「矛盾の関係」をどう理解するか

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はRさんでした。またキーセンテンスは「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである」(254,14-255,1)でした。疑問ないし考えたことは「一般概念を破ってその根抵へと徹底すれば、有の場所からその根抵である真の無の場所に到る。そこに「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」というような矛盾的関係が見られる。それは具体的にどういうことであろうか。それは有の場所や物がなくなり、すべてのものは無となるとことではなく、有其者(物や物質)はそのまま無であるように見られるでしょうか」でした。
佐野
まず、この箇所の読みですが「真の無の場所」において「有の場所其者を無の場所と見る、有其者を直に無と見る」ではありません。「真の無の場所」に到って、そこから「有の場所」を見るということです。それが具体的にどう見えるのか、こういう質問でいいですか?

R

質問を変えたいと思います。「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理の根柢に於ける一般者とは如何に異なるか」(254,6-7)という文章があります。私はこの二つの一般者は両方とも「根柢」における一般者として「真の無の場所」だと考えています。
佐野
そういうことでしたら、先に本日の講読箇所を読んでから考えましょう。今日の講読箇所は255頁1行目から5行目です。まず「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない」とありますね。「先験的空間」とは経験を可能にする空間、つまり感性の形式としての空間のことですね。カント哲学を念頭に置いています。これはアプリオリ(先天的)な形式で、感性(感覚)的ではありません。ですから「知覚的空間は直に先験的空間ではない」ということになります。続いて「併しそれは先験的空間に於てあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」とあります。ここで「知覚的空間」が「先験的空間」に「於てあり」、その「背後」が「真の無」であることが分かります。ここには三つの層(知覚的空間、先験的空間、真の無)がありますね。続いて「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於てあると云うことができる」とあります。この「それ」とは何ですか。

R

「知覚的空間」ではないでしょうか。

K

私もそう思います。ですが「無の場所に於てあると云うことが意識を意味するが故に」という文章との続き具合がよく分かりません。「意識」という語がポイントになっていると思います。

R

この「意識」は「意識の野」のことですよね。
佐野
「先験的意識」とは経験を可能にする意識、つまり「意識一般」のことです。以前にも「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。ここでは「無の場所に於てある」ということが「意識」を意味する、となっていますね。以前〈有の場所―対立的無の場所―真の無の場所〉という系列と〈有の場所―相対的無の場所―絶対的無の場所〉の二つの系列があることが確認されましたね。242頁で後者の系列が初めて出てくるのですが、そこではこの「絶対的無の場所」が「意識の野」とされていました。目下の講読箇所でもそれに従っているようです。つまりRさんのおっしゃる通り、ここでの「意識」は「意識の野」ですが、それは後の方の系列の「絶対的無の場所」と同義です。したがってそれは「対立的無の場所」と「真の無の場所」を含んでいて、両者の門口となるのが「先験的意識」つまり「意識一般」です。そうなると「それは先験的意識に於てある」とは、「知覚的空間」がまず「先験的空間」に於てあり、それは「先験的意識」(意識一般)の形式であるから、結局「知覚的空間」は「先験的意識」に於てあることになり、その背後が「真の無の場所」に通じている、そのように読めるでしょう。ここまでいかがですか?特にご意見はありませんか?なければ次を読んで見ましょう。Tさん、お願いします。

T

はい。「是故に一般概念の外に出るということは、却って之によって、真に一般的なるものを見ることである。先験的空間という如きものは、此の如き一般者を云い表したものである」。
佐野
「此の如き一般者」とは何を指していますか?

T

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
私もそう思います。我々は「知覚」という「一般概念」の上に立って知覚し、「先験的空間」という「一般概念」の上に立って空間的に認識(判断)しています。空間のみならず、我々は「先験的真理」という「一般概念」の上に立って判断しています。しかしその「一般概念」を「真に」見ようとすれば、一旦その「外に出」なければなりません。それが「真の無の場所」に到って、そこから自分が立っている「真に一般的なるもの」を見る、ということだと思います。ここまではいかがですか?

N

日常自分が立っているところの外に出て、それを見るというのは人間にはできないことではないでしょうか。目は目を見ない、と言うように。
佐野
確かにそうですね。反省的思惟という仕方をとる限り不可能です。しかしその反省が成立するためには、その奥に直観がなければならない、それを西田は明らかにしようとしているのだと思います。難しいところですが、ここはとりあえず、それでよろしいでしょうか。さて、それではここからもう一度Rさんの問いに戻って考えて見ましょう。「真の無の場所」から見ると、「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」、これが具体的にどういうことか、ということでした。塩は白くて辛い、これは相異の例、木の葉が緑から赤、つまり緑ならざるものに変わる、これは相反の例ですね。以前(「内部知覚について」88,14-89,4)にもありましたが、緑から緑ならざるものへ移るその転回点、そこは何色でしょうか?

T

緑と緑ならざるものの中間の色だと思います。
佐野
しかし緑と緑ならざるものが同時に成り立つというのは矛盾ですね。時の考えを入れれば矛盾なく説明できると思われた変化ですが、さらに考察してみると矛盾が見えてくる。

Y

木の葉が緑から緑ならざるものに変わる時に、緑でも緑でもない木の葉そのものが実在として見えてくる、というようには言えませんか?
佐野
相反するものが同時に成り立つ基体として物を考える、ということですか?それは少なくとも西田は認めていませんね。191頁15行目から192頁1行目に「相矛盾する二つの概念にいたっては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とあります。相反するものが同時に成り立つのは力に於てだ、というのが西田の考えだと思います。

Y

191頁14行目から15行目にかけて「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とあり、緑と緑ならざるものは「色」という類概念に統一される、と考えられますが、「相矛盾する二つの概念にいたっては、…類概念を以てすることもできない」とあるのはどう理解したらよいでしょうか?
佐野
そうですね。これは類概念(一般概念)の拒否ですね。どう考えましょうか。相矛盾するというのは、今の例で考えると、緑と緑ならざるものを同時に統一する、ということではないでしょうか。それは最早「色」を見るということにならない。89頁3行目から4行目にかけて「我々が色の推移を見る時、単に色を見るという意味に於て見ることのできないものを見て居るのである」とあります。

Y

分かりました。
佐野
今のは「相反」の場合ですが、「相異」の場合はどうでしょう。塩が白くて辛い。このどこに矛盾を見るのでしょうか?我々は感覚を五感に分けて考える習慣がありますから、その前提では矛盾などどこにもない。しかし西田はそう考えない。五感に分けて考えるのはすでに思惟の結果だと考えます。そうなるとそのように分ける以前の在り方が問題になります。そこでは運動、静止、数、形、大きさ、色、音、味、匂いなどが一体になっています。これらから触覚筋覚に属するようなもの(運動、静止、数、形、大きさ)を物にして、これにおいて白という色と辛いという味が同時に成り立つと考える場合でも、同じ所に白と白ならざるものが同時に存在することになります。そうなるとこれは矛盾です。この矛盾を「物」は支えることができない。それを支えるのは「力」だということになります。

O

一つの主語の中に森羅万象のすべてが含まれている感じですね。
佐野
そうですね。そうしてその一つ一つが互いに矛盾しているのです。今日はここまでにしましょう。
(第45回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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