いかにして一般は個になるか

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落287頁7行目から288頁5行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものものであろう」(287,15-288,3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「働くもの・変ずるものを判断するには、主語面において「個体」、述語面において「個体」について述語となる「最後の種」を考える必要がある。西田はその両面をも「述語として限定することのできない何物」即ち「一般概念」が「自己自身を限定する」ことと考えている。また、働くものを判断するには「述語面が主語面を包むものでなければならない」とされる。「一般概念」の述語面の自己限定が如何にその主語面の自己限定を包むか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

O

「働くもの・変ずるもの」を理解や判断のレベルで考えるのではなく、何かが生まれる時に興味があります。

K

テキストでは「変ずるものを意識するには」(287,7-8)とありますね。意識するためには、主語面(対象面)が述語面(意識面)に附着して、しかも両者が単に一つになるというのではなく、述語面が主語面を包むものでなければならない、そのように書かれています。つねに「意識」や「判断」から考えられています。

O

その「単に一つになってしまえば、働くものもなく、判断するものもない」というところ、否定的に読むのではなく、そこに直観が残る、というようには読めないですか?

M

そこはやはり「単に」という言葉があるから否定的に〈判断が成り立たない〉というように読むべきじゃないかと思います。この「単に一つ」というのは、意識を失ったような状態とか赤ちゃんのような状態ではないでしょうか?

R

だから「述語面が主語面を包むものでなければならない」と言われるのだと思います。両者が同じ範囲で重なる(同値)ではなく、述語面が主語面より広いということです。そうでなければ変ずるものを見たり、判断したりできない、そういうことだと思います。ただ主語面での自己限定と述語面が主語面を包むということがどう関わるかが分かりません。
佐野
その場合、主語面と述語面を分けて考えていますね。「変ずるもの」を考える場合には「述語として限定できない何物か」がなければならないと言われる場合、この「何物か」は主語面と述語面を分けて考えることのできないものだと思います。「変ずるもの」ですから、一方に「変ぜざるもの」があって、他方でそれが「変ずるもの」として変ずる、そうでないと「変ずるもの」を考えられない、ということです。しかも両面は分けて考えられないということです。

A

まだよく分からないのですが。
佐野
個(個物)ということもそうですが、変化・動ということに西洋哲学は苦しんできたと思います。人間は言葉で考えます。言葉はつねに一般です。「個」、例えば「これ」と言っても言葉にすると、どれも「これ」になってしまう。これに対して「そうじゃない、一般としての個ではなく、個としての個だ」と言い張っても、どれもそうした個です。それで例えば「質料」というようなものをもって来る。「質料」を「個体化の原理」として考える。三角形自体にこの三角形もあの三角形もない。しかしそれをペンで書くと、紙とインクという質料によってこの三角形やあの三角形になる。とても分かりやすいですが、じゃあなぜ「質料」によって一般が個になるのか、と言えばやはりよく分からない。こうして我々は一方に一般の領域を置き、他方に個の領域を置いて、それを形相と質料で説明した気になっていますが、結局はすべてを言葉によって一般的に説明しているにすぎない。

A

なるほど。
佐野
同じことは変化にも言えて、言葉によって変化を説明することは難しい。例えば「ある」と「ない」。言葉の意味からすれば「ある」は「ある」、「ない」は「ない」で、両者は対立します。しかし「ある」が「ない」に行くことが「消える」、「ない」が「ある」に行くことが「生ずる」で、両者合わせて「変化」です。我々はこの「ある」と「ない」の間に時間差を設けて変化を説明した気になっていますが、変化の瞬間を問題にすればそんなに簡単に説明はできないことになります。また「変ずるもの」を考える場合は、その根底に「変ぜざるもの」がなければ考えることができない。形相と質料は先程の場合は「一般」と「個(特殊)」を説明するものでしたが、それを「現実態」と「可能態」に重ねることで、現実態が変化や動の原因と考えられ、質料がそれがそこにおいてある「基体」と考えられ、こうして運動や変化が考えられることになる。こうしたこともすべて「変ぜざる」言葉による説明です。そこを西田は問題にしようとした、一般と特殊(個)、「変ぜざるもの」と「変ずるもの」を「矛盾」ということで考えようとしたのではないか、そう思われるのです。そのように矛盾した「述語として限定することのできない何物か」が一方で主語として「変ずるもの」として、〈この緑〉や〈この赤〉という「個物」になり、他方で述語として〈この木の葉の色〉という「最後の種」になる、そのように考えるべきだと思うのです。

T

その「変化せざるもの」ですが、一方では変化を考えるには「変化せざるもの」のような物差しがなければならない、ということと、他方では同一の基体が存続している、ということの両方の意味があると思います。そうして変化は言葉で捉えられないということでしたが、言葉もそんなにカチッとしているわけではなく、巾があるのではないでしょうか?例えば赤の中にも朱色もあるというように。

S

そのように一般を限定していって〈この緑〉だとか〈この赤〉に到達するでしょうか?〈この緑〉は今ここにしかない色で、同じものが二つとないもののことです。我々の言葉や意識はそうした個には到達できないと思います。ですが我々はそのように判断している、そこから出発しているのだと思います。
佐野
「最後の種」から「個」に至るには一種の超越が必要ということですね。

M

「最後の種」は個ではないのですか?
佐野
いえ。類を限定して種になりますが、それが最後の種になっても、種は種で、一般です。そこと個の間には断絶があります。

O

それならなおさら、個やそうした個の変化というものは意識や判断には捉えられないものになるのではないですか?
佐野
西田は変ずるものの意識や判断から出発していますが、それが可能となるためには何がなければならないかを問題にします。こうしてようやく「述語面の自己限定はいかにして可能か、述語面はいかにして主語面を包むか」Rさんの問いに到達することになります。これはいかにして一般は個になるか、という問いでもありますね。西田はどう考えているでしょうか(これは次回考えましょう)。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、最後の3行の考察がまだでしたね。Bさん、お願いします。

B

読む(288頁1行目~3行目)
佐野
ここは少しおかしな文章になっていますね。その前の文章では「主語的に云えば」と「述語的に云えば」と対になっていたのに、ここでは「述語面から云えば」はあっても「主語面から云えば」という句がない。「述語が主語を包むという考から云えば」という句はありますが、これは「主語面から云えば」とは言えない。そこでこの句は両面にかかるものと考えてみたらどうかと思うのです。つまり「述語が主語を包むという考から云えば、〔一方で主語面から云えば〕主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、〔他方で〕述語面から云えば、述語面が自己自身を限定することであり、即ち判断することである」というように読んでみては、と思うのです。そうすると、「述語が主語を包むという考から云えば」、包摂的判断で考える、ということですね。その場合、「主語が無限に述語に近づく」とは、主語面と述語面が区別されていて、それが近づいていくということではなくて、主語面と述語面が附着している一つの面を考えて、その上で主語、つまり〈この木の葉の色〉が〈この緑〉になったり、〈この赤〉になったり、無限に動くんです。もちろん、〈この木の葉の色〉の範囲内ですから、ピンクにはなりませんが。そのように〈個〉が無限に働いて〈この木の葉の色〉という「最後の種」に近づくことになります。「述語面から云えば」どうなるでしょうか。それは「述語面」の自己限定であり、それが「判断する」ことだ、ということになります。今日は先に進めませんでしたが、有意義な議論が行われたと思います。ここまでとしましょう。
(第74回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

述語として限定することのできない何物か

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」「五」の第4段落286頁14行目「此の如き直ちに直観の場所」から同段落287頁7行目「その間に随意的意志が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に、その間に随意的意志が成立するのである。」(287, 6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「直観の述語面に於てあるもの」は「直観面」から見れば「状態としての意志」であり、「知識面」から見れば「作用としての意志」であるといわれる。そして、「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に」、すなわち、「状態としての意志」は「作用としての意志」を越えて無限に廣がる故に、その間に「随意的意志」が成立するといわれる。しかし、どこから見れば「随意的意志」が成立するといえるのだろうか。この「随意的意志」の成立をどのように考えればよいか」(215字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
質問は明確ですね。三種の意志について、「状態としての意志」は「真の無の場所」から、「作用としての意志」は「対立的無の場所」から見たものだとすれば、その中間の「随意的意志」はどこから見たものか、ということです。何かご意見はありますか?

M

「随意的意志」も「真の無の場所」から見たものではないでしょうか?「随意的意志」は「もっとお金が欲しい」といったような、前を向いて、「こうありたい」という在り方です。その中にいる間は「善い」と思っているが、後になって考えると何故そうしたのか、そのことに気付くからです。

W

後から、可能性に開かれていることに気付くというのは分かります。バッティングセンターでボールを打つ時、そのつどこれしかないと思って打とうとするんですが、空振りをする。そうするとその可能性に気づきます。そうして次にまた今度はこれしかない、と思うんです。

M

それはどこまでも悩んでいる状態ですね。それは「真の無の場所」から見た在り方とは違いますね。そうするとこの悩んでいる状態はその一歩手前ということになると思います。
佐野
西田はこの箇所では、「知覚面」「思惟面」「自覚的意識面(対立的無の場所)」と、「直観面(真の無の場所)」の4つに分けて考えていますが、「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間に、もう一つ「随意的意志」が成り立つ場所が必要だということになりますね。西田はこの論文の最後に「特に尚直観の問題には入ることができなかった」(289,4)と言っています。後の第5巻所収の「叡智的世界」では、この「知的直観の場所」が「真の無の場所」の前に置かれています。それが「知的直観の一般者」すなわち「叡智的一般者」です。西田は、それに於てある「叡智的自己」に知情意の三種を考え、「知的な叡智的自己」「芸術的直観」「叡智的意志」を挙げています。最後の「叡智的意志」は「良心」(自分自身を見るもの)の立場で、ここで知的直観の内容である「善のイデア」とそのつどの「随意的意志」が対立し、「悩める自己」が成立するとされています。ですから「場所」の論文では「随意的意志」が成り立つ場所というのは書かれていないけれども、後にそれは「直観」というものをさらに考えることによって「叡智的一般者」になって行く、そのように言えるかもしれません。

W

それは分かるんですけれども、その場合、「善のイデア」とか「至善」というものを前提していいのかなあ、と思います。

R

善を為せというのは良心の声です。これは事実です。猫が車に轢かれそうだとか、池に子どもが落ちそうだとか言う時に直ちに聞こえてきます。それを反省すると、いろいろ「自分」都合のものが出て来てしまいますが。

M

池に子どもが落ちる例は(もとは『孟子』にあるものですが)『善の研究』の最後の「知と愛」にも出て来ますね。

W

それも分かるんですけれど、そういう声も随意的意志ではないかと。逆に言えば行為(意志)の根拠を「善のイデア」に回収していいのかな、それを前提していいのかな、と思うのです。禅の五祖法演の「夜盗」の話にもありますが、そのつどの状況の中に投げ込まれ、これしかないとやって行く中で変わって行く、それしかないんじゃないかと。
佐野
実際には、我々はぐちゃぐちゃ考える以前に、というよりそれも含めて、すでに状況の中に投げ込まれていますし、生き方としてもそうした考え方はさっぱりしていて魅力的ですが、他面で我々は言葉で(ぐちゃぐちゃ)考える意識的存在であることを一歩も出ることはできないのではないでしょうか?言葉を用いる以上、その言葉の何であるかは漠然と理解されながらも、それが何であるかはどこまでも分からない。そこにイデア論が出て来ることになるのですが、これをどう考えるかが問題なのでしょう。またそのつどの状況の中での随意的意志しかない、ということになると、根無し草のように流されているだけだというような虚しさしかありませんね。しかし先程の「夜盗」の話でも、本人はそのつどの状況の中で「これしかない」と決断して苦境をおのれの才覚で切り抜けたわけですが、実は本人が気づかないところで、夜盗の奥義を伝授されていた、ということに気付くことがあり得るわけです。逆に言えばすべてを「随意的意志」に回収できる訳でもないとも言えそうです。プロトコルはこのくらいにして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(287頁7行目~15行目)
佐野
まず、「判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変ずるものは相反するものに移り行く」と一般的に述べられます。ここからは「働くもの(変ずるもの)」を見る、それについて判断するとはどういうことかが論じられます。そうしてまず「変ずるものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない」とされます。この「一般概念」とは、〈この木の葉の赤〉の場合、何になりますか?

A

〈この木の葉の色〉です。
佐野
そうですね。次を見ます。「かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とあります。これはどういうことですか?

A

両面に間隙がある場合です。
佐野
なるほど。たしかに〈この木の葉の色〉が「意識面」に於てあり、〈この緑〉ないし〈この赤(この緑ならざるもの)〉が「対象面」に於てあると考えるならば、両者の間には間隙がありますね。この間隙は物と性質の区別でもありますが、我々は普通こうした両面を区別します。しかも〈この緑〉と〈この赤〉とが「時間」によって隔てられていれば、変化は矛盾なく説明できるし、普通我々はそうしています。しかし西田はそれでは「働くものを意識することはできない」と言います。ではどういう場合に「働くもの」が意識されるのか。次を読んで見ます。「唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊的なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」。〈一般=特殊〉ですね。〈この緑〉(特殊)がそのまま〈この木の葉の色〉(一般)と隔てなく一つになっている在り方です。「矛盾」ですね。こうした矛盾において「働くもの」が見られ得ると。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次を見ます。「対象面が意識面に附着するということは対象が判断するものとなり、意識が変ずるものとなることである」とあります。普通は「対象」が変じ、「意識」が判断するのですが、逆になっています。しかし次を見ると「併し対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば」とありますから、「対象面が意識面に附着する」とは、所謂主客合一で、その場合「対象」が判断し、「意識」が働くものになる、というのです。しかしそれが単に主客合一にすぎないとすれば、そこには「働くものもなく、判断するものもない」ことになってしまいます。ではどうしたらよいか。「かかるものが見られ得るかぎり」とありますね。「かかるもの」とは?

B

「働くもの」、「判断するもの」だと思います。
佐野
そうですね。そういうものが見られ得る限り、「述語面が主語面を包むものでなければならぬ」。どういうことですか?

B

重なるということではないですか?
佐野
そうですね。さらに「包む」とは「包んで餘ある」ということで、述語面が主語面を越えて広がるということです。

C

どうしてそうなるのですか?

D

次に「而して判断意識の性質よりして何處までも斯く考うべきである」とあるように、包摂判断とはそういうものだからではないですか?
佐野
そうだと思います。次へ参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(287頁15行目~289頁5行目)
佐野
「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する」とありますね。文中「之」と「その物」は何を指しますか?

E

どちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。ところでこれは何を言っているのでしょうか。難しいですね。「相反するものに移り行く」とは例えば〈この木の葉の色〉の〈この緑〉が〈この緑ならざるもの=この赤〉に変ずることでした。この場合「述語として限定することのできない何物か」は何になりますか?

E

〈この木の葉の色〉ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。確かにそれは〈この緑〉だとか〈この赤〉というように述語として限定できない。しかしそれによって「述語となるもの」、つまり緑だとか赤だとかが「限定せられる」。矛盾ですが、「変ずるもの」の場合はこうならざるを得ない。また「述語として限定することのできない何物か」は「すべて」、つまり〈この緑〉だとか〈この赤〉だとかについて「述語となる」。ただしこの場合も包摂判断で考えます。

E

よく分かりません。別の例はありませんか?
佐野
そうですね。「佐野之人の生業」が述語として限定できない何物か、と考えましょう。それが自己限定して、山大の職員となり、年金生活者になる。どうですか?

E

すごくよく分かります。
佐野
そうして「佐野之人の生業」は包摂判断で言えば、「山大の職員は佐野之人の生業である」というように述語になりますし、「年金生活者は佐野之人の生業である」とも言えます。次へ参りましょう。「主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」とあります。文中二度出て来る「それ」は何を指しますか?

E

やはりどちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。その場合「主語的に云えばそれは個体というべきものである」とは、例えば〈この木の葉の色〉という主語が自己限定して〈この緑〉(個体)になるということです。「述語となる」という意味で「述語的に云えば」、「述語として限定することのできない何物か」が「最後の種というべきもの」になって〈この緑〉や〈この赤〉の述語となります。この場合も〈この緑はこの木の葉の色である〉、というように包摂判断で考えます。ここでの西田の主張は「働くもの」(変ずるもの)を見たり、判断したりするにはこの両面が必要だということです。

G

「最後の種」って何ですか?
佐野
まず種とは、類、種、個と言われる場合の種です。例えば「佐野之人は日本人で人間だ」という場合、「佐野之人」が個、「日本人」が種、「人間」が類になります。類を限定したものが種で、それにどんどん種差を加えて行って限定していく。日本人で、山口県人で、下関在住で、と限定していきます。でもどこまで行っても「佐野之人」という個にはたどり着きませんね。ですが例えば〈この緑〉や〈この赤〉を個と考えたら、〈この木の葉の色〉が「最後の種」になり得ますね。それに限定を加えれば個に至る。(じつは「最後の種」はここではきわめておおざっぱにしか論じられていません。〈この木の葉の色〉が「主語的に、云えば」「個体と云うべきもの」であり、「述語的に云えば」「最後の種と云うべきもの」というのも、目下の文脈の中で解釈したものです。「変ずるもの」ないし「最後の種」については『働くものから見るものへ』の最終論文「知るもの」(330,14-338,9)において改めて論じられることになります。その議論はそれまで待つことにしましょう。)ここまでで何か質問はありませんか?

G

それは変ずるものの基体を認めるということですか?
佐野
(ここからの発言は後から考えたのものです)今の例で言うと、〈この木の葉の色〉が基体になっていますね。変ずるものの基には変ぜざるものがなければならない、ということがまずあります。しかし述語面は主語面に附着してこれを包んでいますから、これは変ぜざるものでありながら、すでに〈特殊=一般〉という矛盾です。したがってこれは所謂質料のような基体ではありません。また現段階では〈この木の葉の色〉の変化ということで、〈この木の葉の色〉という一般概念に於て働くものが見られ、また判断もなされています。しかしこの「一般概念」はさらに拡大深化が可能です。そうしてそれが芸術的対象になれば、木の葉の変化は「真の無の場所に於てある」ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第73回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

三種の意志について

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落、285頁6行目から286頁14行目「意味に充ちたものとなる」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂感覚的なるものも直観的なるものとして、その根抵は所謂意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならない。」(286 ,11-13)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「感覚的なるもの」はその於てある場所が「一般概念」から「真の無の場所」に転ずるとき、「真に直観的なるもの」となる。即ちそれが「芸術的対象」である。その場合、「場所が無となる」。つまり、意識面が自ら無となり、対象が無限の意味をもった対象として自身を見る直観である。この場合で、意識と対象とは一体になるが、なお意識面と対象面との対立はなくなることはなく、意識はなお自由に働くものになっていないのではないか」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
目下のテキストからは出て来ない疑問ですね。他の著作を参照されましたか?

R

はい。「叡智的世界」(旧全集第5巻『一般者の自覚的体系』所収)です。そこでは芸術的直観は真に自分自身の内容を見るものだが、完全に自由にはなっていない、とあります。
佐野
その場合の自由とは?

R

奥底から湧き上がる良心の声に従うことです。
佐野
なるほど。しかしここでは「叡智的世界」のテキストがありませんから、その内容を皆さんと共に検討することはできませんね。(後で「叡智的世界」を調べてみました。まず「芸術的直観は真に自分自身の内容を見る」については、「真に自己自身の内容を見るには、情的ノエシスに至らねばならない、我々は芸術的直観に於てイデヤ其者を直観するのである」(5,167,10-11)という表現が見られます。「完全に自由になっていない」および「良心」については、「芸術的直観に於てはノエシスがノエマに没し、叡智的自己がノエマ的に限定せられた自己自身を見るが故に、自己自身の矛盾を脱して宗教的解脱に類するものが感じられる。併し芸術的直観に於ては、限定せられた自己が見られるのであって、自由なる自己其者が見られるのではない。自由なる自己其者を見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じないなどと云うものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見るものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省其者が消磨すると共に、真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光を見ることができる」(5,176,4-11)という表現が見られます。ただしここで言われている「自由」は脈絡からしてノエシスの方向に見られる「随意的意志」と考えられます。次のように述べられているからです。「併しかかる直観(イデヤを見る知的直観:引用者)には、そのノエシス的方向に於て、何處までも随意的なるものが残されねばならない」(5,174,4-5)、「自己自身を越えて、何處までもノエシス的方向へ深く自己自身を見て行く自己が、真に自由なる自己であり、それはイデヤを見る自己の根柢を見るものである」(5,175,4-6)。そうしてこの「随意的意志」については「悪なる意志とは何であるか。それは随意的意志である、イデヤを否定し、無に向うの意志である」(5,174,11-12)と述べられています。本日の講読箇所に出て来る「随意的意志」にも深くかかわりますので、少し詳しく紹介しました。)ここでは一般的な哲学的問いとして一緒に考えて見ましょう。芸術的直観が自由でないとはどういうことですか?

R

自転車を運転していた時、突然道端の花にハッとする。この驚きにおいて自由はないと思います。

T

良心に従うことが自由だとおっしゃいましたが、花に驚くことも良心も自分のコントロールできない点では同じだと思います。しかしそこに「気づく」という仕方で自由があり得るのだと思います。そこに至るには何らかの準備(レディネス)が必要で、花との出会いも実はサイクリングの中に予め組み込まれていたとも考えることができます。
佐野
何故良心に従うことが自由で、花に驚くことが自由でないのですか?

R

花に驚くことの場合は、まだ直観する自分と花との対立が残っているからです。
佐野
「驚き」の瞬間にそうした自分が残っているのですか?

R

「考える自分」はなくなりますが、「直観する自分」と花の対立は残ります。

H

物(花のような対象)があると真に自由ではないということですか?

R

やりたいことがあれば、それに従うのが自由です。(この辺り、「随意的意志の自由(悪なる意志)」と「自律としての自由(良心の声に従う)」の区別がうまく表現できていないように感じられました。:佐野)

H

それでは「真の無の場所」においてあるものは何ですか?

R

宗教的な罪悪において赦されているということ、そうしてそれが真の自由だと思います。
佐野
なかなか難しい問題ですが、今日の講読箇所にも関わることですので、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(286頁14行目~287頁7行目)
佐野
難しいですね。少しずつ見て行きましょう。「此の如き」、「芸術的対象」のように、ということですね。そうした「直に直観の場所即ち真の無の場所に於てあるもの」が「所謂意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、それが無限に働くものとなる」とあります。この「無限に働くもの」は後を見ると「意志作用」(287,4)のようです。つまり「作用としての意志」ですね。そうなると「直に真の無の場所に於てあるもの」とは「状態としての意志」であることにもなりそうです。「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別は以前出て来ましたね。どこでしたでしょうか?

A

229頁です。
佐野
そうですね。ありがとうございます。そこをもう一度見て置きましょう。「意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と撰ぶ所はない。意志の背後に於ける暗黒は単なる暗黒ではなくして、ディオニシュースの所謂dazzling obscurity〔眩い暗黒〕でなければならぬ。かかる立場に於ける内容が対立的無の立場に映されたる時、作用としての自由意志を見るのである。意志も意識の様相と考えられるのは此の如き考に基かねばならぬ、作用としての自由の前に状態としての自由があるのである」(228,15-229,5)。テキストに戻りましょう。ここまで何か質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「而して直観の場所」、「真の無の場所」ですね、それは「所謂意識の場所」、これは「対立的無の場所」ですね。「直観の場所」はそうした「所謂意識の場所よりも一層深く広い意識の場所であり、意識の極致である」とあります。「極致」という言葉には注意する必要があります。つねにそこに挫折と転換があるからです。「無限に働くもの」はこれで終わりということはありません。それが「極致」に至るということは、これまでの場所である「対立的無の場所」が挫折を通して破れ、「真の無の場所」への飛躍的な超入が起るということです。そうなるとどうなるか?「真の無の場所」が「意識の極致であるから、内に超越的なるものを見ると考えられるのである」とありますね。この「超越的なるもの」って何ですか?

B

「内に」とは「意識」の内に、ということではないですか?
佐野
そうでしょうね。「外に」ではないということです。私の解釈ですが、この「超越的なるもの」は、先の言葉で言えば、「状態としての自由」ではないかと思うのです。「対立的無の場所」において「作用としての意志」(「無限に働くもの」)であった、その同じものが「真の無の場所」において「状態としての意志」として見られるということです。「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間には先程申したように超越がありますから、そのように解釈できるように思われるのです。いかがでしょうか?

B

とりあえず、そういうことにして先を読んで見ましょう。
佐野
はい。「併し逆に直観の場所から之を見れば、之に於てあるものが対立的無の場所へ投げた自己の影像に過ぎない」とありますね。最初の「之」は何を指しますか?

C

「内に超越的なるもの」です。
佐野
そうですね。私の解釈では「状態としての意志」です。それでは次の「之」は何を指しますか?

C

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。そのように「直観の場所」に於てあるもの(「状態としての意志」)が「対立的無の場所」の場所へと自分を投げる、そうするとそこに「影像」ができる、というわけです。この「影像」が「作用としての意志」です。ここまで、いかがですか?

D

大丈夫です。2行目の「併し」から反対の見方がなされているということですか?それまでは「対立的無の場所」から「真の無の場所」への方向だったのが、「併し」以降は逆に「真の無の場所」から「対立的無の場所」への方向になるというような。
佐野
そうですね。最初は表から、次に裏から、といった感じです。例の円錐形で言えば、最初は上から、次に下から、ということになると思います。そこで「此の如く直観の場所から見た時」、裏から見た時ということですね、その時「〔無限に〕働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」。「之」とは?

D

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。「真の無の場所に於てあるもの」(「状態としての意志」)が〔「対立的無の場所」において〕自己限定したものが「〔無限に〕働くもの」「意志作用」、つまり「作用としての意志」だということです。ここまではいかがですか?

D

大丈夫です。
佐野
「而して直観的なるものの於てある場所、直観の述語面」、これは置き換えですね。そうした場所ないし「直観の述語面に於てあるもの」(「状態としての意志」)を「知識面から見れば」とあります。この「知識面」とは後を読むと、どうやら「所謂意識の場所」つまり「対立的無の場所」のことのようです。その面から見ると「無より有を生ずる無限の作用と見られ」、とありますね。これは「作用としての意志」のことですね。その面では無限の作用が「有」であり、それが「対立的無の場所」に「於てある」と考えられています。その意味ではそれ自身が無である「対立的無の場所」には「無」はそこに「於て」ないと言えます。ところが有無を絶した「絶対の無」である「真の無の場所」に於てはそうした無もそこに於てある、そのように考えることができそうです。そうした「真の無の場所」である「直観面」から見れば、「それが意志である」とあります。「それ」とは何ですか?

E

同じものを「知識面」(「対立的無の場所」)と「直観面」(「真の無の場所」)の両面において見ているのですから、「それ」は「直観の述語面に於てあるもの」ではないでしょうか?
佐野
そうだと思います。私の解釈では「状態としての意志」ですね。同じものが「直観面」では「意志」つまり「状態としての意志」であり、「知識面」では「作用としての意志」だということです。さて次に「直観面は知識面を越えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのである」とありますね。これはどういうことでしょうか。「知識面」つまり「対立的無の場所」では「作用としての意志」、「直観面」つまり「真の無の場所」では「状態としての意志」、この両面の間に「随意的意志」が見られるというのです。意志に「作用としての意志」、「状態としての意志」、「随意的意志」の三種あるということになります。ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を描く」の例で言えば、描かれた地図を見ている限りはどこまでも描き続けなければなりません。これが「知識面」で、そこに於てあるのは「作用としての意志」。それに対して描く以前の足元のところ、そこが「直観面」です。これは「述語面に於て見られる自己同一」と呼ばれたものですが、「一般概念」のそれではなく、「真の無の場所」としてのそれで、そこに於てあるのは「状態としての意志」です。この「状態としての意志」は先に「ディオニシュースの所謂dazzling obscurity(眩い暗黒)」という表現があったように、単なる暗黒ではなく、直視することができないほどの「眩さ」ゆえの「暗黒」です。これは意志や衝動の根源的な暗さを言っているように思われます。それは『善の研究』では実在の形式(方式)として最初に出て来る「含蓄的(implicit)」な全体と言われていたものと同じもののように思われます。そこから意志が直観に基づいて自己限定するのですが、そこには機械的作用や本能的動作でない以上、「自知」の契機があります。これを取ったということはこれを取らなかったということが自知されています。そこに「可能性」が開けてきます。つまり英国の地図は別様にも描かれたかもしれない、ということです。ここに「随意的意志」が顕わになってきます。そうして無限に善を求めるということの裏面に、求めれば求めるほど顕わになるものとして「悪なる意志」つまり「随意的意志」が意識されることになります。今日はここまでにします。
(第72回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed