何處までも述語となって主語とならないもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落276頁11行目「アリストテレスは」から同段落278頁4行目「撞着せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードは「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他とを更に包含する一般者を見ることはできない」(278, 1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「基礎医学研究の恩師の「研究とは靄の中を進むようなものだが、いろいろもがいていると一瞬靄が晴れるような瞬間がある」という言葉を思い出しました。私達の知識世界は靄の立ち込めたフロンティアに取り囲まれていますが、それが「矛盾的統一の対象」ではないでしょうか。知識世界の拡大活動を続ける=矛盾的統一の対象にまで行き詰り続ける、ということになり、靄が晴れる瞬間は探究者の気づきとして訪れるのでは、と考えました」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Tさん、何か付け加えることはありますか?

T

西田は「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」と言いますが、そんなに苦悩しなくても矛盾は常にあると思いました。我々は常に是非も分からないもの(モヤモヤ)に取り囲まれているのだと思います。
佐野
なるほど。しかし我々は通常は人生ほど明らかなものはないと思っていて、そこにモヤモヤを感じませんね。ところで質問ですが、Tさんは「モヤモヤ」の状態が「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」、それが「晴れるような瞬間」が「(是と非是とを包含する)一般者を見る」時、そのようにお考えですか?

T

そうですが、「一般者を見る」ではなく、「見たかのように」ということです。「見た」とするのはおこがましいと思います。あくまでも垣間見るという仕方です。
佐野
ここで、Tさんは所用のため、一時退出します。Wさんが入ってきましたので、ちょっとWさんにお聞きしてみましょう。Wさんは前回のプロトコル担当者でしたが、学会出席のためにご欠席でした。Wさん、「読書会だより」をご覧になったと思いますが、何かご発言はありますか?

W

西田は人間が根底に矛盾を抱えているように考えていますが、そこのところがよく分からない、というか難しいな、と。最後の所で「ただ有る」ということがあって、矛盾は人間がそれを言葉にもたらすから生ずる、というようになっていて。

M

矛盾を突き詰めたら矛盾がなくなるとお考えですか、それとも矛盾はそのままに有るとお考えですか?

W

矛盾が生み出される前には矛盾はないように思います。

M

矛盾が生み出されるのは人間が言葉をもつからですよね。ですが人間は言葉を用いることを止められない、だから人間には矛盾が避けられないのでは?
佐野
難しいところに入ってきましたね。Tさんがお戻りです。今の議論はTさんのプロトコルにも関わりそうですね。

O

人知が及ぶ範囲だと「行き詰る」けれど、人知の及ばないところにいれば「行き詰」らない。だけど、人知の及ばないところにどうしても法則なり統一があるように見えてしまう、ということがあると思います。

T

研究者は誰も見たことのないところへ行って、そこで何かを見てそれを理解しようとするのですが、勘違いも多い。「私」が見つけたものはどうしても主観的な気がするんですね。そうすると揺らぐ。主観を排除したいのだけれど、どうしても入ってしまう。
佐野
それで「かのように」とおっしゃるのですね。しかし西田は直観(直覚)を認める。これがないと判断が成り立たないと考えます。フロンティアの探究も何かが見えていないと探究は成り立たない、ということがあると思います。他に質問はありませんか。

R

分けることと直観、あるいは言葉と経験についてですが、言葉にすることも経験ですし、この二つは分かれていないのではないでしょうか。そのように初めからすべてがあるのだとすると、そこからどうして分かれることが生じるのかが分かりません。
佐野
目下読んでいるところの脈絡では、判断や知識の成立からその条件を求めていくという、表からの考察です。そうして判断の成立には真の無の場所や直観がなければならない、そういう論じ方をしていますね。判断が破れなければ、破れた所は見えない。だから判断の立場では初めからすべてが顕わになっているとしても、それを捉えることはできないのだと思います。逆に真の無の場所の方から有の場所の成立をどう説明するのか、つまり無分別のところから分別の成立をどう説明するのか、ということになれば、おそらくそれはこの後「一般者の自己限定」という形で説明することになるのでしょうけれども、それがうまく言っているのかはさらに考える必要があるでしょう(因みに無分別の直観から分別や反省が如何に成立するか、はシェリングを苦しめた問いです。ヘーゲルは無分別や直観の立場に立つということがすでに分別・反省の立場に立っているという論じ方をします)。プロトコルはこの位にして講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(278頁4行目~9行目)
佐野
3行目から4行目にかけて「単なる述語面、純なる主観性」と言われたものが「純なる主観性、体験の場所」と言い換えられていますね。いずれも「真の無の場所」であると考えられます。「かかる場所に於て繋辞の有は存在の有と一致するのである」とありますが、どういう意味でしょうか?

A

「繋辞の有」とは「である」、「存在の有」とは「がある」ということで、判断と直観(直覚)のことだと思います。
佐野
そうだと思います。判断の「である」を押し詰めて行けば、直観の「がある」に一致していく、ということでしょう。この「存在」は「豪末も異他性を容れない」主語、つまり矛盾もなくただ存在しているものとも考えられますが、「かかる場所に於て」とありますから、こうした「真の無の場所」に於てあるもの、ということでここは「矛盾的統一の対象」としておくにとどめておきましょう。

B

次の「客観的対象の主観と考えられる意識一般」というのがよく分かりません。
佐野
「客観的対象」というのは物自体のようなものではなく、意識の対象、次の行に見える「意識せられた対象」という意味です。そうした者を対象とする「主観」は「意識一般」、つまり「意識する意識」です。これでどうですか?

B

分かりました。
佐野
指示語がありますね。「而して判断の立場から云えばそれは」とありますが、「それ」は何を指しますか?

C

「意識一般」ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。それが「対象が於てあるもの、述語的なるもの」とされています。こうしたものによって「判断意識が成立する」と言われています。「真の無の場所」によって判断が成立するということです。逆に言えばそれがなければ判断の成立を説明できない、ということです。西田は判断の根柢にある直観においても述語面、場所が失われることはないことを強調します。そうでないと判断が成立しえないと考えるからです。ここが西田哲学、場所論の大きな特徴です。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(278頁9行目~11行目)
佐野
「判断の立場から意識を定義するならば、何處までも述語となって主語とならないものと云うことができる」とありますね。「何處までも述語となって主語とならないもの」は今後術語として頻出することになりますが、これがおそらくはその初出です。さりげない仕方で登場していますね。ここでは「意識」がそのように定義されていますが、この意識は「意識一般」「意識する意識」で、「真の無の場所」のことです。

C

「意識の範疇は述語性にある」はどういう意味でしょうか?
佐野
通常、範疇は主語となる対象を構成するものであることを念頭に置いた発言でしょう。意識の範疇は主語性にあるのではなく、述語性にあるのだ、と西田は言いたいのです。

D

次の「述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる」というのがよく分かりません。意識は対象化されない、客観的に見ることはできない、ということではなかったですか?
佐野
ここはそういう疑問が起こっても不思議ではないですね。次に「反省的範疇の根柢は此にあるのである」とありますね。ラスクのことを念頭に置いています。ラスクによれば、我々の判断というのは、「構成的範疇」によって構成された対象(超対立的対象)が原像となり、それがさらに「反省的範疇」によって判断領域にもたらされます。その時には対象は似像になっています。ラスクにとって重要であったのは構成的範疇の方でしたが、西田は逆に判断を成立せしめる反省的範疇に重要性を認めます。ところでこの反省的範疇はどのようにして知られうるでしょうか。それが「述語を対象とする」、「意識を客観的に見る」ということです。そうなるとこの「意識」は「意識する意識」「意識一般」でしょうか?それとも「判断意識」でしょうか?

D

判断意識だと思います。
佐野
私もそう思います。それは「意識せられた意識」ですね。判断意識は有の一般者(一般概念)の上に成り立っていますが、それを見るためにはその外に出なければなりません。こうして「意識」を見ることができるのだと考えられます。

D

分かりました。
佐野
それでは次を読みましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(278頁11行目~279頁5行目)
佐野
「従来の所謂範疇は一般者の求心的方向にのみ見られた」とありますね。「求心的方向」とは?

E

主語の方向だと思います。
佐野
そうですね。それに対し「遠心的方向」は述語の方向です。円が念頭に置かれていますね。述語の方向に範疇を見るべきだ、そのように西田は主張しているようです。「何處までも主語は述語に於てなければならぬ」と来て、「判断作用と云う如きものは第二次的に考えられる」とありますね。では第一次的なものは何でしょうか?

E

「述語的なるもの」でしょうか?
佐野
そうですね。すぐ後には判断的知識の「根柢に述語的一般者がなければならぬ」とありますから、「述語的一般者」でもいいかもしれません。次いで「すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴われねばならぬ」とあります。カントですね。「我考う(ich dende)」です。デカルトのコギト同様、これは図と地で言えば、地ですね。対象化できない(対象化したら図になってしまう)けれども感じられる。そうした自己意識(「自覚」)です。そうした「自覚が経験的判断の述語面となる」とされます。こうした超越論的統覚の自我(我)は「主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と述べられます。主語的統一、点、物と述語的統一、円、場所がパラレルに述べられています。

E

次に「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」とありますがおかしくありませんか?真の自己を知るというのが西田の考えではないですか?
佐野
「知る」の意味でしょうね。テキストで言われているのは対象化して知るということですから、そういう知り方では超越論的統覚としての我(真の我)を知ることはできない、ということでしょう。問題はこうした「我」が本当に「我」なのか、ということです。この我は誰の我でもなく、誰の我でもある、そうした我です。そうした「我」がここで「真の無の場所」と一つになって語り出されていることに注目したいと思います。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(279頁6行目~13行目)
佐野
「それでは数学的判断の根柢となる一般者と経験科学的判断の一般者の根柢となる一般者とは如何に異なると云うでもあろう」と来ますね。「それでは」とはどういうことを受けているのでしょうか。これまで示されたことは判断意識一般の根柢が述語的一般者である、ということです。「それでは」というので、この二つの判断の根柢の違いはどこから来るのか、それを説明できてはいないではないか、そうした異論が出て来ることを想定したのでしょう。数学的判断の根柢となる一般者が、例えば5(特殊)がそのまま数(一般)である(「5は数である」)というように、「特殊の面と一般の面とが単に合同する」のに対し、後者、即ち「経験科学的判断の根柢となる一般者」においては、「特殊を含む一般の面が之を包んで尚餘あるのである」とされています。おや、と思うでしょう。逆ではないか、そのように思われて当然です。例えば193頁では「所謂経験的一般概念と考えられるものに於ては一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ」とされていました。この花の赤を一般の側から限定することはできないということです。そうであれば特殊の方が一般を包んでなおあまりあるというべきではないか、そう思われるはずでしょう。そこはとりあえず置いておいて、次を読むと「元来判断に於ては、述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広いのである」とある。「元来」とありますが、それがどういう意味か考えて見ると、判断の元来、つまり「包摂判断」のことを言っているようです。包摂判断ならば、究極的な述語である、「述語となって主語とならないもの」がもっとも広いことは頷けます。そうして「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場から云えば、それは単に抽象的一概念と考えられるであろう」と来ます。そこで、ははあ、先程の特殊の方が一般を包んで余りある、というのは「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場」だったのだな、と気づくことになります。こうした判断的意識の立場から考えるならば、包摂判断のやり方は「抽象的一般概念」にしか妥当しないと思われるからです。西田はそうした判断的意識の立場を承知の上で、あえてその逆を主張しているのです。そうして「併し我々の経験的知識の基礎は此の如き述語的なるもの、云わば性質的なるものの客観性に置かれねばならぬ」と言います。理由は述べられていません。

D

この「客観性」の意味がよく分かりません。
佐野
この「客観性」とは物自体のような意味での客観性ではなく、普遍妥当性という意味での客観性でしょう。カントは知識の客観性をこうした普遍妥当性に求めましたが、そのことを念頭に置いていると思われます。また新カント派のラスクはそうした客観性を主語の側の「超対立的対象」に求めましたが、そうしたことも念頭に置いて、経験的知識の客観性は述語的なるものの側にある、そのように主張したのでしょう。そうして「性質的なるものが(、)主語となって述語とならない意義を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのである」と続きます。「主語となって述語とならない」ものとは、個物のことですから、性質的なるものが限定されて、個物となる、そうしたことが念頭に置かれているのではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第65回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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