変ぜざるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第4段落328頁12行目「以上述べた如く」から「二」の第3段落331頁8行目「変ずるものととなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「主語となって述語とならないと云ふことによって、我々は所謂特殊化によって達することのできない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」(330頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「個物」の概念は、「判断が一般概念を破ってその外に出」て、「具体的一般者」によって成り立つ。つまり、一般概念の特殊化によって達することができない「個物」を、「主語となって述語とならない」と「云う」ことによってである。言い換えれば、「個物」を言い表せないものとして言い表わすことである。しかしこの場合、個物は真に判断の主語となっても、それが何たるか(その内容)を一切表せないように思う。如何にして真に個物の内容を言い表すことができるか」(216字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「ある」とは言えるのですか?

R

はい。
佐野
そうすると「ある(存在)」とは言えても、その「何であるか(本質)」を言い表すとは言えない、ということですね。「一切」とありますが、原理的に何も言えない、ということですか?

R

現時点では、ということです。
佐野
「一般概念」を破って個物と出会う。そうした出会い(驚き)が絶句をもたらす。そこでは「ある」としか言えない。この出会いが何であるか、それはどこまでも分からないが、それを問い披いていくのが、哲学である、というような感じですね。これは哲学に限らず、宗教についても言えそうです。個物を「十字架上のイエス」とすれば、それとの出会いをどう考えるか、ということによってキリスト教が成立したともいえるからです。その場合、我々人間には神的働き(エネルゲイア)によってその働きの主体としての「神の存在」が何らか証し示されるけれども、その何であるか(本質・実体、ウーシア)はどこまでも謎・神秘に留まる、それを問い披いていくのが「哲学(愛智の営み)」であるという考え方がキリスト教においてもあります(谷隆一郎)。Rさんの問いは「ある」としか言えない個物の内容(何であるか)が「如何にして言い表せるか」ということですか?つまりそれは、根本的な個物との出会いの経験から如何にして哲学が可能となるか、そういうことですか?

R

「全然一般概念を超越するものならば判断の主語となることもできない」とあるのに、「真に判断の主語となるもの」が「具体的一般者」とされています。この「具体的的一般者」が「如何にして」「判断的関係」に入ることができるか、それがここでは示されていないと思います。
佐野
「具体的一般者」は個物を包むことのできるものとして究極的には「絶対無の場所」であると思いますが、それが判断的関係に立つためには、自己限定しなければならない、というように考えてはいかがでしょうか。絶句の後に、それが何であるかを考えるのが哲学ですが、その場合にも哲学の側から勝手に限定し、考えるのではなく、あくまで具体的一般者の側からの自己限定として考える、そういうことではダメですか?

R

ですが、この箇所ではそこまで言えていないと思います。
佐野
テキストの目下の箇所では「変ずるもの」と、その根柢の「変ぜざるもの」との関係から「具体的一般者」が論じられているだけですが、それがどのようにして「意味」や「価値」に発展していくかは、先を読むほかなさそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(331頁8行目~332頁4行目)
佐野
「最後の種差」(この青とこの青ならざるもの)を加えることで、一方でそこに「個物」(この木の葉)が成立すると同時に、この個物が「唯一の性質」(この青)をもつことになります。それとともに「矛盾なく他の異なれる性質的述語」(この香、この味など)をもつことになりますが、こうした「個物は尚変ずるものではない」とされます。「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」からです。

A

前回の講読箇所の最後に、「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」(331,7-8)とありましたが。
佐野
その直前に「主語となって述語とならないものに到っても、尚変ずるものではない」とありますね。これを言い換えたものが「個物は尚変ずるものではない」です。そうするとその直後の「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」を言い換えたものが、「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」であることになります。そのさい「個物」が「変ずるもの」、「述語的一般者」が「変ぜざるもの」の側に来ますが、「物其者が変ずるとは言われない」、「単に一般的なる色や形が変ずるのでもない」、「物の色や形が変ずるのである」(331,4-6)と言われているように、両者が「具体的一般者」として一つとなる所に「変ずるもの」が成立することになります。先程の例で言えば、〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉に於てある、あるいは〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉を含む時、「具体的一般者」が成立し、そこにおいて変化が可能となる、ということだと思います。

A

ですが「同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。我々が一つの物を赤であることもでき、青であることもできると考えることができるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を入れて考えるからである」とありますが。
佐野
そうですね。たしかに我々は赤であると同時に赤でない(青である)、などといわれればどう考えたらよいか分からない。しかし西田は「何故に一つの物が赤であると共に青である(赤でない)ことができないか」、その根源を考えようとします。まず「両者の間に反対性があるから」だ、と。しかしさらに「二つのものが相反するにはその根柢に同一なるものがなければならぬ」と考察を進めます。こうした議論はこれまでも、相異、反対(対立)、矛盾という深化において考察されてきましたね。こうして「同一の類に属して、その種が同じければ同じい程、両者は相反するものとなる」と言われます。

A

どういうことですか?
佐野
まず、類、種、個ということが念頭にあると思います。例えば、人類(類)、日本人(種)、佐野之人(個)ということです。もう一つは、対立は同一なるものがなければ成り立たない、同じ土俵に立つものが対立する、ということがあると思います。

A

分かりました。
佐野
「分かりました」と言われると困りますが。何しろ「どこまでも分からないもの」を相手にしていますから。ですがとりあえずはこれで分かったことにして次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(332頁4~10行目)
佐野
「述語的一般なるものを何處までもその一般性を失わないで之をその内に特殊化していく」、例えば存在→色→青というように特殊化していく。そうすると「最後の種に於て唯一の種差によって異なれるもの、即ち相反するものを含む」、この青とこの青ならざるものを含む〈青〉ですね。こうした「最後の種」(青)を超越してさらに「個物」(この木の葉)に至る。そのさい、「判断の主語と述語との対立から二つの方向を区別することができる、即ち超越すると云うに二つの意義を考えることができる」とされます。どういうことかというと「一つは所謂主語となって述語とならないと考えること」で、これが「quod in se est(それ自身の内にあるところのもの)」です。もう「一つは述語となって主語とならないと考えること」で、これが「quod per se concipitur(それだけで考えられるところのもの)」です。前者が主語・存在の方向で、後者が述語・思考の方向ですね。

B

後者は「絶対の無」ですか?
佐野
究極的にはそうなると思いますが、ここでは〈この青とこの青ならざるもの〉を含む〈青〉で、しかもこの青が抽象的な一般者としての青ではなく、個物(この木の葉)を包む具体的一般者です。「絶対の無」が自己限定した形と考えることができると思います。同様に前者の「個物」(この木の葉)も述語的一般者(青)に於てある具体的一般者です。つねにセットです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(332頁10~13行目)

N

「判断が概念的知識たる以上」とあるところから、西田のあくまで哲学に徹する立場がよく表れていると思います。「全然主語となって述語とならないもの即ち全然述語を失ったものは考えることの出来ないものである」と言ってこれに固執するのが宗教だと思いますが、西田はそれで良しとしない。

S

それでも西田には判断のもととなるものが真理であるという前提があるように思います。
佐野
たしかに我々は判断する場合、それが究極的に真理に基づいていることを必ず前提しますが、それは我々の要請でしかないですね。同じことは『善の研究』において、西田が宇宙(=意識現象)の根本をその統一力としての神(=真の自己)に求めたことについても言えるとお考えでしたね。宇宙が統一されているというのは一面的な見方だと。統一の半面には分裂があると言っても、それが統一力をもとに考えられていると。たしかに西田には強く救いを求める宗教的な側面があり、ここにも西田哲学の特徴がありそうです。

R

「判断に於て真に主語となるものは所謂総合的全体という如きものでなければならぬ」とありますが、「総合的全体」とは何のことですか?
佐野
内容的には、第2段落末の「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして、却って具体的一般者であると云わねばならぬ」と重なると思いますので、「総合的全体」とは「具体的一般者」と考えてよいと思います。ただ何故それを「所謂総合的全体」と呼んだのかが問題となります。おそらくカントの「総合判断」における「総合」を念頭に置いているのではないでしょうか。カントの総合判断はまさに主語と述語を総合するものでした。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(332頁13行目~333頁2行目)
佐野
最初の「此の如き一般者」とあるのは「総合的全体」つまり「具体的一般者」のことですね。それは主語・個物と対立する「単なる抽象的一般概念」ではない、「類概念」ではないとされます。それは「超越的述語面」だとされますが、その「超越」の意味が次に述べられます。何と書いてありますか?

D

「一般が述語として特殊を包むという〔包摂的〕関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かかる形に於て超越すると考えねばならぬ」とあります。
佐野
「かかる形」とは?

D

「一般が述語として特殊なる主語を包む」ということだと思います。
佐野
そうでしょうね。主語の方向に個物へと超越するのと同時に、それに対応して述語の方向に超越して個物を包む「超越的述語面」となる、ということでしょう。最後にこれの述語的一般性の側面が確認されます。「最後の種を特殊化したもの、即ち個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」。今日はここまでとしましょう。
(第101回)
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変ずるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第2段落326頁3行目「右の如く」から328頁11行目「主語とするのではない」までを読了しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」(326頁12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「①時其者を考へるとしても、少くも時を固定して見るのである、時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較するのである」との記述は、キーセンテンスとして上げた文の説明と理解していいのでしょうか。そうだとすると、②「時を固定する要素」を主観的に選定(=時の背後に置く)し、その条件のもとで行えばいいということでしょうか。③「時の関係において変ぜざるものがあるのか」という疑問を持っているので、このような問いになりました」(209字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
問いが三つありますね。まず①から。これはそのように理解してよいと思います。「固定せる要素から成り立つ」「時」が「変ぜざるもの」です。皆さん、いかがですか?特に異論がないようでしたら②に移ります。「行う」の意味が曖昧ですが、これは「現ずるものの根柢に変ぜざるものを考える」ということでよいと思います。これが、西田が「そのように行えばいい」と言っているのか、という質問だとすれば、それはそうではないでしょう。それでは「時其者を考える」(「時其者・時の変化其者を主語とする)ことにはならない、というのが西田の主張だと思います。この点についても、皆さん、何かご意見はありますか?ないようでしたら、③に移りたいと思います。これはどういうことですか?

K

すべてのものは変化のうちにあり、常住なものは何ひとつない、と思うからです。変化を論ずるには、相対的に静止しているものを設定すればよいですが、絶対的に静止しているものはない、ということです。

T

意味は移り行かないものだと思います。もしそうだとすれば語るということが成り立ちませんし、知識というものも成り立たないと思います。

K

意味というのは時の背後に置かれたもので、それは常住かもしれませんが、ここでは「時其者」を考える場合に、そこに「変ぜざるもの」はあるのかを考えたいのです。
佐野
それはどうもこれから西田が論じようとしていることに関わるようですね。ということで、プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(328頁12行目~329頁5行目)
佐野
ここはこれまでのまとめと「二」への移行を論じた部分ですね。少しずつ行きましょう。「時の関係」とは前後・同時・長短のことですね。「その項となるもの」が「性質を有つ」とは、前は青だったが、後は赤である、というようなことです。しかし青や赤は性質であっても「意味」ではない、ということです。価値を含んでいないということだと解釈されます。そうして「意味は他との関係に於て成立するのである」とあるのは、意味は、例えばつねに何々にとってという意味で、他との関係において成立する、ということだと考えられます。ここまでで分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に「併し時の関係は之を性質的に区別することすらできない」と来ます。正しくは「時の関係に於てその項となるものは之を性質的に区別することすらできない」ということでしょう。前後・同時といった関係のうちにあるものはすべて〈今、今、今…〉ないし〈時、時、時…〉というように同質だからだと思われます。これを言い換えて「時に於ける変化を区別するものはその背後に考えられた性質的一般者か、然らざれば時を超越した概念的統一にすぎない」と言われます。327頁7~9行目では「性質的一般者」と「類概念的なるもの」とが同じ意味で用いられていましたが、ここでは「性質的一般者」は「背後」、「概念的統一」は「超越」というように分けて述べられていますね。「性質的一般者」ということで「色」のようなものを考え、「概念的統一」ということでもっと抽象的な、「時の類概念」(328,2)とか、「時間空間質量の数学的函数」としての「力」(327,6)を考えているのかもしれません。確かにこうしたものを置けば、例えば色が青から赤に変わったというように、変化を区別することはできるでしょう。しかしそれでは「時其者を主語として之に述語的性質を加えることはできない」とされます。「性質時」になっていない、ということです。そうして「時の長短否前後ということすら、時の要素について述語するのである」と来ます。

A

この「時の要素」とは前の段落にあった「時の要素を固定して居る」と言われたものですか?
佐野
そうですね。「固定」せる「時の要素」です。

K

いまひとつイメージできませんが。
佐野
前回は時の空間化ということを申し上げましたが、時間軸などにおける各点、時計版における、何時何分といった各点、あるいはカレンダーの日付も考えられると思います。これらについて「時の長短・前後」が述語される、というわけです。

K

分かりました。
佐野
ここからは次の「二」への導入です。「然らば我々が時の変化其者を主語として考える時」、つまり例えば「性質的一般者」を背後に置いてこれについて述語するのでなく、ということですね。その時に「如何なるものを考えて居るのであるか」。次に「如何にして性質時という如きものを考え得るのであるか」とあるのは言い換えですね。ここには、我々が「性質的一般者」や「概念的統一」を背後に置かずに「時其者(時の変化其者)を主語として考える」ことができる、という前提があります。これについては追々考えていくことにしましょう。その場合「時が内面的に性質的区別を有つと云うには、我々が時と考えるものを類として之を分化することができねばならぬ。併し一度的と考えられる時は更に分化することのできないものでなければならぬ、時を内に包み尚之を分化する一般者とは如何なるものであろうか」と述べられて、「二」に移ることになります(後に出てくるように、この「一般者」とは「具体的一般者」であると考えられます)。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(329頁7~13行目)
佐野
初めに「すべて存在するものは時に於てある」とありますが、この「存在するもの」は意味的・価値的な存在ではありませんね。「時に於てある」ような「存在」です。それでは「時とは如何なるものであるか、如何にして我々は時というものを考えることができるか」が次に問題になります。そうして「時を考えるには先ず連続ということを考えねばなるまい」と来ます。さらに「連続というものを考えるには、数学者の所謂集合の概念を基とせねばならぬ」とされます。そうして「連続の概念の根柢に類概念がなければなら」ず、それを数学者は「集合の概念」だとし、そこから「完全集合」として「連続」を定義する、と述べられます。この完全集合は「カントール集合」と呼ばれるそうですが、ここでは立ち入ることはできません。いずれにせよ「併し時は連続の一種であるとしても連続は即ち時ではない」というように、連続から時を考えるやり方は却下されます。「線の如きものでも、一種の連続である」とあるように、空間化された時は時ではない、とされます。そうして「時は変ずるものでなければならぬ」とされ、それでは「変ずるものとは如何なるものであるか」と、再び「変ずるもの」が問題になります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(329頁14行目~330頁8行目)
佐野
「類概念」をどこまでも特殊化すると「最後の種」に達するが、それはまだ「個物」ではない、それが「真に個物」となるには「主語となって述語とならない」と云うことが「附加」されなければならない、と言われていますね。「佐野之人」は個人(個物)ですが、これは決して述語にはなりません。「佐野之人は〇〇である」とは言えても、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「2025年6月に山口西田読書会の進行役をしているのは佐野之人である」というように、個人を特定することはできますが、それは「佐野之人」の一面にすぎません。「〇〇は佐野之人である」と言えるためには、「佐野之人は〇〇である」という言明に無限の述語が可能である(語り尽くせない)のと同様に、無限の主語を必要とすることになりますから、「〇〇は佐野之人である」とは言えない、ということになります。

T

名前があれば個物を言い表せる、ということですか?
佐野
名前で呼ぶことによって、相手を個人(唯一無二)として扱うということはありますが、名前が個物そのものではないでしょう。名前は「私(これ)は佐野之人です」というように、述語の側に来ますから。「私(これ)」の「〔一つの〕名前」という側面にすぎません。この場合の個物はまさに主語の「私(これ)」です。ですが「私」と言えば誰もが「私」ですし、「これ」と言えばどれも「これ」です。言葉は一般的なものしか言い表すことができません。「唯一無二の私(これ)」と言っても、どれも皆「唯一無二の私(これ)」です。こうした〈一般としての個〉に対して、〈個としての個〉と言っても、やはりどれも皆〈個としての個〉です。言い表せません。我々はこうした個に出会うときには、絶句(言葉を失う)ほかはないことになります。「主語となって述語とならない」には「言い表せない」ものが立ち現れている、という絶句の事態が籠められています。テキストに「主語となって述語とならないと『云う』ことが附加せられねばならない」とありますが、これはまさに絶句の事態を敢えて言葉にしたものと考えることができます。「是に於て最後の種は即ち個物となるのである」とありますが、これは単に「主語となって述語とならないと云うこと」を「附加」すればそうなる、というような操作を言っているのではないと思います。次に「概念の特殊と一般との関係」とありますが、これは論理的な関係ですね。それと「判断の主語と述語との関係とは不可分離的であると共に、単に之を同一視することはできない」とあります。その理由が次に述べられていると考えられます。何とありますか?

C

「主語となって述語とならないと云うことによって、我々は所謂特殊化によって達することの出来ない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」とあります。
佐野
概念の特殊と一般との関係では達することの出来ない「尖端」に、判断の主語と述語の関係が到達できる、というのです。それはまさに「云う」ということ、述語できない(語れない)と「云う(語る)」ということによってだ、ということです。ここには明らかに突破・超越がありますね。そうして「斯くして個物の概念に達した時、一般的なるものは個物の属性として此に於てあるものとなる。縦、ソクラテスの性質は他と共通なるものであっても、それはソクラテスの性質として唯一のものでなければならぬ」と言われます。塩も砂糖も白い、その意味で「白さ」は一般的ですが、「この塩の白さ」は砂糖の白さとも、他の塩の白さとも異なる個別的なものになります。それでは次をⅮさん、お願いします。

D

読む(330頁8~13行目)
佐野
ここでは「個物というものを考えるには、之を一般概念の埒外にまで進めねばならぬ」が、「併し判断が如何にして一般概念を破ってその外に出ることができるであろうか」と、上で述べられたことが改めて問いとなっています。上ではそれを判断の突破・超越と解釈しました。次いで「全然一般概念を超越するならば判断の主語となることもできない、何等の意味に於ても判断的関係に入ることはできない」とあります。まさに「絶句」ですね。たんなる判断の突破・超越では絶句にしかならない、ということでしょう。そこで「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして」、つまり「概念の特殊」ではなくして、「却って具体的一般者であると云わねばならぬ」。出て来ました。「具体的一般者」ですね。特殊と対立するのでなく、特殊を包む一般者のことです。ここでは「主語となって述語とならない個物を包む一般者」のことですね。先程の話で言えば、「主語となって述語とならない(言い表せない)と『云う』」ことによって、そうした真の判断の主語が具体的一般者として立ち現れていることになります。一旦判断の外に出て、改めて(別の)判断に戻ってきた形です。そうして西田としては、この「真の判断の主語」がその他のすべての判断の根柢にあることになります。こうして「個物」は語り尽くせないものとして立ち現れることになります。次をEさん、お願いします。

E

読む(330頁14行目~331頁)
佐野
西田はこの「具体的一般者」という「右の如き考」から「変ずるものというものを考えることができる」と考えているようです。その内実はまだ分かりません。見て行きましょう。「変ずるものは反対に移り行かなければならぬ」が、「変ずるということ」の「根柢に変ぜざるものがなければならぬ」と以前述べられたことが繰り返されますが、この「変ぜざるもの」こそが「具体的一般者」だというのでしょう。しかしどういうことか、慎重に見て行きましょう。具体例が出ていますね。どうなっていますか。

E

「赤が青に変ずると云っても、赤其者が青となるのではない、色が変ずるのである、色が変ずると云っても、色の一般概念が変ずると云うのではない」とあります。
佐野
では何が変ずるというのでしょう。読者のはやる気持ちを抑えるように、まず何でないかが語られます。最初は主語的方向に「物其者」を考え、次いで述語的方向に「一般的なる色や形」を考え、どちらも「変ずるもの」ではない、と却下します。そうして「物の色や形が変ずるのである」と述べます。これは納得できますね。次いでこれを言い換えて「主語となって述語とならないもの」すなわち「個物」が「又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなるのである」と述べられることになります。これはまさに個物を包む一般者ですから、具体的一般者ということになるでしょう。今日はここまでとします。
(第100回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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