知るということ―「作用」への批判

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第3段落312頁7行目「真の認識主観は思惟と広義における直覚との統一」から313頁14行目「尚対象的意義を出し得たということはできない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意識の背後には何物をも考へられない、何物かの上に立つならば意識ではない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何らかの意味に於いて対象化せられたものは意識ではない、…我々に真に直接なる反省的意識は、かゝる意味における作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」(313頁3行目〜11行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「フィヒテの場合、認識主観(自覚)は形而上学的に実体化・対象化されたものであるから、それにおける「反省」が対象化されたもの(作用)になってしまう。その意味で、西田は「真に直接なる反省的意識」は対象化の方向ではなく、「無限に深い奥」への還帰、即ち「内在的超越」を主張している。そのことはどう考えるか。(フィヒテの場合、見つつ描く自分と描かれたものとの間に間隙があるように思う。誰の自己でもなく誰の自己でもある自分と、他ならぬ自分とは常に一致しない。西田がいう「無限に深い奥」へということはどのようにそれらの一致を可能するのか)」(261字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

R

見つつ描く自分が〈誰でもあって誰でもないような自己〉というのはよいのですが、描かれたものが〈他ならぬ自己〉とあるのを、「偽我」と訂正したいと思います。
佐野
前回、自己に三つが区別されましたね。デカルトの〈考える我(cogito)〉、カントの統覚、フィヒテの意志などは誰でもあって誰でもないような自己です。図と地で言えば地です。これが一つ。次に自我自体は対象化できませんから、自我自体でないものを自己として押さえることで形成される経験的な自己、前回のことばでは〈意識的自己〉が二番目。これが〈偽我〉と呼ばれました。そうしてそうした偽我でない、〈他ならぬ自己〉つまり〈真の自己〉が三番目です。このうち「書かれたもの」はこの二番目のものだと。

R

はい。フィヒテの場合、一番目の自己と二番目の自己がどこまでも一致しない。これに対し、西田の場合は「無限に深い奥」において一致すると思います。

W

シェリングの場合、主客合一ですから、見るものと見られるものが一致するのでは?

R

シェリングの場合、主客合一したものが絶対者とされています。これだと奥にはなりません。

W

しかし「奥に還らねばならない」とすると、その「奥」が帰る場所・自分として対象化されていませんか?

R

「奥」においては対立がない、ということです。

T

眼は眼を見ない、と言いますよね。それと同様に自分自体を見ることはできない。でも鏡があれば見えるよ、ということで、何かに照らして自分が何であるかが見えるようになるが、西田はその立場を取らない。そこに見ようとする自分がいる、そうした意志としての自分が根底(「奥」)になっているように思います。
佐野
これまでの議論では〈誰でもあって誰でもないような自己〉と〈偽我〉の関係が論じられていますが、〈真の自己〉はどうなるのでしょうか?「描く自分」の意志があっても、描かれたものはどこまでも自分自身ではない、つまり〈真の自己〉ではない。判断や自覚の事実から出発して、そこを一人でどこまでも深堀しても、〈偽我〉から〈真の自己〉への転換は起こらない。そこには他者の契機がどうしても必要な気がしますが、他者自体に出会う、という経験が不可欠となる。しかしそんなことははたしてあるのか、どこまで行っても人間は役割を通じて関わる以外ないのでは?

K

「考える」ことによってどこまでも言語化していっても、〈真の自己〉にはいきつかない気がします。外に向って何かを表現するするということも必要なのでは?

T

内と外はメビウスの輪のようにつながっているので、外に向かうことがじつは内に向かうことになる、内を深堀するようで外に向っているのかも。
佐野
その「じつは」というところに気づくのに、やはり決して対象化されない(対象化以前の)絶対的他者が不可欠なのでは?そういう絶対的他者によって目覚めさせられる、ということがないと、偽我が偽我であることが照らされ、偽我が偽我のままで真の自己になるということも出て来ないと思うのです。今読んでいるテキストは「判断」や「自覚」という事実から出発していて、それは誰もが事実として成立していることを認めるものではありますが、動物は観察する限り、自覚(自己意識)を伴った判断というものをしていない。それが人間の場合、自我の目覚め、というような目覚めによってそうしたものに目覚める。この目覚めはどうしたって自分の力じゃない。西田は「真に直接なる反省的意識」の立場に立つ、と言っていますが、その立場自体がとても不思議なものだと思うのです。この点についてはさらに考えて行きたいと思います。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(313頁15行目~314頁9行目)
佐野
これから「知る」ということを問題にする、ということですね。まずは「心と物とが相対立する」ということ、つまり「主客の対立」を前提として、「知る」を「心の働き」(作用)と考える立場が紹介されます。こうした「素朴的」な考えを「認識論者」も前提している、と西田は考えます。彼らは「知る」ということを「構成作用」と考えており、このように対象へと向かう関係(「対象的関係」)を「極限にまで推し進めた」(これが「洗練して居る」ということだと思いますが)が、もともと主客の対立を前提しているのだから、こういう意味での「認識主観」の「性質が根柢的に変ずる訳ではない」、そのように批判します。次をBさん、お願いします。

B

読む(314頁9行目~315頁10行目)
佐野
以上の主客の対立を前提として、「知る」ということを心(主観)の「作用」と見る見方に対して、西田の立場が表明されます。「私は全く従来の考えを棄てて純真に判断意識其者の自省から出立して見たいと思う、判断意識から出立して、主客の対立が如何にして考えられ、知るということがいかなることを意味するかを明らかにしてみたいと思う」。力強い言葉ですね。ここからは西田が「知る」ということを「場所に於てある」と結論付けていくわけですが、そこに至るまでの西田の遍歴が大変よく整理されています。まず「包摂判断」から出立する。そうして包摂判断の特殊の方向を押し進めて、すべて「客観的なるもの」を「主語となって述語とならない第一本体」に求める。それと「共に」これに反して包摂判断の一般の方向を押し進めて、「主観的なるもの」を「述語となって主語とならないもの」に求め、これを「意識」ないし「場所」と考えた、とされます。先の「第一本体(実体)」はアリストテレスが基になっているのに対し、この「場所」はプラトンの「イデヤの場所(イデアを受け取る場所:コーラ)」が基になっているとされます。かくして「判断」とは「場所に於てある」ということになり、これが「述語となって主語とならない超越的場所の立場からして」「知る」ということの「根本義」だとされます。

B

「超越的場所の立場」とはどういうことでしょうか?
佐野
普通の判断、例えば「犬は動物である」といった判断では主語が「犬」で述語が「動物」です。その際主語が特殊、述語が一般ですが、この関係は相対的なもので、どちらも一般概念です。この「主語」(特殊)の方向を極限にまで推し進めると、「この犬」というような個物になりますが、これが「主語となって述語とならないもの」です。実際「この犬」は述語の側には来ませんね(「それはこの犬です」というのは考えられますが、これは包摂判断ではありません)。それに対応してこうした個物を包む「述語」(一般)が「意識」です。これは以前「真の無の場所」と言われたものです。ここには「どこまでも語り尽くすことの出来ないもの」(個物)がどこまでも語り尽くせないままに、無限に深い場所(真の無の場所)から立ち現れている、というような状況が想定されていますが、ここ、つまり特殊が個物となる所、同時に一般が「意識」となる所には「超越」が含まれています。それで西田は「超越的場所」と言ったのでしょう。この「意識」はさしあたりカントの「意識一般」を引き継ぐものと考えられると思います。図に対する地ですね。そうしてこの場合の図に当たるのが「個物」です。こういう経験はきわめて特殊だと考えられますが、どうでしょうか?

B

美しさに心を奪われて、われを忘れるというようなときに、言葉にならないものに出会う経験をしますが、そういう場合ではないでしょうか?
佐野
純粋経験ですね。言葉にならない経験は、絶句する、というような状況でも起こりえますね。

B

でもそういう経験も、すでに後からの説明になっていると思います。
佐野
なるほど。そうなると、「純粋経験」、あるいは「絶句」という言葉以前(これも言葉ですが)、は捉えられない、ということになりそうです。だとすると、無の場所と個物、これは矛盾した領域における話であり、西田は、個物は無の場所においてつかめる、と思っている節がありますが、それは同時にどこまでもつかめないということの裏返しでもある、ということになりそうですね。因みにテキストではところどころに「〔判断〕作用」批判が挟まれています。314頁11行目の「判断作用というもの…残されるのである」と、同15行目~315頁1行目の「肯定否定と…考えであるから」がそうです。このうち「肯定否定ということから出立すれば、客観的なるものを価値と考うべきであろうが」で念頭に置かれているのは新カント派でしょう。次へ参ります。Cさん、お願いします。

C

読む(315頁10行目~316頁1行目)
佐野
ここも「作用」批判から始まっていますね。

C

「作用という如き考えを如何に純化して行っても、一種の範疇を極限にまで進めたということになる」とありますが、「一種の範疇」とは何ですか?
佐野
はっきりしませんが、「作用」という範疇のことではないでしょうか。続いて西田の考えが述べられますね。「真の認識主観は私の所謂超越的場所という如きものでなければならぬ、すべてを包むものでなければならぬ、所謂主客の対立も之に於てあるものでなければならぬ」。個物も、〈真の自己〉も、ということになるのでしょうね。今日はここまでとします。
(第92回)
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内在的超越/超越的内在

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第2段落311頁2行目「認識論が真に知識の成立を明にしようと思ふなら」から、同段落の最後312頁6行目「カントのカントに還って尚一応考へて見たい」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚的主観は何処までも内在的でなければならぬ、内在的でない自覚的主観といふ如きことは自家撞着 である」(311頁5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「自」覚にも「ich bin ich」にも初めから「私(自)」がある。(自)覚的主観ではなぜいけないのか。自覚的主観が内在的だとあるが直覚(そのようなものがあるならば)の内にあるのはありのままの事実 で、思惟にとっては何か分からないものだけではないか。そもそも「私」は内在しないのではないか」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

S

まず、「内在」という言葉に疑念があります。外からでないから「内在」ですよね。ですが、そう言った時、すでに外に対する内を立てていると思います。これはすでに外も内も立てている形而上学ではないでしょうか?言い方を変えれば、内と外という分別がここにはあるような気がします。

R

西田は新しい形而上学を始めようとしていたと思います。それは外ではなく、内への超越ということですが、その超越は、外に対する内ではなく、絶対無の方向への超越だと思います。
佐野
外に対する内でない、とした時にすでに分別が働いていて、その全体が内だということはありませんか?

R

西田の言う「内」とか「内在」は閉じたものではありません。むしろそのように閉じたものが破られた時に開けるものです。深みといってもいい。そうは言っても、西田にはそうした深みのようなもの、そうしたものが内にあるという確信があったと思います。
佐野
根本経験のようなもの、ですか?

R

ええ。そうした経験に基づいて、自覚的な主観、つまり直覚ですが、それが前提とされていたと思います。

W

「悟る」、と言っても(純粋に)何かを「する」と言ってもいいですが(「根本経験」という言葉はあまり使いたくないので)、とにかくそうしたものの内にあるようなもののことを西田は「内在」と言いたいわけで、これは「内」を作るような「外」を立ててはいけない、ということが言いたいのではないでしょうか。つまり、自覚するという方向を深めて行くという。

S

しかしそういう立場を立ててしまうというのが問題ではないでしょうか。とはいえ、それが絶対無の方向と言われると、内と外というような次元を超えて行くような気もします。その点では、内と外の対立が問題にならないカントの純粋自我のままで止めておけばよかったと思います。
佐野
カントの純粋自我は「自己意識(Selbstbewußtsein)」と言われますが、これを新カント派は論理的になければならないものとして考えます。自我自体の直観ができない、というカントの説を踏まえてのことです。これに対してフィヒテは、自我の知的直観はなければならない、との立場から、この「自己意識」を自己の直観に基礎づけます。その場合は西田の言う「自覚」の意味に近くなります。しかしどちらの場合も、自我(ich)と呼ばれるものは、デカルトの「我」もそうですが、誰でもなく誰でもあるような我です。そこには例えば佐野之人、というような個人はいません。その意味では本日のプロトコルの言うように、そこには「私」は内在していません。ではそこで言われているような「私」はどのようにして生ずるのでしょうか?

R

西田の自覚には地と図における、地がその、誰でもなく誰でもあるような私に相当し、所謂「私」は図として、自覚のうちに含まれていると思います。

S

そうした自覚を自覚として語る個人がいるわけで、そうした個人が消えたわけでわけではないと思います。
佐野
そのように語る者は「個人」ですか?むしろ誰でもなく誰でもあるような自我では?ここで問題にしたいのは、そのような「誰でもなく誰でもある」ような「自我」ではなく、他ならぬこの佐野之人というような、「他ならぬ自己」がどのようにして生ずるか、ということです。

R

西田において「自己」には二つに区別されていると思います。一つは「意識的自己」。これはいわば揺れやすい自己で、偽我でありながら、自分を真の自己と思い込んでいる自己です。もう一つは「他ならぬ自己」。これは揺れない自己で、真の自己と言えるものです。
佐野
二つの自己の関係がよく分かりませんが。

K

「真の自己」はあると思いますが、どう説明するかが分かりません。動物は外にしか視線が向いていませんが、人間だけが、鏡を見るように自分を内に見る視線というものを持っています。そうなると、その中心の核となるものを証明しなくてはならなくなる。それが難しい。

S

大方の偽我は関係で把握しています。
佐野
例えば、教師であるとか、学生であるとか、という役割で自分を押さえているということですね。

S

そうです。ですが、そうした関係なしに自分を認識することができるのか、それが疑問です。

K

私は今、音楽を作っていますが、百作ったとしてそのうちの九十九は他からの影響の中で作ったもので、つまらないものです。ですが、まれに自分がないという所、作っているということも忘れた所、勝手にできる、内から降ってくるという感じ、これもあとからの説明でしかないのですが、そこに「真の自己」というようなものを感じます。

S

でもそうした状態から「我」に帰るでしょう?
佐野
そうですが、そうした「我」はKさんにとっては「真の自己」ではないのでしょう。

W

「作る」自分がある、後はアイデンティティで押さえる。「ただ」作る、という次元が人間にはあると思います。

S

その場合でも「真の自己」が肯定的に捉えられていますね。しかし「真の自己」というのは直視できないようなものかもしれない。
佐野
どうやら、自己に「誰でもなく誰でもあるような自己」と、「真の自己」と日常的な「偽我」の三つがあるようで、このうち、「真の自己」は知的直観を認める側からすれば、肯定的に捉えられるけれど、そうしたものを持ちえないとする立場、思惟の立場からはどこまでも分からないもので、かえって恐ろしいものだという考えがありそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(312頁7行目~13行目)。

A

「広義に於ける直覚」とありますが、具体的には何ですか?
佐野
狭義における直覚という場合は?

A

知覚的な直覚だと思います。
佐野
そうですね。カントはそう考えた。しかし西田はそれに加えて、「意志的直覚」というものを考えている。305頁11行目をご覧ください。「意志的意識の所与は知覚によって与えられるものではない」とありますね。注意しなければならないのは、西田が、この直覚とか所与と言っているものは、言葉以前だということです。言葉以前のものが直覚として与えられている、というのが西田の根本にあります。カントの知覚は所与と言っても、すでに時空によって形式づけられています。この点を西田はあまり重視していません。新カント派にとって所与はすでに、所与のカテゴリーによって整理されており、それがさらに時空と因果によって整理され、これが判断にとって与えられたものとなります。こうした実在を様々な立場から判断する、ということになります。すべては言葉になったところから論じ、言葉以前というものを問題にしません。ところでテキストでは「真の知識は形式と内容との統一にある」と言っていますね。この形式と内容とは、前の文では何に相当すると思いますか?

A

形式が「思惟」で、内容が「広義に於ける直覚」です。
佐野
そうですね。そうして両者を統一する「真の認識主観」は「リッケルトの云う如き単なる形式的主観ではなく」とありますね。リッケルトはカントの「純粋統覚(自己意識)」を、内容的には(言語的に)すべて与えられているところに成立する主観と考えた、ということが西田の念頭にあるのでしょう。しかし西田はそうは考えません。言葉にならない知覚的・意志的直観に形式(言葉)を与えるのは「自覚的主観」であるとします。ここには言葉にならないものを直覚できるという前提があります。ここは大変に難しいところです。「言葉にならないもの」というのは一方で、文字通り「言葉」の否定ですが、それが同時にすでに「言葉」だからです。言葉にならないものを論じることができるとする立場、論じることはできないとする立場、これらの立場をいずれの一方に定めることも独断の誹りを受けることになるでしょう。西田は言葉にならないものの直覚を、自覚のうちに積極的に認めます。「自覚的主観」における、図に対する地として、すでに与えられ、かつ統一されているではないか、というわけです。我々は確かに判断以前、言葉以前に物事をありのままに見ている、そのように信じていますが、本当にそうか、本当に難しいところです。ともかく、西田はそのように考えた。そうしてカントも「知覚と思惟との統一」を「自覚」に求めたと主張し、フィヒテは「更に此点を深めて事行の考に到達した」と積極的に評価します。ここまで、いかがでしょうか。

A

はい。大丈夫です。
佐野
ついで今、「独逸唯心論(ドイツ観念論)の批評に入り込む暇はない」とした上で、「何處までもカントの認識論的立場を維持して形而上学に陥るを避けるためには、認識主観の意義を失わないことを務めねばならぬ」とされます。自分こそがカントの認識論的立場を維持しているが、その後のドイツ観念論は形而上学に陥る傾向があった、と言いたいわけです。そうして「自覚の背後に存在的自己を考える」のはもちろんのこと、自覚(認識主観)を「純なる作用」と考えるのも、「認識主観の意義を失う恐れ」があると言い、これを成したのがフィヒテであり、その後のドイツ観念論だというわけです。

A

「純なる作用」が何故形而上学につながるのですか?
佐野
先を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(312頁14行目~313頁5行目)
佐野
「フィヒテの働くことが知ることである」の「働くこと」が先の「純なる作用」ですね。そのことを確認したうえで、それが一方で「無論内在的自覚の深い意義を云い顕したもの」として評価しつつ、他方で「客観界の構成主観としてのカントの認識主観の意義を徹底した結果、その主観的判断主観の意義を失う」傾向を生じたのではないか、と疑問を呈します。

B

よく分かりませんが。
佐野
「認識主観」を「客観界」の「構成主観」とすることで、「認識主観」自体が客観化・実体化され、「客観的思惟」、「客観的精神」となった、と読めますね。もちろん西田の批評ですが。フィヒテの「我」はそうした「客観的思惟」に「反省的思惟」(「主観的思惟」)の「契機」を含ませてはいるものの、やはり「客観的精神」として「形而上学的傾向を帯び来る嫌を生ずるを免れない」とされます。「嫌」とは「よくない傾向」のことです。

B

何とか、理解できました。
佐野
西田は続けて「意識の背後には何物をも考えられない、何物かの上に立つならば意識でない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何等かの意味において対象化せられたものは意識ではない、心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」と畳みかけます。フィヒテがそれをやった、という批判ですね。次をCさん、お願いします。

C

読む(313頁5行目~14行目)
佐野
「事即行」とありますね。これが出てきたら、例の英国にいて、英国の完全なる地図を描く、というのを想い起すとよいと思います。完全なる地図ですから描いている自分も描かなければならない。描き終えた時には描き終えた自分を書かなければならない、というわけでどこまでも描き続けることになる。その際、描くことが出来るのは、描くべきものが見えているから描ける、と考えられます。見えている、これが直観。これを反省することが地図を描くことで、両者が「自覚」のうちに成り立っています。事行で言えば、描かれた地図が「事」、見つつ描く行為が「行」です。今日は初めての方もいらっしゃいますので丁寧に説明して見ました。

K

ありがとうございます。
佐野
次に行きますね。「事即行にして無限の過程と考えられるフィヒテの事行は」、ここまではよろしいですね。「客観的思惟としての自覚の構成作用を言い表すに十分であろう」。「客観的思惟」がまた出て来ました。「対象化」・実体化された「自覚」です。そうして「而してそれ」、「フィヒテの事行」ですね。「それが自覚的なるが故に反省作用という如きものを含むことができる」、ここもよろしいですね。「自覚」は直観と「反省作用」を含みます。「併し」と来て、それは「真に直接なる反省的意識其者を含むということはできぬ」と言われます。「真に直接なる反省的意識其者」が西田の立場です。対象化されていない反省です。フィヒテの場合はこの反省が作用として、それ自体が対象化されている、と言いたいのです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次に行きます。「純論理的ではなるが」とありますが、これはフィヒテだけでなく、新カント派も念頭に置いているのでしょう。「動的なる過程」、先に出てきた「無限の過程」ですね。こういうものが「考えられる時、すでに対象化せられたと云うことができる」、ということになるわけです。

W

「考えられた」というところが大事ですね。西田は「考える」というところにどこまでも止まろう、と。
佐野
そうですね。そうした立場だと思いますが、哲学としてそれをどう語るか、が問題になりますね。外から対象化してそれに「ついて」語る、というのではだめでしょう。みずからが体験した、あるいは体験している事柄を、言葉にせよ、という内面からの促しに応答しつつ、言葉にしてはそれを吟味して行く、こんな営みにならざるを得ない気がします。次に参ります。「此故にかかる立場」、フィヒテや場合によっては新カント派の立場ですね。こういう「立場から厳密に論ずるならば、真の意志の自由という如きものは出て来ない」とありますが、何故そうなるかは書いてありませんね。

C

「意志の自由」とは「内面的性質」に従うことだからではないでしょか。
佐野
なるほど。そんな感じがしますね。そうして次に「我々に真に直接なる反省的意識は、かかる意味に於ける作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」とあります。ここでまた「作用」が出て来ます。フィヒテや新カント派の「思惟」が対象化された「作用」だということが、ここでの文脈ですが、ここではさらにそれを超えて、「作用」として意識されるもの一般、反省作用も意志作用も、それが作用として意識され、対象化されたものである限り、「無限に深い奥に還らねばならない」、そのように言っていると思います。以前、意志に「作用としての意志」と「状態としての意志」が区別されましたが、そのことにも関わるでしょう。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「無論フィヒテは既に事行の立場を越えて、シェルリングに近い知的直観の立場に進んだと云うことができるであろう」と、ちょっと持ち上げておいて、「併しシェルリングの知的直観であっても主客合一と考えられるかぎり、尚対象的意義を脱し得たということはできない」と批判されます。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが、「ドイツ観念論(独逸唯心論)」の代表的な思想家ですが、まずフィヒテが「自我」の哲学を構想し、次いでシェリングがそれに対置される「自然哲学」、さらには自我と自然の同一(「主客合一」)としての「絶対者」の哲学を構想する。そうしてこの「同一」としての絶対者をさらに、「同一と非同一との同一」として、つまり動的(弁証法的)なものとして考えようとしたのがヘーゲルです。このうちフィヒテとシェリングは「知的直観」を認めましたが、ヘーゲルはそのように絶対者を一挙に捉える知的直観は認めません。あくまで知(Wissen)は弁証法的な運動を通して形成される学的体系(Wissenschaft)でなければならないと考えます。ところが西田はこれらの思想家の考えようとしたものが、すべて「対象的意義」を脱していない、つまり実体化されてしまっている、と批判するのです。

W

ここでも「考えられるかぎり」と出て来ますね。
佐野
そうです。ドイツ観念論の思想家たちが考えようとしたものはすでに「考えられたもの」にすぎない、ということです。これはもちろん西田の解釈であり、彼らの思想自体がどうであったかは別の問題です。今日のプロトコルでも話題になりましたが、西田は形而上学の外的超越に対して自らの新しい形而上学の立場である内在的超越、つまり対象化できないものへ、彼方ではなく此方への超越を主張します。最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』においても、「内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の立場に於て、宗教と云うものがある」(Ⅺ,459,8-10)と言いながら、結局は「内在的超越」と「超越的内在」とを並べておいて、「私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考える」(Ⅺ,463,1-2)と言ってしまいます。ここではキリスト教(超越的内在)と仏教(内在的超越)の対比が念頭に置かれていますが、ちょっと考えただけでも、アンバランスは明らかで、超越的内在即内在的超越が真の宗教となるはずがそうなっていない。このまましゃべってもいいですか?

C

お願いします。
佐野
そもそも『善の研究』において、「宗教的覚悟」としての「純粋経験」が成立したのも、神の自己否定(「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ」(岩波文庫改版254,2-3))、つまり「超越的内在」の契機が不可欠であったにもかかわらず、そうした「純粋経験」の立場が「根本的な立場」となることによって、「超越的内在」の契機をすっかり忘れてしまい、直接にそうした立場、直観の立場に立とうとする、あるいは立ち得た、と考えるようになっているように思います。これは新カント派との出会いによって、それに対して自らの立場を主張せざるを得なくなった、という外的な事情も大きく関わっているでしょう。その後の「自覚」の立場にしても「場所」の立場にしても、どれも対象化(言語化)されない次元の事柄を考えようとしていますが、そこに絶対的他者としての絶対者は出て来ません。つまり「内在的超越」はあっても、「超越的内在」の契機が出て来ません。こうした事態は「場所」が「弁証法的世界」となって具体化されても変わりません。ようやく最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』になって「逆対応」ということが言われて、絶対者の自己否定(神のケノシス)が出て来ます。『善の研究』で垣間見られたものが長いブランクを経て、ようやく日の目を見た、というような感じがします。それにもかかわらず、「超越的内在」と「内在的超越」を並べて、「内在的超越」を選んでしまう。ここには『善の研究』以後に起こったこと、つまり神の自己否定を契機にして成立した「純粋経験」が、その契機を忘れて、すべてを「純粋経験」に回収し、そうして直接に「そこ」に立とうとしたこと、このことが、最晩年の西田においても「逆対応」を忘れて、すべてを「平常底」に回収してそこに直接立とうとする、ということが繰り返し起ころうとしているような気がするのですが。どうでしょうか?
(第91回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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