一般と特殊との合一
- 2023年6月24日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」五 272頁冒頭から274頁8行目(第1段落終まで)を講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーセンテンスは「かかる包摂的関係の時間上に於ける完成として、判断作用というものが理解せられるのである」(273, 2-3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時間は、宇宙誕生のような過去から、未来に継続しているとも考えられますが、ここではどのような時間なのでしょうか、また、完成とはどのようなこと・状態をいうのでしょうか。下記のような時間を指し、完成のために判断作用があると解することは如何ですか。①ある包摂関係が世に生じたときから関係が完成するまでの連続的な時間➁ある包摂関係を考える人がその考えが完成するまでの断続的な時間。完成とは、理想の包摂関係になることで、二つのものが合一することでしょうか」(220字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
ここでの「時間」がどのようなものか、という問いですね。その解釈に①と②があり得ると。
ええ。「時間上に於ける完成」というのは272頁14行目にある「時間的意義を除去すれば」という場合の「時間」とは異なる意味で用いられているように感じられたので。
同じではないですか?「包摂的関係」に「時間」を加えることで「判断作用」になるということを別の仕方で述べていると思います。
272頁の方はそれでいいと思いますが、「完成」と言う以上、別の意味があるような感じがしたので。
Kさんは①と②のどちらだとお考えですか。①は所謂客観的な時間、②は所謂主観的な時間ですね。
どちらかといえば①です。
その場合、「包摂的関係の時間上に於ける完成」として「判断作用」を理解するということを、具体的にはどのようにお考えですか?
戦争で意志を通して包摂するとか、自然界で言えば小さいウィルスを包摂するとか、そういう仕方で判断作用を考えるということです。
テキストのこの箇所では判断作用と包摂的関係が対比的に述べられていますね。前回の読書会で少し申し上げましたが、ここには哲学史的背景がありそうです。当時は哲学を心理学に還元しようとする傾向(心理主義)に対して新カント派やフッサールが論理の立場から批判を展開していました。(因みに心理学は19世紀末にようやく従来の哲学的心理学から科学的心理学として独立します。ドイツではヴント、アメリカではジェームズがその貢献者です。その流れの中から心理主義が成立してきます。西田は若いころヴントやジェームズの強い影響下にありましたが、新カント派やフッサールに触れて大きな衝撃を受けます。しかし『善の研究』のころから彼が考えていたのは、「論理」の上に立てられた従来の本体論的形而上学でもなく、単なる「心理」の上に立てられた科学的心理学でもない、新しい形而上学としての純粋経験の哲学であったと考えられます。)そういう背景を考えると、この「時間」はやはり心理学的な時間、例えば「人間は動物である」という判断が、不明瞭な在り方から明確な判断の形をとるまでの時間、そのように理解する方が分かりやすいと思います。そういう意味ではKさんの分類では②の方に近いと思います。
私も②でよいと思います。
私もそんな気がしてきました。
(その後、この「時間」について、これはカイロス的な「一発勝負」の判断の瞬間だとする説などが飛び出し、一挙に深まる可能性も出てきましたが、ペンディングということで、ここでは割愛します。すみません。)それでは本日の講読箇所に移りましょう。Bさん、お願いします。
読む(274頁9~15行目)
強烈に難しいですね。少しずつ見ていきましょう。まず「特殊と一般との包摂的関係から出立し」ここまではいいですね。たしかにそういう叙述になっていました。「何らの仮定なき直接の状態に於ては、一般は直に特殊を含み」ここは難しいですね。前の段落の終わりではこの「直接の状態」は「真に直接なる意識の場所」(274,7)と言われていましたね。その「意識」とは一般と特殊とが無限に「重なり合う場所」(274,1)で、そこにおける判断において、真に主語となるものは「具体的一般者」であり、判断とは「一般なるものの自己限定」だとされていました。この「判断」とは「所謂判断作用」の「根柢」(274,6)としての判断で通常の判断ではありません。問題はこうした「直接の状態」を我々の経験の中に見出すことです。次に行きましょう。「一般より特殊の傾向」、これは「一般者の自己限定」ですね。そこに「判断の基礎」が置かれる、これは普通に言われる判断(所謂判断作用)の「根柢」がここにあるということでしょう。そうであるとするならば「一般と特殊との包摂的関係から種々なる作用の形を考え得る」とありますね。「種々なる作用」とは「五」の初めに出てきた「知覚、思惟、意志、直観」のことを念頭に置いているのかもしれません。それらはそこでは「意識作用」(272,4)と呼ばれていました。次の「我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる」、これは分かりやすいですね。「人間は動物である」において人間は特殊で動物は一般ですが、人間(特殊)の方向にさらに日本人という特殊を考えることができますし、動物(一般)の方向に生物という一般を考えることができます。「かかる関係に於て、一般と特殊の間に間隙のある間は、かかる一般によって包含せられたる特殊は互に相異なれるものたるに過ぎない」、これはどうですか。例えば「赤は色である」において、赤(特殊)と色(一般)の間に間隙がある、と考えることができますね。その場合赤と青という「特殊は相異なる」、そう考えることができます。この一般は「相異」のみならず「相反(対立)」、例えば赤と赤ならざるものも包含できますね。ところで皆さん、「間隙」とか「相異」「相反」という言葉、聞き覚えがありませんか?
あります。
191頁から193頁にかけて出てきますね。そこでは①「数(数理)の対象界」と②「経験的一般概念(経験界)」と③「矛盾的統一の対象界」が区別されています。①は矛盾律によって構成されていますが、その根本には「矛盾の統一」があります。例えば〈5は数である〉において、特殊が直ちに一般とされています(「数の概念に於ては一般と特殊とが直に結合する」(197,15-198,1)「数理の統一は矛盾的統一である」(276,6))ここには「間隙」はないと考えられています。しかし数理の場合にはそこに数という「一般的なるもの」(一般概念)があります。これに対して「経験的一般概念」の場合には「一般と特殊との間に間隙がある」とされます。そこでのその意味は「一般より最後の種差に達することはできぬ」ということです。〈この赤〉には一般概念としての〈赤〉は到達できないということです。ここでは一般と特殊(一般化の原理と特殊化の原理)が「合一することができない」。そのため、その「間隙を充填し両者を結合するため、超越的にして不変なる基体」というものを持ってくる、というのです。例えば〈赤〉が〈この赤〉になるのは〈赤〉が個物においてあるからだ、ということになります。この基体を持ってくることで、例えば〈塩は白くて辛い〉というような「相異」の関係も、時間の概念を入れれば〈木の葉が緑から緑ならざるものに変化する〉といった「相反(対立)」の関係も矛盾なく説明できることになりそうです(もちろん西田はそうは考えません)。③については「一般的なるものは即特殊化の原理なるが故に、その間に基体の如きものを容れる余地はない、一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所とか、相互関係の媒介者とか考えるの外はない」(193,4-6)とされます。この論文は「働くもの」で、ここではまだ「場所」概念が術語としては確立していませんが、「矛盾概念を統一するもの」(192,3)としての「場所」(「概念の生滅する場所」(同4))としてはこの辺りが初出でしょう。この「場所」は「働くもの」論文では「自己の中に自己を映す鏡」(194,11)などと呼ばれています。もちろん目下の講読箇所と「働くもの」の上の箇所とが厳密に同じ内容であると考えることはできません。テキストの解釈はつねに、そうして西田の場合は特に現在の文脈の中で行うべきだからです。しかし「間隙」「相異」「相反」「矛盾」といった概念についてはこれまでも西田は論じていることは念頭に置くべきでしょう。次に行きます。「併し一般の面と特殊の面とが合一する時、即ち一般と特殊との間隙がなくなる時、特殊は互いに矛盾的対立に立つ、即ち矛盾的統一が成立する」とありますね。これはどうでしょうか?大丈夫ですか?
全然大丈夫じゃありません。
これまで「矛盾」と呼ばれてきたものは、例えば「死することが生まれること」、「否定することが肯定すること」、「無にして有」(以上1923-5)ですね。生と死、否定と肯定、有と無が「特殊」ですね。これらが「矛盾的対立」に立ちつつ「矛盾的統一」が成立する、ということです。これが成り立つ場所がこれまでの流れだと、「意識」(直接なる意識の場所)ということになる。次を読んで見ましょう。Dさん、お願いします。
読む(274頁15行目~275頁5行目)
ありがとうございます。頭から行きます。「是に於て」、こうした「矛盾的統一が成立する」ことにおいて、「一般は単に特殊を包むのみならず」、「特殊を構成する」という意味でしょうね、「構成的意義を有って来る」とあります。「自己限定」という意味かも知れませんがよく分かりません。次を読んで見ます。「一般が自己自身に同一なるものとなる、一般と特殊とが合一し自己同一となると云うことは、単に両者が一となるのではない」とあります。単に一となるだけなら、一般は「構成的意義」を持たない、ということを念頭に置いているのかもしれません。次いで「両面は何處までも相異なったものであって、唯無限に相接近していくのである」とありますが、これでは合一や同一には至りませんね。しかし「斯くしてその極限に達するのである」とある。ということはここに逆転、転回があるということです。「是に於て包摂的関係は所謂純粋作用の形を取る」。「所謂」とありますが何のことかよく分かりません。包摂的関係が逆転したところで「純粋作用」の形を取るということでしょうが…。次いで「かかる場合、述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである」とありますね。「之」とは何でしょう。
「極限」だと思います。
「純粋作用」と言い換えてもいいですか?
いえ、純粋作用ではなく、極限です。
何故ですか?
よく分からないのですが。
私は「述語面」だと思います。それも「主語面」を離れて見ることができない述語面です。
なるほど。たしかに「之」の前の文の主語は「述語面」になっていますね。次に「主客合一の直観というのは、此の如きものでなければならぬ」とあります。またしても「此の如き」の内容が判然としない。いったいこれは何を言っているのでしょうか。西田は何かについて言おうとしているのですが、それが一体何であるか。それを我々の身に尋ねてみる必要があると思います。素敵な言葉は出てきませんか?Dさん、笑っているから、おっしゃってください。
私が思いついたのは「単に映す意識の鏡」です。
いいですね。私は「意識された意識」とは異なる「意識する意識」、図に対する地と言ってもいい(英国にいて英国の完全なる地図を描く例のことを思い浮かべていました。描かれた地図は一般に対する特殊で、それに着目しているうちはどこまでも一般と特殊の間に間隙があります。これに対して描かれたものの手前に描かれるべきものがある。この直観(自覚)がなければ地図を描くことができない。そこに気付く。ここに逆転があるわけですが、このようなことを思い浮かべていました。そこでは特殊と一般が一つになります)。次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。
読む(275頁5行目~11行目)
ありがとうございます。ここも強烈に難しい。もう時間が来ましたから、ここは次回ゆっくり読むことにしましょう。今日はここまでとします。
(第62回)