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哲学体系を用いて思想を語る不自由

ヂ:今回の「哲学的問い」は「西田が西欧の哲学体系を用いて己の思想を語るとき、語りえないことや不自由さに直面しなかったのだろうか」でした。:ヂ
―西田への質問ですか。もう少し説明してください。
A(出題者):エイドス、ヒューレーなどこれまでになかった新しい概念に出会ってこれをストンと分かることなどあるのだろうか。しかも西田はそれらを自由に使いこなし、自分流に理解してそれで自分の思想を展開している。文学ではとてもあり得ないことだ。やはり西田は天才ではないだろうか、そういう質問です。
―それでは、西田が西洋の思想に直面して不自由を感じなかったか、その辺から議論を始めましょう。
B:不自由に直面していたと思います。だからこそ今読んでいる「内部知覚について」でもアリストテレス解釈で苦労しているんだと思います。西田哲学の根本は禅だという人に対して西田は強い口調で否定したそうです。西田は自分の思想に禅でもない、西洋でもない独自のものを見ていたんだと思います。
―ならば批判してしかるべきでしょう。ところが西田はアリストテレス批判を行ってはいませんね。むしろアリストテレスの土俵の中に入って行って、それを自分の土俵の中に取り込んでしまうような、そんな感じです。
A(出題者):夏目漱石はoccupyという語に接し、それを深く考え込んでしまった。所有についての日本人の甘い考えを思い知らされたんです。異質なものに接するとそういう問題にぶつかるはずですが、西田にはそれが感じられない。
―確かにそれは言えますね。西田はたとえばアリストテレスの思想の中に自分が考えるべきものを見ていたのではないでしょうか。自分が考えるべきもの、それが何であるか、西田自身にも分からない。アリストテレスの思想が何であるか、それも分からない。ですがそこに何かが見えていた。
C:ミュージシャンが新しい曲を作るとき、ディレクターならば何々みたいな曲、と言ってしまうところを、そういうものにとらわれずにストレートに反応するんですね。それに近いものを感じます。
―それでは、今日はあまり時間もありませんから、さっそくその西田が見ていたものを考えることにしましょう。

哲学における独自性とは何か

ヂ:今回の「哲学的問い」は「西田幾多郎の哲学は『日本独自の哲学を打ち立てようとした』というような日本の特殊性を強調した文脈において語られることがある。哲学が普遍性を志向する(真実か、真実でないかを考える)学問であるとするならば、日本の特殊性をこの普遍性との関係でどのように考えればよいか」でした。:ヂ
A(出題者):西田哲学は日本独自の哲学とキャッチコピーのように言われますが、西洋との交わりの中で成立したと思います。日本の独自性を強調すれば普遍性は飛んで行ってしまいます。しかし西田は普遍性を追求した、この辺りを考えたいと思います。
B:日本的西洋的というのは思考プロセスの方法が違うだけで、たどり着くところは同じです。西田は方法を西洋に合わせてやってあげている、付き合ってやっているだけです。西洋文明の言葉で東洋を語ったと言えると思います。
C:パラダイムという考えがありますね。パラダイムの中にあるものが普遍です。その外は特殊。
B:パラダイムは転換するだけすね。
D:そもそも哲学が普遍性を志向すると言えるのか。数学でいう特殊解というのがあるが、哲学はこうした解を求めていくものではないか。
A(出題者):ですが哲学には真実を求めるということがあると思います。本当かどうかということです。ソクラテスもそれで吟味を行った。西田哲学は普遍性を求めているのか、或いは西田哲学に普遍性があるのか、それを考えたいのです。
―普遍性とは何ですか。
A(出題者):同じように考えうるということです。
B:東洋と西洋を統合できたのは西田の哲学が独自だったからです。
―東洋と西洋というものが始めからあったわけではないですね。出会いを通じてそれぞれが自らをそのように意識する。それと同時にそこに新たな普遍性というのが生じている。その中に西田は新たな普遍性を発見したのだと言えるのでは。
B:サイードのことを念頭に置いているのですか。
―いえ。西田自身のことを念頭に置いていました。西田は西洋との出会いを通じて、和魂洋才というような折衷ではなく、日本の思想は普遍性を持たなければならないと思っていました。
B:その普遍性のカギは、西洋でいえば倫理、東洋でいえば道、つまり人間の生き方だと思います。宇宙と生き方の問題に帰ってくると思います。
E:西田も『善の研究』で「人生の問題が中心であり、終結である」と言っていました。
ヂ:この後も議論は続きましたが、この辺で今回の読書会だよりの中継を終えたいと思います。どうも司会者の不手際で議論をなかなか深めることができません。:ヂ

内在的超越はいかに可能なのか

ヂ:今回の「哲学的問い」は「反省が破られて、客観・神と一体になった後、意識的構造としての人間は反省・主観的な状態に必ず戻る。人生は無意味の繰り返し・永劫回帰ではないか。その場合、内在的超越はいかに可能なのか」でした。:ヂ
A:禅宗では見性、キリスト教では帰依だね。それを得ても何も変わらない。それが絶望にならない。絶望するのは悟っていないから。あるものをあるがままに捉えればよい。
B(出題者):人間には分別がありますよね。どのようにして「あるものをあるがまま受け入れる」ことができるのですか。
A:「あるがまま」に接すればいい。「どうしよう」は煩悩です。私は真宗門徒ですが、死んだら悟れると言われている。生きている間は悟れない。悩んでいること自体が見性ではないんですよ。
C:この赤が赤であるということが「悟り」ではないですか。直観の内にあるということが。
―「この赤が赤である」というのは判断では?直観の内にある、直観の内にある、悟ったというのも判断では?
D:出題者の問題意識はとても価値があると思います。これは求道心です。必ず戻るんですが、螺旋を描いて同じところには戻りません。そうしてブレが大きいほど大きく進みます。大きな悪ほど大きな善に触れる機縁となります。
―しかしそれは絶えず小を抱え、悪を抱え続けることを意味しませんか。
B(出題者):それが無意味の繰り返しのように思えるんです。
A:どのように受け入れるかの問題です。真宗のほうでは自然(じねん)といいます。
C:宮沢賢治は「詩人は苦痛をも享受する」「永遠の未完成これ完成である」と言っています。これは見性できないということだと思います。
D:プロセス意志、というかベクトルというか、途上にあるんだけれども、その方向性が大切だと思います。これも求道心の問題ですね。
E:神と一体になることがいいことのように言われていますが、大したものじゃないのでは。一体を目指さなくてもよいのはないか。
B(出題者):神じゃなくてもいいんです。自然といったほうが良ければ自然でもいいです。究極的に安心できるというか、意味を求める必要もないところです。
―それなら犬のほうが幸福かもしれませんね。悩むことを人間はやめることができませんから。どうですか?若い人に聞いてみましょうか。人間をやめたいと思いますか?
F:すべてのしがらみを捨てて山に帰りたいと思うことはあります。
G:神と一体になって完成するというのだけれど、そのことをだれが直観するのですか?
D:もちろん自分です。
B(出題者):それは判断の言葉になることによって崩れます。そこに永劫回帰があると思うんです。
―これで終わりにしたいですが、最後にちょっと。永劫回帰は無意味な繰り返しですから、人間はこれを直視できません。逃げるようにして何かに飛びつく。それがまた永劫回帰に取り込まれて行きます。どうにもなりませんし、人間はこれをやめることもできません。ですがこのことに「そうだな」と身が頷くことによって、人間はこの「どうにもならなさ」から少し離れることになります。それは同時にそれを少し受け入れることができるようになるということです。そんなことができるのは「どうにもならない」厳粛なもの、どこまでも分からない深いものに触れているからです。

不変なるものとは何であるか

ヂ:今回の「哲学的問い」は「不変なるものとは何であるか」でした。:ヂ
―テキストでは「物の概念」が「不変なる関係」と呼ばれ、「形相」が「不変」とも、「質料」が不変とも呼ばれていました。それを受けてのことですか。
A(出題者):ええ。不変とは時空を超えるということです。その意味で「物の概念」が時空を超えるというのは怪しいのではないかと思っています。
B:不変なるものはあります。それは「変化」です。変化は不変です。
C:プロティノスの「流れ(流出)」です。その流れにあって「一者(ト・ヘン)」は不変です。西田も言っています。
―動中静、静中動ということですか。
C:そうです。
D:不変的なものはないと思います。あってほしいとは思いますが。不変的なものということですぐに思いつくのが神ですが、神が何か分かりません。イデアも分かりません。分からないものがあるとは言えません。
―Dさんはニーチェの読書会にも参加されていますね。ニーチェは神やイデアなどの実体を立てることを厳しく批判しますね。
E:不変的なものがある、となぜ想定しなければならないのかが問題だと思います。
―だけど不変的なものがなくて、すべてが徹底した流転の中にあるとすれば、知識というものが成り立たないんじゃないですか。Fさんどうですか。
F:不変なものはあります。数学の公理がそれです。
―それって不変にしたんでしょ。
F:そうです。
G:人間に言語機能があるということは想定していいんじゃないですか。
H:オオカミに育てられた人間はどうですか。
I:それでも言葉を話そうとしたらしいですよ。
―つまり人間の言語は不変かつ普遍的なもので、それによって知識が可能になっていると。しかしその不変的なものがあるといえないということになると、我々の知識というのはどのような基盤の上に成り立っているのでしょうか。
J:言語を持っているのが人間だけというのがおかしい。動物も意志疎通を図っているんだし。
―動物に意志があるんですか。
J:そう聞かれると困るんですが。
C:人間の認識で言語が関与しているのは10%に過ぎないそうです。
―今日はこのくらいにしてテキストに入りましょう。

真にあると言えるものは何であるか

ヂ:今回の「哲学的問い」は「真にあると言えるものは何であるか」でした。:ヂ
A:どういう意味ですか。例えば死とか。
―そういうことじゃなくて、そもそも「ある」とはどういうことか、ということです。例えばプラトンはイデアを真に「ある」ものと考え、『善の研究』のころの西田だったら純粋経験がそうであるように。
A:じゃあ、私は純粋経験です。
―その純粋経験とは何かが問われますね。
A:意識の根本で、始めであり終わりであり、誰にも分からない・・・
―困りましたね。
B:終わりって何ですか。
A:どこまでも発展するんですが、最後の最後から見ると現在に達するんです。終わりも始まりもないんですが、達観に達するんです。
―そのような純粋経験を「ある」と言っていいんですか。
A:「ある」と言ったらもう純粋経験ではありません。
―では真に「ある」と言えるものは純粋経験ではないんですか。
C:真に「ある」というのは不変ということです。それは「ある」とも「ない」とも言えないものです。言語化されないものです。
D:「ある」とも「ない」とも言えないものが「ある」がと言えるのですか。
C:(沈黙)
―この沈黙が答えなのかもしれませんね。これは体験の事柄だと。
E:直接経験というのは事実であって、疑いようがない。取り扱いに困っているだけではないのか。
D:それは仮定とか、「ある」ことが必要とされているということで、結局あってほしいということではないですか。
F:「ない」が真にあるのかもしれない。
E:「ない」というのが間違いであって、「ないものはない」が正しいんです。
―パルメニデスのようですね。真実には「ある」しかないのだと。
B:「無」が「ある」とはどういうことですか。
F:「ある」の中に無が含まれているということです。生の中に死が含まれているように。
―それは「ある」と「ない」を内に含んだものですね。そうすると〈「ある」とも「ない」ものとも言えないもの〉を真に「ある」としたC説に近くなりますね。
E:人間は「ある」の中でしか生きられないと思います。
―確かにそうですね。人間は「ある」と思っているものの中でしか生きられませんね。しかしその「あると思っているもの」が仮初で、必ず崩れる。真実の支えにならない。そこに人間の苦しみや悲しみがある。先程〈「ある」とも「ない」とも言えないもの〉が真に「ある」とされました。それに対し「ある」と「ない」はそうではないと。前者は言葉で言い表せない真実の「ある」だとすれば後者は仮、真実には「ない」ということになります。今度はここに新たな「ある」と「ない」の対立が生じていることが分かります。そうするとこの対立も言葉で言い表したものですから、真実ではないことになります。私たちはこのような仮初のもので自分を支えることはできません。しかし我々は真に「ある」ということを知っている。だから決して「ある」ということを手放したりはしません。しかし言葉で言い表された「ある」はすべて仮初です。この矛盾の中に「人間」が置かれているように思われます。

—それにしても皆さんはずいぶん変わっていますね。「真にあるもの」ということでまず出てくるのは「目に見えるもの、手でつかめるもの」というのが出るとおもっていましたよ。
G:ここが西田読書会だからじゃないですか。
ト:(笑い)