共に哲学する

知的自覚、意志的自覚、自分自身を見るもの

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落313頁15行目「是に於て私は」から314頁1行目「ものでなければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「右の如き考から、判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てあると云うこととなる、而して述語となって主語とならない超越的場所の立場からして、それは知るといふこととなる、之が知るといふことの根本義である」(315頁8行目〜10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、判断とは「特殊なるものが一般なる場所に於てある」とし、「超越的場所の立場」からみれば、それは「知る」ということだという。さらに西田によれば、「真の認識主観」は、「超越的場所」あるいは「すべてを包むもの」というようなものでなければならない。しかし、超越的場所の立場から「知る」ということを考えるとき、知っている気になっているだけではないか、という問いにはどのように応答しうるのか。「知る」ということにおいて、超越的場所と個物はどのように接しているのか」(228字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回は特に身体を通して出てきた言葉が中心となっており、その一つ一つが味わい深いものでしたので、いつもに増して十分にお伝えすることができていないことをお断りしておきたいと思います。:ヂ

―何か補足はありますか?

W:問いは二つあって、一つ目は個物という捉えられないものを、捉えられないままに捉えるとはどういうことか、ということ、二つ目は超越的場所と個物がどのように接しているのかということで、以前出てきた「単に映す鏡」ということを念頭に置きながら質問しました。

―二番目の問いは「超越的場所と個物の接し方」という意味では「単に映す鏡」という仕方ですでに答えが出ていますが、この「単に」というところが問題ですね。それがどういう意味なのか、そんなことが可能なのか。最初の問いも「知る」とは「捉えられないものを捉えられないままに捉えること」ということで、同じことを問おうとしていると思いますが、これもそんなことが可能か、ということも含めての問いだと思います。皆さん、どうですか?

S:どこまでも「知っている気になっているだけ」だと思います。

A:私は6歳からバレエをやっていて、ピルレットは「体得」したって感じで、やり方を知っているけれど、知っている気になっているだけで教えられないのです。

―そういうものは一面において人間にはたくさんありますね。生きるとか、知るとか。すでにしているけれど、それが何であるか、それをどうやっているのか分からない(言葉で説明できない)。今のはダンスを専門にされている方のご発言でしたが、常磐津の名取をされているKさん、何かありますか?

K:「捉えられないものを、捉えられないままに捉える」ということで言えば、弟子入りというのがそうした体験だと思います。弟子は師匠という絶対的なものに直面して、無限の広がりの中に突き落とされる。そこはもはや言語化や理解が不可能な境地です。

S:それでも日々の精進の中で、どこかで「できた」という瞬間はありますか?

K:それはあります。レヴェルが上がったといった感じですね。しかしそれがまた慢心につながる。その意味では日々、ダメです。積み重ねというものができない。理解をたえず壊されてしまう。

―その場合「知る」とはどういうことになりますか?

K:言語にするということではなさそうです。

―そうした「言語化できないもの」が「在る」と言ってよいですか?あるいはこれが「知る」ということの根本義だと言ってよいですか?

K:例えばそれを「純粋経験」と呼んでもいいですが、それですべてが言い表わされているとは言えないと思います。ただ言語化できたら、その段階はクリアできたとは言えると思います。

R:その言語化ですが、それは自分の語りが止まった時に、根本から語るということがある、と思います。こちらからは「捉えられない」ということだけが語りうる、それが「場所において知る」ということだと思います。

K:例えば師匠が「力を抜きなさい」と言っても、格が違うから、弟子はその言葉の意味を真に捉えることができない。ただその言葉にならないところを「見て学ぶ」ということがあり、とても大事なことだとされています。

S:根本的な知と、通常の分かっている気になっているだけの知との、中間があるというのが不思議です。ここまではできた、というような。そこには方向のようなものがある気がします。

W:その場合でも、その「梯子」を外す、ということ、認識を崩すということが必要だと思います。ただ「方向」ということでそれを「真の認識」に結び付けると、そうした観念が邪魔になると思います。例えばそのつど体得した(ダンスの)「回り方」は西田の言う「一般概念」だと思います。そうした一般概念の「梯子」は外さなければなりません。

A:ただ踊る、にはこうやると、というのがない。このことは子どもの頃については特に言えると思います。ただ大学生に教えるときには言葉で教える方がうまくいくことが多いです。ただその場合、回ってはいるけれど綺麗でない。その側面から考えると、「知る」とは修行の側面を言い表していると思います。

―私が昔習った剣道の先生はよく「意識したものしか無意識にできるようにならない」とおっしゃっていましたが、いまの「知」はそうした側面だと思います。習慣化(修練)の方向です。

J:無になるレヴェルは人によっても、同一人物の段階によっても違うと思います。私は泳げなかったのですが、ある時浮かぶことができて、そうすると、溺れるかもしれないという怖さがなくなって(無)、泳ぐということのコツをつかんだ気がします。

―こうした「知」は西田が『善の研究』で「知的直観」と呼んだものですが、その究極的なところ、今回のプロトコルでは「個物」といったどこまでも「捉えられないもの」、これは最終的な知的直観によって、捉えることができるのでしょうか?

R:こちら側からは捉えられない、というところで、個物がただ立ち上がってくるということがあると思います。

―そうした言説がすでに、こちら側から捉える、という捉え方に対する捉え方として、すでにこちら側から一般概念化してしまっているように思われます。もちろん、それをも破るということがおっしゃりたいのでしょうけれども。プロトコルはこの位にして、今日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A:読む(316頁2行目~8行目)

―まず「右の如く包摂判断の述語面が述語となって主語とならないと考えられた時、それが私の所謂場所として意識面であり、之に於てあることが知るということである云うのが、私が「場所」の論文に於て到達した最後の考である」と簡潔に述べられています。初めての方がいらっしゃいますので、少し説明しておきます。包摂判断とは、例えば「犬は動物である」というものです。この場合「犬」が「主語」、「動物」が「述語」です。「主語」は「特殊」で、「述語」は「一般」です。そうして述語(一般)が主語(特殊)を包むので、包摂判断です。ここまではいいですか?

A:大丈夫です。

―ところが主語の方向はさらに、「秋田犬」というように限定できます。とはいえそれはあくまで「一般概念」です。しかしそれをどこまでも限定していくと、最後にどこまでも限定できない、という仕方で「個物」が立ち現れます。ここには「一般概念」としての「特殊」を越えるといった、超越があります。そうしてこの「個物」が「主語となって述語とならないもの」と言われます。例えば佐野之人はつねに主語になります。しかし決して述語の側には来ません。「これは佐野之人です」というのは包摂判断ではありません。ここまでで質問はありますか?

A:特にありません。

―逆に、述語の「動物」というのをさらに一般化して行きます。そうすると例えば「生物」になります。しかしこれもすでに限定された特殊な「一般」です。こうした限定を一切なくしてしまえば、もはや何とも言えないものになってしまいますが、これが「(無の)場所」であり、「意識(面)」だと西田は言います。ここにも超越があります。そうしてこの「無の場所」に「個物」が於てあることになります。ここまで大丈夫ですか?

A:はい。

―これまで、西田は「場所」に「有の場所」、「対立的無の場所」、「真の無の場所」の三つを区別しています。「有の場所」とは先程の、超越以前の包摂判断における述語です。「犬は動物である」の「動物」がそれにあたります。これに対して「対立的無の場所」とは、「個物」に対立する、と考えられた限りでの「無の場所」です。これに対して、こうした「個物」を包み、そうした「個物」がおいてある「場所」が「真の無の場所」です。ここまでは?

A:大丈夫です。

―通常、特殊と一般は対立概念と考えられますが、このように特殊と対立する一般は真の一般ではない、真の一般は特殊を含む一般でなければならない、と考え、特殊に対立する抽象的な一般に対して、特殊を含む一般を西田は「具体的一般者」と呼びました。先の例で言えば「犬」をみずからのうちに包む「動物」が「具体的一般者」です。この関係がさらに超越的述語である「真の無の場所」にも言えて、こうした超越的述語は超越的主語である「個物」を包むと考えられます。そうしてこちらの方が根源的だと西田は考え、「場所に於てある」とか「知る」ということの根本義をここに認めます。これまでのところで何か質問はありますか?

A:何とか分かりました。

―次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(316頁4行~8行目)

―「種々なる知るということの意義及びそれぞれの対象界は、此の場所の意義によって定まって来るのである」と一般的に述べられます。そうしてまず二側面に分けて述べられます。「場所が何等かの意味に於て判断の述語として限定せられ得るかぎり、即ち一般的なるものが限定せられるかぎり」とは、先程の分類でいえば「有の場所」のことです。通常の包摂判断が成り立つ場合です。その場合には「我々の意識面に於て判断的知識即ち所謂知識が成り立つことができる」ということになります。そうして「之を越えれば直観の世界に入る、私の真の無の場所というのはかかるものを意味するに外ならない」と述べられます。ここでは「知る」ということの意義が、「有の場所」と「真の無の場所」という二つの場所の意義に従って、「所謂知識」と「直観」とに分けて説明されています。ここまでで何か質問はありますか?

B:大丈夫です。

―それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C:読む(316頁8行目~317頁2行目)

―強烈に難しいですね。西田の良くないところは読者のことを考えないことだと思います。『善の研究』ではそうではありませんでしたが。とにかく頑張って解釈して見ましょう。西田はここで先程二つにまずは分けて考えたものを三つに分けようとしています。通常の判断、例えば「犬は動物である」という判断の場合でも、そこには「私は『犬は動物である』と考える」というように、「私は考える」という自覚が伴います。もちろんそうした「知的自覚」は判断をしている時には意識されません。「犬は動物である」という判断内容は「図」に当たり、「私は考える」は「地」に当たります。しかしこの「私は考える」という「知的自覚」が対象化され、「判断の主語として考えられる場合」、つまり地が図になって、「或限定せられた述語的一般者」つまり「有の場所」に於てあると考えられることによって、「知的自覚」は(知的ないし判断)「作用」になるというのです。もちろん「『働くもの』において論じ」られた「作用という考」は力の作用をも含んでおり、判断作用に限りませんが、ここで念頭に置かれているのは知的作用ないし判断作用です。ここまで大丈夫ですか?

C:はい。

―「更に」と来て、「それが」とあります。この「それ」とは「主語」となった「或限定せられた述語的一般者」、つまり「(知的ないし判断)作用」のことですね。これが「述語となって主語とならない」、つまり決して対象化できないと「考えられた時、即ち単に限定せられた場所と考えられた時、それが意識面となる」とあります。この「単に限定せられた場所」は先程の「或限定せられた場所」との対ですね。後者は「有の場所」で、前者が「対立的無の場所」です。「単に」とあるのは、「何か」によって限定されてはいないけれども、「個物」と対立している、という意味で限定されている、という意味だと考えられます。先程「作用」として対象的に考えられたものが決して対象化できないものとして考えられた場合に「意識面」となる、ということです。(まあ、すでに「考えられた」ものになってしまっているということはありますが、西田はそのことはあまり問題にしないようです)。つまり、「意識面」とは「対立的無の場所」のことです。ここまではいかがですか?

C:大丈夫です。

―次いで「故に意識面は、常に作用を包んだものである、具体的一般者を包む反省的一般者が意識面である」とあります。「作用」が「具体的一般者」に換言されていると考えられますね。意識(知的・判断)作用が内容としての主語的なものを形式によって統一するものとして、主語的なものを含むために、「具体的一般者」と呼ばれていると考えらます。ところでこうした「作用」としての「具体的一般者」を「意識面」が完全に包んでしまえば、「意識面」はすでに「対立的無の場所」ではなく、「具体的一般者」だということになりますが、ここでは単に「対立的無の場所」に過ぎない「意識面」が、どこまでも作用を包んで行くべきもの、本来の「真の無の場所」に進み行くべきものであることが言われていると考えられます。明らかに言葉足らずなのですが、ここで西田は「知的自覚」から「意志的自覚」への移行を考えているようです。知的自覚を対象化して、知的作用とし、そうした作用をも包む知的自覚を、意志的自覚と考えているようです(例の英国にいて、その地図を描いている自分をも描くような完全なる地図を描く、ということを思い出してください)。つまりカントの「意識一般」(知的自覚)からフィヒテの「事行」(意志的自覚)までの奥行きを有するものをここで「意識面」と呼んでいるようです。そうして次に「意志『作用』」が問題となります。ここまでいかがですか?

C:何とかついていけています。

―今度はそうした「知的自覚」の根柢にある「意志的自覚」が対象化されて、「意志作用」となります。それは「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所に於て、かかる場所をも越えた真の無の場所に於てあるものを見たものである」とあります。難しいですね。まず「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所」とは「対立的無の場所」のことだと考えられます。それも「最後の」とあることに注意しなければなりません。これを越えたら知識ではなくなる、そうした「対立的無の場所」だということです。意志的自覚の立場は無限に自らを対象化して意識作用とし、その根底にさらに意志的自覚を見るものです。この過程は無限進行となります。それを(どのようにしてかは書かれてありませんが)超越したところに「真の無の場所」があり、そこに「主客合一者、即ち自己自身を見るもの」があると言うのです。これはまさに「直覚(直観)」ですね。見られた「意志作用」でなく、意志そのもの、以前の言葉で言えば「状態としての意志」です。そうしたものが「カントの意識一般の対象界という如きものに映されたものが意志である」とありますが、「カントの意識一般の対象界という如きもの」とは「対立的無の場所」のことです。そうしてそこに映されたものとしての「意志」とあるのも、「意志作用」のことです。ここまでで質問はありますか?

C:何とかついていけています。

―そうして「故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある」と来ます。西田はこれが言いたかったのです。「底」とか「奥」とか言われていますが、そのつどそこには超越(転換)があります。まず対象を客観的にどこまでも見、判断・限定しようとする知的な立場あります。しかしこうしたやり方ではどこまで行っても対象を限定することはできない。ここで超越が起って、こうした無限進行のうちに、この対象を価値的な対象(真・善・美)と考え、これを実現するという意志的な立場が出て来ます。ですがこうした実現も無限進行になります。こうしてここでも超越(転換)が起り、「真の無の場所」に於て「個物」(真の自己=状態としての意志をも含めて)を見る「直観」が成立することになります。ここまではどうですか?

C:続けてください。後で考えてみます。

―はい。テキストでは最後に「論理的に云えば、全然意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そうした立場を「越えたもの」、「即ち自己自身を見るもの」(「直観」のことです)、それが、「意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そこに於て「述語を有つ時」、「意志というものが考えられるのである」とされます。この「意志」も「意志作用」のことです。今日はここまでとしましょう。お疲れさまでした。

ヂ:(第93回):ヂ

知るということ―「作用」への批判

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第3段落312頁7行目「真の認識主観は思惟と広義における直覚との統一」から313頁14行目「尚対象的意義を出し得たということはできない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意識の背後には何物をも考へられない、何物かの上に立つならば意識ではない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何らかの意味に於いて対象化せられたものは意識ではない、…我々に真に直接なる反省的意識は、かゝる意味における作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」(313頁3行目〜11行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「フィヒテの場合、認識主観(自覚)は形而上学的に実体化・対象化されたものであるから、それにおける「反省」が対象化されたもの(作用)になってしまう。その意味で、西田は「真に直接なる反省的意識」は対象化の方向ではなく、「無限に深い奥」への還帰、即ち「内在的超越」を主張している。そのことはどう考えるか。(フィヒテの場合、見つつ描く自分と描かれたものとの間に間隙があるように思う。誰の自己でもなく誰の自己でもある自分と、他ならぬ自分とは常に一致しない。西田がいう「無限に深い奥」へということはどのようにそれらの一致を可能するのか)」(261字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―何か補足はありますか?
R:見つつ描く自分が〈誰でもあって誰でもないような自己〉というのはよいのですが、描かれたものが〈他ならぬ自己〉とあるのを、「偽我」と訂正したいと思います。
―前回、自己に三つが区別されましたね。デカルトの〈考える我(cogito)〉、カントの統覚、フィヒテの意志などは誰でもあって誰でもないような自己です。図と地で言えば地です。これが一つ。次に自我自体は対象化できませんから、自我自体でないものを自己として押さえることで形成される経験的な自己、前回のことばでは〈意識的自己〉が二番目。これが〈偽我〉と呼ばれました。そうしてそうした偽我でない、〈他ならぬ自己〉つまり〈真の自己〉が三番目です。このうち「書かれたもの」はこの二番目のものだと。
R:はい。フィヒテの場合、一番目の自己と二番目の自己がどこまでも一致しない。これに対し、西田の場合は「無限に深い奥」において一致すると思います。
W:シェリングの場合、主客合一ですから、見るものと見られるものが一致するのでは?
R:シェリングの場合、主客合一したものが絶対者とされています。これだと奥にはなりません。
W:しかし「奥に還らねばならない」とすると、その「奥」が帰る場所・自分として対象化されていませんか?
R:「奥」においては対立がない、ということです。
T:眼は眼を見ない、と言いますよね。それと同様に自分自体を見ることはできない。でも鏡があれば見えるよ、ということで、何かに照らして自分が何であるかが見えるようになるが、西田はその立場を取らない。そこに見ようとする自分がいる、そうした意志としての自分が根底(「奥」)になっているように思います。
―これまでの議論では〈誰でもあって誰でもないような自己〉と〈偽我〉の関係が論じられていますが、〈真の自己〉はどうなるのでしょうか?「描く自分」の意志があっても、描かれたものはどこまでも自分自身ではない、つまり〈真の自己〉ではない。判断や自覚の事実から出発して、そこを一人でどこまでも深堀しても、〈偽我〉から〈真の自己〉への転換は起こらない。そこには他者の契機がどうしても必要な気がしますが、他者自体に出会う、という経験が不可欠となる。しかしそんなことははたしてあるのか、どこまで行っても人間は役割を通じて関わる以外ないのでは?
K:「考える」ことによってどこまでも言語化していっても、〈真の自己〉にはいきつかない気がします。外に向って何かを表現するするということも必要なのでは?
T:内と外はメビウスの輪のようにつながっているので、外に向かうことがじつは内に向かうことになる、内を深堀するようで外に向っているのかも。
―その「じつは」というところに気づくのに、やはり決して対象化されない(対象化以前の)絶対的他者が不可欠なのでは?そういう絶対的他者によって目覚めさせられる、ということがないと、偽我が偽我であることが照らされ、偽我が偽我のままで真の自己になるということも出て来ないと思うのです。今読んでいるテキストは「判断」や「自覚」という事実から出発していて、それは誰もが事実として成立していることを認めるものではありますが、動物は観察する限り、自覚(自己意識)を伴った判断というものをしていない。それが人間の場合、自我の目覚め、というような目覚めによってそうしたものに目覚める。この目覚めはどうしたって自分の力じゃない。西田は「真に直接なる反省的意識」の立場に立つ、と言っていますが、その立場自体がとても不思議なものだと思うのです。この点についてはさらに考えて行きたいと思います。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A:読む(313頁15行目~314頁9行目)
―これから「知る」ということを問題にする、ということですね。まずは「心と物とが相対立する」ということ、つまり「主客の対立」を前提として、「知る」を「心の働き」(作用)と考える立場が紹介されます。こうした「素朴的」な考えを「認識論者」も前提している、と西田は考えます。彼らは「知る」ということを「構成作用」と考えており、このように対象へと向かう関係(「対象的関係」)を「極限にまで推し進めた」(これが「洗練して居る」ということだと思いますが)が、もともと主客の対立を前提しているのだから、こういう意味での「認識主観」の「性質が根柢的に変ずる訳ではない」、そのように批判します。次をBさん、お願いします。
B:読む(314頁9行目~315頁10行目)
―以上の主客の対立を前提として、「知る」ということを心(主観)の「作用」と見る見方に対して、西田の立場が表明されます。「私は全く従来の考えを棄てて純真に判断意識其者の自省から出立して見たいと思う、判断意識から出立して、主客の対立が如何にして考えられ、知るということがいかなることを意味するかを明らかにしてみたいと思う」。力強い言葉ですね。ここからは西田が「知る」ということを「場所に於てある」と結論付けていくわけですが、そこに至るまでの西田の遍歴が大変よく整理されています。まず「包摂判断」から出立する。そうして包摂判断の特殊の方向を押し進めて、すべて「客観的なるもの」を「主語となって述語とならない第一本体」に求める。それと「共に」これに反して包摂判断の一般の方向を押し進めて、「主観的なるもの」を「述語となって主語とならないもの」に求め、これを「意識」ないし「場所」と考えた、とされます。先の「第一本体(実体)」はアリストテレスが基になっているのに対し、この「場所」はプラトンの「イデヤの場所(イデアを受け取る場所:コーラ)」が基になっているとされます。かくして「判断」とは「場所に於てある」ということになり、これが「述語となって主語とならない超越的場所の立場からして」「知る」ということの「根本義」だとされます。
B:「超越的場所の立場」とはどういうことでしょうか?
―普通の判断、例えば「犬は動物である」といった判断では主語が「犬」で述語が「動物」です。その際主語が特殊、述語が一般ですが、この関係は相対的なもので、どちらも一般概念です。この「主語」(特殊)の方向を極限にまで推し進めると、「この犬」というような個物になりますが、これが「主語となって述語とならないもの」です。実際「この犬」は述語の側には来ませんね(「それはこの犬です」というのは考えられますが、これは包摂判断ではありません)。それに対応してこうした個物を包む「述語」(一般)が「意識」です。これは以前「真の無の場所」と言われたものです。ここには「どこまでも語り尽くすことの出来ないもの」(個物)がどこまでも語り尽くせないままに、無限に深い場所(真の無の場所)から立ち現れている、というような状況が想定されていますが、ここ、つまり特殊が個物となる所、同時に一般が「意識」となる所には「超越」が含まれています。それで西田は「超越的場所」と言ったのでしょう。この「意識」はさしあたりカントの「意識一般」を引き継ぐものと考えられると思います。図に対する地ですね。そうしてこの場合の図に当たるのが「個物」です。こういう経験はきわめて特殊だと考えられますが、どうでしょうか?
B:美しさに心を奪われて、われを忘れるというようなときに、言葉にならないものに出会う経験をしますが、そういう場合ではないでしょうか?
―純粋経験ですね。言葉にならない経験は、絶句する、というような状況でも起こりえますね。
B:でもそういう経験も、すでに後からの説明になっていると思います。
―なるほど。そうなると、「純粋経験」、あるいは「絶句」という言葉以前(これも言葉ですが)、は捉えられない、ということになりそうです。だとすると、無の場所と個物、これは矛盾した領域における話であり、西田は、個物は無の場所においてつかめる、と思っている節がありますが、それは同時にどこまでもつかめないということの裏返しでもある、ということになりそうですね。因みにテキストではところどころに「〔判断〕作用」批判が挟まれています。314頁11行目の「判断作用というもの…残されるのである」と、同15行目~315頁1行目の「肯定否定と…考えであるから」がそうです。このうち「肯定否定ということから出立すれば、客観的なるものを価値と考うべきであろうが」で念頭に置かれているのは新カント派でしょう。次へ参ります。Cさん、お願いします。
C:読む(315頁10行目~316頁1行目)
―ここも「作用」批判から始まっていますね。
C:「作用という如き考えを如何に純化して行っても、一種の範疇を極限にまで進めたということになる」とありますが、「一種の範疇」とは何ですか?
―はっきりしませんが、「作用」という範疇のことではないでしょうか。続いて西田の考えが述べられますね。「真の認識主観は私の所謂超越的場所という如きものでなければならぬ、すべてを包むものでなければならぬ、所謂主客の対立も之に於てあるものでなければならぬ」。個物も、〈真の自己〉も、ということになるのでしょうね。今日はここまでとします。
ヂ:(第92回):ヂ

内在的超越/超越的内在

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第2段落311頁2行目「認識論が真に知識の成立を明にしようと思ふなら」から、同段落の最後312頁6行目「カントのカントに還って尚一応考へて見たい」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚的主観は何処までも内在的でなければならぬ、内在的でない自覚的主観といふ如きことは自家撞着 である」(311頁5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「自」覚にも「ich bin ich」にも初めから「私(自)」がある。(自)覚的主観ではなぜいけないのか。自覚的主観が内在的だとあるが直覚(そのようなものがあるならば)の内にあるのはありのままの事実 で、思惟にとっては何か分からないものだけではないか。そもそも「私」は内在しないのではないか」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ

―何か補足はありますか?

S:まず、「内在」という言葉に疑念があります。外からでないから「内在」ですよね。ですが、そう言った時、すでに外に対する内を立てていると思います。これはすでに外も内も立てている形而上学ではないでしょうか?言い方を変えれば、内と外という分別がここにはあるような気がします。

R:西田は新しい形而上学を始めようとしていたと思います。それは外ではなく、内への超越ということですが、その超越は、外に対する内ではなく、絶対無の方向への超越だと思います。

―外に対する内でない、とした時にすでに分別が働いていて、その全体が内だということはありませんか?

R:西田の言う「内」とか「内在」は閉じたものではありません。むしろそのように閉じたものが破られた時に開けるものです。深みといってもいい。そうは言っても、西田にはそうした深みのようなもの、そうしたものが内にあるという確信があったと思います。

―根本経験のようなもの、ですか?

R:ええ。そうした経験に基づいて、自覚的な主観、つまり直覚ですが、それが前提とされていたと思います。

W:「悟る」、と言っても(純粋に)何かを「する」と言ってもいいですが(「根本経験」という言葉はあまり使いたくないので)、とにかくそうしたものの内にあるようなもののことを西田は「内在」と言いたいわけで、これは「内」を作るような「外」を立ててはいけない、ということが言いたいのではないでしょうか。つまり、自覚するという方向を深めて行くという。

S:しかしそういう立場を立ててしまうというのが問題ではないでしょうか。とはいえ、それが絶対無の方向と言われると、内と外というような次元を超えて行くような気もします。その点では、内と外の対立が問題にならないカントの純粋自我のままで止めておけばよかったと思います。

―カントの純粋自我は「自己意識(Selbstbewußtsein)」と言われますが、これを新カント派は論理的になければならないものとして考えます。自我自体の直観ができない、というカントの説を踏まえてのことです。これに対してフィヒテは、自我の知的直観はなければならない、との立場から、この「自己意識」を自己の直観に基礎づけます。その場合は西田の言う「自覚」の意味に近くなります。しかしどちらの場合も、自我(ich)と呼ばれるものは、デカルトの「我」もそうですが、誰でもなく誰でもあるような我です。そこには例えば佐野之人、というような個人はいません。その意味では本日のプロトコルの言うように、そこには「私」は内在していません。ではそこで言われているような「私」はどのようにして生ずるのでしょうか?

R:西田の自覚には地と図における、地がその、誰でもなく誰でもあるような私に相当し、所謂「私」は図として、自覚のうちに含まれていると思います。

S:そうした自覚を自覚として語る個人がいるわけで、そうした個人が消えたわけでわけではないと思います。

―そのように語る者は「個人」ですか?むしろ誰でもなく誰でもあるような自我では?ここで問題にしたいのは、そのような「誰でもなく誰でもある」ような「自我」ではなく、他ならぬこの佐野之人というような、「他ならぬ自己」がどのようにして生ずるか、ということです。

R:西田において「自己」には二つに区別されていると思います。一つは「意識的自己」。これはいわば揺れやすい自己で、偽我でありながら、自分を真の自己と思い込んでいる自己です。もう一つは「他ならぬ自己」。これは揺れない自己で、真の自己と言えるものです。

―二つの自己の関係がよく分かりませんが。

K:「真の自己」はあると思いますが、どう説明するかが分かりません。動物は外にしか視線が向いていませんが、人間だけが、鏡を見るように自分を内に見る視線というものを持っています。そうなると、その中心の核となるものを証明しなくてはならなくなる。それが難しい。

S:大方の偽我は関係で把握しています。

―例えば、教師であるとか、学生であるとか、という役割で自分を押さえているということですね。

S:そうです。ですが、そうした関係なしに自分を認識することができるのか、それが疑問です。

K:私は今、音楽を作っていますが、百作ったとしてそのうちの九十九は他からの影響の中で作ったもので、つまらないものです。ですが、まれに自分がないという所、作っているということも忘れた所、勝手にできる、内から降ってくるという感じ、これもあとからの説明でしかないのですが、そこに「真の自己」というようなものを感じます。

S:でもそうした状態から「我」に帰るでしょう?

―そうですが、そうした「我」はKさんにとっては「真の自己」ではないのでしょう。

W:「作る」自分がある、後はアイデンティティで押さえる。「ただ」作る、という次元が人間にはあると思います。

S:その場合でも「真の自己」が肯定的に捉えられていますね。しかし「真の自己」というのは直視できないようなものかもしれない。

―どうやら、自己に「誰でもなく誰でもあるような自己」と、「真の自己」と日常的な「偽我」の三つがあるようで、このうち、「真の自己」は知的直観を認める側からすれば、肯定的に捉えられるけれど、そうしたものを持ちえないとする立場、思惟の立場からはどこまでも分からないもので、かえって恐ろしいものだという考えがありそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。それではAさん、お願いします。

A:読む(312頁7行目~13行目)。

A:「広義に於ける直覚」とありますが、具体的には何ですか?

―狭義における直覚という場合は?

A:知覚的な直覚だと思います。

―そうですね。カントはそう考えた。しかし西田はそれに加えて、「意志的直覚」というものを考えている。305頁11行目をご覧ください。「意志的意識の所与は知覚によって与えられるものではない」とありますね。注意しなければならないのは、西田が、この直覚とか所与と言っているものは、言葉以前だということです。言葉以前のものが直覚として与えられている、というのが西田の根本にあります。カントの知覚は所与と言っても、すでに時空によって形式づけられています。この点を西田はあまり重視していません。新カント派にとって所与はすでに、所与のカテゴリーによって整理されており、それがさらに時空と因果によって整理され、これが判断にとって与えられたものとなります。こうした実在を様々な立場から判断する、ということになります。すべては言葉になったところから論じ、言葉以前というものを問題にしません。ところでテキストでは「真の知識は形式と内容との統一にある」と言っていますね。この形式と内容とは、前の文では何に相当すると思いますか?

A:形式が「思惟」で、内容が「広義に於ける直覚」です。

―そうですね。そうして両者を統一する「真の認識主観」は「リッケルトの云う如き単なる形式的主観ではなく」とありますね。リッケルトはカントの「純粋統覚(自己意識)」を、内容的には(言語的に)すべて与えられているところに成立する主観と考えた、ということが西田の念頭にあるのでしょう。しかし西田はそうは考えません。言葉にならない知覚的・意志的直観に形式(言葉)を与えるのは「自覚的主観」であるとします。ここには言葉にならないものを直覚できるという前提があります。ここは大変に難しいところです。「言葉にならないもの」というのは一方で、文字通り「言葉」の否定ですが、それが同時にすでに「言葉」だからです。言葉にならないものを論じることができるとする立場、論じることはできないとする立場、これらの立場をいずれの一方に定めることも独断の誹りを受けることになるでしょう。西田は言葉にならないものの直覚を、自覚のうちに積極的に認めます。「自覚的主観」における、図に対する地として、すでに与えられ、かつ統一されているではないか、というわけです。我々は確かに判断以前、言葉以前に物事をありのままに見ている、そのように信じていますが、本当にそうか、本当に難しいところです。ともかく、西田はそのように考えた。そうしてカントも「知覚と思惟との統一」を「自覚」に求めたと主張し、フィヒテは「更に此点を深めて事行の考に到達した」と積極的に評価します。ここまで、いかがでしょうか。

A:はい。大丈夫です。

―ついで今、「独逸唯心論(ドイツ観念論)の批評に入り込む暇はない」とした上で、「何處までもカントの認識論的立場を維持して形而上学に陥るを避けるためには、認識主観の意義を失わないことを務めねばならぬ」とされます。自分こそがカントの認識論的立場を維持しているが、その後のドイツ観念論は形而上学に陥る傾向があった、と言いたいわけです。そうして「自覚の背後に存在的自己を考える」のはもちろんのこと、自覚(認識主観)を「純なる作用」と考えるのも、「認識主観の意義を失う恐れ」があると言い、これを成したのがフィヒテであり、その後のドイツ観念論だというわけです。

A:「純なる作用」が何故形而上学につながるのですか?

―先を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B:読む(312頁14行目~313頁5行目)

―「フィヒテの働くことが知ることである」の「働くこと」が先の「純なる作用」ですね。そのことを確認したうえで、それが一方で「無論内在的自覚の深い意義を云い顕したもの」として評価しつつ、他方で「客観界の構成主観としてのカントの認識主観の意義を徹底した結果、その主観的判断主観の意義を失う」傾向を生じたのではないか、と疑問を呈します。

B:よく分かりませんが。

―「認識主観」を「客観界」の「構成主観」とすることで、「認識主観」自体が客観化・実体化され、「客観的思惟」、「客観的精神」となった、と読めますね。もちろん西田の批評ですが。フィヒテの「我」はそうした「客観的思惟」に「反省的思惟」(「主観的思惟」)の「契機」を含ませてはいるものの、やはり「客観的精神」として「形而上学的傾向を帯び来る嫌を生ずるを免れない」とされます。「嫌」とは「よくない傾向」のことです。

B:何とか、理解できました。

―西田は続けて「意識の背後には何物をも考えられない、何物かの上に立つならば意識でない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何等かの意味において対象化せられたものは意識ではない、心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」と畳みかけます。フィヒテがそれをやった、という批判ですね。次をCさん、お願いします。

C:読む(313頁5行目~14行目)

―「事即行」とありますね。これが出てきたら、例の英国にいて、英国の完全なる地図を描く、というのを想い起すとよいと思います。完全なる地図ですから描いている自分も描かなければならない。描き終えた時には描き終えた自分を書かなければならない、というわけでどこまでも描き続けることになる。その際、描くことが出来るのは、描くべきものが見えているから描ける、と考えられます。見えている、これが直観。これを反省することが地図を描くことで、両者が「自覚」のうちに成り立っています。事行で言えば、描かれた地図が「事」、見つつ描く行為が「行」です。今日は初めての方もいらっしゃいますので丁寧に説明して見ました。

K:ありがとうございます。

―次に行きますね。「事即行にして無限の過程と考えられるフィヒテの事行は」、ここまではよろしいですね。「客観的思惟としての自覚の構成作用を言い表すに十分であろう」。「客観的思惟」がまた出て来ました。「対象化」・実体化された「自覚」です。そうして「而してそれ」、「フィヒテの事行」ですね。「それが自覚的なるが故に反省作用という如きものを含むことができる」、ここもよろしいですね。「自覚」は直観と「反省作用」を含みます。「併し」と来て、それは「真に直接なる反省的意識其者を含むということはできぬ」と言われます。「真に直接なる反省的意識其者」が西田の立場です。対象化されていない反省です。フィヒテの場合はこの反省が作用として、それ自体が対象化されている、と言いたいのです。ここまではいかがですか?

C:大丈夫です。

―次に行きます。「純論理的ではなるが」とありますが、これはフィヒテだけでなく、新カント派も念頭に置いているのでしょう。「動的なる過程」、先に出てきた「無限の過程」ですね。こういうものが「考えられる時、すでに対象化せられたと云うことができる」、ということになるわけです。

W:「考えられた」というところが大事ですね。西田は「考える」というところにどこまでも止まろう、と。

―そうですね。そうした立場だと思いますが、哲学としてそれをどう語るか、が問題になりますね。外から対象化してそれに「ついて」語る、というのではだめでしょう。みずからが体験した、あるいは体験している事柄を、言葉にせよ、という内面からの促しに応答しつつ、言葉にしてはそれを吟味して行く、こんな営みにならざるを得ない気がします。次に参ります。「此故にかかる立場」、フィヒテや場合によっては新カント派の立場ですね。こういう「立場から厳密に論ずるならば、真の意志の自由という如きものは出て来ない」とありますが、何故そうなるかは書いてありませんね。

C:「意志の自由」とは「内面的性質」に従うことだからではないでしょか。

―なるほど。そんな感じがしますね。そうして次に「我々に真に直接なる反省的意識は、かかる意味に於ける作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」とあります。ここでまた「作用」が出て来ます。フィヒテや新カント派の「思惟」が対象化された「作用」だということが、ここでの文脈ですが、ここではさらにそれを超えて、「作用」として意識されるもの一般、反省作用も意志作用も、それが作用として意識され、対象化されたものである限り、「無限に深い奥に還らねばならない」、そのように言っていると思います。以前、意志に「作用としての意志」と「状態としての意志」が区別されましたが、そのことにも関わるでしょう。ここまではいかがですか?

C:大丈夫です。

―次いで「無論フィヒテは既に事行の立場を越えて、シェルリングに近い知的直観の立場に進んだと云うことができるであろう」と、ちょっと持ち上げておいて、「併しシェルリングの知的直観であっても主客合一と考えられるかぎり、尚対象的意義を脱し得たということはできない」と批判されます。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが、「ドイツ観念論(独逸唯心論)」の代表的な思想家ですが、まずフィヒテが「自我」の哲学を構想し、次いでシェリングがそれに対置される「自然哲学」、さらには自我と自然の同一(「主客合一」)としての「絶対者」の哲学を構想する。そうしてこの「同一」としての絶対者をさらに、「同一と非同一との同一」として、つまり動的(弁証法的)なものとして考えようとしたのがヘーゲルです。このうちフィヒテとシェリングは「知的直観」を認めましたが、ヘーゲルはそのように絶対者を一挙に捉える知的直観は認めません。あくまで知(Wissen)は弁証法的な運動を通して形成される学的体系(Wissenschaft)でなければならないと考えます。ところが西田はこれらの思想家の考えようとしたものが、すべて「対象的意義」を脱していない、つまり実体化されてしまっている、と批判するのです。

W:ここでも「考えられるかぎり」と出て来ますね。

―そうです。ドイツ観念論の思想家たちが考えようとしたものはすでに「考えられたもの」にすぎない、ということです。これはもちろん西田の解釈であり、彼らの思想自体がどうであったかは別の問題です。今日のプロトコルでも話題になりましたが、西田は形而上学の外的超越に対して自らの新しい形而上学の立場である内在的超越、つまり対象化できないものへ、彼方ではなく此方への超越を主張します。最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』においても、「内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の立場に於て、宗教と云うものがある」(Ⅺ,459,8-10)と言いながら、結局は「内在的超越」と「超越的内在」とを並べておいて、「私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考える」(Ⅺ,463,1-2)と言ってしまいます。ここではキリスト教(超越的内在)と仏教(内在的超越)の対比が念頭に置かれていますが、ちょっと考えただけでも、アンバランスは明らかで、超越的内在即内在的超越が真の宗教となるはずがそうなっていない。このまましゃべってもいいですか?

C:お願いします。

―そもそも『善の研究』において、「宗教的覚悟」としての「純粋経験」が成立したのも、神の自己否定(「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ」(岩波文庫改版254,2-3))、つまり「超越的内在」の契機が不可欠であったにもかかわらず、そうした「純粋経験」の立場が「根本的な立場」となることによって、「超越的内在」の契機をすっかり忘れてしまい、直接にそうした立場、直観の立場に立とうとする、あるいは立ち得た、と考えるようになっているように思います。これは新カント派との出会いによって、それに対して自らの立場を主張せざるを得なくなった、という外的な事情も大きく関わっているでしょう。その後の「自覚」の立場にしても「場所」の立場にしても、どれも対象化(言語化)されない次元の事柄を考えようとしていますが、そこに絶対的他者としての絶対者は出て来ません。つまり「内在的超越」はあっても、「超越的内在」の契機が出て来ません。こうした事態は「場所」が「弁証法的世界」となって具体化されても変わりません。ようやく最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』になって「逆対応」ということが言われて、絶対者の自己否定(神のケノシス)が出て来ます。『善の研究』で垣間見られたものが長いブランクを経て、ようやく日の目を見た、というような感じがします。それにもかかわらず、「超越的内在」と「内在的超越」を並べて、「内在的超越」を選んでしまう。ここには『善の研究』以後に起こったこと、つまり神の自己否定を契機にして成立した「純粋経験」が、その契機を忘れて、すべてを「純粋経験」に回収し、そうして直接に「そこ」に立とうとしたこと、このことが、最晩年の西田においても「逆対応」を忘れて、すべてを「平常底」に回収してそこに直接立とうとする、ということが繰り返し起ころうとしているような気がするのですが。どうでしょうか?
ヂ:(第91回):ヂ

カントの純粋自我、フィヒテの事行

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第1段落309頁14行目「以上の考は「自覺に於ける直觀と反省」以来」から第2段落311頁2行目「知的自覺によつて可能なるのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはJさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは①「自覺に於ては、考へるものと考へられるものとが無條件に一である」(310頁3行)と②「統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ich であるのである」(310頁10行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスとして挙げた➁は、①を言い換えたと解していますが、その理解でいいのか。20024年12月7日付の「読書会だより」の中で、西田はリッケルトの「私は思う(Ich denke)」を批判していると読みましたが、「私は私である(Ich bin ich)」との違いをどのように捉えたらいいのか (表現より、その意図することの相違なのかも知れませんが)」(151字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。:ヂ
―「Ich bin ich」が「考えるものと考えられたものとの無条件に一」としての「自覚」の言い換え、というのはその通りだと思います。これと西田が理解した限りにおけるリッケルトの「Ich denke」との違い、ということですか?
J:ええ。そうなんですが、それより以前にデカルトの「私は考える、それ故に私はある」というのと、フィヒテの「Ich bin ich」が同じような感じがするんですが、そこのところがはっきりしません。
―分かりました。まずデカルトですが、彼は「私は考える、それ故に私はある」としましたが、これは「私」は「考えている」のだから、その主体としての「私」はある、という意味ではありません。どのようなものを考えても、それを図とするならば、そうした図に対する地が「私は考える」という仕方で存在する、という意味です。この「私は考える」としての「私」の存在は、地として決して対象化できませんから、経験できるような実在ではありません。ですからもしこの「私」の存在を主張するとなれば、それは経験的な実在としてではなく、経験を越えたという意味で「超越論的」な「実在」ないし「実体」として主張することになります。ここまで、分からないところはありますか?
J:大丈夫です。
―カントはこうしたデカルトの議論を、誤謬推理として退けます。詳しくは申し上げられませんが、要するに、対象化できないものを対象化・実体化したということです。西田のリッケルト批判はこれに関係します。リッケルトはカントの「Ich denke」を「自己意識」としてではなく、論理的になければならない認識主観と考えますが、リッケルトはこの「抽象的思惟の主観」を経験的心理学ではない、「先験的(超越論的)心理学的反省」によって「実体」化した、そう西田は批判しているのです。このまま続けてもいいですか?
J:お願いします。
―カントの「超越論的統覚」(「Ich denke」)は「自己意識」ですが、同時にカントは自我自体の知的直観を認めません。ところが、フィヒテはこの自我自体の知的直観を認めます。こうなると、デカルトの「私は考える、それ故に私は有る」が別の仕方で復活します。フィヒテは「Ich denke」を働きと捉え、これが知的に直観される、とします。そうするとその直観によって、その働きは「ある」とされますが、その時すでにその「ある」とされた働きを考える働きが成立しています。これも例の〈英国にいて完全なる英国の地図を描く〉という喩えを想い起すとよいと思います。このように「ある」ということと「行為」が同時に成り立つのが「事行(Tathandlung)」であり、「自覚」です。ここにおいては「考えるものと考えられるもの」、これは「意識する意識と意識された意識」と言ってもよいですが、それが「無条件に一」となります。そうして「その統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ichである」ということになります。
J:これでだいぶ頭の中が整理できました。
―しかし「私は私である」というのがたんなる同語反復でない限り(同語反復A=Aの場合は、このAを外から見る視点が想定されますが、「私は私である」の場合にはそうした視点が成立しません)、そんなに簡単に言えるのか、という問題があると思います。これはアイデンティティの問題で、そんなに簡単に言えるのなら、誰も苦しみはしないだろうと思います。人間は誰しもこの「私」ということで苦悩するのですから。そもそも「私は私である」ということをことさらに言わなければならないのは、「私が私でない」という在り方に晒されているという状況です。そこでここでは「私は私である」ということが「人間」において成り立っているか、そこを考えてみたいと思います。
S:「私」というのはどうも腑に落ちない気がしています。ないような気がしたまま今まで来たという感じです。他者との違いとして意識されますが、なんだかわからないものです。だから主体性と言われても困ります。『善の研究』でよく「統一力」というのが出て来ましたが、たしかに「私」において「統一性」は感じますが、硬い塊、というような感じではない。Fさんは、いまフランスにいらっしゃいますが、そうした「コア」な自分というものを感じますか?私はいつも自分のことを「余(あまり)」と感じていて、地と言うのでなく、確固たる自分がいるとは思えないんですが。
F:私は「私が思う」とか「私がある」というのがどう成立したかに関心があります。
R:やっぱり「人間」は安心感が欲しいのではないかと思います。「私はこれこれである」、と言いたい。でもそれは根本に「不安」があるからだと思います。
S:野山にいるときには「自分が誰」とは思いませんよ。
R:自然からその外に出ると自分を意識するのでは?
S:たしかに野山にいるときには、鳥を見ていても、「自分が」見ているとは思いませんね。でも現実社会に出てくると、「自分」がなければならない、というように思っていますね。そこには内発性はなく、外から追い詰められている感じしかない。
F:意識された「私」に、なにか確固とした固定点があるとは思えません。例えば「私は真面目である」にしても、いくらでも揺らぎます。
S:もしFさんが世界征服を成し遂げたとして、私=宇宙、となってすべてが意のままになった場合(朕は宇宙なり!)には、(そうした揺らぐような固定点ではない「私」を獲得できたのだから)、「Ich bin ich」と言えるのでは?
―むしろそれが本当に成就したらもはや「Ich bin ich」と言う必要もなくなりそうですね。フィヒテの「Ich bin ich」(自我の根本的な自己定立:第一根本命題)も、「非我(das Nicht-ich)」からの「衝撃(Anstoß)」によって制約されることが第二根本命題によって明らかにされます。そこから「Ich bin ich」は「当為(Sollen)」となって(「Ich soll ich sein」)、自己であるべし、の「無限の努力」になって行きます。ヘーゲルはこうした否定的な無限進行の只中に成立している肯定的なものに目覚める、それが「思弁」だ、そのように考えます。ヘーゲルの場合、自我がどこまでも自立、さらには自立のための承認を求めて行って、それがどこまでも成就されず、最終的に「罪とその赦し」という仕方で、「宗教」において神との和解が成立することになります。もちろんこれは「めでたしめでたし」ということではなく、その「赦し」はつねに「罪の自覚」と一体です。そういう仕方で自我は神と和解を得て、「精神」となるのですが、そうした和解をキリスト教の物語のような「表象」ではなく、真に概念把握するのが「哲学」だ、ということになります。ここでも「私」はどこまでも「私」を求めざるを得ないのですが、それが徹底的に崩れることによって、そのことの只中で、神との和解、ひいては自分が自分である、ということが成立する、そのように考えられているようです。プロトコルはこの位にしてテキストに入りましょう、と言いたいところですが、前回の予告の通り、まずはフィヒテについて西田が講演したものがありますので、それを見て置きましょう(旧全集第14巻91頁10行目~95頁3行目)。Aさん、お願いします。
A:読む(91頁10行目~92頁4行目)
―ここでは「事行」と「自覚」について述べられていますね。
A:「働き」と「はたらき」は別のことですか?
―微妙な感じがしますが、区別はないと考えた方がよいと思います。それでは次をBさん、お願いします。
B:読む(92頁5行目~9行目)
―ここでは「自覚」において、「知る」「考える」という「はたらき」と「在る」ということが一つであることが述べられています。「在る」と言う時にはそこにすでに「知る」働きがあるからです。それでは次をCさん、お願いします。
C:読む(92頁10行目~16行目)
―「事行」や「自覚」というのはフィヒテ哲学のもっとも大切な箇所で、「むづかしい」けれども、「これ程はっきりした事実もない」と言われます。そこで自分は自分である、ということが成り立つわけですが、どうでしょうね。難しいところです。次をDさん、お願いします。
D:読む(93頁1行目~6行目)
―フィヒテの「自覚」とデカルトの「我考うるが故に我在り」が同じことを言っていること、その根本に作用(我考うる、の働き)の「知的直観」があることが述べられています。この「知的直観」をカントは認めません。次をEさん、お願いします。
E:読む(93頁7行目~13行目)
―カントの純粋自我の「純粋統覚」つまり「Ich denke」はあらゆる表象に「伴う」とされますが、西田はこのカントの自我がフィヒテの事行にならなければならない、とします。これは、カントは認めないでしょう。次をFさん、お願いします。
F:読む(93頁14行目~94頁1行目)
―ここでは「物自体」がフィヒテの「事行」にほかならないことが述べられます。続いてGさん、お願いします。
G:読む(94頁2行目~6行目)
―ここではカントの「物自体」が「知るもの」と「知られるもの」が別物だという考えを除き去ることができなかったところから生じるとし、「事行」において「知るものと知られるものは円環をなしている」とされます。次をHさん、お願いします。
H:読む(94頁7行目~10行目)
―ここで西田は「物自体」をカントの「純粋自我」さらにフィヒテの「事行」とすることに「少からぬ議論のあること」を一応認めつつ、「兎に角」と来て、「我々の世界のすべてはこの自己同一の考えから何時でも出発して考えられねばならぬ。此の自己同一の我は何人も疑うことの出来ない明白な事実である。これを疑うことは我を否定することである」と力強い口調で述べています。ここには西田の強い信が感じられますが、それだけに同時に根本的な問題もそこにあるはずです。次をIさん、お願いします。
I:読む(94頁11行目~95頁3行目)
―いきなり「物自体をかく考えることによって、カント哲学は矛盾なしに総ての問題を説明することが出来る」と豪語していますね。「自覚の上から見ればよい」とも。そうして具体例が述べられます。「松の木が立っている」のも「私が私であるから」と言います。
I:独我論的な感じがしますが。
―これだけ読むとね。しかしここで言われている「自我」は「物自体」と一つになった、絶対的な自我です。自然界も精神界もこの上に立つような「自我」です。そうして「カントでは単に価値(真善美:引用者)の根柢であった静的な事実」―これは自然界精神界の根柢にある「Ich denke」という自覚のことを言っているのでしょう―が、フィヒテになって来ると実在の根柢となり、動的発展的な事行となった」とされています。そうしてこのフィヒテの考えがヘーゲルに受けつがれて、「世界は理性である、理性の自覚が世界である」とされた、そのように述べられます。ただ、ヘーゲルの場合、自覚の一々が否定され、最後に至っても、徹底的な否定が同時に肯定である、というように考えますので、単純な自覚ではありません。参照はここまでにして、本来のテキストに戻りましょう。ではAさん、お願いします。
A:読む(旧全集第4巻311頁2行目~312頁6行目)
―ここでは「認識論」は「自覚」の問題に入って行かなければならないこと、それはどこまでも「内在的」であって、「我々の経験界を構成する範疇を、知覚的所与なくして超経験界に押し進める」という意味での「形而上学的」では決してないこと、そうしてフィヒテもフィヒテ以後の所謂ドイツ観念論もそういう意味での「形而上学」ではなく、西田自身もそうした「形而上学」に陥ったことは一度もないことが述べられています。そうして「カントに還れ!」は新カント派の標語ですが、このように自覚の問題を深く考えていくことこそ、リッケルトのカントではなく、カントのカントに還ることだ、そのように言います。
A:これ、左右田博士も読んでいるんですよね。
―ですね。さぞむっと来たでしょうね。
B:カントも怒ると思います。
―今日はここまでとします。
ヂ:(第90回):ヂ

私は私である

ヂ:前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落307頁12行目「所与の原理は異なるも」から第5段落309頁終わりまでを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られるのであるが、之を越ゆれば、全然所謂知識の領域を脱して、直観の世界に入る、而してそこに真の自覚が現れるのである」(309, 8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、自覚とは「無限の深底」であり、「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」という。西田によれば、「真の自覚」は、「対象界」(所謂知識の領域)を越えた所の、「直観の世界」に現れる。こうして「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか。西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか」(210字)でした。読書会時にはほとんど質問内容の質疑に終わってしまったので、改めてWさんに問いたかったこと、考えたことを述べていただきました。読みやすいように、対話形式に編集してあります。:ヂ

―もうすこし説明していただけませんか?

W:まず、プロトコルの一つ目の問い(「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか)によって、問題にしたかったのは、「真の自覚が現れる」というときに、真の自覚に現れているのは何か、ということです。

―「真の自覚に現れているもの」そのもののことですね。続けてください。

W:この問題において、たとえば、「花を見る」というときに「真の自覚が現れる」と言い得るのはどういうときだろう、と問いを立てることができるならば、我々の自覚は「無限な深底」であるといわれているにも関わらず、「真の自覚」について考えようとするときには、意識の次元で理想化された経験内容を出発点としてしまうように思います。

―「真の自覚に現れているもの」について「言う」とか「考える」という次元のお話ですね。そこに「意識の次元」での「理想化」があると。どうぞ、続けてください。

W:このように、ある経験内容を理想化しているようにみえてしまうことから、二つ目の問い(西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか)を立てました。

―なるほど。ようやく少し見えてきました。それで?

W:「真の自覚が現れる」というときには、「真の自覚」として現れるに相応しい(それ以上見え方の変わらない)経験内容が前提とされているようにみえます。

―よくわかりました。哲学や宗教、あるいは芸術にとって重大な問いのようですね。これらのものにあっては感動、驚き、出会いといったものが決定的な始まりになります。これなしには成り立たないと言ってよいと思います。しかしそうした根本経験を「ある!」と言ってしまえば、そこにすでに、「意識の次元」での「理想化」が起っている、そういうご発言ですね。しかし哲学や宗教、あるいは芸術の立場からは、たしかに自分の体験を確かなものとして掴むことはできない、しかしそれだからこそそうした「理想化」(自分が掴んだと思っている体験)をも破る働きがますます「ある!」、と言えるのではないか、そのように言うでしょう。この点どうお考えですか?

W:体験の中には「理想化」をも破る働きがどこまでも「ある!」ということは言えるように思います。

―なるほど。「ある」とは言える。それで?

W:問題にしたいのは、そうした働きが生じるときに、「真の自覚に現れているもの」は、異なる様に移り変わっているのか、それとも、それ自体として同じ様に留まっているのか、ということです。

―難しいですね。「働きが生じるとき」が「真の自覚が現れるとき」ですよね。そのときに「〔すでに〕異なる様に移り変わっている」のか「それ自体として同じ様にとどまっているのか」ということですね。「ある」とは言えるけれど、その「ある」ものが変化・変質しているということですか?もう少し説明してください。

W:はい。こう問うてみます。その応答が前者であれ後者であれ、これまでの経験からつくられた前提を破るような体験が起こるということは、「真の自覚」から考えるとどのように説明できるのでしょうか。

―「真の自覚」から体験を考えるということですか?

W:はい。「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」と言うことができるならば、「意識の次元」と対立させることなく「真の自覚が現れる」ということを考えなければならないように感じますが、そのことをどのように説明することができるのか疑問に思っています。

―「意識」の立場に立つことなく、「真の自覚」の立場から体験を語ることは可能か、という問題ですね。まさしく宗教、哲学、芸術の根本の問いだと思います。しかし「語る」というところを「説明」とすると、不可能な気がします。何故なら「説明」はつねに「何かについての説明」だからです。ここにはすでに「真の自覚」とそれを語る者が区別されています。そうして「説明」はつねに説き明かすこととして、分別的で無矛盾でなければなりせん。これがまさしく「意識の次元」でしょう。しかし不思議なことに、「決して説明できない」、「意識の次元」を出ることができない、という言明自体が、その「外」、つまり「真の自覚」の領域を認めなければ成り立ちません。意味を成し得ないのです。つまり「説明できない」ということを通じての「説明」がなされている、ということです。さらに考えたいところですが、プロトコルはこれ位にして、本日の講読箇所に移りましょう。ここも私の頭の状態がよろしくなかったので、大変申し訳ありませんが、架空対話の形で書かせてください。それでは始めます。Aさん、読んでください。

A:読む(309頁最終行~310頁8頁)

―「以上の考」とあるのは?

A:「自覚」の考えだと思います。

―そうですね。知的自覚(カントの純粋統覚「ich denke」)から意志的自覚(フィヒテの事行)、そこから「真の自覚」(直覚)に至る流れのことですね。そのことがもう一度繰り返されて説明されます。ここでも「カントの純粋統覚」を「形式」と「内容」の統一として捉え、そこに知識の「客観性」(繰り返しになりますがこれは西田独自の解釈になります。カントによる「客観性」はあくまで「普遍性」と「必然性」を徴表とするものです)が成り立つ、と考えます。あらゆる認識に伴わなければならない、「自己意識(Selbstbewußtsein)」、としかカントが言わなかった「私は考える」、これをどう捉えるか?これを自己が自己を知る、というような意味での「自覚」とはせずに、単に「論理的」になければならないもの(「論理的主観」)と考えるのが、リッケルトです。これに対し単に知的直観によって捉えられると主張して「直覚的主観」としてしまえば、自我を形而上学的に実体化することになります。ではどうするのか。「自覚」しかない、そのように西田は考えます。そうしてカントの「自己意識」を「自覚」(訳語の問題で、原語は同じですが)にまで深めた(リッケルトの立場からすれば理論理性の越権行為を敢えてなした)のがフィヒテの「事行」だ、そのように西田は考えます。そうして「自覚に於ては、考えるものと考えられるものとが無条件に一である」と言われます。

A:「考えるもの」と「考えられるもの」とはどこまでも異なるのではないでしょうか?

―一面においてはそうですが、他面においてそうでない、というのが自覚だ、というのがフィヒテの立場です。まず「自我」があって、それが「考える」ということで、「私は考える」という自覚が成立するということになれば、これは「もし自我があれば」という条件によって制約されたものとなります。「無条件に一」というのは、考える働きと考えられるもの(働きの産物)とが、そうした条件なしに一つだということです。次に「フィヒテが『全知識学の基礎』(原文ドイツ語、1794年)の始に於て「第一の、端的に無条件の根本命題(原則)」(原文ドイツ語)として「事行」を考えたのは、カント哲学の深い見方と云わざるをえない」とありますね。

A:はい。

―『全知識学の基礎』における「第一の根本命題」とは「自我は根源的に端的に自我自身を定立する」ということで、「自我」とは「事実」ではなく、「意志」による自己定立の働きによってはじめて存在するものであり、そうした定立ができるためには自我自身の「知的直観」がなければならない、とするものです。ちょうど英国の完全なる地図のように。ですから一面ではAさんが仰る通り、働きとその産物はどこまでも区別されながら、その働きが自己定立の働きであることによって、根源的には同一だということになります。だから働きと産物の区別は「同一」であるべしと無限に同一を求めていくことになります。フィヒテについては次回、これも旧全集の14巻によって少し見て置きましょう。

A:お願いします。

―カントの「純粋統覚」、つまり「私は考える(自己意識)」をフィヒテ的な意味での「自覚」つまり「事行」と考えたのは「カント哲学の深い見方と云わざるを得ない」と西田は言いますが、左右田やリッケルトからすれば、それはカントの理論理性の限界を越える、許されない越権と映るはずです。しかしフィヒテや西田にとっては、こうした「事行」としての「自我」は意識されたものとしての「意識には現れない、又現れることもできない」が、(ただし知的には直観できることによって、)「すべての意識の基礎」となる、「認識も之によって基礎付けられねばならない」ということになります。それでは次をBさん、お願いします。

B:読む(310頁9行目~311頁2行目)

―冒頭「知的自覚」とありますね。これは「判断的自覚」とも呼ばれていたものですが、カントの純粋統覚、「私は考える」(自己意識)のことです。カントの場合、それは思惟(悟性)と直覚(感性的直観)とを総合するもの、「所謂知識の形式と内容」とを統一するものでした。こうした統一の「純なる形式的言表」がフィヒテによれば「私は私である(Ich bin Ich)」だと言うのです。この「Ich bin Ich」が先に申し上げた「知識学」の「第一根本命題」、すなわち自我の根本的自己定立にほかなりません。「ペンがある」という知識も私の表象(考えられたもの)として、その形式だけ取り出せば、「私=私」となります。ここまではどうですか?

B:大丈夫です。

―次に「それ」つまり「私は私である」という「知的自覚」は「心理学的でもなければ、形而上学的でもない、認識論が之によって基礎付けられる」とあります。自己の内面を心理学的に観察したのでもなければ、独断的に自我の同一性を述べたものでもない、認識論の基礎づけになるものだ、そのように述べます。「心理学的自覚」についてさらに説明が続きますね。「所謂心理学的自覚というのは、かかる意味に於ける自覚」、これは「Ich denke」としての「知的自覚」のことですね、そうした「自覚の内容的に限定せられたもの」であると。「内容的」とはこの場合、自己の内面を対象として観察した内容、ということです。我々は自分のことをああだこうだ、というように自覚する経験を持ちますが、そうした自覚経験がこの場合の「内容」ということです。それは「恰も思惟は単に心理的ではないが、限定せられた判断作用として心理的と考えられるのと同様」だ、と言います。どういうことでしょうか?

B:実際にいろいろな判断をしている、ということを反省して知る、ということではないでしょうか。

―そういうことだと思います。次に「或意識の範囲内に於て思惟と内容との統一が見られるかぎり」とありますね。私は〈このように判断している〉、という内容と、そのように考えている働き(思惟)とが統一されている時に「心理的なる知的自覚」が見られることになります。しかし認識論の基礎となる「知的自覚」はそのような心理学的な自覚ではない、というのがここでの西田の主張です。ここまでで質問はありますか?

B:「私は私である」が心理学的でない、とはどういうことになるのでしょうか?

―先程も申し上げましたが、一つは「論理的」になければならない、とするものです。次に「リッケルト派の認識論者は先験心理学的反省によって抽象的思惟の主観を許し」ている、とありますね。「先験心理学」とは「超越論的心理学」とも訳されますが、カントが『純粋理性批判』で批判したものです。それは「Ich denke」つまり純粋統覚を、誤謬推理(パラロギスム)によって形而上学的な実体にしてしまうものです。ですからここは西田のリッケルト批判と考えることができます。リッケルトは「Ich denke」を「論理的主観」と言っているが、本当はパラロギスムによって、それを実体化し、それを「抽象的思惟の主観」としているではないか、という批判です。そんなことをしておきながら、「何故に具体的思惟の主観たる自覚的主観」、つまり知的(判断的)自覚も意志的自覚をも含むような「自覚」としての主観を「真の認識主観」として認めないのか、このように批判しているのです。そうして「知識があるということは、知的自覚によって可能になるのである」と述べます。この「知的自覚」は、たんに「論理的」なものでもなく、また形而上学的なものでもない、「真の認識主観」としての「自覚的主観」のことです。つまり「自我」の「知的直観」を根本に据えた「自覚」としての主観です。これが「心理学的」でない「知的自覚」のもう一つの在り方であり、西田はフィヒテと共にこの立場に立とうとします。今日はここまでとしましょう。

ヂ:(第89回):ヂ