判断的一般者の立場/推論式的一般者の立場
- 2026年4月4日
- 読書会だより
岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第3段落348頁10行目「併し判断的知識の根柢には」から、同段落349頁12行目「肯定がなければならないのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「物の概念は現象の概念に變ぜられるのである」(348, 13)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「上の文は《不知の物自体》が《知の形式》へ変換可能とも読める。しかし、それは「限定できないもの」を仮に「限定して見たもの」に過ぎない。限定が「肯定的」であれば静態的な「知覚の対象界」が見られ、「否定を含む矛盾的統一」であれば動態を含む「物理現象界」が見られよう。但し、これらはいずれも仮定の「如きもの」の世界であって、真に「変ずるもの」たる「内容を有つた時」は、「抽象的一般としては限定できない」。然らば、我々はかく「限定せられた概念の外に出」て、「その(矛盾の)背後に否定を包んだ一般者」を見る「無の場所」において、「否定の肯定」をせざるを得ないと解するが如何」(280字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「無の場所」は「絶対無の場所」ですか?
N
いいえ、違います。私はここでの「場所」を三層に分けて考えています。第一は「有の場所」。これはフィクションの世界。静態的な「知覚の世界」も動態的な「物理的現象界」も、あらゆる学問のみならず、国家や経済の世界もこれに属します。第二は「無の場所」。今、今、今を「否定の肯定」として生きる場所です。真に「変ずるもの」、「内容を有った時」の世界です。「有の場所」が「抽象的」で、この「無の場所」が「具体的」です。そこにおいて我々はさまざまなフィクションを受け入れながら生きている。第三は「絶対無の場所」。これは言葉で言い表すことのできない世界、悟りの境地とか、「境涯」と呼ばれるものです。生死を超えた世界です。宗教となると、このフィクションを信じ切った状態と考えられます。
だとすると、我々は常にフィクションの世界を生きていることになりませんか?
N
そうです。すべてフィクションですが、そこにおいてなお「生きる」という現実があります。
K
「有の場所」がフィクションだというのは分かりますが、それと区別された、現実に生きる場所である「無の場所」や、言葉にならない「絶対無の場所」がフィクションだというのはよく分かりません。
「有の場所」、「無の場所」、「絶対無の場所」というのも言葉ですね。言葉にならないものを整理してそれに付けた名称です。その意味ではフィクションと言える、という意味だと思います。しかし、だとすればむしろ言葉以前の「絶対無の場所」こそが現実の世界とも言えそうですが、Nさんはその間に「無の場所」をお考えになり、そこを現実の世界だとされる。この「無の場所」は西田のこれまでの分類では「対立的無の場所」で、主客対立の立場、主観で言えば「意識」の立場ですね。これまでは「認識」に関して論じられていましたが、Nさんは実践、もっと言えば決断の事柄としてお考えのようです。「認識(判断、思惟)」しているということも、「意志(決断)」しているということも、統覚として意識(自覚)できます。その時に「私は考える」、「私は意志する」という仕方で「私」が出て来る。それ以外では、大抵我々は経験・世界の中に没入しています。この「没入」した在り方では、言葉を用いていてもそれに没入していますから、それに「ついて」意識したり、語ったりすることはできません。私はどうも分からないのです。我々はどこにいるのだろうか、と。気がついたら自覚していますが、しかしただちにそのことに没入しています。そうなると自覚をも含めてすべてが「について」という言葉以前とも思えるし、だとしたらそのように「思っている(考えている)」ことはどうなるんだ、すでに「思っている」ではないか、というように。
W
場所を三層に分ける時に、「境地」というものを設けて、生きることにヒエラルキーを設け、より高みを目指す、といった構図、生き方に差ができるような構図には違和感があります。
でも世界の見え方が深まるということはあるのでは?
W
見え方は深まりますが、存在(ある)ということに深まりはないと思います。
そうした「存在」は、おそらく「について」語る以前の事柄だと思いますが、その場合でもそうした「存在」「について」語っている「私」が出て来ているような気もしますし、あるいはそのように「について」語っている「私」も直ちにそのことに没入して、それに「ついて」は語れなくなっている、とも考えられます。「について」の言葉と、そうした言葉以前、これは「知と存在」、あるいは西田的には「反省と直観」と言ってもいいですが、この両者は絶えず循環するように矛盾している、そんな気がします。我々は立場を求めます。それがないとどう語っていいのか、どう行為していいのかも分からないからです。それが分かれば安心できる。ですが人間にそうした安心できるような立場というものはどこにもない、すべての立場が虚構である、そんな気がします。しかし逆に言えば、どこにも立場というものがないというのがもっとも自由だ(「応無所住而生其心」という言葉を思い出します)、そんな気もしますが、それはたしかにWさんのおっしゃるように、「境地」というようなものではない気もしています。またすべてが虚構ということであれば、そのどれもが誤謬で、儚く移ろい行くものでありながら、そのままにこの上なく真実で、もっとも尊い、ということになるような気もします。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん。お願いします。
A
読む(349頁13行目~350頁1行目)
ここに小さな文字で書かれた部分は後で書き加えたもののようですね。初めて参加された方がいらっしゃるので、少し丁寧に見て行きましょう。「私は後に」とありますが、この「後」はこの「知るもの」という論文のなかで出て来ます。「具体的一般者」とは「抽象的一般」に対して言われています。通常「一般」は「特殊(個別)」とは対立関係にあります。人間一般とソクラテス(個)は区別されます。これに対し、「具体的一般者」とは「特殊」を含む(包む)「一般」のことです。こうした「具体的一般者の完全形を推論式的一般者と考えて論じて居る所と」とあります。「具体的一般者」の完全形は後で出て来る「推論式的一般者」だというのです。「推論式」とは、例えば典型的には、「人間は死ぬ」、「ソクラテスは人間である」、ゆえに「ソクラテスは死ぬ」という三段論法がそれです。この場合「人間」が「大語」、「ソクラテス」が「小語」、「死ぬ」が「媒語」と呼ばれます。「大語」が「一般」、「小語」が特殊で「媒語」が両者を媒介するものです。今の時点ではこの程度の理解で十分です。「推論式的一般者」については後でそれが出て来た時に考えればよいのです。その箇所と「此に論じた所との連絡について多少弁じて置きたいと思う」とあります。ここまでで分からないところはありますか?
A
とりあえず、大丈夫です。
「感覚的なるもの、非合理的なるもの」、つまり「特殊」ですね。これ「を包む推論的一般者」、「具体的一般者」の「完全形」ですね。これが「即ち帰納法的一般者」とされています。「帰納法」とは通常の、一般から特殊を導き出す「演繹法」と異なり、特殊から一般を導き出すものです。この間、東風が吹いたら雨になった。前回もそうだった。そこから「東風が吹くと雨が降る」という法則を導き出す場合がそれです。西田が「具体的一般者」の「完全形」を何故こうした「帰納法的」な「一般者」と呼んだかは、ここでは分かりません。ここでは分からないままにペンディングにして読み進めていきます。そうした「帰納法的一般者の立場から云えば、物理的現象界はその大語面的限定によって成立するのである」とあります。「大語面」つまり「一般」の側からの限定、ということですね。「之に於て」とありますが、「之」とは?
A
「大語面的限定」です。
そうですね。「之に於て限定せられるものは、すべて時間的にして変ずるものと考えられるが、その大語面的限定の極限において小語面が時の一点と考えられた時、物理意的世界が見られるのである」とあります。
A
「大語面的限定」「に於て限定せられるもの」が何故「時間的」となるのですか?
多分、カントを踏まえていると思います。我々が「感覚的なるもの」を感性において受けいれる時の形式が「時間」だということだと思います。
A
分かりました。ありがとうございます。
「時の一点」において限定しようとしますが、できない。赤は赤ならざるものに変化してしまっている。そこに「物理的現象界」が見られる、というのです。次をBさん、お願いします。
B
読む(350頁1行目~8行目)
「之を今此にて論じて居る如き単なる判断的一般者の立場から云えば」とあります。今の叙述は後から見ると「判断的一般者」の立場だというのです。その立場からすると、「その超越的述語面が感覚的性質一般の概念によって限定せられると云うの外ないであろう」と述べられます。「超越論的述語面」とはまっさらな「意識面」(意識一般)のことですが、それが「感覚的性質一般」という「概念(一般概念)」によって限定される、というのです。どういうことかというと、「感覚的性質一般という如きものが主語となって述語とならない超越的述語面となると云うこと」だというのです。「主語となって述語とならない」というのはアリストテレスの実体である個物を言い表す定式です。例えばソクラテスは個物(個)です。ソクラテスは主語になって「ソクラテスは白い」、とか「ソクラテスは背が低い」、とか言えますが、ソクラテスを述語の側に持ってくることはできません。「これはソクラテスである」と言うことはできますが、この場合は命名の仕方にすぎず、主語と述語がまったく同じもの(個物)になっていますので、通常の判断からは除外します。そうすると、上の文は「感覚的性質一般」が「主語となって述語とならない」つまり「個物」になるということをまずは意味します。先にも述べたように、「感覚的なるもの」を「時の一点」としての現在(個)として限定することはできません。赤はただちにその赤ではありません。このようにこの赤とこの赤ならざるものを含むものが「感覚的性質一般」です。現在の一点という個物を「感覚的性質一般」という一般概念で包もうとするとこうしたものにならざるを得ない。今は「感覚的性質一般」が「主語となって述語とならない」、というように「主語」の側に来ていますが、この「感覚的性質一般」は「具体的一般者」なので、同時に「述語面」でもあり、「超越的述語面」が「感覚的性質一般の概念」によって限定せられたものでもあることになります。ここまでいかがですか?
B
何とかついていけています。
ここまでは後に「判断的一般者」と呼ばれる、現在の立場から言えることですが、同じことを「推論式的一般者」の立場から言うと、つまり「感覚的なるもの、非合理的なるものを包む推論式的一般者に於て」、「その内容」、「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の「内容」ですね、それが「抽象的一般概念」、つまり「感覚的性質一般の概念」によって「限定せられることを意味するであろう、即ちそれ(感覚的なるもの、非合理的なるものの内容)が大語面的に自己を限定することとなるであろう」と述べられます。
B
大語面的な限定というのは一般の側からの限定ということですよね。具体的にはどういうことですか?
例えばソクラテスが牢屋に居るとして、それが何故かというのを説明する際に、足があって牢屋の中に入ったからだというような説明をする場合が考えられます。しかしソクラテスが牢屋に居るのは、ソクラテスがそれを善いと考えたからだとも説明できるわけで、これが小語面的な説明となると思います。あるいは慈悲深い仏像を銅からできていると説明するのが、大語面的な説明、慈悲深さ、あるいは美から説明するのが小語面的説明、そんな風にも言えると思います。次を見て見ましょう。何と書いてありますか?
B
「何となれば、後に云う如くその小語面的内容は、時が一点となると共に、単なる感覚的性質という如きものとなるが故である」とあります。
「何となれば」とは何故「大語面的」な「自己限定」になるか、ということですね。「小語面的内容」、つまり「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の内容が、時が一点になることによって、この赤が同時にこの赤ならざるものであることになって、「単なる感覚的性質という如きもの」になるけれど、これを反対(述語面)から見れば、「大語面的限定」になる、そういうことだと思います。そうしてこの「大語面的限定」が「単なる肯定面であった場合は、尚真に推論式的一般者の述語面ということができない」とありますが、これは何を念頭に置いていますか?
B
「知覚の対象界」です。
そうですね。349頁にも「知覚の対象界」について「単なる肯定的述語面」(7行目)とありました。そうして次に「それ」つまり「大語面的限定」ですね、「それが矛盾的統一面であった時、推論式的一般者の述語面としてその時間的なる内容を完全に映すことができる」とあります。これは何を念頭に置いていますか?
B
「物理的現象界」だということになると思いますが、「完全に」というのに少し違和感があります。
たしかにそうですね。しかし主語が「大語面的限定」で、それはすでに「感覚的なるもの、非合理的なるもの」の「内容が抽象的一般概念によって限定せられたもの」であると考えるなら、その範囲内で、つまり物理現象であるという範囲内で、と考えられますね。そうして最後に「矛盾を含む一般者は推論式的一般者なるが故である」と締めくくられます。
B
西田はなぜこのような文をここに差し挟んだのでしょうか?
読者サービスか、あるいは至らない書き方をした以前の自分の叙述に対する言い訳か。
C
西田が読者サービスをするとは思えませんが。
言い訳なら、そもそもそんな論文を公表せずに、完成したものだけ公表すればよい、とも言いたくなりますが、この時期の西田は書きながら考え、考えながら書く、といった哲学のスタイルをとっていますので、書きながらどんどん言いたいことが変わっていきます。その辺は『善の研究』とは大きく異なります。『善の研究』の場合は言いたいことの全体がボヤっとあって、それを最後まで書いた,という感じがありますが、この時期の西田はそれとは違っています。書くことによって別の人間になっている、そんな感じです。ここでは「判断的一般者」から「推論式的一般者」に立場が変わっていくわけですが、それでこの箇所では両者の間の「連絡について多少弁じておきたいと思う」と言われているのでしょう。一種の振り返りで、これも叙述の一部だと考えたのかもしれません。それにしても難しい文でしたね。今日はここまでとしましょう。
(第114回)

