先験的(超越論的)空間は成長するか

前回のお約束通り、まずはTさんのプロトコルから。キーワードは「先験的空間」で、キーセンテンスは「我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない。併しそれは先験的空間に於いてあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ」でした。そうして考えたことは「私の最初の記憶は、断片的なものですが1歳台からあります。幼児を取り巻く世界は粗削りで、恐怖と驚異に満ちていました。それを人生最初の経験と呼んで差し支えなければ、その時の「先験的空間」は未熟であった一方で、「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった気もします。先験的空間は経験によって成長するものなのでしょうか。それとも、経験は「一般概念の外に出る」ことを邪魔するのでしょうか(ピッタリ200字!)」でした。Tさんはパワーポイントまで用意してくださってとても分かりやすい説明でした。例によって私の記憶と現在の理解に基づいてアレンジしてあります。
佐野
それでは、ご自由に発言してください。

A

いいですか?
佐野
もちろん。

A

「「先験的空間」は未熟だった」とありますが、これはすでに「先験的経験は経験によって成長するもの」ということを前提していませんか?
佐野
確かにそこのところは論点になりますね。たしかに我々の現実的な経験はその人の、そのつどの空間理解によって構成されていて、この空間理解がまたその人のそれまでの経験によって形成されています。この空間概念は経験的なものですから、未熟とか成長とか言ったことがありえます。しかし先験的空間というのはカント哲学を念頭に置いていますね。その場合の「先験的」というのは原語(ドイツ語)ではtranszendentalですが、最近ではむしろ「超越論的」と訳されます。経験を可能にする認識のことを言います。そうした認識は経験に先立った、経験を越えたものとなります。「先だって」とありますから「先験的」とも訳されますが、時間的な「先」ではありません。空間にしても時間にしても、あるいは意識(自我)にしても、「超越論的(先験的)」という語がついた時には、いかなる意味でも経験的ではありません。ですから誰それの、とか未熟とか成長ということもあり得ません。超越論的自我(統覚)や意識一般もそうです。空間について言うならば、実際にはカントは絶対空間のようなものを考えていましたが、本来そういうものにも限定されない、形式としての「空間」そのもののことです。

B

そんなかっちりした「空間」より、Tさんのいうような経験的で成長する空間の方が私は好きです。
佐野
Bさんは、まだまだ成長しますからね。

B

そうです。私はまだまだ成長します。

C

質問があります。幼児は「「一般概念の外に出」て「真の無の場所に至る」ことはかえって容易であった」とありますが、どういうことですか?

T

幼児は「真の無の場所」から出てきたということです。人間は「真の無の場所」から出てきて、最後にはぼけてまた「真の無の場所」に帰るんです。
佐野
禅の高僧などは修行によって「真の無の場所」に到れるということはないですか?

T

そういうことにもめっちゃ興味あります。
佐野
カントは、我々の経験を根本において可能にしている一般的なるもの、例えば「意識一般」がなければならないと考えましたが、同時にそれが実際に自覚のような仕方で我々に感覚されるとも考えていました。西田はこの辺りを徹底させて、我々は「意識一般」の外に出て「真の無の場所」からこれを見る(直観する)ことができると考えたわけです。プロトコルはここまでとしてテキストに入りましょう。今回は256頁3行目から257頁10行目までを講読します。それに先立って、前回255頁15行目(さらに256頁1・3行目にも)にある「それ」が何であるかが問題になりましたね。Aさん、その後どのようにお考えになりましたか?

A

あれから考えて見たのですが、「受取る」「映す」でよいのではないかと思い始めました。
佐野
では、まあ一応そういうことで次に進みましょう。「かかる場合、我々は直に映すものと映されるものと一と考える」とありますが、「かかる場合」とは「映すものなくして映す」という場合のことですね。その場合には映すものと映されるものが一であると。この結合をどう考えるか。まず「その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない」とありますね。背後的な基体の拒否ですね。

D

なんか『善の研究』と違うことを言っているような。『善の研究』では「統一的或者」があると言っていました。
佐野
なるほど。どうでしょうね。例が挙がっていますからそこを読んで見ましょう。

D

「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」。
佐野
ありがとうございます。これだと聴覚的意識の野が背後にあって、いろんな音を結合しているように読めませんか?映すものが「聴覚的意識の野」で、映されるものが「各の音」です。

D

「聴覚的意識」が無になるということじゃないですか?それによって映すものと映されるものが一になる。
佐野
なるほど。そうだとすればその無と、先程の「統一的或者」をどう考えるかが面白そうですね(この問いは後から思いつきました)。次に行きましょう。西田は感覚のみならず思惟にも「意識の野」を考えるべきだと言います。そうして「意識の場所に於ては、無限に重なり合うことが可能」と言います。今音楽を聴いているとして(今自宅では、ブラームスの交響曲第2番を聴いています。ながら勉強です)現在聴いているのは一つの音ですが、実はそれと同時にひとつ前の音が現在の音に重なっていて、さらにこれから聞くであろう音もその現在の音に重なっています。しかもそれはバイオリンの音であり、それにチェロの音が重なっている。それぞれの音には音程だけでなく音色もあり、強弱もある。こうして考えていくと現在の一つの音に無限に多くのものが重なり合っていることが分かります。むしろ感覚にはそもそも識別作用が備わっていて、この識別作用は後からこれを考えるというような抽象的な判断とは異なる。そこで出てくるのがアリストテレスの「共通感覚」です。西田はこれについて「判断作用の如く感覚を離れたものではない、感覚に附着して之を識別するのである」と述べていますね。そうして「此の如きものを私は場所としての一般概念と考える」と述べています。今日はここまでとしましょう。
(第47回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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