読書会だより

判断以前の直観、述語以前の主語は存在するか

本日の哲学的問は「そもそも判断以前の直観、述語以前の主語など存在するのだろうか」です。

A

感性という言葉がありますね。頭で考えた挙句決断して主張するときのような。その時は体で分かっていることを言うんだと思います。そういう経験があるんです。そうしたらそれが正解だった。

B

水泳なんかも頭で分かっているだけじゃだめで、体で分かるというところがあると思います。

A

練習以上のものが本番で出る人がいますね。そういう直観も感性だと思います。
佐野
今までの意見は判断前の直観がある、というものだったと思いますが、体で分かるということも後から判断しなければ分からないんじゃないですか。直観だったということも我に帰って判断して始めて言えることで、こうした判断がなければそうした直観があったことも分からないのでは?

C

聞き手の話になりますが、訓練しなくても分かっちゃう子がいるんです。
佐野
ですから分かっちゃうというところに判断はありませんか、ということです。直観したものを直観したとした時点で反省だと。

D

『善の研究』に一生懸命に断崖を攀ずるというのがありましたね。その時は何のためにも分からずただ攀じ登っています。それで後になってからそのことに気づくということはあると思います。
佐野
大きく見れば日常生活もそうですね。ただただ忙しく生きている。何のために生まれ生きそうして死んでいくのか、そんなことは考えずにただただ時を過ごしている。そうしてふと我に返り、虚しくなる。これも大きく見れば没入状態から我に返った在り方です。

E

その場合でもそこに宗教的覚悟というものはあり得ると思います。
佐野
古池に蛙が飛び込む音に驚き、そこに静かさがいつも届いていたことを経験するように、日常生活を破って神に触れる瞬間があるということですか。

E

ええ。ですがその経験は単なる神人の合一ではなく、そこには神と自己の関係が「我は神において生く」という仕方であると思うのですが、そこのところがよく分かりません。
佐野
Fさん。最近静かですね。何かありますか。

F

EさんとAさんの言っていることは同じことだと思います。初めに一なるもの(ト・ヘン)、一般者、真実在があるんです。そのかけらが我々の内にある。だから知らないことをしゃべっているというのも、実は知っているんです。本当のことをすべてみんなが知っているんです。それを思い出すだけです。
佐野
なんか議論が一つの方向にグッと進んだ感じですね。Gさん。何か言いたそうですね。

G

やはり純粋経験はそれを言葉に言い表さないと何も分からないと思います。だから言葉に言い表す。そうして説明することに近づいていくのだと思います。
佐野
純粋経験はある、と言えるんですか。

G

いえ。あると仮定して、です。
佐野
なかなか難しくなりました。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第20回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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