「変ずるもの」の概念的限定と時の役割

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第6段落冒頭358頁2行目「できないと考えられる所以である。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものにおいては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができないと考えられる所以である。」(358,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「赤いリンゴに一方向から光を当てると、光が当たる部分は赤く、影になる部分は黒く見える。これは「否定を含む肯定面」に当たるのではないか。それなら「このリンゴは赤い」という判断が生じる「知覚の世界」においても、「見え方が異なっても同じこのリンゴ」という媒語面と、媒語が小語を完全には包めない推論式的構造があると考えられないか。具体的一般者の根底が概念的に限定できないことは、変ずるものに固有なのだろうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「このリンゴは赤い」というのは「否定を含む肯定面」としての「知覚の世界」における判断ですね。しかし「このリンゴは赤くもあり、黒くもある」、というのは「矛盾的統一面」を表していますから、「物理現象界」に属するはずなのに、やはり「知覚の世界」の判断ではないか、という疑問ですね。まったくその通りで、じつは西田もそのことは気づいています。331頁12行目からの文章をご覧ください。Aさん、読んでください。

A

「既に述語的一般を超越したと考えられる個物は或一種の性質的述語となると共に、矛盾なく他の異なれる性質的述語の主語となることもできる、例えば物は色と共に味や香りを有つこともできる。併し同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。われわれが一つの物を赤であることもでき青であることもできると考えるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を容れて考えるからである。」
佐野
ということで、Tさんは、ご自身でこうした指摘をしたことになります。例えば同じ酒を飲んだとして、私は「旨い」と言い、Tさんは「不味い」と言う場合なども、同じ酒が旨くもあれば不味くもある、という矛盾的統一を示すことになります。しかしこれは「知覚の世界」における判断ですね。

W

「酒が旨い」というのは出会いによるものなので、そこでは「矛盾的統一」ということはないのでは?そこにあるのは〔酒の旨さの〕景色だけでは?
佐野
たしかに、そうした出会いにおいては、「私は旨いと思うが、あなたは不味いと思う、人それぞれだ」、という経験はされていませんね。

R

西田は「物理現象界」の先に「生滅する世界」、つまり「即非」の世界を見ていたと思いますが、それと「酒が旨い」という経験とを一緒にすることはできないように思います。
佐野
それは宗教的な体験を何か特別なものと考えているからで、救いを求める気持ちが強いからでしょう。言葉が出て来る以前の出来事は日常の足もとの出来事です。どこにでも出会いのきっかけ、機縁というものがあると思います。おそらく西田が考えようとして、ずっと見つめていたものはそうしたもので、我々はそこからすぐに目を背けて、それを分かりやすいものにしてしまう。そうでないとどう行動していいか分かりませんから、そんな世界には住めないからです。赤であると同時に赤でない、旨いと同時に旨くない、言葉にするとそうなってしまいますが、これでは何のことか分かりませんから、「時」の形式をもってきたり、観点の相違を設けたりしてこれを分かるものにして、そこに住もうとするわけです。しかし西田が見ようとしているものはそうした分別以前の出来事だと思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(358頁2行目~7行目)
佐野
いきなり「併し」から始まってしまいましたが、これは、「変ずるもの」は小語面が〈赤にして赤でない〉ということですから、これでは「具体的一般者の根柢」は小語面を包むことができず、「概念的に限定できない」ことになり、推論式的一般者が成立しないように見えるが、そうではなくて、ということです。「媒語」は「元来具体的一般者其者を表すもの」だから、「推論式一般者の自己同一面」だというのです。因みにこの「自己同一面」とは「個物」のことではなくて大小両面が媒語によって同一になることを意味していると思われます。「時」というのはそういう意味での「媒語面」だ、というのです。ここでは「元来」という語が効いていますね。小語を完全には包めないが、じつはもともと包んでいる、そういう言い方です。もともと包んでいるから、〈赤にして赤でない〉も概念的に限定できる、ということです。この辺りに西田の哲学に対する信頼が感じられます。どこまでも哲学できる、ということです。どうするか、というと「時」を持ってくる、というのです。カントでもそうでしたが、「時」は「意識」(大語面)の形式ですね。そうした「時」を持ってくることで〈赤にして赤でない〉という「変ずるもの」も考えることができる、というわけです。だからここでも「推論式的一般者」が成立している、というのです。

A

ですが、それは「帰納的推論」と言われていますね。どういうことですか?
佐野
帰納的にしか包めない、ということでしょうね。元来包んでいるのだけれども、どこまでも概念的には完全には包めない、ということだと思います。ややこしいですが。そもそも「経験的知識」全般について言えることは、元来、あらゆる経験が「具体的一般者」として「概念的に限定」可能だけれども、可能というにとどまり、知識は帰納的、したがってどこまでも蓋然的・近似的なものにとどまらざるを得ない、ということだと思います。それが感覚的知識(これは赤である)でも、知覚的知識(このリンゴは赤い)でも、物理的知識(このリンゴの青が赤に変わる)でも言える、と。

A

物理的知識が「帰納的」と言われるのはなぜですか?
佐野
やはり「現在」はどこまでも包めない、ということだと思います。次を見て見ましょう。何と書いてありますか?

A

「推論式的一般者によって時を考えれば、小語面はいつも現在を表し、未限定なる大語面は未来を表し、限定せる大語面は過去を表し、媒語面は移り行く時其者を表すと考えることができる」とあります。
佐野
この小語面の「現在」がどこまでもつかめない。限定された過去から未限定の未来を帰納的に推論しつつ限定するほかない、そういうことだと思います。

A

「現在」がつかめない、というのはどこかに書いてありましたか?
佐野
これまで読んだところでは345頁14行目から15行目にありました。「時の連続的要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」という表現がそれですね。現在を外から概念的に把握しようとするとそうなる。徳山の点心(現在心不可得)ですね。これから読むところでも、363頁5行目から6行目には、「小語面たる現在は常に達すべからざる一点と考えられねばならぬ」とあります。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(358頁7行目~段落末まで)
佐野
「一般者其者が概念的に限定すべからざるものと考えられる時」、「変ずるもの」の場合ですね、その場合は、「その媒語面は無限に移り行くものとなる」。これは「移り行く時其者」のことですね。次いで「之に反し媒語と大語とが合一する場合には時は消え去るのである」とありますが、これは何を念頭に置いていると思いますか?

B

数学のような先験的知識の場合だと思います。
佐野
そうですね。西田の場合もそうですが、考え方の癖みたいなものがあって、数学のような先験的知識から、経験的な知識へと進む、という順序がよく見られます。ここでもそうでしょうね。「媒語」は「推論式的一般者の自己同一面」ですから、これと大語、意識の形式ですね、これが一つになってしまえば、空間の形式は空間の一般概念となってそこに幾何学が成立することになるでしょうし、時間の形式も時間の一般概念となってそこに代数というようなものが成立することになりますが、その場合には「時」は「数学的連続」となって、「時」は消え去っています。今度は「此の如き意味に於て」、つまり〔媒語面と〕合一した大語面が、単に感覚的性質一般という如きものであった場合は、つまり感覚的性質一般という「一般概念」である場合は、ということですね、「単に」とありますから、「肯定的に」ということです。その場合には「これは赤い」のような判断が成立し、そこには「感覚の世界」が成立します。そうして「小語面の方向に於て色自体という如きものが見られ」る、とされます。この「色自体」は「これ」のことですね。判断以前の色のことです。次いで「否定を含んだものであった場合」、「このリンゴは赤い」のような判断が成立する場合ですね、この場合には「知覚の世界」が成立し、その小語面の方向には「物自体」の世界が見られることになります。さらに媒語面と合一した大語面が矛盾を含んだ一般概念であった場合には、「時」が復活して「出来事の世界」が見られ、その小語面の方向には差し当たり「変ずるもの」が見られることになる、こういうことだと思います。

B

「物理現象界」と言わずに「出来事の世界」と言ったのはなぜでしょうか?
佐野
多分としか言えませんが、例えば325頁1行目に「時に於て生滅する出来事」という表現があります。この「出来事」は「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」です。だとすると、目下のテキストの場合、さしあたり「物理現象界」を念頭に置きつつ、その先の「生滅する出来事の世界」をも視野に入れている、と考えることができると思います。でもその場合は「概念的に把握する」と言っても「即非の論理」のようなものによる外はないと思いますが。次をCさん、お願いします。

C

読む(第7段落冒頭~359頁1行目)
佐野
ここはこれまでの要約ですね。「非合理的なるもの」、これは前段落末の「矛盾」のことですね。それを含んだ「一般者」、この場合は「感覚的性質一般」ということですね。「この赤にしてこの赤ならざるもの」ということです。こうした「一般者というべき変ずるもの」が、「推論式的一般者」として見られ、つまり概念的に限定できるものとして見られ、「その媒語面が大語面的に限定」せられ、とあります。

C

どういうことですか?先に「媒語面」とは「移り行く時其者」とあり、「限定せる大語面は過去を表し」とありましたから、過去から時其者を限定する、ということでしょうか?
佐野
なるほど。そうも読めるかもしれませんが、やはり違和感があります。ここはやはり「矛盾」を含んだ「感覚的性質」という「一般概念」を考えることができるようにするために、一旦消え去った「時」(大語面の形式)を復活させて考える、ということと取りたいと思います。これが「媒語面が大語面限定せられ」ということです。その上で「小語面」、「現在」ですね、それと「接触して」「矛盾的統一面が成立する」、そうすると「時の世界」、前段落末で「出来事の世界」と呼ばれたものですね、そういうものが成立する、そのように読んでみてはどうでしょうか。それを証しするかのように、つぎに「而してかかる〔時による大語面的〕限定が成立するかぎり、変ずるものというものを考えることができる」と書かれてあります。次をDさん、お願いします。

D

読む(359頁1行目~5行目)
佐野
ここからは「大語面」は内容を欠いた「形式」であり、内容は「小語面」から来ることが述べられます。まず「変ずるものの内容が無限に豊富なるかぎり、種々なる時の内容が考えられる」とあります。これに対し、「之」、つまりこの「種々なる内容」を「大語面から見れば、最も抽象的なる一般者」、「一般概念」ですね、それ「によって限定せられる媒語面」、それが「即ち所謂時」、前段落の「移り行く時其者」で、この媒語面(所謂時)がすべての変ずるものを包む、と考えられる、と。

D

具体的にはどういうことですか?
佐野
判断におけるすべての主語が「時」の項となり、それについて述語できるのは、現在、過去、未来とか時間の前後、長短のみ、ということになってしまう、ということだと思います。そのように「単に大語面的に限定せられたものは抽象的一般概念」にすぎない、とありますが、この抽象的一般概念が、例えば、時間の前後、長短ということだと思います。それはもう「変ずるもの」ではない、と。たしかに「これは赤である」の「これ」の質的な内容は小語面から来ていますが、その質的な内容すらなくしてしまって、すべてを量に還元してしまえば、主語がまったくの無内容となっていくのは、すべてを量的に還元する昨今の在り方(例えば業績)などを見れば理解できると思います。次をEさん、お願いします。

E

読む(359頁5行目~段落末まで)
佐野
まず「媒語面が小語面的に限定せられるに従って真に変ずるものが考えられ、種々の内容ある時が見られる」とあります。ここから次第に話が「小語面」に移って行きます。「真に変ずるもの」が「内容ある時」と言い換えられ、それがさらに「所謂時によって限定することのできないもの」、「所謂時の外にあるもの」と言い換えられます。矛盾した言い方ですが、「所謂時」というのは、さきの言葉で言えば「最も抽象的なる一般者」です。これに「内容」を与えるのが、「真に変ずるもの」で、これはすでに「所謂時の外にあるもの」だというのです。これが、西田がもっとも根底において見続けているもの(直覚されるもの)です。とはいえ、これが概念的に限定できる、しかも大語面から科学的に限定できるのは、こうした「所謂時の外にあるもの」といえども「推論式的一般者の特殊として考え得られるかぎり、何處までも〔帰納法的ではあるけれども〕大語面的限定の意義を有し、時に於て変ずるものと考えられる」からだ、ということになります。ここからは「所謂時に於てあるもの」の話です。時間の前後・長短のことですね。それが「意味を有つという如きことは考え得られない」どころか、それが「性質を有つ」ということすら言い得ない、とされます。こうした時の項に「何等か性質」とか、さらには「意味」というものが述語されるとすれば、それは「小語面」に属しているもの、「〔所謂〕時の外にあるもの」だ、ということになります。そうして最後に「〔所謂〕時に於てあるものとしては、唯大語面に於て述語的統一を見る」とされ、「厳密に時に於てあるもの」、まったく「所謂時」においてしかないもの、の意味ですね、そういうものについては、「唯大語面的に限定せられた推論式的一般者の形式的限定」として、「前後とか長短とかいう所謂時間的性質を述語しうるのみ」と言われます。「大語面的限定」というのは基本的に「意識」が有する形式(時空、カテゴリー)によって限定することですが、こうした限定はあくまで形式的限定であり、その内容はどこまでも小語面的に与えられなければならない、というのは頷けることだと思います。今日はここまでとします。
(第121回)
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具体的一般者と個物の自己同一

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落355頁14行目「一般的なるものを特殊化していけば」から第5段落末までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」(356,1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「よく似た個体の集まりでそれ以上には分けられない「最後の種」だが、わたしたちが「そのもの」を意識する時(タイミング)は必ずしも学問上の「最後」に一致しない。ある景観を特別なものに感じることはその分かりやすい例だといえる。ここに述べられている「最後の種」とは学問上の分類を例にひいたにすぎず、「最後」とそのさらなる特殊化はわたしたちに任意に生じるとは考えられないか。すなわち包摂的関係の逆転が成立し、自己同一なるものが見られるときが「最後の種」であるとは言えないか。」(231字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
包摂的関係における「最後の種」から「個」へと超越する、という考え方は「学問上の分類」での話であり、「わたしたちが「そのもの」を意識する時」は、つまり、私たちに主観的(「任意」に起こりうる)体験の事柄としては、「最後の種」と「個」が一つになっている、そういう理解でいいですか?

S

はい。「具体的一般者」の経験です。こういう経験が動因となってわたしたちの「探求」があると思います。しかしどこまで行ってもその体験に届かない。例えば「ある景観を特別なものに感じた」としてそれを写真に収めても、どこか違う。そうやって写真を撮り続けるというような。

T

でもおいしいラーメンは、何度食べてもおいしいですよ。

W

どちらの例でも「個との出会い(体験)がある」ということが自明視されているように思われますが。

S

そうした体験がなければ、何を動因として「最後の種=個」に行き着こうとするのか?
佐野
未熟なわたしでも、「これこそが剣道である」という体験はありますよ。そうして剣道というものを掴んだ気になる。そうして次の稽古で自信満々で立ち会う。でももう違うんですね。その繰り返ししかない。今ではそのように必ず教え導いてくれる剣道というものを信じざるを得ないし、変な話、感謝さえしています。私などのレベルとは比べものにならないと思いますが、そのラーメンの職人さん(達人)も、これだ、と思うような体験をしながらも、絶えずこれではない、という繰り返しをしているんだと思います。「具体的一般者」でも「純粋経験」でも、体験の事柄ですが、我々はそれを「ある」、「実在」というように掴まざるを得ない。そうしなければ体験が体験としてあらわにならない。しかしそれは掴んでしまえばもう別物になっている。西田も最初「純粋経験」を掴んだと思った。それを「唯一の実在」としてすべてを説明しようとした。しかしそれを西田の「哲学」が許さなかった。こうして西田は「自覚」や「場所」などの立場を死ぬまで遍歴することになるのだと思います。プロトコルはこのくらいにしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(356頁8行目~357頁3行目)
佐野
「変ずるものといえども、それが変ずるものとして考えうる限り」とあるのは、「変ずるもの」は「個」として、元来考えることのできないものだからです。しかし我々がそれを考える、つまり哲学することができるのは、「個」が我々には「具体的一般者」として立ち現れるからだ、ということになります。それで「それが変ずるものとして考え得る限り、具体的一般者でなければならぬ」と言われます。言い換えて「自己自身の中に感覚的なるもの、所謂非合理的なるものを包む具体的一般者が変ずるものと考えられるのである」と述べられます。「かかる一般者」、「具体的一般者」ですね、その「述語面」、「超越的述語面」(意識面)のことですね、それが何らかの意味に於て限定し得る限り、連続が成立するのである」。「感覚的なるもの」は「個」ですが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」において「限定」することによって、そこに「感覚的なるもの」を包む「連続」つまり、「具体的一般者」としての「一般概念」が成立することになります。ここまででわからないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「感覚的直覚面を包む具体的一般者」、具体的一般者としての「感覚的性質一般」ですね、その「述語面が単に肯定的に限定せられた時、単なる感覚的対象界という如きものが見られ、否定を含む肯定面として限定せられた時、知覚の世界という如きものが見られ、更に矛盾的統一面として限定せられた時、物理現象界という如きものが見られるのであろう」とありますね。

A

これらの言葉の定義はどうなっているのですか?
佐野
哲学は基本的に定義を定めて議論を進めていく学問ではないため、言葉の意味も前後関係から推して解釈するほかありません。ですがこの分類は以前と異なっていますね。349頁では、「肯定的述語面」が「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」が「物理現象界」とされていました。用語の意味が揺れていますね。目下のテキストでもこれ以上の説明はありませんから、あとは解釈するしかないのですが、例えば「単に肯定的に限定せられた時」が「これは赤い」のような判断、「否定を含む肯定面として限定せられた時」が「このリンゴは赤い」のような判断になる、と考えることができます。後者では「リンゴ」と「赤い」の間には否定が含まれていると考えられます。「リンゴ」は「赤い」という性質以外も持っていますから。こう考えると、以前の「知覚の対象界」が、さらに詳しく肯定面(「感覚的対象界」)と否定面(「知覚の対象界」)とに分けて考えられていることが分かります。そうして第三に、「更に矛盾的統一面として限定せられた時」が、例えば「このリトマス紙が赤から赤でないものに変ずる」のような判断になります。〈赤でありかつ赤でない〉というのが「矛盾的統一」ということで、こうした判断が成立するのが「物理現象界」です。どうでしょうか?

A

はい。理解できます。
佐野
こうした分類についてなお物足りないものを感じていたのでしょうね。こんなことを括弧付きで書き足しています。「(知覚の世界と物理現象界とを斯くの如く区別するについては尚詳論すべきものがあるであろうが)」。しかしそれについてはこれ以上何とも言えません。次に行きます。「之を越えれば」、「之」とは何ですか?

A

「物理現象界」です。
佐野
そうでしょうね。「物理現象界」を「越えれば、もはや変ずるものを論理的に限定することはできぬ」、通常の論理では限定できない、ということです。「変ずるもの」が「生滅するもの」になってしまうからです。「生滅するもの」とは、生成即消滅、生即死、有即無というようなものですが、これは通常の論理ではとらえられない。「即非の論理」というような論理によって初めて捉えられるものです。続いて「時は矛盾的統一面を表すものであって、時に於てあるものはかかる境界線においてあるのである」とありますが、「かかる境界線」とは何と何の境界線ですか?

A

「論理的に限定できるもの」と「できないもの」の境界だと思います。
佐野
そうでしょうね。「物理現象界」ないし「変ずるもの」、と「生滅するもの」との境界線と言ってもいい。「此故に時に於てあるものは一々が唯一的なるものとして、一度的と考えられるのである」とあります。しかしこれは例の「徳山」の「現在心不可得」ですね。現在は捉えられない。「変ずるもの」の心では「点心」は頂けない。「変ずるもの」を外から眺めているからですね。それでは「赤が赤でない、それゆえに赤である」というように、否定が否定されて肯定に返ってくるということがない。肯定に返ってくれば、赤は赤でないままに赤である、となるわけです。この時には「外から眺める」という態度はなくなっています。主語に残された「質料的なもの」も、述語面である自分に残された主観的なものもなくなっている。これが「生滅するもの」ということだと思います。どうでしょうか?

A

以前出てきた例でいえば「富士山」との出会いですね。今回のプロトコルでいえば「個」との出会い、です。
佐野
ええ。我々は常識的に自分のことを個だとおもい、他者を個人と思い、物を個物だと思っていますが、よく考えてみるとそんなことはなく、常に自分や他者を役割などの一般で捉えていますし、物も何か自分にとって役に立つもの、「道具」としてとらえています。そうでないと理解できないし、理解できなければ行為することもできない。しかしそうした見方が破られる時に「個物」との出会い起こります。そうして実は常に自分はこうしたものに出会っていたのだ、と目覚める。ですから常識(日常性)というのは、最も浅薄であると同時に最も深淵なものだと言えると思います。ただ、これをこのように掴んでしまえばもう違うものになっている、というのは先ほどの議論で確認した通りです。

A

たしかに「俺は出会った」というような主張、あるいは「これこそ実在だ」という主張は危険でもありますね。
佐野
そうですね。でもそうした把握をやめることができない。そのことに自覚的であるべきだと思います。その意味で「私はそれをやめることができた」というのもやはりおかしい。そのように力みかえるのではなく、おそらくは自然と力が抜けていく、そうしたものだと思います。こんな風に言うのも何か違和感がありますが、仕方ありませんね。次をBさん、お願いします。

B

読む(357頁3行目~358頁2行目)
佐野
「元来」と、西田はもともとのところから議論を説き起こします。「具体的一般者の具体的一般者たる所以は内に主語面」、「個」ですね、これを「包むと云うにあるのである」。「具体的一般者」の基本的な意味ですね。これをどのようにとらえることができるかというと、西田はこれを三段階に分けて考えているようです。①「特殊と一般との関係」、所謂「包摂的関係」ですね。これはまだ厳密には「具体的一般者」ではない。「個物」を含んでいないからです。次いで、②この「特殊と一般との関係」に「主語と述語との関係」を含ませる段階、つまり「個物が於てある超越的主語面を包む」段階が来ます。これが「判断」的関係です。こうなるとこれはすでに「具体的一般者」、ここでは「判断的一般者」です。さらに③「推論式に於ける小語と大語との関係を含ませることによって、かかる一般者」、「小語と大語との関係」つまり「判断的一般者」、の「一般者」、「推論式的一般者」としての「具体的一般者」ですね、そうしたものに進むことができる、そのように述べられます。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
ここから西田は、今述べたことをさらに詳しく繰り返します。「具体的一般者が内に主語面を含むと云うことは、前にも云った如く自己同一なるものを含むことによって可能となる」。この一文は「元来」から始まる先ほどの一文をさらに先に進めたものですね。「主語面を包む(含む)」ことが「自己同一なるものを含む」ことだ、と言われています。「自己同一的なるもの」とは「これはこれだ」としか言えないもの、「個物」のことです。「前に」とは、例えば353頁9行目のような記述(「「これは」は…具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体として含まれねばならない」)でしょう。ここから先の三段階が詳述されます。

B

「自己同一なるもの」は、矛盾を含むものですよね。
佐野
そうだと思います。「AはAでない、それゆえにAである」という意味での「自己同一なるもの」です。337頁3行目にも「自己自身のうちに矛盾を含む同一なるもの」という表現が見られます。次に行きます。まず①「包摂的関係」の場合。「単に特殊を含む一般と考えられた時、それは主語的方向に考えられた個物に過ぎない」とあります。「それ」とは何を指しますか?

B

「自己同一なるもの」、個物です。
佐野
そうでしょうね。それはまだ「考えられた」「個物」に過ぎない、と。包摂的関係から、「ソクラテス(特殊=個)は人間(一般)である」と言っても、「ソクラテス」はなおそうした包摂的関係から「考えられた」個にすぎないという意味でしょう。ですからこの「一般」はまだ厳密には「具体的一般者」ではない。次に②「判断的一般者」の場合。「具体的一般者が自己自身を限定する超越的述語面として判断を内に含むと考えられた時、それは主語と相等しき主客合一の場所となる」、とありますが、「それ」とは?

B

やはり「自己同一なるもの」です。
佐野
そうですね。それでもよいと思いますが、「主語と等しき」とありますから、「超越的述語面」でもよさそうですね。「具体的一般者」の自己限定であり、「判断を内に含む」ものとしての。つまり「具体的一般者」の体験でありつつ、判断(思惟・哲学)の源泉となるそうした「超越的述語面」、つまり「意識」です。それが「主語と等しき主客合一の場所」と言われています。まさに体験の場所ですね。「之」、つまり「場所」、「に於てあるものの一々が個物的なる矛盾的統一面である」、「一々」の個物が、「矛盾的」でありながら「同一」である、ということです。即非です。さらに③、「推論式的一般者」の場合。「小語と大語と両方向に於て統一面が相対立し、媒語が両面を結合する自己同一面となる」とあります。ここにも対立と同一、矛盾的自己同一が見られますが、この「自己同一」は特に「個物」と限定しなくてもよさそうです。そうして「媒語面が成立し得る限り推論式としての具体的一般者が成り立つ」と言われます。ここまでで先の三段階が詳述されたことになります。ここまでで質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
ここからは、これまでの「知識」を「推論式的一般者」の立場から捉えなおしていきます。まず㋐「媒語が大語と合し小語を包む場合には」、とあります。この「媒語」、この媒語はまだ厳密には「具体的一般者」とは言えませんが、それでも「特殊を含む一般」としての「一般概念」のことです。そうした媒語が「大語」、つまり「超越的述語面」(意識)と合し、「小語」、この場合も単に「考えられた個物」にすぎませんが、そうした「小語」を包む場合、ということです。そういう場合には「具体的一般者は概念的に限定せられたものとして、先験的知識という如きものが成り立つ」とあります。何のことを言っていますか?

B

数や図形などの、数学的な知識の場合だと思います。
佐野
そうですね。「3は数である」とか「三角形は図形である」は、「特殊は一般である」という形式になっていて、一応一般が特殊を含んでいますが、この「特殊」は「個物」ではありません。「3」とか「三角形」は紙にでも描かない限り、個物ではなく、概念です。かりに「個物」と呼ぶにしても、それは「考えられた個物」です。次に行きます。㋑「併し経験的知識に於ては媒語は完全に小語を包むことはできない、大小両語面は相反する両方向に対立し、媒語面は具体的一般者の限定面として両語を結合するまでである」とありますね。何のことを言っていると思いますか?

B

感覚的世界、知覚の世界、物理現象界のことだと思います。でも物理学はほとんど数学だと思うのですが、違うのですか?
佐野
物理学はあくまで経験科学です。数学を用いた理論的な仮説は実験や観察によって検証される必要があります。話をもとに戻すと、「感覚的世界」、例えば「これは赤い」という判断では、「赤」が「具体的一般者の限定面」としての「一般概念」ですが、この「赤」は完全には「これ」を包めない。「結合する」だけ、だというのです。同じことは「知覚の世界」における判断、「このリンゴは赤い」についても言えます。述語をいくら重ねても「このリンゴ」を言い尽くすことはできません。最後に「物理現象界」における判断の主語である「変ずるもの」が出てきますね。何と書いてありますか?

B

「変ずるものに於ては、具体的一般者の根柢が概念的に限定することができない、と考えられる所以である」とあります。
佐野
「具体的一般者」の根柢とは通常は、「超越的述語面」(意識)のことですね。個物も変ずるものも、ここに「於てある」。ですから「変ずるもの」に限らず、「感覚的世界」における「これ」も、「知覚の世界」における「個物」も、「概念的に限定すること」は完全にはできません。ただ、「これ」や「個物」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって、部分的に限定(結合)ができますが、「変ずるもの」の場合は、赤と赤でない、ということが同時に成立しますから、矛盾を含みます。その場合、こうした矛盾を「概念的に限定すること」は不可能となります。そこで登場するのが「時」という形式です。だとすると、冒頭の「具体的一般者」は「超越的述語面」そのものではなく、媒語面としての、つまり「感覚的性質一般」によって限定された「超越的述語面」と考えた方がよさそうです。今日はここまでとします。
(第120回)
 
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最後の種

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落354頁1行目「数学的知識の如きものに於ては述語面が直に主語面となり」から355頁14行目「即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「之に反し前者に於ては真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考へることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云ふことがで きるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」(355頁12-14)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「リトマス紙では、変化の刹那に「赤にして赤でない」と言えても、やはり「紙」という基体があり、赤と赤でないものは時の前後に分けて考えられる。炎の赤(生滅するもの)の場合は、燃えて消えていくその現れとしてしか「この赤」はないように思う。では、メロディーのように、前の音が消え、次の音へ移ることで一つの全体として聞 こえる場合はどうだろうか。その場合、固定した基体はないが、時間的な前後なしには 成り立たない。これは「狭義に於ける変ずるもの」(リトマス紙)に近いのか、それとも「主語面が述語面に没入する」「矛盾的統一」(炎の赤)に近いのか」(263字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

Y

リトマス紙と炎とメロディーの例が挙がっていますが、リトマス紙または炎と、メロディーは性質が異なるようです。メロディーには美の要素が含まれるからです。ただリトマス紙でも炎でも美を感じることは可能です。どんなものでも物理現象と見ることもできれば、価値の対象として見ることもできると思います。メロディーも音の変化と見れば物理現象です。その場合三つのどれをとっても基体があるように思われるのですが。
佐野
具体的に言説明してください。

Y

リトマス紙における色の変化は、リトマス紙が基体ですが、炎の場合には燃焼物、音の場合は空気が基体です。
佐野
そうですね。もともと「基体」とは「基におかれたもの」という意味です。炎における色の変化は、「炎」が基体、音における変化(高低、強弱、音色など)の場合には「音」が基体になっていますね。そのように考えると、これらはすべて「狭義に於ける変ずるもの」と考えることができそうですが、Rさんは、「炎」ということで、生成と消滅が直ちに一つであるようなものの象徴、喩(メタファー)をお考えなのかもしれませんね。行く川の流れもこうしたものの喩となりえます。メロディーはたんなる物理現象ではありませんが、この点で想い起されるのが、ブレンターノの「直視様相」と「斜視様相」の区別です(旧全集第4巻62,2)。両者の区別が成り立つのは「内部知覚」という意味での意識現象で、これはたんなる物理現象の話ではありません。「内部知覚」としての「意識現象」の話はこのあと出て来ますので、その時に考えることにして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(355頁14行目~356頁3行目)
佐野
「一般的なるものを特殊化して行けば、最後の種に至るまでは中間的質料を含むと考えられる、かかるものの存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とありますね。ここだけ読むならば、「最後の種」は「類-種-個」のうちの「種」の最後のもので、「個」に至る一歩手前、そのように考えられます。実際、「判断的関係を含む特殊と一般の関係を何處までも推し進め、最後の種に於て相反する種差の一方を限定することによって個色というものが考えられる」(334,13-15)という表現があります。この場合は「最後の種」が「最後の種差」を取って「個」に至る、という図式ですね。「種」はどこまで行っても「一般」です。これが「最後の種差」、例えば「この赤か、この赤でないか」のいずれかを取ることによって、「この赤」という「個(色)」になるということになります。

A

「中間的質料」とは何ですか?
佐野
「最後の種」で言えば、「この赤」と「この赤ならざるもの」の「中間(どちらでもあり、どちらでもないもの)」で、さきほどの例で言えば、「リトマス紙」や「炎」などの「基体」がそれにあたります。「質料」とはアリストテレスの用語「ヒューレー」の訳語で、「素材」という意味です。例えば大理石はヘルメス像にもアテナ像にもなりえますね。この場合ヘルメス像は「形相」と「質料(=大理石)」から成る、そのように考えます。大理石はヘルメス像ともなり、アテナ像ともなりうる、中間的なものです。

A

ありがとうございます。「かかるもの」とは「中間的質料」のことだと思いますが、そういうものが「存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とはどういうことですか?
佐野
とりあえず特殊・一般の「包摂関係」に従って「最後の種」を考えると、「リトマス紙」が「最後の種」と考えられます。この「最後の種」が「この赤」か「この赤ならざるもの」という「最後の種差」を取ることによって、「個色」が成立しますが、「個色」という「自己同一」なるものは「変ずるもの」なので、「この赤」は同時に「この赤ならざるもの」です。そうすると「リトマス紙はこの赤にしてこの赤ならざるものである」という判断が成立することになりますが、この判断ではなお、述語が主語を包んでいません。「リトマス紙」という「質料」が残っているからです。

A

ありがとうございます。話をもとに戻してください。
佐野
ここまでは「最後の種」を「個」の一歩手前、と考えることで何とか読めるのですが、次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?

A

「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」とあります。
佐野
そうですね。ここにも「最後の種に至る」という表現が見られます。しかしこの場合「最後の種」を「リトマス紙」のような「中間的質料」と考えることはできませんね。この「最後の種」は「リトマス紙」が含んでいる「相対立するもの」(「この赤」か、「この赤ならざるもの」か)を破った、「自己同一なるもの」と一つになった「相矛盾するもの」としての「個」です。つまりこの「最後の種」は「一般」でありながら、同時に「個」である、つまり「具体的一般」です。そうしてそれは「自己同一」でありながら「相矛盾」している。「この赤であると同時にこの赤でない、それゆえにこの赤である」と言われるものです。これが「生滅するもの」ということです。こうした「最後の種」については、「二」で詳しく論じられていました。例えば337頁3~6行目をご覧ください。何と書いてありますか?

A

「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである。包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とあります。
佐野
「種差」とは、例えば「この赤」と「この赤ならざるもの」のことです。もともと根本にこの「最後の種」=「個物」(自己同一=相矛盾)があって、我々はこれを分別的に主語と述語、特殊と一般、自己同一と矛盾(対立、相異)というように分け、矛盾なく理解しているつもりになっている、そういうことでしょう。こうした「最後の種に至る」と「相反するもの」が「相矛盾するもの」となり、ここに「自己同一なるもの」が見られ、「包摂的関係の逆転」、つまり「主語」と「述語」の包摂的関係が逆転する、というのです。「逆転」と言っても、主語が述語を包摂すると同時に、述語が主語を包摂するといった関係です。次に参ります。もう一度読んでみて下さい。

A

「一々の中間的なものが最後の種となる時、主語面と述語面は合一して矛盾的統一を含む一般者が見られるのである」。
佐野
「一々の中間的なもの」、質料的、基体的なものですね。これがなくなって「最後の種」となる。そうなると「主語面と述語面」が合一する。そうすると「矛盾的統一を含む一般者」、これは「具体的一般者」ですね。これが「見られる」。この「見」は直覚でしょうね。

A

主語的なものをなくして見るということですね。そんなことができるんでしょうか。また、そこからどうやって判断や思惟が成立するのでしょうか?

W

反省の方から反省を徹底させている感じですね。
佐野
あるいは、直観の立場に立ちながら、その立場を正当化するためにあえて反省から論じている(徹底的批評主義)感じですね。西田は『善の研究』以降、直接に直観の立場に立って、そこから反省と直観を区別しつつ、(具体的一般者の自己限定というような形で)反省を直観に回収しようとしているように思われるのですが、私は、直観と反省も即非(矛盾的自己同一)の関係にあって、直接に直観の立場に立つことはできないように思うのです。直観されたものは反省しなければ顕わにはなりませんが、反省されたものはすでに直観されたものではない。反省にとって直観はすでに隠れている、あるいはむしろ反省にとって直観はつねに隠れている、直観は反省が破れることによってのみ顕わになるという側面、この反省が破れるというところに他者の存在が不可欠ですが、こうした側面がこの時期の西田には見られないように思われます。反省を破って初めて成立する「具体的一般者」を、「そこからそこへ」と言われるような直接性として立てて、そこに直接立ってしまう、そこにこの時期の西田の問題があるように感じられます。さて、これまでのところは「具体的一般者」を、後に「判断的一般者(この言葉は350頁2行目の「段下げ」部分に見られますが)」と呼ばれる立場に立って、主語と述語の側面から論じていましたが、「生滅するもの」において両者の統一が成立することによって、「推論式的一般者」の立場が成立し、またここに本文としては初めて「推論式的一般者」の語が登場することになります(いわゆる「段下げ」の部分では、349~350頁。本文の中でも括弧の中では353頁で登場しています。また「推論式」については『場所』論文の260~262頁で論じられています)。

A

どうしてここで「推論式的一般者」が登場したのでしょうか?
佐野
その問いに答えることが、おそらく論文一本になるでしょう。ただきわめて簡略に言えば、主語と述語との合一が「生滅するもの」において達成されたからだ、とは言えるでしょう。その登場の現場を見て見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(356頁3~7行目)。「推論式」って何ですか?

C

「人間は死ぬ―ソクラテスは人間である―ゆえに、ソクラテスは死ぬ」のうち、「死ぬ」が「大語」、「人間」が「媒語」、「ソクラテス」が「小語」だったと思います。

B

ありがとうございます。続けてください。
佐野
「媒語的形式に於て大小両語を包むと考え得るであろう」とありますが、「何が」だと思いますか?

B

「一々の中間的なものが最後の種となること」だと思います。
佐野
そうですね。つまり「主語面と述語面とは合一して矛盾的統一を含む一般者が見られる」というのを「推論式的一般者」に即して述べたもの、ということになりますね。続いて「小語と大語とが相対立する両方向に於ける〔二つの〕統一面となり、媒語が大語と合し小語を包むと考えられる時、大小の両語は媒語の両端と考えられ、超越的述語面が矛盾的統一を包むと考えることができる」とあります。これだけ読んでも何のことか分かりませんね。しかしそれは西田も承知で、これから述べることの結論を予め示したのだと思います。ここでは物理現象というものが、大語面の方から論じられている、そこだけ押さえておきましょう。そうして最後に「推論式に於て最も能く具体的一般者の全構造を見ることができるのである」とあります。どのように見ることになるのか、これももう少し待つことにしましょう。今日はここまでとします。
(第119回)
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肯定、否定、否定の否定(矛盾的統一)

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落352頁11行目「例えば色の抽象的概念であっても、そこまで広げて行けば」から、同段落354頁1行目「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば、その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ、之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」(352, 12-15)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「個色が「この色」として立ち上がる時、単独で無構造に現れるのではなく、他の色との対立・移行や場面との関係を含んだ何らかの構造があるのではないか。それを判断の対象とするなら述語面に移るが、「この色」と出会うその体験の中で構成的・能動的に働いている限りは超越的主語面に属するのではないだろうか。「色自身の体系」とはそのような構造を指しているのではないか」(173字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
テキストを読む場合でも、何を考える場合でも、人間は各々の前提を携えて、そのうえで読み、考える外はありません。この場はお互いにどのような前提で考えているのかに気づいていく、とりわけ自分自身の前提に気づいていく場にしたいと思います。というわけでTさんがどのような前提でお考えになっているかを、対話しながらともに考えていきたいと思います。まずはTさん、補足をお願いします。

T

「超越的主語面」において「色自身の体系」が見られる、というのに違和感がありました。「色」で考えると表現しにくいので、「味」で考えたいと思います。というのも最近「おいしいお酒」を飲んだのですが、そこに「味自身の体系」のようなものがあるように感じたのです。ワインなら、ブドウの品種、土壌、醸造法、樽の種類を見分けられるのみならず、それを「チェリー等の黒系果実と菫、コーヒー、白コショウを伴う複雑な・・・」と言った言葉で形容できる、そうした体系です。一方に「超越的主語面」というものがあるのですが、これは何とも限定しようのないものです。他方に「超越的述語面というものがあって、これは「抽象的概念の体系」ですから、限定可能です。でも「味自身の体系」というのは「限定しようがない」ということではありません。だとすれば、これは両者の中間に位置するものではないかと思うのです。ソムリエとか酒の杜氏といった熟練の人たちのみが、何とも限定のできないもののうちに潜在的に含まれている体系に、トレーニングの果てに到達し、それに表現を与えたものが「味自身の体系」だと思うのです。こうしたトレーニングがないと、「深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者」(『善の研究』39頁)である「個物」(超越的主語面)には出会えないと思いますし、こうした画家にとっては、個物は体系として立ち現れていると思います。
佐野
『善の研究』の「純粋経験」が解釈のベースになっているようです。「構成的で能動的」というのも『善の研究』(38頁)の「純粋経験」についての言葉ですね。少し整理してみます。「超越的主語面」は、何とも限定できないものであるけれども、潜在的に「構成的で能動的」な構造ないし体系をもっていて、そうした構造ないし体系を、修行を経た人、ないしトレーニングを積んだ人のみ知りえ、それに適切な言葉を与えうる、と。こんな感じですか?

T

大体そんな感じです。
佐野
それではこうした考えの前提を考えていきましょう。

L

そのようにして得られた知識でも、それが雑念となるとか、知識が邪魔をしてそのものでなくなってしまうということはありませんか?

T

もちろんそういうことはありえますので、知識を踏まえたうえでまっさらにする、というのが大事なのですが、それは知識がなければできないことだと思います。

Y

熟練の人でなければそうした境地に行き着けない、ということですか?

T

知識のない子供が何かに衝撃を受けるということはあると思いますが、そうした経験と、熟練の人の経験、「深き意味に充ちたる画家の直覚」では、やはり優劣がないとは言えないと思います。少なくとも、子供はそうした経験に適切な言葉は与えられない。

H

二歳の子供はみな天才だが、勉強することによって、もともと持っていたものを失くして行く、というのを聞いたことがあります。
佐野
子供の経験と熟練の人の経験の比較ということですが、経験そのものについては、これはもう、分からない、としか言いようがないのではないでしょうか。動物でも言葉の内容となるものはほとんど人間と同じように知っている。例えば動物は「自己」という言葉も一般化された概念としての「自己」も多分知らないけれども、「自己」という言葉の内容はしっかり知っている。

T

しかしそれを知識として捉えることはできません。そのためには袋のようなものをたくさん持っていることが必要になると思います。
佐野
それに対してはLさんやHさんは、その袋に入らないものを捨てているので、すでにありのままではないし、その袋がありのままに見ることを邪魔している、とお考えになると思います。そもそも実在が潜在的に能動的構成的な構造ないし体系をもっていて、それを我々の修練によって体得・会得することができる、という考えは、きわめて「純粋経験」の思想に親和的ですが、すでに多くの前提を含んでいるように思われます。つまり、こうした前提が一つの袋になっている、ということです。

A

どういうことですか?
佐野
そこにはちょっと考えただけでも、①「実在」が存在し、それが能動的構成的な構造ないし体系をもっていること、②我々の経験がじつは(潜在的に)こうした実在そのものに触れているということ、③我々は修練によってこうした実在を体得・会得できるということ、といった前提を含んでいます。『善の研究』は、西田が、こうした実在を会得・体得したところから、それを振り返るような仕方で、この三つの前提を証明するような体裁をとっています。まず、目の前の意識現象とそれを意識する(知る)こと直に一つである、というきわめて常識的な事実を根拠に、これを「考究の出立点」とします。これを反省的に考察することによって(第2編)、唯一の実在が存在すること、それが意識現象として存在すること(主客合一)、意識現象が能動的構成的であることから実在がそうした形式ないし方式(統一と矛盾、分化発展)をもっていること、こうした方式によって、自然(客観的方面)、精神(主観的方面)、神(両者の合一)が成立することが説明されます。しかし以上は実在を外から反省的に説明したまでで、実在、したがってその統一力を体得・会得したことになりません。こうして行為が問題になることになります(第3編)。そこでは真の善が真の自己(=真の実在)を知ることであるとされ、その可能性が純粋経験説に基づいて示されながらも、それは命令に終わっています。こうした挫折を通して逆に、宗教(第4編)さらには哲学(第1編)において、真の実在にして真の自己が体得・会得されることになります。これを見ると、『善の研究』の全体が「考究の出立点」を前提にしていることが分かります。それは目の前の意識現象とそれを意識する(知る)ということが同一であるという、極めて常識的な事実でありながら、その奥義「経験するというのは事実其儘に知るの意である」の体得・会得には宗教的・哲学的な知的直観が不可欠とされるものです。西田にはそうした直観を得た、あるいは少なくともそうしたものが「なければならぬ」という直観を得たとの確信があったと思いますが、私がここで申し上げたいのは、こうした「極めて常識的な事実」にしても、知的直観を得た、という確信にしても「前提」、つまり「袋」ですね、そうしたものになりえないか、ということです。そんなことを私に強く思わせるのは、ニーチェの影響もあると思いますが、目の前のものが実在であるとか、その奥義を修行によって体得・会得できるという考えは、我々の人生をたいそう生きやすいものにしてくれる考えだからです。つまり、我々にとって都合のよい考え方だからです。あるいはこう言ってもいい。実在やその体得・会得が問題になっているのは真理が問題になっているからですが、真理が問題である以上、「真理がある」ということ自体が疑われなければならない。そうなると、目の前のものが実在であるというのも、その奥義を体得・会得した境地があるというのも、疑わしいということになります。

A

ですが「経験するというのは事実其儘に知る」というのは、「真理」がどこかにあるという考えも否定されたさらに一歩先、というかむしろ手前に開ける境地ないし境涯とも考えられますが。
佐野
それはその通りだと思います。しかし他面、そのように言ってしまうと、それがまたしても新たな「知」、「前提」になってしまうということがある。何かを立ててしまうということをどうしてもやめられない。問題はこの「やめられない」、あるいはこうだ、といって「片付けられない」というところに十分に自覚的であることではないか、と思うのです。「無知の知」というか、「汝自身を知れ」というか、そういうソクラテス的なところにつねに帰って哲学してはどうかと思うのです。プロトコルはこの位にしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(354頁1行目~8行目)
佐野
「数学的知帰」と「経験的知識」が対比されていますね。「数学的知識」の場合には、「述語面」、これは代数の場合は「数」、幾何学の場合は「図形」ということになりますが、どちらも「一般概念」つまり「抽象的一般」です。そうした「述語面」が直ちに「主語面」になる。例えば「3」という数も概念で、数の体系の中でのみ意味をもつ概念ですから、「3は数である」、つまり「特殊は一般である」という命題はその「一般概念」の中で成立します。「三角形は図形である」も同様です。その場合は経験を俟たずに「両面が合致するが故に」、「先験的」知識となる、つまり例えば三角形なら、実際に計ってみることなく証明によって内角の和は二直覚になる、ということです。ところが「経験的知識」の場合はそうはいかない。「両面は何處までも合致することはできない」。主語面に来るものが個物だからですね。個物は完全に言い表すことができない。ですから「限定せられた述語面として現れるものはいつでも部分的なるもの」、ということになります。次に参ります。「一般と特殊との概念的関係から出立して、特殊化の方向を何處までも進めて行っても、その尖端が直に背後の限定せられた一般者に於てあると考えられるものは」とありますが、何の話をしていますか?「数学的知識」ですか?それとも「経験的知識」ですか?

A

「数学的知識」です。
佐野
そうですね。「その尖端」、たとえば「3」とか「三角形」ですね。それが「直に」「数」とか「平面図形」に於てある、ということです。その場合には「主語面と述語面が合致」している。それによって「数学的知識」が先験的に成立することになります。これに対し「その尖端が限定せられた背後の一般者の外に出ると考えられる時」とありますね。この場合の「尖端」とは?

A

「個物」です。
佐野
そうですね。その場合、「之」、「尖端」つまり「個物」ですね。それを「包む一般者は限定すべからざるものとならねばならぬ」とあります。「抽象的一般者」ではない、「超越的述語面」ということです。こうなると個物について何も語れないことになりますが、そうではない、と西田は言います。すなわち「併し之に於て判断が成立するかぎり、それは如何なる意味に於ても限定することのできないものとなるのではない」、つまり自己限定して「抽象的一般者」になりうる、ということです。「個物」について語りうる、哲学できる、ということです。明らかに矛盾のようですが、西田は個物を語りうる論理が存在することを念頭に置きながらこのように言っていると考えられます。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(354頁8行目~14行目)
佐野
「判断的関係を含んだ具体的一般者の自己限定に三つの段階を区別することができる」とありますが、これは以前(350,15)に出て来た「論理的限定」ですね。①肯定的、②否定的、③否定の否定即ち矛盾的統一の3つがそれだとされます。次に「単に特殊と一般との関係を含む一般概念は特殊の否定を含むと考えられても、自己自身の否定を含むと云うことはできない」とありますが、何の話ですか?

B

「数学的知識」だと思います。
佐野
そうでしょうね。「自分自身の否定を含む」とは「一般概念」の外に出るということです。「数学的知識」の場合はそれがない。「3」と言っても「三角形」と言っても「一般概念」内です。「併し」と来て、「具体的一般者」、「個物」を含む一般者のことですね。それ「に於ては自己自身の中に矛盾を含むと云うことができる」と述べられます。まず①「具体的一般者が肯定的に自己自身を限定すると考えられる時」が考えられます。ここでは「これは赤い」という「感覚」の場合と、「このリンゴは赤い」という「物」についての判断である「知覚」の場合を含めて考えているようです。そうした時、「単に主語となって述語とならない特殊化の尖端」、「個物」ですね、それを「包むと考えられる」、言い換えて「即ち超越的主語面という如きものが考えられる」とされます。そうして「我々が本体と考えるものは此の如き主語面を意味するのである」と続きます。

B

「本体」とは「物自体」と考えてよいですか?
佐野
そうですね。色について言えば、以前、「色自体」の体系、「色自身」と呼ばれていたもののことです。「之に反し述語面は之と対立して単なる意識面即ち対立的無の場所と考えられる」と続きます。西田は、とにかく「具体的一般者」がなければならない、つまり我々が経験しているのは個物であり、それは言語に言い表すことのできるものである、というきわめて常識的な立場に立って考察を開始しているので、それが主客に分れた場合にこういう形をとることになります。カントでしたら反省の立場に立ちますので、そもそも「個物」(物自体)の知的直観はありえませんから、「具体的一般者」はどこまでも統制的な理念となって、超越論的主語面には経験的に感性的な直観が、超越論的述語面には感性の形式(時空)と悟性の形式(カテゴリー)、および超越論的統覚が来ることになります。さて、「而して具体的一般者が単に肯定的に限定せられたものと考えられるかぎり」、感覚(これは赤い)及び知覚(このリンゴは赤い)の場合ですね、その場合に、「その述語面に於て現れるものも単に肯定的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり単に「赤い」ということです。「併し具体的一般者として判断がその内に成立すると考えられる以上、述語面は主語面を自己自身の限定として内に包むものでなければならならぬ、即ち超越論的述語面でなければならぬ、斯くして始めて具体的一般者と云い得るのである」と続きます。「これ」とか「このリンゴ」を包むものは「一般概念」(「抽象的一般者」)であってはならない、ということです。「然るに単に肯定的に限定せられた述語面」、つまり上の例で言えば「赤い」は「真に超越的述語面を包むと云うことはできぬ」とあります。しかしここは「赤い」が、「これ」や「このリンゴ」を包むことはできない、という意味でなければなりません。おそらく「真に超越的述語面を包む」は「真に超越的主語面を包む」の誤植であると考えられます。直前に「述語面は主語面を…包むものでなければならぬ」(355,2-3)という表現がありますし、少し後(355,6)にも、「超越論的述語面が超越論的主語面を包む」という表現も見えます。「誤植」というような判断は滅多にしてはならないのですが…。

B

いえ。ここはそう読んだ方がいいと思います。
佐野
続けます。「単に抽象的一般者と考えられる所以である」、「赤」が「抽象的一般者」だということですね。それでは「これ」、「このリンゴ」といった個物を包むことはできない。続いて、②「次に具体的一般者が自己自身に否定を含むもの」、とありますね。以前、「自己自身の否定を含む」(354,10-11)という表現があり、それは「個物が一般者の外に出る」という意味でしたが、ここでの「自己自身に否定を含む」はそういう意味ではありません。「具体的一般者が」とありますが、「具体的一般者」はすでに自己否定的に「個物」を含んでいるからです。ここでは「具体的一般者」が①の「肯定的」に対して、「自己自身に否定を含む」と言っています。そのような仕方で「自己自身を限定した時」、これは、例えば「肯定的」が単に「赤い」であるのに対して、「否定を含む」とは「赤にして赤でない」ということです。こうした「超越的述語面が超越論的主語面を包むものとして変ずるものが考えられる」とされます。そうして「即ち述語的なるものが主語的となると考えられる」と来ます。逆転が起っていますね。「赤にして赤でない」が主語となり、「赤い」が述語になる、ということです。しかしそんなに簡単にはいかないようです。先を読んで見ましょう。「併し」と来て、「一般的なるものが否定を含む」、「赤が赤でない」ということ、あるいは「変ずるもの」ですね。これに「二種の区別を考えることができる」というのです。「否定が即肯定を有する」、「赤が赤でない」が「即」「赤である」ということです。「即非の論理」を思わせますね。そのような仕方で「矛盾的統一を含む」、これが③です。これに対し、「否定を含む」(「赤が赤でない」)といっても、「尚肯定的主語面の性質を有するもの」、これが②「狭義に於ける変ずるもの」です。後で出て来ますが、主語面に質料的なものが残る場合です。例えばリトマス紙が赤から赤ならざるものに変ずる刹那は「赤にして赤でない」ということになりますが、こうした「変ずるもの」を「リトマス紙」という主語(実体ないし基体)において、しかも「時の一般者」においてあるとした時に、「狭義に於ける変ずるもの」となります。この場合には「現在」が「赤」であるとした時にはすでに「過去」となって、「現在」は「赤ならざるもの」になっています。否定が即肯定となって、「即」「赤である」のように、「赤」に還ってくることはありません。ここまでで質問はありますか?

B

何とかついていけています。
佐野
さて、この②の場合には「尚真に述語面が主語面となると云うことはできない」とされます。それはすでに述べた通り、主語面に個物(実体)的なもの、質料的なものが残っているからですが、これについて「前に超越的述語面の肯定的限定というのはかかるものを意味するのである」と述べられます。「前に」とはどこですか?

B

355頁4行目に「単に肯定的に限定せられた述語面」とありましたから、そこではないでしょうか。
佐野
そうですね。①の感覚、ないし知覚の場合です。その場合には主語面に個物(「これ」、「このリンゴ」)が残っていましたね。「之に反し前者」、③の場合ですね、その場合には「真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考えることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云うことができるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」とされます。

B

質料的なものがなくなって、すべてが形相となる、と考えてよいですか?
佐野
そうだと思います。キーネーシス的な見方からエネルゲイア的な見方への転換と言えるかもしれません。今日はここまでとしておきます。
(第118回)
 
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無限の対立――超越的主語と超越的述語

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落351頁10行目冒頭から、同段落352頁11行目「斯く云い得るのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯我々が主語となって述語とならない個物を考へるといふことが同時に述語面が広がるといふことであって、之によって述語面が限定せられるのである」(352, 5-6)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「『善の研究』では差別的な知識による判断の領域と主客未分の領域とを区別し、その間に何等かの超越を認めつつ、両者の関係を認める考えが述べられていたが、「知るもの」にある「一般概念」「個物」「具体的一般者」「限定」との関係はこの時点でどのように整理されるか」(125字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
『善の研究』をお持ちですか?第1編第2章第7段落(岩波文庫改版37頁~)をご覧ください。そこには「具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは…具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといって居る。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は連想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いて居る。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前に云った様にその統一自身は無意識である。…純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことは、かえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。…個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である。個体の中にありてこれを発展せしむる力である、例えば趣旨の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、…それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なって居るのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。…真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、…深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的と云いうるであろう」とあります。これを参照しながら、もう一度プロトコルの「問い」を読んでみて下さい。

Y

Sさんは、抽象的一般者(判断)の領域と具体的一般者の領域を異なるものとお考えですか?

S

押し詰めて考えると繋がるけれども、そこには超越があると思います。

T

どこまでも矛盾と統一を繰り返す根本にある統一力が具体的一般者だとすれば、超越という言葉がしっくりきます。
佐野
ですが、純粋経験の場合は、その統一力が最後に個体となって姿を現わしますね。種子が苗になった時に、初めて苗(形相)がその植物の成長を促していたことが分かるように。もう一つ言えることは、一方で統一と矛盾を繰り返しながら実在がどこまでも無限に活動することを説きながら、他方で最大最深の統一、つまり極致というものを考えていて、その直覚が宗教的覚悟(直観)であるとしている点です。その意味ではここでも最大最深の統一力が姿を現わしています。どこまでも「超越」というわけでもなさそうです。

W

存在と認識を分けて考えると、『善の研究』の方では存在が、「知るもの」の方では認識の側面が勝っているように感じられます。「知るもの」では絶えず「包摂判断」から始めているのに対し、『善の研究』のこの箇所ではつねに「純粋経験」から語られています。
佐野
たしかに。ですが『善の研究』でも、まず「疑うにも疑いようのないもの」というのが考えられて、それが「純粋経験」とされています。認識論を出発点としていることは共通していますが、出発点となっているのが、「純粋経験」と「包摂判断」という違いがあります。それが存在から語る『善の研究』、認識から語る「知るもの」という印象の違いに結び付くのでしょう。とは言え、「知るもの」でも、目下読んでいる箇所で、「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば」とあるように、「潜在的」という言葉を使って「具体的一般者」の方から考えようとしているのが垣間見られますね。『善の研究』で西田がヘーゲルの「具体的一般」を念頭に置いていたことは明らかですが、「知るもの」におけるそれとはずいぶんと趣が異なります。純粋経験は弁証法的に体系的な発展をしますが、「知るもの」における「具体的一般者」にはそうした面があまり見られません。

R

『善の研究』の頃の西田は実在の根柢を「統一作用」とか「統一力」で押さえていますが、「知るもの」では矛盾ということが出て来ていると思います。
佐野
たしかに「知るもの」では「作用」はすでに「知られたもの」であって「知るもの」ではない、というのが基本的立場ですが、『善の研究』で「統一作用」と言われていたものがたんに「知られたもの」を意味するとは言えないと思います。また、『善の研究』でも「統一」とともに「相互の対立むしろ矛盾ということが必要である」(第2巻第5章第3段落)とも述べられていました。これらをどう考えたらよいでしょうか。『善の研究』との比較はとても難しい。『善の研究』はそれ以後の西田のすべての思想を、本人の自覚とは別に、すべて胚胎しているところがあります。初めからすべて自覚していたとはとても言えませんが、単純に未熟で済ますこともできない。そこが難しい。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(352頁11行目~353頁2行目)
佐野
「例えば色の抽象的概念」、例えば「赤一般」ですね、それを「そこまで広げて行けば」とありますが、「そこまで」とはどこまでですか?

A

「抽象的一般から具体的一般に移り行く」までだと思います。
佐野
そうですね。そうすると、「赤一般」も「具体的一般者になると考えることができる」、つまり「この赤」、個色になるということですね。次に行きます。「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば」、つまり「特殊」が「個物」(この赤)に達する場合ですね。そうすると、「その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ」、「この赤」を含む「色自体」の体系が見られる、ということですね。

A

「色自身の体系」とはどういうことですか?
佐野
客観的な実在が有する体系のことだと思います。

N

あとで「色自体」とも言い換えられていますが、カントの物自体を念頭に置いていると考えてもよいですか?
佐野
西田はたぶん、物自体を念頭に置きながら述べていると思います。それが「色」について言われているので「色自体」というように述べたと思います。もちろん「この赤」が顕わになっているときには、それが「赤」である、「色」である、というような括り方はしていないと思いますので、仮にそう(「色自体」と)言ったまでだと思います。次に参りましょう。「之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」とありますね。「超越的述語面」においてそれが限定されたものとして、「抽象的概念」、この場合は「赤一般」を始めとする様々な概念の体系のことですね。先の「色自身の体系」が所謂客観的な体系であるのに対し、こちらは所謂主観的な体系です。ここまで、何か分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に参りましょう。「それで具体的一般者に於ては、その主語的方向と述語的方向とが相対立する両方面に於て、一方にそれ自身に同一なるもの」・・・。

A

ちょっと待ってください。「それ自身に同一なるもの」とは何のことですか?
佐野
AはAである、としか言えないもの、例えば「富士山は富士山である」、という叫びしかないもののことです。これを「富士山は山である」というように捉えるとあたりまえの山に成り下がってしまう、そういう捉え方のことです。

A

分かりました。
佐野
続けます。「一方にそれ自身に同一なるもの、いわゆる直覚的なものが見られ、一方に抽象的一般なる者が見られるのである」とありますね。これも同じことで、一方に「この赤」などから成る実在の体系があり、他方に「赤一般」などから成る主観的な抽象的一般〔概念〕の体系がある、ということです。次をBさん、お願いします。

B

読む(353頁2行目~354頁1行目)
佐野
「抽象的一般概念とは此の如き意味に於て限定せられた超越的述語面と考えることができる」。「抽象的」とは他を捨象した、その意味で「限定された」ということですが、ここは?

B

大丈夫です。
佐野
次へ参ります。「具体的一般者は判断的関係を含むものとして一方に超越的主語というものが考えられ一方に超越的述語というものが考えられ、両方向は無限の対立をなすと共に一つの統一体でなければならぬから、両方向の何れの方面に統一を求めるかによって、一つは主語面の方に於て一つは述語面の方に於て相対立する二つの統一面が考えられる」とあります。

B

二つの統一面があるというだけならば、両者は統一されていませんよね。
佐野
そうですね。まずは主語面において「直覚」という形で「統一面」が見られ、これを述語面から包んで概念的知識にしようとする。つまり、主語面を基礎に述語面から包もうとしますが、数学的知識の場合(数学的知識は「一般概念(=抽象的一般者)」において成立します)ならいざ知らず、経験的知識の場合はどこまでも主語面を包むことができない。しかし三つの段階を経て、最後に逆転が起って主述が転換し、両面の統一が現れることになります。この事態を言い表すものとして、「推論式的一般者」が登場してきます。それはこれから読んでいくことになります。次に括弧がありますね。何と書いてありますか?

B

「(具体的一般者を推論式的一般者と考えれば大小両語面の対立となる)」とありますが、「大小両語面」とは何ですか?
佐野
「推論式」で念頭に置かれているのは三段論法です。「人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論)という三つの命題のうち、結論の述語となるものが「大概念」ないし「大語」、小前提の主語となるものが「小概念」ないし「小語」、両者を媒介するものが「媒概念」ないし「媒語」です。今の例で言うとどうなりますか?

B

「大語」が「死ぬ」で、「小語」が「ソクラテス」で、「媒語」が「人間」です。
佐野
そうですね。「大語」が最も広い概念となります。ここでは「大語」=「一般者」、「小語」=「個物」と考えてよいと思います。「主語面」を基礎にしてこれを述語面から包む、というのが、「媒語が大語と合し小語を包む」ということになり、これが「大語面的限定」と呼ばれることになります。これもこれから読んでいきます。とりあえず、目下のところは「二つの統一面」が「相対立」している、そうした状況です。次へ行きます。例が出て来ますね。「例えば「これは赤である」という如き判断は具体的一般者に於て成立する判断でなければならぬ」とされます。両面が統一されなければならない、ということです。その場合、「これは」は「限定することのできないもの」として「抽象的概念の外にある」とされます。「これ」つまり「この赤」(赤とも本当は言えないのでしょうが)はどこまでも限定できない。「これ」と叫ぶ以外ない。しかし「具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体」、「個物」ですね、そうしたものとして、「〔これが〕含まれねばならない」とされます。どうしても「概念的知識にならなければならない」ということですね。そうすると主語的方向に「色自体」という如きものが見られなければならない、ということになる。「色自体」とは先程は「色自身の体系」と呼ばれていたものですね。「この赤」を含む客観的な実在の体系のことです。これに対して、「之と共に述語的方向に於てその述語的なる者の統一としての色の一般概念という如き述語面が限定せられねばならぬ」とあります。超越的述語面(意識)が「色の一般概念」にまで限定されなければならない、そういうことです。次に「前に具体的一般者は内に自己同一なるもの即ち直覚的なる者を含むと云ったのは」とありますが、「前に」とはどこですか?

B

352頁15行目~353頁2行目だと思います。
佐野
そうですね。その具体的一般者内の「自己同一なるもの」「直覚的なるもの」が「主語的方向に於ける統一面」を意味する、とされます。ここですでに直覚、自己同一という仕方で、「統一面」が成立している、ということです。しかしこれを「概念的知識」にもたらすためには、「之に対して述語面に於て一般概念が見られなければならない」ということになります。つまり「超越的述語面」が「抽象的概念」にまで限定されなければならないということです。そうして「我々の知識はいつも主語面に於てあるもの、即ち客観的なるものを基礎とする」が、「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである」とされます。たしかに「これは赤である」というのもすでに概念的知識ですが、もちろんこれでは十分な知識ではありません。今日はここまでとします。
(第117回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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