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悪の起源はどこにあるか

ヂ:本日の哲学的問は「直観の有において悪は存在するか。悪の起源はどこにあるか」です。:ヂ
A:直観は純粋経験でもいいですか。
―ええ。
B:純粋経験は判断以前ですから、善も悪もありません。判断のないところには悪はありません。
A:『倫理学草案第二』(『善の研究』の基となる講義の前年度に行われた講義)の「宗教論」の最後が「原罪」で終わっていましたね。
―ええ。
A:それから日記が書かれていないんですよね。でも何かを達観した、見神の事実というか、それで『善の研究』を書くことができた。
―純粋経験において悪はあるかという問題はどうなりますか。悪や罪の問題とどうつながるか、そこのところを考えてください。
A:私はどうも展開が苦手で・・・
C:最終的なところでは絶対善を認めざるを得ないのではないか。逆に言えば悪を認めることはできないのではないか。
D:絶対善があるなら絶対悪もあるのでは。原罪を抱えるような人間を創ったのも神ですから。神性の悪って言うんですか。だとすれば神は善も悪も備えていてそれで完全です。
―我々の事柄として考えてみましょう。西田は『善の研究』第4編第4章で一方では絶対的な悪はない、この世は絶対的に善だと言いながら、他方で「悔い改められたる罪ほど世に美しいものはない」と言っています。これをどう考えるか。
E:善と悪は完全に等価です。罪は憎むべきものとさえ言えないと思います。
―そうですか。罪は辛いですよ。直視することすらできない。
A:「罪を知る」という表現もありますね。
F:私は悪が何であるかが分かりません。やはり純粋経験では善も悪もないのでは。
C:ええ。悪も善もそこから出て来ます。純粋経験にいられないから。純粋経験は厳然としてあり続けるのに、我々はそれに届かない。これが悪です。
G:純粋経験は発展する活動です。動的一般者という言葉も次の時期には表れてきます。それを見る立場においてはすべては程度の差になります。善悪もそうです。量的な差にすぎません。
―「程度の差」というのは第1編第1章見られる表現ですね。高橋里美がこれを批判した。もともと純粋経験は判断以前だったのに、判断も純粋経験だというのに使われている。そんなことを言ったら純粋経験の概念が曖昧になると。
D:すべてが相対的だというお話ですが、判断こそが相対的ではないですか。直観においては悪はないと思います。
G:いえ。純粋経験の内にも矛盾は含まれていると思います。
H:私も純粋経験はスタティックなものではなくダイナミックなものだと思います。文化や時代によって悪の概念は変わりますが、悪というもの、それが何であるかは分かりませんが、それはあると思います。仏教では不飲酒戒というのがありますが、これは普遍的とは言えない。ですが不殺生戒、つまり人を殺してはいけないというのは普遍的だと思います。
E:戦争のときは違いますよ。
―盛り上がってきましたが、今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。

悪は存在するか

ヂ:本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。この問いの背景は『善の研究』第3編第13章に「アウグスティヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」「また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った。影が画の美を増すが如く、もし達観するときは世界は罪をもちながらに美である」(岩波文庫版217頁)です。それでは始めてください。:ヂ
A:こう言ってしまえば言葉がありませんね。
B:でも西田は「罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない」(同256)とも言っています。
A:完全なる神が人間を創った。その人間が罪を犯すというのは矛盾じゃないですか。
―その罪があるから「世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深淵となるのである」(同257)と書かれています。でも悲惨な事件などを目の当たりにするとそんなこと言っていられますかね。
C:必要悪みたいで、安っぽく聞こえます。善は至誠でなしうるというのなら、至誠なんてほとんどの人ができないのだから、この世はほとんど悪だとも言えます。
A:善なる人も少しはいるということですか。
D:善悪は状況によっても異なると思います。いじめは悪いことですが、いじめた者に逆にひどい攻撃をすれば今度は攻撃した人が悪となります。絶対的善は想像しにくいです。
―でも西田は人はたとえ芸術家でなくても、美を理解できるように善を理解できるとも言っているのだけれど。
D:どこかで知っていたとしてもはっきりは知らないのでしょう?
B:宮沢賢治が人が善を求めるのは鳥が飛ぶのと同じだと言う一方で、人は誰でも悪を求めるとも考えていたみたいです。どうやら人間は矛盾したものをもっているようです。
C:悪って何だろう。
B:『善の研究』はそのタイトルにも拘らず悪についてあまり書いてないように思います。
D:いつも誰かを傷つけているし、命をいただいている。存在すること自体が悪ではないのか。
―『善の研究』では「至誠」を尽さないのが悪でした。自らを欺かずベストを尽くすのが至誠です。
D:それなら無理です。
A:偽我から至誠を尽して真の自己へという方向があるのなら、やはり何故最初に偽我があるのかが問題になります。完全なる神がチョンボして創ったのに、その罪を人間に擦り付けて悔い改めよ、というのはおかしい。
E:西田は神がこの世を創ったとは言っていませんよ。表現だと。
―悪や罪の問題はわが身に引き付けて考えることが必要だと思います。頭で考えるだけでは深まらないですから。
F:悪はありません。善が出てくれば悪もあります。いい奴もいれば悪い奴もいる。悪い奴ほど面白いものはない。人殺しも悪とは言えない。至誠で殺すこともある。他人はそれを判断できないと思います。
―自分ではできるのですか。Dさんはできないと言っていましたが。それに至誠なら神意と冥合するとも言われています。これは考えようではとても危険ですよ。
F:難しい問題だと思います。軍隊はそのように思いやすいですね。京都学派の問題でもあります。私はそれを憎みますが、神の目から見たら善かもしれません。
―本当に悲惨な状況を目の当たりにしてそのように言えるか、ということがありますね。
C:悪については起こっていることと、その意味を区別すべきなのに、ここではそれがなされていないし、内心の善と外に現われた善との区別もないように思われます。
―西田は区別していますね。起こっていること、これは原因結果によって起こります。しかし価値はそうではない。よく例に上がるのが彫像や画です。物質的に出来上がっているものの内に理想を見る目を養うことが問題となります。そういう目には世の中に悪はない、ということになります。それと内心の善と外面の善ですが、西田は道徳としては内面の善しか問題にしません。たとえ内面は自分のことを考えていても人の為になったというのは道徳ではないと。つまり至誠だけが問題なんです。ですが自分が至誠であったかについて、イエスと答えることができるのか、そうした問題です。
C:イエスともノーとも言った段階で至誠ではありませんね。だからこの世は悪しかない。
G:悪を目的とするのではないけれども、それでもぶつかってしまうのが悪で、それを克服することで至誠に至れる、と考えていた時期がありました。実在が矛盾衝突を通して発展すると書いてありましたので。でも今読んでみるとどうも納得ができない。
―今の関心で読むしかないですからね。それにもっともらしい答えが出るといかがわしく思うというのもありますよね。今日はこのくらいにしておきましょう。

真にあるものは個物か、普遍か

ヂ:お久しぶりです。夏休みも終わり読書会が再開されました。今回は哲学的問に先立って、この「読書会だより」の愛読者より、以前(4月6日)の「より良い自分と本当の自分」の記事をご覧になった感想をいただきました。とても面白いのでご紹介させていただきます。:ヂ
T(読者):少し前の話題になりますが。「自己」と「自我」の違いについての個人的体験を、恐縮ながら述べさせていただいてよろしいでしょうか。それは、ユング心理学に影響されて「夢日記」をつけていた時期を通じて、何となく体感されるようになりました。表面的な自我が、日頃にああしたいこうしたいと思っていることと、夢全体が指し示す自己の方向性には、常にズレがあることがだんだんわかってきたのです。そして、体性感覚を研ぎ澄ますことによって自分の身体の重心を感知する術があるのと同様に、内的感覚(とでもいうようなもの)を研ぎ澄ますことによって自分という雑多な要素の集合体の重心を感知する術があるのでは、そして自己とはそのような重心のことを言っているのでは、と考えるようになりました。そうすると自我は自己の周辺にあって「空回り」するだけの存在かというと、そうでもないようにもかんじています。自我の浅薄な「ああしたいこうしたい」も、自己がその目的を達成するための布石となっているように見えることもあります。そのような視点を得てからは、かえって「自分らしさ」を意識するようなことはなくなりました。
ヂ:「自己」と「自我」を体験を通して考えていること、それと「自分らしさ」を意識しなくなる過程がとても面白いと感じました。皆さんはどのようにお感じなりましたか。Tさん、貴重なコメントありがとうございました。それでは本日の哲学的問です。本日は「真にあるものは個物であるか、普遍であるか」でした。:ヂ
―プラトンとアリストテレスを念頭に置いた問ですね。今ちょうど話題になっていますから。
A:真にあるものは個物です。真にあるもの、普遍、全体というようなものを頭でイメージできるところが怪しい。何故そのようなものが立てられるのか。指し示した段階でそれは普遍ではないと思います。
―普遍をどのようにお考えですか。
A:それは分かりません。
―イデアのようなものですか?
A:三角形は分かりやすいですね。それは約束、定義のようなものです。
―大のイデアはどうでしょうか。約束や定義とは違いますね。
A:ですがすべてのものについてイデアがあるとは・・・
―それでは何故個物が真にあるものといえるのですか。
A:受け止めている範囲があり、何かを指し示しているからです。これは普遍ではない。全体は足し算にすぎないと思います。何を言ってもその外というものがあるからです。ですから普遍はありません。
―Bさん。何か言いたそうですね。
B:発言してもいいですか。真にあるものは普遍です。プロチノスの一者です。それ以外はみな偽物です。ですが、一者から流出したものも、その限りで本物です。これが宇宙の真実です。
C:私は個物のみが実在だと思います。自分、現在という一点において接しているものだからです。「この赤い花」こそが実在で、赤い花一般は実在ではありません。
―でも、私が赤いチューリップをもっていて・・・
C:先生はいつもチューリップですね。
―Cさんは何がいいですか。
C:薔薇です。
―ではCさんが薔薇をもっていて、それぞれに「この赤い花」といっている。「この」とか「個物」というのも普遍ということになりませんか。つまり言葉にした時点ですべては普遍ではないでしょうか。
A:私は言葉に過度の期待はしていません。言葉にするとすべて普遍になるというのは言葉の影の部分にすぎません。場面から切り離すともちろん普遍になり、そこに文芸などの面白さがあるわけですが、言葉は状況の中にあると思います。
―そうした状況を私たちは共有できると?Dさん、何か言いたそうですね。どうぞ。
D:文脈を離れて言葉は意味をなさない、というのは分かります。しかし文脈100パーセントととなるとどうでしょう。例えば岩と砂の辞書的な意味はあるわけですから。
A:バカや利口にも辞書的な意味はありますが、「おまえはバカだ」「おまえは利口だ」の意味は文脈による以外にないと思います。
D:ですが、辞書的な意味のような何かがなければ文脈は成立しません。
A:言葉を取り出せば、それは別の文脈の中に置かれることになります。つまり、私が言いたいのは犬がワンという方が真理を見ているのではないかということです。声に出して言葉にする本の方に言葉の本質があるということです。
―言葉にならないところと言葉にしたところという問題になってきましたね。テキストもその問題を扱っているようですので、この辺りでテキストに入りましょう。

「在りて在るもの」とは何か

ヂ:今回の「哲学的問い」は「『神はあってあるもの』という言葉を聞いたことがある。これは哲学の問いなのか。この『ある』は以前の哲学的問の『ある』ということなのか」でした。:ヂ
―以前の哲学的問の『ある』ということをどのように理解されていますか。
A(出題者):以前は神を信じている人には神はあり、そうでない人には神はないと思っていましたが、神があるということはそんなに簡単ではないと思ったのです。
―この「神はあってあるもの」というのはモーセの出エジプト記に出てくる表現ですね。「ありてあるもの」とも訳されています。どう考えましょうかね。Bさん。西田ではどうですか。
B:実在の根柢にして自己の根柢です。呼び声なんですが、通常は聞いても分からないものです。むしろ我々は神を失ったところで真の神を見ると言えると思います。対象化偶像化はできないもので、出会うことによって私たちに感動を与えるものです。主観を破ったところで出会うものだと思います。その意味では体験の事柄です。海の中に飛び込むと最初は真っ暗で気持ちが悪い。そんな中で考える自己がなくなっていく、そんな感じです。
―「ある」ということは「体験」に根拠を持つものだと。
C:体験より先に神と合一しているのだと思います。生かされて生きているというのは「事実」だと思います。そのことは「体験」によらずにあることだと思います。
D:でも信仰があっての神ではないですか。
―その信仰が自分から起こした信仰と言い切れるでしょうか。神からいただいたものという考え方もあると思います。
D:そうなると、信仰するしないの選択も神によってなされることになってしまう。そこにはやはり人間の決断というものが不可欠だと思います。
C:そうではなく、意識しないほうが神に近いのだと思います。意識にはかかわらないことです。
―そうだとしてもそのことは気づきがなければ分かりませんね。しかし自らの体験を根拠にできないものとして体験されている、そういうことも言えるのではないでしょうか。大きな問題です。今日はこのくらいにしておきましょう。

哲学体系を用いて思想を語る不自由

ヂ:今回の「哲学的問い」は「西田が西欧の哲学体系を用いて己の思想を語るとき、語りえないことや不自由さに直面しなかったのだろうか」でした。:ヂ
―西田への質問ですか。もう少し説明してください。
A(出題者):エイドス、ヒューレーなどこれまでになかった新しい概念に出会ってこれをストンと分かることなどあるのだろうか。しかも西田はそれらを自由に使いこなし、自分流に理解してそれで自分の思想を展開している。文学ではとてもあり得ないことだ。やはり西田は天才ではないだろうか、そういう質問です。
―それでは、西田が西洋の思想に直面して不自由を感じなかったか、その辺から議論を始めましょう。
B:不自由に直面していたと思います。だからこそ今読んでいる「内部知覚について」でもアリストテレス解釈で苦労しているんだと思います。西田哲学の根本は禅だという人に対して西田は強い口調で否定したそうです。西田は自分の思想に禅でもない、西洋でもない独自のものを見ていたんだと思います。
―ならば批判してしかるべきでしょう。ところが西田はアリストテレス批判を行ってはいませんね。むしろアリストテレスの土俵の中に入って行って、それを自分の土俵の中に取り込んでしまうような、そんな感じです。
A(出題者):夏目漱石はoccupyという語に接し、それを深く考え込んでしまった。所有についての日本人の甘い考えを思い知らされたんです。異質なものに接するとそういう問題にぶつかるはずですが、西田にはそれが感じられない。
―確かにそれは言えますね。西田はたとえばアリストテレスの思想の中に自分が考えるべきものを見ていたのではないでしょうか。自分が考えるべきもの、それが何であるか、西田自身にも分からない。アリストテレスの思想が何であるか、それも分からない。ですがそこに何かが見えていた。
C:ミュージシャンが新しい曲を作るとき、ディレクターならば何々みたいな曲、と言ってしまうところを、そういうものにとらわれずにストレートに反応するんですね。それに近いものを感じます。
―それでは、今日はあまり時間もありませんから、さっそくその西田が見ていたものを考えることにしましょう。