判断 一般的なるものの自己限定

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 270頁8行目「我々は常に主客対立の立場から」から271頁最後までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「真の無の場所に於ては意志其者も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなると共に意志も映されたものとなるのである。」(271, 11-12)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、「述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ」(270, 12)るという。単に映す鏡は、「無の場所」(271, 7-8)や「永遠なるもの」(271, 12)ともいわれる。つまり、単に映す鏡は、「(意識する)意識」、「無の場所」、「永遠なるもの」である。しかし、述語的方向の極地が「意識」や「永遠なるもの」と考えられるとき、あらゆる動的な働きはつねに「影」に転じ、否定されてしまう。そのため、「場所」の体系では「単に映す意識の鏡」を破るような「何か」は想定されえない。これでは、「無の場所」は問いえない前提のままにとどまるのではないか。」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

A

「影」とはどういう意味ですか?

O

271頁最後の一文に「動くもの、働く物はすべて永遠なるものの影でなければならない」とあることを踏まえています。
佐野
問いの趣旨を明確にするために、221頁で言われていたことをまず確認しておきましょう。そこでは「対立的無の場所」が「単に物の影を映す場所」、「真の無の場所」が「物が於てあるある場所」となっていて、さらに「意識の野は真に自己を空しうすることによって、対象をありのままに映すことができる」ともあります。これを読むと「影」が否定的な意味を持っていることが分かりますね。見るべきは動中の静で、動いているものに目を奪われている間は直観とは言えないということでしょう。Oさんはこのプロトコルを書くために次の「左右田博士に答う」まで読まれたとか。その最後の部分に着目されていましたね。その部分が今回のOさんの問いの根本にあるように思われますので、Oさん、その部分を読んでいただけませんか。

O

はい。「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。真の無の又無がないかという如き質問に対しては、私は答えるところを知らない。私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識と考え、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである。直覚の又直覚がないかと云われても、私はその意味を解することができない」(322,8-13)。
佐野
ありがとうございます。これを読むと、西田はまず判断から出発して、それが成り立っている「一般概念」をつきつめていって、もはや一般概念として限定できないものがなければならない、それが「無の場所」だと考えていることが分かりますね。これに対して「無の場所」というのも一般概念ではないか、図に対する地になっていないか。そうだとすれば「真の無」のまた無があるのではないか、という問いが成り立つのですが、この問いを西田は拒否しています。そのような問いは「単に無の概念を弄している」のだ、そのように言います。しかし「なければならぬ」ものを「ある」と言ってよいものか、そうした疑問は残ります。何故西田が無の概念を弄していないかと言えば、直覚しているからだというのでしょう。だから有るのだと。さて、これを受けてOさん、改めてプロトコルの問いに戻りましょう。

O

直覚だから、というのは有無を言わせない言い方です。ありのままを見る、ここから出発している印象があります。

B

ありのままの月を見ることができるということは大切なことではないですか?

O

でも、ありのままが見えてしまうということは、それ以上に月は違った形で見えないということで、それは残念だと思います。

B

月がありのままに見えることが幸せで、それが見られないことが苦悩を生む、そういうことではないですか?

O

そこに、ありのままを見たいなあ、という執着のようなものがあると思うんです。だけどこれ以上月がきれいに見えないのか、ありのままの月を見たいけど、見えてほしくないなあ、という気持ちもあります。

C

Oさんは逆に捉えているように思います。西田は、真の無は固定的な概念、一般概念ではないということ、概念では扱えないことを言っているので、それは正しいと思います。

O

概念ではないというのはその通りだと思います。でも「真の無の場所」と言ってしまうと、それが「底」になってしまう。
佐野
(「底」になれば一般概念となってしまうが、それは一般概念ではないとされているので、概念化された「真の無の場所」ことが否定され、そこに「真の無の場所」が立ち現れ、それが一般概念になってしまう。これが無限に続く。西田はこれを「無の概念を弄している」と言っているのだと思います。こうした態度に対して、西田は、自分は概念を弄するのではない、つまり直観からものを言っているのだ、そのように考えているのだと思います。)Oさんは、「真の無の場所」に於てあるものを概念で捉えることはできないけれども、直観されている、ありのままに見えている、そこを問題とされているのでは?つまり物が我々に実はもともとありのままに現れているのだけれど、我々の迷いによって、それが見えなくなっている、しかし突如としてそれが顕わになることがある、あるいは、物は隠れているということを含んで、実は常に顕わになっている、こういう考え方に対する反論なのでは?

O

顕わになっているのか、なっていないのか、それが分からない、そこが重要だと思うのです。
佐野
顕わになっている、というのは顕わになっていてほしい、その方が幸せだから、そうした人間の願いというか、執着ということになりますね。

D

「影」という言葉は古語ではまず「光」です。「影」と言うと虚像といったイメージが強いですが、そこには実像が反映していて、その実像が光です。光は常に我々に届いています。生じて生ぜぬもの、動中静こうした逆説的レトリックによってすべてが収まっている。
佐野
Oさんからすれば、まさにそこが「残念」ということではないですか?

O

そうです。

D

「残念」ということこそ、個人の心情で、そこに願いが反映しているのでは?

A

ありのままに見える(直観)とか、「真の無の場所」が人間の願いだということでしたが、そうした願いが外から照らされるということがあると思います。
佐野
今日はDさんとOさんの対決となりました。哲学的にとても興味深いですが、今日はこの位にしておきましょう。本日より「五」に入ります。それではEさん、お願いします。

E

読む(272頁1~4行目)

E

知覚、思惟、意志、直観の根柢にこれらを統一するものを掴む、とありますが、とても興味があります。
佐野
特に分からないところがないようなので、次をお願いします。

F

読む(同4~11行目)
佐野
「知識の立場から見て最も直接にして内在的なるもの」が「判断」とされていますね。おやっと思われませんでしたか?それは「知覚」じゃないかって。

E

知覚と判断は区別がつきにくいからだと思います。
佐野
たしかに西田は「知覚」については二面性を主張していますね。一方で知覚は作用でない、対象の対立性がないから(判断作用には明らかにそれがある)、と言いながら、他方で知覚も意識である以上対立を含んでいる(そうでなければ無意識になる)と言っています(267,11~268,3)。しかしここでは「知識の立場」から見ていますね。知識ということになれば、判断から出発しなければならない、そのように考えることもできると思います。知覚も判断を含んでいる、これも合わせてここを読んでおきましょう。ここでは判断として最も根本的なものが「包摂判断」であること、ここでは包摂作用ではなく、「包摂的関係」を問題にすること、包摂的関係こそが関係として最も根本的であることが述べられています。何故包摂的関係が最も根本的なのですか?

E

「二つのものが対立的に考えられるには、二つのものが共同の一般者に於てなければならぬ」とあります。赤と赤でないものは色という一般者においてなければならない、ということだと思います。ですが赤は色である、という包摂的関係は赤と赤でないものという対立関係をも含んでいます。だから「最も根本的」といえるのではないでしょうか。
佐野
なるほど。それではここはそのように読んでおきましょう。それでは次をGさん、お願いします。

G

読む(272頁11行目~273頁3行目)
佐野
ここでは判断作用と包摂的関係の関係が述べられていますね。判断作用から時間的意義を除去すると包摂的関係が残ること、判断作用は包摂的関係をもととして考え得ることが述べられています。こうしたことは心理主義に対する新カント派やフッサールの批判といった当時のドイツの哲学界の流れを背景にしていると思われますが、ここでは扱わないことにします。それではHさん、次をお願いします。

H

読む(273頁3~8行目)
佐野
ここでは「特殊なるものを主語として、之について一般なるものを述語するとは、如何なることを意味するか」が問題になっていますね。その際に主観客観の対立を前提しないで、「主語となるものと述語となるものとの直接の関係」「概念自身の独立なる体系」を問題にする、そういうことが述べられています。

E

主観客観の対立を前提とした見方ですが、「主語となるものが客観界に属し、述語となるものは主観界に属すると考えて居る」というのがよく分かりません。
佐野
「これは花である。この花は赤い。この赤い花は美しい」という判断の場合、述語の方は主観による認識であるのに対し、最初の主語(「これ」)は認識以前に与えられたもので、客観界に存在するものと考えられますね。これでどうでしょうか?

E

とりあえず、よしとしておきます。
佐野
それでは次をIさん、お願いします。

I

読む(273頁8行目~274頁1行目)
佐野
前者と後者が出てきますね。それぞれ何ですか?

E

「前者」とは「一般的なるものが基となって特殊なるものを包む、特殊なるものが一般的なるものに於てある」で、「後者」が「特殊なるものが基となって一般的なものを有つ」です。
佐野
そうですね。そうして「概念自身の体系」としては「前者」をとる、とありますね。

E

「後者」の考え方がよく分かりません。
佐野
先程と同じ、主観客観の対立を前提とした見方ですね。「主語となるものが外に射影せられて居る」というところですね。「これは花である」の「これ」が「主語」ですね。これが客観界に投影されたものです(ここには特に書いてありませんが、「自己」の投影と考えられます)。そうして「これ」が赤であり、美しくもある。「一が多を有する」ことになります。

A

次の「一般的なるものが特殊なるものを含む」とは前者の考え方ですよね。「一般的なるものが自己自身を超越する」とありますが、どういうことですか?
佐野
次にあるように「概念を考えられたものの如く見る」ということです。「一般的なるもの」を対象化して、外に立てる(超越する)ということです。「一般的なるもの」や「概念」は「意識」と離すことはできないのに、「意識」から「概念」を「考えられたもの」として切り離して対象化する、そういうことだと思います。そうして「直接には一般と特殊とは無限に重り合って居る、斯く重り合う場所が意識である」といわれます。それではJさん。最後の部分、お願いします。

J

読む(274頁1~8行目)
佐野
ここでは普通の判断とは異なった見方が示されていますね。ふつうは判断の主語は特殊です。ところが「判断に於て真に主語となるものは特殊なるものではなく、却って一般的なるものである」とされています。そうして「判断とは一般的なるものの自己限定」だと、重要な語が出てきます。この一般者は「具体的一般者」、つまり特殊化の原理を具えた一般者です。またここでいう「判断」とは、主客の対立を前提した、特殊が一般を持つといった、「判断作用」ではなく、その「根柢となるもの」(包摂的関係、概念自身の体系)を意味しているのだ、と念を押します。最後に「希臘人(アリストテレス:引用者)の如く形相を能働的(エネルゲイア:引用者)と考えるのは、真に直接なる意識の場所に於てのみ可能である」と述べられてこの段落を閉じます。アリストテレスの場合は「変ずるもの」したがって動(キーネーシス)が残り、真の零になっていない、という指摘は272頁にもありました。今日はここまでとします。
(第61回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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