具体的一般者、反省的一般者(抽象的一般)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第7段落319頁15行目「以上述べた如く」から320頁13行目「含まれて居なければならない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自己の中に自己を映す鏡」(320頁 12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「その場合、絶対無(場所)も個物(認識対象)も認識主観も同一で自己そのものであるが、絶対無・一般が自己否定して個物・有となるには、自己だけではなく、他者がそこに入るのではないか」(87字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
認識主観を絶対無と見て、すべてが認識主観内の出来事とお考えのようですね。そこには他者が出て来ないと。

R

そうです。
佐野
限定された一般者(認識主観)が絶対無へと超越する場合に、限定された一般者の破れがあるわけですが、そこには限定された認識主観にとっての他者が必要だということですね。

R

はい。
佐野
そうだとすると、認識主観に限定された一般者と絶対無を区別しなければなりませんね。

S

この他者は弥陀の本願みたいですね。限定せられた認識主観が衆生で。
佐野
そうですね。これは絶対者と絶対無の問題になりそうですね。『善の研究』ではその第4編で絶対者と我々の自己との関係が問題になり、両者の逆対応的な関係から両者の合一がなされています。そうした宗教的覚悟を受けて、と私は解釈していますが、第1編冒頭の純粋経験が事実ありのままの知として立ち上がってきます。ここには逆対応を受けての平常底のようなものが見られます。このように『善の研究』と晩年の『宗教論』には、我々の自己と、それに対する他者との関係が出て来ますが、『善の研究』以後の、自覚、場所といった西田の思想的展開の中に他者は出て来ずに、西田は直接に純粋経験、自覚、場所の立場に立ってそこから哲学しようとしている傾向はあると思います。その意味でRさんのご質問は何となく理解できますが、大きな問題になりますね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(320頁14行目~321頁8行目)
佐野
カントの認識主観では純粋統覚(統一作用)と意識一般(図に対する地)が一つになっていましたが、リッケルトは明確に認識主観を作用に限定した、そう西田は批判します。そこで「むしろカント自身の考を維持したい」と言いつつ、「唯カントも主客の対立を基とし、知ることを作用と考えることから出立した」と批判します。「尚一層深く広い立場から出立したいと考える」とあるのは、「意識一般」から出立したい、ということでしょう。またリッケルトが「所与の原理」を認めなかったのに対し、カントが『純粋理性批判』において感性的な所与(知覚の所与)を認めたことを一方で評価しつつ、「カントの如く所与の原理を単に知覚に限りたくない」とカントを批判しますが、カントの立場から言えば、『実践理性批判』を考慮に入れていない、ということになると思います。その場合感性的なもの以外の所与とは道徳律、つまり「善を為せ」という命令です。所与といっても実践理性が感性的な存在でもある人間に課すものです。これを人間はつねに自分にとっての善にしてしまいますが、これが通常の我々の意志です。ですからカントは所与を知覚に限ったというのは正確ではないと思います。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次にフィヒテ以降の「独逸唯心論」つまり「ドイツ観念論」の傾向について述べられていますね。新カント派はこれを「形而上学的」だと言って排斥した、と書かれています。この「形而上学的」の意味を西田は、「客観的思惟の方面を基として、主観的思惟をその一面とのみ考えた所」に認めています。西田からすればカントの統覚も作用として、すでに対象化されたものです。それを受けてフィヒテはこれを「自我」というように実体化し、さらにシェリング、ヘーゲルは「絶対者」とした、これが「客観的思惟」の意味だと思いいます。客観的と言ってももちろん「思惟」ですから、「主観的思惟をその一面」と考えることになります。「自我」ないし「絶対者」が思惟をもつ、ということです。

A

神が考える、というようなことですね。
佐野
そうです。これに対し西田はこうした客観化・対象化をしないで、どこまでも「判断意識」つまり「意識一般」の立場を離れないで、具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う」とします。自分は「形而上学」をやっていない、ということです。

A

「具体的一般」とは何ですか?
佐野
「具体的一般者」ないし「具体的一般」の概念は西田の中で変遷がありますので、そのつどのコンテクストから読み取らなければなりません。以前(316頁11行目)にも出て来ましたが、ここでは意識作用と意志作用です。対象的・主語的なものです。「背後」とは「述語」つまり対象化されないものことです。前者を図、後者を地といってもよいと思います。具体的一般とは特殊を含む一般のことです。自己限定して特殊になる一般のことです。これに対して、特殊に対してあくまで一般であるのが「抽象的一般」です。先に「一般が特殊を自己自身の限定として、之を自己の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、単に特殊が之に於てある無なる場所となる」(320頁10~11行目)とありました。ですから「抽象的一般」とは「無の場所」のことです。

A

分かりました。
佐野
西田は自分は「形而上学」をやっていないが、左右田博士は「die blosse metaphysische Übertragung der Erkenntnislehre(認識論の単なる形而上学的転移)」と言って自分を批判するけれども、リッケルトの立場以外を形而上学と呼ぶんだったら、そう呼んでもかまわない、そう言っていますね。それでは「六」に入りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(321頁10行目~322頁終わり)
佐野
まとめですね。西田は自分の「場所」が対象化されないものであることを主張します。左右田博士が「場所」は「有とは考えられないか」とか「有でも無でも正しいとは思われない」と言っているのは、私のいう所の「場所」を対象化(=形而上学化)しているからだろう、というわけです。しかし左右田博士からすれば、「無の場所」と言った時点で対象化されてしまっている、と言いたいわけで、これはこれでもっともな言い分だと思います。人間は対象化されない領域(生の領域)に生き(存在し)ながら、「知」としては対象化しかできないし、そこを一歩も出ることもできない。こうした矛盾を抱えているが故に、そうした知の領域が破られる、ということが起こりうる、そうした存在だと思います。それはともかく、テキストで何か分からないところはありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって」とありますが、「判断的知識」は図ですね。それの背後にある一般者とは「意識一般(私は考える)」つまり地です。そうした地としての「意識一般」が「具体的一般者」と考えられる、とは意識を「意識作用」と考えることです。そうした場合にそれは「主語的であり、対象的」であることになります。そうして「具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない」ことになります。この「反省的一般者」は前には「抽象的一般」と呼ばれていましたね。

B

なぜ「反省的一般者」と呼んだのでしょうか?
佐野
ここだけでは分かりませんね。後に「判断としては、述語面は何處までも主語面を包むものであり、客観的思惟の背後にも反省的主観がなければならない」とあり、「客観的思惟」が、先に出てきたように、対象化された意識作用(統覚)と考えれば、「反省的主観」とは「意識一般」つまり、「私は考える」という「自己意識(自覚)」だということになります。そうすると、「自己意識」のことを「反省」と呼んだと考えることができますね。実際西田はそのあとで、「どこまでも判断的知識の背後に見られねばならない述語面という如きものが、私の所謂場所であって、それはカント学者の認識主観に相当するものと云ってよい」と述べ、この「認識主観」とは「意識一般(自己意識)」のことだと考えられますから、そういうことかもしれません。ただしこの「認識主観」は新カント派のいうような作用の「統一点」ではなく、於てある場所として「包容面」だ、という注意も西田は忘れません。ここまで、いかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「之」つまり「場所」「について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのは、〔対象化できない〕認識主観について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのと同様である」、とあるのは先にも述べましたが、左右田博士がそうした批判をしているからです。そうして「私が無の場所というのは、〔対象化できないので〕一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と述べます。対象化された無の場所を前提として「真の無の又無がないか」という質問には答えることができない、とします。そうして「述語面」を「意識面」と考え、その「最終の述語面」が「直覚的意識面」だとします。これが「真の無の場所」ですね。「無の場所」において「直覚」が成り立つということです。対象化できないものを知る仕方が「〔知的〕直観・直覚」です。もちろん左右田博士や、あるいはカントですらこんなものは認めません。それはもはや哲学ではない、と考えるからです。ですが西田は「自己自身を見るもの」「主客合一なるもの」を認めます。桜の花(客)が自分(主)であり、そうした桜の花の内に自分自身を見る、こうしたことのうちに絶対無が自己限定して特殊となりつつ、絶対無そのものとしてそれを自らのうちに映す、という事態を見て取っているのです。最後に残ったところ、Cさん、お願いします。

C

読む(323頁)
佐野
「千金死馬を買う」については、各自ネットで調べてください。「日暮れて途遠きもの」(老齢になったにもかかわらず、哲学はまだまだだ)である自分を「死馬」に喩えたものでしょう。哲学や芸術、宗教は、天才ならいざ知らず、一般の人間にとっては、50,60ははなたれ小僧、でいいと思います。80を過ぎてから本物の哲学をする、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。それでないと生涯続けることができない。最近は哲学も「役に立つ」ということが要求され、したがって哲学する者も専門家であることが要求されます。当然のことながら、速成が期されますから、若い人は哲学の或る狭い範囲の専門家になろうとします。年輩になると広範囲の知識の所有者になろうとします。これが昨今の哲学研究です。これが哲学の本来あるべき姿でないのは明らかですが、どうにもならない。「日暮れて途遠し」、哲学とは生涯続くものであり、本来そうしたものだと思います。次回より第4巻の最後の論文、「知るもの」に入ります。
(第97回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

特殊を包む一般

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第6段落319頁1行目「此故に直覚的なるものが」から319頁14行目「見られるまでである」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云ふのではない、場所が限定せられるかぎり、之(限定せられた場所)に映ずるのである」(319頁2~3行目)と「此の場所に於いてあるものは、全く知識の意味を失って、意識一般の対象界に於いては、唯表現として見られるまでである」(319頁 13~14行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「319頁3行目の「映ずる」は13-14行目の「表現として見られる」ことと同じか。直覚的なるものが「映ずる」のと、於いてあるものが意識一般の対象界に於いて唯表現として見られることとは、同じことを反対の側から述べていると読むのは誤りか。超越とはある境界となるところから劇的に変わるのか、それとも混ざり合うように変化していくものか」(156字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
三つ問いがありますね。第一の問いについては基本的に同じだと思います。直覚的なるものは本来「真の無の場所に於てあるもの」ですが、それが限定せられた場所に映じて「判断的知識」になることと、「意識一般の対象界に於て」「表現」となることとは本質的に同じことだと考えられるからです。ただ前者は「判断的知識」ですから「一般概念」(有の場所)に於てあると考えられるのに対し、後者の「表現」は「意識一般の対象界」つまり「対立的無の場所」に於てある、という違いはありそうです。第二の問いですが、これも本質的にはその通りで、判断的知識は限定された場所に映じたものを限定された分だけ抽象的にしか見ないのに対して、意識一般の対象界に於てあるものを「表現」と見る場合には、それを「直覚的なるもの」の「表現」として見ているわけですから、両者は同じことをお互いに反対の側から述べていることになります。第三の問いですが、超越とは、こちら側からの道がないということですから、超越が起るのはつねに突然(劇的)です。しかし超越したところから見るならばそこには道がある、ということになります。ですから「混ざり合うように変化」していくのではないと思います。ところで「表現」という語ですが、西田はこの語で何をイメージしているのでしょうか?

S

難しいですね。
佐野
たしかに「表現」、と一語出ているだけですから、何とも言えませんが、この第四巻に「表現作用」という論文がありました。そこで「直観の立場からしては、此世界は表現の世界となる」(168,5-6)とあって、まず「言語は不完全なる表現」だとされます。意味とそれを表現する質料(シニフィエとシニフィアン)の結びつきが外的だということです。これに対し「芸術」の場合は、両者が合一してはいるが、その内容は現実とは異なる「仮相(フィクション)」だという制限があります。さらに「道徳的行為」となると、それは「我々の身体を表現化することによって、全実在を表現化する過程でなければならぬ」(169,4-5)とされます。今度は「全実在」となっていますね。しかしこの過程は無限の過程になります。どこまでも実現できない、という制限があります。したがってこの立場は挫折を伴う。そうして最後に出てくるのが「宗教的立場」です。そこにおいては「全実在も亦ただ一種の表現と見られる」(同5-6)とされます。西田は宗教をそのように見ているのです。因みにヘーゲルは、宗教はどこまでも「表象(イメージ、例えば神、神の子、天国など)」を拭い去ることができない、したがって現実と和解できないと考えて、これを和解にもたらすものが哲学だと考えていました。それはともかく、西田は「表現作用」という論文では、「表現」ということで「言語」「芸術」「道徳」「宗教」を考えていることがわかります。目下の論文でももしかするとこれらを念頭に置いているかもしれませんね。

S

分かりました。それにしても西田は「直覚的なるもの」やそれが於てある「真の無の場所」を根源にしていて、そうした向こう側からの働きがなければ超越が起らないように考えているようですが、こうした根源も根源としてしまえば我々にとっての意味になってしまうように思うのですが。もっと言えば、そうした根源を据えたい、そういう根源があって欲しいという願いのようなものになっている気がするのですが。

W

そこでは、〈見る側の論理〉と〈表現する側の論理〉を区別すべきだと思います。〈見る側〉からすれば、根源は勝手な意味付けだ、というように判断され、裁かれるほかはないのですが、〈表現する側〉からすれば、何もないところから何かを生み出す行為となります。

S

そういうものかな、とは思いますが、すべての芸術家がそこを意識して狙っているとは思えませんが。
佐野
意識しているかいないかは別として、〈表現する側の論理〉でないと、芸術にはならないとは言えそうです。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(319頁15行目~320頁3行目)
佐野
まず「出立」点が「判断意識」であることが明言されます。動物がすることのない判断をどうして人間がするのか、これ自体とても不思議なのですが、こうした言明もすべて判断になってしまいますから、ここから出発する、ということなのでしょうね。カントや新カント派と同じやり方です。でも西田はこの「判断意識」はリッケルトのとは違う、と言います。どう違うのか。「リッケルトの判断意識というのは、先ず主客の対立を考え、知るということを作用と考える心理学的見方を基としたものである。而してその認識主観というのは、カントの認識主観から所与の原理を除去して、単に形式的に考えられたものである」と述べられます。分かりにくいですね。

A

ええ。「心理学的見方」とあるのは心理学に基づいている、ということですか?
佐野
いえ。心理学が扱うのは個人の経験的統覚です。意識された認識主観ですね。思惟、意志、想像といった統覚、つまり統一作用は意識できるんですね。ですがここではあくまで心理学「的」であって、心理学そのものではありません。経験的統覚ではない、超越論的統覚が問題になります。意識された意識ではなく、意識する意識。カントの「私は考える」です。これは図に対する地ですから、決して認識できません。カントも単に「自己意識」というのみで、これを知的に直観することはできない、とします。カントの場合、この統覚(統一作用)と地としての「意識一般」とが明確に区別されてはいませんが、リッケルトは統覚(統一作用)の方を、西田は意識一般の方を認識主観と考えるのです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
西田のリッケルト批判はもう一つあって、カントの認識主観から「所与の原理」を除去した、というものです。第一批判(『純粋理性批判』)での「所与の原理」とは経験的なもの、感性的な質料です。これを統覚が時空といった感性の形式とカテゴリーといった悟性の形式で統一していくわけです。リッケルトも所与として「純粋経験」を一応認め、これを「所与性の範疇」によって「これ」と呼べるものにし、「実在の範疇」つまり「構成的範疇」(時空、因果)によって客観的実在(存在するもの)にする、と考えます。そうしてこれがさらに方法的範疇によって科学的な対象、さらには歴史学などの対象となります。しかしリッケルトは判断(言葉)になったところからしか問題にしませんから、「純粋経験」といってもすでに様々な範疇によって構成されてしまっている、と考えます。プロトコルの話に関連付ければ、リッケルトは〈見る側の論理〉にしか立ちません。ですから言語以前の「所与」というものを問題にしません。西田にとっては、純粋経験にしてもそうですが、言語以前の存在こそが真実在ですから、リッケルトはカントの認識主観から「所与の原理」を除去した、と批判するわけです。西田の「真の無の場所」において論じることはまさに〈表現する側の論理〉となりそうですね。

W

そうです。「真の無の場所」ということで見えてくる風景があるということだと思います。
佐野
しかし他方で「真の無の場所」という言葉によって見えなくなってしまうということもあるのでは?言葉にならないところを論じたいのだけれど、言葉になったところからしか論じられない、そんな矛盾がありそうな気がします。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(320頁3行目~8行目)
佐野
読みにくい文章ですが、西田は「知る」ということを作用とは考えずに、「場所に於てある」と考えますから、まず「作用という如き考を除去する」ということになります。「作用という如きもの」は「既に対象化せられたものと考え」られるからです。カントで言えば認識主観を「純粋統覚」とするのではなく「意識一般」とする、ということです。カントの『純粋理性批判』では、「意識一般」は「判断意識(「私は考える」という自己意識)に関わることですが、西田はこれをさらに「意志の意識(「私は意志する」という自覚)」や「直観(真の無の場所に於てあるもの)」にまで拡大しようとします。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
次に「普通に知的作用と考えられるものは、上に云った如く、意識一般の対象界と意志、直覚の世界との間に見られる心理学的対象界に於ける一つの特殊なる場合に過ぎない」とありますが、読みにくいですね。「との間」とありますが、何と何のあいだですか?

B

「意識一般の対象界」と「意志、直覚の世界」との間です。
佐野
そうですね。もう一つ質問があります。「上に云った如く」とありますが、以前に「心理学的対象界」という語が出てきたのはどこですか?

B

319頁10~11行目です。
佐野
そうですね。「合目的的世界」「心理学的対象界」「歴史的世界」「自由意志の世界」「直覚の世界」と順に出てきた、その二番目ですね。ここでは「知的作用」を心理学的に対象とするということですが、先程も申しました通り、リッケルトの認識主観は個人的な所謂心理学的な対象ではなく、超越論的(純粋)統覚です。ですからテキストでも「心理学的対象界に於ける一つの特殊な場合」となっています。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(320頁8~13行目)
佐野
「私の場所というのは、単に所謂一般概念という如きものではなくして」とありますね。「所謂一般概念」とは抽象的な一般概念のことで、特殊と対立するものです。例えば犬一般とか。そうではなくて西田の「場所」とは「特殊が於てある場所」、「対象を映して居る鏡の如きもの」だとします。前者が「場所」の存在論的テーゼ、後者が認識論的テーゼと呼べるものです。しかし「対象を映して居る鏡」だというと、鏡(一般)と対象(特殊)が「別のもの」と思われるけれども、そうではないと言います。そうして「一般が特殊を自己(一般)自身の限定として、之(特殊)を自己(一般)の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、〔一般が、〕単に特殊が之(次に出てくる無なる場所)に於てある「無の場所」考えられた時、〔一般は〕自己の中に自己を映す鏡となるのである」と述べます。

C

どういうことかイメージできませんが。
佐野
たしかに難しいですね。特殊を包む一般のことを西田は「具体的一般」と呼びます。抽象的一般は特殊と対立していますから、それ自身が特殊と対立する特殊になってしまいます。だから真の一般はこの特殊を含まなければならない。そのことによって一般も真に一般になる、そういうことがまずあります。ではそれはどのようにしてなされるか。一般が自己否定して特殊となりながら、同時に真の一般になる、これを西田は一般が自己限定して特殊となりながら、特殊がそこに於てある無の場所となることだ、と考えます。そうなった時に真の一般(具体的一般)として、一般は「自己の中に自己を映す鏡」となる、と言うのです。

C

相変わらず全然イメージできませんが。
佐野
何らかの仕方で限定された一般は真の特殊(個物)を包むことはできませんね。個物は限定しつくせないものだからです。しかしそうした一般の限定が破れる、無になる。その時に個物がそのありのままの姿を現わす。現すのは「無なる場所」に於て、ということになります。気を失っているのでもない限りそうでなければならない、そういうことだと思います。無心の境地にもこうしたことはいえると思いますし、プロトコルで問題になった〈表現する側の論理〉もこうした立場に成立するはずです。言語(判断、〈見る側の論理〉)を一歩も出ることができない人間だからこそ、そうした言語を破る経験が、驚きとか悲哀とか、あるいは身の頷きといった仕方で起こりうる。もちろんそうしたものもそうしたものとして言語化しなければ何もわからない、ということがありますが。最後に「我々が普通に用いる映すと云う語の根柢にもかかる考えが含まれて居なければならない」とあります。鏡が物を映す、ということもその「映す」ということの根柢にまで遡って考えるならば、「自己の中に自己を映す鏡」という考えが含まれている、というのです。今日はここまでとしましょう。
(第96回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed