を含む一般の面が之(特殊)を包んで餘ある」とありますが。
佐野
そうですね。数学の場合に「包む」「包まれる」と言ったのは間違いですね。5(特殊)が数(一般)であるとか、三角形が空間であるとかいうのは、厳密には「含む」「含まれる」というよりは5がそのまま数であり、三角形がそのまま空間である、ということでしょう。「含む」「含まれる」という関係はあくまで二次的だということです。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(280頁2行目~9行目)
佐野
「意識」されるということが「述語面に於てある」ということで、思惟の対象も、知覚の対象も、意識としての「作用」も同一の「意識面」つまり「述語面」あるとされています。次いで「意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面」とありますね。今度は「包む」です。このように「包み込まれた主語面が対立なき対象となり、その余地が意味の世界となる」とあります。図に描きたくなりますね。ドーナツ型の二重の円になりますね。外側の円が述語面ですが、真の無として本来それには一定の大きさはないのですが、一応このように描いておきます。それに対して内側の円が主語面になります。その間のドーナツの部分が「意味の世界」ですね。次を読むと内側の円はさらに「感覚的なるもの」「直覚的なるもの」が来て、ドーナツの部分に「意味の縁暈」「思惟的なるもの」が来そうですね。

E

質問があります。「余地」(ドーナツの部分のこと:佐野)とありますが、これは1行目等にある「尚餘ある」を受けているのでしょうか。
佐野
そうだと思います。279頁8行目にもありますね。「経験科学的判断」の場合です。他にありますか。

F

「対立なき対象」が主語面に来て、「意味の世界」がその外にありますが、ラスクの場合、すべてが意味ではなかったですか?
佐野
そうですね。そうなるとこの「対立なき対象」はラスクを離れて、西田の言葉として理解しなければなりませんね。例えば判断以前の矛盾なき対象のようなものを考えて見てはどうでしょうか。

F

分かりました。もう一つ質問があります。この「直覚的なるもの」は西田の本来的な意味での直覚ではなく、感覚的なものと置き換えられているので、カント的な感性的直観のことではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうするとこれまでに出てきた、たとえば「直観というのは主語面が述語面に没入することに外ならない」とあったのも、実はカント的な感性的直観に限定されると。ここでは一応、そうした読みの可能性もあることを頭の隅に置いたまま、次を読み進めましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(280頁9行目~13行目)
佐野
「普通には」とありますので、これは西田の立場でありませんね。普通は「知る」ということを主観客観の対立の中で考えるから、「対立なき対象」が主観の外に置かれて、「概念的なるもの」、カテゴリーなどの一般概念ですね、それが主観においてあると考えられる、というわけです。しかし西田はそうじゃない、と言います。「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である、恰も力の場の如きものである」、このように言います。指示語がありますね。「之」とは何でしょう。

D

「輪郭」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。もう一つ指示語がありますね。「その意識面」の「その」とは?これも「輪郭」でしょうね。そうすると「その意識面」とは「輪郭」に属する「意識面」ということでしょう。こうなると円は三重になりますね。ドーナツの部分にもう一つ円が描かれることになる。「一般概念」の円です。この一般概念によってその円内の「意味」は矛盾のないものとなります。「種々なる変化」とはそうした「一般概念」のうちに主語面が置かれることによってさまざまな意味を生ずる、ということでしょう。そうしてそれが「力の場」のようだ、そのように言っているのではないでしょうか。とりあえずこのように解釈しておきましょう。次をDさん、お願いします。

D

読む(280頁13行目~281頁3行目)
佐野
「意識に於ては意味が内在するのみならず、対象も内在するのである」、これはよろしいですね。次に「志向的関係」と出てきますが、これはフッサールを念頭に置いたものでしょう。フッサールによれば志向的関係とは「意識外のものを志向する」のだが、そうではなくそれは「意識面に於てあるものの力線」だというのです。フッサールは意識が志向する対象は表象ではなく、意識外の対象だとしますが、西田はそれをも含めて、「意識面に於てある」と考えていることになります。

E

「力線」とはどういうことでしょうか?
佐野
「一般概念」の「輪郭」に囲まれた部分を「力の場」と呼んだことに関連しています。その場に対象が置かれるとその対象の方向に力が働きますが、これを「力線」(力の場で、接線がその点における力の方向と一致するように引いた曲線群)と呼んで、こうしたものが「志向的関係」だというのでしょう。

F

次の「自同律」とは何ですか?
佐野
〈AはAである〉ということです。矛盾律〈Aは非Aではない〉と言い換えてもいいと思います。そうすると「普通に自同律に於て表される直覚面」とは「対立〔矛盾〕なき対象」のことだと考えられ、これまでの叙述とも整合的になります。テキストでは、「普通には」そうした「直覚面」を「意識面」から除去して、「剰余面」だけを「意識面」と考えている、そうした場合には、この意識面は「対立的無の場所」になるとしています。これに対し「直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれて居なければならない」と述べ、そのような述語面を「真の無の場所」と考えているようです。今日はここまでとしましょう。
(第66回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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