変ずるものと生滅するもの

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」冒頭から第3段落、348頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯、積極的に限定することのできない具体的一般者に於てあるものが部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考へられるのである、物理現象とはかゝる意味に於ての連続に外ならない。」(347, 2-4)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「物理現象」において、「時に於てあるもの」を主語として「性質的述語」が付加されるとき、この主語となるものは、「時の一般者に於てある」のではなく、「時を包む一般者に於てある」とされます。そして、「時を包む一般者に於てある」とは、「変ずるもの」、あるいは「内容を有つた時」と同義です。このとき、「物理現象」を単に「時に於てあるもの」とするならば、「物理現象」において、「変ずるもの」をどのように考えたらいいのでしょうか。」(208字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はYさんの質問内容が議論中にはよく分からなかったので、たぶんこういうことではないかという後からの反省によって構成してあります。
佐野
「物理現象」が「単に」「時に於てあるもの」とするならば、それは「変ずるもの」ではない、ならば「物理現象」において「変ずるもの」をどう考えたらよいか、という質問ですか?

Y

そうです。
佐野
たしかに「物理現象」は「時に於てあるもの」で、それはもはや「変ずるもの」ではありません。

Y

そこが分かりません。「物理現象」ももとは「変ずるもの」ではないのですか?
佐野
ええ。そうなんですが、「変ずるもの」そのものは知的直観されるもので、判断の対象とはなりません。これを対象にしてこれについて判断しようとすると違うものとして我々に対して現れることになります。対象はもはや「変ずるもの」ではなく、感性的直観という内容的(=主語的)にいかなる意味においても限定できないものになり、主観ももはや「知的直観」ではなく、形式的(=述語的)にいかなる意味においても限定できない単なる形式としての思惟(意識一般)となると考えられます。そうして時について考える場合、それが「時の一般者」ないし「形式的時」となる、そのように解釈できます。

A

それだと「意識一般」が「時の一般者」へと限定されていることになりませんか?
佐野
難しいところですが、カントに倣って西田は、「意識一般」が感性として働く場合の形式が時空、悟性として働く場合の形式がカテゴリーと考えているようで、しかも判断(認識)の場合、感性と悟性が同時に働いていて、両者を切り離すことはできないと考えていると思います。また時間が「一般概念」ではないことはカントが明確に主張していますし、西田も「時の一般者」は限定できない、限定すればアンチノミーに陥る、と述べています。そう考えるならば「意識一般」が時間に関して働く在り方が「時の一般者」だと解釈した方がよいと思います。

Y

その場合でも対象はまだ「物理現象」ではないですよね。
佐野
ええ。感性的直観が「物理現象」になるためには、それがさらに「部分的に限定」されなければなりません。この「部分的に限定」が具体的に何かは、これも解釈になるのですが、後を読むと「感覚的性質一般」という「一般概念」による限定であると考えられます。「変ずるもの」は今「感性的直観」という姿をとっていますが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定しようとすると、例えば赤はただちに赤ならざるものになっています。これは「時に於て」感性的直観を見ているからですが、それによって「一種の連続」が生じることになります。

Y

そうなるのは「物理現象」がもともと「変ずるもの」だからですよね。
佐野
ええ。そういうことになりますが、「変ずるもの」そのものは、知的に直観されるのみで、それについては何とも言えない、西田はそのように考えているようです。これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定し、かつ、これを「時の一般者」に於てある、と見ることで初めて「物理現象」となる、そのように考えているようです。

Y

その意味では「物理現象」は「単に」「時の一般者」に於てあるわけではないですね。
佐野
ええ。「一般概念」による限定がなければ成立しません。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(348頁10行目~349頁2行目)
佐野
まず「物」は「抽象的一般としては限定することのできないものである」とあります。物自体は知的に直観する外はない、それについては何とも判断できない、ということでしょう。それを受けて「併し」と来ます。「判断的知識の根柢には何等かの意味に於て一般的なるものがなければならぬ」と述べられます。これを言い換えてさらに「我々が抽象的一般を越えたもの」、物(個物)とか「変ずるもの」ですね、「これを主語として判断する以上、かかる判断の基礎となる一般者がなければならぬ」、と述べられます。

A

この「一般者」は判断の「基礎」として、判断以前の所では絶対無と考えてよいですか?
佐野
そうですね。抽象的一般を越えたものを包むものは絶対無ということになると思います。そうしてそれが判断の基礎となる、という読み筋は可能だと思います。次に「是に於て」、抽象的一般を越えたものを主語として判断する場合、ですね。今度は明確に判断の場合です。「抽象的一般と考えられたものが、超越的述語面の限定せられたものとして、具体的一般となる」とあります。

A

「超越的述語面」とは「意識」と考えてよいですか?
佐野
いいと思います。「抽象的一般を越えたもの」つまり「物の概念」(物自体)と、「超越的述語面」(意識一般)の対をまず考え、それが限定された場合が考えられています。こうした限定によって「物の概念」は「(物理)現象」となり、「抽象的一般」は「具体的一般」になる、そのように言われています。

A

どういうことですか?「物の概念」の例として「赤きもの」が挙がっていましたが、この場合の「抽象的一般」とは「性質赤」ですね。この場合「物の概念」が「現象」になるとはどういうことですか?
佐野
「物の概念」とは本来何とも言えないもののことです。「抽象的一般」を「性質赤」とするならば、それが具体的概念になるとは、それが「この赤」となることで、「物」が「赤きもの」になることだと思います。

A

それがどうして「(物理)現象」になるのですか?
佐野
当然の質問だと思います。明らかにここでの西田は言葉足らずです。その点についてはすぐ後で、「知覚の世界」と「物理現象界」とを区別して説明しています。「具体的概念」を「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)の同一性のうちに見るのは「知覚の世界」の見方です。「AがAである」という「肯定的述語面」において「変ずるもの」を見た場合です。しかし「変ずるもの」はそれだけではない。肯定にして否定。この否定面が言い表わされていません。「AがAでない」、「この赤」が「この赤でない」、この側面を言い表すのが「物理現象界」です。というわけで次を見てみましょう。「かかる考え方によって、物理現象界とは感覚的性質一般を主語となって述語とならない基体となす具体的一般者によって成り立つと考えることができる」とあります。

A

どういうことですか?
佐野
「感覚的性質『一般』」とあるのがポイントだと思います。この場合、色について言えば、「赤」だけではなく、「赤ならざる色」も含みます。これを「主語となって述語とならない基体」、つまり「個物」ですが、これはこの赤がこの赤ならざるものへと変化してしまう、そうした個物です。つまり「感覚的性質一般」をこうした「個物」となす「具体的一般者」によって「物理現象界」が成り立つというのです。「換言すれば」とありますね。「(物理現象界とは、)感覚的性質一般という如き一般概念によって限定せられた超越的述語面に於て見られる」とされます。同じことが述語面について述べられています。さらに言い換えが続きます。「即ち(物理現象界とは、)限定することのできない述語面」、「超越的述語面」ですね、そうした「述語面に見られる変ずるものを、感覚的性質一般という一般概念によって限定して見たものである」。これについてはすでに先取りして申し上げておきました。次をBさん、お願いします。

B

読む(349頁2行目~12行目)
佐野
ここから、先程述べた「知覚の世界」と「物理現象界」の区別が述べられます。「感覚的性質一般を基体となす具体的一般者に於て、その主語面と述語面とが合一して居ると見られるかぎり、単なる知覚一般の対象界という如きものに過ぎないであろう」とあります。物と性質が、「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)において合一する場合のことです。現在において「この赤」はただちに「この赤ならざるもの」へと変化していますが、知覚の世界ではそこは問題にしません。これに対し「限定のできない超越的述語面に於てあるもの、即ち変ずるものを、感覚的性質一般の概念によって限定した時、物理現象界が見られるのである」とあります。「限定のできない」は、「超越的述語面」と「に於てあるもの」の両方にかけて読んだ方がよいと思います。「知覚の世界」の場合には、主語面も述語面も「限定できる」という立場に立っています。「この物は赤い」ということですね。しかしこの「限定」が主語面においても述語面においても否定される。この場合それを「感覚的性質一般の概念によって限定した時」どうなるかと言えば、限定できない、この赤はこの赤ならず、AはAでない、ということが出て来ます。そこに「物理現象界が見られる」とされます。ここまでのところ、何か質問はありますか?

B

何とかついていけています。
佐野
次に進みましょう。「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできないが」ということわりを入れた上で、「具体的一般者の超越的述語面を右の如き一般概念を以て限定すると云う時、それ」つまり、限定された超越的述語面ですね、「それが単なる肯定的述語面である場合は、知覚の対象界という如きものに過ぎない」とされます。「肯定的述語面」とは述語面が否定を含まないということです。AがそのままAである、ということです。これに対し、「それが否定を含む矛盾的統一面である場合は、物理現象界の如き働くものの世界が見られねばならぬ」と続きます。「矛盾的統一面を含む」とは、Aが同時にAでない、ということです。Aが同時にAならざるものである、ここに働くものが見られる、というのです。次いで「矛盾的統一」とあるのは、「限定のできない」ということ、つまり「Aが同時にAでない」、という事態を指していると思われます。それは「否定を含む一般者に於て成立する」とされます。「知覚の世界」における「一般概念(感覚的性質一般)」は否定を含まないが、「物理現象界」における「一般概念」は否定を含む、ということですが、これが「一般概念」を「時の一般者」に於てある、と見ることだと考えられます。

B

「知覚の世界」の場合には個々のものを「時に於てある」とは見ていないことになるのですか?そうだとすると、「変ずるもの」を単に「感覚的性質一般」という一般概念によって限定した時に現れるのが「知覚の世界」で、「変ずるもの」を「感覚的性質一般」という「一般概念」と、「時の一般者」という「一般概念」によって限定した時に現れるのが「物理現象界」だということになりますね。そうなるとやはり「時の一般者」というもの自体が限定された「一般概念」ということになりませんか?
佐野
西田がカントの思想を踏まえているとするならば、時間は「一般概念」ではありえないし、繰り返しになりますが、西田も「時の一般者」は限定できない、とはっきり述べています。では何なのか、といえば、やはり純粋直観、ないし感性的直観の形式ということになると思います。少なくとも西田がここで論じている物理現象がそこにおいてある「時」とはそうしたものだと考えられます。また西田が、時空の形式を抜きにした認識は不可能とするカントの思想を踏まえているとするならば、「時の一般者」抜きの認識はありえない。ことに「知覚」が時の形式抜きに成立するとは考えにくい。その意味でも単なる形式としての「意識一般」の一つの在り方(時に関する在り方)が「時の一般者」である、と考えるべきではないかと思います。

B

それでは「知覚の世界」と「物理現象界」の区別はどうなるのですか?
佐野
「変ずるもの」を判断する際に、どちらも「時の一般者」に於てあるのですが、「知覚の世界」の場合には、「AがAであると同時にAでない」のうちの「AがAである」の側面において成立し、「物理現象界」の場合には「AがAでない」の側面において成立する、と考えて見たいのです。とは言え、西田も「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできない」としていますので、推測はこのあたりに止めたいと思います。次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?

B

「矛盾の根柢には一つの類概念を見ることはできないと考えられ、矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられるであろう」とあります。
佐野
これまで論じられてきたのは、「知覚の世界」にせよ、「物理現象界」にせよ、「感覚的性質一般」という限定された「一般概念」内での話です。西田は「物理現象界」においてすでに「矛盾的統一」が成り立っている、と言ってしまったのですが、じつはこれは勇み足で、「矛盾は限定せられた概念の外に出ること」だ、というのが厳密な言い方になります。「考えられるであろう」とありますが、これは西田の主張でもあります。

B

どうしてそのように言うことができるのですか?
佐野
これまでも同じようなことを西田は繰り返し述べているからです。例えば『働くもの』の中に「矛盾は相異の極致である、二つの概念が互に相矛盾すると考える時、亦此両者を包む何等かの客観的統一がなければならぬ、之によって二つの概念が矛盾すると考えられるのである。此の如き客観的統一は単に特殊を包摂する一般概念という如きものではない。或一つの概念に矛盾する概念を考えるには、我々はこの概念を越えて外に出なければならぬ、相矛盾する概念を統一するものは自己自身の否定を含むものでなければならぬ」(190,9-14)という叙述があります。上の「限定せられた概念」がここで言う「一般概念」です。そしてここに出て来た「相矛盾する両者を包む客観的統一」が、絶対無の場所において成立する具体的一般者だと考えられます。

B

「変ずるもの」は矛盾ではないのですか?
佐野
これも厳密に言えば、「真に変ずるもの」はすでに「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」ということになります。これまで西田が「変ずるもの」と呼んできたものは「生滅するもの」と言い換えていいと思います。

B

何故「生滅するもの」と言わなかったのですか?
佐野
これも推測の域を出ませんが、「物理現象」の根柢を論じようとしたからではないかと思われます。

B

「変ずるもの」と「生滅するもの」はどのように異なりますか?
佐野
そこにおいて変化が生起する「一般概念」が残るかどうか、だと思います。例えば或る人が教養のない状態から教養を身に着けたとして、これは変化ですが、この変化の基体としてここには「或る人」という「実体」があります。「或る人」はもちろん死ということを免れません。その場合でも「質料」というものを考えれば、その上で生死も含めた変化を論ずることができます。あるいは赤から赤ならざるものへ変化した、という場合には「色一般」が変化の基体となります。

B

「生滅するもの」はどうなりますか?
佐野
そうした限定せられた「一般概念」がなくなる場合に成立すると考えられます。生即滅(死)、有即無、の「即」に当たると思います。もちろんこの「即」を実体化してはいけません。それではまたしても変化になってしまいますから。西田は、概念相互の関係に「相異」と「相反」と「矛盾」を考えていて、「生滅するもの」はこの最後の「矛盾」の段階で成立します。同じく『働くもの』191頁9行目~192頁5行目を、Cさん、読んでください。

C

はい。「或一つの肯定的なる概念に対しては、之と異なれるもの、之に反するもの、之と矛盾するものとを考えて見ることができる。相異なれるものの統一として、その背後に物という如きものを考えることができる、色と音とは相異なるものであるが、一つの物が色を有ち又音を有つことができる。之と共に主観的には一つの類概念を以て統一することもできる、例えば、色も音も感覚的性質という一つの類概念に属するのである。相反するものは、時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない。併し相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ。相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない、縦、時の考を入れても、一つの物がその矛盾せるものに移り行くと云うのは消滅ということでなければならない。矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ。」
佐野
ありがとうございます。そこまでで結構です。「変ずるもの」は狭義にはこの「相反」の段階に見られるものです。「変ずるもの」と「生滅するもの」の区別については後でも出て来ますので、今回はこの位にして、後一文残っていますね。「併し斯く考え得るかぎり、その背後に否定を含んだ一般者がなければならぬ、否定の肯定がなければならないのである」。「斯く考え得る」とは何を指すのか。おそらく「矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられる」を受けているでしょう。端的に言えば「矛盾」が考えられる、ということです。矛盾が考えられる以上、「その背後に」、つまりそうした「考え」の背後に、「否定を包んだ一般者」がなければならぬ、否定の肯定がなければならない」、ということだろうと思います。

C

この「否定の肯定」は絶対無ということでしょうか?
佐野
そうですね。有無の対立を絶した絶対無。あるいは「即非」ということだと思います。『働くもの』ではこれが「客観的統一」と呼ばれていました。どちらも「なければならぬ」という言い方がなされていて、単なる「要請」とも読めますが、それだけではなく、これは体験(知的直観)の事柄でしょう。今日はここまでとします。
(第113回)
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時と物理現象との関係

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第7段落を読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考へられるのである。」(345, 14-346, 1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田によれば「現在はいつでも否定的である」。現在は、「今」あるいは「これ」と意識されたときには、常に取り逃がされている。私がどれほど「これ」をつかんだと思っても、それは意識された現在であり、既にそれは過去になっている。このことを理由に、西田は「時は流れるものと考えられる」と言う。たしかに、時は流れるものと言えそうである。だが、このように言うとき、西田は、時自体を対象化しているように、すなわち、流れる時の外にいるように思われる。このように言う者は、時においてどのようにしてあるのだろうか」(245字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「このように言う者」は「流れる時の外」にある、とありますね。答えは出ていませんか?

W

それが同時に「時において」ある、ということを問題にしたいと思います。
佐野
まさに矛盾的存在ですね。

T

時は見えないもので、これを捉えることはできないと思います。「流れる」というのも比喩で、こうした比喩でしか語れないのが時だと思います。記憶をなくした者にはそうした「流れ」は分からないでしょう。記憶と記憶を結びつけて時が流れている、というように譬えるのだと思います。記憶自体は時の外です。超新星爆発が観察されても、それははるか昔の出来事です。この場合は長い時間のスパンがありますが、同じことは目の前のものを見ている場合にも言えると思います。目の前の出来事はすでに一瞬前の過去の記憶です。こう考えると、私たちの記憶だけでなく、あらゆる知識が時の外にある、と言えると思います。

Y

時は「形式的な時」で、その根本に「内容ある時」つまり「変ずるもの」があり、これは直観によって捉えられるというのが、西田の主張だと思います。
佐野
つまり、我々は時の根源を直観において生きていると。

N

「反省の極致」という表現に注意すべきだと思います。そこにおいて我々は真の時間をつかむことができるのだと思います。
佐野
「極致」と言う以上、それはもはやたんに反省とは言えないのでは?

N

それでもあくまで「反省の極致」ですから、反省を捨ててはならない。

Y

Wさんにお伺いしたいのですが、リトマス紙が変わった瞬間は現在ですか、それとも過去ですか?

W

「真に変ずるもの」を考えてはいけない。自分が変ずるものにならないといけない、ということだと思います。反省ではない、ということを明らかにするために西田がやっているような、こうした哲学は有効だと思いますが、その哲学自体が反省になっている。そういう意味で「このように言う者」を問題にしたかったのです。私としては反省とは手を切りたい。反省とは異なる仕方での哲学を考えたい。

N

いや、哲学はたんなる直観ではいけない。かといって答えを出して、それが分からない者を見下すような反省でもいけない。どこまでも反省を徹底する。そこでの極致。
佐野
人間はどこかに自分本来の居場所(立場)を定めたいという思いを決して手放さない存在だと思いますが、それを許さない働きがありそうです。と言ってもすでにこれが立場になっています。しかしこうしたどうしようもなさがあるからこそ、それをすっと抜けるような出来事も起こりうる。こうした事柄のすべてに「言葉」というものが関わっているように思われます。今回のテーマである「時」に即して言えば、我々は「言葉」によって「時」の外に立つことになりますが、こうしたどうしようもない言葉のぶ厚い壁があるからこそ、それをすっと抜けて「時」そのものの内(言葉の内実・意味)に開かれる、という出来事(そのうちでは言語活動を始めとする行為はできるが、それに「ついて」語ることはできない)も起こりうる、私はどうもそのあたりに関心があるようです。今回のプロトコルはこのあたりにして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(346頁5行目~7行目)
佐野
「今「一」に於て問題とした所に還って見よう」とありますが、「一」のどのあたりに還ったのか、次を読んでもすぐにはピンときません。もう少し読み進める外はありませんね。ということで、Bさん、お願いします。

B

読む(346頁8行目~347頁4行目)
佐野
「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るであろうか」とあります。「一」に「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」(325頁6行目~7行目)とありますので、ここを受けたものとも考えられますが、そもそも「一」で問題になったのは「時に於て現れるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」だったはずですので、これで「「一」に於て問題とした所」に還ったとは言えません。せいぜいその下準備といったところです。やはりもう少し先を読んで見ないと分からないようです。さて「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るか」の問いですが、結論を先取りすれば、「変ずるもの(内容ある時)」が部分的に限定せられた時に一種の連続として現れるが、これが物理現象で、こうした物理現象が時に於てある、ということになります。変ずるものは直覚的なるもので、これは時に於てあるとは言えませんが、これを「部分的に」、つまり後に出て来る言葉で言えば「感覚的性質一般」という「一般概念」で限定しようとすると、例えば赤が途端に赤でないものになっている、というように「一種の連続」が現れるけれども、これが「物理現象」だというのです。次いで「時と物理現象との関係は如何なるものであろうか」とありますが、これも先取りして言えば、「物理現象が時に於てある」ということになります。先取りはこの位にして、実際に見て行きましょう。「時に於て現れるもの」、すなわち「時の関係項となるもの」、これは「現在」とかその「前後」、これをさらにt1,t2,…と言ってもいいと思いますが、これを「主語」として「之について赤であるとか青であるとか云うならば、かかる判断を成立せしめる一般者は如何なるものであろうか」と西田は問います。これにたいして「色一般」と答えるなら、その限定としての「この色(例えばこの赤)」が主語となりますが、これだけでは「時」とは何の関係もない、ということになります。そうしてさらに「我々が時に於てあるもの(t1,t2,…)に就いて性質的述語(赤、青…)を加える時、かかる意味に於て主語となるものはもはや時の一般者(主客対立における超越的述語面、意識面)に於てある(t1,t2,…;積極的に限定できない現在)のではなく、却って〔積極的に限定できる、〕時を包む一般者(具体的一般者)に於てあるのである、即ち既に変ずるものであるのである、内容を有ったときであるのである」と述べられます。〈今は赤である〉と言えるには、この「今」が色一般に於てあるのでもなければ、「時の一般者」に於てあるのでもない、具体的一般者に於てあるのでなければならない、「今」とは「変ずるもの」でなければならない、ということです。ここまでわからないところはありませんか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「形式的なる時(時の一般者)に於てあるものに就いては、単に現在とか前後とか云い得るのみである。唯、『積極的に限定することのできない具体的一般者』に於てあるもの(変ずるもの)が部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考えられるのである、物理現象とはかかる意味に於ての連続に外ならない」とこの段落での結論が述べられます。これについてはすでに先取りして申し上げました。次をBさん、お願いします。

B

読む(347頁5行目~13行目)
佐野
「前にも云った如く」とは345頁3~5行目のことですね。「具体的一般者の根柢となる一般的なるもの」とは、この具体的一般者にさらに根柢があるわけではなく、具体的一般者の述語面における根柢であり、こうなった時には主語面と述語面とが分かれる、ということは前にも申し上げました。この「一般的なるもの」は意識面のことですが、これは「積極的に限定することができない」、これ以上の述語づけを許さない、つまり「述語となって主語とならない」、そうした「述語面」です。これに対し主語面は「無限に深い主語となって述語とならない直覚的なるもの」となります。この「直覚的なるもの」は具体的一般者においては知的に直観されるものですが、このように主客(述語面と主語面)が対立する場合(「所謂思惟の立場」)においては、感性的直観となって積極的に限定できないものになります。これに対し述語面は単なる形式(時の場合には時の一般者、形式的時)となります。これはそれ以上の述語づけを許さない、その意味で「何處までも限定すべからざるもの」で、ここではそれが「無の場所」と呼ばれています。

B

これは絶対無と同じものですか?
佐野
いえ。これは主客の対立を前提としていますので、絶対無とか真の無の場所ではなく、対立的無の場所、ということになると思います。次へ参りましょう。「その限定」とは無の場所の限定、ということですね。そういうものとして「之」、つまり無の場所「に於てあるもの」は「所謂抽象的概念」、一般概念にすぎない、これが先の「部分的限定」ということです。次の括弧の部分は後からの加筆部分でしょうね。「限定することのできない超越的述語面(意識面)が如何にして限定し得るか」という問いを立てていますが、これに対しては「推論式的一般者」の「大語面的限定」がそれだと答えています。後に「推論的一般者」が出て来た時に考えればよいのですが、少しだけ触れておくなら、推論式には大語、小語、媒語があり、例えば「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」では、「人間」が大語、「ソクラテス」が小語、「死すべきもの」が媒語です。大語面的限定とは、大語面、つまり一般者から限定するということで、これに対し「小語面的限定」とは小語、つまり特殊から限定するということです。物理現象として限定するのは「大語面的限定で、意志による限定として考えれば「小語的限定」ということになります。これは『善の研究』で「理論的研究」と「実践的研究(価値的研究)」と呼ばれたものの区別を引き継いだものと考えられます。この区別は「例えば一銅像の材料たる銅は機械的必然性の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか」(岩波文庫改版151頁)と言われる時の区別に相当します。以上はこの箇所を読むための暫定的な補足にすぎません。とは言えこの説明で「限定することのできない超越論的述語面が如何にして限定し得るのか」が分かったことにはならないでしょう。限定に二方面がある、と言ったにすぎないからです。「限定できないものが如何にして限定し得るのか」、この問いには答えていないからです。それはともかく、ここまでで何か分からないところはありますか?とりあえず意味が通らないという意味で。

B

根本的なところ、奥深いところで分からないことが起っているような気がしますが、先を進めてください。
佐野
はい。「唯、此の如き『場所の限定せられたもの』」、「一般概念(抽象定概念)」ですね。これが、「超越的述語面(意識面)」の「部分的限定」として、「主語的なるものを含むと考えられるかぎり、「非合理的なるものの連続」を見ることができる、そう述べられます。

B

「非合理的なるもの」とは何ですか?
佐野
直接的には「直覚的なるもの」を受けたと考えられますが、すでに一般概念によって限定されていますので、たんに「非合理的」とは言えないと思います。ただ、例えば変ずるもの(知的に直覚されたもの)を対象とすることによって、どこまでも限定できない感性的直観となりますが、これを色一般によって限定しようとすると、赤が直ちに赤ではなくなってしまう、こうした事態を「非合理的」と言っているのだと思います。

B

ありがとうございます。
佐野
では次をCさん、お願いします。

C

読む(347頁13行目~348頁10行目)
佐野
これまでは主語と述語が分れていましたが、ここからは両者が関係する判断の話になります。まず「主語となって述語とならない」、「個物」ですね。こうした「超越的なるもの」が「述語面に含まれる」、つまり「述語される」「判断になる」ということです。その場合、「一般的なるもの」の意味が「抽象的一般」から「具体的一般」となる、とされます。このことを「抽象的一般」の立場から見れば、「特殊なるものが一般となる」、と述べられます。ちょっと分かりにくいですが、西田は、判断に包摂判断と物の判断を区別します。包摂判断の場合には、「犬は動物である」のように、一般(動物)が特殊(犬)を包摂します。これに対し物の判断の場合には、「この塩は白くて、辛くて、(結晶が)立方体である」のように、特殊(この塩)が一般(白い、辛い、立方体である)を包みます。その意味では「特殊なるものが一般になる」、「前者が後者を含む」ということになります。白くもあり、辛くもあり、立方体でもある、という意味で「一般」だというのです。このことを西田は「性質赤」と「赤きもの」の区別として説明しています。「このリンゴ」は「赤い」と言う場合、この「赤い」は「性質赤」です。これに対し、「このリンゴ」を「赤いもの」と呼ぶならば、この「赤いもの」は個物(「唯一のもの」)です。そうしてこの個物は「物」として色だけでなく、様々な性質をもちます。こうして「物は種々なる性質の統一として、此等の性質に対して一般的と考えることができ、特殊なるものが一般的となると云うことができる、特殊にして抽象的一般を含むと云うことができる」ことになります。

C

次の「無論此の如き物は抽象的一般の外にあるが故に、抽象的一般としては限定することのできないものである」というのがよく分かりません。「赤きもの」がどうして「性質赤」の外にある、ということになるのですか?
佐野
西田は分かりやすさのために「赤きもの」「性質赤」から出発して、様々な性質をもった物というように話しを進めていますが、初めから念頭にあるのは、無限の述語可能性をもった、それゆえに積極的に限定できない「物」です。これはカントの「物自体」に相当しますが、西田はこうした「物自体」を「感性的直観」に重ねて考えるところがあるようです。こうした「物」に主観が「一般概念」を当てはめて、「このリンゴは赤い」のように判断するわけです。

C

その判断は主観的なものになるのですか?
佐野
主客が分かれていますので「主観的」、そうして一面的ですので「抽象的」となります。そのことは342頁14行目~343頁2行目に述べられていました。しかしこの「主観的」というのは所謂「主観的」、つまり「個人的」という意味に限定されるものではありません。カントの「客観的」というのは主観的な構成によるものですが、一般性と必然性をもつもののことです。これをも含めて西田は「主観的」と呼んでいることになります。今日はここまでとしましょう。
(第112回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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