共に哲学する

悪は存在するか

第25回読書会だより
ヂ:本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。:ヂ
―どういうことですか。
A(出題者):私は善は嫌いです。善は偽善だからです。自分のことを無意識に「いいひと」だと思っている人や、自分のことを正しいと(正論を)主張する人は嫌いです。
―それが問いとどう関係するのですか。
A:私利私欲の悪も結局は公共の利益を目指すようになるんです。そんな意味を込めてそこには「悪は自己限定して善になる。その生成のプロセスが発散するあらゆる汚名を一心に引き受け、事績と悔恨と社会的制裁と幾多の試練を乗り越えて、自力で構成し昇華を目指す」と書いたんです。
―悪に自浄能力があると。
B:『善の研究』には悪については真の自己ではないというように簡単に書かれていますが、『倫理学草案第二』でも「人心の疑惑」でも悪の問題は西田にとって深刻な問題でした。ですから『善の研究』で悪について書かれていない、そのことの意味が重要だと思います。人間は何々したい、ということを常に言っています。それは善がまだ達成されていないということで悪を抱えるということです。根柢は悪です。それをやめることはできません。それが苦しい。西田の言葉でここにメモしてあるのがあるんです。「自由なる自己其物を見る良心は深い自己矛盾でなければならない。自ら良心に恥じないなどと云ふものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ深く自己自身をみるものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて反省其の者が消磨すると共に真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光をみることができる」。(新全集4巻142頁)
―「絶対に悔い改められないところに神の霊光を見る」というところが大事ですね。もっと言うと人間は自らの悪に向き合うこともできないと思いますよ。自分を善人だと思っているんです。それをやめることはできない。
C:その話を聞いて思い出すのはアーレントです。ユダヤ人の大量虐殺を執行したアイヒマン、彼は自分のしたことが悪だとは思っていませんでした。直視できないんですね。一番いけないのは思考停止だと思いますが。
―面白いところにまで深まってきましたが、この辺でテキストに入りましょう。
ヂ:(第25回):ヂ

「考究の出立点」は出立点たりうるか

ヂ:本日の哲学的問は先週に引き続き「『善の研究』における「考究の出立点」は出立点たりうるか」です。:ヂ
―西田は『善の研究』第2編第1章の「考究の出立点」で、「純粋経験がある」ということを疑い様もない、としています。しかし「純粋経験がある」というのは紛れもない判断です。判断ならば疑いえます。西田の「考究の出立点」は失敗しているのではないか、こういう質問です。
A:出立点の疑い様がないところにはどこまでも行き着けないということではないでしょうか。
―それでは最初から躓いているということですか。
B:初めから統一が成り立っている、発展しようのないものが与えられている、ということだと思います。これに対しカントは感性的にしか直観できない感覚の多様が与えられていて、悟性(統覚)がこれを統一していく。ここに西洋と異なる日本の特殊性があると思います。
C:その通りだと思います。根本的直観力は風土に根ざすんです。日本は特殊です。世界のひな型とも言えます。これを強調すると危険ですが。
B:大いなる他力とも言いますね。
―それでは我々は日本的なものの信仰から始めなければならない、それが疑いようのない出立点になるのですか。
B:哲学はそのもとを疑っていきます。ですが調和が与えられているんです。それを見つけることはできないけれども与えられているんです。
―見つけられないけど与えられているってどういうことですか。
B:私は座禅はしませんが、西田は座禅をした。その時の実感のようなものです。
―ですからそのようなものを疑い様のない出立点としてよいのか、ということです。実感があるというのも判断です。
D:「純粋経験というものがある」のか「純粋経験という概念がある」のか、どちらでしょうか。
―ものでも概念でもなくて、例えば今ペンを見ているならペンを見ているという意識現象がある、ということです。それを見ていることとそのことに気づいているということとが一つであるという。ですがそのように「意識現象がある」と言ってしまうと判断なんです。
E:西田は書物にしなければならなかったんだと思います。そうでなければ救われなかった。
F:説明できない、「有る」ことは確かだけれど言語化できない。そういうところを西田は苦しみながらもよく頑張っていると思います。。出立点たりうるとは思いますが、言葉にすると出立点たりえない…
E:西田はこれを重い病気の子供を看病しながら書いているんです。結局死んでしまうのですけれど。そうして子供が初めて光を見た時は光そのものだって書いている。決して失敗していないと思います。そもそも私は西田に疑いを持っていません。
A:これは出立点でもあり、目標でもあるんじゃないでしょうか。疑っていく働きの中で出立点の判断するものではないものを感じ取っていくというような。
―出立点は暫定的なもので、出立点が出立点であることは最後に分かるということですか。
B:モーツァルトは曲を作る時に、初めから最後まで分かっていたと言いますね。それと同じで、最初にすべてが直観されているんです。最初から答えがあるんです。すべてが分かった、そこから西田は書いているんです。
G:本を書く時にそんな風に書くんでしょうか。初めは何か書きたいことがぼんやりとあって、それを文章にするのではないですか。
B:初めからすべてがあるんです。胎児でも、いや初生児だったかな、すべてがあるんです。そのままでは何も始まらない。始まるにはそこにズレのようなものがある。そのズレが考究の出立点になるんです。
―それはよく分かります。しかしそこにズレがあるならば、出立点はありのままということを取り逃がしていることにはなりませんか。面白くなってきましたね。ですがこのくらいにしておきましょう。
ヂ:(第23回):ヂ

純粋経験は疑うべきものではないか?

ヂ:本日の哲学的問は「『純粋経験』は判断分別以前であって、いくら疑おうとしても疑うことができない事実であって、この事実に対する判断とか反省とかはどこまでも疑うべきものである。西田は『純粋経験』を唯一の実在とし、それによってすべてを説明しようとする。しかし、『純粋経験は唯一の実在である』というのはすでに判断であって、疑うべきものではないのか。彼はなぜこの矛盾を知る上でまたこの通りに主張するか」です。:ヂ
―「純粋経験は疑うにも疑い様がない」とか「純粋経験は唯一の実在である」というのはすでに判断である。判断であれば疑うことができる。ならばそれを「考究の出立点」にすることはできないのではないか、という問いのようですね。それではお願いします。
A:根本経験があったから、確かにあると言えるんだと思います。
―ですからそれが判断だというんです。
B(出題者):出発点が疑わしいと思います。事実がある、というようにそれを表現したら判断になります。西田は如何なる立場で「ある」と言っているのか。
C:そもそも立場は変えられるものなんでしょうか。
D:立場主義ですね。立場に引っ掛かってがんじがらめになっている。これが今の日本社会だと思います。実に閉塞的です。ですが立場などいくらでも変えられます。
C:私の言っているのは「人間という立場」です。人間は反省や判断の立場を超えられないということです。
A:クロマニヨン人は言葉を持たなかったので絶滅したそうです。ですが死者に花を供えていた。言葉を持たずにどうしてそんなことができたのか不思議ですが、言葉のない世界というのはやはりあると思います。
E:立場というのは視点のことですね。
―そうですね。そうした視点に立って外から眺めるということになります。
B:そうした反省で分かったことになるのですか。言葉にしないと理解したことにならないのですか。
C:ええ。理解したというのはやはり言葉にできるということだと思います。
―確かに言葉にはできないが俺は分かっているんだ、というのは断言にすぎないような気がしますね。Fさんどうですか。
F:言語化はできると思います。それが30年かかろうとも、ゆくゆくはできる。そうしたものだと思います。
G:私はいつも教育学に関連させて考えてしまうのですが、分かるというのは知識を身に着けるということですね。しかし分からないものに触れることの方が大事ではないかと。その意味では30年かけても分からないという面もあるのではないか。
F:それでもどう分からないか、ここが分からない、というのは言語化する必要があると思います。
―不思議という言葉がありますね。不思議やなあ、というのは分かっていないのか、あるいは一つの分かり方なのか。
F:分かっていないと思います。
E:惹かれるものがあるということだと思います。言語化したい。だが言語化できない広いものがあり、一部しか言語化できない。西田は大それたことをしようとしているとも言えると思います。
―面白くなってきましたね。ですが今日はこの辺りにしてテキストに入りましょう。
ヂ:(第22回):ヂ

純粋経験とはどのような概念か

ヂ:本日の哲学的問は「三木清は、『西田先生の言葉』(1941)において、「先生の哲学は単なる非合理主義でないと同様、単なる直観主義でもない」と書いている。これを踏まえたとき、『善の研究』(1911)における「純粋経験」とは、どのような概念であると考えるべきであろうか」です。:ヂ
―これを考える時は「純粋経験は直観である」と言ったら、すでに反省であるということと、西田が純粋経験は「程度の差」であるといっていることに着目すると面白いかもしれませんね。
A: 純粋経験には主客未分と主客分裂と主客合一の三つの立場があると思います。このように分析しつつ、それに囚われないのが純粋経験だと思います。「非合理を合理化する」というのがありますが、それが哲学だと思います。合理化、しかしそれでかたつかない。分からん部分が必ずあるというのが純粋経験です。神は理念とも言えませんね。定義不能です。純粋経験はそれと同じです。人間としては一生懸命に考えるしかない。
B:三つの立場があるとおっしゃいましたが、それらは総合できないのですか。
A:総合する立場があってもいいが、考え方の土俵というか、誰かが何かを言えば分裂が起り、また合一される。とにかく一生懸命考えるしかないのです。
C:三つの状態とおっしゃいましたが、それが「程度の差」に通じるのではないでしょうか。そうした動きが「程度の差」ということです。
A:ですが主客未分の方が最高だともいえるんじゃないか。
―「程度の差」とは統一の厳密度についていわれています。全くの統一、全くの不統一もなかろう、ということです。
A:最高の境地があるということではないのですか。
―西田は普通の知覚にも知的直観があるといいます。その理想的要素はどこまでも豊富深遠となると。その意味では普通の知覚と極致に至った知的直観とは量的にしか異なりません。その意味では「程度の差」ですね。そうなると「最高の境地」も「普通の知覚」も「程度の差」ということになります。問題はそう言い得る立場に立っているか、ということです。「平常心是道」とか「日日是好日」とか言いますね。本当にそういうことが言い得るのか、そういうことだと思います。
D:言葉にした段階で、言葉にできないものを言葉にしてしまう段階で、純粋経験ではなくなるのではないのですか。純粋経験はあくまで判断以前の瞬間・刹那ではないのですか。
E:私も、直観と純粋経験の違いが分からないのですが、例えばこれを飲むとして、うまいと感じる前にうまさを感じるというか、考えたり言葉にする以前にうまいということがあるじゃないですか。花を見るにしても目に留まった瞬間です。これが純粋経験だと思うんですが。
―しかし西田は反省も純粋経験だという。反省もそれについて考えたり言葉にしたりしなければ直観と変わりません。ただ不統一な状態ですが。西田は純粋経験の立場を出ることはできないと言いますよね。そうなると厳密な統一の状態も反省という不統一な状態も程度の差ということになります。迷うときは迷う。それでいいということになる。これが純粋経験の最終的な立場、平常性の立場だと思います。
C:そのように立場を立てることがそうした立場を実体化し、純粋経験を離れることにはなりませんか。
―それも平常性です。すでにそこに立っている。私たちは反省を一歩も出られませんが、そのことが同時に常に純粋経験の内にあるということを言い得る立場が平常性の立場です。古池に蛙が飛び込む音に思いが破れて、常に足下に届いていた静かさに目覚める、そんな感じです。
F:そういう境地を求めるということですか。
―求めることは必要ですが、求めるという構造が到達を不可能にしています。思いが破れたところに気づく、それしかないと思います。なんかお説教みたいになってしまいましたが、西田は純粋経験の立場の究極相をこのようなものとして考えていたのではないかと思います。今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。
ヂ:(第21回):ヂ

判断以前の直観、述語以前の主語は存在するか

ヂ:本日の哲学的問は「そもそも判断以前の直観、述語以前の主語など存在するのだろうか」です。:ヂ
A:感性という言葉がありますね。頭で考えた挙句決断して主張するときのような。その時は体で分かっていることを言うんだと思います。そういう経験があるんです。そうしたらそれが正解だった。
B:水泳なんかも頭で分かっているだけじゃだめで、体で分かるというところがあると思います。
A:練習以上のものが本番で出る人がいますね。そういう直観も感性だと思います。
―今までの意見は判断前の直観がある、というものだったと思いますが、体で分かるということも後から判断しなければ分からないんじゃないですか。直観だったということも我に帰って判断して始めて言えることで、こうした判断がなければそうした直観があったことも分からないのでは?
C:聞き手の話になりますが、訓練しなくても分かっちゃう子がいるんです。
―ですから分かっちゃうというところに判断はありませんか、ということです。直観したものを直観したとした時点で反省だと。
D:『善の研究』に一生懸命に断崖を攀ずるというのがありましたね。その時は何のためにも分からずただ攀じ登っています。それで後になってからそのことに気づくということはあると思います。
―大きく見れば日常生活もそうですね。ただただ忙しく生きている。何のために生まれ生きそうして死んでいくのか、そんなことは考えずにただただ時を過ごしている。そうしてふと我に返り、虚しくなる。これも大きく見れば没入状態から我に返った在り方です。
E:その場合でもそこに宗教的覚悟というものはあり得ると思います。
―古池に蛙が飛び込む音に驚き、そこに静かさがいつも届いていたことを経験するように、日常生活を破って神に触れる瞬間があるということですか。
E:ええ。ですがその経験は単なる神人の合一ではなく、そこには神と自己の関係が「我は神において生く」という仕方であると思うのですが、そこのところがよく分かりません。
―Fさん。最近静かですね。何かありますか。
F:EさんとAさんの言っていることは同じことだと思います。初めに一なるもの(ト・ヘン)、一般者、真実在があるんです。そのかけらが我々の内にある。だから知らないことをしゃべっているというのも、実は知っているんです。本当のことをすべてみんなが知っているんです。それを思い出すだけです。
―なんか議論が一つの方向にグッと進んだ感じですね。Gさん。何か言いたそうですね。
G:やはり純粋経験はそれを言葉に言い表さないと何も分からないと思います。だから言葉に言い表す。そうして説明することに近づいていくのだと思います。
―純粋経験はある、と言えるんですか。
G:いえ。あると仮定して、です。
―なかなか難しくなりました。今日はこのくらいにしておきましょう。
ヂ:(第20回):ヂ