永遠なるものの影

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 269頁8行目「或は前者の如きもの」から270頁8行目「抽象的一般概念ともなるのである」までを講読しました。今回のプロトコルもMさんのご担当です。キーセンテンスは「或いは前者の如きものに到達した上、更に於てある場所といふ如きものを考へる要はないと云ふであらう」(269,8)でした。そうして「考えたことないし問い」は「なぜ「場所」が必要であったか。それは見る(直観する)ためである。「この花は赤い」の「この花」を主語面に、「赤い」を述語面に押し詰めると、それぞれ「眞の個物」と「眞の自己」に行き着くだろう。それは同じ『所謂眞の無の場所』であろう。その場所では「眞の個物」と「眞の自己」と「場所」は一体となっている。しかし「鏡に映す」「場所に於く」という事態においては未だ「映す我」「見る我」が残されている。三者は点在していて、一体となっていないのではないか。」(220字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
これは西田批判になっていますね。

A

私は一体となっていると思います。

M

直観はしていたと思いますが、論理がついていっていない。純粋経験のうちにあることが論証できていない。純粋経験のうちにあるということが「真の無の場所」ということだと思います。

B

「一体」とはどういうことですか?

M

主客未分というようなイメージです。
佐野
Mさんは「鏡は割られなければならない」とおっしゃっていましたね。これ、実は私の師である故辻村公一先生が講義でおっしゃっていた言葉なんです。禅の立場らしいですね。ですがそれでは認識もなくなってしまうのでは?別の所で西田も宗教においては「映すということもなくなる」と言っていますね。

A

たしかにそうですが、自分から映すのではなく、向うから映されるという仕方もありうると思います。西田は宗教的覚悟(直覚・直観)ということを言っている以上、宗教においても「見る」ということはあると思います。
佐野
一体でありながら、見るということが成り立つ在り方というものがあるとすれば、どのようなものですか?例えば、絶対無の無限の深みから個物が立ち現れるような体験のようなものが考えられますが、その場合、「映す」ということも外のものを映すような映し方でなく、いわば映すものなくして映す、包むということも、風呂敷が物を包むのではなく、包むものなくして包む、という仕方になると思いますが、そういうことですか?

C

はい。そうだと思います。
佐野
そうした解釈は伝統的・正統的な解釈だと思います。「述語の方向に押し詰める」、「述語の極致」という表現がありますが、押し詰めること自体はどこまでも続きます。どこまでも「極致」に行きつかない。やはりここには何らかの超越・転換がなければなりませんね。しかしこの転換が自覚によるもので、それによって意識するもの(意識する意識)に到達し、これが「真の無の場所」とされるならば、「他者」という契機が出て来ないと思うのです。英国にいてその地図を描く営みは、どこまでも続きます。しかし地図を描くことができるということは、それ以前に描くべきものが現前していなければならない。こうした立場の変換によって、自覚が成立するのですが、ここには「他者」という契機が出て来ない。これに対し『善の研究』第4編「宗教」第1章「宗教的要求」では「客観的実在」という言葉が明確に語られていた。目下の講読箇所の「真の無の場所」に至るこれまでの道行を見ても、日常の在り方である「有の場所」から出発し、直ちに「意識(意識された意識)」(対立的無の場所)に転じ、そこからさらに「真の無の場所(意識する意識)」へと転じる、という流れですね。こうした流れにおいて超越・転換があってもそこに他者が関与していない。『善の研究』における宗教的覚悟とはずいぶんと違うような気がします。単に「意識する意識」ということであれば、デカルトのコギトと変わらない。デカルトのコギトも図に対する地として考えることができます。(われわれの生には日常的な生、そこからの反省、そうした反省が破れる体験、それらが等根源的に属しており、直観は直ちに反省となり、それが日常のうちに埋没していく、そうした全体が我々の生であるのに、根源的で直接的な立場に立ちたいという焦り・執着(あるいはこれこそが「真摯」なのかもしれませんが)が、『善の研究』ののち、西田をして直観や自覚の立場に立たせた、そんな感じが今のところしています。)

D

意識する意識が地だとすると、この論ではたしかに他者は出てきそうもないですね。

E

日常性のレヴェルでは他者との対立が避けられない。そこには媒介の働きがなければならない。以前「媒語」という言葉が出てきましたが、そういう共通の場所というものが必要で、我々はそれによって不完全かもしれないけれど、一体になることができると思います。
佐野
まだご発言のないEさん、何かありませんか?

E

これまでの論述だけだと、他者が出てきていないとも言い切れないと思います。
佐野
なるほど。これからも注意深く見ていきましょう。(そもそも「日常性」の中にあるというところ、そこから何らかの仕方で、反省の立場に目覚めるというところ、反省が破れて真の無の場所が開けるというところ、そこに何らかすでに絶対的な他者の働きが隠れているかもしれません。)
佐野
Fさん、どうですか?

F

「一より一を減いた真の零」というのが面白いと思いました。これが「真の無の場所」で、それが「単に映す意識の鏡」ということであれば、この鏡は割れてこそ真の鏡になるのだと思います。
佐野
Mさんと同意見ですね。プロトコルはこの位にして本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(270頁8行目~13行目)

M

「意識の鏡」つまり「真の無の場所」が「我々に直接であり、内面的である」というところが重要だと思います。それが一体ということにつながると思います。
佐野
なるほど。根源的で直接の立場、西田はここに立とうとしますね。それが「真の無の場所」で、実はもともと我々が立っているところだ、ということになります。

E

次に「判断の述語的方面をその極致にまで推し進めて行くことによって、即ち述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ、之に於て無限なる可能の世界、意味の世界も映されるのである」とありますが、私は、真の無の場所は述語の方向に無限に押し詰めた極限に要請されるものだと思います。
佐野
要請というと、無限進行を続ける側からの要請ということになりますが、ここにはやはりこうしたいわゆる悪無限の中に真の無限を見ることのできるような立場の転換が不可欠のように思われます。

A

「述語を超越し行く」とありますから、「真の無の場所」はもはや述語でないように思うのですが。
佐野
そこなんですが、西田は「述語的方向に述語を超越し行く」と言っているだけで、「真の無の場所」が述語を超越したものだと積極的に言ってはいませんね。ただやはり風呂敷が物を包むような仕方で、主語を包むのではない包み方、包むものなくして包む、映すものなくして映す、という在り方が考えられなければならないとは思います。しかしこれは非常に難しいところだと思います。

M

私は「単に映す鏡」「単に映す意識の鏡」というのがどうも気になります。どうも「一体」になっている感じがしないのです。
佐野
「単に」とか「意識」という言葉に引っかかっているようですね。「意識」について言えばそれは「意識する意識」のことでしょう。また「単に」ということについて言えば、西田は以前「単に映す鏡」(231,8)を(単に)「外を映す鏡」(同,10)の意味で用いていました。これは「対立的無の場所」ですね。それに対して「内を映す鏡」(同)、とか「自ら照らす鏡」(260,1)が「真の無の場所」だとされていました。ここで出てくる「単に映す意識の鏡」は「真の無の場所」ですね。そうだとすると、以前の「単に」は否定的な意味ですが、ここでの「単に」は肯定的というより、「純粋にそれだけで」というような重い意味を持つことになりますね。それこそ「映すものなくして映す」とか「包むものなくして包む」というようなことになるでしょう。

M

だとすれば「単に」はここではすごく重要な言葉だと思います。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(270頁13行目~271頁6行目まで)

M

すみませんが、一つずつ指示語を押さえながら進んでいただけませんか?
佐野
そうしましょう。それでは次に「限定せられた有の場所」とありますが、日常生活もそうですね、そこで成り立っている。それが「無の場所に接した時」、ここに目覚め、転換の「時」がありますね。そこに「限定せられた有の場所」例えば日常の世界が「主客合一と考えられ」、つまり意識現象、直接経験として見られることになる。これはもう日常的な在り方ではありません。所謂反省の立場(対立的無の場所)です。(初めて読む者にとっての『善の研究』第2編の「直接経験」も、全集第4巻の「内部知覚」における「内部知覚」(確信)もそうだと思います。)「更に一歩を進めれば」、ここにも転換がありますね。以前(267,2)の表現を用いて丁寧に言えば「主客合一が、直に真の無に於てあると考えられる時」となるでしょう。ここでも「真の無の場所」に接するということが起っています。それをさらに「真の無に於てあると考える」。そのことによって、またしても主客合一は対象となって、対立する無の場所に於てあることになります。そのようにして見られるものが「純粋作用」です。知覚作用もしかり、判断作用もしかりです。「真の無の場所」は矛盾の場所ですから、そうした矛盾が判断の立場(対立的無の立場)には対立として現れてきます。それによって判断作用においては「一々の内容が対立をなし、所謂対立的対象の世界」が形成されます。この世界では矛盾は考えられません。そうであるかないか、有か無かいずれかです。矛盾律を犯すことはできません。また知覚作用も判断の形になっていないだけで実は対立を含んでいる。だから意識できる、西田はそのように考えています。しかし「更に又かかる立場をも越えた時」、これも転換の「時」です。そこに「単に映された意味の世界が見られる」。また「単に」ですね。重い意味の「単に」です。「単に映す意識の鏡」に映されたものが「意味の世界」「無限なる可能の世界」です。それは同時にすべてのものが無限に重なり合う矛盾の世界でもあります。そうして「我々の自由意志はかかる場所から純なる作用を見たもの」とされています。この「自由意志」は「純なる作用」とあるように、作用としての自由意志です。すでに対立的無の場所に映されたものになっています。続いて「此故に」とあって、「意志とは判断を裏返しにしたものである」とあります。何故「此故に」なのか。「述語を主語とした判断」だから、つまり述語(無の場所)から主語(意志)を見る判断だから、ということになりそうです。そうして「単に映す鏡の上に成り立つ意味はいずれも意志の主体となることができる」ことから、「意志」は「自由」だとされます。次に行きましょう。「意志に於て特殊なるものが主体となると考えられる」、そうして「意志の主体となる特殊なるものとは無の鏡に映されたものでなければならぬ」と来ます。「無の鏡に映されたもの」とは「意味」です。「意味」はもともと一般ですが、それを意志の主体とすることで特殊になります。我々が何らかの目的を実現する際、目的自体は一般ですが、実現される目的はつねに特殊です。しかしそれは「限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊ではなく、かかる有の場所を破って現れる一種の散乱である」とされます。「意志の主体となる特殊なるもの」と「限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊」とは異なる、ということです。「散乱」とは「一般概念の中に包摂」されていないことを言っているのでしょうが、読者の想像を掻き立て、思索を誘う表現になっています。「真の無の場所」に於てある「意味」が特殊という形で意志によって実現しても、一定の意図に回収されないような何かを感じさせます。あまり指示語はありませんでしたね。では最後の段落をCさん、お願いします。

C

読む(271頁7行目~最後まで)
佐野
(「一般概念によって囲繞せられた有の場所を破って、単に映す鏡とも云うべき無の場所があり、意志はかかる場所から有の場所への関係に於て見られ得ることを述べた」とありますが、前半部はともかく、後半部については十分に述べられてはいないような気がします。)「まだ単に之に於てあるものに論及することができなかった」と、また「単に」という語が見えますね。この「単に」という語も重い意味を持っていそうです。続いて「意志は真の無の場所に於て見られるものであるが、意志は尚無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定せられた有の場所が見られる限り、我々は意志を見るのである」とあります。我々が意志を意識するのは目的観念が意識された場合、例えば目的の実現が困難であったり、目的そのものが不明瞭であったりする場合ですが、こうした目的観念自体はそうした一般概念として「限定せられた有の場所」を形成しており、しかもそうしたものが意識されていることで、通常の判断とは逆になるにせよ、そこには判断(述語を主語とした判断)があり、意志は主客が分かれた「対立的無の場所」において意志作用(主)として映されていることになります。それ故この立場はなお克服されなければなりません。そこで「真の無の場所に於ては意志其者も否定せられねばならぬ」ということになります。そうした立場からは意志も「対立的無の場所」において「映されたもの」に過ぎないことが明瞭に映し出されることになります。そうすると「動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影」ということになる、そういうことを言っていると思います。

D

「永遠なるもの」とは「真の無の場所」のことですか?
佐野
「動くもの、働くもの」に対するものとして、つまり意志作用も含めた作用一般に対して「永遠なるもの」と言っているのでしょう。またそうした「映されたもの」に対して「映すもの」のことを言っているのでしょうから、そういうことになるだろうと思います。

D

だとすると、少し残念です。

E

何故ですか?ここが最も大事なところではないでしょうか。
佐野
「永遠なるもの」が実在として最後に控えているというところが残念ということでしょうね。今日はここまでにしておきましょう。
(第60回)
 
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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